<愛の欠如を描く詩人>クロード・シャブロルを追悼する - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
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<愛の欠如を描く詩人>クロード・シャブロルを追悼する

 9月12日、クロード・シャブロルが死去した。享年八〇。
 シャブロルは、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーとともに<ヌーヴェル・ヴァーグの三羽烏>と称されたが、生前、ゴダールやトリュフォーのように、数多の研究書や評伝・評論集が翻訳・刊行されていたわけでもなく、日本ではきわめて不遇な扱いを受けていた映画作家ではなかったかと思う。
 シャブロルは、生涯に五五本もの映画を撮ったにもかかわらず、未公開作があまりに多いことも、日本におけるその評価を曖昧にさせている原因であるかにみえる。

 私自身、シャブロルの作品をスクリーンで見たのは十数本にすぎない。デビュー作『美しきセルジュ』(58)が正式に日本で劇場公開されたのも、たしか1999年だったはずだ。初期の代表作『いとこ同志』(59)がリヴァイバルされたのも、その頃である。

 私が、最初に封切りで見たシャブロル作品は『ジャン=ポール・ベルモンドの交換結婚』(72)だった。下ネタ満載のあまり笑えないドタバタ喜劇で、ヌーヴェル・ヴァーグの鬼才がなんと馬鹿馬鹿しい映画を撮るのだろうと呆れた記憶がある。その後、70年代には、シャブロルの映画は一本も公開されていないはずだ。

 私にとってシャブロルの評価が一変したのは、70年代後半に名画座で何度か見た『女鹿』(67)と、当時、飯田橋の日仏学院で時折、英語字幕つきで無料上映されていた一連の日本未公開のミステリー映画に出会ってからである。
『不貞の女』(68)、『野獣死すべし』(69)、『肉屋』(69)、『血の婚礼』(73)と題名を挙げてみるだけでも、思わず背筋がゾクゾクッとするような傑作ばかりだ。
 おもに、当時、愛妻だったステファーヌ・オードランが主演しているが、とりわけ『肉屋』を見た時には、めまいのような深い衝撃を受けた。
 一見、平穏で、牧歌的な田舎町を舞台に、オールドミスの小学校の女教師(オードラン)とインドシナ戦争帰りの肉屋(ジャン・ヤンヌ)との出会い、奇妙に親密な関係が淡々と描かれ、その背後では、若い娘、幼女ばかりを狙ったおぞましい連続殺人事件が次々に起こる。
 のどかな崖下でのピクニックのシーンで、少女が食べているサンドイッチに、突然、血が一滴、二滴としたたり落ちてくる。一瞬にして、名状しがたい恐怖と美で画面が凍りついてしまうのだ。 
 そして、あの忘れがたい、息を呑むようなラストシーンにいたると、なぜか、ゆくりなくも坂口安吾の『不連続殺人事件』の最後の美しい一行が想起された。  

 シャブロルの盟友トリュフォーはヒッチコックにインタビューして名著『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(晶文社)を著わしたが、恋愛の狂気を描かせたら天才のトリュフォーも、ヒッチコックにオマージュを捧げたミステリー映画はどれも書き割りめいた絵空事の脆弱さを露呈させてしまっている。

 いっぽうで、シャブロルは、批評家時代にエリック・ロメールと共著で、フランスで最初にヒッチコックの研究書を上梓したが、理不尽にも犯罪に手を染めてしまう人間存在の深い闇を鋭くえぐる才能は、明らかにヒッチコックの最良の後継者と呼ぶにふさわしい。
 少なくとも、私は『肉屋』を見たときには、シャブロルはヒッチコックを超えた、とすら思ったほどだ。

