加登屋のメモと写真…

徳岡孝夫さん

清流出版 (2021年11月22日 10:05)

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・僕がいつものように朝の新聞を読んでいると、一つの出版広告に目が留まった。徳岡孝夫さんが文藝春秋から新刊本を出したことが広告されていたのだ。その時僕は、徳岡さんにまだ単行本化されていなかった原稿があり、それを編集して出版したものではないかと早合点した。というのも徳岡さんは両眼ともに視力を無くされていたからだ。僕が創業した清流出版でも徳岡さんには、大変お世話になった。月刊『清流』を創刊するに当たり、端から僕は徳岡さんを連載執筆者の一人にと考えていた。「明治の女性」をテーマにした連載を4年間お願いし、その後は、気になるニュースを分かりやすく独特の切り口で解説した「ニュースを聞いて立ち止まり・・・」を連載していただいた。僕の人生の公私共において、一番大切な人が徳岡孝夫さんである。ダイヤモンド社でお付き合いが始まり、今日まで実に35年以上の長きにわたり親しく交情を深めてきた。思い起こせば、徳岡さんにはどんなに助けられたことか。筆舌に尽くしがたいほどである。

 徳岡さんの素晴らしさを挙げれば、いくつもある。まず締め切り日の厳守である。徳岡さんの編集担当していた松原淑子君(現・社長)にも確認したが、過去1度たりとも原稿遅れを生じたことがないという稀有な人だった。その上、原稿内容の奥深さ、関西人特有の軽妙洒脱な文章力は折り紙付きである。まさに『清流』にとって徳岡さんは、欠くべからざる著者のお一人だった。もう4年ほど前になるが、徳岡さんが両眼ともに見えなくなったというので、泣く泣く連載を終了させた経緯があった。ところがこの広告の惹句を見ると、ともに妻を亡くした91歳の旧制北野中学同級生の二人が綴る「もうじき百歳」の日常生活、思い出を書いたものとある。二人で書き下ろした書籍のようなので、僕は驚かされた。いったい、徳岡さんはどうやって執筆したのだろうか、と・・・。

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朝日新聞に掲載された新聞広告

・この本の前フラップの惹句にはこうあった。
《名文家で知られるジャーナリストと、旧制北野中学の同級生が、九十一歳を迎え、それぞれの日常や回想を綴る。ともに妻を亡くし、コロナ禍で外出もままならぬ中、日々の暮らしを書き記し、電話で口述筆記を行い、一冊の本を書きあげた。「もうじき百歳」のリアルな心情と、互いを支え合う友情がここにある! 》――全部で22本の記事が所収されている。徳岡さん、土井さんがそれぞれ11本ずつ書いている。徳岡さんは、毎日新聞社での社会部記者時代、『サンデー毎日』の編集部時代の取材を通しての回想録がメインであり、土井荘平さんの原稿は、現在の心境を含む身辺雑記的な原稿が主流となっている。

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文春新書として刊行された(2021年9月刊)

 原稿執筆についてだが、なんと目が見えない徳岡さんが、同級生の土井さんに電話で原稿を送り、土井さんがパソコンに打ち込む。プリントアウトしたものを土井さんが電話で読んで、徳岡さんから修正があれば、その場で修正するという段取りだという。ここにおいて土井さんの役割は重要である。最初は、徳岡さんがICレコーダーに録音したものを、土井さんが再生してパソコンに打ち込んでいたらしいのだが、慣れないからどうしてもスムースにいかない。電話で話した時にはよく分かったはずの文章が、再生してみると徳岡さんの声が変わって聞こえるので聞き取りにくいということもある。それに長い文章だと再生しても推測しがたく、解釈するのに難儀したようだ。そこで二人は「細切れ情報でもいいやん」「そう言ってくれると助かるわ」と合意に至り、徳岡さんが断片的にでも書きたいことを電話で話をし、土井さんが聞きながらパソコンにすぐに入力する方法で書き進めたのだという。

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徳岡孝夫さんと僕

・徳岡さんは書いた分を自分で読むことができないから、流れが掴みにくい。また年月日や固有名詞など、徳岡さんは記憶以外に調べることができない。そこで土井さんが、間違ってはいけない人名、地名、年月日などのウラを取ることになる。ネット上で調べたり、年表に当たって確認しながら、原稿に反映させていく。その合間に自分のチャプターも書かねばならない。思った以上に大変な作業である。しかし二人は、九十歳を超えた男の日常を、書いておくことも何らかの意義があるのではないか、と判断した。その狙いは、「百歳以前」の現実を挟むことによって、単なる老人の思い出とは違うものを作り出せるのではないか、と考えたのである。僕は素晴らしい発想だと思った。上野千鶴子さんの『おひとりさまの老後』 (文春文庫)や、下重暁子さんの女性の生き方など、女性の老後の過ごし方についての本は多々あるが、男性には類書がない。それだけでも出版する価値があると僕は思った。

 読むと意義深い本であることがよく分かった。この本には、徳岡さんのジャーナリスト魂が弾けている。ジャーナリストを志す若者には是非、読んで欲しいと思うほどだ。例えば徳岡さんは、『サンデー毎日』編集部時代、ベトナム戦争の取材をする。日本のベトナム在住記者が首都サイゴンの支局に留まり、安全に取材する中で、徳岡さんは家族への書置きを残し前線を取材している。そして戦禍のただ中で自らを顧みず、人助けをしようとする真の英国紳士に出会い、「人間の尊厳」について学んでいる。また、最初に赴任した毎日新聞高松支局では、紫雲丸沈没事件を取材したが、Y新聞に特ダネ写真で抜かれ、絶望の淵に追いやられる。姓名を取材し、悲しい物語を書き、夜も寝ずに奮闘し原稿を書いたが、一枚の写真には勝てなかった。Y新聞に掲載された事故の現場写真は、沈みゆく船の上に辛うじて立つセーラー服姿の女の子が、救いを待っているように写っていた。写真に記事では太刀打ちできないことを、身をもって体験させられたのである。
 
・徳岡さんが英語に堪能なことは知られている。外国人に伍しても全く遜色ないほどだ。世事にも通じており語彙も豊富で、たくさんの翻訳書も出してきたが、その秘密の一端も明かされている。ムレット先生(神父)との出会いである。ムレット先生は三高で英会話を教えていた。身一つで三高の自由寮を焼け出された徳岡さんは、何人かの学生とともに、ムレット神父のところに転がり込んだ。一つ屋根の下に起居してみると、神父は思っているほど陽気一点張りなだけのアメリカ人ではなかった。神父そのものの仕事以外に、カトリック教会のオルガニストの仕事を持っていた。居間に置かれたピアノの上には、バッハ、ブラームス、ベートーベンと書かれた楽譜があった。それまでカント、ヘーゲル、マルクスなど、それだけが科学だと思い込んでいた徳岡さんは驚いた。「アメリカ人にも内面があるのだ」という考え方が忍び寄ってくるように感じた、と書いている。

 そのうち一人、二人と空いたベッドを求めて同級生が入り、ムレット神父と徳岡さんたち学生8人、総勢9人の大所帯となった。ムレット神父はニューヨーク州の北西部、ナイアガラの滝に近いバッファローのカトリック家庭で育った人で、初めての外国人との会話におどおどしている徳岡さんたちを引っ張り込んで、会話を盛り上げる巧みな話術があった。1960年にフルブライト留学生になっていた徳岡さんは、ムレット神父の男女双生児の「姉が亡くなった」との電報を受け、グレイハウンドバスに乗ってバッファローの墓地へ葬送ミサと埋葬式に列席している。後に記者として外国の要人に接した時、スムースに会話ができるようになったのも、三高、京大と5年間世話になったムレット神父との会話が蘇ったものと思われる、と感謝の言葉を綴っている。

・共著者である土井荘平さんのプロフィールにも簡単に触れておく。昭和4年、大阪市の生まれ。商社勤務、自営業を経て、リタイア後、小説、エッセイなど著述を始める。徳岡さんとは旧制北野中学の同級生。著書に『青い春、そして今晩秋』(鶴シニア文学大賞受賞)、『アホちゃうか――関西慕情』、『関西弁アレコレばなし』など。徳岡さんとの共著に『夕陽ヶ丘――昭和の残光』(鳥影社 2020年9月4日)がある。この共著だが、十五歳で太平洋戦争の終戦を見た二人の幽明境を異にした同年代の日本人へのレクイエムであり、令和を生きる後輩たちへのメッセージでともなっている。

 徳岡さんは三島由紀夫とも親しかった。昭和42(1967)年5月、初めて自衛隊体験入隊から帰った三島をインタビューしたのが徳岡さんだった。同年8月に毎日新聞社バンコク特派員の辞令を受けバンコクに赴任、バンコク滞在中の三島と親しく付き合ったことで知られる。三島が最後の長編小説『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』を取材しているころであり、二人は交流を深めた。そんな経緯があり、自決した昭和45(1970)年11月25日、徳岡さんは三島由紀夫から『檄文』を託されている。そんな三島との友好についても本書に書かれている。徳岡さんは、当時毎日新聞のバンコク特派員として赴任するに当たり、本棚を眺めて、どの本を持っていこうかと思案していた。そしてたった1冊だけ持っていくならと選んだのが、岩波書店の日本古典文学大系から『和漢朗詠集・梁塵秘抄』だった。本棚からこの本を抜き出してジュラルミンのスーツケースに入れた。

・奥方に「それ何の本?」と問われた徳岡さんは、「平安時代の『リーダースダイジェスト』や」と軽妙洒脱な答えを返している。旧知の三島由紀夫さんをバンコクでホテルに訪ねたのは、徳岡さんに本社から電報で、ノーベル文学賞を受賞した場合に備え、前もって当選の喜びの談話が欲しいとの取材要求があったためであった。三島のホテルの部屋を訪ねた時、徳岡さんは本が1冊もないのを見て、さぞ手持無沙汰で淋しいだろうと思い、『和漢朗詠集・梁塵秘抄』を貸してあげたのだ。三島が東京へ帰る前の日、「ありがとう。楽しませてもらいました」と言って、この本を返してくれたが、本を返しただけの挨拶ではない満ち足りた口ぶりに感じたと徳岡さんは書いている。こうしたお付き合いがあったからこそ、三島との深い信頼関係が築かれたものだと僕は思っている。

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僕にとっての金字塔『アイアコッカ』

・『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(ダイヤモンド社刊、1985年)の翻訳を依頼したことが、そもそも徳岡さんと僕との出会いだった。この『アイアコッカ』の翻訳は、新規軸として、関西弁を駆使した新鮮味と、自動車好きの翻訳者であった、新進気鋭の徳岡さんにお願いすることにした。よくぞこの決断をしたものだとも思えるが、実は、それより20年も前に遡る1965年だが、僕は徳岡さんの『太陽と砂漠の国々――ユーラシア大陸走破記』という本を読んでいた。その時の印象が強く、自動車関係の本だったら徳岡さんにお願いしてみたい、と僕なりに思っていたのだ。それに徳岡さんは翻訳が手慣れてうまい上に早いという噂で、編集者からすれば大変に魅力的な人であった。

・当時、僕が編集した本で一番売れたのは、『晴れた日にはGMが見える』だったが、それを超える販売実績を摑みたいコケの一念だった。そして『アイアコッカ』の初版部数が4万部に決まった。この初版部数であれば、ちょっとした広告宣伝費もかけられるとほっとしたものだ。実際に、版を重ねる度に、有識者や本の読み手がどんどん増え、思ったよりダイヤモンド社の経費負担は少なくて済んだ。結局、最終的に『アイアコッカ』の実部数は、70万部を優に超えた。これは徳岡さんの訳も大いに寄与していると思っている。話は変わるが、イギリス出身のジャーナリストで、ニューヨーク・タイムズの東京支局長だったヘンリー・スコット=ストークスさんの著になる『三島由紀夫 死と真実』の翻訳も徳岡さんにお願いした。日本文学界の鬼才、あの三島由紀夫が、なぜ自衛隊市ヶ谷総監部を占拠し、最期は切腹自決するに至ったのか? 偉大なる芸術家である彼の生い立ちから最期の時までをヘンリー・スコット=ストークスさんが詳しく取材編集したドキュメント本であった。徳岡さんが三島とごく親しかったこともあり、とてもいい本に仕上げることができた。僕はこの本を特に気に入っていたので、清流出版で復刊したほどである。

 それにしても『百歳以前』を読んで、「男おひとりさま」の友情ということを考えさせられた。土井さんは「会者定離」と題した11本目のエッセイの最後にこう書いている。《九十一歳である以上、「来年の桜を見られるだろうか」という思いが消えるわけではなかったが、「来年は、徳岡君宅の桜を見に行こうかな」と思うこともあるようになった。》。なんと素晴らしい友情であろうか。僕はこの本を読んで、徳岡さんのジャーナリスト魂は、まだまだ熱く燃えていることを実感した。このことが我がことのように嬉しかった。僕にとって『アイアコッカ――わが闘魂の経営』は、エポックメイキングな出版であった。徳岡さんと生涯の親交を結ぶきっかけとなった、記念すべき単行本であった。翻訳本が中心ではあるが、編集者として徳岡さんとのコンビで8冊の単行本を世に送り届けることができた。僕はその意味で幸せな男であり、このことに誇りを感じている。お二人の友情と電話草稿で、続編も期待できそうだ。百歳目指して意気軒高な徳岡さんの次作を期待して待ちたい。

小野田寛郎・町枝夫妻

清流出版 (2021年10月20日 15:16)

