






野見山暁治さん(マスコミ公開日に)
・画家の野見山暁治さん(文化勲章受章者)については、このコラムに何回ご登場頂いたのか、僕にも分からない。しかし、100歳を超えてなお、新作を発表し続けるこの無尽蔵のバイタリティーに僕は胸が熱くなり、どうしても書きたくなった。50代に、2度の脳出血を経験して右半身不随になり、言語障害や嚥下障害に悩まされる僕からすれば、野見山さんはヒーローである。年明けして間もなく、野見山暁治財団から『野見山暁治展 100年を超えて』のご案内を頂いた。場所は東京新宿区の「美術愛住館」で、期間は1月26日から3月27日までとなっていた。1年ほど前、日本橋高島屋S.C.本館8階ホールで「100歳記念 野見山暁治のいま展」が開催された。この時は1959年から2020年までに制作された油彩約60点を展覧したものだった。僕は今回のご案内も、旧作から選んだ作品を、企画構成を変えて展示するものだと思っていた。ところが予想とは違った。目玉作品は、2020年以降に描いた油彩の新作15点だという。もちろん過去の作品も展示される。また、これまで紹介されてこなかった紙人形や水彩画も12点展示されるという。油彩画とは異なる「野見山ワ―ルド」をお楽しみください、とパンフレットにあった。ここに至って、これを見逃すという手はないと僕は思った。
「野見山暁治展」のパンフレット
野見山さんは昨年12月に101歳になられた。100歳を超えてなお、旺盛な創作活動を続けておられる。「やめるときが分からない」というのが野見山さんの弁だが、実際に絵筆が止まることはない。以前、その原動力につき朝日新聞のインタビューで、「数年前から、絵を描くことが、こんなに楽しいものかと思うようになった」と答えている。絵を描くことへの情熱は衰えを見せない。鮮やかな色彩と奔放な筆遣いによる独特な表現は、みずみずしく軽やかでありながら、同時に骨太な力強さも感じさせる。しかも目に見えるものの背後に潜む何かがうごめく気配が漂う作風は、多くの人々の心を魅了してきた。日課については、こう語っている。朝は8時半頃に起き、就寝は夜半の12時半から1時くらい。「起きている間は絵を描いているんだが、昼寝やウトウトしている時間も長いから」と苦笑する。僕は不眠症気味なので、野見山さんの規則正しい生活パターンに羨ましさを覚える。
・さて、愛住美術館だが、東京メトロ丸の内線「四谷三丁目」駅から3分ほど。新宿通りから少し入ったところにあり、ちょっと迷ってしまった。看板が小ぶりだったこともある。1階フロアには一昨年前から今年にかけ描かれた新作の油彩画15点が並んでいる。かなり大きな作品が目立つ。それぞれの絵は、力強く自由な筆遣いや強烈な色彩のコントラストが印象的だ。見ていて万感胸に迫るものがあった。2階フロアには紙人形3点と水彩12点を主体とした過去の作品を展示している。普段目にする機会が少ないペン画などから、制作した時代時代の心の機微を窺い知ることができる。特に紙人形については野見山さんの心の深淵が凝縮されているようだ。1956年、最初の妻・陽子さんを亡くして、筆を持てなかった時期の作品だからだ。当時、パリの部屋を訪れた友人たちは、並んだ3つの紙人形が首つり人形のようにも見えて驚いた、といういわくつきのものだ。
話が前後する。会場の「美術愛住館」は、聞き慣れない美術館だと思ったが、パンフレットを見て初めて、その来歴が分かった。そもそも経済評論家で作家の故・堺屋太一氏と妻の洋画家・池口史子さん(東京藝大卒、日本藝術院会員)の住居・仕事場であった建物(安藤忠雄設計)を改修し、近代日本洋画の神髄を伝える私立美術館にと寄贈されたものだった。2019年12月のこと、池口史子さんからのこの理念構想を引き継いで、東京藝術大学がこの建物の寄贈を受けたのである。《藝術の更なる振興に資するため、東京藝術大学に美術館を寄贈することになり、「堺屋太一記念 東京藝術大学 美術愛住館」として新しくスタートをすることになりました》とパンフレットにもある。その開館記念第一弾として、母校・東京藝術大学の教授をされていたこともある、野見山さんに白羽の矢が立ったということであろう。
美術愛住館の看板
新作の絵で作られたポスター