 その後、しばらくして、85年に開催された第一回東京国際ファンタスティック映画祭で上映された『コールド・ルーム』(83)のジェイムズ・ディアデンというイギリスの新人監督にインタビューする機会があった。
『コールド・ルーム』は東ドイツのホテルに宿泊した少女が悪夢にさいなまれる優れたサスペンス映画で、とくに現在と戦時下の時空をモザイクのように交錯させる手法は、当時、私が偏愛していたニコラス・ローグを想わせると感想を述べると、彼は、次のように語りだした。
「もちろん、ニコラス・ローグは大好きですが、私が世界でも最も心酔し、深い影響を受けた映画作家は、クロード・シャブロルです。なぜ彼に惹かれるのか。それは彼が<愛の欠如を描く詩人>だからです。」という言葉が強く印象に残った。
「たとえば、『肉屋』?」
「そう、まさに『肉屋』を見れば、おわかりでしょう」と彼は、我が意を得たりといったふうに微笑んだのだった。

 実は、ジェイムズ・ディアデンは、この連載の第六回<イーリング・コメディ>の章で言及した『波止場の弾痕』のバジル・ディアデン監督の息子なのだが、その後、辺境を舞台にした人間ドラマ『パスカリの島』や、マット・ディロン主演で撮ったアイラ・レヴィン原作のリメイク『死の接吻』には、シャブロルふうな<悪意のタッチ>が垣間見えるような気がする。

 90年には入ると、ミニ・シアターブームの余波もあってか、クロード・シャブロルの新作が、少しずつではあるが、散発的に公開されるようになった。 
『ふくろうの叫び』(87)、『主婦マリーがしたこと』(88)、『ボヴァリー夫人』(91)、『沈黙の女/ロウフィールド家の惨劇』(95),『嘘の心』(98)、『石の微笑』(04)といった作品群である。
 とくに、イザベル・ユペール、サンドリーヌ・ボネールといった味わいのある個性派女優を起用し、閉塞感につつまれた地方都市や農村、ローカルカラーの濃厚な辺鄙な土地を舞台にしたミステリーには驚嘆すべき作品が多い。

 なかでも、『ふくろうの叫び』は、フランス本国での封切りから十年後の日本公開だったが、それは、恐らく、当時、ふって湧いたようなパトリシア・ハイスミスの翻訳ブームのお蔭でもある。この<のぞき>という最も映画にとっても本質的・根源的なテーマに挑んだ異様な傑作は、やはり、クロード・シャブロル以外、誰も撮れなかったはずだ。
 <ストーカー>という言葉が発明される三十年も前に『愛しすぎた男』というストーカー小説の傑作を書いてしまったパトリシア・ハイスミスは、人間が抱えるパラノアックな心理や不可解な精神の内面世界に深くメスをいれる恐るべき作家だが、クロード・シャブロルもハイスミスと極めて似通った資質を持っている。

 かつて、英国文壇の巨匠グレアム・グリーンはパトリシア・ハイスミスに<不安の詩人>という称号を与えて、大絶賛したが、それは、ジェイムズ・ディアデンがクロード・シャブルロルを<愛の欠如を描く詩人>と顕揚したのと、ほぼ同義ではないかと思われる。

 <不安>や<愛の欠如>に深くとらわれた時に、その人間たちはどのような行為に及ぶのか。そして、彼らの視界に映る世界はどのような様相を呈するのか。シャブロルはその酷薄で仮借ない世界の表情そのものを、あたかも顕微鏡でながめるように冷徹に、ときにはユーモラスに、ときにはポエティックにドキュメントしてきたのではなかったろうか。

 今年の東京国際映画祭では、特別追悼上映としてシャブロルの遺作『刑事ベラミー』(09)が上映されるようだ。
 今後は、その膨大な未公開作品の発掘・上映だけではなく、シャブロルの仕事をさまざまな視点から再評価する試みがなされねばならない。


 



 



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晩年のクロード・シャブロル



 



 



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 めまいのようなサスペンス映画の名作『肉屋』



 



 



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『血の婚礼』のミッシャル・ピッコリ(左)とステファーヌ・オードラン

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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