加登屋のメモと写真…

リー・アイアコッカ

清流出版 (2019年7月24日 19:26)

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・急に過去の記憶が蘇ることがある。実は、リー・アイアコッカの死が報じられた時、僕は古巣ダイヤモンド社での、あの懐かしい喧噪の日々を思い出した。1970年代後半から80年代前半にかけ、破綻寸前だった米自動車大手メーカーのクライスラー(現フィアット・クライスラー・オートモービルズ=FCA=)の再建に手腕を発揮したリー・アイアコッカ元会長が7月2日、パーキンソン病に伴う合併症のためにロサンゼルスの自宅で死去したとマスコミ各紙で報じられた。享年94だった。僕はこの訃報に接し、様々な思いが交錯してしばらく呆然としていた。アイアコッカは1924年の生まれ。ビジネスの世界における、アメリカン・ドリームの体現者として今も記憶に新しい。古巣のダイヤモンド社で僕が単行本の編集者をしていた時代、翻訳者の徳岡孝夫さんとのコンビで、実に99刷までいったリー・アイアコッカ著『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(1985年刊)の出版にこぎつけ、その後も、第2弾ともいうべき『トーキング・ストレート』(1988年刊)を刊行した思い出深き人物であった。さまざまな思いが去来したのも無理はない。

 この本の版権を取得するのが結構大変だった。現在、清流出版の顧問をしてくれている斎藤勝義さんがダイヤモンド社の版権担当者として活躍してくれたことをよく覚えている。アイアコッカは経済雑誌や日本経済新聞等などで取り上げられ、カリスマ経営者として知られていた。しかし、サラリーマンの間ではまだそれほどの知名度はなかった。実際、新橋あたりのサラリーマンに訊くと、「コカ・コーラなら知っているけれど、アイアコッカなんて知らないよ」などと揶揄する人もいた。ダイヤモンド社の販売本部の連中も、「日本人にはまったく知名度がない。どうせだったら、レーガンをやった方が売れるのでは」などと僕の企画に冷ややかな目線だった。

・しかし、アイアコッカは立志伝中の人物であり、アメリカで原著が発売されるや評価は一変することになった。『パブリッシャーズ・ウィークリー』、『ビジネス・ウィーク』、『ニューズ・ウィーク』、『ニューヨーク・タイムズ』、『フォーチュン』など各紙誌の書評等で絶賛されることとなり、爆発的な売れ行きを見せたのである。そうなれば日本での版権はどの出版社が取得するか、取り合いとなったのは必然であった。新潮社、講談社、三笠書房をはじめ、名だたる大手出版社の敏腕編集者、版権担当者が版権取りに参戦してきたことをよく覚えている。日本ユニ・エージェンシーがこの本の版権代理店だったが、アドバンスは値上がりするばかりであった。

  日本ユニ・エージェンシーの武富義夫さんは、当時、まだ社長にはなっていなかったが、経営者に一番近い存在で、ばりばりの凄腕で知られていた。その武富さんと出版社の一編集者であった僕が、『アイアコッカ』の件ではことごとく対立したが、一歩も引かなかったのはいい思い出だ。これには版権担当者だった斎藤勝義さんも苦労されたと思う。結局、武富義夫さんは、1993年、僕がダイヤモンド社を辞めた後で、日本ユニ・エージェンシーの社長に就任した。武富さんの後は、長澤立子さん、山内美穂子さんと二代続けて女性が社長に就任したが、このお二人とはロンドン国際ブックフェア、フランクフルト・ブックフェア、ブックエキスポ・アメリカなど「国際ブックフェア」の会場でよくお会いし、意見交換をしたり、食事をご一緒したりしたものだった。
 

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・なぜダイヤモンド社が版権を取れた決め手だが、過去の経済物の実績と、どうしても出したいと編集者と経営者の熱意の差ではなかったか。僕にも編集企画の心構えとして、まだ日本人には知られていないが、注目すべき人物を追い、世に知らしめたいとする路線は間違っていないとの感覚があった。事実、ダイヤモンド社はビジネス書において、他社の追従を許さぬ実績を積んできていた。ベストセラーとなった本も多々ある。例えば、クラウド・ブリストルの『信念の魔術』(1954年刊)やE.G.レターマンの『販売は断られた時から始まる』 (1964年刊) などは、新装版として何度も装丁を変え、判型を変えたりしながら現在に至るまで売れ続けてきている。また、1950年代からピーター・F・ドラッカー博士の経営学シリーズを一手に引き受け、現在もダイヤモンド社の大事なドル箱路線となっている。


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アイアコッカの第2弾

・ドラッカー博士の本でもそうだったが、版権担当の斎藤勝義さんがこのアイアコッカの本の版権取得に、大手出版社の猛者に負けず奮戦してくれたことも特筆しておかねばなるまい。斎藤さんは、版権代理店の日本ユニ・エージェンシーをすっとばして、自宅から米国の版元であるバンタム・ブックスの版権担当者であったピアジェ女史に直接電話して売り込んでくれたりもした。そのかいあって、編集者だった僕は勇躍、アメリカに飛び、アイアコッカ本人とその弁護士と直に会い、契約にこぎつけることができたのである。両者のサインを受け、ゲラの一部を日本へ持って帰ることで、大手出版社との版権取得競争に決着をつけることができた。大手出版社がいくら切歯扼腕しても、ことここに至っては敗北を認めざるを得なかったのである。このアメリカ出張に際し、思い出に残る1シーンがある。それはワシントンの日本料理店で笹川良一氏とジミー・カーター前大統領が密談している光景を見かけたことであった。

  翻訳出版についても一言述べておきたい。すでに僕は自動車業界ものでベストセラーを出していた。『晴れた日にはGMが見える』(1980年、J.パトリック・ライト著)がそれ。普通だったら翻訳者として『晴れた日にはGMが見える――世界最大企業の内幕』をお願いした風間禎三郎さんに頼むところである。この本は、シボレーの売上げを伸ばし、いくたびかGMの救世主となって、GM史上最年少の重役に昇進した男が、次期社長を目前にして、突然同社を辞した。いったい何故なのか? 自動車業界の風雲児デロリアンの証言と弾劾は、王国の聖域「十四階」のヴェールを剥ぎ取った。デロリアンは、世界的にヒットした映画『バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ』に登場するタイムマシンのベースカーとして広くその存在を知られている。

・この本で翻訳をお願いした風間禎三郎さんに、『アイアコッカ』でもお願いしようかと考えたのは当然であった。しかし、風間さんの場合、一つネックがあった。風間さんは翻訳の仕事に取りかかっても、スムーズに波に乗れないことがある。すると、翻訳を放り出して、釣り竿を持って近くの浅川に日参することがよくあった。発行日を念頭において、締め切りを守ろうとする立場からすれば、とかく編集者泣かせの部分があった。1週間も新しい原稿がいただけないとなれば、ストレスも溜まろうというもの。あれやこれやと今後の道を探っているうち、この『アイアコッカ』の翻訳は、新規軸として、関西弁を駆使した新鮮味と、自動車好きの翻訳者であった、新進気鋭の徳岡孝夫さんにお願いすることにしたのである。

  実は、それより20年も前に遡る1965年の本だが、徳岡孝夫さんの著になる『太陽と砂漠の国々――ユーラシア大陸走破記』という本を読んでいた。その時の印象が強く、自動車関係の本だったら徳岡孝夫さんにお願いしてみたい、と僕なりに思っていたこともある。それに徳岡さんは翻訳が手慣れてうまい上に、早いという噂で、編集者からすれば大変に魅力であった。『晴れた日にはGMが見える』を超える販売実績を摑みたいというコケの一念だった。そして『アイアコッカ』の初版部数が4万部に決まった。この初版部数であれば、ちょっとした広告宣伝費もかけられるとほっとしたものだ。実際に、版を重ねる度に、有識者や本の読み手がどんどん増え、思ったよりダイヤモンド社の経費負担は少なくて済んだ。結局、最終的に『アイアコッカ』の実部数は、70万部を優に超えたのである。

  話は変わるが、イギリス出身のジャーナリストで、ニューヨーク・タイムズの東京支局長だったヘンリー・スコット=ストークスの著になる『三島由紀夫 死と真実』の翻訳をお願いし、徳岡孝夫さんの名訳には感服していたことも後押しした。日本文学界の鬼才、あの三島由紀夫が、なぜ自衛隊市ヶ谷総監部を占拠し、最期は切腹自決するに至ったのか? 偉大なる芸術家である彼の生い立ちから最期の時までをヘンリー・スコット=ストークスが詳しく取材編集したドキュメント本であった。そもそも徳岡さんが三島由紀夫とごく親しかったこともあり、とてもいい本に仕上げることができた。僕はこの本が気に入っていたので、清流出版で復刊したほどである。

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ダイヤモンド社の本

・さて、アイアコッカの話に戻るが、彼はイタリア移民の子として生まれ、プリンストン大大学院修了後の1946年に米フォード・モーターに入社している。アイアコッカが開発を主導した低価格のスポーツカー「マスタング」は、1964年の発売直後から若者の間で爆発的に売れた。この成功が評価され社長にまで上り詰めたが、創業家と対立して、1978年に解任された。同年、ライバル社のクライスラーに請われて社長として入社し、1979年に会長に就任している。低燃費小型車の開発遅れと日本車の追撃を受けて、5億ドルの累積赤字と史上最大の在庫を抱えたレームダック状態であったが、アイアコッカは、矢継ぎ早に大ナタを振るって企業体質の改善に努めた。アメリカ議会を説得して政府の債務保証を取り付けた上で、なんと自らの年俸を1ドルにカットする。人員削減や小型車強化策を断行し、石油危機の影響で販売不振にあえいでいたクライスラーの黒字化を果たすことになるのだ。

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清流出版で復刊した三島由紀夫本

  この再生手腕によって「カリスマ経営者」として名をはせ、結局、自伝『アイアコッカ』は世界累計で700万部を超える大ベストセラーとなったわけだ。その日本語版でレジェンドの一翼を担うことができたことに僕は誇りを持っている。『アイアコッカ――わが闘魂の経営』は結局、増刷に次ぐ増刷となり、最終的には99刷となった。しかし、この大ベストセラーがありながら、ダイヤモンド社出版局全体ではその期の損益バランスは、なんと赤字だったのである。販売本部も『アイアコッカ』だけを増刷しながら売っていれば、営業的に問題はなかったはず。しかし、出版局としてそうはいかない。他の出版物が目論見通りには売れずに足を引っ張ることになった。

  しかし、嬉しいことにタイミングよく助っ人が現れた。新潮社の前田速夫さんである。前田さんは、当時、雑誌『新潮』の編集長であった。『アイアコッカ』は充分にダイヤモンド社の米櫃を潤わせてくれたが、更に、版権が前田さんの仲介によって新潮社に売れることになった。『アイアコッカ』はダイヤモンド社で99版を達成したが、100版は新潮社に任せればよいと僕は決断した。これによって、ダイヤモンド社は印税をしこたま稼ぐことかできた。印税が3割、新潮社から振り込んでくる。2度美味しい単行本企画となったのである。ちなみに前田さんは東大英文科卒の俊英であった。大学時代はボクシング部に所属していたと言う。僕も趣味と言えばボクシングだった。大学3年生の時、後楽園ジムで、生物学者アルビン・R・カーンに1年間教えを受けたこともある。カーンさんはあの白井義男の名トレーナとして知られた方である。前田さんの話に戻すと、その後数年して前田さんは新潮社を退社、民俗学者・歴史研究者となり、『渡来の原郷――白山・巫女・秦氏の謎を追って』(2010年、共著)をはじめ、『白山信仰の謎と被差別部落』(2013年)、『異界歴程』(2016年)、『北の白山信仰 もう一つの「海上の道」』(2018年)などの他、最新刊は今年2月に『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』を刊行されるなど、素晴らしい研究実績を残しておられる。僕は『アイアコッカ』の出版によって、出版の世界の面白さと怖さを十分に思い知らされることになった。

・アイアコッカは著書でこう語っている。「自分が絢爛たる人生を送ったことを、私は否定しない。私にチャンスをくれたのはアメリカであり、私はその機会を掴んだ。私は一夜にして有名になったテレビ・スターではない。40年近い勤勉努力によって、今日に至ったのだ」と。フォード社を首になったアイアコッカの契約書には、フォードを辞職した場合には、新しい職が見つかるまでオフィスを一つ与えるとあった。その新オフィスとはケチな倉庫の中であった。小さな部屋に小さな机と電話があるだけ。そして彼の秘書ドロシーが目にいっぱい涙をたたえていた。アイアコッカがシベリアに流刑になった気分だったというのも理解できる。人間は逆境に立たされた時、凄まじい反発力が生まれることがあると言える。アイアコッカがまさにそれだった。「内心の苦痛は忍ぶことができる。だが、公衆の面前で侮辱された私は、怒り狂った」と書いているが、アイアコッカの反発力は凄まじかった。電光石火というべき速さの、退社からわずか2週間後に、クライスラー社長に就任したのである。こうしてレジェンドとなりえたのだ。