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小野田寛郎・町枝夫妻

 

小野田寛郎さん・町枝さんご夫妻には、公私ともに大変お世話になった。その寛郎さんは、2014116日に泉下の人となった。1922(大正11)年、和歌山県の生まれである。享年91。来し方を振り返ってみると、旧陸軍少尉であった小野田寛郎さんは、1944(昭和19)年、陸軍中野学校二俣分校に入校している。同年、22歳の時、情報将校としてフィリピンのルバング島へ派遣された。以後30年間、終戦を信じることなく、仲間と戦闘任務を遂行する。いわば青春時代の大半をかの地で失っている。上官からは「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」との言を肝に銘じて戦い抜いたのである。

 小野田寛郎さんの約30年間のフィリピン・ルバング島潜伏を描いた人間ドラマ/映画『ONODA 一万夜を越えて』が108日から全国東宝系映画館で公開されている。この映画は第74回カンヌ国際映画祭・ある視点部門のオープニング作品に選ばれたという秀作である。小野田寛郎さんの想像を絶する戦いの日々を基に描かれたものだ。日本がポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた後も任務解除の命令を受けられないまま、ルバング島で孤独な日々を生き抜いた小野田さん。約30年後の1974年、52歳で日本への帰還を果たすことになった。

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小野田寛郎さん

 

・この映画の監督は、フランスの新鋭アルチュール・アラリ氏である。201812月―193月の約4カ月間をかけ、ロケ地カンボジアのジャングルで過酷な撮影を敢行したという。全編が日本語であり、かつ全員が日本人キャストで撮り上げた労作である。アラリ氏は1981年パリ生まれ。祖父は俳優・演出家のクレマン・アラリ。兄は撮影監督のトム・アラリ。パリ第八大学で映画を専攻。2007年、若手監督の発掘の場であるブリーヴ映画祭で『La Main sur la gueule』がグランプリを受賞。2013年、短編『Peine perdue』が、ベルフォール “アントルヴュ” 映画祭の短編部門にてグランプリを受賞した。2016年、長編第一作となる『汚れたダイヤモンド』を発表。フランス批評家協会賞・新人監督賞のほか、いくつもの賞をとっている。フランス人監督が、さまざまな制約がある中で演出・監督して制作したものだから、その苦労は察するに余りある。主演は遠藤雄弥さんと津田寛治さん。遠藤さんが寛郎さんの青年期を、津田さんが成年期をそれぞれ演じ分けている。この映画に、僕はとても興味がある。寛郎さんとは何度かお会いして、その生き方・考え方に接し、僕はとても感銘を受けていたからだ。ルバング島での戦場を含め六十余年、「不撓不屈」が寛郎さんの変わらぬ座右の銘であった。確固とした精神的な支柱があったからこそ、こうした過酷な運命を切り開いてこられたのであろう。

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弊社からは2冊の本を刊行させて頂いた

 

寛郎さんは、任務解除命令を受けられないまま「残置謀者」としてルバング島での情報収集、遊撃、後方攪乱する目的の戦闘任務を遂行し続けた。1954年、共に戦っていた島田伍長が戦士。1972年には、28年間、信頼し続けた片腕ともいうべき小塚一等兵が戦死する。寛郎さんの語録にもこうある。「人間は一人では生きられない。ルバング島での一番の悲しみは、戦友を失ったことだった」と。1974(昭和49)年、ついにルバング島において直属機関長の上官だった谷口元陸軍少佐から作戦解除命令書伝達式を受け日本に帰還した。小野田さんはその時、すでに52歳になっていた。そんな寛郎さんのルバング島での戦闘任務を題材にした映画である。機会があったら是非、観たいと思う所以である。帰国後の日本は、小野田さんを絶望の淵に追い込む。人心は乱れ、道徳・秩序もなく、変わり果てた日本に違和感を覚えた。「ルバング島での証人なき戦い」という言葉に発奮した小野田さんは自らの力を証明するため、新天地ブラジルでゼロからの牧場開拓を決意し、日本を離れたのである。

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ブラジルの小野田牧場にて

 

・小野田町枝さんという恰好の伴侶を得て、最終的に成田空港より広い1128ヘクタールの土地を手に入れる。広大な原生林である。生い茂る樹木は切り払い、ブルドーザーで開墾して牧場用地を開拓する。そして念願の小野田牧場をオープンさせたのである。ブルドーザーはフル稼働で酷使し続けたので、キャタピラの歯がすり減ってしまった。寛郎さんはどうしたかといえば、町で鉄板を買い求め、すり減ったキャタピラに自分で溶接して歯をつけてしまった。このように寛郎さんは器用であり、メカにも滅法強かった。

牧場で飼育する肉牛は実に1800頭。種牛を買って子牛を育て、少しずつ頭数を増やしていった。最初の7年間は無収入だった。仕方がないので、ブルドーザーを時間貸しするなどして糊口を凌いだという。どうにか8年目から、牧場経営が軌道に乗り始めた。寛郎さんに牧場の写真を見せてもらった。見渡す限りの広大な牧場を捉えていた。雄大な大地に沈みゆく真っ赤な夕陽。色鮮やかに咲き乱れる花々。何もかもスケール感が違う。パンパを吹き過ぎていく風が感じ取れるような写真だった。寛郎さんは、カメラの腕も玄人はだしで、メカに強いというのも腑に落ちた。ただ小野田夫妻の心残りは牧場後継者の問題だった。幸い町枝さんの妹さんに男の子が生まれた。このご子息を養子に迎え、後継ぎ問題も解決している。

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寛郎さんと僕

 

1980(昭和55)年1129日、衝撃的な「金属バット殺人事件」が起こる。神奈川県川崎市に住む20歳の予備校生が、両親を金属バットで殴り殺した事件であった。この報をブラジルで知った寛郎さんは心を痛め、いてもたってもいられずに立ち上がる。このままでは日本はダメになる。次代を担う子供たちを救いたい、との強い思いから帰国する。健全なる人間形成と、文化社会と自然との共存のためにも、自然教育の必然性を痛感し、1984(昭和59)年7月より野外教育活動『小野田自然塾』を開校したのである。全国各地でキャンプを開催。多くの青少年たちにサバイバルの知恵を施すために尽力した。

毎年、約1000名の子供達の指導にあたった。小野田自然塾で教育してきた子供たちはのべ2万人を超える。寛郎さんは言う。「今の日本人からはたくましさが消えた。平和ボケしている一方で、自殺や引きこもりなど人生を放棄する若者たちもいる。これらはいずれも人間が本来持っている野性味を失った結果ではないか」と……。大自然を舞台にしてのサバイバル訓練のような体験から、自分で自分を背負う大切さ、自立心・自律心を養うカリキュラムを組んで全身全霊をもって子どもたちを指導していった。極限状態の中で生き抜き、戦い抜いた寛郎さんならではの発想であった。

・弊社は、小野田寛郎さん関係の単行本を二冊出させていただいた。一冊は、小野田町枝さんの著になる『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(2002年)。もう一冊は、原 充男さんの監修になる『魚は水 人は人の中――今だからこそ伝えたい 師小野田寛郎のことば』(2007年)である。『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』は、町枝さんが寛郎さんとの来し方を振り返ったもの。苦楽を共にしてきた2人は、夫婦でありながらまさに戦友でもあった。実はこの本を弊社から刊行できたのには理由がある。町枝さんは大手出版社のK社社長から、本を出すならK社からと依頼を受けていた。もう一つ、K社にこだわる理由が、このK社の出版物(漫画)を寛郎さんがファンだったのだ。だから寛郎さんの意向もあって、K社から本を出したいという思いは僕にも理解できた。

町枝さんは、弊社近くの九段会館で行われる各種イベントに参加することもあり、よく弊社を訪ねてきた。弊社の空気が肌に合い、居心地がいいのだと言っていた。町枝さんが入り口を入ってくるとすぐに分かった。とにかく声が大きい。「こんにちはー!」と言いながら入ってくる。入ってきた途端に社員全員が、「アッ町枝さんだ」とわかったものだ。僕もなんとなく馬があって、よく雑談話に花を咲かせたものだった。そのうち、町枝さんは「私、本を出すなら清流出版で出したい」と言い始めた。弊社にとっては願ってもない話である。お二人の波瀾の人生を単行本にすれば、大いに話題を呼ぶに違いない。そう確信したからだ。

・しかし、実際に単行本として刊行するまでには3年ほどの時間がかかった。無理もない。ブラジルでの牧場経営もあるし、日本に帰国すれば、寛郎さんへの講演の依頼、取材依頼の電話がかかってくる。スケジュール管理をする秘書役もこなしていたから、執筆にかけられる時間も限られていた。よく頑張って脱稿してくれたものだ。おかげ様でこの本は、マスコミでも取り上げられ大いに話題になった。さらにプラス材料が町枝さんの営業力にあった。顔が広く、明るい性格だから講演先で経営者にも好かれた。だからこの本は企業の一括買いが多かった。200冊、300冊と一括受注した町枝さんは、すべて自筆サインをして発送していた。そんな相乗効果もあって、刷数を重ねることができた。大いに弊社に利をもたらしてくれたのである。

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『魚は水 人は人の中』の監修者・原充男さんを真ん中に

 

 2冊目が小野田寛郎さんの語録をまとめた『魚は水 人は人の中 今だからこそ伝えたい師・小野田寛郎のことば』である。寛郎さんが小野田自然塾などでの話の中から、後世に伝えたい言葉を、愛弟子ともいうべき原充男さんが精選したものだ。日本人は豊かさと引き替えに大切なものを失ってきた。信義、礼節、矜持、自尊心……等々。いわば寛郎さんが、物質至上・金銭至上主義に毒され、平和ボケした日本人に伝えたい言葉であり、文字通り「珠玉の語録集」であった。寛郎さんは発刊に寄せて、こんな言葉を送ってくれた。「これらは私がキャンプ等で話した言葉ですが、その内容は、この本をまとめてくれた原さんほか多くの若い人たちの考えであり意見でもあります。この本が混沌とした日本の社会に一石を投じてくれることを願ってやみません」。

原さんは1943年、東京都の生まれ。1966年、防衛大学校(電子工学科)を卒業し、航空自衛隊に入隊している。1992年、小野田自然塾のボランティアとして活動を開始する。2000年、航空自衛隊第四術科学校長兼熊谷基地司令として空将補にて勇退。2005年、小野田自然塾評議員に就任している。原さんは、ブラジルの小野田牧場で1ヶ月ほど過ごしたことがあり、日の出から日暮れまで、若いカウボーイたちと同様、額に汗して働く寛郎さんを目の当たりにしている。帰国後、小野田自然塾のキャンプで、再びボランティアたちと熱心に子供たちに接する寛郎さんの姿を見た原さんは、「この方は、ルバング島の英雄なんていうものではない。我々を指導してくれる真のリーダーである。今の世の中、行動せずに批判や評価をする人は沢山いるけれども、自ら実践して行動で示してくれる人が一体どれだけいるだろうか」との思いから、語録の編纂を志したという。

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小野田夫妻との会食はいつも心が弾んだ

 

・寛郎さんの講演会場に訪ねるなど、ご夫妻とは何度かご一緒したことがある。食事もご一緒したが、寛郎さんは見事に肉食中心の食事であった。大きなステーキを頼んで、美味しそうに平らげていた。付け合わせの野菜はおざなりに手を付けるだけ。町枝さんが「うちの人は、野菜を食べてくれないんですよ」と嘆いていたことを思い出す。僕もサラダ類は苦手な口なので、寛郎さんと似たようなものだが、今は野菜も少しは食べることにしている。それにしても寛郎さんは健啖家であった。多少、耳が遠いくらいで元気そのものに見えた。

だから寛郎さんは余裕で白寿は超えられるに違いない。そう思っていたので、お亡くなりになった時は本当にショックであった。寛郎さんが、こんな言葉を遺している。「貧しさや乏しさには耐えられる。問題は卑しさである」と……。心が置き忘れられた日本人一人ひとりが、心して受け止めたい言葉である。私利私欲に走り、自分だけ良ければいい。利他の心など持ち合わせていない現代の日本人がなんと多いことか。今こそ、寛郎さんの背筋の伸びた生き様や遺した言葉を、もう一度問い直すことが必要不可欠ではないか。そして、それを生の言葉で伝えられるのは町枝さんだけである。町枝さんは現在、体調を崩されていると聞く。元気になられたら、寛郎さんの遺言を未来ある若者たちに、生きる指針として伝えていって欲しい。そう心の底から願っている。

 

斎藤勝義さん

清流出版 (2021年9月21日 10:25)

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斎藤勝義さん

 

・その知らせはまさに青天の霹靂だった。先月、自宅でくつろいでいると、弊社の著者の1人である片倉芳和さんから電話が掛かってきた。なんと弊社の顧問であり、海外版権取得業務をお願いしている斎藤勝義さんが急死したという。聞けば、炎天下、東久留米市内の図書館に向かう途中、突然の心臓発作に見舞われたとのこと。享年89であった。斎藤さんは、そんなお歳には見えなかった。好奇心旺盛で若々しく、活動的だったからだ。コロナ禍でしばらく会社では会っていなかったが、あの性格と行動力は変わらない。げんに図書館へ出かける途中での急死である。斎藤さんとのお付き合いは長い。僕の古巣であるダイヤモンド社時代からだから、優に半世紀は超える。だから僕は、親しみを込めて、「サイトウカッちゃん」と呼んでいた。

 

