加登屋のメモと写真…

アルヤ・サイヨンマーさん フジコ・ヘミングさん

清流出版 (2020年10月26日 10:26)

●アルヤ・サイヨンマーさん

 
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会場で歌うアルヤ・サイヨンマーさん  

・自宅で資料関係の整理をしていたら、懐かしい写真が出てきた。フィンランドにアルヤ・サイヨンマー(Saijonmaa,Arja)という歌手がおり、“フィンランドの歌姫”と呼ばれている。彼女が来日して東京都新宿区初台のオペラシティでコンサートをしたときの写真である。実は、弊社はアルヤさんの本の版権を取得し、翻訳出版したのだ。その際、販売促進も兼ねて来日して頂いたのである。僕は原著を手にしたとき、アルヤさんのサウナを通して魂と肉体の「癒し」の大切さを問いかけると同時に、北欧の文化や母国に対する深い愛情や想いが伝わる本だと確信し、版権取得に踏み切った。書名は熟考した末に、『アルヤ、こころの詩――サウナと神話に癒されて』(2002年10月刊)とした。内容を簡単に説明すると、都会の慌ただしい生活を逃れ、故郷へ帰ってきたアルヤさんが、湖畔のサウナで心身の疲れを癒しながらもの思いに耽る。サウナと「カレワラ神話」を介して、現在と過去、現実と幻想が交錯する、彼女の精神世界が垣間見えてくるものであった。サウナの素晴らしさ、サウナにまつわる様々な思い出と逸話、そしてフィンランドに伝わる叙事詩「カレワラ」について語る、詩的で幻想的なエッセイ集である。

 
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『アルヤ、こころの詩―サウナと神話に癒されて』


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アルヤさんと僕

・アルヤさんは、ヨーロッパではよく知られた存在だが、日本ではまだ知名度が低かった。どんな歌を歌う歌手なのか、知ってもらうための意味もあって、僕はこの本に「Millionere Rosor」(「百万本のバラ」のフィンランド語版)ほか、本邦初公開のアルヤさんのヒットナンバー3曲入りのCDを付けることにした。アルヤさんは1965年に歌手としてデビューして以来、これまでに26枚のアルバムを発表してきた。クラシックからポピュラー・ソングまで歌う歌い手として幅広く活動している。また、「フィンランド・タンゴ」という新しい音楽ジャンルも開拓し、ヨーロッパだけではなく、アメリカのブロードウェイやヴィレッジ・ゲイトにも出演し、好評を博している世界的な歌手なのだ。幅広いレパートリーを持ち、フィンランドの民謡や北欧調の現代音楽、サルサなどのラテン音楽なども手掛けている。

・とくにギリシヤの音楽家ミキス・テオドラキス氏とは深い親交があり、たびたび彼とは共演を果たし、世界各地で公演活動を行っている。他にも、ヒューマニタリアンの運動の一環として、各地で数多くのコンサートを開催している。ゴルバチョフ元ソ連大統領が「ペレストロイカ」を発表した1982年のモスクワ平和会議にスペシャルゲストとして招待され、特別コンサートを行ってもいる。スウェーデンの元首相オロフ・パルメの葬儀(1988年)や、ドイツの元首相ウィリー・ブラントの葬儀(1992年)では「レクイエム」を歌ったこともある。国連の平和活動の一環としても、たびたびコンサートを開催してきた。1987年には、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)親善大使にも選ばれている。行動的な国際人なのである。

 
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熱心なファンの栗原小巻さんも駆けつけた

・ヨーロッパでは、よく知られた三人の女性歌手がいる。もちろん、アルヤさんも含めてである。あとの二人はエンヤさんとヤドランカさんである。エンヤさんは、アイルランド出身の歌手で、作曲家、音楽プロデューサーでもある。「ウォーターマーク」(1988年)が成功し、シングル「オリノコ・フロウ」が各国のチャートでトップ10入りし世界的な名声を得た。その後も、「シェパード・ムーン」(1991年)、メモリー・オブ・トゥリーズ」(1995年)、「ア・デイ・ウィズアウト・レイン」(2000年)の各アルバムが数百万枚を売り上げた。

  ヤドランカさんも日本人にはお馴染みの歌手である。16歳の時にドイツに住む叔父のジャズグループに加わり、ベースとボーカルを担当。1984年、サラエボオリンピックのメインテーマ曲を作詞、作曲。自らそのテーマ曲を歌い、一躍ユーゴスラビアの国民的歌手となった。以前から日本文化、特に浮世絵、俳句に興味を抱いており、1988年、日本でレコーディングを行うために来日したが、その間に祖国ボスニアの内戦が酷くなり、それ以降、2011年まで日本を活動の拠点としていたという背景もあった。

・さて、著者を知ってもらうためのコンサートには、新聞各社の担当記者も駆けつけてくれ、記事を書いてくれた。この本の船出には恰好の宣伝材料となったと確信している。特に東京新聞で紹介された記事は素晴らしいものだった。今も僕の印象に強く残っている。また、アルヤさんの熱心なファンだという栗原小巻さんがお忙しい中を参加してくれ、フィンランドの国民的歌手ということからフィンランド大使館からも多くの参加者があったので、とても華やかな会場風景となった。僕は直木賞作家の常盤新平さんとは長いお付き合いだが、新平さんの奥様には、このコンサートで大変お世話になった。陽子さん(会議通訳)にこのイベントの司会をして頂き、大いに会場を盛り上げてもらったのである。外国のそれも売れっ子歌手を、販売促進を兼ね来日して頂いて、イベントを開催したというのは、後にも先にもこれ1回だけ。この時の想い出は、僕の記憶の中に息づいている。


 
●フジコ・ヘミングさん
 

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フジコ・ヘミングさん

・実は先月末の日曜日、WOWOWで“魂のピアニスト”フジコ・ヘミングさんの特集が放映された。なんと3部構成で4時間半に及んだこの特集は、改めてフジコ・ヘミングという不世出のピアニストを再認識させられたものだ。第1部が『フジコ・ヘミング ソロコンサート  ―いと小さきいのちのために― 』と題して、2017年に行われたチャリティーコンサートの録画であった。よく知られた「別れの曲」「月の光」や「ため息」に加え、代表曲となる「ラ・カンパネラ」など、全13曲が演奏された。第2部はドキュメンタリー映画『フジコ・ヘミングの時間』であった。60代後半になって遅咲きのデビューを果たし、一躍人気に火が付いた奇跡のピアニストの知られざる素顔と魅力に迫った秀作映画である。デビュー以来、88歳になった今でも、世界中で演奏活動を続けるフジコ・ヘミングさん。ヨーロッパ、日本、北米・南米と、世界を股にかけて行われるコンサートは、実に年間約60回に及ぶという。チケットは即完売で新たなオファーも絶えない。その情感あふれるダイナミックな演奏は、多くの人の心をとらえ、“魂のピアニスト”と呼ばれている。そんなフジコ・ヘミングさんを2年間にわたって撮影し、これまであまり明かされることのなかったオンとオフの素顔に迫った初のドキュメンタリー映画だ。


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DVDにもなった「フジコ・ヘミングの時間」

・お気に入りのアンティークと猫たちに囲まれて暮らすパリの自宅で迎えるクリスマスの情景、宮大工がリフォームした古民家で過ごす京都の休日、留学時代の思い出が宿るベルリン郊外への旅など、初公開のプライベート映像も満載している。そこから浮かび上がるのは、自分の芸術に対してはストイックであり、私生活では弱者と動物に対して優しく、おしゃれが大好きなフジコさんの愛すべき人柄だ。世界中の人々を魅了してやまないフジコさんの音楽は、どんなライフスタイル・人生から生まれてきたのか。本作は、その秘密を解き明かしていく。

 
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シンガーソングライターで牧師の陣内大蔵氏


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番組中で紹介された弊社の本
 
・第3部が『フジコ・ヘミング 教会ソロ演奏 2020 ―くすしき調べ、とこしえなる響き―』と題し、今年8月に日本基督教団 阿佐ヶ谷教会にて無観客で行われた1時間半の彼女のピアノソロ演奏の模様が放映された。ナビゲーターはシンガーソングライターであり牧師でもある陣内大蔵氏が務めている。この第3部では、この困難な時代に心豊かに生きてゆくフジコ流の心得や自粛生活中の暮らしぶりなど、心温まるインタビューも行われ、好きなピアノ演奏も楽しめる構成になっていた。しかし、なんといっても感動したのは、冒頭に弊社刊『フジコ・ヘミングの「魂のことば」』からの言葉が引用されているのだ。また、番組の中でも陣内大蔵氏がこの本を取り上げており、フジコさんもお気に入りの1冊であることが窺い知れたからだ。残念なことに、現在、在庫がない。増刷ができればいいのだが。