・野見山さんは福岡県の筑豊の生まれである。炭鉱のぼた山を見て育った。郷里の川や海で泳ぎ、潜って遊んでいた。そんな体験もあってのことだろうか、福岡県糸島市の海辺にもアトリエを構えている。5年ほど前までは、夏場は毎日のように、この海辺で泳いだり潜ったりしていたという。東京美術学校(現・東京藝術大学)で油絵を学んだが、1943年に繰り上げ卒業となり出征した。しかし、戦地で肺を患い、内地に送還され、福岡の病院で終戦を迎えている。『画家たちの二十歳の原点』(求龍堂 2011年刊)という本がある。野見山さんもこの本に寄稿している。当時は、「学生狩り」が横行していたという。学校の帰りに喫茶店に寄っても映画館に入っても、見つかると官憲に捕まるというのだ。学生の本分に適わぬという理由であった。野見山さんも本の中でこう書いている。
求龍堂 2011年刊
《戦争とはこういうことだったのか。食べるのも、出すのもおぼつかない。戦争画を描けば絵具を優先的に買うことができる。クラスの中には要領よくやる奴もいたが、ぼくはもう諦めた。まさか鉛筆までなくなるということはないだろう。日々、日本の戦況はわるくなり、落第前のかつての同級生たちはすでに戦場へ駆り出されている。ぼくはもうアトリエで動かなくなり、目の前にいる妹を、ただ描き続けた。描く時間はだんだん追いつめられてゆく。卒業式の日までかもしれん。いや、生きるとも死ぬとも正直いって、ぼくは考えなかった。 (中略)すでにアッツ島は玉砕し、負け戦の濃厚な中で、ぼくは美術学校を卒業し、すぐにも郷里、福岡の部隊に編入されることになった、二十二歳。同級生も卒業式が済むとあわただしく郷里へ散ってゆく。上野の森にはすでに高射砲が据えられ、明日にも敵機の飛来が予想された。》野見山さんの二十歳の頃は、まさに戦禍の暗雲がたちこめる悲惨な日々であったのだ。
・野見山さんは最近、友人・知人の追悼文ばかり書かされていると自著の「あとがき」に書いていた。長い人生には、多くの輝かしい邂逅と痛恨の別れがあったはず。美術学校を繰り上げ卒業しての出征、肺病による入院生活もした。個人ではどうしようもできない、生きてきた時代時代の背景があった。こうした悲喜こもごもの日々を包含しながら100年という年月を生き抜いてきた。描かれる絵には、そんな人生が滲み出るのだろうか。以前も書いたが、僕は絵の題名にいつも感服させられる。「野見山暁治のいま展」で展観された題名の一部を紹介する。「どこに居る」「主役だろ」「本当は言えない」「部屋に入ってきた雲」「誰だろう」「早く決めよう」「みんな友だち」「振り返るな」「そっとしておこう」「ぼくが生まれた頃」「どこまでも夏」「近よってはいけない」等など……。なんと魅力的で不思議な題名だろう。僕は絵と付けられた題名を見て、あれこれ想像するのが好きである。どうしてこんな題名が付けたんだろうか、と。そのギャップが見る楽しさにつながる。それにしても「ぼくの切れっぱし」なんて題名は、誰にも考えがつかない。野見山さんなればこそである。しかしながら、本人の弁によれば、単なる「思いつき」であり、特定の風景を題名にしたわけではないというのだが。
野見山暁治さんと僕
本格的に絵を描き始めてから、すでに八十余年にもなろうかという野見山さん。インタビューで「なぜ、絵を描き続けているのか?」と訊かれたとき、「どう答えていいのか、ぼくも分からない。そもそも良い絵を描こう、という覚悟がない。子どもの時からずっと描きたい絵を描いているだけで、自分の中では何も変わってない。でもご飯を食べるように、ずっと絵は描きたい。実際に描いてみないと、次が見えてこない。この楽しみに終わりなんてないんですよ」と答えている。「いつまでたってもこれでいいと手放すことができない。だから変な話、取り上げられない限り描いている。ということは、やめどきがわからなくなってきたということ。それは、いつやめてもいい。つまり絵というものはそういうもの。いつやめても同じことだなあ」。
このあたりになると、禅問答のような奥深さを感じるが、絵に対する限りない愛は透けて見える。今回の展覧会では、長い人生を生きて、多くの人々の生と死を反芻する野見山さんの透徹した想いを感じ取ることができた。僕が野見山さんの絵を観て感激したのが20歳の頃である。終生変わらぬ僕のヒーローとして、これからも好きな絵を、描き続けて欲しいと切に願って筆を擱きたい。
小野田寛郎・町枝夫妻
・小野田寛郎さん・町枝さんご夫妻には、公私ともに大変お世話になった。その寛郎さんは、2014年1月16日に泉下の人となった。1922(大正11)年、和歌山県の生まれである。享年91。来し方を振り返ってみると、旧陸軍少尉であった小野田寛郎さんは、1944(昭和19)年、陸軍中野学校二俣分校に入校している。同年、22歳の時、情報将校としてフィリピンのルバング島へ派遣された。以後30年間、終戦を信じることなく、仲間と戦闘任務を遂行する。いわば青春時代の大半をかの地で失っている。上官からは「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」との言を肝に銘じて戦い抜いたのである。