・アイアコッカが、日本へ来たことについても話しておこう。日本語版は1985年1月1日に発売開始されたが、売れ行きが好調だったので来日したのである。翻訳者の徳岡孝夫さん、ダイヤモンド社の川島譲社長、版権担当者の斎藤勝義さん、編集担当の僕が帝国ホテルのスイートルームに呼ばれたのである。その時の写真撮影は許されていなかったので、残念ながら証拠写真はない。徳岡孝夫さんはビジネス英会話も堪能な方である。アイアコッカと丁々発止と早口で話し続け、アイアコッカが何度も頷いていた。僕は、アイアコッカの燻らせたシガー、見たことのない長い太巻きの葉巻の方に気をとられ、「日本での本の売れ行きは、あっという間に30万部を達成したが、翻ってクラスラーの車は100台も売れていない。社長の権威が丸つぶれとなった」と嘆息していたところしか記憶に残っていない。話は変わるが、ある時、アイアコッカご自慢のイタリアのワイナリーで熟成されたワインがダイヤモンド社に届けられた。「VILLA NICOLA BRUNELLO DI MONTALCINO 1981 bottled for LEE IACOCCA PRODUCT OF ITALY」というラベル。僕はそのワインをまだ試飲していない。訊けば、斎藤勝義さんもまだ飲んでいないという。万感の意がこめられたこのワインである。僕は体調がそろそろ危なくなった時に、このワインを飲み干そうと思っている。

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徳岡孝夫さんと僕

  最後に徳岡孝夫さんについて触れておきたい。僕の人生の公私共において、一番大切な人が徳岡孝夫さんである。ダイヤモンド社でお付き合いが始まり、今日まで実に35年以上の長きにわたり親しく交情を深めてきた。思い起こせば、徳岡さんにはどんなに助けられたことか。筆舌に尽くしがたいほどである。月刊『清流』にも長い間、ホットなニュース解説を連載していただいたが、目が不自由になって字が見えないと聞けば、無理に原稿執筆をお願いするわけにはいかない。やむなく連載を下りて頂いた。僕も両目ともに白内障の手術をしたが、目が不調だと気分が萎えるものである。これだけ科学技術、医学が発達した世の中である。何か特効薬や画期的治療法が発見されても不思議はない。徳岡さんと再び、コンビを組める日がこないものだろうか。僕はそんなささやかな夢を見ている。

菅原匠さん

清流出版 (2019年6月30日 11:35)

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・この時期、僕が楽しみにしているイベントがある。伊豆大島に在住の染色家で陶芸家でもある菅原匠さんの個展である。「藍染めとやきもの展」が、今年も5月29日(水)から6月3日(月)まで、松屋銀座8階の「イベント・スクエア」で開催された。僕はほぼ毎年、この個展を楽しみに出かけているが、いつものメンバーの斎藤勝義さんの都合がつかなかったので、臼井雅観君と二人で見に行くことにした。連日、蒸し暑くて過ごしにくい日が続き、気分が萎えてしまいかねなかったのだが、会場は「藍染」の涼やかな間仕切りや暖簾が掛けられ、涼しげな展示がなされほっとしたものだ。例年のごとく会場内は熱気に満ち、多くのご婦人たちでにぎわっていた。

 

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涼しげな藍染の間仕切り

  僕は菅原さんの藍染作品ややきものの新作も楽しみだが、実は来場者にも興味がある。もちろん、中年以上のご婦人方が圧倒的に多いのだが、結構、妙齢の女性も訪れるのだ。数年前のことになるが、菅原さんの藍染ファンで、気に入った作品があると購入しているという若い女性にお会いした。この若さでしっかりとした審美眼をお持ちなのに感心したので、記念に写真を一緒に撮らせてもらった。日本的な美人のその女性は、後日、お送りした月刊「清流」を気に入ってくれ、その後定期購読者になってくれたのである。僕には大変嬉しい出来事だった。この女性にこのイベント会場で、またお会いできるかもしれない、そんな楽しみも後押ししてくれたのも事実である。

・菅原さんの藍染めは、下書きをいっさいせず、指描き・筒引きによって、のびやかで大胆なユニークな紋様を描くのが特徴とされる。麻布を使ったり、科布を使ったりして、趣の異なる表情を楽しめるようになっている。常連のお客さんが引きも切らず訪れる合間に、菅原さんとしばらくお話することができた。僕がお聞きしたかったのは、世に出るきっかけを作った菅原さんの熱烈な後援者、白洲正子さんとのお付き合いである。白洲さんには、かなりな点数の藍染作品を買って頂いたというが、個人的にどんな印象をお持ちなのか、興味が尽きなかったからだ。20分程度であったが、僕の聞きたかったことは、大体、お聞きできたと思っている。ちょっと変則的だとは思うが、なかなかいいお話だったのでこの場を借りてご披露したい。

 

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下書きなしで描くユニークな紋様


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大胆な構図が生きている

  白洲さんが菅原さんを知るきっかけになったのは、織司の田島隆夫さんである。白洲さんは、銀座で「こうげい」という店を経営していたことがあるが、地機織という独特の織り方で織られた田島さんの反物を気に入り、優先的に仕入れていた。そして田島さんが余技で描いた書画にも惚れており、現代画廊の須之内徹さんと二人、田島さんの絵の展覧会を毎年、後押ししていたのである。田島さんの自宅は埼玉県行田市にあったが、白洲さんと須之内さんは、毎年行われる展覧会用の作品選びに、田島さんの自宅を訪ねていた。その際、菅原匠さんの藍染の暖簾が掛かっていて魅せられたのである。白洲さんは当時、婦人雑誌「ミセス」に《つくる》という連載を持っており、そこで紹介しようと思ったらしい。紹介の労をとってくれるよう田島さんに依頼したのだ。

・菅原さんは当時、まだ埼玉県大宮市の実家に住んでいた。実家は大きな老舗の呉服屋であり、その次男坊であった。どっしりとした構えの店で、店先には、菅原さんが制作した見事な暖簾が掛かっていた。白洲さんはこの取材をきっかけに、母堂と意気投合したというから面白い。店のことは菅原さんが「肝っ玉母さん」と呼んでいる母堂がすべて取り仕切っていた。白洲さんが惚れるほどである。母堂はなかなかの人物だったようだ。菅原さんは店の裏に藍甕を建て、そこで藍染をしていた。「匠は何をやってんだか、あたしにゃちっとも分かりませんよ」といいながらも、時々、仕事場を覗いたりする。そっけないように見えながら、お互いに信頼し合っているのが伝わってきたという。そんなつかず離れずの親子の距離感を白洲さんは大いに気に入ったのだ。若いうちは、好きなことを試行錯誤しながらも、行くべき道を探ればいいといったおおらかな育て方が、白洲さんの心にも響いたということであろう。

 この時、菅原さん本人は、取材らしい取材は受けなかったという。まあ、白洲さんのような審美眼の持ち主は、存分に話などしなくても相手の技量のほどはお見通しであった。菅原さんはこの頃すでに、町中では落ち着いて仕事ができないからと、伊豆大島に土地を購入し、すでに普請に取り掛かっていた時期でもある。だから月の半分は、伊豆大島で仕事をしていた。初めて白洲さんが菅原さんに依頼した藍染作品は、印半纏だったらしい。お気に入りの京都の職人さんがいて、プレゼントしたいからと依頼したものだった。印半纏の素材は厚手なので、藍染には苦労したらしい。しかし、出来上がったものを納めると、白洲さんは大層気に入ってくれたという。


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仏像のやきもの依頼も増えている

・菅原さんは何度も白洲邸にも遊びに行き、気心も知れてきた。その頃に依頼されたのが、「市女笠」の暖簾である。菅原さんによると、白洲さんは富岡鉄斎が愛用していた硯の墨だまりが、市女笠の形をしていたとかで、とても気に入っていた。これを藍染で表現できないものかと依頼してきたのである。菅原さんは二つ返事で引き受けたという。なぜなら、いいものを収める自信があったからだ。その自信の裏付けを尋ねて、僕はなるほどと思った。実は伊豆大島の工房には、藍甕が六つ、七つあるらしいが、その屋根が市女笠の形なのだという。つまり菅原さんの大好きな形でもあったのだ。その後も白洲さんは、菅原さんの「科布藍染筒引富士山文暖簾」「自家織麻布藍染指描月文暖簾」など、藍染作品を愛用し続けたことでも知られている。


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白洲邸の「市女笠」

  昭和57年4月、白洲さんはその菅原さんを伊豆大島に訪ねている。田島隆夫夫妻と連れ立ってであった。そのときの桜の絶景について白洲さんは、こう書いている。《家の背後には、一面に桜の咲いた山々がつらなり、風が吹くと、家も庭も花吹雪につつまれる》と。桜はもちろん、敷地内にもあり、地元の大島桜が何種類かと琉球緋寒桜がメインである。菅原さんは、毎年、その枝を切っては束ね白洲さんに送っている。白洲さんは、その桜を鎌倉時代に焼かれた常滑の大壺や信楽焼きの大壺に生けては楽しんでいたらしい。

・こうして白洲さんが交遊録などで、菅原匠さんのことを書くようになり、菅原さんはメジャーになっていった。実は、菅原邸の見ものは桜吹雪だけではない。庭造りを楽しむ菅原さんは、庭に三百何十種類もの椿の樹を植えているのだ。寒椿の咲く頃には、借景の山々と溶け合ってそれは見事なものらしい。そして庭のあちこちには、石像や自作の三重塔の焼き物が置かれている。借景には緑濃い山々が連なり、もう一方には海が近く、潮騒が聴こえる。まさにうらやむばかりの環境下で藍染と焼き物作りを続けてきたのである。麗子夫人に聞いてみると、広い敷地内を行ったり来たりしていると、1日1万歩を歩くのはザラだという。残念ながら、僕は体が不自由なので現地で見ることは叶わないが、想像するだけでも楽しい。

  菅原さんは、マスコミに取材されるようになり、昭和63年3月号「太陽」では藍染している仕事場風景が紹介された。この号では全国から15人の染織作家が特集されていた。誌面では、麗子夫人と囲炉裏端でくつろぐ菅原さんの写真が掲載されたのだが、その壁に藍染に「どう考えてもたかが染っぺら」と書いた白抜きの言葉が躍っていた。それを見た白洲さんは、すぐに菅原さん宛てに手紙を書いている。《「どう考えてもたかが染っぺら」は本当にそうなんです。そして、奥さんもいいし、暖簾もいいし、囲炉裏も見事な味付けになっている。ちゃんと住んでいるという風で、おめでとうございます》と書き送っている。羨ましくなるような関係ではないか。


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定番の巾着・マフラーなども目を引いた

「一流は一流を知る」という言葉があるが、白洲正子さんが見出した菅原匠さんのケースもそれであろう。白洲さんの「遊鬼」(新潮社)には、わが師わが友として、深い交流をしてきた多くの名が出てくる。田島隆夫、早川幾忠、小林秀雄、青山二郎、須之内徹、梅原龍三郎、福原麟太郎、鹿島清兵衛……などなど、白洲さんのお眼鏡にかなった人がいた。もちろん、菅原さんもそのお一人であった。市女笠を購入したとき白洲さんは「余韻を聞く」(世界文化社)にこう書いている。《多くの説明は要るまい。物事はすべてバランスにあると、近頃私は思うようになっているが、それは目に見える色や形だけのことではなく、目に見えぬ時間もその中に入る。そういうものをこののれんの上に見て下されば事は足りる。》こうして見出された菅原さんは、さらなる進化を遂げている。最近、依頼が増えたという陶芸作品などその最たるものだ。これからも麗子夫人と二人三脚で、いい作品を発表し続けて欲しいと切に願うものである。

吉沢久子さん

清流出版 (2019年5月28日 21:02)

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吉沢久子さん

・吉沢久子さんが、今年2019年3月21日、心不全のため101歳で亡くなられた。吉沢さんには弊社としても随分お世話になっただけにとても残念である。吉沢さんは幼い頃に両親が離婚したので、母堂に女手一つで育てられた。しかし、子供ながらに養育費の援助を受けての生活を情けなく思っていたと。自立心はそんなところから育まれたものと思われる。吉沢さんは、手に職をつけようと考えた末に速記者を志す。速記を学ぶ学校に1年ほど通い、速記をマスターしてしまう。「速記学校に残ってしばらく勤めましたが、フリーランスになりました。職業婦人の日給が60銭から80銭といわれた頃に、速記者は1時間で7円頂けました」というから、先見の明があったといわざるを得ない。戦時中は『海と空』という雑誌の座談会に速記者として同席し、原稿に仕上げることをしたらしい。昭和26年、朝鮮戦争勃発の翌年になるが、評論家の古谷綱武氏と結婚する。結婚式などはせず、親戚に紹介されただけだという。義弟となったのは毎日新聞論説委員でTBSのニュースキャスターなどを務め活躍をされた古谷綱正氏である。
 
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27歳から書き始めた戦時下の日記
 
・弊社で出版させていただいたのだが、吉沢さんは戦時中、日記を書いていた。これは綱武氏が戦地に赴く際に、書いておくよう求められたものだ。当時、家族も疎開して無人になった留守宅を、20代の秘書が守った記録ということになる。空襲が激しくなった戦争末期、そこへ毎日新聞記者だった弟の故・古谷綱正氏が社員寮の空爆で住めなくなったからと同僚と移り住み、男性3人を下宿させる非常時の留守居役をかねた。綱武氏の原稿料等が振り込まれると疎開先の家族へと送金、下宿人のためにヤミ物資の購入などもやってのけ、あるじの復員まで家と生活を守り抜いた奮闘記でもある。「ヤミ物価や入手方法など、面白いのよ。これを活字にしておきたくて」とおっしゃっていたが、確かに資料的な価値も認められる貴重な日記となった。

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月刊『清流』に3年間連載されたものを刊行
 
・古谷綱武氏は敗戦の直前に満州から帰国し、平和になってからは婦人論などを書いたのが好評で原稿料が入ってきた。マスコミ関係の訪問者も多く、吉沢さんは鳥の丸焼きを作ったり、大鍋いっぱいのけんちん汁を作ったりした。すると、その料理を簡単に紹介してくれませんか、などといった原稿依頼があり、いつの間にか生活に密着したテーマで書く仕事が増えていった。元々、ご本人は、童話作家になりたいという夢があった方なので、原稿執筆はまったく苦にならなかったという。そうこうするうち、NHKに勤めていた友人からラジオ番組の「若い女性」で台本を書く仕事を依頼される。テレビ放送が始まると、TBSの「テレビ婦人教室」の番組台本を書く仕事、さらには台本を書いて司会もとキャリアアップしていくのである。