・フジコさんの経歴を復習しておこう。東京音楽学校(現・東京芸術大学)出身のピアニスト、大月投網子さんとロシア系スェーデン人画家/建築家だったジョスタ・ゲオルギー・ヘミング氏を両親にベルリンに生まれる。5歳から母、大月投網子さんの手ほどきでピアノを始め、10歳から、ロシア生まれのドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツアー氏に師事する。東京芸大卒業後、28歳でドイツへ留学。ベルリン音楽学校を優秀な成績で卒業。長年にわたりヨーロッパに在住し、ブルーノ・マデルナに才能を認められ、彼のソリストとして契約した。この契約に際し、フジコの演奏に感銘を受けたレナード・バーンスタイン、ニキタ・マガロフ、シューラ・チェルカスキーからの支持、及び援助があった。しかしリサイタル直前に風邪をこじらせ、聴力を失う。失意の中、耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得、以後はピアノ教師をしながら、欧州各地でコンサート活動を続ける。

・1999年2月、ピアニストとしての軌跡を描いたNHKのドキュメント番組、ETV特集『フジコ ―あるピアニストの軌跡―』が放映され大反響を巻き起こす。1999年に発売されたファーストCD『奇蹟のカンパネラ』は200万枚(2012年4月現在)を超え、記録を更新し続けている。2001年、ニューヨーク・カーネギーホールでのリサイタルでは、感動の渦を巻き起こした。2012年には、自主レーベル「ダギーレーベル」を設立。これは、フジコさん自身がリスナーに届けたい曲を、納得できる音質で録音し、世界に発信するという本人の音楽に対する強い決意によるものだという。猫や犬をはじめ動物愛護への関心も深く、長年の援助も続けている。また、米国同時多発テロ後の被災者救済のために1年間CDの印税の全額寄付や、アフガニスタン難民のためのコンサート出演料の寄付、3.11東日本大震災復興支援及び被災動物支援チャリティーコンサートといった支援活動を続けている。88歳を過ぎてなお、年間60回ものコンサートを続けているフジコさん。今後のより一層のご活躍をお祈りしたい。

笹本恒子さん

清流出版 (2020年9月23日 16:43)

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笹本恒子さんと僕

・今月9月21日は敬老の日であった。昨今、元気なお年寄りが多くなり、皆さん人生を楽しんでいるのは嬉しい限りだ。しかし、僕も含め長引くコロナ禍の影響で行動がどうしても制約されてしまうのは、残念なことである。僕の知り合いにもとびきりの元気印の方がいる。男性では僕が敬愛してやまない洋画家の野見山暁治さんを真っ先に挙げたい。野見山さんは、今年12月17日、御年百歳の大台に乗るはずだが、今も現役で画を描き続けておられるのだから凄い。素晴らしいバイタリティである。生涯現役とは野見山さんのような方をいうのであろう。僕など野見山さんより20歳近く年下なのに、病気の後遺症もあって足元も覚束ないのだから情けない。野見山さんは『四百字のデッサン』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しているように、文章もひょうひょうとして味わい深いものがある。月刊誌『美術の窓』(生活の友社)に2003年12月号からというから、17年にもならんとする連載エッセイ《アトリエ日記》は、僕がいつも楽しみに愛読しているエッセイだ。野見山さんは、最近のアトリエ日記で「追悼文ばかり書かされているようで堪らん」と書いておられた。追悼文を依頼されるのは、親しかった証でもあり、残された者の義務として仕方がないのではないか、とも思える。とにかく、野見山さんのエッセイを毎月楽しみにしている読者が全国にたくさんいるのだから、もっともっと書き続けていってほしい。


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地下鉄神宮前駅「いつかは逢える」(野見山暁治 2008年)

・さて女性では、なんといっても日本初の女性報道写真家・笹本恒子さんを挙げたい。今年、御年106歳になられるはずで、女性活躍社会のお手本のような方である。好奇心を大切にし、アンテナを張り巡らし、率先して行動してきた。清流出版を立ち上げた頃の僕は、月刊『清流』に続き、出版部門をスタートさせようと思っていた。出版分野としては、海外翻訳物、文藝エッセイ、実用書、小説、童話などを候補に上げた。更には僕が好きな芸術分野の出版物も柱として考えていた。芸術分野といっても広い。書道や洋画・日本画などの画集、美術エッセイ、写真集などがその候補であった。ちょうど創業から3年ほど経った1996年、写真集の著者候補として恰好の人物にお会いできた。それが笹本恒子さんであった。笹本さんはその頃、あるテーマをもって写真を撮り続けていた。その対象への思いをこう語ってくれた。「女性の権利がまだ保障されていなかった明治時代に生まれ、大正、昭和と走り抜けてきた、この人たちの苦労を残しておかなければならないとの強い思いから、明治生まれの女性を撮り続けてきました」と。

 
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弊社応接室にて

・僕は日ごろから、女性の潜在的なパワーには感服していたこともあり、そのテーマに心を惹きつけられた。写真を見せてもらって、すぐに出版することを決め、笹本さんには写真選びと添える説明文をお願いした。こうして写真集が完成の運びとなった。弊社刊行の『きらめいて生きる 明治の女性たち――[笹本恒子写真集]』はこうして世に出たのである。明治という時代に生まれ、大正、昭和と生き抜き、時代を牽引してきた各界の女性たちは輝いていた。笹本さんは、そんな女性たち60人に直接会い、毅然として生きる姿を活写してきたのである。お恥ずかしい話だが、題字は元気だったころの僕が書いたものだ。


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初版の表紙である 

 ちなみに登場人物は、歌手、小説家、詩人、随筆家、美容家、政治家、経営者、デザイナー、舞踊家など、極めて多岐にわたる。具体名(敬称略)を挙げれば、宇野千代、淡谷のり子、加藤シヅエのほか、佐多稲子、杉村春子、沢村貞子、秋野不矩、住井すゑ、丸木俊、飯田深雪、石垣綾子、井上八千代、北林谷栄、田中澄江、長岡輝子、三岸節子、吉行あぐりの諸氏など錚々たる女性たちが並ぶ。判型もA4変形を採用したので大きく掲載することができ、迫力のある写真集となった。これをきっかけに笹本さんには、何冊か弊社から単行本を出させて頂いた。『夢紡ぐ人びと――一隅を照らす18人』(2002年)、『ライカでショット!――お嬢さんカメラマンの昭和奮戦記』(2002年)、『昭和を彩る人びと――私の宝石箱の中から一〇〇人』(2003年)など、弊社の出版物のラインナップに華を添えて頂いた。

・簡単に笹本さんのプロフィールを紹介しておく。1914年、東京都の生まれ。日本初の女性報道写真家として知られる。1940(昭和15)年、財団法人写真協会に入社。社会派の写真を手掛ける一方、旺盛な行動力で明治の女性たちを手弁当で追いかけ、紹介してきた。終戦後、写真家として復帰し、国内で起こった話題・事件の女性たちを撮り、数多くのグラフ雑誌に掲載したが、活動の場であった写真グラフ誌の多くが廃刊され活動を休止した。約20年間の沈黙を破り、1985年に71歳で国内を代表する著名な女性有名人を集めた写真展「昭和史を彩った人たち」で再び写真家として復帰した。2001年、第16回ダイヤモンドレディー賞、2011年には吉川英治文化賞、2014年、第43回ベストドレッサー賞・特別賞、2016年、米国のルーシー賞(英語版)(ライフタイム・アチーブメント部門賞)など数々の賞を受賞している。2016年3月、それまでに撮影した100点の写真を長野県須坂市に寄贈。2018年、東京都名誉都民に顕彰される。

 また時に笹本さんは、自費出版したという写真集を、売り込みに来社されたこともある。僕は笹本さんからその本が出版に至った経緯を聞くに及び、意気に感じて数十冊購入したことがある。それが『素顔の三岸節子 60年の想いをこめて』である。自費出版してまで三岸節子さんとの約束を守った、笹本恒子という人間に惚れ直したものだ。笹本さんは、1988年にフランスのヴェロンに三岸節子さんのアトリエを訪ねた際、絵と人となりを伝える写真集を出版するという約束をしたのだという。そのまま約束が果たせず、いつしか10年という月日が経ってしまったのだった。


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自費出版(1998年)

 二人の初めての出会いは、1938年にまで遡る。笹本さんは写真家になる前、画家を志していたことがあり、絵を見てもらおうと三岸節子さんを訪ねたことがあった。フランスはパリから南へ130キロ、ブルゴーニュ地方のヴェロン村の三岸邸を訪ねた時には、その時からすでに半世紀近くも経っていた。三岸さんはこう言った。「そういえば、初めて絵を持って私のところにいらした時は、あなたはお下げ髪の少女だったわね。確か新聞社の偉い方の紹介で……」。笹本さんは、三岸さんの記憶力の良さにびっくりしたらしい。そんなに長いお付き合いがあり、約束を果たせなかった笹本さんは、自らの不甲斐なさに切歯扼腕していたことだろう。僕は見本を見て、写真はもちろん、添えられた文章にもほだされた。読むほどに、三岸節子画伯と笹本恒子さんの人間と人間の深い絆がひしひし伝わってきた。僕は編集者が作家とお付き合いしていく上での一つの形として、弊社の編集者にも是非読ませたいと思い、1冊ずつ配ったことを覚えている。
 