小野田寛郎さんの約30年間のフィリピン・ルバング島潜伏を描いた人間ドラマ/映画『ONODA 一万夜を越えて』が10月8日から全国東宝系映画館で公開されている。この映画は第74回カンヌ国際映画祭・ある視点部門のオープニング作品に選ばれたという秀作である。小野田寛郎さんの想像を絶する戦いの日々を基に描かれたものだ。日本がポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた後も任務解除の命令を受けられないまま、ルバング島で孤独な日々を生き抜いた小野田さん。約30年後の1974年、52歳で日本への帰還を果たすことになった。
小野田寛郎さん
・この映画の監督は、フランスの新鋭アルチュール・アラリ氏である。2018年12月―19年3月の約4カ月間をかけ、ロケ地カンボジアのジャングルで過酷な撮影を敢行したという。全編が日本語であり、かつ全員が日本人キャストで撮り上げた労作である。アラリ氏は1981年パリ生まれ。祖父は俳優・演出家のクレマン・アラリ。兄は撮影監督のトム・アラリ。パリ第八大学で映画を専攻。2007年、若手監督の発掘の場であるブリーヴ映画祭で『La Main sur la gueule』がグランプリを受賞。2013年、短編『Peine perdue』が、ベルフォール “アントルヴュ” 映画祭の短編部門にてグランプリを受賞した。2016年、長編第一作となる『汚れたダイヤモンド』を発表。フランス批評家協会賞・新人監督賞のほか、いくつもの賞をとっている。フランス人監督が、さまざまな制約がある中で演出・監督して制作したものだから、その苦労は察するに余りある。主演は遠藤雄弥さんと津田寛治さん。遠藤さんが寛郎さんの青年期を、津田さんが成年期をそれぞれ演じ分けている。この映画に、僕はとても興味がある。寛郎さんとは何度かお会いして、その生き方・考え方に接し、僕はとても感銘を受けていたからだ。ルバング島での戦場を含め六十余年、「不撓不屈」が寛郎さんの変わらぬ座右の銘であった。確固とした精神的な支柱があったからこそ、こうした過酷な運命を切り開いてこられたのであろう。
弊社からは2冊の本を刊行させて頂いた
寛郎さんは、任務解除命令を受けられないまま「残置謀者」としてルバング島での情報収集、遊撃、後方攪乱する目的の戦闘任務を遂行し続けた。1954年、共に戦っていた島田伍長が戦士。1972年には、28年間、信頼し続けた片腕ともいうべき小塚一等兵が戦死する。寛郎さんの語録にもこうある。「人間は一人では生きられない。ルバング島での一番の悲しみは、戦友を失ったことだった」と。1974(昭和49)年、ついにルバング島において直属機関長の上官だった谷口元陸軍少佐から作戦解除命令書伝達式を受け日本に帰還した。小野田さんはその時、すでに52歳になっていた。そんな寛郎さんのルバング島での戦闘任務を題材にした映画である。機会があったら是非、観たいと思う所以である。帰国後の日本は、小野田さんを絶望の淵に追い込む。人心は乱れ、道徳・秩序もなく、変わり果てた日本に違和感を覚えた。「ルバング島での証人なき戦い」という言葉に発奮した小野田さんは自らの力を証明するため、新天地ブラジルでゼロからの牧場開拓を決意し、日本を離れたのである。
ブラジルの小野田牧場にて
・小野田町枝さんという恰好の伴侶を得て、最終的に成田空港より広い1128ヘクタールの土地を手に入れる。広大な原生林である。生い茂る樹木は切り払い、ブルドーザーで開墾して牧場用地を開拓する。そして念願の小野田牧場をオープンさせたのである。ブルドーザーはフル稼働で酷使し続けたので、キャタピラの歯がすり減ってしまった。寛郎さんはどうしたかといえば、町で鉄板を買い求め、すり減ったキャタピラに自分で溶接して歯をつけてしまった。このように寛郎さんは器用であり、メカにも滅法強かった。