そのカッちゃんと僕は、数々の海外版権を取得し、翻訳出版してきた。版権探しのため、よく二人で国際ブックフェアへも参加した。ロンドン国際ブックフェア、フランクフルト・ブックフェア、ブックエキスポ・アメリカなどである。二人ともアドバンスの安い本、しかも内容のある良い本を見つけたい、それも、他社が見逃した有力本を必死に探した。そのため、タトル・モリエイジェンシー、日本ユニ・エージェンシーといった日本での版権代理店が、ライバル社にどんな本を薦めているのか、見極めるのも大事な仕事だった。斎藤さんはフランクフルト・ブックフェアから帰った後、「またヴィースバーデンに行きたい」とよく言っていた。フランクフルトからほど近い田舎街の観光地だが、ブックフェアを1日休んで、このヴィースバーデンを二人で訪れ、ゆっくり羽根を伸ばしたことがある。それが忘れられなかったのであろう。

 

・ご承知の通り、ダイヤモンド社はビジネス書の分野において先駆者的な立場にあった。他社の追従を許さぬ実績を積んでいた。ベストセラー本も多々ある。例えば、クラウド・ブリストルの『信念の魔術』(1954年刊)E.G.レターマンの『販売は断られた時から始まる』 (1964年刊) などはまさにドル箱商品で、新装版として何度も装丁を変え、判型を変えながら売れ続けてきている。また、1950年代からピーター・F・ドラッカー博士の経営学シリーズを一手に引き受け、現在に至るも大きな柱となっている。その海外版権の取得において、斎藤さんのビジネス英会話力、粘り強い営業力は光っていた。僕は40歳を過ぎて単行本セクションに移ったのだが、ここから深いお付き合いが始まることになる。僕にとって金字塔とでもいえるのがリー・アイアコッカの『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(1985年刊)である。1970年代後半から80年代前半にかけ、破綻寸前だった米自動車大手メーカーのクライスラー(現フィアット・クライスラー・オートモービルズ=FCA=)の再建に手腕を発揮したリー・アイアコッカの経営を俯瞰したものだった。

 

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『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(1985年刊)

 

・アイアコッカは1924年の生まれ。ビジネスの世界における、アメリカン・ドリームの体現者として記憶に新しい。『アイアコッカ』の翻訳は、関西弁を駆使した新鮮味と自動車好きだった気鋭の徳岡孝夫さんにお願いすることにした。徳岡さんは、訳がこなれてうまい上に早かった。そんな名翻訳者を得て、この本は売れに売れ99刷までいった。僕にとって記念すべき本であった。その後も、第2弾のアイアコッカの『トーキング・ストレート』(1988年刊)を刊行している。アイアコッカは僕にとって、忘れられない思い出深き人物であった。

 

 このアイアコッカの本の版権を取得するのがなかなか大変だった。斎藤さんの目覚ましい活躍がなければ、他社に取られていたかもしれない。アイアコッカは経済専門誌や日本経済新聞等などではよく取り上げられ、カリスマ経営者として知られていた。しかし、一般サラリーマンの間では、まだそれほど知名度は高くはなかった。ダイヤモンド社の販売本部の面々も、「日本人にはまったくといっていいほど知名度も低いし、どうせだったら、ロナルド・レーガンの本でも仕掛けた方が売れるのではないか」などと、この本の版権取得に冷ややかな評価を下す者が多かった。販売見込み数も否定的な意見が多かった。

 

・しかし、アイアコッカは立志伝中の人物であった。アメリカで原著が発売されるや『パブリッシャーズ・ウィークリー』『ビジネス・ウィーク』『ニューズ・ウィーク』『ニューヨーク・タイムズ』『フォーチュン』誌など、各紙誌の書評等で絶賛され、爆発的な売れ行きを見せ始めた。こうなると日本での出版権はどの出版社が取得するのか、取り合いとなったのは必然であった。新潮社、講談社、三笠書房をはじめ、名だたる大手出版社の敏腕編集者、版権担当者が版権取りに参戦してきた。日本ユニ・エージェンシーがこの本の日本での版権代理店だったが、各社ともに必死で獲得競争に乗り出したので、みるみるうちにアドバンスは跳ね上がり、僕も大いに気をもんだものだった。

 

  日本ユニ・エージェンシーの担当者、武富義夫さんは、まだ社長にはなっていなかったが、経営者に一番近い存在で、バリバリの凄腕で知られていた。その武富さんと一編集者であった僕が、『アイアコッカ』の件ではことごとく意見が対立したが、一歩も引かなかったのはいい思い出である。この本の版権取得には、斎藤さんも苦労していた。なぜダイヤモンド社が版権を取得できたのか。過去の経済物の販売実績と、出したいという編集者と経営者の熱意、そして版権取得に向けての交渉力ではなかったか。ドラッカー博士の本でもそうだったが、斎藤さんが版権取得に、大手出版社の猛者に負けず奮戦してくれた。斎藤さんはなんと、日本での版権代理店・日本ユニ・エージェンシーをすっとばして、自宅から米国の版元である「バンタム・ブックス」の版権担当者であったピアジェ女史に直接電話して売り込んだのだ。頭越しに直接交渉したのは、商習慣からすれば邪道といわれても仕方がない。しかし、社運をかけており、絶対に取得したい熱意がそうさせたのだと思う。

 

・斎藤さんの橋渡しもあって、僕は勇躍アメリカに飛び、アイアコッカ本人とその弁護士と直に会い、出版契約にこぎつけた。両者のサインをもらって、ゲラの一部を日本へ持って帰ることで、大手出版社との版権取得競争に決着をつけることができた。いくら切歯扼腕しても、ことここに至っては大手出版社も敗北を認めざるを得なかった。日本語版は198511日に初版4万部で発売開始されたが、売行きが好調で短期間に30万部を超えた。このタイミングでアイアコッカが来日した。翻訳者の徳岡孝夫さん、ダイヤモンド社の川島譲社長、版権担当者の斎藤さん、編集担当の僕が帝国ホテルのスイートルームに招待されたのである。この本は結果的に70万部を超えるベストセラーとなった。

 

斎藤さんのこうした粘り腰は、一体どこで培われたものなのか。とにかく心の赴くまま前へ前へと突き進む人なのだ。山形県の片田舎で生まれたが、斎藤少年はお金をかけず英会話を学びたいと考えた。牧師さんとなら英会話が学べるかもしれないと教会通いを始めるのだ。こんな発想をする人はそうはいない。斎藤さんは、どんな大物相手でも物おじせず相手の懐に飛び込む。これが斎藤さん流の人間関係構築術の奥義であった。だから人脈も多士済々であった。あるパーティで同席した人と意気投合し、いつの間に親しい付き合いが始まる。そんな話は斎藤さんには数多くあった。だから弊社(清流出版)の業績アップに大いに貢献してくれたのである。

 

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『宗教仁研究―清末民初の政治と思想』(2004年刊)

 

・斎藤さんが繋いでくれた人脈で、弊社の出版企画も充実したものになった。冒頭に記した片倉芳和さんもそのお一人だ。片倉さんは斎藤さんの義弟にあたり、1939年、東京都で生まれている。早稲田大学では「雄弁会」に所属し、亡くなった僕の畏友、正慶孝さんとは激論を闘わせ、弁論を鍛えあった仲だという。その後、片倉さんは、日本大学大学院文学研究科東洋史専攻博士課程を修了している。弊社では片倉さんに『宗教仁研究―清末民初の政治と思想』という430ページを超える大著を出させて頂いた。宋教仁という人物は、終始、孫文に対立した革命家と言われる。

 

革命戦略については孫文の唱えた辺境根拠地革命に対し、宋教仁は長江流域における都市革命を主張した。また、孫文の唱えた大総統制に対し、議院内閣制を主張した人物だ。宋教仁は民主的な議院内閣制によって、大総統の権限を抑制しようとしたのである。そしてこの法を以て対立するという態度が袁世凱に恐れられ、ついには暗殺されるに至っている。志半ばにして袁世凱の刺客の凶弾に倒れた宋教仁。この中華民国初期の革命運動・政治家の研究成果がこの一冊に凝縮された、後世に残すべき貴重な本だと僕は思っている。

 

・斎藤さんを通して弊社が受けた仕事で、大いに潤った本がある。かなりの部数買い取りを含んだ出版契約であった。それがスウェーデン系商社、ガデリウスが日本に100年以上に亘り根を下ろし、成功してきた軌跡を追った『成功企業のDNA――在日スウェーデン企業100年の軌跡』(2005年刊)である。本書を読むと100年もの長きに亘っての同社の奮闘が、日本の経済発展の歴史と見事に重なる。外資系企業といえば、大抵、四半期毎に結果を出さなければならない。株主が力をもっており、利潤を生まなければ社長の首をすげ替えてでも結果を求められる。ところが同社は、そんな利潤追求は一切していない。創業者のクヌート・ガデリウスがじっくりと腰を据えて、日本での経営基盤を作ったことに、その成功に至った秘訣がありそうだ。

 

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『成功企業のDNA――在日スウェーデン企業100年の軌跡』(2005年刊)

 

なぜ、創業者ガデリウスが、それほど日本にこだわったのか。どうして100年以上も、日本に溶け込むことができたのか。その秘密が本書で明かされている。米国系企業が多い中で、異色ともいえるスウェーデン企業の事業展開は僕にとって感動的であった。この企業が日本の横浜へ進出したのが、1907(明治40)年である。以来、日本の産業発展、工業発展の担い手として貢献してきた。こんな企業があること、こんな歴史があることすら、知らない日本人が多い。一見、社史のようなスタイルをとりながらも、生々しい人物像をフォーカスしている。数少ない欧州系対日進出外資企業の、貴重な対日事業展開のケーススタディではないだろうか。いい本を刊行できて、利益も十分に上げることができた。斎藤さんには感謝するしかない。

 

・コロナ禍の前、斎藤さんとは毎週金曜日に会社で会い、昼食を一緒に摂るのが定例になっていた。寿司、カレー、洋食、和食、中華……。弊社のある神田神保町界隈には、美味しいお店がいくらでもあった。M大学の食堂に繰り込んだこともある。大学の食堂はとにかく安く、ビーフストロガノフが500円ほどで食べられた。この昼食が銀座方面になることもあった。様々な個展が銀座界隈であるので、タクシーで個展会場に行き、作品を十分に観賞した後、ゆっくり昼食を摂ったりした。よく行った個展といえば、毎年、銀座鳩居堂で開催された小池邦夫さんの個展がまず浮かぶ。銀座松屋での菅原匠さんの個展もほぼ毎年訪れていた。

 

東京ビッグサイトで行われる「東京国際ブックフェア」も毎年のように出かけた。メンバーはほぼ決まっていた。臼井雅観君、藤木健太郎君、斎藤さん、それに僕の4人である。斎藤さんはこうしたイベントが大好きだった。ブックフェアは会場が広いので見て回るだけでも大変である。世界各国からも刊行物を売り込みにきていた。ヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカ諸国など、各国大使館が出展し民族衣装で応対するブースもあった。こんな会場内で、ふと見回してみると斎藤さんがいない。探してみると、あるブースの前で、モデルのような金髪の美女と話し込んでいたりする。この辺り斎藤さんの独壇場である。その他、弊社に近く竹橋にある国立東京近代美術館や近代美術館工芸館などにもよく出かけたものだ。芸術をゆっくりと楽しんだ後は、美術館2階にあるレストランで、フレンチとイタリア料理を融合した、美味しい料理を堪能したものだった。

 

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東京ビッグサイトの東京国際ブックフェア会場にて

 

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銀座鳩居堂 小池邦夫さんの個展会場にて

 

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ダイヤモンド時代の仲間である川鍋孝之君と

 

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銀座松屋 菅原匠さん個展会場にて(左端菅原さん)

 

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出版企画打ち合わせ 今は亡き正慶孝君(右から2番目)と

 

・最後に、臼井君、斎藤さんと僕の3人で参加した2007年の洋上大学について触れておきたい。この回は39回目に当たり、結果的に最後の洋上大学実施となった。見渡す限りの紺碧の波を蹴立てて、客船「ふじ丸」はひたすら南下。硫黄島からグアム、サイパンへの78日の旅だった。上部デッキには、強い日差しが照りつけ、夏の暑さが好きな僕は大満足だった。主加藤日出男団長の綿密なカリキュラム編成で、毎日、飽きることがなかった。邦楽家・上野和子さんによる筝曲講義と合奏披露。サイパン生まれで元海軍特攻隊員の歌手・三島敏夫さんの歌謡。NHKラジオ深夜便「こころの時代」担当の上野重喜さんの講演。五藤禮子さんの茶道講座。オペラ歌手・高野久美子さんの声楽。桐朋学園大学・長谷川由美子さんのピアノ。ゴスペルアンサンブル主宰の池末信さんの指導による若者たちの合唱。ECC外語学院の亀田里美さんの英会話。こうした多彩なタレントを次々と大舞台や小ホールに招いて、盛り沢山な催しが続いた。

 

マリアナ海溝沖では、洋上大学での一大イベントを堪能した。なんと快調に南下していた「ふじ丸」の船足を止めて、船内の照明はもとより、デッキの電灯もすべて消された。僕らは文字通り真っ暗闇のデッキに毛布を敷いて横たわり、目を閉じて合図を待った。「目を開けてください」の合図で空を見上げた時の感動は、例えようもなかった。まさに降るような満天の星であった。空一面に星がこれほどある、ということに改めて驚かされた。そして見事に計算された星の位置により、たった十数分間だったが、北極星と南十字星を同時に見ることができた。僕らは三人とも、感動のあまり言葉もなかった。