 
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PHP研究所刊(2017年)   

・笹本さんは長らく都内の高層マンションに一人住まいをされていたが、自宅で転んで大腿骨を骨折してしまう。立ち上がろうと手を突いた時に、手首も骨折してしまう。あまりの痛さにそのまま気を失い、22時間倒れたままだったという。この時の笹本さんの情況は僕にもよく分かる。僕も似たような体験をしたからだ。僕は、清流出版を立ち上げて以降、編集のほか経理や広告、営業等も見ていたので忙しく、ウィークデイはフェアモントホテル(当時)を定宿にし、週末だけ八王子の自宅に帰るという生活をしていた。午前1時前、ホテルに入浴して浴槽から上がってきて、そのまま脳出血で倒れてしまう。笹本さん同様、ほぼ一昼夜というもの倒れたままであった。不審に思った社員からの問い合わせで、ホテル側がカギを開けて発見されることになった。

 笹本さんの場合も、翌朝、取材で訪れた方が異変に気づき、なんとかカギを開けて発見され、そのまま入院し緊急手術となった。そんな笹本さんに更なる悲劇が襲う。なんと今度は、入院先の病院のベッドから転げ落ち、反対側の大腿骨も骨折してしまう。両方の大腿骨を骨折してしまっては、歩けるわけがない。車椅子の生活となり、一人暮らしを諦めて100歳で鎌倉の老人ホームに入所することになった。老人ホームは安心・安全な場所として重宝されるが、バリアフリーで何もかも介護の人がやってくれるので、身体を使わなくなり筋力低下は否めない。意識しないと頭も使わなくなり、老化がますます進行することになる。笹本さんはそんなことは百も承知だった。自分を鼓舞する方法を知っている。

・「ここに移ってからすぐに、全身が映る鏡を買いました。いつも身だしなみには気をつけなければね。壁には大好きなゴッホの『ひまわり』の絵を飾りました」。気持ちよく暮らしたい、の思いからだという。好奇心を持って前向きにというのが、笹本さんの真骨頂だ。仕事に生き、ときめきの対象を見つける名人でもある。暮らしている老人ホームの最高齢なのはもちろん笹本さんだ。「一番忙しくしているのも私かもしれません。とにかくボーッとしている時間がないの。いつどうなっても不思議ではないから、やり残した仕事を完成させないと、おちおち死ねません」。と意気軒高である。『好奇心ガール、いま97歳』の著書もある笹本さん。今日という日を充実して過ごしている。こんな前向きな生き方、次代の若者たちに是非学んでほしいものである。

バーバラ寺岡さん

清流出版 (2020年8月26日 12:16)

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バーバラ寺岡さん

・バックナンバーを繰っていると、いかに多くの方々にお会いしてきたかを実感させられる。その人たちの支えがあってこそ、僕は、なんとか出版界を生き抜いてこられた。そのお一人であるバーバラ寺岡(本名:寺岡たみ子、1945年3月―2017年6月)さんがお亡くなりになった。腹膜ガンのため、享年72であった。「バーバラ」という名前は、彼女の祖母の名前であり、仕事をするようになった際に姓名判断により選んだ名前だという。バーバラさんには大変お世話になった。月刊『清流』にご登場頂いたし、弊社から2冊の単行本を出させても頂いた。僕は代々木にあったバーバラさんのご自宅に、何度かお邪魔している。砂利を敷き詰めた庭に、外国製の大きなキャンピングカーが止まっていたことがあり、びっくりしたことがある。フォード社製のキャンピングカーだという。広い車内には、ベッドはもちろん、キッチンやトイレ、シャワー等の設備があり、冷蔵庫、電子レンジなど電化製品も完備、食糧品と水さえ積めば、大地震があっても生活できる準備がすべて整っているとのことだった。自らの波瀾万丈の人生経験から、何が起こっても事前に準備しておかなければならない、という考え方になったようだ。

 エネルギッシュな方であり、ポンポンと立て板に水のごとく、ユニークな発想を口にされたのを懐かしく思い出す。実際、アイデアウーマンとして知られ、実に250種以上の発明品の製法特許、実用新案特許、商標権などをお持ちであった。具体的には、包丁やまな板の類から、食器、衣類、絨毯など生活全般にわたっている。例えば「掃除ッパ」である。そもそも商品名からしてユニーク。スリッパの裏にモップを付けたもので、歩きながら床掃除ができるというのがウリであった。また「サバイバル・バッグ」は、ファスナーを開け、裏返すとスポーツバッグになり、もう一つのファスナーを開けて裏返すと、ブルーのナイロン地と黄色のキルティングの寝袋になるという代物だった。また、食べ物では、小麦粉の代わりに玄米粉を使った「玄米粉ケーキ」を発案している。機能性とともに、美的感覚も備えているというのが、いかにもバーバラさんらしいと感心したものだ。


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月刊『清流』の「人間劇場」にも登場した

・もう一つ、バーバラさんは、ある編集者との出会いを演出してくれた。後に弊社出版部長となった臼井雅観君である。実は臼井君とバーバラさんは、臼井君が女性誌の編集者をしていた縁で知り合い、これまでにバーバラさんとのコンビで何冊か単行本を手掛けた実績があった。たまたま僕が波乗社の山口哲夫(グッチャン)君とバーバラ邸を訪れていた時に、臼井君も丁度訪ねてきて、そこで出会ったのだ。聞けば、単行本1冊分に十分な分量の書き下ろし原稿があり、臼井君がほぼ編集作業を終えているとのこと。弊社では、バーバラさんの著になる『美容 健康 爆発 クッキング――バーバラ特効スタミナダイエット食』という本を出させて頂いたばかり。その販売状況の報告と、次の単行本企画の相談でもしようと思って訪ねた矢先である。僕は即断即決した。臼井君の編集企画した原稿で2冊目を出せばよい。渡りに船とはこのことであった。


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『美容 健康 爆発 クッキング――バーバラ特効スタミナダイエット食』

・臼井君がほぼ編集作業を終えていたことから、原稿を受け取ってから刊行までは早かったのを覚えている。書名はバーバラさんの希望も取り入れて、『バーバラ・ウルトラ学――これを知らずして美・食・ファッションを語るなかれ』とした。内容はバーバラさんが、試行錯誤を繰り返しながら、独自に生み出した美容・健康法の指南書といったものであった。新聞広告を出した時の惹句はこんな風になった。《大使令嬢であった著者が美の本流ハンガリーの美・食・ファッションについて、エリザベート皇妃が実践していた本当の豊かさとブランドの使いこなし方を「マリー・アントワネット症候群」の日本女性に贈る》と。ちなみに、エリザベートとは、美人の誉れ高く、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝(兼国王)フランツ・ヨーゼフ1世の妃であり、「シシィ」の愛称で知られた皇妃である。

 表紙は「バーバラ」の名を受け継ぐことになった祖母のバーバラさん、それにエリザベート皇妃、ご本人の三枚の写真をあしらったデザインとした。巻頭のカラー口絵では、バーバラさんの人脈の広さを伝える、世界的なファッションデザイナーや文化人、プロスポーツ選手との華麗なツーショット写真や、健康に適したアイデア料理や全国各地から精選したお薦めのパン・菓子類などを紹介していた。バーバラさんは、「人間の生活たる衣食住には、風味、風景、風土の三つの要素が大切であり、特に風土にあった生活をしなければなりません」を持論としていた。本書は、そんなバーバラさんの思いを体現するためのアイデアが、いっぱいに詰まった本であった。

・バーバラさんの経歴を簡単に紹介しておこう。1945(昭和20)年、ハンガリーの生まれ。父君は日本人の外交官、母堂はハンガリー人の美顔術師であった。父君はペルー大使、イラン大使を務め、サンフランシスコ条約締結時には、吉田茂首相の秘書官として仕えた寺岡洪平氏である。祖父は日本海軍少将だった寺岡平吾で、曾祖父に当たるのが、新撰組の山脇正勝という立派な家系であった。終戦と共に外交官だった父君はソビエト抑留の国外追放となり、さらにハンガリーに社会主義政権ができたために、旧ブルジョア階級は田舎への移住を迫られた。母堂とバーバラさんも、田舎に移住させられることになった。お嬢さん育ちの母堂が、途方に暮れているのを尻目に、未就学児のバーバラさんが色々な物を売り歩き、日々の生活の糧を得ていたという。彼女のアイデアとたぐいまれな生活力は、この頃からすでに醸成されていたものと思われる。