牧場で飼育する肉牛は実に1800頭。種牛を買って子牛を育て、少しずつ頭数を増やしていった。最初の7年間は無収入だった。仕方がないので、ブルドーザーを時間貸しするなどして糊口を凌いだという。どうにか8年目から、牧場経営が軌道に乗り始めた。寛郎さんに牧場の写真を見せてもらった。見渡す限りの広大な牧場を捉えていた。雄大な大地に沈みゆく真っ赤な夕陽。色鮮やかに咲き乱れる花々。何もかもスケール感が違う。パンパを吹き過ぎていく風が感じ取れるような写真だった。寛郎さんは、カメラの腕も玄人はだしで、メカに強いというのも腑に落ちた。ただ小野田夫妻の心残りは牧場後継者の問題だった。幸い町枝さんの妹さんに男の子が生まれた。このご子息を養子に迎え、後継ぎ問題も解決している。
寛郎さんと僕
・1980(昭和55)年11月29日、衝撃的な「金属バット殺人事件」が起こる。神奈川県川崎市に住む20歳の予備校生が、両親を金属バットで殴り殺した事件であった。この報をブラジルで知った寛郎さんは心を痛め、いてもたってもいられずに立ち上がる。このままでは日本はダメになる。次代を担う子供たちを救いたい、との強い思いから帰国する。健全なる人間形成と、文化社会と自然との共存のためにも、自然教育の必然性を痛感し、1984(昭和59)年7月より野外教育活動『小野田自然塾』を開校したのである。全国各地でキャンプを開催。多くの青少年たちにサバイバルの知恵を施すために尽力した。
毎年、約1000名の子供達の指導にあたった。小野田自然塾で教育してきた子供たちはのべ2万人を超える。寛郎さんは言う。「今の日本人からはたくましさが消えた。平和ボケしている一方で、自殺や引きこもりなど人生を放棄する若者たちもいる。これらはいずれも人間が本来持っている野性味を失った結果ではないか」と……。大自然を舞台にしてのサバイバル訓練のような体験から、自分で自分を背負う大切さ、自立心・自律心を養うカリキュラムを組んで全身全霊をもって子どもたちを指導していった。極限状態の中で生き抜き、戦い抜いた寛郎さんならではの発想であった。
・弊社は、小野田寛郎さん関係の単行本を二冊出させていただいた。一冊は、小野田町枝さんの著になる『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(2002年)。もう一冊は、原 充男さんの監修になる『魚は水 人は人の中――今だからこそ伝えたい 師小野田寛郎のことば』(2007年)である。『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』は、町枝さんが寛郎さんとの来し方を振り返ったもの。苦楽を共にしてきた2人は、夫婦でありながらまさに戦友でもあった。実はこの本を弊社から刊行できたのには理由がある。町枝さんは大手出版社のK社社長から、本を出すならK社からと依頼を受けていた。もう一つ、K社にこだわる理由が、このK社の出版物(漫画)を寛郎さんがファンだったのだ。だから寛郎さんの意向もあって、K社から本を出したいという思いは僕にも理解できた。
町枝さんは、弊社近くの九段会館で行われる各種イベントに参加することもあり、よく弊社を訪ねてきた。弊社の空気が肌に合い、居心地がいいのだと言っていた。町枝さんが入り口を入ってくるとすぐに分かった。とにかく声が大きい。「こんにちはー!」と言いながら入ってくる。入ってきた途端に社員全員が、「アッ町枝さんだ」とわかったものだ。僕もなんとなく馬があって、よく雑談話に花を咲かせたものだった。そのうち、町枝さんは「私、本を出すなら清流出版で出したい」と言い始めた。弊社にとっては願ってもない話である。お二人の波瀾の人生を単行本にすれば、大いに話題を呼ぶに違いない。そう確信したからだ。
・しかし、実際に単行本として刊行するまでには3年ほどの時間がかかった。無理もない。ブラジルでの牧場経営もあるし、日本に帰国すれば、寛郎さんへの講演の依頼、取材依頼の電話がかかってくる。スケジュール管理をする秘書役もこなしていたから、執筆にかけられる時間も限られていた。よく頑張って脱稿してくれたものだ。おかげ様でこの本は、マスコミでも取り上げられ大いに話題になった。さらにプラス材料が町枝さんの営業力にあった。顔が広く、明るい性格だから講演先で経営者にも好かれた。だからこの本は企業の一括買いが多かった。200冊、300冊と一括受注した町枝さんは、すべて自筆サインをして発送していた。そんな相乗効果もあって、刷数を重ねることができた。大いに弊社に利をもたらしてくれたのである。
『魚は水 人は人の中』の監修者・原充男さんを真ん中に