 

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珍道中になった洋上大学での三人組

 

グアムに寄港しての夜、「ふじ丸」の船上では「グアム親善ディナーパーティー」が盛大に催された。カマチョ知事をはじめ、上院議長、観光局長、グアム大学学長のアレンさん他、大勢のグアムの要人も乗船して、楽しく交歓したものだ。広い会場内で英語が得意な斎藤さんは、要人たちの間を、水を得た魚のように生き生きと動き回っていた。そんな場面を僕は懐かしく思い出す。

 

斎藤勝義さんの行動力は、いつどこにいても変わらなかった。黄泉の国に行っても、きっと変わらないだろう。「サイトウカッちゃん、長い間、本当に有難う。お世話になりました。どうか安らかにお休みください。僕もしばらくしてから……」。

保阪正康さん

清流出版 (2021年8月20日 12:25)

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保阪正康さん著『一語一会』

・昭和という時代を語り継ぐことをライフワークとし、延べ4000人におよぶ人々にインタビューしてきた人がいる。それが保阪正康さんである。保阪さんは1939年北海道に生まれ、札幌東高校から同志社大学文学部社会学科に進んだ。高校在学中に、演劇研究会で特攻隊員を描いた創作劇を執筆したというから、昭和史への関心はこの頃から芽生えていたのであろう。昭和史の研究家としては、数多くの著作を残した半藤一利さんが知られている。その半藤さん亡き後、昭和史の研究において、いま保阪さんの右に出る人はいない。戦後60年というもの、太平洋戦争は様々の人々に語られ、また記されてきた。しかし、本当にその全体像を明確に捉えたものがあったかといえば、疑問符がつく。保阪さんはそんな大命題に挑んで、多くの人たちの証言から昭和という時代を炙り出そうと試みた。弊社は幸いにも、そんな保阪さんの書きおろし意欲作を2冊刊行させてもらうことができた。それが『一語一会 出会いで綴る昭和史』(2000年8月刊)と『昭和の空白を読み解く 昭和史の謎が明らかに』(2003年8月刊)である。

 保阪さんは、『一語一会』のプロローグに、なぜ昭和史を聞き書きしようと自ら心に決めたのかについて書いている。<昭和という時代>には、あらゆる事件や事象が詰まっている。戦争、敗戦、軍事的制圧、占領、被占領、テロ、クーデター、革命騒動、それに加えて飢えから飽食まで、それこそあらゆる人類の歴史が詰まっている。だから近代日本の国民性を検証するに、<昭和という時代>を見つめることが後世の必須要因になるはず、と喝破したのである。保阪さんのノンフィクション作家への道を切り開いた事件がある。1970年11月25日、三島由紀夫が楯の会の会員とともに自衛隊東部方面総監部に乱入し、決起を呼びかけた後に自決した三島事件である。その日、三島は総監部のバルコニーから「檄文」をバラ撒いている。この檄文の中に「共に死なう」の5文字があり、どこかで目に触れたことがあると保阪さんの頭の中で渦巻いた。


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『一語一会』を改題し刊行(2004年12月刊)

・保阪さんは書いている。もし、「共に死なう」が「共に死のう」となっていたら、目に止めることはなかった、と……。人生は不可思議である。たった1文字が人生を決めることがある。「共に死なう」と旧仮名遣いになっていたことで、昭和初期のある事件のビラに、このような表現があったことに思い至る。保阪さんは、個人的な関心と編集の仕事上で年譜を作成する必要があったため、昭和初年代の新聞には何度か目を通していた。そこで国会図書館に通い詰め、昭和12年2月に新聞で報じられていたはずだとの記憶が蘇った。昭和12年2月18日付け東京朝日新聞の、「“死なう団”死線に踊る」という大見出しの記事に行き着いたのである。「死なう団」を名のる青年が、東京の中心街で切腹未遂事件を起こしたのだ。興味を喚起された保阪さんは、ほぼ2年間にわたってこの事件に関わった元団員やその遺族、さらにその周辺にいた人たちなど、数多くの人に会っているうちに、様々な体験をすることになる。

 この事件を弾圧した警視庁の刑事と幹部の団員を引き合わせることになったり、この事件で警察のスパイとなってしなう団の団員になっていた人の告白を聞いたりした。多くの人の人生の一端を垣間見て、人間の原像を見たのである。同時に、歴史的事実を伝承することの難しさも知らされたという。こうした体験を積み重ねて保阪さんは、昭和史を聞き書きしていこうと決めた。この時代のそれぞれの局面に生きた先達の聞き書きを進め、それをまとめながら、次代に語り継いでしく役割を自らに課すことにしたのである。保阪さんは、5年間勤務した朝日ソノラマを退社してフリーに転じ、1972年に『死なう団事件(軍国主義下の狂信と弾圧)』を上梓し作家デビューすることになる。

・『一語一会 出会いで綴る昭和史』は446頁もの大著であり、全4章立てで構成されている。第一章 歴史に生きる実像(犬養道子、東條カツ、瀬島龍三、美濃部正、鈴木貞一ほか)、第二章 昭和史を貫く心(麻生和子、三木睦子、佐藤千夜子、細川護貞、後藤田正晴氏ほか)、第三章 先達の飾らぬ一言(美作太郎、花山信勝、三宅正一、松田権六、木川田一隆氏ほか)、第四章 一路邁進に生きた人(森元治郎、江田五月、藤山覚一郎、吉岡隆徳、田原総一朗氏ほか)と64人もの証言者が登場している。評論家、元首相夫人、大本営作戦参謀、歌手、芸術家、経済人、ジャーナリスト、政治家など、分野は実に様々である。

 保阪さんは言う。「人は生きる時代を選べない。したがってその生き方はとうあれ時代の空気と枠組みを背負っている」。だからこそ「私たちは先達がどう生きてきたかを検証し、次世代に教訓を伝えなければならない」の強い意思をもってこの本を書き進めた。実際、類書はなく異色の本として販売実績もよく、八重洲ブックセンターでサイン会も行った。当日、多くの保阪ファンが列を作った。さらに嬉しいことに、2冊ともに講談社からオファーがきて、文庫版になって刊行されることになった。保阪さんが個人で年2回、執筆刊行していた『昭和史講座』を中心とする一連の昭和史研究で菊池寛賞を受賞したことも後押しし、文庫版も大いに弊社の経営に寄与してくれたのである。


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『昭和の空白を読み解く』

・2冊目の『昭和の空白を読み解く 昭和史の謎が明らかに』の「まえがき」に保阪さんはこう書いている。「私が描きたいと思っているのは、これまで「聞き書き」のために会ってきた四千人近くの人たちの中から、今なお心に残る人たちとのやのとりやその瞬間に見せる表情の中に、「人間」を感じとったそのことを書きたいがためである。人と人との出会いの中に―たとえそれが瞬時のことであっても―それぞれの人生が交錯する。毎日のように会っていても理解できない関係もあれば、瞬時のうちに理解が可能であり、感情が交流することがある。本書は、私が出会ったときの表現や表情の中に、その理解や交流が可能であった人たちを抽出して、その思い出を語った書である。」。だから本書は、単なる人物論ではない。かといって昭和史の通史を描こうとしたのでもない。「一人の庶民の生きた姿を、ある断面を切り取って描こうとするものである」と……。
 

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タイトルは変えず刊行(2006年8月)

 概要については、第一章 戦争が残した禍根(大友源太郎、山本洋一、古山高麗雄ほか)、第二章 志に生きた人びと(乙戸昇、小沢一郎、渡辺美智雄ほか)、第三章 未来を見通す鋭い目(大原謙一郎、中山素平、宮崎晃ほか)、第四章 昭和史の証言者たち(アレクセイ・アレクセーヴィチ・キリチェンコ、熊沢乃武夫、広橋真光ほか)となっている。本書は『一語一会』の続編ともいうべきものだが、保阪さんにとって、特に思い入れが強い部分があったようだ。「私が出会った人物たちの歴史と関わる一点を取り出し、そのことについて私がどのような感想をもったか、そして彼らの証言によって史実を理解する幅が広がるのではとの思いをこめてまとめた書である。ただ、前著と異なってその人物の証言を昭和史(あるいは世界史)に組み込むことを狙いとした。」とし、書名も『昭和の空白を読み解く』としたと綴っている。政治家、軍人、経営者、文化人ら26人の証言者に切り込んで、当事者の率直な答えや苦渋に満ちた反応は、そのまま昭和という時代の複雑さを物語っている。狙い通り、次代に受け継ぐべき貴重な証言集となっている。

・保阪さんは2019年10月12日から今日まで、BS-TBS毎週土曜日の昼に「関口宏もう一度! 近現代史」という1時間番組にレギュラー出演している。昭和という時代を中心に、日本の近現代史を振り返って検証していく番組である。関口宏さんが歴史上気になる疑問点や不明な点について質問する。保阪さんが歴史上の事件や敗戦に至までの陸海空軍の人の動き、決断の背景などを豊富な知識の中から分かりやすく解説している。まさに保阪さんの面目躍如ともいうべき番組である。僕は時間がある限り、これからも楽しみに拝見させてもらおうと思っている。
 

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BS-TBS「関口宏もう一度! 近現代史」


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保阪さん監修による『志に生きる!』

 最期にもう一つ、忘れてはいけないことがある。実は弊社では、2003年に江口敏さんの著になる『志に生きる! 昭和傑物伝』を出版している。閉塞日本を憂い、孤高を貫いた男たちを取り上げたもので、昭和史において特異な足跡を残した人物を真正面からとりあげた人間論であった。軍国日本と一線画した政治家・軍人・官僚として、中野正剛、井上成美ほか、昭和の言論をリードし抵抗した言論人として、清沢洌、桐生悠々ほか、 伝統精神を受け継ぎ思索深めた苦悩の学者たちとして、河合栄治郎、 柳田国男ほか、芸術世界にわが道を求めた孤高の芸術魂として、三好達治、 原富太郎ほか、閉塞日本の世直しを模索した宗教家・革命家として、北一輝、出口王仁三郎ほか、となっている。実はこの本を監修して頂いたのが保阪さんである。保阪さんのもっとも得意とする分野であり、監修して頂いたことにより、本に箔がつき、内容的にもブラッシュアップすることができた。この場を借りて、感謝の言葉を述べておきたい。

辻清明さん

清流出版 (2021年7月21日 10:28)

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辻清明さん(個展案内状より)

・最近、弊社の単行本刊行ペースは、実用書を中心にした堅実路線に移行しているが、僕が社長をしていた最盛期には、文芸書、芸術関係書などを含む、年間30数点くらいのペースで新刊を出し続けていた。その頃、刊行された本の中で、最も高価格であったのが、『独歩―辻清明の宇宙』(3万3000円 2010年8月)である。辻さんは知る人ぞ知る異端の陶芸家であり、特に師をもたない独立独行の孤高の陶芸家であった。この本に掲載された写真はすべて、土門拳の愛弟子・藤森武さんが時間をかけ丁寧に撮影したものだった。そもそもの発端は、辻清明さんが藤森さんのカメラマンとしての腕に惚れ込み、自らの陶芸作品の撮影を依頼したことに始まる。その藤森さんのたっての希望で、この豪華本企画が弊社の俎上に乗ることになったのだ。


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個展案内状

 その辻さんの工房から30年ぶりに未発表のガラス器が多数見つかり、銀座・吉井画廊で「辻清明ガラス器展」が開催されるとの案内状が届いた。他ならぬ辻清明さんの未発表作品とあれば、僕は見たい気持ちで心が浮き立った。この豪華本の担当編集者だった臼井君を誘って出掛けることにした。嬉しいことに、入り口を入ってすぐのテーブルに、この豪華本が晴れ晴れしく飾られていた。辻さんにとって、ガラス器は余儀に当たるが、性格的に徹底してのめり込むタイプであり、創出された作品群も余儀を超えていた。辻さんとごく親しく、気に入れば作品の購入もしていた白洲正子さんはこう評している。「彼の面白いところは、決して自分の築き上げた位置に安住せず、いつも新しいものを求めて熱中することだ」とし、「その粗削りな素質も、やんちゃ坊主みたいなところも、永遠の青年というべきだろう」と高い評価をしていた。


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題字は辻清明さん直筆

・だから余儀といいながらも、辻さんにとって本物を追求する姿勢は、陶芸作品のそれと少しも変わらなかった。その辺りのことについて白洲さんは、「作家の余儀というものはいつも美しいが、肩の力を抜いているからで、余儀と言っても本職の仕事によって蓄積されたものが無意識に表現されたものだ」と喝破していた。「金や銀のほかにも、様々な色彩を自由に使い分け、器のふちを鋏で切ってあったりするのが面白い」など、辻さんが創作した斬新なガラス器を絶賛している。会場にも高台のついた器や百合鉢など、陶磁器制作の発想を転用したガラス器作品が目を惹いた。また、筆だけでなく、時には筆替わりに藁束も用いたという、のびやかな書作品もこの会場に飾られていた。


