加登屋のメモと写真…

木村梢さん、佐藤有一さん、小川誠子さん

清流出版 (2020年5月21日 17:52)

●木村梢さん、佐藤有一さん

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出版記念パーティで挨拶する木村梢さん。右側は佐藤有一さん

コロナウイルスの影響で緊急事態宣言が発せられ、僕も外出がままならない状況が続いている。巣ごもり生活を余儀なくされ、ストレスが溜まらないよう生活しようと思うのだが、なかなかそうもいかない。季節はすでに爽やかな風が吹きすぎる5月である。断捨離ではないが、不必要な書類等は処分していこうと思っている。たまたま古い写真関係を整理していて、この風薫る時期に行われた、弊社が主催したある出版記念パーティが思い出された。エッセイスト・木村梢さんと映画評論家・佐藤有一の出版記念パーティである。弊社から『少女の干もの』(木村梢著)、『わが師淀川長治との五〇年』(佐藤有一著)というエッセイ集を出させていただいてのことだった。写真で期日を確認してみると、2000513日に行われたことが分かった。


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2000年に弊社より刊行     梢さんのサイン


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2001年に弊社より刊行         『わが師淀川長治との五〇年』 


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ペギー葉山さんと梢さん。佐藤有一さんもペギー葉山さんと親しい

・場所はサッポロビールの系列会社が経営する、銀座四丁目のライオン・スターホールであった。スターホールは銀座のど真ん中のビルの8階にあり、銀座が一望できる景色の良さが魅力で、日本初の女性報道写真家・笹本恒子さんの出版記念パーティも確かここで行ったことを思い出した。パーティはきらびやかなものだった。というのも、木村梢さんと佐藤有一さんはその人となりから、広い交友関係があり、数々の著名人も出席してくれたからだ。

  パーティの直前、佐藤有一さんの本『わが師淀川長治との五〇年』を上梓された。前後して4月8日、朝日新聞の紙上に「淀川長治氏と佐藤有一さんの交流記事」が載った。おまけに1年後、淀川長治さんと共著で弊社から『ビデオで観たい名画200選(日本語)』(2001年刊)を刊行された。その本は4年後、光文社へ版権を譲渡したので、儲かるプロジェクトだった。

  そしてパーティには、僕にとって一番会いたかった和田誠さんが参列された。古巣ダイヤモンド社で和田さんの本を出せていただいた。タイトルは、『ブラウン管の映画館』(1991年刊)。しばらくぶりにお会いしたこともあり、お互いの近況を含めて盛り上がり、話し込んでしまった。


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和田誠さんと僕

・梢さんは昨年末にお亡くなりになられたが、何度も月刊『清流』にご登場いただき、お世話になった。妹のクニエダヤスエさんもご登場いただいたことがある。梢さんの父君は流行作家であった邦枝完二であり、「鵠沼小町」などと異名をとったほど美人で知られた。木村功さんと結婚し、そのおしどり夫婦ぶりはつとに知られるところだ。ただ、このご夫妻は育ちの良さから人を疑うことを知らず、マネージャーにお金を使い込まれ、多額の借金を背負うことになった。よく二人で「役者ってほんとに割の合わない職業だね」と話していたというから、本当に純なお二人であった。
  木村功さんの亡き後、梢さんは借金返済をどうしようか、悩み抜いたという。簡単に返せる金額ではない。求人情報誌を買い込んで、必死で職探しをしたこともある。人徳というものであろう。ある編集者からの依頼で、木村功との来し方を綴った『功、大好き』を執筆することになる。これが大ベストセラーとなり、一気に借金を減らすことができた。確か7、8年かけて借金を完済されたのだが、完済し終わってから、あまりの安堵感で数日寝込んでしまったという。梢さんにとって、よほど重荷であったのであろう。出版後、テレビのワイドショーなどに引っ張りだこで随分出ておられたが、功大好きぶりは筋金入りであった。本文中にも書かれているが、「三人の子供より功が好き」と公言するほどの熱愛ぶりであった。そういえば息子さんの木村弘さんがこの本の装丁を担当された。功さんに似て、なかなかのイケメンだったので、褒めたことがあった。すると梢さんは、「功の方が断然美男子だったわよ」と軽く一蹴され、僕は思わず笑ってしまった。梢さんは老衰のために92歳で亡くなられたが、今は天国で功さんとラブラブであろう。ご冥福をお祈りしたい。




●小川誠子さん

・もう一人、書いておきたい方がいる。プロ囲碁棋士の小川誠子(ともこ)さんである。僕も下手の横好きで囲碁、将棋を嗜むが、小川さんは6歳の時に銀行員だった父君から手ほどきを受けた。父君はプロ棋士を目指したことがあり、アマ六段の腕前だったというから、師匠としては申し分ない。娘に生きる術を身に着けて欲しいという強い思いがあり、学校に行く前と帰宅しから囲碁漬けの毎日だったという。休日には碁会所に連れて行かれ、小学校の昼休みには教頭先生に呼び出されて半ば指導碁状態というから半端でなかった。もちろん、小川さんが常に勝っていたという。
  8歳の時、新聞に掲載されていた詰碁の問題を解き応募する。すると「8歳で本当に解けたのか?」と新聞社が家に確認に来たほどとか。本当だと納得すると新聞記者は日本棋院の中部総本部を紹介してくれた。実際に通い始めたのは小学4年生からだった。1965年、14歳の時にアマチュア大会に出て全国優勝する。それ以降「おかっぱ本因坊」と呼ばれるようになり、1966年に木谷實九段に入門する。1970年にプロ棋士となり、1995年に六段。タイトルとしては1979、1980年に小林千寿さんを退けて女流選手権を2連覇。1986年、楠光子を破って女流本因坊を獲得している。1987年には、女流鶴聖戦で優勝した。2008年、杉内寿子八段以来、女流棋士として2人目となる500勝を達成している。「NHK杯囲碁トーナメント」で司会を長年務め、ファンの人気を集めたNHK杯テレビ囲碁トーナメントの聞き手を務め解説をするなど活躍された。


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月刊『清流』「夫婦で歩む人生」


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林海峯さんと小川さんの共著

・なぜ小川誠子さんに思い入れがあるのかというと、月刊『清流』の「夫婦で歩む人生」にご登場いただいたことがあるのだ。俳優の山本圭さんと結婚されて、新居に落ち着かれたころのことだった。人生の不思議さを思うのだが、実は小川さん、小学校時代「私、山本圭さんと結婚する」といっていたとか。友人たちの証言もあるようなので、事実であろう。そして圭さんとの馴れ初めは指導碁だった。圭さんは不調だった時期があり、その時の無聊を慰めるために囲碁を嗜んでいた。所属の俳優座でも囲碁が盛んだったようだ。兄弟子・大戸省三さんが俳優座関係者に囲碁を教えにいっており、小川さんもついて行った事が知り合うきっかけ。さらに不思議にも、東急百貨店のイベントで「囲碁祭り」が開催され、各界の碁キチと女流棋士がお手合わせした、そのお相手がなんと圭さんだった。
  1977年、小川誠子さんと山本圭さんは仲代達矢ご夫妻の媒酌で結婚し、35歳で慧美ちゃんも生まれている。11歳差であったことと、囲碁会のマドンナであったこともあり結婚は大きく話題になった。取材の時に聞いた、圭さんの小川さん評があまりに面白かったので覚えている。誠子さんのことを、「まるで宇宙人のようで飽きない」とおっしゃっていた。どういうことかというと、電車に乗れば、乗り越しはしょっちゅう。買い物をすれば、一度払っているのに、また払おうとしたり。自転車で行ったのに、徒歩で帰ってきてしまう。極め付きは、新居に移って間もない頃、ご自宅に「道に迷ってしまった、どうしよう」と、電話を掛けてきたことも再々だった。そんなエピソードを聞いて、僕はプロ棋士としての矜持、集中力の凄さがこんな形で現れたのでは、と感じ入ったものだ。碁打ちは親の死に目に会えないという。碁はそれだけ奥が深いのだ。一局の勝負に10の40乗という盤面変化がある碁の世界は、まさに人生の縮図を見るようだ。山本圭さんは僕と同じ1940年7月生れである。だが圭さんは聡明な美男子。僕は残念ながら圭さんとの共通点はまったくない。

・小川さんは出産し育児をしながらも囲碁は続け、女流本因坊を獲得している。そのように囲碁に没頭し、忙しかったために圭さんは料理に目覚めたという。この料理について、小川さんは苦笑しながらこんなことをいっていた。「主人も凝り性なので、美味しい料理を作ってくれて有り難いのですが、築地まで仕入れに行って、お金に糸目をつけず好きな材料を買ってきて作るんですから美味しいのは当たり前ですけどね」。こんなお話の端々に、お互いの信頼感や思いやる心情が透けて見え、おしどり夫婦の評判を確認したような気がしたものだ。僕はダイヤモンド社時代、打ち合わせ等でシティホテルを訪れることがあったが、たまにホテル内で小川さんを見かけることがあった。聞くと、財界人に指導碁をされていたようだ。昨年末、病気のため東京都内の病院でお亡くなりになった。享年68はまだお若い。惜しい人を亡くしたものである。謹んでご冥福をお祈りしたい。ご逝去されてすでに半年、今もって、ケーブルテレビのCS700チャンネルで『ありがとう 小川誠子さん【プレミアム版】』という番組を流している。全棋士やファンに敬愛されていらっしゃる証拠だ。この番組は、一ファンとしてもいつまでも流してほしいと切望している。

坪内祐三さん、藤田宜永さん、小池真理子さん

清流出版 (2020年4月22日 14:34)

●坪内祐三さん
 
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・80歳を目前にしていることもあり、回りの身近な友人・知人、また、清流出版にゆかりのある人々などが、このところ多く亡くなっている。今回はそんな人たちへの思いを綴ってみたい。ショックだったのは、“坪さん”こと評論家の坪内祐三さんの死である。僕の古巣ダイヤモンド社の元社長・会長、坪内嘉雄氏のご子息であった。その坪さんが今年1月13日、急性心不全のため東京都内の病院で亡くなった。まだ61歳の若さだった。作家の重松清さんが追悼文に書いておられるように、坪さんの仕事の全貌は「評論家」という枠組みには、収まりきらない人であった。『明治の文学』全25巻を編んでいるし、扶桑社から創刊された文芸誌『en-taxi』の編集同人も務めている。酒好きで知られ、飲み歩きの日々を綴った『酒中日記』(講談社刊、2010年)は映画化もされ、当の本人も出演しているほど。好奇心旺盛でありフットワークが軽く、視点もユニークそのものだった。『週刊文春』では「文庫本を狙え!」、また月刊『文藝春秋』では「人声天語」を連載し、亡くなる直前まで原稿を書き続けていた。僕はこの連載コラムを楽しみにしていたので、読めなくなったのは誠に残念である。
 
 
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・坪さんは、1958(昭和33)年、東京都渋谷区本町に生まれた。早稲田大学高等学院から早稲田大学第一文学部に進み、同級生の藤原昭広さん(『プレジデント』編集長)と同じサークルに入るため、ミニコミ誌『マイルストーン』に参加している。また、大学の先輩のノンフィクション作家・一志治夫と知り合っている。将来の編集者、評論家への萌芽はすでにこの頃から見られている。卒業論文は「一九八二年の『福田恆存論』」だった。その後、早稲田大学大学院英文科に進学、修士課程を修了している。修士論文のテーマは「ジョージ・スタイナー」である。1987年、父君・坪内嘉雄氏の後押しもあり、都市出版に入社して、雑誌『東京人』の編集者となっている。
 坪内祐三さんの卒論の指導教授は松原正教授である。当時、松原正さんは、福田恆存氏の一番弟子を自負されておられた。そして、僕は松原先生の単行本を古巣出版社時代に一冊出させてもらった。書名は『道義不在の時代』(ダイヤモンド社刊、昭和56年)である。僕が雑誌局から希望した出版局に移った翌年に、手がけた企画だった。その時、坪さんは大学院で松原正教授の指導を受けつつ、大空に雄飛する日を夢見て勉学に励んでいたのであろう。

・坪さんは、せっかく入った都市出版だったが、社内事情から3年ほどで辞めてしまう。1991年、『未来』7月号から西堂行人の依頼により「変死するアメリカ作家」(のち「変死するアメリカ作家たち」)の連載を開始し、1993年5月号まで断続的に掲載した。1992年、編集・執筆に携った、朝日新聞社の月刊『Asahi 特集:日本近代を読む「日記大全」』(1993年1月号)が出版となる。1993年、目白学園女子短期大学国語国文科言語コミュニケーション専攻の非常勤講師となり、6年間勤務している。1996年、『週刊文春』誌上で「文庫本を狙え!」の連載が開始。1997年4月、初めての単著『ストリートワイズ』を晶文社から上梓する。2000年には、前述したように『明治の文学』(全25冊、筑摩書房刊)を編集し、最初の配本が始まる。『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』(マガジンハウス刊、2001年)で「講談社エッセイ賞」を受賞。2003年には、福田和也、リリー・フランキー、柳美里氏らと共に参加し、季刊の文芸クオリティマガジン『en-taxi』を扶桑社より創刊する。
 