  昭和30年代は「もはや戦後ではない」といわれ、日本経済が急速に発展した時期にあたる。一般家庭にも洗濯機や炊飯器が出回るようになり、女性は厳しい家事労働から解放されるようになる。吉沢さんの活躍の場が一気に増えた。どうしたら炊飯器でも、薪で炊いたご飯と同じように美味しく炊けるか、メーカーが工夫をする中でアドバイスを求められた。電化製品ばかりではない。新型の鍋や台所用品なども出回り、その上手な見分け方や使い方を実際に使ってみて体験的にアドバイスをするなどの仕事もしている。着実に家事評論家としての地歩を築いていった。

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月刊『清流』で掲載された対談を単行本化したもの

・吉沢さんの略歴に触れておこう。1918年、東京都江東区深川のご出身で文化学院文科卒業。1941年に速記者から始まり、古谷綱武氏の秘書を務めてから出会ったことをきっかけに1951年に結婚。綱武氏が10歳年上だった。秘書時代は文化学院、東京栄養学院、東京学院に学んだ。生活に関することを経験に生かし評論家となったが、1969年に「“家事評論家”廃業宣言」と書き話題となる。1969年、綱武氏は気心の知れた仲間と勉強会「むれの会」をスタートさせている。会費は一ヶ月5000円で毎月第2日曜日に開催してきた。参加者はそれぞれテーマを決め、勉強した成果を発表し会報も出してきた。この会は綱武氏が亡くなった後も吉沢さんが引き継ぎ続けてきた。

  常時集まるのは12、13人だったという。女性のみならず、県庁を定年退職した男性なども参加していたというから、面白い会であったようだ。すでにこの会も400回以上続いたというから凄い。メンバーの1人であった阿部絢子さんは、物の捨て方をテーマに発表したが、その成果が『モノを整理してスッキリ暮らす』として単行本になっている。研究テーマもレベルが高いものだったことが、このことをもってしても推測される。夫の死後は一人暮らしをしていたが、例えば蔵書の整理なども見事なものである。綱武氏、吉沢さん共に資料としてかなりな数の本を所蔵していたが、「むれの会」のメンバーのツテで福井県春江町立センターの図書館に「古谷綱武・吉沢久子文庫」を作ってもらい、すべて寄贈したという。この辺りも見事な断捨離だと感心するばかりだ。

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弊社の単行本が文春文庫になった

・弊社関連本としては、共著の形での刊行も多く、岸本葉子さんとの『ひとりの老後は大丈夫?』(清流出版、2011年、のちに文春文庫)。笹本恒子さんとの『はつらつ! 恒子さん98歳、久子さん95歳 楽しみのおすそ分け』(清流出版、2013年)。上坂冬子さんとの『年をとる楽しみ まぁるく生きるかトンガッて生きるか』(清流出版、2002年)がある。また、『ていねいな暮らし ここちよい生活歳時記』(清流出版、2006年)、『あの頃のこと 吉沢久子、27歳。戦時下の日記』(清流出版、2012年、のちに『吉沢久子、27歳の空襲日記』文春文庫、2015年)などがあり、増刷になったり、他社で文庫化されたりして、いずれも弊社の財産となっている。

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元気なお二人の対談は今も耳朶に残る

・綱武氏亡き後、一人暮らしを貫いた吉沢さん。微笑ましい趣味の持ち主でもある。実は僕は競馬が大好きだが、なんと吉沢さんも競馬をするというのだ。「実は乳業協議会というところのお仕事に関連していたせいか、団体で競馬見物のお誘いを受けまして府中競馬場に行きました。最初は怖気づいていたんですが、競馬場の雰囲気が洒落ていることと、何より馬の走る姿が素晴らしくてはまりました。馬券も勝ち馬の予想はできないので、好きな名前の馬を買っています」と楽しんでおられる。吉沢さんのお年で競馬などといえば、ギャンブルは不道徳といった印象があるはずなのに、競馬を楽しんでしまうところが素晴らしい。好奇心が旺盛で、世間的な評価などに左右されないのだ。

  吉沢さんはライフワークとして「台所の戦後史」に取り組んでおられた。台所革命は電気釜から始まったといわれる。そして洗濯機が普及する。冷蔵庫、洗濯機、テレビは三種の神器とあがめられた。それに合わせて、台所はどう変化を遂げていったのか、大変興味あるところだが、その後の進展についてはどうなっているのか。研究成果を知りたい気がする。僕が知らないだけで、活字になっているのなら、是非、読んでみたいと思っている。吉沢さんは僕も親しかった清川妙さんとも対談し、『八十歳をすぎてわかってきた大切なこと』(海竜社、2004年)という本を刊行している。僕が敬愛していたこのお二人とも鬼籍に入られた。なんとも残念なことである。ご冥福をお祈りしたい。

ドナルド・キーンさん

清流出版 (2019年4月19日 11:16)

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ドナルド・キーンさんの畏友であり名翻訳者だった徳岡孝夫さんと

・今年、2月24日、日本文学研究者のドナルド・キーンさんが心不全で亡くなられた。享年96であった。松尾芭蕉『奥の細道』や三島由紀夫、安部公房らの日本文学を数多く英訳したほか、能や狂言といった著作によって日本の文学と日本文化を世界に知らしめた功労者である。生涯独身を通したが、古浄瑠璃の復活に尽力したのが縁で、義太夫節や古浄瑠璃の三味線奏者として活躍してきた上原誠己さんを養子に迎えている。春とは思えぬ寒気の影響で、冷たい雨が降り続いた4月10日には、青山葬儀場で「お別れの会」が催され1500人もの人が別れを惜しみ参列したといわれる。

 喪主を務めた養子の上原誠己さんは「父は日本の雨が大好きでした。今日のような日は、窓から外を見て『雨で緑の葉が洗われて美しい』と言っていました。この雨は悲しみの雨ではありません。父の喜びの雨だと思います。平和を愛し、戦争が大嫌いな父でした。自分の希望通り、夢に描いた通り、日本の土になりました」と挨拶した。キーンさんは、コロンビア大学を退職後は、あの3月11日の東日本大震災を契機として、日本国籍を取得し、日本に永住する意思を表明していた。東日本大震災の被災地で、絶望の淵に立たされながらも、静かに列を作って待つ人々の映像に感動したのがきっかけで、「今こそ、日本人とともに生きたい」決意したといわれる。

・2011年(平成23年)9月1日、日本に永住するために来日し「家具などを全部処分して、やっと日本に来ることができて嬉しい。今日は曇っているが、雲の合間に日本の畑が見えて美しいと思った」などと流暢な日本語で語っている。日本に帰化したことで、ご本人が希望したように、日本の土になられたということだろう。その長い生涯において、日本の文学を研究し、翻訳し、世界に紹介し続けた功績はとてつもなく大きい。
 

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徳岡孝夫さんとキーンさんの共著

 キーンさんとは長年の友人であり、共著『悼友紀行―三島由紀夫の作品風土』(中央公論社)もあるジャーナリストの徳岡孝夫さんは「ドナルド・キーンさんが日本永住を決め、日本国籍を取得する時に『アメリカは、国籍を捨てるほどの悪い国ではない』と反対しました。するとキーンさんは『日本を本当に愛しているんだ』と言ったのです。日本に、日本人に惚れた人だったと思います。評論する場合も、日本人の日常行動を見る場合でも、良いものは良い、悪いものは悪いとはっきり言う人でした」。また、「とにかくのめり込む人でしたね。研究では原典に必ず当たる。伝統芸能を学べば、日本文化がよりわかるのではと狂言を習いました。美術や工芸にも造詣が深く、自分の中に日本を取り込んでいたのです」と、キーンさんを偲んでコメントしている。
 
 
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徳岡孝夫さんの名訳で刊行『日本文学の歴史』(中央公論社)

・ドナルド・キーンさんの略歴を書いておこう。1922年、アメリカ・ニューヨークで生まれている。38年に「飛び級」でコロンビア大学文学部に入学。アーサー・ウェイリー訳になる『源氏物語』に感動する。日米開戦後は、海軍日本語学校」で特訓。日本語文書の翻訳や捕虜の訊問を担当した。徳岡さんはこの頃のキーンさんについて「日記や手紙を読んで日本人の心情に触れたそうです。米兵はママのアップルパイが食べたい、などと書いているのに比べ、日本兵はなんと繊細なのかと衝撃を受けたといっていた」と回想している。

 53年、京都大学大学院に留学、永井道雄、川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫、吉田健一らと親交を深める。55年、コロンビア大学助教授。60年、コロンビア大学教授となる。コロンビア大学で教えながら日米を往復し、近松門左衛門、松尾芭蕉など古典を中心に研究を続けた。三島由紀夫とは特に親しくなり、三島の『近代能楽集』や『宴の後』なども英訳している。ノーベル文学賞の選考委員会は、日本文学に対するキーンさんの知見を参考にしていた。68年の川端康成のノーベル文学賞は祝福しながらも、三島由紀夫の受賞を願っていたというのが本心だった、と伝えられている。86年、コロンビア大学に「ドナルド・キーン日本文化センター」を設立。87年、国際日本文化研究センター客員教授。97年、『日本文学の歴史』(全18巻)完結。2008年、文化勲章受章。12年、日本への永住を決め、日本国籍を取得した。2013年、新潟県柏崎市に「ドナルド・キーン・センター柏崎」開館する。

・弊社とキーンさんとの関係にも触れておきたい。一つ目は、1938年英国生まれで『フィナンシャル・タイムズ』東京支局長のヘンリー・スコット=ストークス著、徳岡孝夫訳『三島由紀夫 生と死』(1998年)の単行本企画についてのご協力である。この本を著者や日本語に訳した徳岡孝夫さんと三島由紀夫の友人である日本文化研究家のドナルド・キーンさんが、『三人の友――三島由紀夫を偲んで』のタイトルの下で語り合ってくれた。ヘンリー・スコット=ストークスはこの鼎談では、もっぱら聞き役に回ったが、徳岡孝夫さんの上手な質問で、ドナルド・キーンさんも思わず本音を吐露した発言をされた。この箇所は読む人の特権に任せたい。

 ほかにいろいろと話題の話も盛り沢山だった。例えば、ドナルド・キーンさんと三島由紀夫は、もっぱら日本語で話すようだ。三島由紀夫が学校ではあまり英語を習わなかったが、習ったのはドイツ語だったらしいとの箇所で、僕にとっては面白かった。ノーベル賞の話では、徳岡さんが「もし、三島さんがノーベル文学賞を取っていれば、三島さんの運命は変わっていたとお思いですか」との質問で、キーンが「思います」と答えている。「三島由紀夫が取っていれば、三島も川端もまだ生きていただろうと」との遣り取りがあったが、これも頷ける話である。この鼎談は、東京・有楽町にある「外国人記者クラブ(FCCJ)」のプライベートルームで行なった。僕は「また、チーズとワインを持ってご自宅に行きます」と言ったが、その機会はなく果たされることはなかった。ドナルド・キーン(鬼怒鳴門)さん、残念だとしか言えない。


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ヘンリー・スコット=ストークス著 徳岡孝夫訳(弊社)

 もう一つが、陶芸家・辻清明さんの豪華本の刊行である。弊社では『独歩―辻清明の宇宙』(3万2400円 2010年8月)を刊行したが、キーンさんはその本に推薦文を寄せてくれたのだ。辻さんのご自宅は新宿から京王線特急で30分ほどの聖跡桜ヶ丘駅にあった。駅からタクシーに乗って15分ほど、山の中腹に傾斜を利用して建てられた立派なお住まいがある。玄関前にはちょっとした野外パーティもできる庭があり、竹林がある奥まった場所に登り窯がしつらえてあった。敷地全体には、桜の木を中心とした植栽がなされ、自宅から小道を少し下ったところには、立派な茶室も設えられているといった凝りようであった。


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弊社刊行の『独歩』

 この本には日本を代表する陶芸評論家、作家などから推薦文を頂いた。具体的には、「独歩の人 辻清明」として、頴川美術館理事長、菊池寛実記念智美術館館長などを務めた林屋晴三さん、「てのひらとゆびの?辻清明の器に寄せて」として詩人・谷川俊太郎さんの詩、「辻清明の陶業について」題して美術史家、京都大学名誉教授、金沢美術工芸大学名誉教授、兵庫陶芸美術館名誉館長であった乾由明さん、「陶器に関するエッセイ」と題して芥川賞作家の安部公房さん、そして掉尾を飾ったのが「辻さんの作品」と題してのドナルド・キーンさんの推薦文であった。キーンさんの英文原稿については、徳岡孝夫さんに翻訳の労を取って頂いた。キーンさんを偲んで、この推薦文を抄訳させて頂くことにする。

