高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2011年1月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2011年1月アーカイブ

相米慎二監督が選んだ「日本映画ベスト3」

 前回、高峰秀子さんのささやかな追悼を書いていて、ふと思い出したのは、相米慎二監督のことである。相米さんは、2001年の9月9日、つまり、アメリカで同時多発テロが起きた9・11の二日前に亡くなったので、ひときわ鮮明に記憶に残っているのだ。
 そのせいか、毎年、9・11が近づくと、ああ、そろそろ相米さんの命日だなと、自然に連想が働いてしまうのである。

 相米さんとは、別に、それほど親しかったわけでもないのに、訃報を聞いた時には、なぜか説明のつかない、すさまじい喪失感に襲われ、通夜、告別式と出てしまった。
 告別式では、当時、まだ、かろうじて元気だった今村昌平監督が、愛弟子である長谷川和彦がとても世話になったこと、『魚影の群れ』がいかに素晴らしかったかを、淡々と弔辞で述べていたのが記憶に残っている。あ、そうだ、大勢の参列者のなかにTBSの伝説的な深夜放送パック・イン・ミュージックのDJだった林美雄さんを見つけて、なつかしさのあまり、思わず声をかけたことを思い出した。
 林さんもその翌年、胃癌で亡くなってしまったのだ。まさに往時茫々。

 高峰秀子さんと相米慎二監督とはまったく接点はないが、なぜか、私の中ではひと連なりの記憶として残っている。
 それはなぜか。
 最初に相米さんと会ったのは、東京国際映画祭のヤング・シネマ部門で『台風クラブ』がグランプリを受賞した時だから、1985年だったと思う。受賞記念として、『月刊イメージフォーラム』で、編集長の西嶋憲生さんと一緒に相米監督にインタビューをしたのである。

 当時から、インタビュアーをはぐらかすのが得意で、韜晦をもってなると言われた相米さんだったが、この時は、かなり率直に自分の少年時代や映画界入りの経緯、自作について語ってくれたように思う。
 インタビューが終わって、四谷三丁目の居酒屋で飲んだ後、飲み足りない風情の相米さんを誘って、私の行きつけの新宿区役所脇にあったジャズ・バー「シネ・スマイル」に流れた。
「シネ・スマイル」のママである加納とも枝さんは、当時でも、毎週、数本の新作を見るような筋金入りの映画狂で、新宿ゴールデン街でも一目置かれるようなユニークな女性だった。
 私も永年の常連で、とも枝さんが2003年に亡くなった時には、私の責任編集で『シネマの快楽に酔いしれて』(小社刊)という遺稿集をつくったこともある。

 とも枝さんは、映画関係の客がやってくると、一種の通過儀礼というべきだろうか、ノートに今まで見た映画のベスト3を書かせるという不思議なクセ(?)があった。  
 この晩も、とも枝さんは、相米さんに、ぜひ、書いてくれとせがんだが、私が、「この人はそんなこと、絶対しないよ」と言うと、相米さんは「いや、書くよ」と言って、その場でさらさらと「邦画、洋画のマイ・ベスト3」を書いたのだった。
 もはや、相米さんが洋画ベスト3に何を挙げたかは、忘れてしまったが、かろうじてフェリーニの『カビリアの夜』だけは憶えている。
 そして邦画のベスト3は未だに鮮明に記憶に残っている。次の三本である。

 『小原庄助さん』(清水宏監督)
 『たそがれ酒場』(内田吐夢監督)
 『女が階段を上る時』(成瀬巳喜男監督)

 私は、この渋い三作品の連なりを見て、相米さんは、ほんとうに映画を知っている、深く愛している監督だなと思った。
 とくに高峰秀子の匂い立つような色香が忘れがたい『女が階段を上る時』は、私も成瀬のなかでもっとも愛する映画だけに、我がことのように嬉しかった。 

 当時、相米さんは、沈滞した日本映画界の最前線を疾走する鬼才としての評価はゆるぎないものがあった。とくにトレード・マークともいわれる<ワンシーン=ワンショット>の長回しを駆使したダイナミックな演出で知られ、デビュー作『翔んだカップル』に始まり、『ションベン・ライダー』『台風クラブ』といった子供を主人公にして寓話的な拡がりをもった作品が高く評価されていた。

 ただ、私は、むしろ『ラブホテル』や『魚影の群れ』のような大人を主人公としたドラマをもっと見たいと思っていた。まさに、成瀬のような、陰翳に富む古典的な恋愛映画を撮れる監督だと漠然と思っていたのだ。
 後年、『あ、春』で、寺島純子、藤村志保といった大女優たちを悠然と動かしているその見事な演出を見るにおよんで、ああ、やはり、相米さんは成瀬巳喜男の後継者になれる器だなと思った。