 
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・坪さんは、福田和也氏とはよほど馬が合ったようで、週刊『SPA!』誌上で酒気帯び時評「これでいいのだ」を10年以上にわたって連載し続けた。これは5冊の単行本にもなって結実している。僕の手許に5冊目の『不謹慎』(扶桑社刊、2012年)があるが、とにかく面白い。酒気帯びで歯に衣着せぬ語り口で丁々発止とやりあうのだから読者にはたまらない。テーマも決めずに酒場で集合するが基本だったというから、テーマはそのときどきの社会状況によって刻々変わる。その日の気分次第で、「震災と原発問題」「金正男」「雅子さま」「市川海老蔵」「ダルビッシュ有」「尖閣列島問題」「相撲八百長スキャンダル」「吉本隆明」「立川談志」などをテーマに、博覧強記の二人が縦横に切り込んでいる。僕が知らなかった文壇の内幕や角界の内情など、興味を刺戟された。巻末には対談10年間で語られた主だった本100冊が解説つきで掲載されている。これを眺めただけでも、知的好奇心を刺激されること必定である。

・月刊『本の雑誌』(2012年6月号)のコラム(『坪内祐三の読書日記』)では、僕の社長退任のことについて書いてくれた。『清流出版から加登屋陽一本はもう出ないのか?』と題する話だ。元々大変な映画好きであった坪さんは、かなりコアな映画関連本を30冊以上出してきた弊社を大変評価してくれた。僕が社長を降板すると、映画関連本が出せなくなるのではと心配してくれたのである。確かに、会社というものはトップが変われば、注力する出版傾向が変わることは当然ある。出版不況の真っただ中ということもあり、僕好みであった映画関係や絵画等の芸術ジャンル、文藝エッセイ等は減少したかもしれない。しかしながら、出版不況の荒波にもまれながらも、実用書を中心に出版点数も絞り込み、重点的に宣伝活動などしながら会社は着実に歩み続けてきた。坪さんが色々お気遣いしてくれたことには、感謝の念しかない。

・その『本の雑誌』の話を、もう少し述べたい。坪さんは、「昭和52年当時、私の父はダイヤモンド社の社長であったが、私は父からよく、加登屋という面白い編集者がいる、と聞かされた。そしてこの加登屋さんは清流出版という会社を興し、次々と面白い本を刊行していったが、清流出版は加登屋さんの手を離れもうその種の本は出なくなるだろうと、先週あるパーティーで会ったTさんに聞かされた。」と書いてくれた。今だから、さんの名前も高崎俊夫さんと明かそう。高崎さんと僕は、趣味も一致、数々の企画を進めた。
 また、その号には、僕にとって大事なことが、坪さんの筆になっている。坪さんが、『帖面』53号(昭和49年)と56号(昭和52年)を読んでいて、以下の文章に注目された。「共に山内義雄の追悼号だが、56号の巻末の近藤信行『山内先生のあたたかさ』のこういう一節に目が止まる。山内先生の教えをうけ、先生の紹介によって椎名さんのもとへかよった加登屋陽一君(現在ダイヤモンド社勤務)は、『椎名其二さんのこと』と題する山内先生の文章を大切に保存していた。」――坪さんは、僕の本質=シイナイズムを見抜いていたと思う。

 
 
●藤田宜永さん、小池真理子さん
 
・ハードボイルドから恋愛小説まで幅広く手がけた、直木賞作家の藤田宜永(ふじた・よしなが)さんも今年1月30日、右下葉肺腺がんで死去した。藤田さんも働き盛りの69歳だった。藤田さんといえば、サングラスと長髪がトレードマークだった。故人の遺志で葬儀は家族で営み、お別れの会は行わないと書かれていた。妻は作家の小池真理子さんである。藤田さんは、1950年、福井県に生まれた。僕と同じ早稲田大学高等学院から早稲田大学に入学するも中退、渡仏し、80年までエールフランスに勤務していた。帰国後、エッセイなどの執筆活動に入り、86年に「野望のラビリンス」で作家デビューしている。90年に長野県・軽井沢へ移住。95年「鋼鉄の騎士」(新潮社刊、1994年)で日本推理作家協会賞を受賞。冒険小説やミステリーで評価を集め、その後恋愛小説も手がけた。99年「求愛」で島清(しませ)恋愛文学賞を受賞した。2001年、中年の洋服仕立職人を主人公に男女4人の絡み合う情念を描いた「愛の領分」(文藝春秋刊、2004年)で直木賞を受賞した。
 
 
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・藤田宜永さんと僕は、同じ高等学院で学んだ。僕がちょうど10歳上になるのだが、数々の点で、話が合って面白かった。とくに二人とも習った春木一(はじめ)先生の話は、授業を思い出して、何回も笑いあった。隠岐島出身の春木先生が、一体なぜ、英語に興味が湧いたのか、現地を訪ねてその根源を是非聞いてみたいと思っていたが、叶わなかった。

・96年には小池真理子さんが「恋」で直木賞を受賞しており、藤田さんの受賞で、初めての夫婦での直木賞受賞者となった。美男美女でおしどり夫婦として知られていただけに、残された小池さんの心痛は察するに余りある。小池真理子さんは、弊社とも関係がある。直木賞作家・村松友視さん、イラストレーターの南伸坊さんと、鼎談『猫族の夜咄』(弊社刊、1999年)を出させて頂いたのである。キャッチコピーも秀逸だった。「だから、あなたに首ったけ!」「“猫派”として人後に落ちない三人が、猫の魅力を縦横に語り尽くした」と帯にうたった。鼎談はお茶の水の山の上ホテルで行われた。村松さんと小池さんは、初対面であったが、そんなことはまったく感じさせないほど、打ち解けた鼎談になった。ほぼ、1日缶詰になって頂いたことになる。笑いっぱなしのような面白い鼎談で、担当編集者だった臼井君は、その後の編集作業でどれをカットするかで四苦八苦したと聞いた。鼎談後は、山の上ホテルのレストランでワインを開け、楽しい宴になったという。
 
 
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・この本の刊行に際して、サイン会を催した。サイン会そのものは、社として何回も開催してきたが、三人揃ってというのは初めてだった。東京八重洲の八重洲ブックセンターで行い、猫好きがサインを求めて長蛇の列を作った。このサイン会で僕は残念な決断をした。今でも心残りだが、会場の混雑を心配し、サインは1人1冊に限るとしてしまった。三人が順番にサインをするから、時間的にも余裕をもたなければと考えたこともある。ところが結構、お三方共に、サインのスピードが速く、弊社の落款押し係の奮闘もあって、とてもスムーズに進行したのである。3冊、5冊と購入して、猫好き仲間にプレゼントしてもよかったわけで、売り損じてしまったのだ。もちろん、増刷にもなり、弊社は十分儲けさせては頂いた本なのだが。
 
 
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・これに味をしめた僕は、臼井君に犬の鼎談も是非進めて欲しいむねを伝えた。臼井君が選んだメンバーは、中野孝二、黒鉄ヒロシ、如月小春の三氏であった。犬の魅力にはまった三人が語る、もう犬のいない生活なんて考えられない、というほどの入れ込みぶり。単なる犬の愛玩話では終わらず、老齢化社会、ボケの問題、孤独までもが話題に上がった内容深いものであった。しかし、犬鼎談参加者の中野孝二さん、如月小春さんはすでに亡く、黒鉄さんを残すのみなのは寂しい限りである。ところで販売実績だが、初刷りで終わってしまった犬鼎談に対し、増刷になった猫鼎談に軍配が上がった。僕は動物にそれほど興味がない。よくよく考えてみると、猫好きは血統書つきであろうと野良だろうと猫好きであるのに対し、犬好きは和犬好きの中野孝二さん、ゴールデンレトリバー好きの黒鉄さん、さらには大型犬と室内犬のような小型犬など、細部に分かれるということなのだ。僕はこの2冊の鼎談本を刊行したことで、いい勉強をさせてもらったと思っている。最期に、坪内祐三さん、藤田宜永さん、お二人のご冥福をお祈りして筆を擱きたい。

フジコ・ヘミングさん

清流出版 (2020年3月24日 15:35)

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2002年 弊社刊

・先日、NHK総合テレビで放送された「ファミリーヒストリー」は、人気ピアニスト、フジコ・ヘミングさんの家族史が取り上げられた。フジコさんについては、弊社から『フジ子・ヘミングの「魂のことば」』(2002年)を出版させていただいたこともあり、人一倍思い入れが強い。僕は根っからのクラシックファンだが、フジコさんのピアノ演奏にはいつも感動させられる。フジコさんの魅力をひと言でいうのは難しい。彼女しか醸し出せない独特の音楽世界に誘われるとでもいったらいいのか。フジコさんに、一番大事にしているものを訊ねたとき、こう答えている。「それは“音”。私だけの“音”よ。誰が弾いても同じなら、私が弾く意味なんかないじゃない」。この言葉に彼女のアーティストとしての矜持が、すべて表れている。極端なことをいえば、フジコさんは譜面通り、完璧を目指して弾こうとしているのではない。
 時にはミスタッチもあるかもしれない。自身、こう言っているほどだ。「私よりもテクニックのうまい人はいくらでもいる。ピアニストの中には、ただ正確に弾くことだけを考えている人が多いわね。でも、はっきりいって、そういう音楽には芸術性はないと思う」。そして天才については、「世間では才能を羨む人がいるけれど、才能とは要するに”独断的な個性が強く、偏った考え方をする”ということでもある。だから往々にして才能は孤独で、社会からは受け入れられない。ある意味で才能に恵まれるということは、不幸なことかもしれないわね」。天才なるがゆえにぶち当たる高い壁、僕はなるほどなあと腑に落ちたのだった。
 
・フジコさんの本づくりに関しては、担当編集者の臼井君に聞いたことがある。完成までには色々と紆余曲折があったようだ。例えば、ヨーロッパの本に慣れているフジコさんは、カバーは捨ててしまってもいいもので、表紙が一番大切と考えている。これは僕もフランスにしばらく滞在したことがあるのでよく分かる。しかし、日本では、表紙はモノクロ印刷でカバーがカラー印刷というのがごく一般的だ。結局、臼井君はコスト高になるけれども、表紙・カバーともにカラー印刷にした。また、帯(本の腰巻)も苦心して売るためのキャッチコピーを考え、デザイナーの西山孝司さんが純白の帯に洒落た文字を乗せたデザインをしてくれたのだが、フジコさんは気に入らなかったようだ。「本は中身を見て納得して買ってもらえればいい、惹句に魅かれてという売り方はしたくない」というフジコさんの意見を勘案して、帯は無しでの刊行となった。
 しかし、この本は30刷を超えるヒット商品となった。すべて結果オーライである。ハンディな新書版の上製本にしたこと、また装画、本文中の猫のイラストなど、すべてフジコさんご本人が描いたものであり、お洒落な本になったのも良かったようだ。出版評論家・井狩春男さんが絶賛してくれたことも大きかった。書評を大手新聞・雑誌等のほか、ご自身の著書でも紹介してくれたのである。その他、共同通信社が地方紙に書評を配信してくれたこと、また、全国各地の生協ルート、フジコさんのコンサート会場での販売、5冊、10冊と自分で購入して、友人・知人にプレゼントしたという人も多かった。通常の書店ルート以外で、これだけ動いた本は他にはない。僕は、コンサート会場で直接、フジコさんの演奏を聴いて、真のアーティストに触れてほしいとの気持ちから、弊社の社員はもちろん、ライターや外部編集者なども含め、よくコンサートに行ったものだ。
 
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2005年 弊社刊

・コンサート会場以外でも、フジコさんにお会いしたことがある。華道家・假屋崎省吾さんの著書『假屋崎省吾の暮らしの花空間』(2005年)を弊社から刊行させていただいたのが縁で、假屋崎さんのブライダル・ファッションショーなどに招待され、担当編集者とよく出かけたものだ。ある時、ファッションショーのゲストとしてフジコさんが登場したことがある。假屋崎さんは大のクラシックファンで、花を活けているときもよく、クラシック音楽を掛けている。特にピアノ曲がお好きなようで、ご自身もピアノ曲をよく弾くという。そしてフジコ・ヘミングさんの大ファンでもあった。恐らくそんな経緯から、ショーのゲストに招聘したのであろう。
 人気者のフジコさんが登場すると、会場の空気は一気に熱を帯びた。観客は少しでも前へ前へと押し合いへしあいしていたが、僕は車椅子だったので、舞台そでから見上げるような位置取りで、フジコさんの演奏を聴くことができた。あの奇跡の『ラ・カンパネラ』(フランツ・リスト)とグリーグのピアノ協奏曲を熱演してくれた。そして演奏を終えて、降壇してきたフジコさんは、真っ先に僕を見つけると近寄ってきて、しっかりと握手をしてくれた。あの手の温もりは今でも覚えている。僕にはいい思い出である。

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フジコ・ヘミングさんと假屋崎省吾さん


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假屋崎さんと僕 担当編集者の秋篠貴子

・番組では、フジコさんの才能を誰よりも信じ抜いた母堂・大月投網子(おおつき・とあこ)さんの執念がついに結実して、フジコさんが晩年近くに大ブレークするまでを追う。投網子さんは、明治36年に大阪で生まれている。父親は明治初頭に国産炭インキを発明した会社(現・東洋インキ)の創業者であった大月専平さんである。フジコさんにとって、祖父に当たる専平さんのインキ製造業の成功により、投網子さんは裕福な家庭で育った。
 明治時代、大阪に暮らす個人宅では珍しい高価なピアノが家にあり、幼いころから慣れ親しんでいた。投網子さんは、さらにピアノの演奏技術を磨きたいとの思いから、音楽教育の最高峰・東京音楽学校(現在の東京藝術大学)への進学を目指す。当時、競争率が約7.5倍という難関を潜り抜け入学。厳しい試験を乗り越え、無事4年で卒業し、実家の支援を受け24歳のときにドイツ留学を果たしている。投網子さんは、留学時代に当時最高のピアノの一つと言われた「ブリュートナー社製」のピアノを購入し、日本に持ち帰っている。このピアノは現在も現役で活躍している。フジコさんが自宅での練習用に今も使用しているのだ。
 