2冊目が小野田寛郎さんの語録をまとめた『魚は水 人は人の中 今だからこそ伝えたい師・小野田寛郎のことば』である。寛郎さんが小野田自然塾などでの話の中から、後世に伝えたい言葉を、愛弟子ともいうべき原充男さんが精選したものだ。日本人は豊かさと引き替えに大切なものを失ってきた。信義、礼節、矜持、自尊心……等々。いわば寛郎さんが、物質至上・金銭至上主義に毒され、平和ボケした日本人に伝えたい言葉であり、文字通り「珠玉の語録集」であった。寛郎さんは発刊に寄せて、こんな言葉を送ってくれた。「これらは私がキャンプ等で話した言葉ですが、その内容は、この本をまとめてくれた原さんほか多くの若い人たちの考えであり意見でもあります。この本が混沌とした日本の社会に一石を投じてくれることを願ってやみません」。
原さんは1943年、東京都の生まれ。1966年、防衛大学校(電子工学科)を卒業し、航空自衛隊に入隊している。1992年、小野田自然塾のボランティアとして活動を開始する。2000年、航空自衛隊第四術科学校長兼熊谷基地司令として空将補にて勇退。2005年、小野田自然塾評議員に就任している。原さんは、ブラジルの小野田牧場で1ヶ月ほど過ごしたことがあり、日の出から日暮れまで、若いカウボーイたちと同様、額に汗して働く寛郎さんを目の当たりにしている。帰国後、小野田自然塾のキャンプで、再びボランティアたちと熱心に子供たちに接する寛郎さんの姿を見た原さんは、「この方は、ルバング島の英雄なんていうものではない。我々を指導してくれる真のリーダーである。今の世の中、行動せずに批判や評価をする人は沢山いるけれども、自ら実践して行動で示してくれる人が一体どれだけいるだろうか」との思いから、語録の編纂を志したという。
小野田夫妻との会食はいつも心が弾んだ
・寛郎さんの講演会場に訪ねるなど、ご夫妻とは何度かご一緒したことがある。食事もご一緒したが、寛郎さんは見事に肉食中心の食事であった。大きなステーキを頼んで、美味しそうに平らげていた。付け合わせの野菜はおざなりに手を付けるだけ。町枝さんが「うちの人は、野菜を食べてくれないんですよ」と嘆いていたことを思い出す。僕もサラダ類は苦手な口なので、寛郎さんと似たようなものだが、今は野菜も少しは食べることにしている。それにしても寛郎さんは健啖家であった。多少、耳が遠いくらいで元気そのものに見えた。
だから寛郎さんは余裕で白寿は超えられるに違いない。そう思っていたので、お亡くなりになった時は本当にショックであった。寛郎さんが、こんな言葉を遺している。「貧しさや乏しさには耐えられる。問題は卑しさである」と……。心が置き忘れられた日本人一人ひとりが、心して受け止めたい言葉である。私利私欲に走り、自分だけ良ければいい。利他の心など持ち合わせていない現代の日本人がなんと多いことか。今こそ、寛郎さんの背筋の伸びた生き様や遺した言葉を、もう一度問い直すことが必要不可欠ではないか。そして、それを生の言葉で伝えられるのは町枝さんだけである。町枝さんは現在、体調を崩されていると聞く。元気になられたら、寛郎さんの遺言を未来ある若者たちに、生きる指針として伝えていって欲しい。そう心の底から願っている。
斎藤勝義さん
・その知らせはまさに青天の霹靂だった。先月、自宅でくつろいでいると、弊社の著者の1人である片倉芳和さんから電話が掛かってきた。なんと弊社の顧問であり、海外版権取得業務をお願いしている斎藤勝義さんが急死したという。聞けば、炎天下、東久留米市内の図書館に向かう途中、突然の心臓発作に見舞われたとのこと。享年89であった。斎藤さんは、そんなお歳には見えなかった。好奇心旺盛で若々しく、活動的だったからだ。コロナ禍でしばらく会社では会っていなかったが、あの性格と行動力は変わらない。げんに図書館へ出かける途中での急死である。斎藤さんとのお付き合いは長い。僕の古巣であるダイヤモンド社時代からだから、優に半世紀は超える。だから僕は、親しみを込めて、「サイトウカッちゃん」と呼んでいた。
そのカッちゃんと僕は、数々の海外版権を取得し、翻訳出版してきた。版権探しのため、よく二人で国際ブックフェアへも参加した。ロンドン国際ブックフェア、フランクフルト・ブックフェア、ブックエキスポ・アメリカなどである。二人ともアドバンスの安い本、しかも内容のある良い本を見つけたい、それも、他社が見逃した有力本を必死に探した。そのため、タトル・モリエイジェンシー、日本ユニ・エージェンシーといった日本での版権代理店が、ライバル社にどんな本を薦めているのか、見極めるのも大事な仕事だった。斎藤さんはフランクフルト・ブックフェアから帰った後、「またヴィースバーデンに行きたい」とよく言っていた。フランクフルトからほど近い田舎街の観光地だが、ブックフェアを1日休んで、このヴィースバーデンを二人で訪れ、ゆっくり羽根を伸ばしたことがある。それが忘れられなかったのであろう。