《初めて辻清明さんに会ったのは、四〇年近い昔で、辻さんと親しかった作家・安部公房さんに連れられてお宅に行き、二時間ほどいた。実はそれまで、辻さんのお名前は聞いたことがなかった。(中略) お宅で作品を拝見する前に、まず辻さんに会って話をした。私の先入観は一変した。辻さんは広く世界の芸術に興味と知識を持つ、面白い人だった。その後で登り窯を見せられた。窯の火はすでに電気、ガスなど、はるかに便利で効率的な火力が使われ始めていたが、辻さんは断固として薪に頼る人らしい。薪の持つ不確定さ、その不確定さがあるからこそ、薪は面白いのだと言った。焼成が正しく行われなければ、半年がかりの作陶の努力は無に帰す。伝統的方式を守る作家は、薪の具合と火加減に心を砕いていた。巧くいったとき、窯は作家自身の想像を超える名品を生み出す。(中略) 辻作品の魅力は、無理のない自然さ、一見すべての技巧を排した素朴さにある。それは、足元から掬い取り、他の陶芸家なら不純物として捨てたであろう小石や木屑も一緒くたに、土をそこに置いたという感じを与える。だがそれは、決して無技巧でも一瞬の閃きでもなく、長い思慮と努力に裏打ちされている。何気なくひねったように見える作品にも、そこには真の芸術家・辻清明の個性がしっかり刻印されているのである。》

 素晴らしい推薦文ではないだろうか。奇才・辻清明という陶芸家の作家魂を過不足なく伝えている。実に惜しい方を亡くしたものである。衷心よりドナルド・キーンさんのご冥福をお祈りしたい。

画家の堀文子さん

清流出版 (2019年3月27日 10:37)

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印象深く魅力的だった堀文子さんとの出会い
 
・日本画家の堀文子さんが2019年2月5日、心不全のため平塚市内の病院で死去された。100歳の大台に乗って、今後、ますますのご活躍をと期待していたのに、とても残念である。僕よりも、もっと悲しんだであろう人がいる。洋画家の野見山暁治さんである。2005年には「堀文子・野見山暁治二人展」をナカジマアートで開催しており、とても親しい関係にあっただけに、さぞやお力落としのことであろうと推測する。堀さんは野見山さんより二つ年上だった。お知り合いになって40年余りというから長いお付き合いであった。
  野見山さんは堀さんについて、次のように評している。「さっぱりと雄々しく、あんなにも艶っぽい、年齢知らずの女性はそうはいない」と……。そして堀さんの絵に対する姿勢もとても評価していた。キャンバスに向かうに当たって、堀さんは真剣さを欠いた絵は絶対に許せない、というスタンスを通した。だから、いい加減な絵を描く画家とは口もきかなかったという。そもそも堀さんは、画家同士のお付き合いを煩わしく思っていた節がある。もちろん、野見山さんは除いてではあるが……。会や団体に属していても、群れるということが一切なく、孤高の画家であったといえるだろう。  

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二人展での堀文子さんと野見山暁治さん
 
・堀さんは29歳で、役人にしては進歩的な考え方をし、柔軟性があった外交官の箕輪三郎氏と結婚する。1960年、42歳の時、その箕輪氏と死別する。翌1961年、初めての海外旅行に出かける。それも3年をかけて、エジプト、ギリシア、イタリア、フランスから、アメリカ、メキシコを放浪している。さらに1995年、77歳にしてアマゾンの熱帯雨林、メキシコのタスコ、マヤ遺跡を取材。1996年には、ポルトガル、1997年には、ネパール、1998年、80歳のときには、ヒマラヤ山麓、ペルーにインカ文明など、精力的に取材旅行を敢行したものだ。さらに驚かされたのは、翌1999年には、81歳にして、幻の高山植物「ブルーポピー」を描くために、ヒマラヤ山脈にスケッチ旅行をしている。
  ブルーポピーは、5000メートル以上の高地に咲く花といわれる。それもガレ場を好んで咲く花である。富士山よりはるかに高い標高であり、そこまで登らなければ見ることができない。これだけの高地になると、この花以外は咲いていなかったというから、やはり高山植物なのだと実感できる。厳しい岩場で咲く孤高のブルーポピーは、堀さん自身の姿勢とも重なり、代表作ともなっている。堀さんはこのブルーポピーを3枚だけ本画に残している。実はこのブルーポピーに注文が相次いだという。高地に毅然と咲いている見事な青い花に、魅力を感じるのは当然である。しかし、いくら頼まれても堀さんは、それ以上、このブルーポピーを描かなかった。描けば必ず売れるのにである。いかにも堀さんらしいエピソードではあるまいか。

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高山に咲くブルーポピー
 
・その堀さんを病魔が襲ったのが、2001年、83歳のときである。「解離性動脈瘤」という病に倒れたのである。奇跡的に自然治癒に至るのだが、闘病中は思うように動くこともできない。そこで堀さんは高解像度の顕微鏡を購入し、極微の世界に惹かれることになる。顕微鏡を覗きながら、微生物の世界を描くことに熱中したのである。「すべての生き物は等しくこの世に生きているのに、人間はあまりにも傲慢になった」と日頃からおっしゃっておられたが、命の根源に触れることによって、その思いを再認識されたのではないか。
  日本画という伝統的なジャンルに属する画家でありながら、堀さんの描く絵のテーマは自由自在であり、破天荒とさえいえそうである。羽切り蟻の行進を描いたかと思えば、蜘蛛の巣と女郎蜘蛛、さらには枝分かれする脳の血管などもテーマに絵を描いている。さらに、顕微鏡による極微の世界に惹かれたわけだ。ミジンコ、クリオネ、クラゲなどの命に、温かい視線を向けられている。《微生物やくらげの不滅の命に触れたことか、私の終わりへの不安を救ってくれた。》とも書いている。こうして新境地を開拓していったわけだが、なんと自由で柔軟な魂をもっている方であろうか。

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顕微鏡を見ながら描いたミジンコ
 
・堀さんの略歴にも触れておく。1918年、東京府麹町平河町に生まれる。永田町小学校、東京府立第五高等女学校を経て、女子美術専門学校師範科日本画部を卒業している。そもそも母堂は信州松代藩の士族出身であり、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に学んだ女性であった。長崎県に生まれの日本画家であり、写実による花鳥画を得意とした荒木十畝に絵の指導を受けたという。女子美術専門学校在学中の1938年に、第2回「新美術人協会展」に入選。1940年、女子美術専門学校を卒業し新美術人協会会員。『キンダーブック』(フレーベル館)、『ふたば』などで挿画や装幀をしたりして生計を立てる。  
  1967年、神奈川県大磯に転居する。1974年、創画会の結成に参画。 1974年に多摩美術大学日本画科教授に就任。その後、多摩美術大学客員教授として日本画の指導を行う。1999年に多摩美術大学客員教授を退任。 1981年に軽井沢にアトリエを構える。1987年にイタリアのアレッツォにアトリエを構える。1992年にアレッツオ市で「堀文子個展」を開催。2011年に女子美術大学より名誉博士の称号を得る。 2001年に解離性動脈瘤で倒れて以降、微生物に着目し、海中に生きる命をモチーフとする作品を発表する。これらの作品は画文集や個展で公開された。自然の中に存在する命や、花鳥をモチーフとする作品を多く制作し「花の画家」と呼ばれた。

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弊社が刊行した著者唯一の対談集
 
・弊社との関係でいえば、堀文子さんの著書の中で、唯一の対談集『堀文子 粋人に会う』を2009年に弊社から出版させて頂いた。お蔭様で増刷にもなり、この本を出させて頂いて本当に幸せだったと思っている。この本の「あとがき」に堀さんらしい記述があるので引用する。
《会話が成立する条件とは、ムダ話を面白く膨らませることができるかどうかだと思います。お互いの思いやりがどれくらいあるかということでしょうね。ムダは損だと思っている人たちがいますが、ムダは真理ですし、美はムダの中にあるものです。
  そういうムダ話をできる人が少なくなりましたね。自慢話が入ってはいけません。成功した人は、自分の功績をいいたがりますが、自慢したい気持ちを抑えるべきです。はにかむ心を持ち続けることです。ちやほやされることが当たり前になってしまったら危険です。》
  確かにこの本に登場している対談相手を見てみると、そのような含羞をお持ちの方ばかりである。対談者と対談テーマを紹介してみよう。
「人生に老後なし」で吉行あぐりさん(美容家)、「ムダ話の長電話」で山本夏彦氏(作家)、「わが師は自然」で鈴木治雄氏(経営者)、「明治の躾」で青木玉さん(随筆家)、「情熱よ、どこへ行った」で瀬戸内寂聴さん(作家・僧侶)、「草や木や風の声」で黒田杏子さん(俳人)、「稲妻のごとく」で山下洋輔氏(ジャズピアニスト)、「出たとこ勝負の潔さ」でタモリ氏(タレント)、「極微という宇宙」で坂田明氏(サックス奏者)などなど、実に多士済済で魅力的な人たちであり、テーマではないだろうか。
  そうかといって堀さんの対人関係の要諦は独特である。親しそうに見えたとしても、馴れはしないという姿勢が一貫しているのだ。
《本当のことをいうとき、相手を傷つけないでいえるようなセンスのある人は、会話の達人です。そういう方に惹かれますが、私は馴れ馴れしくはいたしません。群れない、好かれないことをモットーにしております。
  知り合いは沢山おりますが、友だちではございません。付き合いは水のように淡く、見え隠れがいい関係ですね。師も弟子も持たず、とぼとぼと一人歩き続けてまいりましたが、いつの間にか似たものが自然に集まるのが面白いですね。》と書いている。類は友を呼ぶ、とはよくいったものである。

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堀さんと坂田明さんの対談現場で
 
 ギネス世界記録を更新中の人気番組「徹子の部屋」の背景には、黒柳さんをモデルに堀さんが描いた気高いアフガン女性の絵が飾られている。しかし、実際にお会いし、お話したインパクトにはかなわない。僕はホテル・グランドパレスで行われた、堀文子さんと坂田明さんとのミジンコ対談「極微という宇宙」の現場に立ち会い、敬愛する堀さんとお話をすることができた。そのことをとても幸せに思っている。つくづく、惜しい方を亡くしたものである。衷心より、ご冥福をお祈りしたい。

小池邦夫さん

清流出版 (2019年2月26日 10:17)

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絵手紙講師を前に講演中の小池邦夫さん

・久し振りに小池邦夫さんについて書いてみたい。きっかけがある。実は、「あいつ今何してる?」というテレビ朝日(毎週水曜日、午後7時から)があり、9歳の絵手紙天才少女・山路智恵さんが登場していた。この智恵さんが初めて絵手紙をかいたのが、小池邦夫さん宛てのものだった。智恵さんの母堂が絵手紙を小池さんに師事しており、智恵さんが私もかきたいと始めたのだ。智恵さんは小学校入学と同時に、小池さんを受け手として毎日、絵手紙をかき始める。最初は、マジックで絵本の中の絵を真似てかいたりしていたが、筆を使うようになり、だんだん個性も際立ってきた。言葉がいいし、絵にも迫力が出た。作品も葉書サイズで収まらず、大きくなっていく。小池さんは、塾の講師などもしたことがあるが、生徒の才能を見出し、そして引き出すのがうまい。だからこそ智恵さんも、絵手紙を毎日小池さんに宛ててかいて、1000日、2000日と続けることができたのである。簡単に1000日、2000日というが、六年間かき続けたわけで、とんでもないロングランである。ちなみに『智恵の絵手紙1000日』『もしもーし小池先生 絵手紙2000日』ともに、単行本になっている。
 
・小池さんは、智恵ちゃんもそうだが、ちょっと惰性に流されているなと感じたり、ぐんと腕を上げたと感じた時など、節目節目に直筆の絵手紙をくれる。励ましであったり、お褒めの手紙だったりする。もらった側は嬉しいから、それを励みにまた頑張れるのである。実は智恵さんは、僕もよく知っている。平成12(2000)年の4月号から翌、平成13(2001)年の3月号まで、月刊『清流』に絵手紙の連載をしてもらったことがあるのだ。ナスやミョウガ、サンマや毛ガニなど、季節の野菜や魚介類などの絵に言葉が添えられていた。『清流』読者は中年以上の主婦が多く、絵手紙を楽しむ層とリンクしたので連載は好評を博した。現在、智恵さんは37歳になっている。今も絵手紙を続けている。2020年の「東京オリンピック・パラリンピック」に向け、外国人に東京の魅力を知ってもらうため、東京の見どころ100景を絵手紙にかいているとか。半紙程度の小さなものではない。畳2畳で一つの風景だから、大作ばかりである。小池さんの絵手紙精神でもあるのだが、どんな大きな作品でも、下絵はかかずにいきなり本番である。一気呵成にかききる。これが絵に迫力を生み、線にも緊張感が生まれる。豪雪地帯で知られる長野県栄村に、山路智恵絵手紙美術館があり、智恵さんは、そこの館長も務めている。小池さんの教え子がなんとも大きく育ってくれたものである。才能を見出し開花させた小池さんに拍手を送りたい。

 
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 余談だが、小池さんは40歳過ぎまで、塾で国語を教えていた。教科書通りに教えないから、父母から陰口を叩かれたこともあったらしい。しかし、塾の名声を上げることが起こった。小池さんの教え子が東大に入学したのである。国語力を高めるその方法を聞いて僕は驚いた。なんと小学生の生徒に毎日、自分の家で取っている新聞をスクラップさせた。朝日新聞なら「天声人語」、読売新聞なら「編集手帳」、産経新聞なら「産経抄」を一字一句たがえず毎日筆写をし、疑問点があった場合には、当該新聞社宛に投書をさせた。高学年とはいえ小学生である。習ってない漢字もあるし、難しい言い回しもある。が、とにかく毎日続けさせたのだ。確かにこれなら国語力はつきそうだ。思わぬ副産物も生んだ。というのは朝日新聞の天声人語氏が投書には大いに感動したらしい。しっかり読み込み、わからない点を質問してくるのだから。可愛い手紙がちょくちょく届くことになる。天声人語氏は、小池さんが依頼をしたところ、無報酬で塾を訪れ、2時間ほど講演してくれたそうだ。実にいい話ではないか。