・留学中のベルリンで投網子さんは、7歳年下のスウェーデン人 ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングさんと出会う。ドイツに留学してから4年目のことだった。生まれたフジコさんのファミリーヒストリーは浮沈変転、苦難の連続であった。ドイツでフジコさんが生まれて間もなく、ナチスが勢力を拡大し、自由な芸術活動をするのにさまざまな影響が及び始めるなか、家族は日本で暮らすことを決断する。ドイツでデザイナーとして活躍していたジョスタ・ゲオルギー・ヘミングさんだったが、日本では思うような仕事ができなかった。
 生活に行き詰まった夫婦は口論が絶えなくなり、ジョスタさんは戦争の気配が漂う日本での慣れない暮らしに見切りをつけ、妻と2人の子どもを残してスウェーデンに帰国してしまう。投網子さんはジョスタさんと別れ、幼い子どもたちを一人で育てていく決意を固めたのである。投網子さんは、フジコさんが5歳のとき、何気なく弾いたピアノの音色に驚いてその才能に着目し、ピアノを教えるようになった。それからの投網子さんのレッスンは、スパルタ式の厳しいものだった。
 
・疎開先の岡山県にある、フジコさんの通い始めた小学校には、国産のグランドピアノがあった。戦時中であっても投網子さんは学校に掛け合い、そのピアノでフジコさんが早朝と夕方に練習ができるように頼み込んだ。フジコさんが弾いていたピアノは、今でも総社市立昭和小学校で使われているという。昭和20年、フジコさんが13歳のときに疎開先の岡山県で終戦を迎える。戦前に援助してくれていた投網子さんの大阪の実家は空襲により焼失してしまう。一家の生活は苦しさを増していく。そんな状況下でも投網子さんはフジコさんにピアノを続けさせた。
 フジコさんは16歳のときに、中耳炎をこじらせ、右耳の聴力を失う。それでも聞こえる左耳を頼りにピアノの練習を続けた。母と同じように東京藝術大学に進み、ドイツ留学を目指していた矢先、自身、無国籍者であったことが判明する。29歳になって、避難民としてようやく留学することができた。僕は以前、彼女の壮絶な人生を描いたNHKドキュメント、ETV特集「フジコ―あるピアニストの軌跡」(1999年放送)を観たことがあるが、とにかく彼女の人生は一筋縄ではいかない。
 
・バーンスタインがその才能を認め、後押しがあり、コンサートデビューする直前、風邪をこじらせて聴力をすべて失う。1週間、砂糖水で過ごすというような貧乏体験をし、灯油を買うお金もなく、風邪を引いて聴力を失ったのである。耳が聴こえずしてまともな演奏ができるはずもない。リサイタルは惨憺たる結果に終わった。うちひしがれ絶望の中でどうやって暮らしていけばいいのか。ピアノを弾くことよりなにより、今日食べるために働かなければならなくなった、その胸中は察するに余りある。
 平成5年、投網子さんが亡くなってから日本に帰国したフジコさん。テレビで放映されたのがきっかけで、一夜にして有名人になった。遅咲きの60代で大ブレークし、88歳となった今も世界各地のステージに立ち、人々を魅了し続けている。今も左耳だけ、それも普通の人の30%しか聴こえない。そんなどん底体験を経てブレークした。それだけに今も心に残るフジコさんの言葉がある。
 
《どんなに教養があって立派な人でも、心に傷がない人には魅力がない。他人の痛みというものがわからないから。》
 
 山あり谷あり、苦節60年の苦労人だからこそいえる、珠玉の言葉ではないだろうか。


加藤日出男さん

清流出版 (2020年2月21日 16:58)

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「ふじ丸」船上で挨拶する加藤日出男さん

・2019年12月22日、加藤日出男さんが亡くなった。老衰のため、東京都内の病院で死去したと報じられた。享年90だった。思い返せば、加藤さんと知り合うきっかけは、弊社から刊行された小川宏(2016年11月29日逝去)さんの著書『宏です。小川です――昭和わたく史交友録』(2005年弊社刊)に端を発する。加藤日出男さんとの交友が、エピソードとともに取り上げられていた。加藤さんは、「若い根っこの会」を主宰され、箱根駅伝等で東京農大が出場する時など、「大根踊り」を披露するが、この踊りが加藤さんの発案によるものと知っていたので、機会があればお会いしたいと思っていた。
 
・小川さんはNHK入局後、「ジェスチャー」等で司会を担当、フリーになってからも17年間にわたるフジテレビの人気番組「小川宏ショー」の司会者として「初恋談義」などで同局の看板番組に育てあげた。当然ながら、小川さんの交遊関係は、スポーツ界、歌手・俳優など芸能関係、政治家、科学者、評論家、文化人など広範囲に及び、交友関係における面白いエピソードもいっぱいお持ちの方であった。それに小川さんは知る人ぞ知る「メモ魔」であった。原稿執筆する際は、このメモが大いに役に立ったはずだ。だからその後も弊社から、『小川宏の心に残るいい話』(2008年刊)『小川宏の面白交友録』(2009年刊)などを執筆していただくことになった。

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2005年 弊社刊
 
・加藤日出男さんのプロフィールに触れておく。日本の社会運動家、作詞家、エッセイストとして活躍され、「若い根っこの会」を始めた方であった。1929年、秋田県秋田市に生まれ、秋田鉱専中退後、作男として農村生活に入り、農民運動に情熱をそそいだ。1953年、東京農業大学農学部農業経済学科を卒業し、商社に入社したが間もなく退職、労働青年の交流の場として「若い根っこの会」を結成する。「若い根っこの会」は、発足以来、今年で実に67年目に当たる。
 
・それにしても僕は『大根踊り人生論』(2003年 東京農大出版会刊)を読ませて頂くまで、大根踊りが「若い根っこの会」へと繋がったとは知らなかった。「大根踊り」は1951(昭和26)年に加藤さんが発案したもの。人口に膾炙したのは、翌1952年秋のこと、東京農大の学園祭の宣伝隊が、東京・渋谷の駅前広場の大群衆を前に、「大根踊り」を披露するとともに、大量の大根を都民に無料配布したことにある。まだ敗戦後の飢餓の名残が消え去らぬ頃である。無料で配布された大根がどれほど歓迎されたことだろう。加藤さんは、東京の街にユーモアと明るさを持ち込みたかったのだという。そして大根は純白な根っこでもある。
 
《ひとりぼっちで悲しんでいる根っこ。だれもわかってくれないとねじれる根っこよ、互いに苦しいことを語り合おう。助け合おう。ねじれた根っこをすっきりと地の中へのばしていこう。》 まさにこれが「根っこの会」のルーツなのだ。

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2003年 東京農大出版会刊
 
・加藤さんは、1957年、初の著書『東京の若い根っこたち』(第二書房刊)を発表。これを劇団「民芸」が映画化する。1961年、財団法人「根っこの家」が完成、同年朝日新聞社より「朝日明るい社会賞」を受賞した。1961年、雑誌『若い根っこ』を創刊、現在刊行の月刊誌『友情 Dream』に発展した。1972年、「グアム・サイパン南十字星洋上大学」を開催。以後、これまで39回就航し、すべて団長を務めてきた。文部省教育映画審査審議会委員、都青少年委員などを歴任、またMRA世界大会代表として渡米もしている。
 
・加藤日出男さんは、ラブコールに応えて、弊社に僕を訪ねてきてくれた。その際、単行本のタイトル案と原稿用紙数枚分のレジュメを持参していた。80歳を目前にしながら、正に「生涯青春」を地でゆくような、加藤さんの若々しさに僕は感心させられた。そもそも加藤日出男という人物に惚れ込んでいたし、「若い根っこの会」の後押しがあれば十分売れると踏んだ。だから同席していた出版部の臼井君に単行本化を進めるよう指示した。それが『生涯青春――いのちよ、ありがとう』(2007年 弊社刊)である。この本の中に、「若い根っこの会」が生まれた基本理念が書かれている。素晴らしい理念だと今も思う。
 
《美しい花をみて 根っこを思う人は少ない。少年の日、書いた詩の冒頭の一節である。そして若い根っこの会を創始した。その時、二十三歳だった。いつしか七十七歳をすぎ、今も若い根っこたちの喜怒哀楽の海につかっている。数世紀を生きてきた巨木をみて、人は、そのたくましさに圧倒される。きびしい風雪に耐え、人間の一生を、何回と、みつめて、生きてきたからだ。だが、巨木をささえてきた“根っこ”を思う人は少ない。
  根っこは、巨木が、森をなす数十万枚の葉っぱや、それを宿す、複雑に、からみあった枝々に、栄養をおくりつづけてきたのだ。根っこにも、地中から、もりあがった巨根もある。が、一番大切な、地中に、はりめぐらし、水分や養分を吸収するのは、一番末端の毛根たちなのだ。この毛根たちこそ、働き蜂なのだ。これらの毛根が、朽ちはててゆくと、巨木も、ある日、どうと倒れてしまう。》

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2007年 弊社刊
 
・高度経済成長期に「集団就職」として地方の中学・高校の卒業生たちが、臨時列車に乗って上野駅、大都市圏に働きに出てきた。その得難い労働力は「金の卵」と呼ばれた。まさに加藤さんのいう末端の毛根として日本の高度成長期を支えてきたのである。そんな地方出身の若者たちの拠り所として、「若い根っこの会」は大きな礎となっていく。
 
・加藤さんとの関係は、単行本を出しただけでは終わらなかった。実は加藤さんは「グアム・サイパン南十字星洋上大学」を40年にあまりにわたって実施していた。そのパンフレットを見せてくれたのである。僕はこの洋上大学に大いに興味をそそられた。飛行機で行くようなあわただしい旅行ではなく、ゆとりのある船旅である。多くの講師陣はじめ、参加者との触れ合いは、気分転換にもなるし、斬新な単行本企画も浮かぶかもしれない。そんな読みもあり、参加を申し込んだ。加藤さんは、船内でサイン会を開催して弊社の本の販促にも一役買ってくれるという。その熱意にも僕はほだされた。

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歓迎式典で挨拶する加藤さん
 
・5月の大型連休にからめた9泊10日の船旅である。船は豪華客船「ふじ丸」。総排水量2万3235トン、全長167m、船幅24m。日本のクルーズ客船の嚆矢として、1988年に三菱重工業神戸造船所で進水、翌1989年の4月に就航した。就航時、日本籍では最大の客船であった。展望大浴場が設置され、これはその後の日本籍クルーズ客船の標準となっている。 当初は主にレジャークルーズに使われたが、2002年に運航が日本チャータークルーズに引き継がれ以後は、自治体・企業・団体向けのチャータークルーズが中心となった。
 
・2007年の洋上大学は39回目に当たり、結果的に最後の洋上大学実施となった。弊社からの参加者は、臼井出版部長、斎藤勝義・海外版権担当顧問と僕の3人だった。見渡す限りの紺碧の波を蹴立て、船はひたすら南下していく。上部デッキには、強い日差しが照りつけ、夏の暑さが好きな僕は大満足だった。総勢は、研修生(洋上大学なのでこう呼ぶ)が400名弱、それに乗務員が100人強。総勢500人を超えた。加藤団長の綿密なカリキュラム編成で、毎日、変化に富んだイベントがあり、飽きることがなかった。また、加藤さんは僕らの心意気に対して、様々な配慮をしてくれた。展望大浴場を3人だけで使わせてくれ、ナイトキャップの差し入れも数回に及んだ。そんな気遣いをされる方だった。

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秋草鶴次さん(右端)と船長と僕
 
・この旅行には、加藤団長の計らいで、ベストセラー『十七歳の硫黄島』(文藝春秋刊)の著者・秋草鶴次さんが特別ゲストとして招待されていた。玉砕の硫黄島から生還された秋草さんの講演を聞いて、思わず僕は涙がこぼれた。秋草さんは栃木県足利市の農家の長男として生まれ、17歳の時、玉砕を運命づけられた硫黄島に海軍通信兵として配属された。十分な飲み水も食べ物もない極限状態を生き延びなければいけない。生死の境をさまよいながら、一番安心できる食べ物といえば、自分の体に湧いたウジだったというから、その過酷な運命には言葉もない。非情で過酷な状況に耐え、そして生き抜いた方であり、いかなる人物なのか僕は興味を抱いたものだ。

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戦友と歌を歌う秋草さん(中央)、左端は加藤日出男さん
 
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『十七歳の硫黄島』文春新書刊(2006年)、『硫黄島を生き延びて』(2011年 弊社刊)
 
・秋草さんは復員後、悲惨極まる戦争体験を原稿用紙1,000枚以上にわたって綴っていた。しかし、ご両親には一切見せず、大切に保管してきた。2006年夏、NHKが放送した『硫黄島玉砕戦 生還者61年目の証言』で取材に応じるまで、秋草さんはじめ多くの元帰還兵は、硫黄島での惨状に一切口にせず、沈黙を守った。2008年9月、在日米軍の計らいで硫黄島を訪問した秋草さんは、63年ぶりに地下壕の入口の前に立ち「ここに戦友がいるんだ」と慟哭した。沈黙を破り、戦争を語ることは、戦争を生き抜いた人にとって、もう一つの闘いだったと思い知らされた。秋草鶴次著『硫黄島を生き延びて』からは、戦争の悲惨さ恐ろしさが伝わってくる。「あとがき」にこうある。
 
