高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2010年11月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2010年11月アーカイブ

ジョニー・マーサーをめぐるささやかなアメリカ映画史

 

 先日、『ジャズ批評』誌から「ぜったいジャズ入門」というアンケートが届いた。
 そのなかに「これからのジャズ・ファンにすすめたいこの一枚」という設問があり、あれこれ悩んだ末に、クリント・イーストウッド監督の『真夜中のサバナ』のサントラ盤を挙げることにした。

 クリント・イーストウッドは、以前、このコラムで取り上げたウディ・アレンと同様、アメリカ映画界でもっともジャズに造詣が深い映画作家である。
 以前にも、チャーリー・パーカーの伝記映画『バード』、セロニアス・モンクのドキュメンタリー『ストレイト・ノー・チェイサー』を撮っており、監督デビュー作である『恐怖のメロディ』(原題は『プレイ・ミスティ・フォー・ミー』)もエロール・ガーナーの名曲「ミスティ」が重要な役割を果たしている。

 『真夜中のサバナ』は、イーストウッド作品としては珍しいユルユルの失敗作だが、サントラ盤は超傑作なのだ。というのも、この映画は、アメリカ南部のジョニー・マーサーの邸宅で実際に起きた殺人事件を描いたノン・フィクションが原作であり、全編にわたって、当代一流の歌手たちによるジョニー・マーサーの名曲をふんだんに聴くことができるからである。
 K・D・ラングの「スカイラーク」、娘のアリソン・イーストウッドの「降っても晴れても」、ダイアナ・クラールの「真夜中の太陽」、ほかにローズマリー・クルーニー、カサンドラ・ウィルソン、はてはクリント・イーストウッド自身が「アクセント・トビュアテ・ポジティヴ」なる地味なナンバーで渋い咽喉をきかせている。

 ジョニー・マーサーは、ジョージ・ガーシュイン、コール・ポーター、アーヴィング・バーリンとともに20世紀アメリカを代表するソング・ライターだが、彼らの偉大なキャリアと比較すると、ややマイナーで親しみやすい作風を持っている。それに映画との関わりがとても深いのも私が偏愛する理由のひとつである。

 ジーン・ネグレスコ監督のミュージカル映画『足ながおじさん』(55)に流れる「ドリーム」や「サムシングス・ガッタ・ギヴ」は、作詞・作曲ともにジョニー・マーサーだが、彼の持ち味はロマンティシズムにあふれた作詞の領域でもっとも発揮された。
 シャンソンの名曲「枯葉」(原詩はジャック・プレヴェール)に英語の詩をつけたのも彼である。

 ジョニー・マーサーのスタンダード・ナンバーは、最初、映画音楽として発表されたものが多く、中でも一番有名なのは、オットー・プレミンジャー監督の『ローラ殺人事件』(44)の主題歌「ローラ」である。ジーン・ティアニーが謎めいたファム・ファタールを演じた、この名作は、以後、ハリウッドが量産したフィルム・ノワールの原型の一本となった。

 1960年代に入ると、作曲家ヘンリー・マンシーニとのコンビによる名曲でその名前は一躍、ポピュラーなものとなる。ブレイク・エドワーズ監督の『ティファニーで朝食を』(61)の主題歌「ムーン・リヴァー」、『酒とバラの日々』、そしてスタンリー・ドーネン監督の『シャレード』の主題歌の、思わず口ずさみたくなるほど美しい旋律は、一度、聴いたら忘れようもない。

 私がジョニー・マーサーのもっとも愛聴する名曲「フールズ・ラッシュ・イン」を初めて聴いたのも、やはり映画の中だったような気がする。
 昔、新宿厚生年金ホールの裏手の辺りに黙壺子アーカイブスという小屋があった。
 ここでは伝説の映画評論家・佐藤重臣の解説付きで非合法のアンダーグラウンド・フィルムが常時かかっていて、ノーカット版のジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』(70)やジャン・ジュネの唯一の監督作品『愛の唄』(64)と並んで定番だったのが、ケネス・アンガーの『スコーピオ・ライジング』(63)だった。
 ヘルス・エンジェルたちのオートバイへのメタリックな愛とドラッグ幻想をシャッフルしたこの異様な傑作で、もっとも印象的に使われていたのがリッキー・ネルソンが、当時、ヒットさせたこの曲だった。
 もともとはクルーナーと呼ばれていた若き日のフランク・シナトラがヒットさせたスロー・バラードで、シナトラが切々とこの歌を歌うテレビ映像を、映画の中で、そのまま効果的に使ったのが、ヴィンセント・ギャロが監督・主演した『バッファロー66』である。
 
