高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2011年3月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2011年3月アーカイブ

「荒木一郎・アフター・ダーク」

 先日、小沢信男さんから新刊『本の立ち話』(西田書店)を贈っていただいた。
 小沢信男さんは、周知のように、学生時代に花田清輝に見出された作家で、半世紀にわたって新日本文学会に在籍し、そこで出会った作家たちを回想した『通り過ぎた人々』(みすず書房)は、みずみずしい名著である。以前、私が、このメモワールを「図書新聞」で書評し、また『ものみな映画で終わる/花田清輝映画論集』(小社刊)を編集したことが御縁となって、新著が出るたびに、贈っていただいている。 

 小沢さんはポルトレ(人物スケッチ)の名手で、『本の立ち話』にも佐多稲子、長谷川四郎、川崎彰彦といった作家の見事なスケッチが収められているが、『通り過ぎた人々』で最も印象に残ったのは菊池章一という文芸批評家だった。
 慶応大学出身で、いつもベレー帽をかぶって小脇にフランス語の原書を抱えていたという、このほそおもてで垂れ眼、長身痩躯の人物は、戦時下に女優の荒木道子らと劇団を創設して、治安維持法にひっかかり、留置場にぶちこまれてもいる。   
 やはり、戦時下、社会思想研究家だった父親が投獄されるという過酷な時代を描いた映画『母べえ』の原作者、野上照代さんも若き日のダンディな菊池章一にすごく憧れたと『蜥蜴の尻っぽ とっておきの映画の話』で述懐している。
 
『通り過ぎた人々』で、小沢信男さんは、さりげなく、この時期に、菊池章一と荒木道子は結婚し、生まれたのが荒木一郎だったと書いているが、恐らく荒木一郎の父親の名前が活字で明かされたのは、この本が初めてではなかったろうか。

 私のような一九六〇?七〇年代に日本のポップスを浴びるほど聴いて育った世代にとって、荒木一郎とはなによりも不世出の天才シンガー・ソングライターである。

 たとえば、ビート・ジェネレーションの聖典、アレン・ギンズバーグの長篇詩「吠える」の諏訪優訳に、奔放で大胆なロックのリズムの曲をつけた大作「僕は君と一緒にロックランドに居るのだ」は、今、聴いてもまったく古びてはいない。
 恩地日出夫監督の名作『めぐりあい』(67)の冒頭に流れる、荒木一郎が歌った主題歌「めぐり逢い」(作詞も荒木一郎、作曲は武満徹だ!)は、日本の映画音楽史上、もっとも抒情的で美しいスコアである。

 荒木一郎は、映画俳優としても、その存在感は突出していた。
 前回のコラムで、私的な大島渚作品のベスト3に挙げた『日本春歌考』(67)でも、大学受験のために上京した高校生に扮した荒木一郎のぶっきらぼうで不穏な佇まいは、引率の教師を演じた伊丹十三をはるかに凌駕するほど魅力的だった。

 さらに、荒木一郎は、中島貞夫監督の『893愚連隊』(67)、『現代やくざ/血桜三兄弟』(73)といった東映のヤクザ映画、村川透監督の初期日活ロマンポルノの傑作『白い指の戯れ』(72)でも、時には飄々としたチンピラ、時には深い鬱屈を抱えた青年をリアルに演じて忘れがたい印象を残した。

 七〇年代の半ば頃、名画座で見た『スキャンダル夫人』という珍品がある。かつてマスコミを賑わしたデヴィ夫人の愛人スキャンダルと六〇年安保をテーマにしたエロティックな映画で、監督は鬼才武智鉄二だった。全編がキワモノというか前衛舞台劇のような趣向で、荒木一郎は、たしかヒロインのビデ夫人(!)の愛人だった津川雅彦の役を演じていたと思う。この頃は、荒木自身がスキャンダルに巻き込まれ、音楽業界からパージされていたから、なにやら破れかぶれといった風情の不思議な迫力を感じさせた。

 数年前、ラピュタ阿佐ヶ谷のレイトショーで「ICHIRO ARAKI アフター・ダーク」と題した荒木一郎の映画祭を企画したことがある。この特集では、ぜひ『スキャンダル夫人』を上映したかったのだが、八方手を尽くしても遂にプリントが見つからなかった。まさに曰くつきの幻のカルト映画といえようか。

 この荒木一郎映画祭は、新聞でも取り上げられて一部で話題になり、レイトにもかかわらず、プログラムを追うごとに、とくに若い女性が目立って増えてきた。その評判を聞きつけたのかどうか、急遽、楽日に、荒木一郎本人が来場することが決定した。