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金をふんだんに使った絵皿ほか

 辻さんのご自宅兼工房は、新宿から京王線特急で30分ほどの聖跡桜ヶ丘駅にあった。駅からタクシーに乗って15分ほどの距離だ。山の中腹にあり、傾斜を利用して建てられていた。玄関前にはちょっとした野外パーティもできる庭があり、竹林がある奥まった場所に登り窯がしつらえてあった。敷地全体に、桜の木を中心とした植栽がなされ、小道を少し下ったところには、立派な茶室も設えられているといった凝りようだった。白洲さんと辻さんのお付き合いは古く、辻さんが聖蹟桜ヶ丘に登り窯を築いてすぐのことだったという。地理的にも白洲さんの住んでいた町田市鶴川は、聖蹟桜ヶ丘からそう遠い距離ではない。散歩がてらといって辻さんが訪ねてきたり、逆に白洲さんが辻さんの工房に新作を見に訪れることもあったようだ。


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いかにも涼し気なガラス器

・辻さんは信楽焼き風の作品を造っており、白洲さんは「お互いに若くて閑のある頃だから行き来は楽しかった」とし、「徳利やぐい飲み等、私が気に入ったものは惜しげもなく下さった」とも書いている。1955年に登り窯を築いて以降、辻さんは、信楽の土を用いた無釉焼き締め陶を活動の中心とし、古美術の蒐集や芸術家との交流を通して感性を磨き、信楽特有の美の世界を構築していった。白洲さんも「丈夫で、使い勝手がよくて、形がしっかりしている。それが辻さんの焼き物の特徴であるとともに、人間の性格も表していると思う」とその作風に言及している。


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伸びやかな書も辻さんの手によるもの

 ・辻さんのプロフィールを簡単に紹介しておこう。1927年、東京府荏原郡(現・東京都世田谷区)に生まれる。四人兄弟の末っ子。同じ陶芸家の辻輝子さんは姉である。1941年、輝子さんとともに「辻陶器研究所」を設立し、倒焰式窯を築いた。骨董・古美術を愛好した父と、その父を頻繁に訪れる古美術商の影響もあり、幼少の頃から焼物に惹かれ、学校へはほとんど行かずに陶芸を学んだ。父にせがんで初めて買ってもらったのが、雄鶏をいただき透かし彫りのある野々村仁清作「色絵雄鶏香炉」だったという。信楽焼きを得意とし、優れた作品群を制作している。陶芸作品は、ホワイトハウスを始めとして、欧米の美術館・博物館に収蔵され、また、国家元首クラスの要人へのお土産としても多く使われた。そのことをもってしても、その異才ぶりは際立っていた。晩年、ドナルド・キーンさんと一緒に東京都の名誉都民ともなっている。キーンさんとは、安部公房を介して知り合い、連光寺の自宅に招いたこともある。蕎麦打ちが得意だった辻さんは、自宅の庭で、野外パーティなどもよく開いた。自分の焼き物で蕎麦を供するとは、なかなか風流なもてなし振りであった。2008年、肝臓がんのため逝去。享年81であった。


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ガラス器展示作品

 ・その辻さんが仲人をしたのが、藍染作家で陶芸家でもある菅原匠さんである。菅原さんが毎年、銀座松屋デパートで開催する陶芸作品と藍染作品の個展は、僕も毎年楽しみにしている。その菅原さんに伺った話なのだが、ある時、辻さんが助手を連れて伊豆大島の菅原邸を訪ねてきたことがあった。菅原さんも、話には聞いていたものの、辻さんの酒豪ぶりには度肝を抜かれたらしい。新鮮な魚介類を肴に酒を飲みながら食事をし、菅原さんは夜半を過ぎたのでさすがに疲れ、眠ってしまった。ところが、辻さんはといえば、その後も飲み続け、菅原さんが朝起きてみると、なんと清酒一升、焼酎一升、ウィスキー1本を開けたうえ、まだ酒が残っていないかと家探しをしていたという。豪快といえば豪快な大酒呑みだったようだ。死因の肝臓がんだが、この大酒飲みだったことも起因していたのではないか、と僕は思っている。僕も酒飲みだから分かるのだが、お酒は止めようと思ってもなかなか止められないもの。しかし僕も病身の身、辻さんの飲みっぷりは他山の石としなければなるまい。

 とにかく30年ぶりに見つかったというガラス器の数々は、辻清明という作家の才能の煌めきを再認識することになった。その辻さんの豪華本を思い切って刊行に踏み切ってよかった。弊社としては、初めての高価格本であり、僕も売れるかどうかの判断がつかず逡巡したが、それも杞憂に終わった。辻さんの関係者が販促に協力してくれたこともあり、思った以上に売れたのである。このガラス器展に、藤森武さんが僕の訪れる数日前に展観していったという。できればお会いしたかったが、こればかりはどうしようもない。最期に辻さんの理解者であった白洲正子さんの言葉で、このガラス器展の締めの文章としたい。「本職と余儀の区別がなくなった時、言い換えれば、作品が人生そのものとなった時、真に美しいものが生まれるのではなかろうか」。まさに至言である。


田中優子さんと鈴木れいこさん

清流出版 (2021年6月23日 09:29)

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前法政大学総長・田中優子さん

・今回は二人の女性をご紹介したいと思う。まず1人目は、2014年4月より東京六大学史上初の女性総長として活躍された田中優子さんである。田中さんはこの3月末日をもって、法政大学総長を7年間務め、任期満了で退任された。これからはご専門の江戸近世文化・アジア比較文化を基軸として、さまざまな創作活動に取り組んでいかれるとのこと。弊社では田中さんに、月刊『清流』2011年5月号から2013年11月号まで連載で、ご執筆頂いた。連載終了後、加筆修正して、『鄙(ひな)への想い――日本の原風景、そのなりたちと行く末』(2014年3月刊)として単行本化させて頂いた。

 振り返ってみると、この本は不思議な縁で生まれたといっても過言ではない。というのも、田中さんが「まえがき」でこう書いていることからも分かる。『やはり本書は、写真家・石山貴美子へのオマージュで始めなくてはならない。いや、そこからしか始まらない。月刊誌の連載に当たって「この中から一枚を選んでくれ」と、渡された一八〇枚の写真を見ているうちに、私の中にわき起こってきたぬきさしならぬ感情こそが、まさに私にとっての「鄙への想い」であり、それは石山貴美子の写真ぬきではあり得ないのだ。』


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2014年3月刊行

・連載が始まると、思わぬ展開が待ち構えていた。当初、田中さんの心づもりでは、『江戸を歩く』(2005年 集英社新書刊)を一緒に作った写真家・石山貴美子さんとのコンビでまた仕事がしたいと思っていた。石山さんが、秋田県能代市二ツ井町の切石の出身と知り、江戸文化研究から秋田に関心を持っていたので、『江戸を歩く』の鄙版をイメージしていたのだ。『江戸を歩く』は、東京の街を歩いて、身近な場所に江戸の名残りを発見していくというもの。千住、浅草、深川、日本橋、神田、本郷、品川……。「記憶の風景」をもとめ、田中優子さんと写真家・石山貴美子さんがコラボしたものだった。だから当初、秋田の山や川、そこに暮らす人々をめぐる軽いエッセイを書くつもりだったのである。ところがだ。「あとがき」に綴るように、急遽、方向転換を迫られることになる。田中さんが『この連載の最初の原稿を書いたのは二〇一一年二月だった。そして二回目を執筆したのが三月二〇日である。その間に三月一一日という「鄙」にとって決定的な日がはさまっていた。』

 1回目を書いた後で、あの3月11日がやってきたのである。『まるで「そんな表面的なことを書いても仕方ないよ」と言われながら、地球の表を一枚べろりとめくられたような気分だった。』とその時の心情を吐露している。3.11によって表面化したものには、鄙と都の構造的問題がひしめいていた。『鄙はもはや「コミュニティ」といえないほど生産力を失い、そのことによって都(を中心にする国家)に利用され、グローバリズムに翻弄され、依存を余儀なくされている。』と心を痛めることになる。「連載中、鄙と都の構造的矛盾に苦しい思いをし、あまり楽天的にはなれなかった」としながらも、「人間によって作り出されたことは、人間によって変えることができる」と信じる楽観主義者たちがいるからこそ、世界は変わってきたのだと再認識し、「潜在的な可能性」を信じ、「よりよい方向性を選択する」真のオプティミストになろうと心に期し、連載を継続して頂いたのだ。

 第三章は、かなりショッキングな内容に切り込んでいる。「富と権力が都に集中し鄙は見捨てられるのか」のタイトル通り、福島原発の放射能汚染、核のゴミ捨て場、沖縄基地問題などに言及し、鄙は日本の矛盾が集中する場として差別され、見捨てられるのか、と鋭く問題提起をしている。鄙の問題は水俣病でも噴出していた。田中さんはこう書く。「水俣湾への有毒物質の排水と、原発稼働のための排水は、すべて同じ考えのもとで行われている。生命の宝庫である海が、都合良く毒物をどこか見えないところに運んで行ってくれるはずだ、という思い込みだ。いや、思い込んでいるのは地域住民で、それを誘致する首長や行政は確信犯だ。」と喝破している。放射性物質を含んだ水は現在も溜まり続けており、複雑なろ過プロセスで処理されてはいる。ほとんどの放射性物質が取り除かれているものの、極めて危険なトリチウムなどは残存したままだ。

・そんな100万トン以上の処理済みの汚染水を現政権は、福島県沖の太平洋に放出する計画を承認しようとしている。田中さんが危惧していた鄙の切り捨てを、まさに実行しようとしている。「もんじゅ」も同じである。「(高速増殖炉『もんじゅ』と六ヶ所村の再処理工場の)実用化についてもそもそも無理であった。永遠のリサイクルが実現してこそ核のゴミが出ることは正当化できたのだろうが、結局ゴミだけ抱え込むことが明らかになった。」このように田中さんは、鄙と都の構造的問題点を本書で見事に抉り出してみせた。鄙が自然や共同体や祭りの根源のはずであったが、矛盾のしわ寄せが集中する場所になってしまった。世界に冠たる江戸文化のように、豊かさを分け合うことで、豊かさが戻る仕組みを作らなければなるまい。これが田中さんの喫緊の課題となっている。是非、そんな新たな日本的な仕組みを提案してもらいたい。僕は期待して待ちたいと思っている。


●鈴木れいこさん


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鈴木れいこさん

・2人目にご紹介したいのが鈴木れいこさんである。弊社の単行本著者のお一人だが、最近、御年86歳にして彩流社から『ときを駆ける老女 台湾・日本から世界、そして台湾へ』を刊行された。タイトルがなんとも魅力的である。それにしてもなんという旺盛な執筆意欲であろうか。僕は6歳も年下ということになるのだが、とてもこれほどの気力はない。月々のホームページを書くのでさえ、四苦八苦という有様である。

 鈴木さんには大変お世話になっている。前にも書いたことがあるが、僕の古巣、ダイヤモンド社時代によくお見かけし、取材もしたことがある松田妙子さんの来し方を書いてくれたのだ。それが『旺盛な欲望は七分で抑えよ――昭和の女傑 松田妙子』だった。さすがに松田妙子女史は女傑の名に恥じない方であった。なんと売れ残っていた在庫分を、すべて買い取ってくれたのである。見本数冊を残して、完売してしまった。弊社にとってこれ以上ない理想的な単行本企画であった。

・今回の『ときを駆ける老女』は、鈴木さんの自叙伝ともいうべき本である。タイトルの通り「ときを駆ける」ように世界中を駆け巡ってきた。父君は台湾で以前からあった台湾紡織と日華紡績が合併して作られた工場の工場長だった。やがて現在の野村証券につながる、野村徳七翁他の財界人の知遇を得て、日華紡績の台湾工場を引き継ぐかたちで、台湾繊維工業(株)の設立に加わり、社長として会社経営をしていた。1935年の会社創立は、奇しくも鈴木さんが生まれた年でもある。その時、すでに3人の姉がおり、四女として生を受けた。すぐ上のお姉さんと10歳もの差があったというから、一人っ子のように可愛がられたようだ。


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2020年 彩流社刊

・鈴木れいこさんのプロフィールを簡単に触れておく。1935年、台湾台北市の生まれ。1947年、台湾を引き揚げて日本に帰国する。青山学院中・高等部を経て、アメリカのフィラデルフィア・ミュージアム・スクール・オブ・アートに学ぶ。1980年、朝日新聞の新聞記者だった夫君の定年後、台湾、シンガポール、インド、アメリカ、カナダ、スペイン、ポルトガル、コスタリカ、メキシコなどを訪ね、一年のほぼ半分を海外旅行に費やした。なぜこのような海外旅行を続けてきたのか。それは「ささやかな年金で、老後を心豊かに暮らせる国はないものか?」というのが、夫婦二人の共通認識であった。それを見極めたら、夫婦で海外に移住し、一番住みやすく気に入った国で、生涯を終えたいとの夢があったからである。

 そのためご夫妻の旅は単なる旅行ではなかった。旅行先の国で最低3ヶ月は住んでみることを信条とし、実際にそれを実行したのである。この破天荒な世界各地への旅は、『旅は始まったばかり――シニア夫婦の生きがい探し』(ブロンズ新社刊)、『世界でいちばん住みよいところ』(マガジンハウス刊)として刊行されている。鈴木さん夫妻には、「何でも見てやろう精神」が息づいている。だからいくつになっても、何か新しいことに挑戦し続けてこられたのだと思う。鈴木さんにとって「捨ててゆく暮らし」は理想形であった。台湾からの悲惨な引き揚げ体験が原体験となっていた。日本の生活でのしがらみや約束事から解き放されたいと思っており、根無し草的な生き方をむしろ歓迎したのである。