 その後、父君とウィーンで再会し、15歳でようやく日本へ。白百合学園高校に通っていた時代に、父君が40歳の若さで他界され、家族の生活が一変する。お嬢様育ちで生活能力のない母親に代わり、通訳などの仕事を始め、家計を支えた。そのため勉学に差し支えるとともに、学校側からも厳重注意を受ける。それほど馴染めない校風だったこともあり、退学することになる。そもそも幼少の頃からアトピー性皮膚炎や喘息などの持病があったバーバラさん。この時のアルバイト生活でさらに体調を崩し、苦悩の青春時代を迎えることになる。体調不良と肥満に悩み、後年には、膠原病にも見舞われたが、生来の探求心によって中国の医者・学者に出会い、中国の伝統薬膳料理を研究し、体質改善するなど試行錯誤しながら病気を克服してきた。1966年『デザートとお菓子』という著書で料理研究家としてデビューし、1970年、日本にまだ登場して間もなかった電子レンジを使った調理法を初めて紹介した。薬膳料理や東洋医学を元に生活全般と風土の関係を探求し、オリジナルな健康法や美容法を考案したのである。内外のファッションリーダーとも親しく、よくテレビ出演もされており、料理研究家のほかに、皇室ファッションなどファッション評論家としても活躍された。

 また、バーバラさんは、日本語のほか、ハンガリー語、英語、スペイン語、イタリア語など何か国語も自由自在に話すことができる方であった。ご自分の頭に浮かぶアイデアも、ポリグロット(多言語を操る人)らしく数か国語で表現する人だったと思う。バーバラさんがユニークだった秘密もそのあたりにあるかもしれない。


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『バーバラ・ウルトラ学――これを知らずして美・食・ファッションを語るなかれ』』

・さて、『バーバラ・ウルトラ学』だが、売れに売れ弊社の売り上げに大いに貢献してくれた。というのも、バーバラさんは、当時の東京12チャンネルで放映されていた「レディース4」にゲスト出演し、この本についてコメントしたのである。なんと放映中から弊社の電話がなりっ放しとなった。社員全員、昼飯抜きで電話応対したのだ。問い合わせの内容は、具体的に女性の美の原点でもある黒髪について語ったのだ。「合成洗剤入りのシャンプーを長く使用し続けることによって、私の髪はすっかり傷んでしまいました。ボリュームもなくなり、地肌も荒れて惨憺たる有様。そこで私は、自分用のシャンプーを手作りすることにしたのです。髪の質が一変しました。頭皮・頭髪にも優しく、髪のツヤを引き出し、潤いを与え、サラッと美しい自然な髪に仕上がりました。こんなに黒々とボリュームたっぷりの髪に生まれ変わったのです」と語ったのだ。

 そして、ワインと卵の黄身を使っての自家製シャンプーの作り方を披露したわけだ。当時から、それだけ髪の悩みを抱えている女性が多かったのであろう。とにかく放映後も連日、電話はなりっ放しの状態が続いた。毎週、増刷しなければ間に合わないという嬉しい悲鳴であった。この喧噪状態は1ヶ月ほど続いたが、弊社の短期間での販売部数で、この本は記録的だったといっていい。自家製シャンプーについて補足すれば、ワインの中でもトカイアスーワイン(ハンガリーの貴腐ワイン)が一番のお薦めと言っていた。しかし、日本人の髪質からすれば、お手軽なワインでも十分効能効果があるらしかった。

・熟年になってからのバーバラさんは、「長生きしたければ、日頃から摂生に努め、体の機能が劣化しないように適度の運動を行い、自分を律していくよりほかない。それでも致命的な病気になるなら、天命として受け入れるしかない」などと言っていた。部分的に病気を探し治療していたのでは、かえって生活の質が落ちて、後悔することになる。だから、不要不急の検査は行わないこととし、自分から病気を探すことはしなかった。だから死の病となった腹膜ガンについても、痛みはなかったが腹水が溜まるので診療を受け、ガンが見つかったのである。しかし、無用な治療を受けることなく、痛みに苦しむこともなく、静かにお亡くなりになったという。人生を達観したような潔さが漂う、バーバラ寺岡さんらしい最期であった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

熊井啓・明子夫妻

清流出版 (2020年7月27日 10:51)

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熊井啓(くまい けい)・明子(あきこ)夫妻

・創刊間もない頃の月刊『清流』を繰っていて、「夫婦で歩む人生」に熊井啓(1930―2007年)・明子さんご夫妻にご登場頂いたことを思い出した。お二人は長野県松本市出身である。僕は信州には何か不思議なご縁を感じている。以前、ここでも書いたことがあるが、家内が松本市の出身であるし、僕も戦時中、信州は上田市に近い塩尻という所に疎開していたことがある。大好きなクラシック音楽でも、松本は思い出深い。毎年、紀尾井ホールで聴いている天満敦子さんとごく親しく、松本での天満さんのコンサートをプロデュースしていた石川治良さんが松本の三城にお住まいだし、「セイジオザワ松本フェスティバル」は1992年、指揮者の小澤征爾さんが創立したものだが、毎夏、松本市で行われていた。「サイトウ・キネン・オーケストラ」を指揮した、小澤征爾さんの演奏会チケットが思いがけず手に入り、勇躍、駆け付けて至福の夕べを過ごしたこともあった。松本は盆地であり、標高が670メートル前後と高い。真夏でも湿度が低いのでとても過ごしやすい。年を取るにしたがって、暑さが身に応えるようになった僕には、信州の涼しさはとても魅力的に思え、何度でも訪れてしまうのだ。

・春の選抜高校野球、夏の選手権大会など、高校野球も好きでよくテレビで見ていたものだが、松商学園など長野県の代表チームをつい応援している自分に気づき、我ながら苦笑したものだった。右半身不随となってしまった今は、そう簡単に行けなくなったが、温泉好きの僕がお薦めしたいのは、松本市入山辺の「扉温泉」である。扉温泉の由来は、天の岩戸を開いた天手力男命(アメノタヂカラオ)が戸(扉)を戸隠神社に運ぶ途中、ここで休んだという神話に由来する。「東の扉」「西の白骨」とも言われ、胃腸病を治す名湯としてもよく知られている。僕が一番好きな温泉といっていい。松本駅から車で40分ほどの薄川に沿った閑静な山の中にある温泉で、宿は「明神館」1軒だけである。この明神館から見る緑滴る山の景色、和洋料理も温泉の質も実に素晴らしい。僕が敬愛してやまない清川妙さんも、この温泉をこよなく愛し、よくこの明神館に泊まって、原稿を書いておられたのを懐かしく思い出す。

・映画好きだった僕は、大学卒業時、ダイヤモンド社の他に映画会社の東映も受験し受かっていた。銀幕の世界にも大変興味があり、映画制作に携わってみたいという強い思いがあった。だから東映の役員面接の際、事実上の創業者であった大川博氏を前にして「僕は製作をやってみたいんです」などと大言壮語してしまった。これに対して大川氏は、半ば苦笑しながら、「君、製作は僕の仕事だよ」と言ったものだ。それほどの映画好きだったから、熊井啓さんは気になる監督の一人であった。作品もほとんど観ている。

・熊井啓さんの監督としてのデビュー作は、日活時代に自作オリジナル脚本による『帝銀事件・死刑囚』(1964年)であった。戦後間もない1948年に起きた、帝国銀行椎名町支店(僕の実家に近い)の行員毒殺事件を入念に再検証し、犯人とされた平澤貞通を無罪とする視点で、事件経過をドキュメンタリータッチで再現した野心作であった。明子夫人は、新婚間もない頃、この映画の資料集めや企画書の清書などで監督に協力している。現代のようにコピーなどという便利なものがない時代である。熊井監督が借り出してきた裁判記録を、明子夫人が全部手書きで書き写したのだという。腕が腫れ上がるほどの作業だったというから、相当な重労働であったはずだ。しかし明子夫人は、資料を筆写しながら、事件の真実や確固たる考証を求めるために、懸命になっている監督のスタンスに感銘を覚えたというという。名実ともに最高のコンビだったわけだ。お二人は、松本深志高校、信州大学の先輩・後輩であり、監督が明子夫人より10歳年上で、監督が文理学部、明子夫人が教育学部の出身であった。


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「夫婦で歩む人生」

・二人はお見合い結婚で、結婚したのは1962年だった。熊井監督の母堂と明子夫人の祖母が、松本の女子師範学校の同級生だったのがご縁の始まり。信州大学を卒業後、明子夫人は長野県内の清内路村という僻地で小学校の先生をしていた。見合いから結婚までは約1年ほどだったが、遠距離恋愛ということもあり、この間、会ったのは2回だけだった。監督は明子夫人の勤務先の小学校に宛て、毎日のように速達で近況と雑感を書き送った。明子夫人は、「田舎の小学校のことですから、速達というと何かあったのか、と郵便局員が血相を変えて配達にくるわけです。『もし返事があるなら預かっていきますよ』などと、親切な申し出を受けたりしました」と笑った。当然ながら、恋人からの手紙らしいと分かってからは、郵便局員もそんな対応はしなくなったというが。

