映画批評家としての山川方夫 - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
高崎俊夫の映画アットランダム
映画批評家としての山川方夫

 今、山川方夫のエッセイ集『灰皿になれないということ』(仮題・清流出版刊)を編集している。山川方夫は、1930(昭和5)年生まれ。戦後の「三田文学」を復興させた名編集長であり、江藤淳に「夏目漱石論」を書かせて批評家デビューさせたことはよく知られている。何度か芥川賞候補にもなり、作家としても最も脂が乗っていた1965(昭和40)年、不慮の交通事故に遭い、夭折してしまった。まだ34歳という若さであった。

 私が山川方夫という作家を知ったのは、1970年代に入ってからで、当時、古書店にはよく冬樹社版の『山川方夫全集』全五巻が揃いで並んでいたが、貧乏学生にはあまりに高価でなかなか手が出なかった。
 ようやく、端本を見つけて、まず入手したのは、ショートショート集『親しい友人たち』が収められた巻だったように思う。
 一読し、驚嘆した。
 今でも『待っている女』『赤い手帖』『夏の葬列』『クリスマスの贈物』といった名品を時おり、読み返すことがあるが、そのたびに、その清冽で哀切な抒情に深く胸を打たれる。
 中編でも『愛のごとく』『街のなかの二人』『煙突』といった作品は忘れがたい。

 山川方夫はそのあまりに悲劇的な早逝ゆえに、いまだに伝説のマイナー・ポエットとして一部の熱狂的なファンを擁するが、私は、かつて村上春樹の『中国行きのスローボート』という短編集が出た時に、山川方夫の再来ではないかと思ったことがある。
 それほど、(今では想像もつかないだろうが)初期の村上春樹にはマイナーで清冽なイメージが漂っていたのである。
 当時は、アドレッセンスの翳りを繊細な硬質で抽象的な言葉によって浮かび上がらせる独特の文体も、ふたりの親和性を強く感じさせたものである。

 本来であれば、言葉の真の意味での<青春文学>である山川方夫の主要作品は、手軽で安価な文庫本で読まれるべきだが、ほとんど絶版状態であり、数年前に出た筑摩書房版の全集も法外な高価格なため、とうてい若い世代には手が届かない。
 そこで、山川方夫の魅力を幅広い世代に知ってもらいたいと思い、エッセイ集を編むことにしたわけである。というのも、彼のエッセイ、批評はその小説世界と不可分なものと思えるからである。

 文芸評論では、江藤淳、石原慎太郎、曾野綾子といった同世代の作家のスケッチがあり、なかでも印象深いのが「中原弓彦について」というエッセイである。
 これは中原弓彦こと若き日の小林信彦の幻の処女長編小説『虚栄の市』の跋文で、「彼のユーモアが、他人へのサービスというより、もっと自己本位なものであること、つまり、彼のいっさいは、ときには相手の存在さえ見失うほどの怒りであり、いいかえれば、彼自身のおびえへのそれほど激情的な固執なのだ」というくだりは、今でも充分に通用する卓抜でリアルな指摘である。

 とりわけ、私が今回のエッセイ集でクローズ・アップしたいと考えたのは、映画評論である。
 たとえば、よく知られている「目的を持たない意志」というアラン・レネの『二十四時間の情事』とピーター・ブルックの『雨のしのび逢い』を比較した論考がある。
 これは、脚本・原作者であるマルグリット・デュラス論でもある。
 とくに『二十四時間の情事』のヒロインを批判し、「女は、正確に彼女の観念の中でしか生きていない、生きようとしてもいない。その女の自己愛的な偏執を、戦争によって失われた愛、汚された無実、という焦点にしぼり、あらゆる映像をそのために配置した」とまことに手厳しい。しかし、アラン・レネの審美的映像ばかりが称賛されるこの作品を、このような意想外な視点で抉り出した批評は稀であり、また、その苛烈な批判には、作家としての山川方夫のモラルと信条が賭けられているのだ。

 ミケランジェロ・アントニオーニを論じた「『情事』の観念性」でも、当時、<愛の不毛>などと持て囃されたアントニオーニの問題作を俎上にのせている。ここでも、
「彼にとって愛はおたがいのあいだの<信頼>ですらなく、他者と自分とを一つにくるむような<錯覚>でも<誤解>でもなく、したがって、そこにどんな連帯の夢想もよろこびも保証してはくれない。……つまり、いっしょに理由のない個々の存在としての自分に耐えることの、その仲間意識以外に、人間は人間とは結ばれえない。『情事』においてアントニオーニが描いたのは、要するに、以上のような<人間たちの風景>であるにすぎない。」と、アントニオーニの解釈の悪しき文学性、固定観念を批判している。
しかし、そのいっぽうで、
「この映画の主要人物のすべては、ほとんどいつも<一人きりの目>をしている。そして、まるで未知の異様な物体をながめるように、ときどきまじまじと相手をみつめなおす。――かれらは、まるで床に撒かれた小豆粒の一つ一つのように、それぞれが単独な「個」でしかなく、いくつかの「物」としてたがいに存在しているのにすぎない。かれらにとっては<愛>もまた、その<物>と<物>の関係を越えるものではない。」
 と、誰も試みたことのないアントニオーニ作品の独創的な<読み>を提示してもいるのだ。

 その山川方夫の映画批評の最高傑作ともいえるのが「増村保造氏の個性とエロティシズム」という長編エッセイである。
 この論考において、山川は、増村保造の初期の傑作『妻は告白する』の若尾文子について次のように書く。
「僕は、彼女のもつ一切のものが動員され綜合され、あの<彩子>という人妻とぴったりとかさなりあい、そこになまなましい一人の<女>がむき出しにされているのを見た。あの画面には女そのものの裸体が、強烈なエロティシズムとともに動いていた。僕たちはそこに呼吸のとまるほどなまなましく、美しい一人の女を見たのである。」
 冷静な論理の運びと迸るような熱狂的なオマージュがめざましく共存する、この見事な批評は、ある意味で望みうる映画評論の極北ともいえるのではないかと思う。
 
 山川方夫という稀有な作家の内面世界を深く理解する上でも、これらの映画評論はきわめて重要ではないかと私はひそかに確信しているのだ。

 1012-1.jpg

夭折した作家、山川方夫

1012-2.jpg

アラン・レネ監督『二十四時間の情事』

1012-3.jpg

ミケランジェロ・アントニオーニ監督『情事』 

 

 

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
バックナンバー
検索