《正しい戦争、聖戦などというものが本当にあるのだろうか? 私には信じられない。あの戦争は一体なんだったのか? (中略) 南方等の戦場で失われた300万を超す命は、この世の平和の柱となって現世を支えている。残酷な戦争の果てに散華された命を私は思う。我々は平和を託されている、と私は理解する。》
 
・全国各地で戦争の悲惨さを伝える講演を精力的に行ってきた秋草さんも、2018年3月30日、泉下の人となった。広島、長崎、沖縄などでも、悲惨な戦争体験を語れる人が亡くなっていく。戦争の悲惨さを語り継ぎ、風化させないためにも、秋草さんの遺言にも似たあの言葉をもう一度、噛み締めなければなるまい。《残酷な戦争の果てに散華された命を私は思う。我々は平和を託されている、のだと》。

安原顯(通称ヤスケン)さん

清流出版 (2020年1月23日 17:51)

・コラムの内容を考えているうち、この1月20日が安原顯(通称:ヤスケン)の命日にあたることを思い出した。2003年に亡くなっているから17年も前のことになる。働き盛りともいうべき63歳という若さでの旅立ちだった。僕の頭の中には、今でも生き生きと活躍していた在りし日のヤスケンが息づいている。「天才ヤスケン」「スーパー・エディター」などと自称し、中央公論社の歴史の一端を担った『海』『マリ・クレール』の編集者として活躍していたころのヤスケンのことが思い出される。ヤスケンと僕は早稲田大学高等学院の同級生だった。だがヤスケンのほうが一つ年上だった。というのも、戦前は女子校であった東京都立八潮高等学校に進学したヤスケンだったが、「元女子校に通う」というのがお気に召さなかったようで、半年後には同校を中退し、僕が通っていた早稲田大学高等学院へ再入学してきたのだった。


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ヤスケンと通った早稲田大学高等学院(現在の建物)

・そもそもヤスケンはなぜ編集者の道を選んだのか。ルーツをたどってみると、高校時代からアヴァンギャルドにかぶれ文芸部に席を置き、校友会雑誌にコンサート評などを載せていたから、書くことには興味があったのだ。早大仏文科在学中の20歳のころ、教授の坂崎乙郎(西洋美術史研究家・美術評論家)に私淑していたヤスケンは、あらゆるアートが活気に満ちていた1960年代、アート全般について評論のようなものが書け、それでメシが食えたらと夢見ていたらしい。そして21歳のとき、のちに妻となる早大文学部の筑土まゆみさんと出会う。まゆみさんの父君は、僧侶で宗教民俗学者の筑土鈴寛(つくど・れいかん)である。まゆみさんはデビュー作「太陽がいっぱい」でアラン・ドロンの恋人役を演じ、一躍フランスのアイドルとなったマリー・ラフォレ似の美人で、ヤスケンは見せびらかすように、よく大学キャンパス構内を一緒に歩いていたものだ。
 
・まゆみさんは、親族の大反対を振り切るようにヤスケンと同棲し、大学卒業後は、電通に就職してコピーライターとなり、森永乳業に派遣されていた。初任給2万8000円ということで、当時としてはかなりな高給取りである。さらに電通は授業料を払って、「久保田宣伝研究所」に半年間まゆみさんを通わせ、プロとしての基礎技術に磨きをかけていた。ヤスケンはといえば、大学を中退しフリーターをしていたが、「女に食わせてもらう」ことにプライドを傷つけられ、まゆみさんに折に触れ「会社を辞めろ」と言い立て、1年後には本当に退社してしまう。電通側もこれには怒り心頭だったらしい。金をかけて基礎技術を教え、さあこれから回収するという矢先に、辞められてしまったのだから。
 ヤスケンはといえば26歳のとき、貧乏時代の池田満寿夫に勧められ、雑誌『早稲田公論』を出版していた出版社に入社する。これが編集者としてのスタートとなった。ヤスケンの編集的センスの良さはこの頃から垣間見える。実際、総合雑誌志向だった『早稲田公論』を文藝雑誌的に変えたのはヤスケンであった。中村光男、高橋和巳、いいだももといった各氏に小説を依頼し、気に入ると同人雑誌からの再録も行った。しかし、『早稲田公論』は廃刊となり失職する。ミュージック・マンスリー社、竹内書店を経て、1969年、中央公論社に入社する。中央公論社に入社した事情については、同僚だった直木賞作家・村松友視氏の『ヤスケンの海』(幻冬舎 2003年 のち文庫再刊)に詳しい。簡単にいえば『海』の編集に携わっていた村松氏が編集長と折り合いが悪く、異動を申請していた。その後釜としてヤスケンが入社することになっていたのだ。
 村松氏は『ヤスケンの海』でヤスケンの「いい加減で破天荒」なキャラクターを綴り「過剰な読者+過剰な編集者」の目線で雑誌が作れる、有能な編集者であったと評している。また、妻のまゆみさんについて、ヤスケンを広く包んだスケールの大きな「人物」として描いている。なお『ヤスケンの海』文庫判の表紙に描かれたヤスケンの似顔絵は、村松氏が描いたものである。
 
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『ヤスケンの海』単行本と文庫版(幻冬舎刊)

・僕は、ダイヤモンド社に入社し、週刊「ダイヤモンド」の取材に精を出していた頃である。僕も文藝路線にはもともと興味があったから、ヤスケンの仕事ぶりは遠くから注目し続けていた。ヤスケンが『海』の編集者をしていたのは1969年から83年の14年間だったが、文藝誌全般に対して警鐘を鳴らし続けていた。編集者と作家がともにサラリーマン化したことに原因があると喝破していた。だから「パワーアップの可能性を秘めた作家や作品に出会うことはほとんどなくなりつつあった」と述懐している。「パワフルな新人が出にくい理由の一つに、新人賞選考委員らの眼力のなさもある」の言は、後に大江健三郎をぶったぎった事件に繋がってゆく。ヤスケンは編集部在籍中に『レコード芸術』に執筆したコラムで大江健三郎氏を罵倒したのだ。そのため大江氏は1年間、中央公論社が主催する谷崎潤一郎賞の選考委員を辞退する事件に発展したのである。
 ヤスケンは無類の小説好きであったが、単なる小説フリークではなかった。映画を観て、ジャズやクラシック音楽を聴き、展覧会にも足しげく通っていた。後年になると、ジャズ評論も手がけ、CS衛星ラジオミュージックバードの番組「ヤスケンのギンギン・ニューディスク」でDJをつとめ、また寺島靖国の「PCMジャズ喫茶」にも毎回ゲスト出演していた。オーディオマニアでもあったのだ。綾戸智絵をいち早く評価するなど、常に芸術全般の新しい才能に目を向け続けた男である。ヤスケンの舌鋒の鋭さもそうした裏付けあったればこそだと思われる。
 ヤスケンの関わってきた雑誌『パイデイア』『海』『マリ・クレール』の三誌によく登場していたのが吉本隆明と蓮實重彦の両氏である。特にインタビュー記事等に関しては、蓮實重彦氏にとにかく世話になった、とヤスケンも書いている。1968年『パイデイア』夏号に「私にとって映画とは何か」のタイトルでアラン・レネのインタビュー記事が掲載されている。この翻訳が蓮實氏との最初の仕事だったようだ。1970年代は『海』に毎月といっていいほど登場している。ヤスケンは吉本隆明邸にも通っていたから、吉本ばななは4歳くらいの頃から知っていた。ばななの『海燕』新人賞を取った「キッチン」を読んで感動したヤスケンは、すぐに連載小説を依頼する。それが200万部を超えて大ヒットとなり、山本周五郎賞を受賞した「TUGUMI」である。

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中公文庫刊

・この作品が大成功した要因の一つが、挿し絵画家の人選にあった。ヤスケンが好きだった版画家の山本容子氏に依頼したのだった。毎号2点ずつ挿し絵を入れ、お洒落な頁レイアウトになっていた。単行本にしたときの装画も山本容子氏に依頼した。ヤスケン、吉本ばななともに、単行本の売れ行きの30%は、彼女の装画のお蔭と絶賛している。その他にもヤスケンが一押しした作家は数多い。島尾敏雄・ミホ夫妻、レイモンド・カーヴァを特集し、訳・解説した村上春樹氏、小林信彦・荒木経惟コンビによる「私説東京繁盛記」など、スーパー・エディターの面目躍如たるものがある。ヤスケンは、僕も公私ともにお世話になった辻邦生氏とも親しかった。僕も30歳頃、辻邦生氏に原稿を依頼したことがあり、以来、何かというとお声がかかり、池袋の喫茶店で楽しく会話をしたことが懐かしく思い出される。
 
・1984年5月号をもって『海』は終刊となる。ヤスケンは売れ行き不振で廃刊寸前だった『マリ・クレール』に移り、同年6月号から副編集長となる。いつ廃刊になってもおかしくない、瀕死の状態の『マリ・クレール』であればこそ、社を辞めずに人事異動を受け入れたというのが、いかにもヤスケンらしい。それまで一貫して、フランス語版『マリ・クレール』を翻訳するだけで、オリジナルな自主企画など一切なかった同誌に風穴を明ける。先ず、「書評欄」を新設し、さらに同年9月号で「特集:読書の快楽」を企画したところ、当時の「ニューアカデミズム」ブームで「知がおしゃれ」だったことも追い風となり、雑誌は完売となる。以降も同様の拡大路線を続け、『婦人公論』のビジュアル版といった趣だった女性ファッション誌を「知的な思想・文芸雑誌」に変貌させたのである。ヤスケンが『マリ・クレール』時代に、これはと見込んで後押しした人たちについても触れておきたい。まず小川洋子氏だが、吉本ばななと同様に『海燕』の新人賞でデビューしたが、2作目の「完璧な病室」を読んで感動したヤスケンは、連載小説を依頼する。それが「シュガータイム」だが、ヤスケンの思惑通り、期待以上のいい作品となった。
 
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中公文庫刊

 富岡多恵子氏は、ヤスケンが二十歳頃からの知り合いで、処女作「丘に向ってひとは並ぶ」は『中央公論』誌に掲載されたが、その後は『海』で独占的に掲載し続けることになった。新人作家に連載小説を依頼したのは、彼女が初めてだったとヤスケンは書いている。初の連載小説だった富岡氏の『植物祭』は、後に田村俊子賞を受賞することになる。中条省平氏は、僕も親しくお付き合いさせて頂いているが、ヤスケンはいち早くその才能を見出していた。書評、映画評、ジャズ評と、様々な原稿を依頼していたが、フランスでの学位論文が「バルベー・ドールヴィイ」だと知る。この作家についてヤスケンはほとんど知らなかったが、日頃の文章や人柄を通して中条氏を信用していたので面白いに違いない、との確信を持ち連載を依頼したという。その後の活躍ぶりについては、皆さんご承知の通りである。
 
・飯島洋一氏(詩人である飯島耕一の子息)は、大手ゼネコンに勤めていたが、話を聞くと将来、建築評論家になりたいという。そこでヤスケンは編集長を口説き落として、カラー1頁の「建築コラム」の連載を依頼する。このコラムをきっかけに『SD』誌に連載が決まり、『光のドラマトゥルギ― 20世紀の建築』(青土社)として一冊にまとめられ、『マリ・クレール』の連載コラムも『37人の建築家 現代建築の情況』(福武ブックス)として結実した。ヤスケンがその才能を引き出したことにより、飯島氏も見事に羽ばたいたのだ。『マリ・クレール』での特集は、多くが、角川書店時代から親交のあった見城徹(現・幻冬舎社長)に依頼し、角川文庫で刊行されることになる。
 
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清流出版で復刊した2冊の単行本

・僕が清流出版を立ち上げ、月刊『清流』を刊行するとともに、出版部を発足させ好きな文藝路線も拡充していた。そして風の便りにヤスケンが闘病中であることを知った。それまで僕は、ヤスケンの仕事ぶりを遠くから眺めていただけだったが、闘病生活をしているとなれば、少しでも手助けしたい思いが募った。そこでヤスケンが信頼する井上俊子嬢に編集をお願いし、装丁家もヤスケンお気に入りの山田英春氏に依頼して『読んでもたかだか五万冊』と『ふざけんな人生』(共に倒産したジャパンミックス社刊行)を清流出版から復刊することにした。と同時に、月刊『清流』でも「ファイナル・カウントダウン」として「ヤスケンの編集長日記」を死ぬまで連載してもらおうと決めたのだ。この編集長日記で「癌告知と余命一ヶ月である」ことを公表することになる。
『ヤスケンの海』で月刊『清流』の連載について、村松氏はこう書いている。
《「ヤスケンの編集長日記」には、あきらかにヤスケンらしいリズム、愛嬌、そして屈折したやさしさがあらわれていた。これを読んで私は、ヤスケンは、自分の読者=編集者としての魅力が発揮できるメディアと、ようやく遭遇したという思いを抱いた。ヤスケンの夢を実現するためには、「ヤスケンのやることを十分に理解し、ヤスケンの性格を大きく受け入れ、ヤスケンの仕事の心強いうしろ楯となり、ヤスケンの失敗に寛容で、巨万の富をもっている経営者が不可欠」だと、これまで私は思っていた。(中略)ところが、出版界という領域を超えたホームページを自分の“会社”とすれば、読書人としてはこれまで通り満喫できるし、編集者としてのトラブルはいっさい生じない。ヤスケンは、その中で気ままに読者と交信することができるのだ。その仲間の数は、今でこそ限られているが、いつヤスケンの想像を超えた広がりをみせるか分からないではないか。》 ヤスケンに自由に書いてもらうための場を提供したことについて、村松氏にこんな風に書いて頂いたことを嬉しく思う。