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鈴木れいこさんと僕

・鈴木さんは、小学校5年生の時に終戦を迎えた。1945年、父君は社長をしていた台湾繊維工業の経営と技術を、進駐してきた国府軍に引き渡すために、軍の顧問という形でその後2年余り台北に留まり、一家は引き揚げ船「橘丸」で日本に引き揚げた。すべてを失い、祖国に帰った日を境に、暮らしは凋落の一途を辿っていたが、身に付いてしまった贅沢な暮らしへの慣れは払拭できない。祖国のちんまりとまとまった約束事の多い生活は、不便極まりないと感じていたようだ。それが日本を離れ、「ささやかな年金で、老後を心豊かに暮らせる国はないものか?」と探し求めて放浪することに繋がったのではないだろうか。

・さて、鈴木さんは、また新たな分野に興味を持ち、挑戦していると聞き心底驚かされた。なんとこれまでとは異質の、絵本と童話作家に挑戦しているのだという。鈴木さんには2人の娘さんがおり、お孫さんが何人かいる。そんなお孫さんの子育てを手伝った際に、自作のお話が大いに受けたことがあり、それが童話を書きたいとの動機になったようだ。嫌われモノの昆虫を主人公にした絵本はすでに書き終えた。現在、原稿をとある絵本専門出版社に預けてあり、結果待ちだそうだ。童話も何作か書きかけのものがあり、こちらもいずれ完成させて売り込みたいという。この執筆意欲は一体どこからくるのか、僕には考えられない。とにかくなんとか形になって欲しい。形になれば、86歳の絵本作家の登場なんて、世間の話題を呼びそうである。そんな鈴木さんの夢が実現するのを、見届けたいものである。

中野孝次さんほか

清流出版 (2021年5月20日 16:05)

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(1999年10月刊)

・先月、僕は清流出版の来し方を振り返って、多くの猫好きな作家に月刊『清流』への取材や寄稿、また単行本執筆などでお世話になり、ここまでやってこられたことを書いた。今回は、「犬好きな作家」にも言及して、お礼を申し上げておかなければ、不公平になるとの思いから、犬好き作家について書いておきたい。前回は、村松友視、小池真理子、南伸坊のお三方による猫鼎談について書いたが、実は犬鼎談も単行本として刊行している。『犬は東に日は西に』(1999年10月刊)がそれだ。犬好きにおいては、人後に落ちないというお三方の鼎談である。まず、ベストセラー『清貧の思想』で知られる作家・中野孝次さん。なんと柴犬好きが高じて、飼い犬と一緒のお墓に入りたいとまで言い、実際、立派な愛犬のお墓を建てたとか。そして漫画家・黒鉄ヒロシさんは、愛犬のゴールデンレトリバーと住むために、大型犬が飼えるマンションを購入し、犬と一緒に酒場通いまでしたという強者だ。三人目の劇作家・演出家として知られる如月小春さんも負けていない。幼い頃から傍に犬がいて、その犬に妹のように可愛がられて育ったという。そんな三人だから、初対面だったにもかかわらず、大いに盛り上がったようだ。

 場所は猫鼎談同様、東京神田駿河台の「山の上ホテル」で、昼食を挟んで、ほぼ丸一日かけて収録したものだ。もちろん単なる「犬バカ」ぶりの披露では終わらない。当然ながら、シリアスな現代文明論ともなっている。高齢社会の進展、ボケ問題、孤独死、ペットロス症候群等々が話題にのぼったのは、必然的なことであった。僕もできれば会場に出向き、ご挨拶だけでもしておきたいと思ったのだが、所要で伺えなかった。それにしても中野孝次さん、如月小春さんはすでに泉下の人となり、現在も活躍しているのは、黒鉄ヒロシさん1人になってしまった。

・この本の装丁・装画は、僕がダイヤモンド社時代からお付き合いのある和田誠さんにお願いした。小型・中型・大型の三匹の犬が、シンボリックに描かれているが、この画を見れば一目瞭然で和田さんの装丁だとわかる。この本の「あとがき」には、鼎談者三人の犬への熱い思いが書かれている。「犬好きの論客を三人集めておしゃべりさせたら、どういうことになるか。それを地で行ったようなのが、この鼎談だった」と書いたのは中野孝次さんだ。1999年9月9日の「九ずくめの重陽の日に」と書いてあるから、この日に「あとがき」を書いて頂いたのであろう。そして亡くなったのが2004年7月である。ほぼこの本の刊行から5年後に亡くなられたことになる。

 同様に「私の犬たちに 心からありがとう!」と綴った、如月小春さんは、なんと刊行からほぼ1年後の2000年12月に44歳の若さでこの世を去ってしまった。眩しいほどの才能の持ち主だっただけに、もっともっと活躍して欲しかった。あまりにも早過ぎた如月さんの死であった。僕の好きな演出家だっただけに、とても残念である。黒鉄さんに関してだが、実際に犬連れで酒場に行ったことがあるらしい。ご自身は当然お酒を飲み、ゴールデンレトリバーの愛犬は足元に座ってミルクを飲んでいた。実に微笑ましい情景が、まざまざと浮かんでくる。この愛犬は癌になったが、手術が成功して復活したことも聞いた。こんな飼い主と愛犬の情愛は、僕には分からないが、いい話だと思った。その後、どうしているだろうかと気になっている。


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(1998年11月刊)

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(2003年5月刊)
 
・大変お世話になった犬好き作家として、演出家・作家の久世光彦さんを忘れてはならない。久世さんの犬好きは有名で、なんと『犬に埋もれて』(2006年8月 小学館刊)という単行本まで出している。「文章と写真で綴る急逝した作家と愛犬の日々」と惹句にある。久世さんと愛犬(ポメラニアンがお好きだった)たちの、のどかで賑やかな日々として、多数の写真とともに犬たちとの心の通い合いが描かれている。その久世さんに月刊『清流』に長らく連載をして頂いた。写真とエッセイで綴る「あの頃、こんな暮らしがあった」である。最初は山本夏彦翁に書いて頂き、途中で久世さんにバトンタッチした。名だたる名文家二人のエッセイと当時の写真で、「鮮やかに甦る、昭和あの頃」は、大いに話題を呼んだ。昭和の時代、原っぱや露地では、ベーゴマやメンコ、あや取りや、ままごとで遊ぶ子どもたちの声が響きわたり、家では夕餉の支度に忙しい割烹着姿の母親がいた。そして、この連載エッセイは2冊の単行本として結実した。それが『昭和恋々 あの頃こんな暮らしがあった』(1998年11月刊)、『昭和恋々 パートⅡ』(2003年5月刊)であった。
 振り返ってみると、生活の中で昭和を感じさせるものが次々と消え去ったことに気づく。そんな懐かしい昭和の暮らしを名文家二人が、誌上で生き生きと蘇らせてくれた。夏彦翁は「下宿屋」、「髪床」、「質屋」などを引き合いにし、戦前の東京の街を鮮やかに描いており、久世さんは「入学式」、「虫干し」、「七輪」、「障子洗い」といった季節の風物詩から、戦中、戦後の庶民の生活ぶりを浮かび上がらせた。本書は多くの新聞、雑誌、テレビでも取り上げられ、弊社のベストセラー商品となった。いつ読んでも、何度読み返しても、しみじみと心に沁みてくる。僕はこの本を世に出せて本当に良かったと思っている。おまけにこの本は文藝春秋から文庫化されて刷りを重ねたのだから、編集者冥利に尽きるというものだ。久世光彦さん、山本夏彦翁には心からの感謝の意を表したい。


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(2002年6月 文春文庫刊)

・落合恵子さんにも触れておきたい。落合さんには、弊社から『サボテンとハリネズミ トゲトゲ日記』という本を出させて頂いた。落合さんも犬好きで知られ、ご自宅で飼っていたころは、愛犬との毎日の散歩を楽しみにしていた。犬の翻訳本も出版されている。『犬との10の約束』(2004年10月刊)という本で、世界中の動物サイトに伝わる作者不明のおとぎばなし「犬の十戒(The ten commandments)」と、「虹の橋のたもとにて(At the rainbow bridge)」を翻訳して刊行したものだ。「あなたがそばにいてくれるだけで、私はどんなことでも安らかに受け入れることができます」の惹句通り、犬は豊かな人生を生きるための大切なパートナーであるとしている。

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(2002年11月刊)
 
『サボテンとハリネズミ トゲトゲ日記』は、落合さんが『週刊 金曜日』に連載したエッセイを単行本化させて頂いたものだ。日頃から「私の元気のもとは怒りです。納得がいかないことが、こんなにもある。だから私は元気です。草萌ゆる誰に遠慮がいるものか」と記しており、ますます意気軒高である。だからこそ「異議あり!」を言い続けなければならない。羅針盤のない航海をしていては、日本は迷走を続けるしかない、と苦言を呈している。そんな強い気持ちが、タイトルの「サボテンとハリネズミ トゲトゲ日記」に表れている。このタイトルは落合さんのご希望であったと聞く。装丁はデザイナーの西山孝司さんにお願いした。日記をモチーフにしたお洒落なデザインの本にしてくれた。落合さんも、気に入ってくれたようだ。


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神宮前の「クレヨンハウス」

・落合さんは31歳の時、絵本の専門店「クレヨンハウス」をオープンさせている。幼少期に、人生を豊かに彩るいい絵本に出合って欲しい、の気持ちからだった。清流出版も10数冊の絵本を出版した。この「クレヨンハウス」でも随分販売して頂いたが、絵本を納める時のルールを聞いて僕は驚いた。なんと「クレヨンハウス」で販売する絵本の帯は、すべて取り去って陳列するというのである。この辺の考え方が、いかにも落合さんらしい。帯の惹句に惑わされずに、じっくり自分の好きな絵本を、選んで、読んで、それで納得したら購入すればいい、という考えなのである。

 大抵の本屋さんは、長時間の立ち読みは嫌がる。ところが「クレヨンハウス」内には、座って読めるように各所に椅子が置いてあり、ゆっくり絵本を選べるようになっている。地下には無農薬野菜の売り場もある。今では大阪にも支店があり、「ミズクレヨンハウス」も含め、従業員は100人以上になっている。そんな従業員が路頭に迷わぬよう、自分の財産、会社の財産等について、毎年1月1日に遺書を書き換えるという。理不尽なことに対し声を上げ、一方で先を見据えた優れた経営者の顔も持つ。僕は藤原書店が主宰した「岡部伊都子全集」の出版記念パーティでお会いしたが、あまりお話することはできなかった。お会いする機会はないだろうが、陰ながら一層のご活躍をお祈りしている。


・まだまだ犬好き作家はいる。俵萌子さんは弊社の特集記事のインタビューや原稿を寄稿して頂いた。赤城山に陶房を持ち、愛犬との生活を楽しんでおられた。3000坪の敷地には、清流が流れており、初夏には蛍が舞った。本田技研の創業者・本田宗一郎氏もご自宅で蛍を楽しむ夕べを催して、多くの招待客を楽しませたようだが、臼井君によれば赤城山の蛍の舞いも、とても風情があって忘れられないという。僕は俵さんの退路を断って進む思考法も好きだった。中野の自宅と赤城山を往復するため、車の免許が必要となると、まず車を購入してしまう。時間もお金もかかったが、見事に免許を取得した。陶芸もそうだ。遊び心で陶芸をしても、進歩もないし真剣味も足りない。そこで萌美術館を作って、自分を追い込むように作陶に励んだ。なかなかの豪傑でいらしたと思う。
 
 天満敦子さんの紀尾井町コンサートは、毎年楽しみにしているが、天満さんも犬好きで、パンフレットの写真は、白い犬とのツーショットでずっと変わらない。天満さんと親交の深い石川治良さんによれば、メールのやり取りをする際、犬の写真を添付すると喜んで返信してくるという。根っからの犬好きなのだ。そして山田真美さんである。愛犬はシーズーの「ブースケ」と「クースケ」、狆の「パンダ」だとウィキペディアにもある。『ブースケとパンダの英語でスパイ大作戦』(2003年1月 幻冬舎刊)という本を出しているが、ブースケとパンダはこの愛犬の名である。長野の家に帰って、犬と遊ぶのが至福の時らしい。真美さんには『インド大魔法団』(1997年1月刊)と『生きて虜囚の辱めを受けず』(1995年11月刊)の2冊を刊行させて頂いた。コロナ禍が終息したら、お酒でもご一緒したいものである。

高田宏さんほか

清流出版 (2021年4月23日 16:53)

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高田宏さん 月刊「清流」より

・先月、僕はこのコーナーで養老孟司さんの愛猫であった「まる」ちゃんの死について書いた。つらつら考えてみるに、猫と作家の関係というものは、濃厚であることは古くからよく知られている。平凡社から『作家と猫』や『作家の猫』といった単行本が刊行され、素晴らしい販売実績を上げているとも聞く。また、雑誌でも困ったときには「猫特集」を組めば、売れるので一息つけるということも聞いた。作家は、書斎にひきこもり、ひたすら言葉を紡ぎだすのが仕事である。他者は必要としない。猫は独立独行のところがあり、作家とよく似ているから猫好きが多いのではないかとも思えてくる。

 高田宏さんも猫好きで知られた作家の1人である。奥沢のご自宅を訪ねると、5、6匹の老猫がたむろしていて、気が向けば出迎えてくれるとか。猫たちはあたかも空気のように高田家に溶け込んでいる。高田さんは、「猫ほど気ままで、悠々自適な生活が似合う動物はいない」とし、人生の道連れと考えておられた節がある。できうるならば「猫に生まれてみたい」とまでおっしゃっていたほどだ。僕は犬も猫も関心がないので、この辺りの心理は理解不能である。ただ、猫にもそれぞれ個性があり、色んな性格の猫たちとの付き合いが、高田さんの人生を彩ってきたということは、お話からも理解できた。こうして振り返ってみると、弊社も多くの猫好き作家に支えられて今日があることに思い至った。今回はそんな猫好き作家について書いてみようと思う。