 ジョニー・マーサーが手がけた恐らく最後の映画音楽は、ロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』(73)である。
 アメリカン・ニューシネマの末期に、アルトマンは、この傑作によって、ハンフリー・ボガートに象徴される伝統的なハリウッドの探偵映画のジャンルを見事に葬送してしまった。
 この映画で、全編に流れるジョン・ウィリアムスのジャージーなナンバーはどれも忘れがたいが、とくにジョニー・マーサーの臓腑に深くしみわたるような哀愁をおびたメランコリックな詞がすばらしい。
 映画のラストで、当時、原作のレイモンド・チャンドラーのファンを大激怒させたシーンがある。主人公の探偵フィリップ・マーロウ(エリオット・グールド)が、かつての親友であったテリー・レノックスを射殺してしまうのだ。
 そして、メキシコの並木道を遠ざかっていくフィリップ・マーロウの後ろ姿に、「ハリウッド万歳!」の陽気なメロディがけたたましく鳴り響く。

 この途方もなく明るいナンバーは、ハリウッド黄金期に、バズビー・バークレー監督のミュージカル・コメディ『聖林ホテル』(38)のためにつくられたものだ。作詞はもちろん、ジョニー・マーサーである。全員が真っ白なスーツを着て、何十台ものジープに分乗したベニー・グッドマン・オーケストラがこの曲を演奏しながら、道路を疾走するシーンが印象的で、まことに能天気なハリウッド讃歌である。

 ロバート・アルトマンは『聖林ホテル』のベニー・グッドマンの音源をそのままコラージュのように使っている。
 アルトマンは、ハリウッドが夢の象徴として楽天的に信じられていた時代をシンボライズする、ジョニー・マーサーのナンバーをアイロニカルに引用し、いっぽうで、<夢の終わり>の確認と苦い幻滅、深い喪失感を表現した彼の最晩年の詩作によってテーマを鮮明に浮かび上がらせ、ハリウッドへの<長いお別れ>を告げることができたのだ。

 

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ジョニー・マーサー

 

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『真夜中のサバナ』のケヴィン・スペーシー

 

フランス映画社の復活、そして川喜多和子さんのこと

『ゴダール・ソシアリスム』を試写で見た。今年八十歳を迎えるジャン=リュック・ゴダールの新作である。まったく予備知識もなしに見たので、凄まじい音響と大胆きわまりない色彩の氾濫にただ呆然とするばかりだった。  
冒頭、地中海を航行する豪華客船の映像に、「お金は社会のもの」、「水と同じ?」という男女の会話がかぶさる。<社会主義>というよりも爛熟した高度資本主義の末期のごとき光景が、ゴダール流の奔放なモンタージュによって明滅し、通常の劇映画のダイアローグではなく、夥しい、さまざまな文学作品、映画の断片がたたみかけるように引用され、ぽつんと断ち切られるように終わる。
まるでゴダール版『資本論』とでも呼ぶべきだろうか。

映画の後で、配給元であるフランス映画社社長の柴田駿さんに、何人かの評論家たちと一緒にお茶に誘われ、とりとめのない感想を述べていると、ふっと故・川喜多和子さんのことが思い出された。
柴田さんの最愛、最強のパートナーであった副社長の川喜多和子さんが、クモ膜下出血で亡くなったのは、一九九三年の六月七日だった。享年五十三。
和子さんが急逝された前後から、ミニシアター・ブームの余波で買い付け価格が高騰し、ゴダールを含め、本来ならば、フランス映画社が配給すべきアート系の映画が湯水のごとく公開されたが、やがてバブルが終わると同時にブームも終息してしまった。
 
最近ではフランス映画社の配給作品もめっきり少なくなり、いささかさびしかったが、今年は、ベルギーのアベル&ゴードンの『ルンバ!』と『アイスバーグ!』、百二歳になるポルトガルの巨匠マノエル・デ・オリヴェイラの『ブロンド少女は過激に美しく』、それに『ゴダール・ソシアリスム』と公開ラッシュで、完全復活した感があり、嬉しい限りである。

川喜多和子さんのことが一瞬、脳裡をよぎったのは、かつてフランス映画社の試写を見ると、その後で和子さんにビールをごちそうになり、見たばかりの映画について好き放題に感想を言い合うという至福の時間をなんども過ごしたからだ。
 
私のような一九七〇年代に映画を本格的に見始めた世代にとっては、川喜多和子という名前は、あまりに神々しい存在だった。とくに七六年から始まったフランス映画社の<傑作を世界からはこぶ[バウ・シリーズ]>第一弾、ジャン=ピエール・メルヴィルの『恐るべき子供たち』とジャン・ヴィゴの『新学期・操行ゼロ』が公開された時の衝撃は忘れられない。
ジャン・ルノワールの『ピクニック』、カール・ドライヤーの『奇跡』、テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』、ベルナルド・ベルトルッチの『1900年』etc、まさにめまいが起きそうなラインナップであった。