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小池さんの個展会場でツーショット
 
 
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弊社刊行の2冊

・小池さんが、銀座・鳩居堂で個展をされていた時は、必ず見に行っていたのだが止めてしまわれたので、ここ数年お会いできていなかった。小池さんには弊社も大変お世話になった。刊行された小池さんの絵手紙関連本も十数冊にはなろうか。なんとか絵手紙コーナーを書店に設けたいの気持ちはあったが、残念ながら夢に終わった。小池さんが住む狛江市は、絵手紙発祥の地として知られる。小池さんの住まいは僕のマンションとごく近い。隣り組のようなものだ。昨年、『小池邦夫の絵手紙集 自分で光れ』が日本絵手紙協会から刊行された。小池さんの初期の絵手紙中心に編まれたもので、見ていて感慨深いものがある。37歳の時、季刊『銀花』に挿入するため、1年で6万枚の絵手紙をかきあげたが、その夜に最愛の妻・芙美子さんが天に召される。

 失意のどん底に落ちた小池さんは、半年間でたった31枚しか絵手紙をかけなかった。その血反吐を吐くようにしてかいた絵手紙を、小池さんは食べるために個展で売ろうとした。1枚たった2000円である。中学時代から親友の正岡千年さんは、作品がバラバラに散逸してしまうからと止めたそうだ。すると小池さんは、「わしゃあ百姓の出だ。人参や大根を売るのとおんなじだから売る」という。正岡千年さんは真の友である。個展初日に、この31枚すべてを買い取り、無くさないよう封筒に入れた。それを30年間持っていた。それを2010年の「絵手紙の日」が制定された日、亡き芙美子さんの教え子でもある今の奥さんの恭子さんに「記念だから」と渡したのである。小池さんの絵手紙の名キャッチャー、その正岡千年さんの本も出させて頂いた。小池さんとの50年間の友情がにじみ出ている本である。絵手紙はいいキャッチャーがいるから楽しいのだ。世界でたった1枚しかない絵手紙が届く。もらう側も、心がときめくはずである。


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名キャッチャー正岡千年さんの著書

・名キャッチャーといえば、小池さんは日本絵手紙協会の新企画として「自分で光れ」をテーマに1年間絵手紙をかき続けようと提案している。具体的には挑戦したい人は、絵手紙を受け取ってくれるキャッチャーを決め、日本絵手紙協会にエントリーするのである。エントリーすると「エントリー証」が届く。そしてキャッチャー役に宛てて、毎日かき続けるのである。小池さんはこの企画への参加者を50―60人くらいと予想したらしいが、実際は2月下旬の時点ですでに1000人を優に超えたという。5月まで募集されるというから、最終的には2000人を超すかもしれない。凄いパワーである。1年間かき続けて、達成報告書を提出すると、「小池邦夫のオリジナル達成証」がプレゼントされるという。小池さんは過去に1年間かき続けた人たち、また小池さんご自身の経験からして、1年間休まずにかき続ければ、相当、絵手紙に飛躍が認められると確信している。第二、第三の山路智恵さんも出てくるかもしれない

 小池さんが提唱した絵手紙精神「ヘタでいい、ヘタがいい」を見たり聞いたりしたことがあるかも知れない。実は僕もリハビリの一環として絵手紙に挑戦したことがある。いくら「ヘタでいい、ヘタがいい」といわれても、なかなか思い通りにはいかない。絵手紙にはお手本がない。自分で考えて描くしかない。小池さんはいう。「手本に頼ると一生、頼らないとかけない。それより、自分のヘタさに頼るほうがいい。そのヘタさに味があるのだから」と。人間にはつまらぬ見栄がある。上手にかきたい、褒められたいなどと邪念が湧いてくる。小池さんは、上手になったらつまらないという。その人のその人らしさ、味が出ればそれでいいという。僕はその言葉に励まされた気がして、気持ちが軽くなったことを覚えている。

・小池さんは、群馬県の上武大学で絵手紙を教えている。「手がき文化研究所」が学内にあり、その所長が小池さんなのだ。顧問には理事長の澁谷朋子さんが就任し、絵手紙の普及、手がき文化の調査・研究をしている。小池さんは、「直筆文化を廃れさせてはならぬ」の気持ちから引き受けたという。その成果が上武大学の「絵手紙ギャラリー&ミュージアム」開設で実を稔らせた。開設にあたり、上武大学理事長の澁谷朋子さんはこう書いている。
《「絵手紙ギャラリー&ミュージアム」を開設しました。小池邦夫先生の絵手紙を習い始めて22年、大学の美術の時間に絵手紙を導入し7年になりました。学生は絵手紙を楽しみ真剣に取り組んでいます。デジタル全盛の流れに逆らい手でかく喜びを味わう学生の姿を見て、手がき文化の大切さを教えられました。学生たちの絵手紙、地域の皆様の絵手紙、また小池先生の絵手紙などを展示し、皆様に見て頂きたいと考えました。》
 理事長の澁谷朋子さんは、昭和19年、群馬県生まれ。昭和42年、北里大学を卒業。昭和43年、日展評議員・徳野大空氏に書道を、深谷徹氏に油絵を学ぶ。平成4年、小池さんの絵手紙に出会い師事したのである。

 
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小池さんの書になる看板

 実は上武大学には硬式野球部員が230人いる。かなりの大所帯である。その全員が絵手紙を習っているという。そして、なんと絵手紙を習い始めて4年目、その硬式野球部が「第62回全日本大学野球選手権大会」で初優勝を飾った。実力はもちろん、歴史と伝統のある東京六大学野球連盟や東都大学野球連盟の代表校も出場している中で快挙といえる。硬式野球部監督は絵手紙を学んだことが大きかったと小池さんに謝意を伝えたという。小池さんは、飛躍し過ぎではないかと笑ったが、僕は一理ある気がする。というのも、絵手紙は自分をとことん見つめ直す手段として格好のツールだ。自分をどう発信すればいいか、個性を伸ばすにはどうしたらいいか、更には受け取った相手はどう思うかなど、精神的に成長を図る格好のツールなのだ。特にピッチャーとキャッチャーがお互い絵手紙交換を続ければ、以心伝心に極めて有用ではないか。現在、大学日本一になった野球部にあやかろうと、サッカー部員、駅伝部員も参加、運動部の男性陣だけでも400人超が絵手紙を学んでいるという。絵手紙を出す相手は、圧倒的に両親が多いとか。大学に通う息子から両親に絵手紙が届く。普通では考えられない。親は大喜びである。家族の絆も強まっていいことづくめである。小池さんの絵手紙が根付き、芽吹きつつある。今後が実に楽しみである。

小山明子さん

清流出版 (2019年1月25日 12:27)

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・女優の小山明子さんから年賀状をいただいた。新春のご挨拶が書かれた後に、小山さんがテレビ出演される放映予定が達筆でしたためられていた。それによると1月9日に『昭和偉人伝』がBS朝日系で、2月5日にはテレビ朝日系の『徹子の部屋』に出演される予定だという。僕は早速、見逃さないようにビデオ録画をセットしておいた。その後、しばらくして小山さんから、『徹子の部屋』の放送予定日が1月21日に早まったとのお知らせが届いた。僕は2月の一口メモで小山明子さんについて書こうと思ったが、今号に繰り上げることにした。印象が鮮明なうちに書いておきたいと思ったからだ。

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『徹子の部屋』、放送日変更を伝える葉書

・小山明子さんには、月刊『清流』に長く連載エッセイをお願いした。女優時代からのファンも多い上に、講演先などで月刊『清流』の定期購読を薦めてくださったこともあり、購読者数を随分増やしてもらったらしい。連載エッセイを元に、『しあわせ日和 大島渚と歩んだ五十年』(2010年)、『女として、女優として』(2011年)の2冊を刊行させていただいた。この本は話題にもなり、販売実績もよかったが、実は病院経営されていた小山さんの兄上には、何度もまとまった冊数を購入していただいた。大島渚監督の著になる単行本未収録のエッセイ集『わが封殺せしリリシズム』(2011年)も刊行になったが、これにも大いに感謝している。

・1月21日の『徹子の部屋』には、次男の大島新さんと出演された。新さんは、1969年生まれの49歳。早稲田大学文学部を卒業後、フジテレビに入社。「NONFIX」「ザ・ノンフィクション」などドキュメンタリー番組のディレクターを務めた。1999年、フジテレビを退社しフリーランスとなり、現在は、株式会社ネツゲンの代表取締役だ。驚いたことに小山さんはお洒落な杖をついていた。小山さんは、今年84歳になるが、昨年、転倒して尾骶骨の剥離骨折をされた。さらに心臓手術もされたとか。この番組の中でも少し触れられたが、長男の大島武さんは経営学者で、東京工芸大学芸術学部教授である。新さんによれば、2017年9月に行われた小山さんの乳癌の手術、そして、昨年の心臓手術など、いずれも術後に知らされたという。新さんは「いかにも母らしい」と苦笑されていたが、我がことは自ら決するという性格、いかにも小山さんらしいと僕は思った。

・心臓手術について小山さんは、大したことはなかったとお話されていたが、体力的にも覚悟が必要だったのではないかと推察する。可笑しかったのは、二人の息子さんは立派に活躍されているのに、小山さんからは多少不満があるらしい。女の子のほうがよかったというのだ。というのも、男の子は聞く耳を持たないという。女の子であれば、話し相手にもなるし、相談にも乗ってもらいやすいということらしい。新さんはこの発言にも苦笑していた。でも僕は、この下りを見ていて、心の裡をフランクに言い合える、とてもいい親子関係だと思った。男の子は頼りにならないどころではない。小山さんも認めていたが、大島監督の葬儀の際は、息子さんたちは大いに役に立った。それほど八面六臂の活躍ぶりだったとか。監督の七回忌だというが、介護は言葉では言い表されないほどの過酷さだったようだ。介護ウツになり、自殺を考えるまで追い詰められたこともあったのだ。
 
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弊社刊の2冊

・1月9日に放映された『昭和偉人伝』は、僕が知らなかった事もあり、興味深く見させていただいた。大島監督と小山明子さんの波乱万丈な映画人生と、夫婦愛の軌跡をたどるドキュメンタリーだ。戦後の映画界に現われた大島監督は、数々の傑作を手掛け、日本映画の黄金時代に名を連ねたお一人。小山明子さんもまた、女優として第一線で活躍してきた。大島監督は、6歳の時に父親が急死し、母親の実家がある京都へ移り住む。苦学して京都大学に入学。学生運動に情熱を傾ける一方、劇団を立ち上げ、演劇活動にもいそしんだ。大学卒業後は、松竹へ入社し、異例の若さで映画監督デビューを果たす。翌年には、『青春残酷物語』『太陽の墓場』が立て続けにヒット。時代背景や世相の暗部を抉り出し、話題を一身に集めた。ヒットをきっかけに、篠田正浩、吉田喜重らと共に“松竹ヌーベルバーグ”の旗手として人口に膾炙することになる。

・一方、小山明子さんは、神奈川県立鶴見高等学校卒業後、ファッションショーに出演し『家庭よみうり』のカバーガールがきっかけで、スカウトされ松竹入りした。1955年(昭和30年)に松竹映画『ママ横をむいてて』で女優デビュー。当時、松竹の助監督だった大島渚と仕事を通じて知り合い1960年(昭和35年)に結婚する。小山さんの芸達者ぶりは僕の記憶に新しい。花登筺原作のテレビドラマ『道頓堀』(1968年)では、往年の浪速情緒あふれる大阪の女性を演じ、1976年(昭和51年)放送のテレビドラマ『あかんたれ』でも、明治・大正期に格式の厳しかった大阪船場の成田屋のご寮はん(お久)を演じて注目を集めた。1978年(昭和53年)には『続あかんたれ』が製作されたが、前作同様にご寮はん役を演じている。

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『日本の夜と霧』のポスター

・大島監督がメガホンを取り、小山明子さんも出演した1960年製作の『日本の夜と霧』は、当時の社会情勢を反映した意欲作だった。しかし、公開からわずか4日で上映が打ち切られた。その余波で、晴れの結婚式の祝辞は、松竹への呪詛が相次ぎ、台無しになってしまったという。松竹との関係はその後泥沼化、大島監督は独立を決意し、小山さんもその後を追う。松竹を辞めた2人は、プロダクションを設立するも業界からは干されてしまう。独立の直前に結婚した2人の門出は、経済的にも困窮し波乱の幕開けとなった。

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弊社のクレジットを観てほしい

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この番組、弊社の広告になっている

・その後、息を吹き返した大島監督は、1971年、『儀式』で「キネマ旬報」の第1位にランクインし評価を高めていく。「阿部定事件」を題材に、男女の愛欲の極限を描いた『愛のコリーダ』で世の話題をさらうと、1978年には、『愛の亡霊』でカンヌ国際映画祭の監督賞を獲得。かつて5年間で360通に及んだ小山明子さんとの手紙の中で、世界に通用する映画監督となってカンヌ映画祭へ連れて行くと誓った監督が、ついに世界にその名を轟かせることになった。さらに、1983年公開の『戦場のメリークリスマス』では、ビートたけしや坂本龍一、デビッド・ボウイなど異色のキャスティングで話題を呼んだ。初めて映画音楽を担当した坂本龍一は、英国アカデミー賞作曲賞を受賞している。

・好事魔多しとはよくいったもの。大島監督がイギリス・ロンドンの空港で脳出血に見舞われたのは、1996年のことであった。余談だが、僕が第1回目の脳出血で倒れたのも、1996年のこと。だから僕は勝手に大島監督を戦友だと思い、親しみを感じていた。話を戻そう。仕事中だった小山さんは、すぐに駆け付けられず自分を責めた。女優を休業し、先行きの不安を抱えて献身的に介護を続けた。やがて後遺症は残ったものの、復帰を果たした大島監督は、映画『御法度』を制作する。カンヌ映画祭で『御法度』は高い評価を受け、平穏な日々が訪れると思った矢先、再び病に倒れてしまう。