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猫と戯れる奥様と高田宏さん 月刊「清流」より

 
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弊社刊行の高田宏さんの本

・昨今の猫ブームの中心にいて、牽引車のような立場にいるのが、動物写真家・岩合光昭さんである。NHK BSプレミアムで放映中の 「岩合光昭の世界ネコ歩き」は猫好きにはたまらない番組だという。岩合さんがビデオカメラを手にして世界中を旅し、現地で逞しく生きる野良猫や、飼い猫たちの生き生きとした生態をカメラに収めてきた。世界中のネコと出会い、心から撮りたいと願った猫の“家族愛”や“親子の絆”を流れゆく季節の中で追ったりもする。フロリダのキーウエストにはヘミングウェイの家(The Ernest Hemingway Home & Museum)がミュージアムとして残されている。  そのミュージアムの猫たちを岩合さんが取材した回は面白かったと聞いた。
 
 楽しみに見たという臼井君によれば、文豪ヘミングウェイが晩年を過ごしたという家と、猫好きのヘミングウェイがどんな生活をしていたのか。その一端が知りたいから、僕もその話には興味を魅かれた。ミュージアムの屋外には熱帯植物が茂り、屋内にはヘミングウェイとその家族が使用した様々な調度品が展示されている。自身が原稿執筆に使ったタイプライターも置かれ、その横に猫たちが長々と寝そべっている。気ままに歩き回る猫や寝転んでいる猫たちを写真に撮ったり、優しく撫でている観光客もいる。ヘミングウェイの愛した猫たちは、不思議なことに指が6本ある。その末裔の猫たちがカメラに収められている。確かに手足が普通の猫の2倍くらいあったという。その岩合さんもわが月刊「清流」にご登場いただいた。


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月刊「清流」掲載

・弊社も極めつけともいうべき猫本を出している。それが『ネコ族の夜咄』』(弊社刊、1999年)と題した鼎談本である。直木賞作家・村松友視さん、直木賞作家・小池真理子さん、イラストレーターの南伸坊さんの豪華メンバーである。こしまきのキャッチコピーも秀逸だった。「だから、あなたに首ったけ!」、「“猫派”として人後に落ちない三人が、猫の魅力を縦横に語り尽くした」とうたった。鼎談は東京神田お茶の水の「山の上ホテル」で行われた。ここは出版社がよく作家を缶詰にして、原稿執筆を促すホテルとしても知られている。村松さんと小池さんとは、この日が初対面であったが、そんなことはまったく感じさせないほど、打ち解けた鼎談になった。ほぼ、1日缶詰になって頂いたことになる。猫にまつわる面白いエピソードが披露され、最初から終わりまで笑いっぱなしのような鼎談だったようだ。鼎談後、山の上ホテルの地下レストランでワインを開け、楽しい宴でお開きになったという。

 
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・この本の刊行に際して、清流出版ではサイン会を開催した。僕もサイン会は、何回も開催してきた。しかし、三人揃ってのサイン会というのは初めてだった。東京八重洲の八重洲ブックセンターで行われたが、猫好きがサインを求めて長蛇の列を作った。このサイン会で僕は残念な決断をした。今でも心残りに思うのだが、会場の混雑を心配するあまり、サイン本は1人1冊に限るとした。三人が順番にサインをしていくのだから、時間的にも余裕をもたなければと考えた。ところが、結構、お三方共に、サインするスピードが速く、弊社の落款押し担当者の奮闘もあって、とてもスムーズにサイン会は進行したのである。1人で5冊、10冊と購入して、猫好き仲間にプレゼントしてもよかったわけで、結果的に売れるものを売り損じてしまった。この本は増刷にもなり、弊社は十分儲けさせては頂いた本なのだが。その後、作家・中野孝二、漫画家・黒鉄ヒロシ、劇作家・如月小春のお三方による犬鼎談も弊社から刊行したが、3人によるサイン会をすることはできなかった。僕にとって鼎談者3人のサイン会は、後にも先にもこれ1回だけである。いい経験をしたと思っている。

・猫好きが書いた本で、この本を忘れることはできない。世界的なピアニスト、フジコ・ヘミングさんの『魂のことば』である。浮き沈みの大きい、波乱万丈の人生を歩んだフジコさんが、信念として心に刻んできた言葉を集大成したものだ。「大切にしているのは、私だけの“音”よ。」と語る彼女の魂の言葉は、音楽の持つ魅力の核心を衝いている。彼女はピアノの腕を磨くため留学していた時、お金が無くなって、1週間、砂糖水だけで過ごすといったどん底生活も体験している。厳冬の最中にあって灯油を買うお金もなく、風邪を引いてしまい右耳の聴力を失った。コンサートデビューの夢も淡雪のように消えた。そんなどん底にあっても信仰が支えた。熱心なクリスチャンだったフジコさんは、神様がいつか助けてくれる、と信じて生きてきたのである。

 フジコさんは、今も左耳だけしか聴こえない。それも普通の人の40パーセント程度しか聴こえないという。取材する時も、フジコさんの左隣に座って左耳に話しかけなければ、やりとりができない。そんな音楽家として決定的とも思えるようなハンディなどものともせずブレークした人である。あるクラシック音楽ファンが、フジコさんの演奏はミスタッチが多過ぎると非難したことがある。それに対する答えが、彼女のこの言葉であろう。《大事にしているもの?  それは“音”よ。私だけの“音”。誰が弾いても同じであるなら、私が弾く意味なんかないんじゃない。》 なんという自らの音楽への自信であろうか。犬も猫も好きなフジコさんは、捨て猫や捨て犬を無視することができない。だから見つければ連れ帰ってしまう。日本の家には、何匹かの犬も猫もいる。ほぼ半年間のフランス生活では、日本の犬猫を世話するための人を雇っているほどだ。だからであろうか、この本の印税を捨て猫や捨て犬の救済活動にと寄付している。こうした生き方には共感するところが多く、僕は大好きなピアニストだ。この本を弊社から出させていただいたことに心から感謝の意を表したい。


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フジコ・ヘミングさんの『魂のことば』(弊社刊)

・その他の猫好き作家にも謝意の心を捧げておかねばならない。熊井明子さん、桐原春子さん姉妹も猫好きであり、熊井さんは猫に関するエッセイ集も出している。弊社からはエッセイ集『こころに香る詩』と熊井啓さんと夫婦合作の『シェークスピアの故郷』を、桐原さんには『ハーブルライフ』と『桐原春子の花紀行―世界の庭園めぐり』を出させていただいた。そして仏文学者・鹿島茂さんである。鹿島さんは『私の猫様大自慢 : 36名の猫好き有名人』に登場して、愛猫自慢をするほどの猫好きで知られる。この本の中で、「背中の黒猫、膝のまだら猫はおかしくも心休まる存在だ」などとコメントしており、特に黒猫系がお好きなようだ。鹿島さんには弊社から『神田村通信』に続き、ラ・フォンテーヌの寓話を出させていただいており、大変お世話になった。
 
 
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鹿島茂さんの著作である

 
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・華道家・假屋崎省吾さんもよく猫自慢の文章を書いている。假屋崎さんには、月刊「清流」に連載した華道の楽しみ方をまとめて『假屋崎省吾の暮らしの花空間』を出させていただいた。雅叙園の百段階段で開催された華道展やイベントにも、随分招待してくれ眼福を味わうことができた。感謝申し上げる。最期になったが、絶対に忘れてはならないのは敬愛するイラストレーターで装丁家の和田誠さんである。僕は和田さんにはダイヤモンド社時代から公私ともに随分お世話になったが、愛妻・平野レミさん同様に。大のつく猫好きだった。『週刊文春』の表紙絵では、鳥や動物たちをたくさん描いてきたが、一番多かったのはやはり猫だったという。僕は毎週発売の和田さんの描く『週刊文春』の表紙を見るのが、大好きだった。最期はわが敬愛した和田誠さんの表紙絵で締めくくりとしたい。

養老孟司さん

清流出版 (2021年3月23日 11:32)

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写真:臼井雅観

・新型コロナウイルスは「変異ウイルス」の感染者が増えており、政府もその対応に苦慮している。こうしたコロナ禍での巣ごもり生活やテレワーク(在宅勤務)などの影響もあり、空前のペットブームが到来しているらしい。長引く外出自粛や在宅勤務で、疲れた心をペットに癒してもらうという期待感があるのであろう。だから体の大小に極端な差はない猫はともかく、人気の犬の種類は室内で飼えるチワワやプードルといった小型犬種だという。「ペットフード協会」の調査によれば、昨年、新たに飼われたとされる犬猫はおよそ46万匹以上と類推されるとか。一昨年と比較して実に6万匹以上も増加したといわれる。どうしてこんなことから書き始めたかというと理由がある。440万部を超える大ベストセラー『バカの壁』の著者で、ネコ好きとしても知られた解剖学者・養老孟司さんの愛猫「まる」が昨年末のことだが、亡くなったと共同通信社などが報じていた。18歳だったという。なぜ、1匹の猫の死がこのように報じられたのか。それだけ世間的にもよく知られた猫だったからである。

 
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「まる」写真:臼井雅観

・猫の18歳は人間でいえば、90歳近い老猫である。僕は犬猫にはまったく関心がないのだが、この養老さんの愛猫「まる」の死の報道は、僕の心の隅にあった記憶を呼び起こした。たしか対談企画で弊社の藤木君と臼井君が、養老さんの鎌倉のご自宅に伺ったときの様子を聞いていたからだ。科学ジャーナリスト・林勝彦さんと養老さんの対談企画で、何回か収録をして原稿にまとめようとするものだった。二人からはこんな話を聞いていた。春のポカポカ陽気に誘われて、「まる」が養老邸の縁側でのんびり昼寝をしていた。たまたま家の普請中で、その日、養老邸には職人さんが何人か来て作業をしていた。その職人さんに、「まるが歩き回ることがあるから、蹴とばさないように足元に気を付けて」と養老さんが注文をつけていたのだという。養老さんが、いかにこの猫を可愛がっていたのかがこの話からも偲ばれる。

・「まる」はスコティッシュフォールドという種類の猫だという。耳が寝ているのがこの種の猫の特徴だ。愛嬌のある猫で写真集になるほどの人気ぶり。養老さんは『猫も老人も、役立たずでけっこう』、『うちのまる 養老孟司先生と猫の営業部長』、『そこのまる 養老孟司先生と猫の営業部長』、『まる文庫』、『ねこバカ いぬバカ』など、猫についての著書も多く出版している。2017年には、養老さんと「まる」の日常生活を綴ったNHKの人気ドキュメンタリー番組『ネコメンタリー 猫も、杓子も。』の初回放送に、「養老センセイとまる」というタイトルでテレビ出演している。放送後、全国の猫好きを中心に大反響となり、後日、特別編となる『養老センセイと“まる”鎌倉に暮らす』が放映されている。養老さんのプライベートな時間の過ごし方などとともに、「まる」の存在は世間に広く知れ渡ることになったのである。「まる」が、名物猫として来客を迎えるので、訪れる編集者の間でもよく知られた存在だった。

 
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河出書房新社 2018年 有限会社養老研究所 2010年

・臼井君は北の丸公園の野良猫を撮り続けてきたほどの猫好きだから、「まる」の写真もちゃっかり撮ってきた。写真を見ると、なるほど大きな猫で顔付きも愛嬌たっぷり。縁側に我が物顔で鎮座している。動作もゆっくりで、貫禄さえ感じるほどだ。しかし、動物の寿命は人間より短い。2002年生まれだという「まる」は歳とともに、心臓の筋肉が固くなる拘束型心筋症を患い、晩年はほぼ寝たきりの状態が続いていたという。そして心不全により天国へと旅立ってしまった。養老さんは、自らの著作で「死といかに向き合うべきか」「死を受け入れることについて」を説いてきた一方で、「まるは、私の生きることの “ものさし”である」とも語っていた。その愛猫が亡くなって、そのご心痛はいかばかりであろうか、察するに余りある。

・実は弊社では、養老さんの対談本を3冊出させて頂いている。ライフサイエンス出版から病院薬局向けに刊行されていた『薬の知識』という月刊誌に、1997―2004年にかけて掲載されていたものを弊社が単行本化させてもらった。養老さんの対談相手は実にバラエティに富んでおり、テーマも相手次第で自在に変わる。対談者も小説家、考古学者、生物学者、漫画家、彫刻家、武術家、画家、精神科医、指揮者、役者、メディア作家、写真家など実に多岐にわたっている。対談の内容は得意の人体や解剖学、昆虫の話から、言語学、日本の病理、文明論、食文化、芸術論など、多様多彩な人物との対話によって対談テーマは一層深まり、説得力を増している。