・ご承知の通り、ダイヤモンド社はビジネス書の分野において先駆者的な立場にあった。他社の追従を許さぬ実績を積んでいた。ベストセラー本も多々ある。例えば、クラウド・ブリストルの『信念の魔術』(1954年刊)やE.G.レターマンの『販売は断られた時から始まる』 (1964年刊) などはまさにドル箱商品で、新装版として何度も装丁を変え、判型を変えながら売れ続けてきている。また、1950年代からピーター・F・ドラッカー博士の経営学シリーズを一手に引き受け、現在に至るも大きな柱となっている。その海外版権の取得において、斎藤さんのビジネス英会話力、粘り強い営業力は光っていた。僕は40歳を過ぎて単行本セクションに移ったのだが、ここから深いお付き合いが始まることになる。僕にとって金字塔とでもいえるのがリー・アイアコッカの『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(1985年刊)である。1970年代後半から80年代前半にかけ、破綻寸前だった米自動車大手メーカーのクライスラー(現フィアット・クライスラー・オートモービルズ=FCA=)の再建に手腕を発揮したリー・アイアコッカの経営を俯瞰したものだった。
『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(1985年刊)
・アイアコッカは1924年の生まれ。ビジネスの世界における、アメリカン・ドリームの体現者として記憶に新しい。『アイアコッカ』の翻訳は、関西弁を駆使した新鮮味と自動車好きだった気鋭の徳岡孝夫さんにお願いすることにした。徳岡さんは、訳がこなれてうまい上に早かった。そんな名翻訳者を得て、この本は売れに売れ99刷までいった。僕にとって記念すべき本であった。その後も、第2弾のアイアコッカの『トーキング・ストレート』(1988年刊)を刊行している。アイアコッカは僕にとって、忘れられない思い出深き人物であった。
このアイアコッカの本の版権を取得するのがなかなか大変だった。斎藤さんの目覚ましい活躍がなければ、他社に取られていたかもしれない。アイアコッカは経済専門誌や日本経済新聞等などではよく取り上げられ、カリスマ経営者として知られていた。しかし、一般サラリーマンの間では、まだそれほど知名度は高くはなかった。ダイヤモンド社の販売本部の面々も、「日本人にはまったくといっていいほど知名度も低いし、どうせだったら、ロナルド・レーガンの本でも仕掛けた方が売れるのではないか」などと、この本の版権取得に冷ややかな評価を下す者が多かった。販売見込み数も否定的な意見が多かった。
・しかし、アイアコッカは立志伝中の人物であった。アメリカで原著が発売されるや『パブリッシャーズ・ウィークリー』『ビジネス・ウィーク』『ニューズ・ウィーク』『ニューヨーク・タイムズ』『フォーチュン』誌など、各紙誌の書評等で絶賛され、爆発的な売れ行きを見せ始めた。こうなると日本での出版権はどの出版社が取得するのか、取り合いとなったのは必然であった。新潮社、講談社、三笠書房をはじめ、名だたる大手出版社の敏腕編集者、版権担当者が版権取りに参戦してきた。日本ユニ・エージェンシーがこの本の日本での版権代理店だったが、各社ともに必死で獲得競争に乗り出したので、みるみるうちにアドバンスは跳ね上がり、僕も大いに気をもんだものだった。
日本ユニ・エージェンシーの担当者、武富義夫さんは、まだ社長にはなっていなかったが、経営者に一番近い存在で、バリバリの凄腕で知られていた。その武富さんと一編集者であった僕が、『アイアコッカ』の件ではことごとく意見が対立したが、一歩も引かなかったのはいい思い出である。この本の版権取得には、斎藤さんも苦労していた。なぜダイヤモンド社が版権を取得できたのか。過去の経済物の販売実績と、出したいという編集者と経営者の熱意、そして版権取得に向けての交渉力ではなかったか。ドラッカー博士の本でもそうだったが、斎藤さんが版権取得に、大手出版社の猛者に負けず奮戦してくれた。斎藤さんはなんと、日本での版権代理店・日本ユニ・エージェンシーをすっとばして、自宅から米国の版元である「バンタム・ブックス」の版権担当者であったピアジェ女史に直接電話して売り込んだのだ。頭越しに直接交渉したのは、商習慣からすれば邪道といわれても仕方がない。しかし、社運をかけており、絶対に取得したい熱意がそうさせたのだと思う。