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・2013年(平成25年)1月15日、大島監督は肺炎により80歳で死去する。奇しくも小山さんの18年ぶりの舞台出演となった「女のほむら」初日の前日であったため、最期を看取ることが叶った。舞台への出演は監督も知っており、応援していたという。 17年間という長年に渡った介護の末であった。小山さんは大島監督の亡くなった翌日も、気丈に舞台の主役を務めた。舞台終わりのインタビューでは、時折涙で声を詰まらせながらも、亡き夫に対して「ご苦労さまでした。もう何も悔いはありません」と応えている。葬儀では喪主を務め、数多くの参列者へ感謝の言葉を述べた。
 
・一人の妻として介護に専念できたのは、偶然、新聞広告で見つけた一冊の本のおかげという。ドイツの哲学者で神父のアルフォンス・デーケンの『よく生き よく笑い よき死と出会う』で、中に出てくる「手放す心」という言葉が心に響いたのだ。監督も女優もない。一人の人間として、身体の不自由な夫を支えていくだけ。女優には代わりがいるが、妻は自分一人だけと思えるようになった。これまで見えなかったことに気付き、感謝の気持ちが込み上げてきたという。17年は監督のために生きた小山さん、未亡人になれば、一人でどう生きるかを考えなければならない。自分の生きた証しを残したいと思うようになったというのは、僕も理解できる。小山さん自身、乳癌になり、心臓の病を患い、人間なんていつどうなるか分からない、と肝に銘じたのである。
 
・小山さんは、自分が認知症になった場合のことまで、二人の息子さんに伝えてあるという。「ある日突然、『あなたはだあれ』と言ったとしても、私の心は生きているからね。『大好きだよ』といって手を握ってちょうだい」。そして施設の入るよう手配をしてほしい、と。小山さんは、家で監督を看取ったが、その大変さを息子夫婦には味わわせたくない親心が透けて見える。だから自分が認知症になったら、介護の専門施設に入れてほしいというのだ。そのための費用は用意してある。ただし、「入れっ放しにしないでね」というのが小山さんらしい。見舞いには、好きな花やチョコレートを所望するとともに、好きな音楽もかけて、と要求済みだとか。人工呼吸器や胃ろうなどの延命治療も勿論希望していない。
 
・大島監督の部屋は今も当時のままという。「毎朝ご飯をあげたり、お花をあげたり、いろんなことを報告したりしています。映画監督だったので、作品に関連し、何かにつけて、いろんなことを思い出させてくれます。その意味で彼は私の心の中に生きています」。しみじみと夫婦愛の深さが伝わってくる。残りの人生をよりよく生きるため、葬儀や墓、遺言や遺産相続などまで元気なうちに準備する。見事なまでの小山さんの終活である。これからは、人のために役立つ生き方をしたいという。東日本大震災で福島の人たちを支援する「未来・連福プロジェクト」へ参加したのもその一つ。聞けば、「ローマの休日」が大好きで、オードリー・ヘプバーンの大ファン。ある時、彼女がアフリカ難民の子どもと一緒に写っている写真を見てショックを受けた。女優を辞め社会支援活動をしていたオードリーは、顔がしわだらけで、かつての面影はなかった。しかし、とてもいい笑顔で、「大女優だった人が、こういう生き方ができるんだ」と衝撃だったという。小山さんはわが道を切り開いて貫く方である。これからも、僕は陰ながら応援したいと思っている。

我が敬愛する野見山暁治さん

清流出版 (2018年12月18日 16:13)

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野見山さんと僕

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「こころの五手箱」――画家・野見山暁治(日本経済新聞・夕刊、12月3日から7日まで)

・洋画家・野見山暁治さんについては、僕自身の思い入れも強く、この欄に最も多く登場して頂いた。今年も1月号は「野見山暁治さん」から始まっている。掉尾を飾る12月号が再び「野見山暁治さん」となるわけだ。野見山さんは、御年98歳になられる。軽い脳梗塞を患ったとの話も漏れ聞こえてきたが、すでに元気にお仕事を再開されている。野見山さんの文章のうまさについては、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した『四百字のデッサン』(河出文庫)などでも証明済みであるが、先日も日本経済新聞(12月3日から7日まで。各夕刊)の「こころの五手箱」の連載エッセイは楽しみに読ませて頂いた。野見山さんらしい軽妙洒脱なタッチで書かれていた。
  この中の12月5日付けコラムで、明治生まれのフランス文化研究者・椎名其二さんについてお書きになられている。椎名さんといえば、僕は大学時代、直接ご本人にフランス語や文化、生き方等を教えて頂いただけに懐かしさが込み上げた。椎名さんが71歳、僕は大学一年生で18歳であった。生活は窮乏状態だったが、「アミチエ(友情)は大いに受けるが、モノとかカネの援助は要らない」を信条とし、毅然として清貧の道を歩んだ方だった。

・野見山さんのパリ留学は31歳のときである。パリに着いた1952年から、椎名さんが亡くなる75歳まで、ほぼ10年間のお付き合いだったという。野見山さんの若かりし頃は、画家であれば、ほとんどみんながパリに行きたいと思っていた。日本国内では、本物の絵を見る機会がほとんどなかったこともある。しかし、そう簡単には行けなかった。外務省に行ってパスポートを申請しようとすると、絵描きには出さないと断られたという。日本は貧乏国家であり、外貨を少ししか持っていなかったからである。新聞社の特派員、文部省からの研究派遣でもないと行けなかった。
  野見山さんは、奥さんの陽子さんが見つけた新聞に「フランス私費留学生募集」の記事を見つけ、審査に通った後、長男として遺産を前倒しで欲しいと親を説得し、ようやくパリ留学を果たしたという。留学時代、野見山さんは、仲間から“プティ椎名”というあだ名を付けられた。椎名さんの生き方に惚れ、影響を受け過ぎていたから、そんなあだ名を付けられたのである。
  椎名さんの住まいは、サン・シュルピス教会近くの、職人の仕事場が連なる倉庫の奥、半地下の棲家だった。部屋には製本機が1台置かれ、椎名さんは、革張りの製本をする仕事で糊口をしのいでいたのである。野見山さんはこの夕刊のコラムで、その頃の椎名さんの人となりを軽妙洒脱な文章で描いているが、スンナリと伝わってくる。例えば、こんな下りがある。
  ……(椎名さんは)赤貧洗うがごとしの生活だが、わずかな金が入ると僕らを誘って食肉店へ行く。しばらくぶりの上等な肉を手にすると店のおやじに軽口をたたく。椎名さんがステッキを持ちあげ、ゆっくりと指し示す。あの肉が最高だ。“二等の肉を寄越こしたな。そっちのもっと上等な肉……なんだ君の女房だ”……
  この描写のなんと見事なことだろう。椎名さんはご機嫌なときには、よくこんな軽口を叩いたものだった。僕は椎名さんを直接知るだけにイメージも湧き、思わず吹き出しそうになった。ユーモア好きだった椎名さんは、『Le Rire』(笑うという意味)の雑誌を集めていて、何冊かをまとめて、革張りの本にしていたほど。椎名さんは、最後にこの本を譲ってくれた。お蔭で挿絵を眺めているだけで人物でも風景でも絵の発想が浮かんでくると野見山さんが言う。

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椎名其二さんと僕(1958年の頃)

・12月7日付けの日経新聞コラムでは、野見山さんの個展会場でよく見かけるあるものが出てくる。ご本人が「ずっと後になって、衣類をたたきつけて洗濯するアフリカの道具なのだと聞かされたが、僕にとって用途はどうでもよかった。形が生き物のようで、今にも起き上がって歩きだしそう」だと思ったからと書いている。なるほど生き物のような佇まいに惹かれた、という野見山さんの感性には驚かされた。「僕はモノにも人にも、あまり愛着を持たない。戦争の影響というわけではないが、どこか愛情が薄い気がするのだ」と自身を振り返っている。これまでのお付き合いからして、僕も野見山さんは、そういうものには恬淡としているように思う。

・ここで椎名其二さんをご存じでない人のために、略歴をご紹介しておく。明治20(1887)年の生まれ、昭和37(1962)年にお亡くなりになった。美人の産地で知られる秋田県仙北郡角館町のご出身。早稲田大学文学部を中退し、ミズーリ州立大学新聞科を卒業した。セントルイス、ボストンなどで記者生活の後、大正3年に渡仏。社会学者のポール・ルクリュと出会い、その学僕としてアナーキズムの洗礼を受ける。南フランスを放浪中、マリー・ドルバルと結婚。第1次世界大戦中はパリの火薬工場で働き、大正11年妻子とともに帰国した。早稲田大学で教鞭をとり、ファーブルの『昆虫記』を翻訳している。
  昭和2年に再び渡仏し、以後、30年間をパリで過ごす。第2次大戦後は製本業を営み、パリ市民から親しまれた。昭和32年10月、日本に帰り『中央公論』に「自由に焦れて在仏40年」「パリで知った黒岩涙香」「石川三四郎のこと」などを書き、「声」に農民作家エミール・ギヨマンその他を発表、ラクロアの『出世しない秘訣』(ジャン=ポール・ラクロワ作、椎名其二訳、理論社刊、1959年)を翻訳して話題となった。しかし日本は肌に合わず、昭和35年12月、またフランスへ戻り、ルクリュ家で余生を送った。

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懐かしの長島葡萄房で、野見山さんとツーショット

・フランスへ戻りと簡単に書いてしまったが、これがなかなか大変だった。類い稀な知性とユーモアに溢れた椎名老人が、翻訳印税を手にしたとはいえ、他に確たる収入もない。日本での生活も楽ではなかった。だからフランスに帰る旅費を工面するなど、できるはずもなかった。その頃、野見山さんは37歳になっていて、パリに住み絵を描いていた。椎名さんの窮状を見かねた野見山さんが、助け舟を出す。自分が描いた絵を売って、旅費の足しにと考えたのである。その時点で僕は、まだ野見山さんとお会いしたことはなかった。野見山さんの絵を1点購入し、いくばくかの旅費を負担しただけだった。その後、野見山さんは、1964年にフランスから日本に帰国された。そして、詳しい日時は忘れてしまったが、ようやくこの義侠心に厚い気骨の画家にお会いできた。このことは僕の人生にとって、望外の幸せだったというしかない。

・実は、野見山さんから、堀江敏幸氏のエッセイ『傍らにいた人』(日本経済新聞社刊)挿絵――「野見山暁治カット展」のご案内を頂いたので、臼井君と出掛けることにした。場所は表参道沿いにある「表参道ヒルズ同潤館302」とある。なんとお洒落な場所で、と感心した。そういえば、野見山さんは、東京メトロ・明治神宮前駅(原宿)交差点口に向かう駅構内に『いつかは会える』と題した大きなステンドグラスの壁画を描いている。このステンドグラスの絵は、87歳にして初めて挑戦したものだった。昨年も、故郷の炭鉱町・福岡県飯塚市の新庁舎正面玄関横に、やはり大きなステンドグラスの絵を描いている。小さい頃は、日が暮れるまでぼた山で遊び、煤で真っ黒な川で泳いでいたという。この絵はそんな野見山さんなりの炭鉱町をイメージして描いたものだというが、それにしても大作である。百歳を間近にしてこのバイタリティには脱帽するしかない。

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堀江敏幸著『傍らにいた人』(日本経済新聞社刊)

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野見山さんの個展会場である洒落た「ギャラリー412」の入口

・さて、個展会場であるが、新聞掲載のカットが四方の壁に所狭しと並んでいる。金曜日にも関わらず、初日とあって野見山ファンが多く詰めかけていた。著書も何冊か平積みされ、販売されていた。僕がいつも感心するのは、野見山さんのタイトル付けである。カットの小品につけられた題名が、実にお上手なのだ。抽象画風の絵なのに、タイトルと絵がピタリとマッチしているように思えるのだ。例えば「風景のような」「誘われただけ」「言いたいことばかり」といった魅力的なタイトル。カットも不思議なものが多いが、タイトルにも大いにそそられるのである。僕は日本経済新聞連載時に、照らし合わせて見ていたわけではないので分からないのだが、内容と面白くリンクさせて描かれていたものであろう。



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個展の会場風景

・野見山さんは、これまでも社会的意義のある活動をしてこられた。昨年、長野県上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」で毎年開かれてきた画学生をしのぶ「無言忌」が、6月4日の20回目をもって最後となった。最後とあって、通常の3倍もの出席者があったらしい。とにかく戦没画学生の親族・関係者も高齢化しているので、仕方がないことであった。これまで携わってきた窪島誠一郎さんと野見山さんには、本当にご苦労様でしたと言いたい。

・最後に、野見山暁治財団(理事長・窪島誠一郎)の公式ホームページを覗いてみると、近況が公表されていた。現在、連載中のエッセイが2本ある。『美術の窓 』(生活の友社刊)に「アトリエ日記」を、『こころ』(平凡社刊) に「記憶のなかの人」が連載中だという。また、新刊予定では、野見山さんが絵を描いた『新美南吉 絵童話集』(星の環会刊)の発売が近々予定されているとか。まだまだ意気軒高であり、精力的に走り続けている野見山さん。まさに僕にとって、仰ぎ見続ける大先輩といえよう。否、東京藝術大学名誉教授、文化功労者、文化勲章受章の方に「大先輩」と言うのは、あまりも礼儀知らずだが、野見山さんだったら、許してくれると思う。