・熊井啓監督は安曇野市の名誉市民となっている。現・安曇野市豊科町に生をうけ、映画監督として日本の映画界に多大な功績を遺してきた。前述した『帝銀事件・死刑囚』で映画監督デビューを果たしてからも、『日本列島』(1965年)、『サンダカン八番娼館――望郷』(1974年)、『日本の熱い日々――謀殺・下山事件』(1981年)、『日本の黒い夏――冤罪』(2001年)といった日本の近現代における社会問題や社会事件を主題とした作品を世に問うてきた。社会の裏側の隠れた真実を、綿密な調査によって白日の下に晒す作品であった。これらの作風から骨太な「社会派映画監督」として高く評価されている。熊井監督は日活を退社してフリーになったが、退社の背景には、三船プロと石原プロが組んだ『黒部の太陽』の監督を引き受けたことにある。当時、映画界には五社協定というものがあり、それに違反するからと、日活が監督を降りるようクレームをつけたからだった。


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DVD版『黒部の 太陽』のポスター

・『黒部の太陽』(1968年)は、石原裕次郎氏(石原プロ)、三船敏郎氏(三船プロ)を主演に、黒部峡谷に黒部第四ダムを建設するまでの壮大なドラマであった。世紀の大工事といわれた黒四ダム工事は、大自然との闘いの連続でもあった。軟弱な花崗岩帯にぶつかり、山崩れと大量の水が何度も切削中のトンネルを襲う。そんな難関を突破して、北アルプスを抜いてトンネルが開通するまでを描いている。石原裕次郎氏は、52年の生涯で100本近い映画に出演したが、最も印象深い作品として、やはり『黒部の太陽』を挙げている。「五社協定」のぶ厚い壁に阻まれて苦戦を強いられ、それを乗り越えて完成させることができたという経緯に加え、破砕シーンのロケ現場で右手親指を骨折、全身打撲の大けがを負った。そんな命がけのロケだったからである。

  その後も、『忍ぶ川』(1972年)、『天平の甍』(1980年)、ベルリン映画祭銀熊賞受賞作の『海と毒薬』(1986年)、ベネチア国際映画祭銀賞受賞作の『千利休――本覚坊遺文』(1989年)、『深い河』(1995年)、『愛する』(1997年)など、意欲的な作品群を撮り続けた。日本の文芸作品を主たる原作として、人間の生と死の深淵を見つめ、私たちに生きることの意味を問いかけてくる。こうしたキャリアに対して、熊井監督は紫綬褒章も受章している。

・しかし、フリーランスになった当初の生活は不安定で、『地の群れ』を撮った時は、フィルム代にも事欠く情況だったという。しかし、明子夫人はまったく意に介さなかった。それが有り難かったと監督は後に述懐している。『忍ぶ川』のクランクイン直前には、監督が出血性胃炎で倒れ、危篤状態に陥ったこともある。眠気覚ましに煙草を吹かし、ウイスキーを飲みながらシナリオを書く日々だったというから、胃腸も爛れてしまったのであろう。吐血して救急病院に運び込まれ、「99パーセント助かりそうもないから、身内の人を呼びなさい」と医者に言われたというが、明子夫人は誰にも知らせなかった。親戚の人たちがベッドの回りに顔を揃えたら、彼はショックを受けて、助かるわずかな可能性さえ無くしてしまう、との判断だったという。僕はこの話を聞いて、腹の座り方がまるで違うと驚嘆させられたものだ。

 
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熊井啓記念館(豊科交流学習センター「きぼう」内)

 
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1998年刊行

 
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2008年刊行

・明子夫人にはハーブにまつわるエッセイを中心にした『こころに香る詩』(1998年)という本を出させて頂いた。そして2008年、熊井監督の一周忌に間に合わせるよう編集作業を急がせたのだが、熊井監督が本文中の全写真撮影を、そして明子さんが文章を書いた『シェイクスピアの故郷――ハーブに彩られた町の文学紀行』という夫婦合作本を弊社から刊行することができた。熊井ご夫妻が、生涯で唯一の共著書であった。明子夫人に大変喜んでいただけたので、出版部の面々が強行日程で頑張ったのも報われた思いがした。

  実は、この本の編集・制作過程での副産物がある。明子さんにお聞きしたのだが、僕はご夫妻の熱い絆に心底驚かされた。というのは、仲良し夫妻といえども、当然のことながら夫婦喧嘩をすることもある。そんな時に、熊井監督はよく、「来世で結婚してやらないからな」と言っていたのだという。この言葉が仲直りするための殺し文句になるとは、僕にはまったく考えられない。夫婦間にいかに深い絆が結ばれていたかが、よく分かろうというものだ。僕などどちらかといえば、好き放題してきて、家内に愛想尽かしをされかねない。まるで月とスッポンである。安曇野市豊科町には、熊井啓監督の記念館がある。松本を訪れる機会があったら、穂高町の碌山美術館とともに、是非、再訪してみたいと思っている。

岡部伊都子さんと京都の作家たち、環境アートのクリストとジャンヌ=クロード夫妻

清流出版 (2020年6月22日 11:30)

●岡部伊都子さんと京都の作家たち


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岡部伊都子さん

・新型コロナウイルスの影響で、巣ごもり生活が続いている。創刊して間もない頃の月刊『清流』を眺めていたら、懐かしさに胸が熱くなった。清流出版を立ち上げ、必要なスタッフを募集した。月刊『清流』を創刊するに当たり、連載や特集記事を企画立案し、それに合わせて原稿依頼に東奔西走していた。当然のことながら、3ヶ月号分くらいを同時進行で進め、目処をつけておく必要がある。簡単に引き受けてくれる人もあれば、無名の出版社の依頼ということもあり、渋る人もいた。編集作業が始まった。締切日に原稿を受け取り、原稿整理して印刷所に入稿する。初校ゲラが上がってくれば、スタッフとともに校正をし、印刷所に戻す。再校が上がってくる。総頁の半分以上がカラーということもあり、色校正も自らチェックしなければならなかった。

  もちろん、原稿料の支払い、入出金管理など経理全般も見ていたので、身体がいくつあっても足りないほどの忙しさ。当時、僕は都下の八王子に住んでいた。京王線の最寄り駅まで数十分かかり、そこから九段下まで電車で1時間ほどかかる。都合、1時間半以上、通勤にかかった。この通勤の往復時間が惜しくて、千鳥ヶ淵にあった“フェアモントホテル”(2002年1月に閉鎖され、今はない) を定宿にすることにし、週末だけ家に帰ることにした。ここなら会社まで徒歩5分ほどであり、朝早くから夜遅くまで、仕事に没頭できた。そうなると楽しみといえば食べるだけで、およそ神保町界隈の美味しいといわれる店は、和洋中華、ほぼ完全制覇したと自負している。

・原稿の依頼先はもちろん関東近辺が多かったが、古都・京都にも結構通った。依頼にお邪魔して、その後、単行本を出させて頂いた方も多い。原稿執筆の依頼では、ウィリアム・ブレイクの翻訳で知られた寿岳文章氏(英文学者、随筆家、書誌・和紙研究家)や、娘さんの寿岳章子さんにも大変お世話になった。作家の秦恒平氏には、その後『京都、上げたり下げたり』という単行本を出させて頂いた。市田ひろみさんには『パルミラのコイン――旅に想い、旅をうたう』をご執筆頂いた。民族衣裳が好きで、人や自然との触れ合いを求め、国内外を旅する著者が、旅先で心に残った情景や出来事を、見たまま感じたままを、紀行文と詩で綴ったものだった。旅先のスナップ写真を適宜入った、見ても読んでも楽しい本だった。また、京都・醍醐寺座主の麻生文雄氏にもお会いし、ひろさちや氏と『修験道の魅力』という対談集を出させて頂いている。保守派の論客で知られた京都大学名誉教授・会田雄次氏も、僕の熱意に免じてご承諾を頂いたのも忘れがたい。最近では、特集に瀬戸内寂聴さん、今や売れっ子で『京都まみれ』の著書の井上章一氏にもご登場頂いている。

  
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秦恒平著          市田ひろみ著   
『京都、上げたり下げたり』 『パルミラのコイン』
             