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ヤスケンの絶筆となった編集長日記『ファイナル・カウントダウン』(弊社)

 それまで僕はヤスケンに褒められたことなどなかったのだが、連載誌面で《「持つべきは友!」と超感動している。加登屋君、有難う!》と書いてくれた。発言の場とともに、ヤスケンの癌闘病中にかかる経済的負担の軽減に多少なりとも協力できたことに僕は満足している。スーパー・エディターだったヤスケンだが、天国にいっても、相変わらず罵詈雑言をまき散らしているのではないだろうか、と僕は夢想している。ヤスケンよ、僕も齢80になるから、そのうちそっちにいくよ。そしたらまた、立て板に水の如く、小気味のいい罵詈雑言をしばらくぶりに聞かせてくれ。

天満敦子さん

清流出版 (2019年12月20日 10:55)

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・11月15日、毎年恒例となっている天満敦子さん(ヴァイオリン)と岡田博美さん(ピアノ)のデュオ・リサイタルを聴きに行った。コンサート会場は紀尾井ホールである。プログラムは『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ1番より アダージョ』(バッハ)からスタートした。パンフレットによれば、天満さんはリハーサルの時と入客後の響きの違いを感じ取るには、無伴奏曲集から選ぶのが最適と捉えていて、その会場の響きの感触によっては弓を変えたりすることもあるのだという。微妙な響きの違いを感じ取って、自在に対処するこの類まれなる感性の鋭さこそ天満さんの真骨頂である。
 後日、毎年のように、天満さんのコンサートを長野県松本市で開催してきた松本在住の石川治良さんにお聞きしたのだが、なんとこの日、天満さんは、左手の中指に違和感があったのだという。石川さん自身はこの日、都合が悪くて来られなかったそうだが、しっかりとそんな微妙な情報まで摑んでおられる。さすがに天満さんとは長いお付き合いをされてきた方である。僕はコンサートが終ってからこの話を聞いたわけだが、演奏を聴いていて、そんなことはまったく感じなかった。ステージ上の天満さんは、集中力を研ぎ澄まし、迫真の名演奏を披露してくれた。天才の天才たる所以であろう。

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石川治良さんと僕
 
・ヴァイオリンとピアノのデュオ・リサイタルで、ちなみに曲名だけを記しておきたい。『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ1番より アダージョ』(バッハ)から始まって、『ヴォカリーズ』(ラフマニノフ)、『カンタービレ』(パガニーニ)、『ツイガーヌ』(ラベル)、映画「秋刀魚の味」より『主題曲とポルカと終曲』(斎藤高順・和田薫編曲)、『シャコンヌ』(ヴィターリ)、『ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル・ソナタ」』(ベートーヴェン)。時に無伴奏で、時にデュオでと素晴らしい演奏が続き、僕は感動で放心状態であった。
 最後に天満さんは、自身の代名詞とも称される、ポルムべスクの『望郷のバラード』を演奏した。1993年の初演以来、すべての公演で弾き続けてきたというこの曲。「万という回数を弾き続けているにもかかわらず、一度もまたかと思ったことがない」と天満さんは語っているが、聴く側も同じである。聴くたびに切なく胸に響いてきて、新たな感慨に浸っている。いまから136年前、29歳で獄中死したルーマニアの天才が残したこのメロディが、天満さんの素晴らしい演奏を通して、遠く離れた日本人の心を震わせている。もし、まだこの曲を聴いたことがない人は、是非聴いて欲しい。それもできれば生演奏で。
 そしてアンコールで、懐かしの『仰げば尊し』を演奏された。会場に向けてタクトを振るように手を振って、みんなで歌うよう促したので、コンサートホール全体が温かな歌声に満ちた。歌いながら、各々の学生時代に思いを馳せたものである。同行した藤木健太郎君は、この選曲に、天満さんはデュオ・リサイタルを今回で卒業するつもりではないかと心配したが、どうやら杞憂に終わったので安心した。
 
・さて、今年最後のコラムになるので、今年亡くなった方への惜別の思いを書いておきたい。元国連難民高等弁務官・緒方貞子さんがお亡くなりになった。国連難民高等弁務官就任は、国際分野への女性進出を促そうとした当時の三木武夫首相の肝いりで実現した人事といわれている。緒方さんは、国際基督教大学の教員であったが、三木首相が惚れこんで抜擢したわけだ。緒方さんはその期待に十分応えたといえる。人命優先の理念を携え、敢然として難民の支援対象を広げてきた方である。緒方さんが国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を率いた1991年から約10年間は、東西冷戦が終結したばかりで、国家間の力のバランスが崩れ、人種間、民族間の対立が表面化した時代であった。フセイン政権下のイラクではクルド人勢力が武装蜂起し、鎮圧される事態となった。トルコとの国境近くに約40万人ものクルド人が押し寄せたが、トルコは入国を拒否したのでそこに止まることとなった。この時、緒方さんは支援を決め、難民に手を差し伸べる転機となった。現在でも故郷を追われている人は、世界で約7000万人に及んでいる。世界各地で紛争、戦禍は絶えず深刻さを増している。まだまだ活躍して欲しかった。大事な人を亡くしたものである。

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1999年5月 清流出版より刊行

・実は緒方貞子さんに弊社刊行の本を推薦してもらった。国連大学で刊行された原著を翻訳刊行したものだ。『平和のつくり方――紛争地帯の国際ボランティア』(国際ボランティア計画編)がそれ。翻訳は小山田英治さんを中心とした翻訳グループにお願いした。内容は国連ボランティアの実態を赤裸々に抉り出したもの。特に紛争地帯に派遣されるボランティアは、生死の境をさまようこともあり、まさに命がけの活動となる。そんな命の危険さえも懸念される紛争地帯に赴かせるものとは一体何なのか、実体験を通して問いかける。「正義感なのか?」「使命感なのか? 」、それとも「愛なのだろうか?」。 カンボジア、南アフリカ、モザンビーク、旧ユーゴスラビア、ルアンダ、ソマリア……。そこに支援や援助を求める人がいる限り、ボランティアたちは果敢に現地に赴くのである。内容が内容なだけに、緒方さんは気持ちよく推薦者になっていただいた。
 国連大学について少し説明しておく。英語の略称は「UNU」(United Nations University)。 国連およびその加盟国が関心を寄せる、緊急性の高い地球規模課題の解決に取り組むため、共同研究、教育、情報の普及、政策提言を通じて寄与することを使命としている。地球規模の課題の解決に取り組むため、共同研究や教育、政策提言などを行なっており、国連加盟国の大学や研究機関と連携し、さまざまなプロジェクトや研究を進めている。正確には「大学」ではなく「シンクタンク機関」および「大学院」といった機能を持つ。専門家を集めて、社会で起きているさまざまな課題を調査・研究し、政策助言やその成果発表などを行う機関といったらいいだろうか。
 国連大学が活動の礎として掲げるテーマは「サステイナビリティ」(持続可能性)だ。「サステイナビリティ」とは、人間と自然が調和した持続可能な地球社会を構築することを目指す考え方である。国連大学では、世界の紛争や貧困などの諸問題の解決に向けて意欲的に活動しており、研究テーマとしても「サステイナビリティ」が軸となっている。なお、国連大学の職員の数は約700人で、開発途上国、開発先進国双方からの出身者である。管理理事会があり、6年の任期を持つ24人の理事、国連大学学長、職権上の3理事、国連事務総長、ユネスコ事務局長、UNITAR事務局長で構成される。「国連大学プレス」が出版部門を担当する部署である。


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1999年4月 清流出版より刊行

・弊社の国連大学シリーズとしては、『誰が飢えているか――飢餓はなぜ、どうして起こるのか?』も翻訳出版して良かったと思う本だ。著者はL.デローズ、E.メッサー、S.ミルマンと三人の共著で、翻訳は中村定さんにお願いした。僕はいまでもこの本を気に入っている。表題通り、「飢えの情況はどれほど深刻なのか?」を個人レベル、家族レベル、社会レベルに分けて、統計的事実、具体的調査に基づいて分析するもので、特に現代の飢餓が決して食糧生産の不足のみによって起こるわけでないことを明らかにしたのが素晴らしい。この本の推薦者には、古巣ダイヤモンド社で刊行した名著『飢えの構造――近代と非ヨーロッパ世界』の著者であった西川潤・早稲田大学教授にお願いした。僕が学んだ高校(早稲田大学高等学院)の4年先輩であり、早稲田大学名誉教授になったが、若くして政治経済学部切っての俊才として知られた方。惜しくも昨年、お亡くなりなった。
 その西川教授は、こんな推薦文を寄せてくれた。《21世紀の最大の問題の一つは、世界で増大しつつある飢餓の問題である。本書はこの飢餓の概念、測定方法、広がりの現状と動向、可能な対策、紛争と飢餓の関連についての最初の包括的な科学的報告書である。国際開発、農業、平和日本の生き方に関心をもつ読者に広く勧めたい。》
 
・嬉しいことに国連大学関係の本は、翻訳する権利というべき版権が考えられないほど安い。確かこの素晴らしい本の版権もたった1ドルだった。人間と自然が調和した、持続可能な地球社会を構築することを目指す考え方に基づいた研究を続けるこの機関。もっともっと、飢餓、難民、水資源、紛争地帯、地球温暖化など、今日的なテーマを真摯に掘り下げた魅力的な原著を探し出し、翻訳出版して世に問いたいものだと思っている。

和田誠さん

清流出版 (2019年11月27日 11:27)

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僕が編集した『ブラウン管の映画館』(ダイヤモンド社刊、1991年)

・10月7日、和田誠さんが肺炎でお亡くなりになった。享年83であった。僕は和田さんの大ファンを自認していただけに、訃報を聞いてショックを受けた。和田さんの偉大さはいうまでもない。イラストレーター、装幀家、エッセイスト、映画評論家、映画監督、翻訳家など、肩書をどうすればいいのか分からないほど、活躍分野の広さにまず驚かされる。和田さんは『週刊文春』の表紙を40年以上にわたって描き続けてきた。その数、2000枚だという。僕も『週刊文春』は好きな週刊誌で読み続けてきたが、表紙画は一目で和田さんが描いたとわかる。一番初めに描いた1977年5月5日号に和田さんは小鳥を描いている。そして2000枚目の2017年7月27号の表紙は、最初に描いた小鳥が空を飛んでいる絵である。こうしたお洒落な遊び心を持ち続けた人であった。

・共に絵本を作るなど、親交の深かった詩人の谷川俊太郎さんは、和田誠さんを悼んで「Natural」と題した詩に詠んでいる。

 Natural  和田誠に
 
 君は過去になれない男
 目の前からいなくなっても
 いのちにあふれた絵とデザインに
 君は軽々と生き続けている
 
 ひとことで言えば君には
 naturalという英語がふさわしい
 自然という日本語だけでは
 捉えきれない君というヒトの巧み
 
 君のカラダとココロの深みにある
 涸れることのない笑みの泉が育んだ
 みずみずしい木陰で私たちは憩う
 
 意味を問いかける前に
 君は線で色で形で機知で答えてくれる
 ここでそしてまた未来のどこかで
 
(詩人・谷川俊太郎)
 
・ロックバンド「トライセラトップス」の和田さんのご子息・和田唱さんは、ご自身のツイッターにこんな追悼文を寄せている。少し長いがとてもいい追悼文なので引用させていただく。

《親父が天国へ旅立った。最近は日々具合が悪くなっていったから、どこかで覚悟はしていたけれど、同時に奇跡が起きることも願っていた。でもそれは叶わなかった。今思えば、きっと親父なりに、ベストなタイミングでの旅立ちだったんだろう。(中略) 親父は映画を教えてくれた。ジャズを教えてくれた。ルールに縛られないこと、好きなものは好きでいいこと、自分がこうだと思ったら貫くことを教えてくれた。お蔭で俺は幸せな人間だ。だから明るくサヨナラをしたい。それが和田流だ。でも魂は死なないし、心にその人がいる限り、どのみちサヨナラなんてない。肉体的なしばしの別れに過ぎないから、「おとう、またな!」くらいにしておこう。でもThank YouとI Love Youは添えておくよ》

・実に心のこもった素晴らしい追悼文である。子どもたちに父親として立派に背中で生き様を見せ、人生の指針となるような言葉も伝えている。僕にも男の子が二人いるが、子育てに関しては忙しさにかまけて、肝心な部分は女房任せにしてきた負い目があり、忸怩たる思いをしてきた。その意味でも和田さんは立派である。

・和田さんは映画に関しての著作がたくさんあり、僕も古巣のダイヤモンド社時代に映画エッセイ『ブラウン管の映画館』を執筆していただいた。無類の映画好きである和田誠さんが、放映予定の映画の中から、気になる作品をピックアップし、解説するという趣向であった。元々は、1987年9月から1990年10月までの3年に渡り、ダイヤモンド社のTV情報誌『TV Station』に連載されたコラムを中心に加筆修正してまとめたものである。取り上げられている作品数は、実に700本強に及ぶ。そのほとんどが、往年の名作を始めとする著名な作品であった。本文中のイラストがまた秀逸であった。