・1冊目は『話せばわかる――養老孟司対談集 身体がものをいう』で、16人のゲストが登場し、心ときめく対談をしている。対談相手と対談テーマについて触れておく。対談内容をなんとなく分かっていただけよう。1人目はなんと猫ブームの立役者の1人岩合光昭さん。テーマは「フィールドワークは動物的勘で」であった。以下、神谷敏郎(非言語的コミュニケーション)、田部井淳子(人間は歩く動物)、立川昭二(“固い社会”を身体で変える)、石毛直道(日本人の食文化と自然)、橋本治(身体感覚を信じる)、山本容子(人は何を表現するのか)、竹宮惠子(マンガと解剖)、中村紘子(演奏家の身体)、岩城宏之(日本人の音楽的アイデンティ)、米原万里(論理の耳に羅列の目)、天野祐吉(言葉の響きと黙読)、日野原重明(身体運動と脳の入出力)、北林谷栄(においと体験の記憶)、大森安恵(“人間らしい生活”という価値観)、多田富雄(能と脳の可能性)となっている。テーマをざっと見ただけでも、読みたくなったと心誘われた方もいるのではないだろうか。


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(2003年9月)

・続いて2ヶ月後に刊行されたのが、『見える日本、見えない日本――養老孟司対談集』である。いま、何を信じて生きたらいいのか?  混迷する現代日本への処方箋ともなっている。対談相手の15人とその対談テーマに触れておく。荒俣宏(混ざる文化・混ざらぬ文化)、奥本大三郎(虫を愛でる日本人の自然観)、田崎真也(香りの認識のメカニズム)、酒井忠康(日本の景観とパブリック・アート)、藤原正彦(数学と日本的美意識)、水木しげる(無意識に身を任せる)、横尾忠則(魂の復権)、岸田秀(現実とは脳が作り出した産物)、中村桂子(“個”を救済する新たなシステムを)、上田紀行(疑似“癒し”からの脱却)、大石芳野(ベトナムの森に思う)、池内紀(言葉の壁を超えて)、ピーター・バラカン(メンバーズ・クラブの国、日本)、阿部謹也(“世間”から飛び出して生きる)、黒川清(“本気”のスピリット)。この本の対談で僕は、博覧強記同士の荒俣宏さんとの対談が特に面白かった。海洋生物採集で奄美大島を訪れていたという荒俣さんが、黒潮による影響で、奄美大島は鳥羽や伊勢神宮周辺の言葉につながると語ると、養老さんはマイマイカブリのDNAから日本列島の形成史を語ることができるなどと返し、僕には興味津々の対談であった。


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(2003年11月)

・3冊目が翌2004年7月に刊行された『生の科学、死の哲学――養老孟司対談集』で、19人の斯界の第一人者と対談している。対談者と対談テーマを掲げておく。夢枕獏(生物と自然の不思議な話)、佐原眞(解剖学と考古学)、中村方子(ミミズのいる豊かさ)、東海林さだお(生物の感覚という自然)、妹尾河童(記憶、生命、連綿と続いてゆくもの)、舟越桂(身体をめぐる具象と抽象)、甲野善紀(古武術が語る身体の可能性)、吉村作治(集めて、調べて、考えるおもしろさを発掘する)、安部譲二(生体と死体、どちらが怖い?)、安野光雅(生と死への処方箋)、船曳建夫(自己意識を舞台に上げる)、香山リカ(スピリチュアルとマテリアル)、佐藤雅彦(ひらめきは快感とともにやってくる)、いとうせいこう(鏡の錯覚、公私の錯覚)、池田清彦(二十一世紀の代謝と循環)、池田晶子(身体を使って考え続けよ)、夏目房之介(マンガの文法を“脳”で読み解く)、関川夏央(憂国の時代)、橋口譲二述(生きる哲学との出会い)。解剖学、哲学から社会時評まで、縦横に語り尽くしている。


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(2004年7月)

・ある対談ではライフワークともいうべき昆虫話で盛り上がり、さらにスパークして話は飛翔する。ある対談では日本の病理に言及し、一体どんな処方箋が必要なのかを語る。そして心からの共感を呼び、励まされる対談もある。知の巨人は実に幅広い知識と蘊蓄を披露してくれる。読者は読んでいて色んなことに興味が惹かれるはずで、これがきっかけとなって、より専門的な勉強をしてみたくなる方もいることだろう。弊社で刊行した対談集の中でも、僕が自信をもってお薦めできる内容だと自負している。ただ、だいぶ前の本なので、古書店でしかお目に掛かれないかもしれない。もし、お手に取って頂く機会があれば幸いである。

なかにし礼さん

清流出版 (2021年2月19日 10:22)

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写真:百瀬恒彦氏

・なかにし礼さんがお亡くなりになった。新聞によれば、2020年秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、同年12月23日に心筋梗塞のため東京都内の病院で死去したとのこと。享年82だった。死後、新聞・雑誌、テレビ番組などで、なかにしさんを偲ぶ記事や追悼番組などが数多く放映されたが、それだけ社会に与えたインパクトは大きかった。なかにしさんは、1938年、中国黒龍江省牡丹江市(現在の中華人民共和国黒竜江省)で生まれた。ご両親は、元は北海道小樽市に在住していたが、満州に渡り酒造業で成功を収めていたのである。終戦後、満州からの引き揚げで家族とともに何度も命の危険に晒される。この壮絶な引き揚げ体験が以後の活動に大きな影響を与える。なかにしさんの実兄は、立教大学から学徒出陣して陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたが終戦となった。この特攻隊の生き残りだった兄が、戦後、北海道で鰊漁(ニシン漁)に投資して失敗、理不尽にもなかにしさんが膨大な借金を肩代わりし、返済に塗炭の苦しみを味わうことになる。


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BSテレビ朝日系追悼番組「昭和偉人伝」より

・兄と同じ立教大学に進んだなかにし礼さんは、在学中の1963年に最初の妻と結婚する。その立教大学の学生だったなかにしさんの才能を見抜いた人が、元タカラジェンヌでシャンソン歌手の深緑夏代さん。彼女に依頼されたことがきっかけでシャンソンの訳詞を手掛けていた。新婚旅行先の静岡県下田のホテルで、『太平洋ひとりぼっち』を撮影中の石原裕次郎と偶然に出会い知遇を得る。石原に「シャンソンの訳詩なんてやってないで、日本語の歌詞を書きなさい」と薦められ、約1年後に作詞・作曲した作品(後の「涙と雨にぬれて」)を石原プロに持ち込んだ。数ヶ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」がヒットする。これが運命の扉を開くことになった。

「知りたくないの」のヒットを機に作詞家になったなかにしさんだが、絶え間なくヒット曲を量産し続ける表の顔と、実兄の常軌を逸した放蕩が生んだ借金に苦しむ裏側の顔が交錯し続けた。そんな絶望と向き合うことで絞り出すようにできた歌が、やがて奇跡を呼ぶことになる。それがあの名曲「石狩挽歌」や、「時には娼婦のように」である。レコードの年間売上枚数1500万枚という金字塔を打ち立て、生涯4000曲もの作詞をした、阿久悠さんと並ぶ昭和を代表する作詞家となっていた。そして昭和の大スター、美空ひばりに「われとわが身を眠らす子守唄」を、石原裕次郎に「わが人生に悔いなし」と「遺書」のような歌詞を贈った後、小説家の道へと歩み始める。

・なかにしさんは、どうしても書きたいテーマがあった。それが前述した特攻隊帰りの兄との確執である。16年間絶縁状態だったなかにしさんの元に、兄の死の報せが届く。胸中によみがえる兄の姿。戦後、破滅的に生きる兄に翻弄され、巨額の借金の肩代わりを強いられた。そんな兄と弟のどうしようもない絆を、哀切の念をこめて描いたのが小説『兄弟』だった。その後も直木賞受賞作『長崎ぶらぶら節』、NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の照子さん』を始め、『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』『世界は俺が回してる』『夜の歌』など話題作を次々発表している。

・実は弊社でも、なかにし礼さんがホスト役を務めての対談本『人生の黄金律』シリーズを3冊出させて頂いている。それだけになかにしさんの訃報を聞いた時、僕はガックリするほど脱力感に襲われた。彼の対談本の販促には、僕も力を入れたので当時の記憶は鮮明に残っている。大手出版社で出せばもっと売れたと思われるのも癪なので、随分、広告宣伝費も投入した。準レギュラー枠を持っていた朝日新聞夕刊の全五段広告、『週刊文春』、『週刊新潮』等にも広告を掲載し、販促に注力したものだった。

 元の原稿はといえば、『婦人画報』(アシェット婦人画報社)に3年間にわたって連載されたものだった。当該、対談の担当編集者が自社で刊行が難しいので、と弊社に刊行を依頼してきたのが発端である。僕はビッグネームの対談ということもあり、願ってもない話なので企画を即決した。後はなかにしさんのOKをもらうだけとなった。ほどなく、秘書の梅田恵子さんから、刊行をお願いするに当たり、一度顔合わせをしたいとの連絡があり、編集担当の臼井君が出向いた。臼井君によれば、なかにしさんは出版広告等で弊社をよくご存じで、刊行に向けていい雰囲気だったという。ただ、話の途中で、持病の心臓病薬を何種も服用されていたのが、気がかりに思ったらしい。
 

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2003年8月、弊社より刊行

 
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森光子さんと 写真:百瀬恒彦氏
 
・なかにしさんは、テレビ朝日系列で放送されていた『ワイド! スクランブル』のコメンテーターを務めていたが、2012年3月5日の放送で、食道癌であることを報告し、治療のため休業することを明らかにした。医師たちから抗がん剤治療、放射線治療、手術といった各種治療法の説明を受けるが、自分の心臓は長い手術や放射線治療には耐えられないと考え、他の治療法を探し続ける。インターネットで調べるうち最先端の陽子線療法を知り、それに賭けたのである。費用については、後に、阿川佐和子さんとの『週刊文春』の対談で明かされている。「僕は300万円の自己負担でした。先進医療だから保険は適用されない。でも、それをただ“高い”というのは違うと思うんです。だって、普通のがん手術だって、入院すればそのくらいかかることもあるでしょう。研究促進のため、陽子線治療には国からもお金が出ている。だから僕は本に《ありがとう日本!!》と書いたんですけどね」と語っている。その決断が吉と出て、闘病の結果、食道癌を克服し、同年10月に現場復帰を果たす。しかし、2015年3月、自身のラジオ番組『なかにし礼「明日への風」』で癌が再発したので休養することを明らかにした。そして再度、癌に打ち勝って再起を果たす。なんという粘り腰であろう。再発した癌治療にもう陽子線療法が使えないという逆境の中で、どうやってがんに克つことができたのか。絶対に諦めないという強い心がなければ、到底乗り越えられない。僕には想像もつかない精神力の強さである。


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2003年8月、弊社より刊行


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北野武氏と 写真:百瀬恒彦氏

・弊社刊行の『人生の黄金律―なかにし礼と華やぐ人々』と題したシリーズは、「自由の章」「共生の章」「勇気の章」の3部作であった。具体的に登場したゲストは実に多士済々だった。なかにしさんの交流の広さには驚くばかりだった。「自由の章」の対談相手は、瀬戸内寂聴、岸惠子、コシノジュンコ、中丸三千絵、美輪明宏、市川新之助、田村亮子、荒木経惟、富司純子、森光子、渡辺貞夫の各氏。勿論、魅力的な方ばかりだが、とりわけ僕は、荒木経惟と渡辺貞夫の両氏が好きだったので、天才アラーキーの写真命の熱愛の心と世界のナベサダがどうして生まれたのかを興味深く読んだ。柔道のやわらちゃんとの回でのツーショット写真は、柔道技(払い腰だろうか)で投げられんばかりのなかにしさん。いつに変わらぬサービス精神ぶりが窺えた。


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2004年10月、弊社より刊行

「共生の章」では、黒柳徹子、宮沢りえ、黒川紀章、小宮悦子、五嶋みどり、柳家小三治、コン・リー、黒鉄ヒロシ、松坂慶子、細川護煕・細川佳代子夫妻、錦織健、北野武の各氏であり、これまたバラエティに富んだ人選となっている。この本では、黒川紀章氏との対談テーマ『「弱さ」を認める精神が「共生」を育む』を興味深く読んだ。今でこそ共生という言葉は周知の言葉だが、黒川氏が最初に提唱したものだという。世界的な映画監督となった北野武氏とのテーマ『暴力と死は、優しさと愛』では、映画監督になるに至った経緯が語られる。また、コン・リー氏との対談写真では、なかにしさんもチャイナ服で登場。実にさりげない気配りで、ゲストと交感を深めているのが印象的だった。 

「勇気の章」は、あの長嶋茂雄をはじめ、鳳蘭、安藤忠雄、ピーコ、立花隆、池田理代子、加藤登紀子、篠田正浩、石井好子、横尾忠則、仲代達矢、筑紫哲也の各氏。3冊ともに、ほどよい距離感で相手の魅力を引き出しながら、自らの来し方も語っている、実に味のある対談集になっている。写真は百瀬恒彦氏から拝借した。彼は『婦人画報』の対談を撮影してきたカメラマンだったが、偶然にも臼井君の高校の同級生。そんな幸運もあって、単行本に所収する写真は快く拝借できた。

・昭和という時代に対する「恨みつらみ、愛と感謝、旧満州への望郷の思い」という三つの要素が作詞の源泉と語るなかにしさん。朝日新聞の追悼記事でも、旧満州から始まるなかにしさんの人生は、「戦争への甘美なる復讐」という言葉に凝縮されていると綴る。癌の闘病生活以降は、自らの戦争体験に基づき平和の尊さや核兵器・戦争への反対を訴える著述が多くなった。「僕たち戦争体験者は若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません」とも語っている。僕も5歳の時、信州に疎開を余儀なくされ、戦争の悲惨さを知っている。なかにしさんの平和への熱い思いは、戦争体験者が受け継ぎ語り継いでいかねばなるまい。

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