・斎藤さんの橋渡しもあって、僕は勇躍アメリカに飛び、アイアコッカ本人とその弁護士と直に会い、出版契約にこぎつけた。両者のサインをもらって、ゲラの一部を日本へ持って帰ることで、大手出版社との版権取得競争に決着をつけることができた。いくら切歯扼腕しても、ことここに至っては大手出版社も敗北を認めざるを得なかった。日本語版は1985年1月1日に初版4万部で発売開始されたが、売行きが好調で短期間に30万部を超えた。このタイミングでアイアコッカが来日した。翻訳者の徳岡孝夫さん、ダイヤモンド社の川島譲社長、版権担当者の斎藤さん、編集担当の僕が帝国ホテルのスイートルームに招待されたのである。この本は結果的に70万部を超えるベストセラーとなった。
斎藤さんのこうした粘り腰は、一体どこで培われたものなのか。とにかく心の赴くまま前へ前へと突き進む人なのだ。山形県の片田舎で生まれたが、斎藤少年はお金をかけず英会話を学びたいと考えた。牧師さんとなら英会話が学べるかもしれないと教会通いを始めるのだ。こんな発想をする人はそうはいない。斎藤さんは、どんな大物相手でも物おじせず相手の懐に飛び込む。これが斎藤さん流の人間関係構築術の奥義であった。だから人脈も多士済々であった。あるパーティで同席した人と意気投合し、いつの間に親しい付き合いが始まる。そんな話は斎藤さんには数多くあった。だから弊社(清流出版)の業績アップに大いに貢献してくれたのである。
『宗教仁研究―清末民初の政治と思想』(2004年刊)
・斎藤さんが繋いでくれた人脈で、弊社の出版企画も充実したものになった。冒頭に記した片倉芳和さんもそのお一人だ。片倉さんは斎藤さんの義弟にあたり、1939年、東京都で生まれている。早稲田大学では「雄弁会」に所属し、亡くなった僕の畏友、正慶孝さんとは激論を闘わせ、弁論を鍛えあった仲だという。その後、片倉さんは、日本大学大学院文学研究科東洋史専攻博士課程を修了している。弊社では片倉さんに『宗教仁研究―清末民初の政治と思想』という430ページを超える大著を出させて頂いた。宋教仁という人物は、終始、孫文に対立した革命家と言われる。
革命戦略については孫文の唱えた辺境根拠地革命に対し、宋教仁は長江流域における都市革命を主張した。また、孫文の唱えた大総統制に対し、議院内閣制を主張した人物だ。宋教仁は民主的な議院内閣制によって、大総統の権限を抑制しようとしたのである。そしてこの法を以て対立するという態度が袁世凱に恐れられ、ついには暗殺されるに至っている。志半ばにして袁世凱の刺客の凶弾に倒れた宋教仁。この中華民国初期の革命運動・政治家の研究成果がこの一冊に凝縮された、後世に残すべき貴重な本だと僕は思っている。
・斎藤さんを通して弊社が受けた仕事で、大いに潤った本がある。かなりの部数買い取りを含んだ出版契約であった。それがスウェーデン系商社、ガデリウスが日本に100年以上に亘り根を下ろし、成功してきた軌跡を追った『成功企業のDNA――在日スウェーデン企業100年の軌跡』(2005年刊)である。本書を読むと100年もの長きに亘っての同社の奮闘が、日本の経済発展の歴史と見事に重なる。外資系企業といえば、大抵、四半期毎に結果を出さなければならない。株主が力をもっており、利潤を生まなければ社長の首をすげ替えてでも結果を求められる。ところが同社は、そんな利潤追求は一切していない。創業者のクヌート・ガデリウスがじっくりと腰を据えて、日本での経営基盤を作ったことに、その成功に至った秘訣がありそうだ。
『成功企業のDNA――在日スウェーデン企業100年の軌跡』(2005年刊)
なぜ、創業者ガデリウスが、それほど日本にこだわったのか。どうして100年以上も、日本に溶け込むことができたのか。その秘密が本書で明かされている。米国系企業が多い中で、異色ともいえるスウェーデン企業の事業展開は僕にとって感動的であった。この企業が日本の横浜へ進出したのが、1907(明治40)年である。以来、日本の産業発展、工業発展の担い手として貢献してきた。こんな企業があること、こんな歴史があることすら、知らない日本人が多い。一見、社史のようなスタイルをとりながらも、生々しい人物像をフォーカスしている。数少ない欧州系対日進出外資企業の、貴重な対日事業展開のケーススタディではないだろうか。いい本を刊行できて、利益も十分に上げることができた。斎藤さんには感謝するしかない。