山内邦雄さん、田村紀男さん、佐藤徹郎さん

清流出版 (2018年11月29日 15:55)

●山内邦雄さん

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・11月某日、僕の小学・中学校の同級生であった方から論文(小冊子)と書状をいただいた。この論文に目を通して見ると、ここ8年来、山内さんが慶応義塾大学大学院で西洋史を勉強され、その成果をまとめたものだった。慶応三田史学会の研究誌『史学』(第87巻第4号、平成30年9月刊)で掲載されたもので、タイトルは『16世紀前半におけるフランス王国財政の転機――財務官僚ジャック・ドゥ・ボーヌの事例を通して――』となっている。興味を引かれたものの、僕が詳しい世紀の話ではなかった。中学校の同級会で山内さんと会った時は、通り一遍の話しかしていない。山内さんは定年まで、みずほ銀行パリ支店に駐在し、その後、縁故の企業で働いていたことは知っていた。そして70歳を期して仕事を終え、人生の総仕上げとして好きな学問に邁進されたのであろう。今回、78歳にして、慶応三田史学会で論文として集大成したのだ。僕としては、山内さんの不屈の向学心、自己研鑽、その生き方に「あっぱれ!」という誉め言葉しか浮かばなかった。

・早速、その論文だが、浅学菲才の上に僕が得意とする世紀の話ではないので、ほんのさわりだけに留めおくことにする。
 16世紀前半→フランス王国財政→財務官僚ジャック・ドゥ・ボーヌを紹介したい。まず、冒頭の《1527年8月12日、元王国財務責任者ジャック・ドゥ・ボーヌ(1452―1527)がパリ・モンフォーコン刑場で絞首刑に処せられた。国王や王太后の信頼を得て、平民出身ながらサンブランセ卿という地位まで賜った彼の処刑は、フランス社会に大きな反響を呼んだ》という文章が目を引いた。論文の冒頭に、これから扱う主人公が亡くなったことから始めている。導入部の見事な掴みである。

 彼を死刑に追い込んだものは何であったのか、それが、山内さんの論文では、《第1章で研究史を概観し、第2章で中世の枠組みを残すフランソワ1世治世初期の財政制度を考察した後、第3章でジャック・ドゥ・ボーヌの上昇と財務官僚としての活躍を取り上げ、第4章で彼の失脚と背景、さらに裁判を分析する》構成を採用している。全体像を俯瞰して、読者が分かりやすい章立てになっている。

・この後、山内さんの論文は、ジャック・ドゥ・ボーヌの生涯を通して、フランソワ1世治世初期のフランス王国財政の変化を詳細に論じた。彼は何故、極刑に処せられたのだろうか。当時のフランソワ1世が置かれた状況が、大きく影響していたと考えられる。《フランソワ1世にとり、豊富な軍事費を持つためには、財源の拡大だけでなく、横領・不正の疑いのある財務官僚を追放して、新しい財務官僚を構築することが急務であり、制度改革を徹底するためには、ジャック・ドゥ・ボーヌの処刑が妥当と考えた……云々》 
 論文中から興味深い段落を紹介してみよう。
《それではリヨンの銀行家のフランス国王向け融資残高はどの程度あったのだろうか。1522年2月末王令にあるジャック・ドゥ・ボーヌへの債務157万リーヴルが一つの指標となろう。……この中には60万リーヴルの国王のナポリ資金と王太后の個人資金10万リーヴルが含まれているので、純債務額は87万リーヴルとなる。……この金額はリヨンの銀行家の国王与信限度に近づきつつあったのではないだろうか。王の返済遅延により、銀行家自身の資金繰りも悪化し経営は苦しくなっていた。加えてピコッカの敗戦は、フランス王国に対する彼らの見方を変え、国王に対する融資態度を慎重にさせていた。かくして王の変わりやすい外国人施策、寄付金の延滞、限度額に近い債務残高、敗戦による国王与信への危惧は、1523年以降リヨンのフィレンツェ人銀行家の融資を停止させたのである》――

・この他にも、まだまだ興味深い話が出てくるが、ここで引用するには長過ぎるので、ひとまず終わりにしたい。いずれにせよ、いずこも国王に忠実な財務官僚だったがゆえに責任がのしかかり、結局は、詰め腹を切らされる羽目になっている。歴史は繰り返される、としかいいようがない。
 山内さんの論文は、僕にとって大いなる刺戟となり、今から60年ほど前、僕も大学で勉学に励んでいた頃のことを思い出した。僕は早稲田大学のゼミで、増田富寿教授の指導を受けていた。増田先生は英独仏露の四か国語に堪能だった。卒論は、「世紀は問わず、外国の文献を使って、各々、興味を惹く経済史を論ぜよ」との課題だった。僕は「18世紀のフランス経済史」を選んだ。ゼミの仲間たちはそれぞれ、ドイツ語やロシア語のテーマを選んだ。だが、4年生の冒頭、増田先生はロシアからの要請で長期的にロシアに滞在を強いられ、ゼミなし、成績もなしの結果になった。僕は卒論にピッタリのアンリ・セーの原書を見つけ、張り切っていたが空回りに終わった。あの時、真剣に勉強していれば、山内さんの論文テーマももっと深く理解できたことだろう。

・山内さんといえば、お嬢さんの山内由紀子さんの翻訳本を、月刊『清流』で取り上げたこともある。その本は、『ひとりヴァイオリンをめぐるフーガ』(テディ・パパヴラミ作、山内由紀子訳、藤原書店刊、2016年)という本だった。アルバニア出身のヴァイオリニストが、共産主義政権下の母国からフランスへ亡命し、小説の翻訳などに活動の場を広げた波乱の半生をつづったものだった。由紀子さんは東京大学教養学部フランス科を卒業後、アメリカに渡り、ニューヨーク州立ファッション工科大学を卒業された才媛である。パリ、ルクセンブルク、ニューヨークで生活したこともあり、今後、そうした生活体験も生かして名翻訳家の道を歩まれるものと確信する。
 また、山内邦男さんの兄上は山内太郎さんで、早稲田大学高等学院の僕の2年先輩にあたる。部活で「短歌研究会」に所属し、『蓮華』(れんげ)誌の同人であった。ある時、太郎さんから頂いた『蓮華』誌上に、河出書房の御曹司・河出朋久さんが短歌を詠み、それが掲載されていた。「河出まこと潰れるものか人々よ……」と、河出書房の第1次倒産に際した心情を吐露したものであった。この時、僕は、将来、就職先を考えた場合、出版業界は赤信号とまではいかないにしても、黄色信号が点っているかもしれない、と感じたものだ。

・それから7年の歳月が経ち、僕は就職活動の結果、映画会社と出版社に内定をもらった。しかし迷いに迷い、どちらか決めかねていた。困った末に僕は、内定した2社ともに辞退し、大学院に行きたいと方向転換をしようとしたのだ。すると大学の就職課では、「そのようなことをしたら、今後、早稲田大学の学生を採用はしてくれなくなる。どちらかに決めなさい」と大いに怒られ、結局、出版社のダイヤモンド社を選んだ経緯がある。7年前の高校生の時、出版社を避けたいと思っていたことは、すっかり失念していたのである。

山内邦雄さんは、小・中・高・大学の友だちの中でも、特に好感度が高く、得難い親友だと思っている。そして同級会でお会いした時、山内さんが僕に言った言葉が忘れられない。「今日一日生きているのは、すなわちモーツァルトを聴けることだ」と言ったのだ。大のモーツァルトファンである山内さんは、演奏家も古今東西、モーツァルトの曲想を活かせる演奏家から選びたいと話す。僕もモーツァルトは大好きだが、山内さんのように、注目する演奏家が、新しいCDを出すたび購入して聴き惚れる情熱には、脱帽するしかない。


●田村紀男さん、佐藤徹郎さん

・ダイヤモンド社の社長をされたこともある田村紀男さんがお亡くなりになった。わが社の月刊『清流』で校閲を担当してくれている茂原幸弘さんが、「ダイヤモンド社に赴いた際、社内の提示で知った」と10月11日に伝えてくれたものだ。田村さんは手抜きせずに全力投球の人であり、遊びでも仕事でも、親しい仲間としてともに過ごしてきただけに、ポッカリと胸に風穴が開いたような寂量感に襲われた。
 その知らせはこう続いた。「すでにお聞き及びかとも存じますが、ダイヤモンド社元社長の田村紀男さんが、9月25日に急逝されたとのこと。小生は、ダイヤモンド社に赴いた際に、社内の掲示で知りました。写真を添付いたします。そこにある通り、ご葬儀等は既にお身内で済まされたようです。ダイヤモンド社の社員から聞いた話では、田村さんはご自宅で、料理をしようとして、台所に向かって歩いている途中で、突然倒れられたとのこと。小生も田村さんには大変お世話になりましたので、この度のことは本当に驚いております。心より、ご冥福をお祈りいたします」
 僕は、びっくりして、ダイヤモンド社で同僚だった佐藤徹郎さんに電話した。徹郎さんも葬儀が済んでから、ご家族からの知らせがあったそうで、葬儀には出ていないという話だった。

・田村さんは昭和15(1940)年、秋田県秋田市の生まれ。秋田高校から早稲田大学を卒業後、ダイヤモンド社に入社した。出版部長、取締役を経て、平成12(2000)年に代表取締役社長になっている。4年後、社長を退任して出版プロデュース業や講演をなさっていた。田村さんの生い立ちでは、直木賞作家の和田芳恵さんの甥筋であることが特筆される。そして、その和田芳恵さんの娘・陽子さんは、田村さんのいとこだが、詩人・筑摩書房取締役の吉岡実さんに嫁いだ。僕は、田村さんと吉岡実さんとの関係をまったく知らずに、吉岡さんとは何回も同席する機会を得た。
 その機会は、僕の先輩であった龍野忠久さんや新潮社の『藝術新潮』編集長・山崎省三さんが呼びかけたものだった。構成メンバーとしては、美術評論家・瀧口修造さん、詩人・吉岡実さん、美術評論家・大島辰雄さんがトリオで集まることが多かった。青木画廊の展覧会を観た後、他の銀座の画廊や展覧会、さらに各種イベントに集う時に、よく声をかけられた。コーヒー、食事はもとより、特にお酒が入ると大いに談論風発し、楽しい集まりであった。このメンバーでは、僕だけが若輩者で、可愛がられ、引き立ててもらった。なんという幸せな一時を過ごしたことだろう。

・田村さんは毎月、ダイヤモンド社近くの虎ノ門書房で購入した、『群像』、『文学界』など文芸雑誌を購読されていた。仕事上では経済・経営的なものを扱うので、文芸誌にくつろぎを感じていたと思われる。周りの小説家や詩人といった文学系の濃い血がうずいたのではないか。また、月刊『清流』で創刊号からつい最近まで長く執筆を続けてくれた茶道家・鈴木晧詞さんのことを、30代初めに僕に紹介してくれた。鈴木さんは、日本大学藝術学部を卒業し、和田芳恵さんに師事された。その後、鈴木さんは、曽野綾子さん、三浦朱門さんとの知遇を得ている。
 田村さんが社長になって3年後の平成15(2003)年、秋田高校の同窓会で『出版業界事情あれこれ』と題し、講演をされている。このことを僕はインターネットで検索して見た。その同窓会メンバーの中に、弊社からも1冊出させていただいた「若い根っこの会」の加藤日出男さんのお姿を観た。加藤さんは、進学された東京農業大学で「大根おどり」を創案した方だ。

・そして、田村さんはお亡くなりになる4か月前、秋田高校東京同窓会報に特別寄稿として『秋田出身の文学者たち』と題し、文を寄せられた。その中で、新潮社を創業した佐藤義亮氏や中央公論社の名編集者・滝田樗陰氏を取り上げて紹介している。また、秋田出身の女流小説家・矢田津世子さんや山田順子さんにも触れられている。和田芳恵さんの甥だけに、血筋か文章が生き生きとし手慣れた感じを受けた。僕もある時、角館にある「新潮社記念文学館」を訪れ、あの懐かしい椎名其二さんや石川達三さんを紹介するパネルを前にし、しばし立ち止まり、ご冥福を祈ったものだ。
 田村さんは仕事もできたが、遊びも仲間を募り、率先して遊んだ。将棋、麻雀、競馬、競輪などに熱中した。毎日のように麻雀をしたが、終電車がなくなると、田村さん、佐藤徹郎さん、僕の3人はタクシーで帰宅した。後には雀荘『樹林』の三郎さんの運転する車で、多摩センター(田村宅)→八王子西武北野台(加登屋宅)→西八王子(佐藤宅)の順で下ろしてもらい、御前様まで遊んだものだ。そして田村さんの段取りで、夏には新潟競馬、福島競馬に、冬は小田原競輪や伊東競輪に出掛けるなど、約10名近い遊び仲間は、徹夜で各種ゲームを楽しんだ。囲碁は佐藤徹郎さんと三枝篤文さんが、あまりにも強くて勝負にならず、田村さんも全員で遊べるゲームを選んだのだろう。遊びの面でも本当に名幹事ぶりが際立っていた。

・その佐藤徹郎さんが、11月の雨がそぼ降る日、わが社を訪ねてくれた。藤木君や臼井君のほかに4名の総勢7名で、中華料理店で昼食を摂ったのだが、その席で徹郎さんの話を聞くことができた。徹郎さんは、ダイヤモンド社の創立80周年記念事業で、『日本の伝統工芸品産業全集』(1991年)という後世に残る、貴重な豪華本を編集担当している。その時、編集や販売の戦略で手伝ってくれたのが田村紀男さんだったという。そのことを懐かしそうに話してくれた。