・京都大学卒業の作家にも随分お会いし、寄稿して頂いた。南極越冬隊長だった西堀栄三郎氏、『日本沈没』がベストセラーとなったSF作家・小松左京氏の他、高田宏、辻一郎両氏も思い出深い著者である。二人は京都大学の入学式後の健康診断で初めて出会い、生涯の親友となったという。高田氏には2冊の本を編ませて頂いた。『出会う』は様々な出会いを綴ったエッセイ集で、名も知らぬ人との一期一会の出会い、木や森との出会い、川や海や島に出会い、町や村に出会う。そんな出会いの数々が人生に彩りを添えてきた、と綴ったものだ。『還暦後』は、年を重ねるにつれ死が身近となり、関わるもの全てに感謝の気持ちが湧いてきた。旅好きの著者は、胸の奥でこれが最後という気持ちがあると、すべてが愛おしく、すべてが懐かしく思えてきたというエッセイ集。この本を読んだ女優の浜美枝さんが、新聞の書評欄で絶賛してくれたことを思い出した。

 
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・そして高田氏は親友の辻一郎氏を紹介してくれた。辻一郎氏にも3冊の本を出させて頂いた。『父の酒』、『忘れえぬ人々』、『私だけの放送史』だが、特に僕が興味深かったのは『父の酒』である。というのも、辻一郎氏の父君が往時の『サンデー毎日』編集長だった辻平一氏であったからだ。まだ新聞社系の週刊誌しかない時代、辻氏の『サンデー毎日』と扇谷正造・編集長が率いる『週刊朝日』が、ガチで部数を競っていた。文字通り、企画力と連載小説で、切磋琢磨しながら部数を伸ばしていく様はまさにドラマチックであった。

・辻平一氏は大阪外語大学露語科を出て、大阪毎日新聞に入社、敏腕記者として健筆をふるった。戦後間もなく、『サンデー毎日』に異動し、ライバルだった『週刊朝日』が、吉川英治の『新平家物語』を連載することによって、飛躍的に部数を伸ばすと、対抗するように『サンデー毎日』は、懸賞小説で発掘した源氏鶏太の『三等重役』を連載し、『週刊朝日』を急追した。懸賞小説から、多くの有能な作家を世に送り出した。文壇に登場した主な作家を挙げてみると、海音寺潮五郎、山手樹一郎、村上元三、山岡荘八、城山三郎、永井路子など後のビッグネームがきら星のように並ぶ。辻一郎氏は、そんな偉大な父君の足跡を辿ることによって、新たな発見もあり楽しい執筆だったようだ。

  ちなみに、辻一郎氏は、僕も受けて受かった、映画会社の東映には入社せず、新日本放送(現・毎日放送)に入社する。主として報道畑を歩き、取材活動にあたる一方、報道番組の制作に携わっている。テレビ番組の制作では、「若い広場」、「70年への対話」で民間放送連盟賞を、「対話1972」、「20世紀の映像」で日本の放送文化の質的な向上を願い、優秀な番組・個人・団体を顕彰する、権威ある「ギャラクシー賞」を受賞している。後年、取締役報道局長、取締役テレビ編成局主幹などを歴任した。退社して後に、大手前大学教授、同志社大学大学院非常勤講師などを務めた方であった。

 
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・さて、京都生まれではなく大阪の生まれだが、もっとも僕の心の奥深く息づいている人がいる。その人が随筆家の岡部伊都子さんである。京都府の北区出雲路のご自宅には、約20回、お邪魔させて頂いた。庭には季節の花々が咲き、出迎えてくれた。季節の変遷とともに、寒椿が咲き、梅が咲き、桜が咲く。馬酔木や射干、初夏には山梔子、紫陽花など、いつも四季折々の草花を丹精されていた。伊都子さんは落ちた花々にも、再び命を吹き込んでいた。大きな水盤に落花を浮かべ、それを楽しむのである。記憶に残っているのは、椿の真っ赤な花が淡い日差しを受けて、水面を彩っていた。それは一幅の日本画のようでとても美しかったのを覚えている。

  岡部伊都子さんは、大正12年大阪の生まれ。大阪相愛高女を病気中退している。14歳で結核を患って以来、病身をいたわりながらこれまで生きてきた。伊都子さんには、最初、「いま、この人」という人物ドキュメントにご登場頂いた。その後、連載執筆をお願いし、お引き受け頂いた時は、有頂天になったものだ。「映すしらべ 未来創る人びと」と題し、美術を通して哲学と愛に満ちた自分の発見、その喜びが未来を創る人々の力となる、というコンセプトで魅力ある人々を1年12回にわたってご紹介頂いた。随筆家への道は、当時、花森安治さんが編集していた『暮らしの手帖』の公募に応じ原稿を送ったことに始まる。病身の身であり、普段着は寝巻であったことから「ねまきの夢」と題したエッセイだった。このエッセイが採用され、随筆家への道が開けたのである。以来、随筆一筋に生きてきた。


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月刊『清流』の「いま、この人」に登場
 
・岡部さんは「私は“加害の女”なんです」とよくおっしゃっていた。「私は一番大切な人を殺してしまったの」と今も悔恨の情を抱き続けている。すでに戦争で兄を失っていた岡部さんに、結婚話が持ち上がった。親族会議では「生きて帰れるかも分からない人と結婚しても……」と反対する声が多かったという。そんな中で母堂がこう言ったという。「ここは伊都子の気持ちに任せるということでどうだろう」と。初めて二人になった時、婚約者は伊都子さんに、こう言ったという。「自分はこの戦争は間違っていると思う。天皇陛下のために死ぬのはいやだ。君や国のためになら、喜んで死ねるけれど……」。その時、婚約者は22歳、岡部さんはまだ20歳にもなっていなかった。「私は本当にびっくりしました。でも、その言葉の意味が分からず、受け入れることができませんでした」。


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連載エッセイ「映すしらべ 未来創る人びと」

・岡部さんは「加害の女」の中でこのように綴っている。
《戦争のため、愛しい男たちを送り出した女たちは、被害者だという気が深かった。けれど戦争で死にたくない男側からみれば、「なぜ、喜んで死ねとばかりに送り出すのか。女なんて、愛するとは口ばかり。当然のように男を殺す側に渡す」と恨めしく思ったろう。その自分の加害にはっきりと気づいた。》と。

・伊都子さんの著書は100冊を優に超える。全集も『岡部伊都子集』全5巻が岩波書店から刊行されている。そして藤原書店からも『岡部伊都子作品選・美と巡礼』 全5巻が刊行されている。藤原書店の作品選の編者は、岡部伊都子さんを尊敬し、熱心な愛読者でもあった落合恵子さんと佐高信氏のお二人であった。この藤原書店の出版記念会が行なわれた際、僕は臼井君と招待されて出席している。藤原書店は主に、歴史、経済学、社会学、女性学等の社会科学全般の専門書や、教養書の出版をしている。僕の目標とする出版社であり、その出版活動には常に注目していた。この選集の内容も造本も素晴らしかった。出席者も岡部伊都子さんにゆかりある人々ばかりだったから、会場の雰囲気からして、フレンドリーなもので、とても居心地がよかった。関係者のスピーチも演奏された音楽も、実に心のこもったいい出版記念会であった。藤原良雄さん(藤原書店社長)にもご挨拶し、本日の盛会を讃辞し、ついでに僕の恩師・椎名其二さんを書いた『パリに死す 評伝・椎名其二』(藤原書店刊)の刊行されたことに感謝していると述べた。

  伊都子さんは新刊が出る度に、サイン本を贈ってくださった。僕は本が届くと、味わいながらゆっくりと読んだ。歩んだ軌跡がもたらすものか、言葉に奥行きがあり重みがあるので、ゆっくり味わって読まないと、理解が及ばず上滑りしてしまうからだ。一貫しているのは、いつも弱者の視点に立ち、温かい眼差しを向けていたこと。僕に心残りがあるとすれば、1年間、連載して頂いたエッセイに加筆修正をしてもらえば、単行本化できたかもしれないのに、それをお願いしなかったことだ。お会いすると、いつも凛とした和服姿で、はんなりとした京言葉が心地よかった。今でもそれが耳朶に残っている。その岡部伊都子さんも、2008年4月29日、肝臓がんで逝去された。享年85であった。謹んでご冥福をお祈りしたい。



●環境アートのクリストとジャンヌ=クロード夫妻


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クリストとジャンヌ=クロード夫妻


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『アンブレア・プロジェクト』のパンフレット


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『梱包されたポン・ヌフ』(1985年)

・僕とも関わりがあった不思議な芸術家を紹介しておきたい。1935年6月13日、同じ日に生まれた、ブルガリア出身の美術家と、環境芸術作家の一人として知られる妻のフランス人美術家ジャンヌ=クロードのおしどり夫婦がいた。2人は、世にも珍しい芸術を編み出した。「梱包芸術」である。一例をあげると、『梱包されたポン・ヌフ』(1985年)だ。セーヌ川にかかるパリの最古の橋を白い布で覆って完全梱包したのである。2週間の会期中に300万人が見物に来たそうだ。


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『梱包されたライヒスターク』(1971–1995年、ベルリン)