 その後、相米さんの『雪の断章』のアクロバティックな冒頭シーンの撮影を取材するために、東宝の砧撮影所に行ったことがある。キャメラマンが何台ものクレーンに次々に乗り移りながら撮影している異様な光景を眺めて、これは、まるでマックス・オフュルスの『快楽』を思わせる、などと記事に書いたことを覚えている。

 最後に相米さんに会ったのは、亡くなる一年ぐらい前、私が編集したロバート・アルトマン監督の『クッキー・フォーチュン』のパンフレットのために、インタビューしたときである。
『クッキー・フォーチュン』のキャメラは、かつて相米さんの『お引越し』の撮影を担当した栗田豊通さんである。
 栗田さんは、70年代に単身渡米して、アメリカ映画のインディーズ・シーンで腕を磨き、アラン・ルドルフの『トラブル・イン・マインド』『アフター・グロウ』などを経て、ついに、巨匠アルトマンの撮影監督を務めるまでに至ったわけだが、その独特のルックの魅力を語ってほしいという思いもあった。

 相米さんは、今のアメリカの風土や人間をまるごと描けるのは、クリント・イーストウッドとアルトマンしかいないこと、とくにアルトマンが女性のシナリオライターを好んで使う理由として、成瀬巳喜男と水木洋子の関係を例に引きながら、「女の肌ざわりみたいなものがほしいんじゃないかな」と語ったのが強く印象に残っている。
 ほかならぬ相米さん自身が、女性のシナリオライターをよく使っていたのだ。やはり、女の肌触りがほしかったのだろうか。

 相米さんは、遺作となった『風花』を『浮雲』に比較されるのを嫌がっていたそうだが、やはり、それも韜晦というべきだろう。

 成瀬巳喜男と高峰秀子の名コンビによってつくられた日本独特の<女性映画>の系譜は、相米慎二の死によって、途絶えてしまったのではないかというのが私のきわめて悲観的な見立てなのである。

相米慎二監督.jpg
相米慎二監督

一枚の白バックの高峰秀子

 大晦日の夜、ほろ酔い気分のところに、突如、高峰秀子さんの訃報が飛び込んできたので、しばし茫然となる。肺がんを患っていたようで、享年八十六。
 ああ、ついに来たか、という暗然たる思いと同時に、すっかり酔いも醒めてしまい、手許にあった『浮雲』のビデオを見直し、元旦は、彼女の傑作メモワール『わたしの渡世日記』を読み返して過ごした。

 生前、高峰秀子さんと交友があったオペラ演出家の故・三谷礼二さんは、「永遠の夢と詩」という素晴らしいジュディ・ガーランド論(『オペラのように』所収・筑摩書房)で、「『スタア誕生』は、モーツァルトの四大オペラ、シェイクスピアの四大悲劇に匹敵し得る人類財産と私は信じる。」と書いている。ひさびさに再見した『浮雲』も、高峰秀子という女優の美しさがほとんど神々しさの域に達した、稀有な<人類財産>のひとつだとつくづく思った。

 まさに昭和という時代そのものをシンボライズする、この偉大な女優について、私ごときが云々するなど、まったく烏滸がましいが、ふいに、昔、高峰秀子さんと、ささやかな仕事上のお付き合いがあったことが思い出されたのだった。

 もはや、四半世紀も前のことになるが、1980年代の後半、映画雑誌『月刊イメージフォーラム』の編集を辞めてから、一時、映画の世界を離れていたことがある。
 なにをしていたかといえば、『一枚の繪』という美術雑誌の編集部に籍を置いていたのである。
 当時は、映画ジャーナリズムの裏側や人間関係の嫌な面も見えてきて、心身ともにぼろぼろになっていた時期でもあり、もはや、映画の世界には戻れないかもしれないという漠たる不安もあった。
 かといって、まったく予備知識なしに飛び込んだ美術業界も、実は、映画界以上におどろおどろしく面妖で、こんな胡乱な世界にはそう長くはいられないという思いは常にあった。