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佐藤徹郎さんと僕

・徹郎さんは農業に対する造詣が深く、第一次産業の衰退に早くから警鐘を鳴らしていた。ダイヤモンド社時代も、「経済誌の専門出版社である弊社が、どうして農業本など出さなければいけないんだ」といった営業からの逆風もなんのその、剛腕とも言えるような力づくで出版したものだった。実際、販売実績が良かったこともあり、営業は沈黙を余儀なくされたのである。
 清流出版からも何冊か、農業関連本を出させて頂いた。都合3冊あり、佐藤藤三郎さんの著になる『やまびこ学校ものがたり あの頃こんな教育があった』、星寛治さん著『耕す教育の時代 大地と心を耕す人びと』、山下惣一さん著『農から見た日本 ある農民作家の遺書』である。

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・徹郎さんが伝統工芸の豪華本を編集していた頃の僕はといえば、1991年にダイヤモンド社を去り、清流出版の立ち上げに、苦心惨憺していた時期である。出版業界に殴り込んで、旋風を巻き起こしたい、という熱い気持ちを胸に秘めていた。その頃のことが懐かしく思い出される。お蔭で二度、脳出血になり、一命を落とすかと思ったが、右半身不随と言語障害で済んだ。思い通りにはいかず、忸怩たる思いが去来するが、すでに清流出版も四半世紀という歴史を刻んだことになる。僕自身、信じられない思いである。願わくば、志を胸に刻んだ僕の後継者たちが、輝かしい未来を築いていって欲しい、そう心から願ってやまない。

堤未果(つつみ・みか)さん

清流出版 (2018年10月26日 15:44)

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堤未果さんが新刊書、『日本が売られる』(幻冬舎新書)を寄贈してくれた。
 
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堤未果さん。12年前の2006年来社時に撮影

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宇宙物理学者・佐治晴夫さんとの対談集『人はなぜ、同じ過ちを繰り返すのか?』(清流出版刊)

・新進気鋭の国際ジャーナリスト堤未果さんは、弊社からは1冊、宇宙物理学者・佐治晴夫さんとの対談集『人はなぜ同じ過ちを繰り返すのか?』を出版させて頂いただけなのに、律儀にも新刊が出る度に贈ってくれる。義理がたい人である。この10月に発売されたばかりの、『日本が売られる』(幻冬舎新書)という衝撃的なタイトルの本が届いた。内容も衝撃的だ。日本は水と安全はタダ同然であり、医療と介護は世界でもトップクラスだが、今、その日本を内側から崩壊させんと外資系企業が魔手を伸ばしているというのだ。米国、中国、EUの多国籍企業群というハゲタカどもが、日本を買い漁っている。それは水の利権であり、米であり、豊かな海や森林や農地、国民皆保険に公教育、食の安全から果ては個人情報などまで、日本が誇る貴重な財産が叩き売りされつつあるというのが、この本の趣旨である。

・未果さんは、フェイスブックやツイッターでもタイムリーに情報を発信している。ツイッターのフォロワーはなんと36万4373人となっており、その人気のほどが伝わってくる。ツイッターでのやりとりを読むと分かるのだが、20代、30代の若者が特に熱心にフォローしているようだ。ツイッターから何人かのコメントをご紹介してみよう。

<「日本が売られる」が歩いて行った秋葉原の本屋に無くて、靖国通りを更に歩き神保町の三省堂で発見し購入。近所のカフェで読んでいるが、怒りがふつふつと湧いてくる…。>
<Twitterでご推薦いただいた“日本が売られる”(堤未果・著、幻冬舎新書)を購入しました。「まえがき」からして面白そうです。これからゆっくり読んでみたいです。>
<香港の本屋さんでも売られていたので、すぐに購入しました。呑気に公園で読書してみましたが、読み進めるうちにゾクゾクとしてしまいました。>
<知らぬ間に消費者として、害を被っていたことに驚きを隠せない。あらゆる財がどこから来ているのか、何に繋がっているのか、確かめなければならないと思った。>
<梅田の丸善ジュンク堂で、堤未果さんの最新作「日本が売られる!」を買いました! 友達にも読んでもらいたいので3冊買いました!>
<近くの書店にはなかったので、アマゾンで手に入れようとしたが、品切れで増刷待ちということだった。売れているらしい。>

  こうしたコメントを読んで、今どきのベストセラー本は、SNSを介して広がっていくのだと実感した。僕が本づくりをしていたころは、書店営業と新聞広告が販促の主流であったから、隔世の感を抱いたものだ。

・ある日の未果さんのツイッターによれば、大手書店回りをしている。売り場担当者を訪ねて、キャッチの入った販促用色紙を書き、さらに平積み店頭販売用のサイン本を作るためなのだ。その日は池袋に焦点を絞ったらしく、三省堂書店池袋本店、旭屋書店池袋店、ジュンク堂書店池袋本店と精力的に訪問されたようだ。著者自らが書店回りをし、販促に協力する。僕にも経験があるが、出版社にとってこういう著者は、本当に有り難い存在だと思う。それにしても、10月5日に発売されて以来、2週間足らずで5刷だというから素晴らしい売れ行きである。成果は十分に表れている。アマゾンでも人気のようで、ツイッターでコメントがあったように、一時的に品切れを起こしたくらいだ。

・未果さんは、この本の導入部で、脅威は身近なところにあると警告している。大統領に就任して以来、日本の大手マスコミはこぞって、トランプ政権叩きをしてきた。確かにトランプや金正恩といった人物は、誰にもわかりやすい敵に見える。しかし、そればかり目を奪われていると、大切なものを奪ってゆく別のモノの存在を見落としてしまう。木を見て森を見ずの状態であることに、警鐘を鳴らしているのである。

・日本には「水と安全はタダ」という言葉があるが、21世紀は水をめぐる戦争が危惧される。水ビジネスは世界で4000億ドル市場といわれる。未果さんによれば、水道民営化の波は1980年代に南米で導入されたのが端緒だとか。民間企業のノウハウを生かし、効率的な運営と安価な水道料金などというキャッチフレーズのもとに導入され、値札のつけられた商品となっていく。結果的にどうなったのか。驚きの実態が明らかになっている。オーストラリアが4年で200%、フランスが24年で265%、イギリスは25年で300%の水道料金の上昇である。こうした事実から、世界の趨勢は、水道再公営化に舵を切る中で、日本は逆に民営化に突き進もうとしていると危惧する。

・実際、2012年、仏のヴェオリア社が、愛媛県松山市の浄水場運営権を手に入れたことが報じられた。外資系企業は、自然災害大国の日本では、災害時の修復費用がかかるため、参入には二の足を踏んでいた。ところが政府はこともあろうに法を改正し、災害時の水道管の修復などは、自治体が責任を負うことにしたのである。これにより、外資系参入企業は、リスクがなく自社の利益のみを追求できることになり、続々と外資の民間企業への水道事業の委託が進められ始めている。

・また、アメリカ政府は、日本の「遺伝子組み換えでない」という表示をなくせ、とクレームをつけていたが、アメリカ追従の安倍政権のおかげで、ついにビジネスの障害が取り除かれた。外資の遺伝子組み換え農薬メーカーは嬉々として参入機会を狙っている。安倍総理や竹中平蔵らが掲げる名目上の「成長戦略」「市場開放」という売国政府に 水道、農業、漁業といった資産から 労働環境、学校、医療、介護などの生活基盤が買い漁れているわけだ。日米FTAが締結されれば、カナダや欧州が輸入を拒否している、人工的に乳量を3割増やす遺伝子組換え成長ホルモンを投与した牛のミルクも輸入されることになるだろう。食の選択肢の減少は恐ろしい未来を招きそうだ。

・日本人の「仕事が売られる」の項では、外国人労働者の受け入れ体制整備が取り上げられる。政府は外国人労働者の受け入れ基準を規制緩和する「入国管理法改正案」の成立を目指している。その裏で暗躍するのはあの竹中平蔵である。彼は株式会社パソナグループの取締役会長であることを忘れてはならない。パソナが受注した一覧表も掲載されているが、これを見たら竹中平蔵と安倍総理とのズブズブの関係が読み取れる。
 

・さらに竹中は、営利企業の意思決定に携わり、利益追求を目的とする会社という法人の役員と同時に、国家の意思決定にも影響を及ぼしている。加計学園問題が噴出して今や「国家戦略特区」を知らない人はいない。竹中は、この国家戦略特区について話し合う諮問会議のメンバーでもあるのだ。この諮問会議では、サービス業で働く外国人労働者が在留資格を取りやすくするよう取得条件を緩めることを決定している。移民受け入れは、コストという経済的要素だけでなく、安全保障にも影響する政策であることを、ちゃんと理解しての政策であろうか。疑問符がついている。
 
・核のゴミビジネスについても、危惧すべきことが目白押しだ。これは新聞などでも報道されたが、環境省が福島第一原発事故で出た放射性廃棄物のうち、8000ベクレル/kg以下の汚染土を公共工事で再利用することを正式決定したことにある。原発事故前は100ベクレル/kgだった放射性廃棄物の「厳重管理・処分基準値」を80倍に引き上げたのである。あまりに量が多く、置き場もない、そこで通常ゴミと一緒に焼却するだけでなく、こともあろうに安倍政権は、公共工事にも使うことにした。世界でもぶっちぎりの緩い基準値に、低レベル放射性廃棄物の処理に頭を抱える世界各国は、この決定に大喜びしている。日本にもって行きさえすれば、公共事業で再利用してくれるというのだから。タガが外れたような環境省の暴走は加速していく。なんと原発事故後に除染した汚染土を、公園や緑地の園芸などにも再利用するというのである。まさに国民の健康など、まったく無視した暴挙というしかあるまい。

・「売られたものは取り返せ」では、一旦、多国籍企業の軍門に下ったとしても、各国の民主主義の成功事例が挙げられている。これを読むと、今こそ消費者から市民へと成り上がるチャンスと希望がもてる。例えば、マレーシアのケースである。日本は消費税を3%、5%、8%と上げ、社会保障に使うと約束しながら、破り続けてきている。この間、消費税アップ分と法人減税分がほぼ相殺されているのだ。それに引き換え、マレーシアは6%だった消費税を廃止してしまう。そして投機型資本を排除し、マレーシアの未来につながる国内投資を受け入れることで、国内雇用を改善させた。外資に国を切り売りすることを拒否し、内需主導に舵を切ったマハティール首相の政策は、短期間に結果を出すことができたのである。

・過去の消費税値上げで明らかなように、仮に10%に消費税を上げたとしても、安倍政権は20%程度まで法人税率を下げようとしている。大企業は440兆円もの内部留保があるにも関わらず、大企業優先政策を続けるに違いない。これは憂慮すべき事態である。「日本に学べ」と言って、アジア周辺諸国にハッパをかけてきたマハティール首相。今度は日本が、「マレーシアに学ばなければいけない」のではないだろうか。

・ここで、堤未果さんの経歴を簡単に紹介しておく。国際ジャーナリスト。東京都の生まれ。和光中学・和光高校を卒業後、ニューヨーク州立大学国際関係論学科を卒業。ニューヨーク市立大学国際関係論学科修士号取得。国連、アムネスティインターナショナルのニューヨーク支局員を経て、米国野村證券に勤務中、あの9.11事件に遭遇する。衝撃を受けて、日本に帰国後は、アメリカ―東京間を行き来しながら、執筆・講演・各種メディアに出演している。主な著書は次の通り。『報道が教えてくれないアメリカ弱者革命』で黒田清・日本ジャーナリスト会議新人賞、『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書 三部作)で中央公論新書大賞、日本エッセイストクラブ賞を受賞。『沈みゆく大国アメリカ』(集英社新書 二部作)、『政府は必ず嘘をつく』(角川新書 二部作)、『核大国ニッポン』(小学館新書)、『アメリカから<自由>が消える』(扶桑社新書)など多数ある。なお、著書は海外でも翻訳出版されている。

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未果さんの出世作『貧困大国アメリカ』(岩波新書)

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『沈みゆく大国アメリカ』(集英社新書)
 
・最後に、ご主人の立憲民主党参議院議員・川田龍平氏にも触れておきたい。川田龍平さんは、薬害エイズ裁判で一躍クローズアップされたのは、ご承知の通り。長らく厚生労働委員会に所属し、薬害、医療、環境分野に力を注ぎ、医療の専門家を呼んだ公開勉強会などを行っている。子どもと妊婦を放射能から守る「子ども・被災者支援法」の発議者でもある。同法は2012年に成立。「子ども・被災者支援法議員連盟」事務局長に就任している。未果さんと同様、ツイッターで自らの活動ぶりを発信している。

・書店の果たす意義についても積極的に支援し、しばしば書店でイベントも開催する。また、「ゲノム編集は遺伝子組み換えでないから規制は必要ない」を基本スタンスとする日本政府に真っ向反対の立場でも知られる。 確かに欧州では 「ゲノム編集」は 「遺伝子組み換え食品」と同じ「予防原則」に沿って国として規制する方針だ。世界各地の科学者からも、ゲノム編集が未知数で 兵器にも応用できる事から 規制なしは危険との声が多い。また、無所属議員の時代から言論統制および警察権限拡大のリスクを含む児童ポルノ法改正案に対して慎重な立場を示しており、創作物の規制/単純所持規制に反対する請願署名市民有志の紹介議員としても名を連ねている。未果さんとは、お互いに刺激し合って、二人三脚で歩み続けている。「あとがき」で、こんな言葉が書かれていた。「私たちの一瞬一瞬の選択が、未来へのギアを入れ直すのだ」。次代の子供たちに恥ずかしくない日本を残さなくてはならない。そんな気概が伝わってくる言葉だ。

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