・コロナ禍の前、斎藤さんとは毎週金曜日に会社で会い、昼食を一緒に摂るのが定例になっていた。寿司、カレー、洋食、和食、中華……。弊社のある神田神保町界隈には、美味しいお店がいくらでもあった。M大学の食堂に繰り込んだこともある。大学の食堂はとにかく安く、ビーフストロガノフが500円ほどで食べられた。この昼食が銀座方面になることもあった。様々な個展が銀座界隈であるので、タクシーで個展会場に行き、作品を十分に観賞した後、ゆっくり昼食を摂ったりした。よく行った個展といえば、毎年、銀座鳩居堂で開催された小池邦夫さんの個展がまず浮かぶ。銀座松屋での菅原匠さんの個展もほぼ毎年訪れていた。
東京ビッグサイトで行われる「東京国際ブックフェア」も毎年のように出かけた。メンバーはほぼ決まっていた。臼井雅観君、藤木健太郎君、斎藤さん、それに僕の4人である。斎藤さんはこうしたイベントが大好きだった。ブックフェアは会場が広いので見て回るだけでも大変である。世界各国からも刊行物を売り込みにきていた。ヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカ諸国など、各国大使館が出展し民族衣装で応対するブースもあった。こんな会場内で、ふと見回してみると斎藤さんがいない。探してみると、あるブースの前で、モデルのような金髪の美女と話し込んでいたりする。この辺り斎藤さんの独壇場である。その他、弊社に近く竹橋にある国立東京近代美術館や近代美術館工芸館などにもよく出かけたものだ。芸術をゆっくりと楽しんだ後は、美術館2階にあるレストランで、フレンチとイタリア料理を融合した、美味しい料理を堪能したものだった。
東京ビッグサイトの東京国際ブックフェア会場にて
銀座鳩居堂 小池邦夫さんの個展会場にて
ダイヤモンド時代の仲間である川鍋孝之君と
銀座松屋 菅原匠さん個展会場にて(左端菅原さん)
出版企画打ち合わせ 今は亡き正慶孝君(右から2番目)と
・最後に、臼井君、斎藤さんと僕の3人で参加した2007年の洋上大学について触れておきたい。この回は39回目に当たり、結果的に最後の洋上大学実施となった。見渡す限りの紺碧の波を蹴立てて、客船「ふじ丸」はひたすら南下。硫黄島からグアム、サイパンへの7泊8日の旅だった。上部デッキには、強い日差しが照りつけ、夏の暑さが好きな僕は大満足だった。主加藤日出男団長の綿密なカリキュラム編成で、毎日、飽きることがなかった。邦楽家・上野和子さんによる筝曲講義と合奏披露。サイパン生まれで元海軍特攻隊員の歌手・三島敏夫さんの歌謡。NHKラジオ深夜便「こころの時代」担当の上野重喜さんの講演。五藤禮子さんの茶道講座。オペラ歌手・高野久美子さんの声楽。桐朋学園大学・長谷川由美子さんのピアノ。ゴスペルアンサンブル主宰の池末信さんの指導による若者たちの合唱。ECC外語学院の亀田里美さんの英会話。こうした多彩なタレントを次々と大舞台や小ホールに招いて、盛り沢山な催しが続いた。
マリアナ海溝沖では、洋上大学での一大イベントを堪能した。なんと快調に南下していた「ふじ丸」の船足を止めて、船内の照明はもとより、デッキの電灯もすべて消された。僕らは文字通り真っ暗闇のデッキに毛布を敷いて横たわり、目を閉じて合図を待った。「目を開けてください」の合図で空を見上げた時の感動は、例えようもなかった。まさに降るような満天の星であった。空一面に星がこれほどある、ということに改めて驚かされた。そして見事に計算された星の位置により、たった十数分間だったが、北極星と南十字星を同時に見ることができた。僕らは三人とも、感動のあまり言葉もなかった。
珍道中になった洋上大学での三人組
グアムに寄港しての夜、「ふじ丸」の船上では「グアム親善ディナーパーティー」が盛大に催された。カマチョ知事をはじめ、上院議長、観光局長、グアム大学学長のアレンさん他、大勢のグアムの要人も乗船して、楽しく交歓したものだ。広い会場内で英語が得意な斎藤さんは、要人たちの間を、水を得た魚のように生き生きと動き回っていた。そんな場面を僕は懐かしく思い出す。
斎藤勝義さんの行動力は、いつどこにいても変わらなかった。黄泉の国に行っても、きっと変わらないだろう。「サイトウカッちゃん、長い間、本当に有難う。お世話になりました。どうか安らかにお休みください。僕もしばらくしてから……」。
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