・「梱包芸術」は「環境アート」、「ランド・アート」、「アースワーク」、「ヌーヴォー・レアリスム」などと評される。「芸術とは何か」という問いを改めて投げかけた点で、後世に記憶されるであろう。僕が大好きなジャンルの話である。
 
・お二人の「環境アート」、「ランド・アート」の意気込みに、魅せられた人がいる。ヘンリー・スコット=ストークスさんだ。僕より、2歳上の英国生まれで、『三島由紀夫 死と真実』(ダイヤモンド社刊、後に清流出版から改定)を書いたジャーナリスト。彼は、クリストとジャンヌ=クロード夫妻の環境アートに入れ込んで、彼らの『アンブレラ・プロジェクト』(19841991)に深く関わった。

・1991年には、6年間という準備期間を経て、茨城県とカルフォルニア同時に、全部合わせて3100本の傘を立てた『アンブレラ・プロジェクト』が世界の注目をあびた。僕がダイヤモンド社を辞める直前、ヘンリー・スコット=ストークスさんと奥様が来社され、僕にも賛同と協力してほしいと依頼された。具体的には、クリスト夫妻と茨城県の対象地域の土地の所有者を一軒一軒訪ねて、企画の趣旨を説明するのである。その手法は常に美術界ばかりでなく、社会的にも大きな話題を投げかけた。この間、ストークスさんは、文字通り寝食を忘れ、『アンブレラ・プロジェクト』の実現に邁進された。ダイヤモンド社をしばしば訪れたストークスさんは、土地の所有者(地権者)を説得するのに、さらにいいアイデアがないかと聞かれ、僕は「これ以上、ノー・アイデアだ」と答えざるを得なかった。

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『アンブレラ 日本―アメリカ合衆国 1984-91』 日本側会場光景
 
・太平洋を挟んで、カリフォルニアの砂漠地帯に1760本の黄色の傘を、茨城県の水田地帯には1340本の青色の傘を同時期に点在させた。一本の傘の大きさは高さ6メートル、直径約8.7メートルという巨大なもの。1ヶ月弱の会期中に日本で50万人、アメリカで200万人を動員した。しかし、日本は台風シーズンに重なり、傘を閉ざさざるを得ない日が多く、訪れた観客を残念がらせた。このプロジェクトに対し、『高松宮殿下記念世界文化賞』(1995年)を授与された。そのクリスト氏が今年、5月31日、84歳で亡くなった。妻ジャンヌ=クロードさんは、すでに2009年、74歳で亡くなっている。ご夫妻は、日本の自然風景を愛し、アートにしてくれた。ご存じでなかった方は、僕の拙い文章で環境アート作品を観て味わい、末永く心に刻んで欲しい。謹んでご夫妻のご冥福をお祈りしたい。

木村梢さん、佐藤有一さん、小川誠子さん

清流出版 (2020年5月21日 17:52)

●木村梢さん、佐藤有一さん

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出版記念パーティで挨拶する木村梢さん。右側は佐藤有一さん

コロナウイルスの影響で緊急事態宣言が発せられ、僕も外出がままならない状況が続いている。巣ごもり生活を余儀なくされ、ストレスが溜まらないよう生活しようと思うのだが、なかなかそうもいかない。季節はすでに爽やかな風が吹きすぎる5月である。断捨離ではないが、不必要な書類等は処分していこうと思っている。たまたま古い写真関係を整理していて、この風薫る時期に行われた、弊社が主催したある出版記念パーティが思い出された。エッセイスト・木村梢さんと映画評論家・佐藤有一の出版記念パーティである。弊社から『少女の干もの』(木村梢著)、『わが師淀川長治との五〇年』(佐藤有一著)というエッセイ集を出させていただいてのことだった。写真で期日を確認してみると、2000513日に行われたことが分かった。


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2000年に弊社より刊行     梢さんのサイン


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 『わが師淀川長治との五〇年』     2001年に弊社より刊行        


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ペギー葉山さんと梢さん。佐藤有一さんもペギー葉山さんと親しい

・場所はサッポロビールの系列会社が経営する、銀座四丁目のライオン・スターホールであった。スターホールは銀座のど真ん中のビルの8階にあり、銀座が一望できる景色の良さが魅力で、日本初の女性報道写真家・笹本恒子さんの出版記念パーティも確かここで行ったことを思い出した。パーティはきらびやかなものだった。というのも、木村梢さんと佐藤有一さんはその人となりから、広い交友関係があり、数々の著名人も出席してくれたからだ。

  パーティの直前、佐藤有一さんの本『わが師淀川長治との五〇年』を上梓された。前後して4月8日、朝日新聞の紙上に「淀川長治氏と佐藤有一さんの交流記事」が載った。おまけに1年後、淀川長治さんと共著で弊社から『ビデオで観たい名画200選(日本語)』(2001年刊)を刊行された。その本は4年後、光文社へ版権を譲渡したので、儲かるプロジェクトだった。

  そしてパーティには、僕にとって一番会いたかった和田誠さんが参列された。古巣ダイヤモンド社で和田さんの本を出せていただいた。タイトルは、『ブラウン管の映画館』(1991年刊)。しばらくぶりにお会いしたこともあり、お互いの近況を含めて盛り上がり、話し込んでしまった。


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和田誠さんと僕

・梢さんは昨年末にお亡くなりになられたが、何度も月刊『清流』にご登場いただき、お世話になった。妹のクニエダヤスエさんもご登場いただいたことがある。梢さんの父君は流行作家であった邦枝完二であり、「鵠沼小町」などと異名をとったほど美人で知られた。木村功さんと結婚し、そのおしどり夫婦ぶりはつとに知られるところだ。ただ、このご夫妻は育ちの良さから人を疑うことを知らず、マネージャーにお金を使い込まれ、多額の借金を背負うことになった。よく二人で「役者ってほんとに割の合わない職業だね」と話していたというから、本当に純なお二人であった。
  木村功さんの亡き後、梢さんは借金返済をどうしようか、悩み抜いたという。簡単に返せる金額ではない。求人情報誌を買い込んで、必死で職探しをしたこともある。人徳というものであろう。ある編集者からの依頼で、木村功との来し方を綴った『功、大好き』を執筆することになる。これが大ベストセラーとなり、一気に借金を減らすことができた。確か7、8年かけて借金を完済されたのだが、完済し終わってから、あまりの安堵感で数日寝込んでしまったという。梢さんにとって、よほど重荷であったのであろう。出版後、テレビのワイドショーなどに引っ張りだこで随分出ておられたが、功大好きぶりは筋金入りであった。本文中にも書かれているが、「三人の子供より功が好き」と公言するほどの熱愛ぶりであった。そういえば息子さんの木村弘さんがこの本の装丁を担当された。功さんに似て、なかなかのイケメンだったので、褒めたことがあった。すると梢さんは、「功の方が断然美男子だったわよ」と軽く一蹴され、僕は思わず笑ってしまった。梢さんは老衰のために92歳で亡くなられたが、今は天国で功さんとラブラブであろう。ご冥福をお祈りしたい。




●小川誠子さん

・もう一人、書いておきたい方がいる。プロ囲碁棋士の小川誠子(ともこ)さんである。僕も下手の横好きで囲碁、将棋を嗜むが、小川さんは6歳の時に銀行員だった父君から手ほどきを受けた。父君はプロ棋士を目指したことがあり、アマ六段の腕前だったというから、師匠としては申し分ない。娘に生きる術を身に着けて欲しいという強い思いがあり、学校に行く前と帰宅しから囲碁漬けの毎日だったという。休日には碁会所に連れて行かれ、小学校の昼休みには教頭先生に呼び出されて半ば指導碁状態というから半端でなかった。もちろん、小川さんが常に勝っていたという。
  8歳の時、新聞に掲載されていた詰碁の問題を解き応募する。すると「8歳で本当に解けたのか?」と新聞社が家に確認に来たほどとか。本当だと納得すると新聞記者は日本棋院の中部総本部を紹介してくれた。実際に通い始めたのは小学4年生からだった。1965年、14歳の時にアマチュア大会に出て全国優勝する。それ以降「おかっぱ本因坊」と呼ばれるようになり、1966年に木谷實九段に入門する。1970年にプロ棋士となり、1995年に六段。タイトルとしては1979、1980年に小林千寿さんを退けて女流選手権を2連覇。1986年、楠光子を破って女流本因坊を獲得している。1987年には、女流鶴聖戦で優勝した。2008年、杉内寿子八段以来、女流棋士として2人目となる500勝を達成している。「NHK杯囲碁トーナメント」で司会を長年務め、ファンの人気を集めたNHK杯テレビ囲碁トーナメントの聞き手を務め解説をするなど活躍された。