・和田さんの文は平易でさらりとしたものながら、作品そのものとその周辺にまつわる話なども織り交ぜて、貴重な情報を余すところなく伝えている。もちろん装幀・装画は和田さん本人であり、とてもお洒落で粋な作りとなった。その後、文藝春秋から全7巻に及ぶ『お楽しみはこれからだ――映画の中の名セリフ』(Part 1は1975年6月)の刊行が始まるが、判型・体裁ともにダイヤモンド社の装幀を踏襲したスタイルで統一され、一緒に並べても違和感がまるでない。


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文藝春秋から刊行された『お楽しみはこれからだ』シリーズ

・僕は和田誠さんと本作りを通して、お付き合いしていた頃を再確認したくなって、古い1991年のメモ帳を引っ張り出した。それによると、『ブラウン管の映画館』は1991年6月に刊行されたもの。その年は、和田さんの企画のほかにも、同時進行で、徳岡孝夫、鈴木主税、上田惇生、正慶孝の各氏に翻訳をお願いしていた。いずれも分厚い翻訳書だった。またイギリス出身のジャーナリストでニューヨーク・タイムズ東京支局長であったヘンリー・スコット=ストークス氏には三島由紀夫本のオリジナル版を書き下ろし、徳岡孝夫さんに翻訳を頼んだ。さらに大好評であったポール・ボネ名義の『不思議の国ニッポン』シリーズ(全22巻に及んだ)の著者は、実は藤島泰輔(平成天皇のご学友、『孤獨の人』の著者、藤島ジュリー景子ジャニーズ社長の父親)さんであり、宿泊先のホテル(最初はホテルオークラ、次はホテルニューオータニのスイートルームを定宿)に度々訪ねた。藤島さんには、月に数度、執筆内容の相談し、終わると昼間なのに2人で酒や葉巻を嗜み、競馬や映画、政治などのおしゃべりした。

  この年は、まだまだある。クロイワ・カズ氏へのイラストの依頼をし、『香港極上指南』(ホテルやレストラン、ショッピング等を格付けする企画)や『妊娠カレンダー』の企画なども進行していた。当然のことながら、本作りにデザイナーは欠かせない、鈴木一誌、川畑博昭さんなど優秀なデザイナーとのやり取りもしていた。メモ帳の細部を見ると、つくづくこの頃は忙しかったことがよく分かる。そんな合間を縫いながら、和田誠さんの本を進行させていた。初校(1月9日から)、再校、三校、青焼き、色校のチェック、下版作業などがあり、ほかにカバー、栞(しおり)、ポスター、著者謹呈カード等の手配もしていた。とにかく超多忙だったことは確かだ。あの喧噪の時代を懐かしく思い出した。

  結局、和田さんの本は、ご本人には著者校として三校までじっくり見ていただき、カバーデザインの色校チェックと宣伝ポスターなどもお願いしている。そして5月30日に見本が出来上がっている。6月11日には、和田さんの新居のお披露目に合わせて、この本の出版記念パーティも開かれた。ゲストは僕のメモ書きによれば、篠山紀信夫妻、デューク・エイセス、キング・ファイブ、田中一光氏のほか、各社の和田さん担当編集者10名位が参加していた。美味しい料理とお酒を飲みながら、スライド説明やそこここで談論風発する楽しい宴となった。古いメモ帳は30年前の自分を見直す機会を与えてくれた。人間関係における懐かしさとともに楽しい思い出も蘇ってきた。しばし、これこそ編集者という職業の醍醐味に浸った。

・和田さんの奥さんは料理愛好家の平野レミさん。お二人は、会って1週間ほどで結婚を決めたというから、お互い「あ、この人だ!」と直感したのであろう。それから47年のときが過ぎた。僕も何度かお会いしているが、本当に仲の良いご夫婦だった。その平野レミさんが11日、事務所を通じてコメントを発表している。全文は以下の通り(原文ママ)。
《1年ほど前から体調を崩し自宅で療養していました。7月より都内の病院に入院していましたが、肺炎を患い、最後は家族みんなに見守られながら、安らかにお別れをしました。肺炎を患ってからはご飯を食べられなかったので、和田さんが好きなご飯をたくさん作って、安らかな顔の横に置いてあげました。 最後の料理を作っている時はすごく幸せで、『私にとっての一番の幸せは、和田さんにご飯を作ることだったんだ』と改めて気付きました。47年間、私の料理を美味しい美味しいって食べてくれて、本当にありがとう。安らかにね。》

 
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和田誠監督作品『麻雀放浪記』
 
・映画監督としても印象深い作品を世に残された。デビュー作は『麻雀放浪記』だった。その日に撮る絵コンテが素敵で、役者やスタッフに出すととても好評だったと大竹しのぶさんも語っている。僕は麻雀が大好きでダイヤモンド社時代は、親しい仲間たち(ほぼ10名)と毎日のように雀卓を囲み、チイ、ポンを繰り返し、午前様でタクシー帰宅していたものだった。だから阿佐田哲也氏の原作本も楽しく読ませていただいたし、映画は和田さんの眼が隅々まで行き届いた映像美で、見事な出来だった。

・キャストは真田広之(坊や哲)、鹿賀丈史(ドサ健)、名古屋章(上州虎)、加賀まりこ(クラブのママ)、大竹しのぶ(マユミ)、加藤健一(女衒の達)、篠原勝之(禿げ)、天本英世(鉢巻)などを起用し、和田さんがとことん細部にこだわった映画だ。映画の舞台は戦後間もない東京上野。麻雀に打ち込む若者(坊や哲・真田宏之)が、様々な勝負師との出会いを通して成長していく姿を描く。わけてもゴロツキのドサ健(鹿賀丈史)との軽薄な友情関係の中で麻雀賭博に身を投じていく。ドサ健はマユミ(大竹しのぶ)という恋人と同棲しているが、負けが込んだドサ健は、マユミと住んでいた親名義の土地の権利書まで持ち出すのだ。僕が知りえなかったギャンブラー心理の底なしの奥深さ、人間の業の怖さなどが描かれた珠玉の名品であったと思う。まだ話し足りない気分だが、映画評論は専門家に任せることにしよう。

  この『麻雀放浪記』のほか、監督作品としては『快盗ルビイ』(1988年)、『怖がる人々』(1994年)、『しずかなあやしい午後に』(1997年)、『真夜中まで』(1999年)などがある。お亡くなりになった後10月20日(日)には、CSチャンネルで和田誠監督を追悼する特別番組が組まれ、『真夜中まで』が放映された。僕も懐かしくて、録画を何回も観た。

・清流出版でも和田さんに単行本の装丁をお願いしたことがある。それは『犬は東に 日は西に』という犬の鼎談本であった。中野孝次、黒鉄ヒロシ、如月小春の三氏にご登場いただいた。山の上ホテルでほぼ半日がかりで収録した。単なる犬好き談義に留まらず、高齢化社会、死生観などにも言及した、内容的にも深いものであった。編集担当したのは臼井雅観君で、装丁者を誰にしたらいいかと相談されたとき、僕はすぐに和田誠さんを推薦した。


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清流出版刊行の鼎談本『犬は東に 日は西に』

・実は和田さんに装丁をお願いするに当たっては問題があった。それは「バーコードはデザイン上好ましくない」を持論とする和田さんは、カバーの裏表紙にバーコードが入るのを好まなかった。だから各社とも和田さんに装丁を依頼するときは、それぞれ腐心したものだ。通常、書籍のバーコードは裏表紙のカバーに直接印刷されるが、これを嫌った和田さんのデザインは、ISBNの数字のみが表示されたデザインを採り入れていた。結果、バーコードは帯に印刷されることが多かった。
  帯にバーコードを入れない場合は、バーコードを別版にして貼り付けて、購入してすぐに剥がれるようにするケースが多かった。このように面倒なことになるのだが、それでもお願いしたのは、装画・装丁ともお洒落な本になることは目に見えていたからだ。案の定、出来上がりは最高だった。犬のイラストと書き文字のタイトルが絶妙に配されていた。もちろん、評判も上々で販売実績も満足のいくものであった。実は猫の鼎談本も村松友視、小池真理子、南伸坊の三氏で刊行したのだが、本当は和田さんに装丁をお願いしたかったのだが、なにせ南伸坊さんが登場しているのだから、伸坊さんに装丁・装画はお願いすることになった。

・後日談がある。新聞に載っていた伸坊さんの文章を読んで知ったのだが、イラストレーターの世界を志したきっかけは、中学2年生のころに、「お洒落で楽しくて、新しかった」和田さんの雑誌広告を見たことにあったのだという。皆さんお馴染みの煙草「ハイライト」のパッケージ・デザインは、和田さんが広告制作プロダクション、ライトパブリシティ時代に手がけたものだ。このハイライトのデザインは、1964年に開業した東海道新幹線の車体の色を決めるときに配色の参考にされたといわれる。自社のライトパブリシティ及び、社会党のロゴマークも和田さんが手掛けたものだし、キヤノンや東レといった国内有数の企業の広告デザインも和田さんの仕事である。

  更に驚いたことがある。平野レミさんが『週刊文春』の和田誠追悼号に文章を寄せているのだが、それによれば、締め切りのある仕事から解放された和田さんは、2年間はのんびりと自分の好きなことをして過ごしていたという。具体的には、「南伸坊さん、三谷幸喜さん、安西水丸さんといった大好きな友だちの本を毎日のように読んでいました」とのこと。人生は出会いであり、驚きに満ちている。伸坊さんと和田さんも、お互いリスペクトし合っていたわけで、僕は読んでいてなんだかホロリとさせられた。

杉田明維子(AICO)さん

清流出版 (2019年10月29日 10:55)

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会場での杉田明維子(AICO)さん

・杉田明維子(AICO)さんの個展が10月3日(木)から10月12日(土)まで、京橋の画廊「四季彩舎」で行われた。僕は個展二日目に当たる10月4日(金)に清流出版に出社し、昼過ぎに斎藤勝義さん、臼井雅観君を誘って出掛けることにした。会場は二階であり、エレベーターがないので、手すりに摑まり、二人に前後を支えられながら、なんとかたどり着くことができた。会場に入ってみると何組かの来場者が和気藹藹と歓談していた。明維子(AICO)さんの人柄もあるのだろう、会場は笑顔と温もりで満たされていた。

・簡単にプロフィールをご紹介しておく。岐阜県の生まれ。女流画家展や昭和会展、安井賞展、月次展、アンチーム展など数々の展覧会に出品する。クリティック賞(日仏現代展パリ)を受賞。絵本『おつきさま』(架空社)、『五月のおしゃべり』(海豹社)、『うまれるって うれしいな』(弊社)、他の作画を担当。また、『朝日ジャーナル』やJALの機内誌『ウィンズ』、『母の友』(福音館)の表紙画を担当した。2015年には、東京・白山に「AICO MUSEUM」をオープンさせた。

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個展案内状

・個展は「AICO展—アイ・ハナマンダラ」と題して、花をテーマにした作品が展示されていた。会場で明維子(AICO)さんに今回の個展のコンセプトを尋ねてみると、「連綿と続いてきた命の連鎖。私たちも宇宙の一滴を抱いて生きています。今回の個展は花をテーマにしました。今を大切に、自分を愛し、人を愛し、生きとし生けるすべてのものを愛し、ワクワクしながら、命を輝かせることができたらと思います。愛という命の循環を作品から感じて頂けたら嬉しい」と答えてくれた。それにしても、みんなが知り合いのように和やかに見えるのが不思議に思えた。明維子(AICO)さんに「来ていただくとみんなお友達になってしまうので、長い間にたくさんの方にご来場いただくようになりました」と言うのを聞き、納得できた。


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個展会場風景

・明維子(AICO)さんの作品の特長は、背景に麻の葉模様が入っていること。麻の葉文様は日本独自の文様であり、正六角形を基本とした幾何学文様である。名前の由来は文字通り「麻」の葉の形を連想する事から名づけられたもの。古くは平安時代の仏像の切金文様の中や、鎌倉・室町時代の繍仏(刺繍によって仏像や菩薩などを表したもの)の中にもよく見られる。また、麻は丈夫ですくすくとまっすぐに伸びることから、昔から子供の産着に用いる風習があった。着物に限らず、帯や襦袢、袋小物にも頻繁に用いられている文様である。「麻の葉模様は末広がりで縁起がいい。どこまでも放射状に広がり、世界へ地球へ宇宙へと繋がっていきますから」とその効用を語った。
 
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花のマンダラだが、地に麻の葉模様が描かれている
 
・明維子(AICO)さんは、弊社から刊行された絵本『うまれるって うれしいな』で画を担当してくれた画家である。文を書いたのは本欄でも何回かご紹介したことがある堤江美さんだ。この絵本は、聖路加病院・名誉院長だった日野原重明氏の推薦文を頂いたこともあり、話題を呼んだ。日本語と英語のバイリンガルの作りにしたのもこの絵本の特長で、ユニセフ関係の雑誌にも紹介されることになった。日野原氏は亡くなってしまったが、いい推薦文だったので一部を抜粋してご紹介しておこう。
 