 当日は、私が司会で、一時間ほどトークを行ったが、還暦を過ぎているにもかかわらず、ジーパン、ジージャンにサングラスというスタイルで颯爽と荒木一郎が登場した瞬間、若い女性で熱気ムンムンの場内から一斉に溜め息がもれたのを思い出す。

 ちなみに特集のタイトルは、荒木一郎が書いた小説『ありんこアフター・ダーク』(河出書房新社)をもじったものである。この書名自体が、カーティス・フラーの名盤『ファイブスポット・アフター・ダーク』のもじりであるのはいうまでもない。

『ありんこアフター・ダーク』は、渋谷のジャズ喫茶にたむろする高校生の眼を通して、東京オリンピック前夜の東京を描いたジャズ小説で、直木賞候補にもなった。
「ところが選考委員の五木寛之が作品に嫉妬しちゃてさ、結局、落ちたんだよ」と荒木一郎は苦笑気味に語っていたのを覚えているが、あながち嘘とは思えない。『ありんこアフター・ダーク』は、政治的メッセージをしのばせた五木寛之のセンチメンタルなジャズ小説よりもはるかに優れた傑作だった。

 荒木一郎は、他にも処女作である『シャワールームの女』や(大和書房)『雨の日にはプッシィ・ブルースを』(河出書房新社)といった洒落たミステリー、ハードボイルド小説を書いているが、いつ頃からか、ぷっつりと書くのをやめてしまった。

 音楽活動のほうは、最近、久々にライブを行ったようだが、名曲「ジャニスを聴きながら」「空に星があるように」「君に捧げるほろ苦いブルース」を聴くたびに、その歌詞のリリックな美しさには、あらためて感嘆してしまう。 

 荒木一郎の特異で詩的な言語感覚はどこからくるものなのか、ずっと謎だったのだが、最近、近所の古本屋で、菊池章一の『戦後・文学の五十年』(武蔵野書房)という大部の本を格安で見つけた。
 自伝的な回想をまじえながら、花田清輝の『復興期の精神』、大岡昇平の『酸素』、長谷川四郎の『目下旧聞篇』、大西巨人の『迷宮』などを子細に論じたこの評論集を拾い読みしていると、荒木一郎という天才の裡には、間違いなく、この<戦時下に、ベレー帽をかぶり、フランス語の原書を抱えていた、反骨のダンディ>の血が流れていることを、しみじみと実感したのだった。

大島渚、あるいは<強靭なセンチメンタリスト>

 今、大島渚監督のエッセイ集『わが封殺せしリリシズム』(仮題・小社刊)を編集している。
 私は、ずっと以前から大島渚監督の書いたものを、ある視点でまとめてみたいという思いを抱いていた。

 私が映画を意識的に見始めた一九七〇年代の初め頃には、大島渚はなによりも難解をもってなるアート・シアターを代表する映画作家であった。当時、地方に住む高校生にとっては、『絞死刑』『少年』『新宿泥棒日記』『東京戦争戦後秘話』といったATGの大島作品は名のみ知るだけで、その映画を実際に見る機会はまったくなかった。だから、『儀式』も封切りでは見ていない。
 その代わり、当時、朝日新聞に連載されていた「わが思索わが風土」というコラムで大島渚が書いていた文章は愛読しており、スクラップしておいた。それゆえ、私にとっては、大島渚という名前は映画監督である前に、まず優れたエッセイストとして深く印象づけられたのだった。

 この連載コラムは、ほかに武満徹、小田実、武田泰淳、吉田健一などの錚々たる面々が執筆しており、後に朝日新聞社から単行本として出版されたが、たぶん、大島の単著には収められていないはずである。

 この大島のコラムの第一回目には次のような気になる一節がある。
「私はふと、指折り数えてしまう。死ぬまでに、あと何本の映画をつくれるかと。私はあと一年で四十になる。五十までの十年間に十本。それから六十までに五本。六十から、いくつで死ぬかしらないが、割合長生きするつもりであと五本。合計二十本。しかしそれは甘い計算だ。」

 まさか、大島自身、一九九六年に脳出血で倒れ、その後、過酷な闘病生活を強いられることになろうとは想像だにしなかったであろうが、自分の映画作家としての将来を冷静に見通した予見的な文章である。

 その後、私は、名画座や特集上映会で大島の全作品を追いかけるようにして見たが、当時、よく「西のゴダール、東の大島渚」と喧伝されたようなラディカルで難解、かつ政治的で前衛的な映画作家というイメージとは、やや異なる感想を抱くようになった。

 私は大島渚作品でベスト3を選ぶとすれば、『愛と希望の街』『日本春歌考』『少年』を挙げたいのだが、とくにデビュー作『愛と希望の街』と『少年』は、硬質な抒情と強靭なセンチメントが溶け合った名作ではないかと思っている。

