大島渚、あるいは<強靭なセンチメンタリスト> - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
高崎俊夫の映画アットランダム
大島渚、あるいは<強靭なセンチメンタリスト>

 今、大島渚監督のエッセイ集『わが封殺せしリリシズム』(仮題・小社刊)を編集している。
 私は、ずっと以前から大島渚監督の書いたものを、ある視点でまとめてみたいという思いを抱いていた。

 私が映画を意識的に見始めた一九七〇年代の初め頃には、大島渚はなによりも難解をもってなるアート・シアターを代表する映画作家であった。当時、地方に住む高校生にとっては、『絞死刑』『少年』『新宿泥棒日記』『東京戦争戦後秘話』といったATGの大島作品は名のみ知るだけで、その映画を実際に見る機会はまったくなかった。だから、『儀式』も封切りでは見ていない。
 その代わり、当時、朝日新聞に連載されていた「わが思索わが風土」というコラムで大島渚が書いていた文章は愛読しており、スクラップしておいた。それゆえ、私にとっては、大島渚という名前は映画監督である前に、まず優れたエッセイストとして深く印象づけられたのだった。

 この連載コラムは、ほかに武満徹、小田実、武田泰淳、吉田健一などの錚々たる面々が執筆しており、後に朝日新聞社から単行本として出版されたが、たぶん、大島の単著には収められていないはずである。

 この大島のコラムの第一回目には次のような気になる一節がある。
「私はふと、指折り数えてしまう。死ぬまでに、あと何本の映画をつくれるかと。私はあと一年で四十になる。五十までの十年間に十本。それから六十までに五本。六十から、いくつで死ぬかしらないが、割合長生きするつもりであと五本。合計二十本。しかしそれは甘い計算だ。」

 まさか、大島自身、一九九六年に脳出血で倒れ、その後、過酷な闘病生活を強いられることになろうとは想像だにしなかったであろうが、自分の映画作家としての将来を冷静に見通した予見的な文章である。

 その後、私は、名画座や特集上映会で大島の全作品を追いかけるようにして見たが、当時、よく「西のゴダール、東の大島渚」と喧伝されたようなラディカルで難解、かつ政治的で前衛的な映画作家というイメージとは、やや異なる感想を抱くようになった。

 私は大島渚作品でベスト3を選ぶとすれば、『愛と希望の街』『日本春歌考』『少年』を挙げたいのだが、とくにデビュー作『愛と希望の街』と『少年』は、硬質な抒情と強靭なセンチメントが溶け合った名作ではないかと思っている。

 大島渚はデビュー当時から、戦後日本映画の苛烈な批判者として自らを位置づけ、先行世代を全否定するような言説を常に表明し続けていたが、その積極的な発言とは裏腹に、彼自身の資質の根底にあるのは、この<センチメント>ではないかと私は考えているのだ。

 大島渚の初期の著作には『戦後映画・破壊と創造』(三一書房)、『魔と残酷の発想』、『解体と噴出』(芳賀書店)、『体験的戦後映像論』(朝日新聞社)、『同時代作家の発見』(三一書房)といった挑発的な書名が目立つが、その中には、大島のセンチメントが滲むような秀逸なエッセイも少なからず含まれている。

 先頃、四方田犬彦の編集で『大島渚著作集』全四巻(現代思潮新社)が刊行されたが、名高い『「眠れる獅子?松竹大船」を批判する』『それは突破口か?/日本映画の近代主義者たち』といった論考がほぼ網羅され、<戦後日本映画の革命児>としての大島渚のイメージを補強する内容になっていると思われる。

 しかし、今回、私がクローズアップしたいと考えたのは、このような人口に膾炙した<強い、ラディカルな大島渚>のイメージではなく、<繊細で心優しいセンチメンタリスト>としての側面なのである。

 その大島渚のセンチメントがもっともあらわに表出されているのが追悼文である。
 なかでも伝説的な<武闘派の映画評論家>として知られた斎藤龍鳳の追悼はこのうえなく美しい。
 たとえば、次のような、独特の呼びかけるような調子には、その深い哀しみを帯びた<声>の所在がはっきりと感じとれるのだ
「龍鳳よ、斎藤龍鳳よ。
ぼくは確かに君の叫びを聞いたよ。君の叫び声を聞いたよ。
君の叫びは、ぼくたちの時代の無念さを伝えていた。
映画批評などを書いて生きねばならなかった君の無念さを伝えていた。
それは君が自分の生活を語った文章にあったような美しくも悲しい響きだった。」

 また、一九九三年六月に、くも膜下出血により急逝した盟友・川喜多和子さんの葬儀で読まれた弔辞も、あたかも慟哭するような痛切な<声>の響きが忘れがたい印象を残す。

 私は、この斎藤龍鳳の追悼文と川喜多和子さんの弔辞こそは大島渚によって書かれたもっとも感動的な文章ではないかと密かに思っている。したがって、本書に、このふたつの追悼文を収めることは、当初から考えていたことである。

 そして、本書の企画内容を夫人で女優の小山明子さんに説明し、ご快諾をいただいたのだが、電話で話している際に、小山さんが、ふと「そういえば、森川英太朗さんが亡くなった時に、大島が読んだ弔辞もとても感動的だったわ」とおっしゃった。
 森川英太朗は、大島監督と同様に、<松竹ヌーヴェル・ヴァーグ>を牽引したひとりで、武家社会の非合理を糾弾した時代劇『武士道無残』を一本撮っただけで、映画界を去って行った伝説の映画監督である。

 小山さんの言葉が気になって、その後、手を尽くしたところ、ご遺族と連絡が取れ、大島監督の弔辞を入手することができた。

 私は、今回、初めて知ったのだが、森川英太朗と大島渚は京都二中の同級生で、野球選手としてならした森川は、大島監督の永年の大親友だったのだ。
 森川は大島から一年遅れで、松竹京都撮影所に入社し、大島が松竹退社後につくった創造社に一時、在籍していたが、その後、電通に入り、最後は母校である慶應義塾大学で教鞭を執っていたのだ。 
 この森川英太朗の葬儀で読まれた弔辞は、活字化されるのは、今回が初めてだが、やはり斎藤龍鳳、川喜多和子の追悼文に匹敵するような心を打つすばらしいものである。

 大島渚は、その弔辞の最後で、森川英太朗が助監督時代に同人誌に発表した「壬生浪」というシナリオに触れている。ちょうど、その前に『御法度』の最初の製作発表が行われたために、新撰組を描いたその幻のシナリオとの奇しき因縁に言及しているのだが、この弔辞を読んだ直後、同じ一九九六年二月に、大島渚はロンドンで脳出血に倒れるのである。

 恐らく病魔に襲われる直前に書かれたこの感動的な弔辞を含め、単行本未収録の貴重な文章が数多く収められたこのエッセイ集は、大島渚の未知なる魅力が発見できるはずである。

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『東京戦争戦後秘話』撮影中の大島渚監督

 

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『武士道無残』の現場を訪れた大島渚監督(左)と森川監督(左から二人目

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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