《日本では一人の女性の生涯から1.2人しか子供が生まれているのに過ぎません。そのような時代に、地球に生まれてきた子供の命を、誰がどう立派に育てるのか、誰が子供に生まれてきてよかったと感じさせるのか。その子供をめぐる日本の大人に、子供の命の大切さを示唆する絵本として発刊されたのが本書です。(中略) 堤江美さんの文は杉田明維子さんの画と溶け合って、よいハーモニーとなって聞こえてきます。》

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弊社刊『うまれるって うれしいな』

・この絵本の温かなタッチで描かれた原画は、銀座、能登、金沢、神戸、静岡など全国各地で原画展として公開された。また、来場者の多くがこの絵本を購入してくれたのは有り難かった。「お孫さんのいる主婦や妊婦さんが購入してくれたり、新婚さんへのプレゼントとしてもよく使われました」。確かに生れいずる命というものを考える上で、格好の教材となるような内容であった。
 実は明維子(AICO)さんのご主人、作宮隆さんも芸術家である。1954年、石川県金沢市生まれ。金沢美術工芸大学商業デザイン専攻卒で、「花炭アート」という芸術分野で確固たる地位を築きつつある。あまり聞き慣れない花炭とは何か。簡単にいうと、木の実、葉、花、種など素材そのままの形で炭化させて作る炭の一種のこと。「飾り炭」とも呼ばれ、遠く室町時代から500年以上もの歴史があり、主に茶の湯の世界で使用されてきた。具体的には、千利休の活躍したころ、茶室の床の間に花炭を置いたのが始まりだという。

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作宮隆作 花炭の作品(木の実や種、花などを炭にした作品)

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作宮杏奈作 彫り絵の作品

・公園や森で採取した木の実や種を、山梨県の故・岡部末治氏の制作した炭焼窯で、花炭技法として焼いている。冬の間に炭に焼いておき、春先から自宅の工房で造形作品に仕上げていくのだという。また、娘さんの作宮杏奈さんも芸術家なのだ。東京造形大学デザイン学科テキスタイルデザイン専攻卒で、彫り絵作家として活躍中という。彫り絵というのも耳慣れない言葉だから、簡単に説明すると、木の板を削って、直接板に彩色する。最初は木版画を制作していたのだが、彫った原版の美しさに魅かれ、そのままの木の状態で展示するスタイルに変えたのだという。だから夫婦二人での展覧会や家族三人の展覧会も何回か開催したことがある。

・種は生命誕生の象徴と位置づけ、宇宙のすべてのDNAが入り込んでいる感覚があると、花炭にこだわる作宮隆さん。連綿と続いてきた命の連鎖を見つめ、精神を研ぎ澄ませ、今回、花の曼荼羅を現出させた明維子(AICO)さん。愛娘の作宮杏奈さんは、地球上の生きとし生けるもの賛歌を、独自の彫り絵で掬い取って見せる。このように三人三様でアートを追究し続けている芸術家一家。それぞれに切磋琢磨しながら、独自の道を切り開き、新たなる世界観をこれからも見せてくれるに違いない。僕は来年の個展も楽しみに待っている。

野見山暁治さんと新井苑子さん

清流出版 (2019年9月25日 12:01)


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・今年、僕は銀座方面によく外出した気がする。先に本欄でもご紹介した藍染作家・菅原匠さんは例年通り、松屋銀座で個展をしたので出掛けたし、その他にも銀座で親しい人の個展が開催されたので、不自由な体ながら出かけて行った。例によって、顧問の斎藤勝義さんと臼井雅観君が付き合ってくれた。本欄で取り上げていなかった個展があるので、多少のタイムラグはあるが紹介しておきたい。一つは今年12月に99歳の白寿を迎える洋画家の野見山暁治さんである。「野見山暁治の気ままな小品展」と題した個展で、銀座・スルガ台画廊で開催された。小品と銘打ってあるように、大きな作品こそ出品されていなかったが、野見山さんらしい作品に見ていて、思わず笑みもこぼれた。というのも、本欄にも書いたが作品とタイトルの対比が実に秀逸なのだ。

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入口の案内板
 
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個展の案内状

・例えば、下の左の作品だが「近よるな」というタイトルがつけられている。砂浜と海のような背景にトドかアザラシのようにも見える動物が跳ねている。どこがどうなって「近よるな」となるのか、僕にはわからない。わからないのだが、近づくと危険そうな雰囲気があり、なんとなく納得してしまう自分がいる。下の右側の作品のタイトルは「嘘っぱちの人生」である。天上世界か、地上世界かわからないが、何人かの人間がうごめいている様子が描かれている。なぜ、嘘っぱちなのか、僕にはよくわからないが、わからないなりに、魅力を感じる。タイトルの付け方の秘訣を野見山さんに直接お聞きしたい気もする。この日も夕方にご本人が個展会場に来る予定だと聞いたのだが、野暮用があって、お会いすることはできなかった。


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    「近よるな」       「嘘っぱちの人生」

・野見山さんの感性は独特であり、人物について書かれたものなどを読むとその人間観察力に驚かされる。現に東京美術学校(現・東京藝術大学)で野見山さんの七つ先輩にあたり、現代画廊の経営者で松田正平さん、田島隆夫さんなどを世に出した須之内徹さんは、野見山さんの事を次のように書いている。

「野見山暁治という人は不思議な人だと思う。最近、昔私が書いていた小説が二巻の全集になって出て、その挟み込みの月報に、野見山さんに文章を書いてもらっているのだが、ろくに会って話したこともないのに、どうして私という人間をこんなに見抜いてしまうのか、不思議という他ない。本当に、私は一度も野見山さんとじっくり話をしたことがないのだ。会うのでも、いつかこの『気まぐれ美術館』に書いたように、私が上野の山を歩いて行くと、向こうからジャムパンを囓りながら歩いてくる野見山さんと出会って、やあ、と言った、というような会い方しかしていないのである」(『人魚を見た人』)

  野見山さんは僕が敬愛する椎名其二さんとも親しかった。12年間のフランス暮らしを書いたエッセイにもよく出てくる。その椎名さんは佐伯祐三と親しくお付き合いがあった。佐伯祐三ゆかりの古びた小箱を野見山さんは椎名さんからもらったという。その下りをこう書いている。
「薬か、繕い用の小物が入っていた古びた箱を、椎名さんは何気なくテーブルの上においた。表面の彩色がかなり擦り減ったその小さいブリキの箱のことは、ずっと忘れないでいる。朱と黄金色と黒い色とがてんでに絡み合い、ところどころ地肌の銀色がにぶく光って、彩りを抑えている。佐伯祐三の絵みたいだな。(中略)あの小箱は佐伯祐三の手垢が沁みたものだ。パリ郊外のアトリエでぼくはずっと使っていた。」(『異郷の陽だまり』)

・僕はこの文章を読んだとき、佐伯祐三、椎名其二、野見山さんと手渡されてきたこの小箱をどうしても見たくなった。しかし、それは叶わなかった。

「ドイツに留学している坂崎乙郎がやってきて、どうしてもと欲しがってきかない。痩せた青年の一途さにツンときて、それっきりになってしまった」(『異郷の陽だまり』)とある。ちなみに坂崎乙郎さんは、僕が高等学院でドイツ語の授業を教わった方だ。その方の父・坂崎坦(しずか)教授は、91歳まで長命だった美術家だったが、坂崎乙郎さんは『夜の画家たち 表現主義から抽象へ』などの著作でドイツ表現派や幻想派の画家を紹介、数々の作品を上梓するも、57歳で自死された。それにしても野見山さんの文章は魅力だ。そっけなさそうで、余韻といおうか、コクがあり深みがある。野見山さんは妹の旦那、田中小実昌さんとは実の兄弟のように気が合い、深く長いお付き合いだった。「12年間のパリ暮らしとコミちゃんの思い出」というテーマで講演をしたこともある。小実昌さんも素敵な小説を書き、ミステリー小説の翻訳なども手掛け、見事な仕事ぶりだったが、文章においては、一目も二目も置いていたに違いない。

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・僕は、田中小実昌さんが話題に出てくる度、古巣ダイヤモン社時代の小実昌さんと奥さんとの微笑ましくも切実な原稿料争奪戦を思い出したものだ。ダイヤモンド社の原稿料の支払いは他の出版社同様、銀行振り込みが主流である。しかし、小実昌さんはそれでは困るという。「銀行振り込みは絶対に駄目だ。女房(野見山さんの実妹)に見つかってしまうから」と言い、月末に現金書留で送るように要求された。小実昌さんは、自宅2階の窓から道路を見下ろしていて、郵便配達人をいち早く見つけると階段を駆け下り、現ナマを我がものにするのだと白状したものだ。

  野見山暁治さんの再婚相手、高級クラブ「みつばち」の元ママ武富京子(本名・野見山京子)さんのことも忘れがたい。終戦直後の1951年、福岡市中央区春吉で開店、56年に西中洲に移転した。井伏鱒二、司馬遼太郎のほか、歴代首相、プロ野球選手らが訪れたという名物クラブだった。週刊誌にも「日本の三大ママ」として銀座、京都のママと並び称されたこともあった。最愛の妻、陽子さんがパリで逝き、二番目の名物クラブママも天国へと旅立ってしまった。

『異郷の陽だまり』の「あとがき」で野見山さんは嘆いている。「ぼくは知らないうちに追悼屋にされていた」と。「ひとりで、新聞や雑誌、三つも四つも追悼文を書かせた奴もいる」とも憤って書いている。「お先にね」と、天国へ旅立つ人を見送り続けてきたのは、確かにしんどいことであろう。僕も多くの友人たちに先立たれたので、その感覚はよくわかる。一世紀を生きてきて、第一線で活躍し続けている野見山さんだけに、同情はするが、これはもう仕方のないことなのかもしれない。まだまだ、第一線で走り続けて頂きたいと思っている。


●新井苑子さん

・もう一つ銀座での個展をご紹介したい。それがイラストレーター・画家の新井苑子さんである。『「宇宙の花」を描く』と題して、銀座の永井画廊で開催された。新井さんには、月刊『清流』の表紙絵をお願いしている。僕も表紙絵をジークレー(Giclee)版画(「画題・オランダの花祭り」)にしたものを新井さんから頂いて、家に飾らせてもらっている。近年、ジークレー版画は吹き付けて着色する方法で、最も原画に忠実な表現ができる技法として注目されている。木靴の中から美しい花々が咲いている風景が印象的だ。永井画廊は現社長の永井龍之介さんの父君が銀座で創業し、その後青山に移転し、再び銀座に戻ってきたことになる。現在の所在地は、銀座8丁目の新装なった河北新報ビルの5階にある。とても洗練されたお洒落なビルであり、会場もスッキリとしたレイアウトがなされていた。永井さんも会場におり、少しだけだがお話することができた。


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新井さんから送られた「オランダの花祭り」
 
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新井苑子さん(後列右)は、我々夫婦を招待しご馳走してくださった。後列左は松原淑子(現・社長)。
 
・新井さんは、日本を代表するイラストレーター、画家として知られている。今回のテーマは「宇宙の花」であった。「かけがえのない“地球”が創出する“森羅万象の奇跡”を体験して頂ければ幸いです」と個展開催に際し新井さんはコメントしている。 新井さんによれば、青く美しい地球は「宇宙の花」であり、花や樹、虫など小さな自然から、人、海、山、宇宙まで地球の森羅万象はインスピレーションの宝庫だという。女子美の大学生の頃、顕微鏡で石の断面を見て、抽象画のように美しく感動し、道端の石にも美の世界があることに気づかされた。以来、目には見えないけれどその奥にあって訴えかけてくるもの、心に映った美を表現したい、というのが今日まで描き続けてきた大きなモチベーションになったのだ。
 
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会場風景

・下に掲げた2つの作品は、新井さんの宇宙観が投影された代表的作品であろう。メロンと林檎をモチーフにしながら、銀河系に浮かぶ地球のようであり、表皮には街並みが描かれたり、薔薇の花が描かれている。地球の森羅万象はインスピレーションの宝庫だとする、新井さんのコメントがとてもよく理解できる。地球賛歌を象徴するような作品ではないだろうか。
 
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 また、下の作品も地球に生きる、生きとし生けるものに対する新井さんの視点がよく感じられる作品である。クリスマスツリーをバックにして、本来であればオーナメントが飾り付けられるはずのモミの木だが、代わりにこの絵では、海に生きる熱帯魚やイカ、クラゲなど海の生物が生き生きと描かれている。まさに地球も一つの命であることが感じ取ることかできる。温かい眼差しに彩られ、新井さんの真骨頂である地球賛歌の絵になっている。インスピレーションの翼を限りなく広げ、羽ばたいて、見事に《新井苑子の宇宙観》を現出しているようだ。
 
 
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・新井苑子さんのプロフィールを簡単にご紹介しておく。女子美術大学図案科グラフィックコースを専攻し卒業。1965年、日本デザインセンターイラストレーション部に入社。トヨタ自動車、伊勢丹デパートの広告を手がける。 1971年、フリーとなる。本の装丁、エプロン、スリッパなどのデザインといった分野でも活躍する。 現代グラフィックアートセンターにポスター等約100点の作品が収蔵された。 武蔵野美術短期大学特別講師、女子美術大学非常勤講師を務めた。 主な著書に、『イメージの旅』(グラフィック社)、『花の森』(岩崎美術社)、『イラストレーションの発想と表現』(美術出版社)、『フローラ美術館』(河出書房新社)、「ハーブ絵画館」(文園社)、『アーリーアメリカンクックブック』(中央公論社)、『新井苑子のハブのぬり絵』(文園社)など多数。「九州沖縄サミット」、「日本ユネスコ加盟50周年」等の記念切手52種類以上制作。東京イラストレータズソサエティ、日本自然保護協会、会員。
 