 大島渚はデビュー当時から、戦後日本映画の苛烈な批判者として自らを位置づけ、先行世代を全否定するような言説を常に表明し続けていたが、その積極的な発言とは裏腹に、彼自身の資質の根底にあるのは、この<センチメント>ではないかと私は考えているのだ。

 大島渚の初期の著作には『戦後映画・破壊と創造』(三一書房)、『魔と残酷の発想』、『解体と噴出』(芳賀書店)、『体験的戦後映像論』(朝日新聞社)、『同時代作家の発見』(三一書房)といった挑発的な書名が目立つが、その中には、大島のセンチメントが滲むような秀逸なエッセイも少なからず含まれている。

 先頃、四方田犬彦の編集で『大島渚著作集』全四巻(現代思潮新社)が刊行されたが、名高い『「眠れる獅子?松竹大船」を批判する』『それは突破口か?/日本映画の近代主義者たち』といった論考がほぼ網羅され、<戦後日本映画の革命児>としての大島渚のイメージを補強する内容になっていると思われる。

 しかし、今回、私がクローズアップしたいと考えたのは、このような人口に膾炙した<強い、ラディカルな大島渚>のイメージではなく、<繊細で心優しいセンチメンタリスト>としての側面なのである。

 その大島渚のセンチメントがもっともあらわに表出されているのが追悼文である。
 なかでも伝説的な<武闘派の映画評論家>として知られた斎藤龍鳳の追悼はこのうえなく美しい。
 たとえば、次のような、独特の呼びかけるような調子には、その深い哀しみを帯びた<声>の所在がはっきりと感じとれるのだ
「龍鳳よ、斎藤龍鳳よ。
ぼくは確かに君の叫びを聞いたよ。君の叫び声を聞いたよ。
君の叫びは、ぼくたちの時代の無念さを伝えていた。
映画批評などを書いて生きねばならなかった君の無念さを伝えていた。
それは君が自分の生活を語った文章にあったような美しくも悲しい響きだった。」

 また、一九九三年六月に、くも膜下出血により急逝した盟友・川喜多和子さんの葬儀で読まれた弔辞も、あたかも慟哭するような痛切な<声>の響きが忘れがたい印象を残す。

 私は、この斎藤龍鳳の追悼文と川喜多和子さんの弔辞こそは大島渚によって書かれたもっとも感動的な文章ではないかと密かに思っている。したがって、本書に、このふたつの追悼文を収めることは、当初から考えていたことである。

 そして、本書の企画内容を夫人で女優の小山明子さんに説明し、ご快諾をいただいたのだが、電話で話している際に、小山さんが、ふと「そういえば、森川英太朗さんが亡くなった時に、大島が読んだ弔辞もとても感動的だったわ」とおっしゃった。
 森川英太朗は、大島監督と同様に、<松竹ヌーヴェル・ヴァーグ>を牽引したひとりで、武家社会の非合理を糾弾した時代劇『武士道無残』を一本撮っただけで、映画界を去って行った伝説の映画監督である。

 小山さんの言葉が気になって、その後、手を尽くしたところ、ご遺族と連絡が取れ、大島監督の弔辞を入手することができた。

 私は、今回、初めて知ったのだが、森川英太朗と大島渚は京都二中の同級生で、野球選手としてならした森川は、大島監督の永年の大親友だったのだ。
 森川は大島から一年遅れで、松竹京都撮影所に入社し、大島が松竹退社後につくった創造社に一時、在籍していたが、その後、電通に入り、最後は母校である慶應義塾大学で教鞭を執っていたのだ。 
 この森川英太朗の葬儀で読まれた弔辞は、活字化されるのは、今回が初めてだが、やはり斎藤龍鳳、川喜多和子の追悼文に匹敵するような心を打つすばらしいものである。

 大島渚は、その弔辞の最後で、森川英太朗が助監督時代に同人誌に発表した「壬生浪」というシナリオに触れている。ちょうど、その前に『御法度』の最初の製作発表が行われたために、新撰組を描いたその幻のシナリオとの奇しき因縁に言及しているのだが、この弔辞を読んだ直後、同じ一九九六年二月に、大島渚はロンドンで脳出血に倒れるのである。

 恐らく病魔に襲われる直前に書かれたこの感動的な弔辞を含め、単行本未収録の貴重な文章が数多く収められたこのエッセイ集は、大島渚の未知なる魅力が発見できるはずである。

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『東京戦争戦後秘話』撮影中の大島渚監督

 

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『武士道無残』の現場を訪れた大島渚監督(左)と森川監督(左から二人目

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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