その後、私は『月刊イメージフォーラム』の編集部に入り、川喜多和子さんと初めてじっくり話す機会を持ったのは、鈴木清順特集を組んだ時である。
周知のように、一九六八年、和子さんが主宰するシネクラブ研究会が企画していた鈴木清順作品三十七本連続上映会に、日活が突如、貸し出しを拒否し、そのことへの抗議行動に端を発して、日活の社長から「わけのわからない映画を作る」という理由で鈴木清順が契約を破棄されるという事件が起きた。いわゆる<鈴木清順問題共闘会議>が結成され、その先頭に立って闘ったのが川喜多和子さんだった。

清順特集の企画の話をすると、和子さんは嬉しそうに「ええ! 清順をやるの! 全面協力するから何でも言ってよ!」と興奮口調で、なつかしそうに<鈴木清順問題共闘会議>時代の思い出を話してくれて、沢山の貴重な写真も貸してくれた。

それまで、天の上にいてはるかに仰ぎ見るような存在だった川喜多和子さんが、身近に感じられるようになったのは、それ以来のことである。
その後、私は、一時期、映画の世界を離れたこともあったが、そんな時でも、たとえば、ゴールデン街の酒場などで、ばったり会うと、気軽に声をかけてくれた。映画雑誌媒体にいるからというような利害関係で付き合い方を変えるような人ではなかったのだ。

あれは、一九九〇年の年末だったろうか。突然、和子さんから電話がかかってきた。
「今度、ジャン・ルノワールの『黄金の馬車』をやるんだけど、劇場プログラムに作品評を書いてくれる人、だれかいないかしら?」という問い合わせだった。
私は、しばらく考えて、オペラ演出家の三谷礼二さんの名前を挙げた。三谷さんは生涯のベストワンに『河』をあげるほどのルノワール信者だったし、このコメディア・デラルテをベースに持つルノワールの傑作を論じるには、舞台芸術を熟知している三谷さんが適任だと思えたのだ。当時、三谷さんは病魔に侵されていたが、「整然の中のでたらめさが眩しい傑作」というエッセイはすばらしいものだった。三谷さんは、翌年三月に亡くなったので、これが最後の映画評論となった。

やはり、この頃だったと思うが、川喜多和子さんをめぐる、ひときわ印象に残っている出来事がある。
開館したばかりの渋谷の東急文化村のジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』の封切り初日にでかけたところ、東急に向かう途中で、和子さんから声をかけられた。やはり、『オープニング・ナイト』がお目当てだという。 
映画狂の和子さんは自社作品で忙殺されていても、これはという作品は必ず初日に見ていたのだ。「一緒に見ようよ」ということで、並んで坐り、タイトルが映りだしたあたりで、和子さんは画面のピントが微妙にずれていることに気づく。と、「あ、ダメだ!」と小声で叫び、ぱっと席を立って、走って外へ出た。しばらくして画面は正常になり、和子さんも戻ってきた。和子さんは、見終わった後で、映写ミスがいかに映画鑑賞にとって致命的かを延々と語り、「じゃあ、またね」と手を振って去っていった。
私はといえば、まるで、ゴダールの『男性・女性』で、サイズを間違えて上映しているのに気づき、走って映写室に飛び込み、猛烈に抗議するジャン=ピエール・レオみたいだなと、感嘆してしまった。

川喜多和子さんが亡くなった時に、小冊子が編まれ、そこに大島渚監督の弔辞が掲載されている。そのなかに、鈴木清順問題共闘会議時代にふれて、「その時あなたは、映画の自由、自由の映画を求める者たちのジャンヌ・ダルクでした。」という印象的な一節がある。
この弔辞は、大島渚によって書かれた文章のなかでもっとも感動的なもので、私は、全文を引用したいという誘惑を抑えきれない。
大島渚がここで述べているように、「世界のオーシマ」となるきっかけは、柴田駿さんと川喜多和子さんのフランス映画社が、六八年にジャン=リュック・ゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄』と交換で、『絞死刑』の海外配給をはじめたからにほかならない。

その大島渚も今、病床にある。
ミニシアター・ブームの先鞭をつけたフランス映画社の歴史をきちんと纏めるべき時期が来ているような気がする。

 

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●12月18日(土)より、日比谷 TOHOシネマズ シャ
ンテにて公開、全国順次
●ジャン=リュック・ゴダール監督作品「ゴダール・ソシアリスム」
(C)フランス映画社

 

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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