 
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・月刊「清流」の表紙絵を僕は毎号楽しみにしている。季節感を大切にし、メインのモチーフに一ひねり付け加えるのが”新井苑子ワールド”である。例えば5月号では「鯉のぼり」をモチーフにしている。吹き流し、真鯉に緋鯉、子鯉が悠々と泳いでいる絵が描かれるが、緋鯉に一ひねり利かせている。五月晴れにサツキの花を着て、晴れやかな母鯉に仕立てている。緋鯉だけその模様がサツキの花で彩られているのだ。8月号では金魚鉢がモチーフである。金魚鉢の中を金魚が泳いでいるのだが、これも一ひねりしてある。南国情緒豊かで真紅色のブーゲンビリアの花を金魚鉢の中と鉢の上に描き、爽やかな夏を演出している。最新10月号はきのこがモチーフ。タイトルは「きのこのブーケ」である。秋はきのこの季節であり、紅葉の季節でもある。新井さんは、落ち葉を拾ってきてきのこを包み、きのこをブーケにしてしまうのだ。実に素晴らしいインスピレーションではないか。新井さんには、これからも是非、月刊「清流」の顔を新井苑子ワールドで染めていって欲しいと僕は期待している。


渡部昇一、堺屋太一、竹村健一、深田祐介 (サンピンイチスケ)の各氏

清流出版 (2019年8月29日 17:11)

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深田祐介さんと僕
 
・「サンピンイチスケ」という言葉をご存じであろうか。1970年代からマスコミ界を席巻した四人の売れっ子評論家・作家のことである。具体的には、渡部昇一、堺屋太一、竹村健一、深田祐介の四人。三人の名前の最後に一がつくことからサンピン、深田祐介のスケを合わせ「サンピンイチスケ」と命名されたものだった。テレビ、雑誌、新聞などにこの四人はよく登場し、マスコミ露出度もかなり高かった。当然のことながら、知名度が高く人気があっただけに、著者として執筆依頼が殺到したのもよくわかる。この四人の単行本を出せば、大いに話題にもなり売れたからである。
 僕が古巣ダイヤモンド社に在籍し、雑誌部門から出版局に移ったのが1980年、ちょうど40歳だったが、そのころ、「サンピンイチスケ」人気はピークを迎えていた。今回、この「サンピンイチスケ」について書きたいと思った動機だが、渡部昇一さんが2017年 に86歳で、堺屋太一さんが2019年2月8日に83歳で、竹村健一さんが 2019年7月8日に89歳で、深田祐介さんが2014年に82歳で死没ということで、一世を風靡したあの「サンピンイチスケ」は、四人目の竹村健一さんの死によって、全て黄泉の国の住人となってしまったからである。
 
・簡単にこの四人を紹介しておく。渡部昇一さんは、1930年山形県生まれ。1955年、上智大学博士課程を修了。英語学が専攻であった。ドイツ・イギリスに留学。2001年、上智大学の名誉教授となっている。渡部昇一さんが大ブレークするきっかけとなったのは、1976年刊行の『知的生活の方法』であった。累計部数118万部を超えて、講談社現代新書のベストセラーとなった。頭の回転を活発化し、オリジナルな発想を楽しむ生活の仕方を提案したもので、読書の技術、カードの使い方、書斎の整え方、散歩の効用、通勤時間の利用法、ワインの飲み方、そして結婚生活等々、著書自身の体験を通しての柔軟な発想が受けたものだった。渡部さんには、古巣ダイヤモンド社で、月刊誌の取材のために数回会ったことがあった。清流出版を立ち上げてから、直接、お姿を拝見したのは、ビジネス茶を提唱した荒井宗羅さんの著『和ごころで磨く―ビジネスに生かす“茶の湯の精神”』(1997年6月刊)を弊社から刊行した時、出版記念パーティであった。ゲストとして招かれていたのである。その時以来、雑誌の連載をお引き受け頂くなど、渡部さんと僕との長いお付き合いが始まった。

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講談社現代新書の大ペストセラー
 
 渡部昇一さんの交友関係は広い。特に、堺屋太一・竹村健一の両氏とは交流が深く、3人で講演会を催したり共著を出版したり、『三ピン鼎談 平成日本の行方を読む』(1990年2月、太陽企画出版刊)を刊行したこともある。また、谷沢永一さんとは共に知られた蔵書家であり、思想的にも共感できることが多かったらしく、たくさんの共著を出している。渡部さんはテレビでもよくお顔を拝見した。竹村健一さんとの掛け合いは特に面白かった。「竹村健一の世相を斬る」(フジテレビ)にゲスト出演していたのが懐かしく思い出される。また、自身の番組も持っていて、石原慎太郎、加藤寛、田久保忠衛、岡崎久彦といった著名人を招いての対談番組「渡部昇一の新世紀歓談」(テレビ東京)、渡部昇一の「大道無門」(日本文化チャンネル桜)もやはり対談番組で、各界の著名人を招き、歴史、政治、時事問題などを語り合うホスト役を務めておられた。
 堺屋太一(本名・池口小太郎)さんは、1935年大阪府生まれ。東京大学卒業後、通産省の官僚となり、経済企画庁長官、内閣特別顧問、内閣官房参与などを歴任した後、小説家、評論家となった。当時ダイヤモンド社は霞が関1丁目にあり、通産省の隣のビルだった。噂では池口小太郎さんは若手の官僚だが、実に魅力的で面白い人物だとのことで会いに行った。僕は、所属している「経済週刊誌 ダイヤモンド」の新米記者として、「通産省として何かエポックメイキングなことはないですか?」と尋ねた。その時は会話に出なかったが、大きなイベントを成功させることになる。池口小太郎さんは、1970年の「大阪万博」の企画・実施に携わるのだ。来場者が世界中から実に6422万人となり、大成功であった。この頃、堺屋さんはまだ三十代の若さ、小松左京さんや丹下健三さんをはじめ、東大や京大の先生などを強引にかつ粘り強く引っ張っていった手腕は特筆に値する。
 大阪万博にはしっかりとしたコンセプトと哲学があり、後の携帯電話やドーム建築につながるような、新しい世界を見せてくれたのではないか。堺屋さんには、鬼気迫るような面があり、自ら考え、自ら動いた。平気で24時間働き続けるようなバイタリティの持ち主であった。また、博覧強記の人であり、それでいて愛敬があったので多くの池口ファンがいた。時代の節目を鋭く切り取る言葉でも注目され、特に『団塊の世代』という言葉は、本の内容とともに衝撃をもって迎えられた。2000年以降の少子高齢化社会を言い当てる警句ともなった。ちなみに1975年には『油断!』が、1976年には『破断界』が出版され、本の売れ行きと共にこの言葉も話題を呼んだものだった。
 
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 竹村健一さんは1930年大阪府生まれ。京都大学英文科卒業後、フルブライト留学生として米エール大、シラキュース大大学院で学び、『英文毎日』の記者となった。その後、山陽特殊製鋼調査部長、追手門学院大助教授を歴任した。「保守派」の論客として知られ、1979年から1992年までフジテレビ系で放送された「竹村健一の世相を斬る」で司会を務め、関西弁の語り口が人気を博した。日本テレビ系「世相講談」では現・東京都知事の小池百合子さんがアシスタントを務めていた。「モーレツからビューティフルへ」「デリーシャス」などの流行語を生み出したほか、情報を手帳1冊に集約する「これだけ手帳」を自ら提案し発売もしている。「僕なんかこれだけですよ」と本人が語ったCMを覚えている方もおられるだろう。50歳当時、テレビ、ラジオのレギュラー番組が月95本、著書200冊に達するなど多忙を極めた。当人の弁によれば、ピーク時には、「口述筆記で一時間五十枚ほど」書いた、というから驚異的なスピードであった。
 深田祐介(本名・雄輔)さんは1931年東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業。日本航空広報部に勤務したサラリーマン作家として知られ、1976年に『新西洋事情』で大宅壮一ノンフィクション賞、1982年に『炎熱商人』で直木賞を受賞している。日本航空を退社して後は、作家として創作活動に専念した。1987年に『新東洋事情』で文藝春秋読者賞を受賞しているが、サラリーマン生活と海外駐在経験が長かったことから1976年『西洋交際始末』、1977年『貿易戦争と中産階級』、1979年『革命商人』などに代表されるように海外ビジネスや企業小説が多い。
    
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・僕は1980年に、ダイヤモンド社の雑誌部門から出版局へ転属し、1992年の初頭に辞め、独立して小出版社をすることになるが、その間、幾多の単行本を手掛け、多くの著者と交友関係を結ぶことができたのは僥倖であった。最初僕は、昭和天皇のご学友・藤島泰輔さんの編集担当となった。藤島さんと僕とで仕掛けたポール・ボネのシリーズは売れに売れ、さらには文庫化の権利も他社に売れた。藤島さんは多額の印税を手にすることになり、フランスのパリ16区に豪邸を取得したり、ランニングフリーなど競走馬を持つことになった(藤島さんの薫陶を受けた僕の趣味が「競馬」となった)。パリの住まいは、元NHKの花形ニュースキャスター磯村尚徳さんが日本文化会館初代館長になった際、リースされることになった。その話は直木賞作家・深田祐介さんも知っていて、お会いした時にこの話で盛り上がったことが懐かしい。深田さんは僕と多くの人脈も重なるし、同じ身体障害者の一級同士ということで話が弾んだものだった。
 
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竹村健一さんの翻訳本
 
・ここで僕は竹村健一さんの話をしておきたい。1967年、竹村さんは『マクルーハンの世界』(講談社)という本を翻訳し、マクルーハン理論を日本に初めて紹介した人物でもあり、尊敬をしていた。マクルーハンは、特にテレビが現代に及ぼした影響についての研究で知られた人である。実は僕が出版局に移る前の1977年にダイヤモンド社から竹村健一さんの『日本の常識は世界の非常識!?』という本を出ており、販売実績も良かった。僕も出版局に移るに当たって、絶好調だった竹村健一さんの本を出したいと思っていた。だから、アポイントを取り、赤坂にあった竹村さんの事務所に伺った。1980年1月のことである。僕は温めていた単行本の企画案を提示して、執筆依頼をしたのだが、執筆はなんとかなりそうなのだが、どうしても条件面で折り合えなかった。
 竹村さんが主張する印税率は、出版界の常識からすれば、考えられないほどであった。最低でも4割増し(14%)、できれば倍近い率(20%)でと要求してくる。竹村さんは、関西弁でなぜそうなるのかをまくしたてるのだが、理論的には分からないわけではない。自身が広告塔になっているから、出せば十分売れる本になる。広告宣伝費込みで考えれば安いものじゃないか、ということになる。そしてついには、手元にあったノートを見せ、他社で出した本の初版部数、印税率等をつまびらかに披露されるに及んで、僕は切れてしまった。「そんな高額な印税を払ってまで出すことはできない」、ときっぱり断ってしまった。帰社してから、営業サイドからは恨まれることになったが、こればかりは受けられなかった。あの丁々発止のやりとりは、今でも懐かしく思い出される。

 
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竹村健一著(1977年 ダイヤモンド社刊) 


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ドラッカー博士と竹村さんとのツーショット(ダイヤモンド社)

・竹村さんとはその後、前述した荒井宗羅さんの『和ごころで磨く』出版記念パーティでお会いし、何のわだかまりもなく気持ちよく挨拶を交わした。それにしても盛況だった荒井宗羅さんの出版パーティ。船井幸雄さん、竹村健一さん、ジェームス三木さん、細川隆一郎さん、浅草寺の京戸慈光師、渡部昇一さんはじめ、綺羅星のごとく宗羅ファンが押しかけた。
 宗羅さんに、竹村健一さんと出会ったきっかけを聞いてみると、なるほどとうなずけるものだった。初めて会ったのは、宗羅さんがプロデューサー兼アートディレクターとして関わった新宿の料亭だという。ビルの最上階にあった100坪以上の料亭には、露地もある本格的な茶室から、当時メディアを騒がせた黄金の茶室や10室ほどの個室もあった。宗羅さんは、この料亭全てのコンセプトメイキングと若い仲居さん達の接客教育、集う政財界、文化人に対するお茶のもてなしの仕方から、日本文化絡みのレクチャーまで広範囲にわたったという。


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出版パーティで荒井宗羅さんと

 たまたまこの料亭を訪れた竹村さんが、この料亭のしつらえや接遇などに感服し、プロデュースした宗羅さんに関心を抱いたということらしい。その時の当意即妙の宗羅さんとの会話が気に入ったらしく、帰り際にねぎらいの言葉を掛けてくれたという。以来、宗羅さんは、竹村さんの自宅で催されたお花見の会や奥方の個展に招かれるようになる。会えば、竹村さんは、トレードマークのパイプをふかしながら、主に海外と日本との比較文化や、英語の特殊な表現法などを教えてくれた。出版記念パーティの時も、竹村さんは開口一番、「宗羅さん、一流の著名人がみんな集まったな。大したもんだ」と褒めてくれたそうだ。宗羅さんならさもありなんである。僕が関わりをもった著者が、世界に羽ばたいていくのを見るのは、編集者冥利に尽きるというものだ。荒井宗羅さんのさらなるご活躍をお祈りしたい。

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