 結局、当時、私がだらだらと、数年間も『一枚の繪』という雑誌にとどまっていたのは、桂ゆきさんと岸田今日子さん、そして高峰秀子さんの魅力的な連載エッセイを担当していたゆえではなかったかという気がする。
 当時は、ファックスはまだ、ほとんど普及しておらず、編集者は、著者に直接会って、原稿を受け取っていた。
 新宿余丁町に住んでいた桂ゆきさんは、いうまでもなく、戦後日本を代表するアヴァンギャルド画家であり、お宅に伺い、「夜の会」の盟友だった花田清輝や岡本太郎、埴谷雄高などのゴシップ話を聞くのが楽しみでならなかった。
 岸田今日子さんも、赤坂の自宅マンションに伺って、見たばかりの映画や舞台、彼女が出演した増村保造の傑作『夫が見た』『卍』の話題が出ると、つい長居することもしばしばだった。ちなみに、この時の連載『妄想の森』は、後に文藝春秋から単行本になり、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。

 しかし、高峰秀子さんだけは、当時、すでに芸能界引退を宣言し、人前に出ることはまずなかったし、私も連載が終わるまで、一度も、会うことはかなわなかった。原稿はいつも速達の封書で届いた。
 それでも、時おり、会社に、高峰さんから原稿の確認で電話がかかってくることがあった。たまたま私が取って、あの独特のエロキューションで「高峰ですけど、編集部の高崎さん、いらっしゃる?」などと自分の名前が呼ばれた時には、ほとんど、一日中、夢見心地だった。

 もしかしたら、昔の映画仲間と呑んだ時に、自慢げに、そんな話をしたことがきっかけだったのかもしれない。ある日、ユーロスペースの代表・堀越謙三さんから電話がかかってきた。当時、彼は、<ゴダールの再来>と呼ばれた鬼才レオス・カラックスの問題作『汚れた血』を配給していた。その彼が急遽、キャンペーンのために、来日することになった。   
 堀越さんによれば、カラックスは熱狂的な成瀬巳喜男ファンであり、ついては、その数々の名作でヒロインを演じた伝説の女優・高峰秀子に会うのを熱望しているのだという。そこで、私は、乞われるままに、高峰さんの住所と電話番号を教えたのである。

 しばらくして、堀越さんから、無事に高峰秀子さんと一緒に食事をする機会を持つことができ、その際に、流暢なフランス語を話す高峰さんに、カラックスは、当時の恋人ジュリエット・ビノシュと大感激していたという話を聞いた。
 後に、堀越さんがプロデュースしたカラックスの超大作『ポンヌフの恋人』の破滅的な堕ちていくカップルには、たとえば、『浮雲』で、腐れ縁の果てに南方へと向った森雅之と高峰秀子のふたりの残響がかいま見えるはずである。

『わたしの渡世日記』には、昭和26年、家族との軋轢などで精神を疲弊させてしまった高峰さんが、映画の仕事をすべて擲ち、半年間パリに遁走して、自分を見つめなおすというくだりがある。恐らくフランス語は、この時期に覚えたのであろう。
 戦前から、天才子役として活躍するも、多くの家族を扶養しなければならず、小学校にもまともにいけなかった高峰秀子という女優の比類なき聡明さにはただ驚くばかりである。

 それゆえだろうか、『わたしの渡世日記』には、ところどころ、いささか埃っぽい日本映画界、映画人への複雑な呪詛めいた言葉が書き連ねてあるのが気にかかる。戦後は、文壇、画壇の大家たちのマスコットのような存在となり、谷崎潤一郎や志賀直哉、梅原龍三郎などとの優雅な交遊が、楽しげに回想されているのとは、際立って対照的だ。

 しかし、レオス・カラックスや最近、亡くなった台湾の天才監督エドワード・ヤンの熱烈なオマージュを例に引くまでもなく、成瀬巳喜男監督とのコンビによって生み出された名作群は、彼女が崇拝していた梅原龍三郎やら荻須高徳の作品などとは比較にならない、普遍的な<世界遺産>であることは疑い得ない。私は、高峰さんは、生前、そのことを、どこまで自覚していただろうか、と思うことがある。 

『わたしの渡世日記』を再読して、もっとも印象に残ったのは、「イジワルジイサン」と題された成瀬巳喜男を追想した章である。ガンで再入院が決まった成瀬を自宅に訪ねた高峰さんは、別れ際に、成瀬から、「ほら、約束のあれ(傍点)も、やらなきゃね」という謎めいた言葉をかけられる。
 あれ(傍点)とは、成瀬がひそかに念願していたという、<高峰秀子が主演で、装置も色もない、一枚の白バックの前で芝居だけを見せる映画>のことである。

 松竹蒲田時代に「小津はふたりいらない」と撮影所長に言われ、追われるように東宝に移籍して、数多くの小市民映画の名作を放った成瀬が、最後に夢想していた高峰秀子主演の、この究極の<女性映画>を、ぜひ、見てみたかったと思う。

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『浮雲』撮影スナップ 高峰秀子、森雅之の演技を見守る成瀬巳喜男

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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