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月刊『清流』「夫婦で歩む人生」


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林海峯さんと小川さんの共著

・なぜ小川誠子さんに思い入れがあるのかというと、月刊『清流』の「夫婦で歩む人生」にご登場いただいたことがあるのだ。俳優の山本圭さんと結婚されて、新居に落ち着かれたころのことだった。人生の不思議さを思うのだが、実は小川さん、小学校時代「私、山本圭さんと結婚する」といっていたとか。友人たちの証言もあるようなので、事実であろう。そして圭さんとの馴れ初めは指導碁だった。圭さんは不調だった時期があり、その時の無聊を慰めるために囲碁を嗜んでいた。所属の俳優座でも囲碁が盛んだったようだ。兄弟子・大戸省三さんが俳優座関係者に囲碁を教えにいっており、小川さんもついて行った事が知り合うきっかけ。さらに不思議にも、東急百貨店のイベントで「囲碁祭り」が開催され、各界の碁キチと女流棋士がお手合わせした、そのお相手がなんと圭さんだった。
  1977年、小川誠子さんと山本圭さんは仲代達矢ご夫妻の媒酌で結婚し、35歳で慧美ちゃんも生まれている。11歳差であったことと、囲碁会のマドンナであったこともあり結婚は大きく話題になった。取材の時に聞いた、圭さんの小川さん評があまりに面白かったので覚えている。誠子さんのことを、「まるで宇宙人のようで飽きない」とおっしゃっていた。どういうことかというと、電車に乗れば、乗り越しはしょっちゅう。買い物をすれば、一度払っているのに、また払おうとしたり。自転車で行ったのに、徒歩で帰ってきてしまう。極め付きは、新居に移って間もない頃、ご自宅に「道に迷ってしまった、どうしよう」と、電話を掛けてきたことも再々だった。そんなエピソードを聞いて、僕はプロ棋士としての矜持、集中力の凄さがこんな形で現れたのでは、と感じ入ったものだ。碁打ちは親の死に目に会えないという。碁はそれだけ奥が深いのだ。一局の勝負に10の40乗という盤面変化がある碁の世界は、まさに人生の縮図を見るようだ。山本圭さんは僕と同じ1940年7月生れである。だが圭さんは聡明な美男子。僕は残念ながら圭さんとの共通点はまったくない。

・小川さんは出産し育児をしながらも囲碁は続け、女流本因坊を獲得している。そのように囲碁に没頭し、忙しかったために圭さんは料理に目覚めたという。この料理について、小川さんは苦笑しながらこんなことをいっていた。「主人も凝り性なので、美味しい料理を作ってくれて有り難いのですが、築地まで仕入れに行って、お金に糸目をつけず好きな材料を買ってきて作るんですから美味しいのは当たり前ですけどね」。こんなお話の端々に、お互いの信頼感や思いやる心情が透けて見え、おしどり夫婦の評判を確認したような気がしたものだ。僕はダイヤモンド社時代、打ち合わせ等でシティホテルを訪れることがあったが、たまにホテル内で小川さんを見かけることがあった。聞くと、財界人に指導碁をされていたようだ。昨年末、病気のため東京都内の病院でお亡くなりになった。享年68はまだお若い。惜しい人を亡くしたものである。謹んでご冥福をお祈りしたい。ご逝去されてすでに半年、今もって、ケーブルテレビのCS700チャンネルで『ありがとう 小川誠子さん【プレミアム版】』という番組を流している。全棋士やファンに敬愛されていらっしゃる証拠だ。この番組は、一ファンとしてもいつまでも流してほしいと切望している。

坪内祐三さん、藤田宜永さん、小池真理子さん

清流出版 (2020年4月22日 14:34)

●坪内祐三さん
 
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・80歳を目前にしていることもあり、回りの身近な友人・知人、また、清流出版にゆかりのある人々などが、このところ多く亡くなっている。今回はそんな人たちへの思いを綴ってみたい。ショックだったのは、“坪さん”こと評論家の坪内祐三さんの死である。僕の古巣ダイヤモンド社の元社長・会長、坪内嘉雄氏のご子息であった。その坪さんが今年1月13日、急性心不全のため東京都内の病院で亡くなった。まだ61歳の若さだった。作家の重松清さんが追悼文に書いておられるように、坪さんの仕事の全貌は「評論家」という枠組みには、収まりきらない人であった。『明治の文学』全25巻を編んでいるし、扶桑社から創刊された文芸誌『en-taxi』の編集同人も務めている。酒好きで知られ、飲み歩きの日々を綴った『酒中日記』(講談社刊、2010年)は映画化もされ、当の本人も出演しているほど。好奇心旺盛でありフットワークが軽く、視点もユニークそのものだった。『週刊文春』では「文庫本を狙え!」、また月刊『文藝春秋』では「人声天語」を連載し、亡くなる直前まで原稿を書き続けていた。僕はこの連載コラムを楽しみにしていたので、読めなくなったのは誠に残念である。
 
 
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・坪さんは、1958(昭和33)年、東京都渋谷区本町に生まれた。早稲田大学高等学院から早稲田大学第一文学部に進み、同級生の藤原昭広さん(『プレジデント』編集長)と同じサークルに入るため、ミニコミ誌『マイルストーン』に参加している。また、大学の先輩のノンフィクション作家・一志治夫と知り合っている。将来の編集者、評論家への萌芽はすでにこの頃から見られている。卒業論文は「一九八二年の『福田恆存論』」だった。その後、早稲田大学大学院英文科に進学、修士課程を修了している。修士論文のテーマは「ジョージ・スタイナー」である。1987年、父君・坪内嘉雄氏の後押しもあり、都市出版に入社して、雑誌『東京人』の編集者となっている。
 坪内祐三さんの卒論の指導教授は松原正教授である。当時、松原正さんは、福田恆存氏の一番弟子を自負されておられた。そして、僕は松原先生の単行本を古巣出版社時代に一冊出させてもらった。書名は『道義不在の時代』(ダイヤモンド社刊、昭和56年)である。僕が雑誌局から希望した出版局に移った翌年に、手がけた企画だった。その時、坪さんは大学院で松原正教授の指導を受けつつ、大空に雄飛する日を夢見て勉学に励んでいたのであろう。

・坪さんは、せっかく入った都市出版だったが、社内事情から3年ほどで辞めてしまう。1991年、『未来』7月号から西堂行人の依頼により「変死するアメリカ作家」(のち「変死するアメリカ作家たち」)の連載を開始し、1993年5月号まで断続的に掲載した。1992年、編集・執筆に携った、朝日新聞社の月刊『Asahi 特集:日本近代を読む「日記大全」』(1993年1月号)が出版となる。1993年、目白学園女子短期大学国語国文科言語コミュニケーション専攻の非常勤講師となり、6年間勤務している。1996年、『週刊文春』誌上で「文庫本を狙え!」の連載が開始。1997年4月、初めての単著『ストリートワイズ』を晶文社から上梓する。2000年には、前述したように『明治の文学』(全25冊、筑摩書房刊)を編集し、最初の配本が始まる。『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』(マガジンハウス刊、2001年)で「講談社エッセイ賞」を受賞。2003年には、福田和也、リリー・フランキー、柳美里氏らと共に参加し、季刊の文芸クオリティマガジン『en-taxi』を扶桑社より創刊する。
 
 
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・坪さんは、福田和也氏とはよほど馬が合ったようで、週刊『SPA!』誌上で酒気帯び時評「これでいいのだ」を10年以上にわたって連載し続けた。これは5冊の単行本にもなって結実している。僕の手許に5冊目の『不謹慎』(扶桑社刊、2012年)があるが、とにかく面白い。酒気帯びで歯に衣着せぬ語り口で丁々発止とやりあうのだから読者にはたまらない。テーマも決めずに酒場で集合するが基本だったというから、テーマはそのときどきの社会状況によって刻々変わる。その日の気分次第で、「震災と原発問題」「金正男」「雅子さま」「市川海老蔵」「ダルビッシュ有」「尖閣列島問題」「相撲八百長スキャンダル」「吉本隆明」「立川談志」などをテーマに、博覧強記の二人が縦横に切り込んでいる。僕が知らなかった文壇の内幕や角界の内情など、興味を刺戟された。巻末には対談10年間で語られた主だった本100冊が解説つきで掲載されている。これを眺めただけでも、知的好奇心を刺激されること必定である。

・月刊『本の雑誌』(2012年6月号)のコラム(『坪内祐三の読書日記』)では、僕の社長退任のことについて書いてくれた。『清流出版から加登屋陽一本はもう出ないのか?』と題する話だ。元々大変な映画好きであった坪さんは、かなりコアな映画関連本を30冊以上出してきた弊社を大変評価してくれた。僕が社長を降板すると、映画関連本が出せなくなるのではと心配してくれたのである。確かに、会社というものはトップが変われば、注力する出版傾向が変わることは当然ある。出版不況の真っただ中ということもあり、僕好みであった映画関係や絵画等の芸術ジャンル、文藝エッセイ等は減少したかもしれない。しかしながら、出版不況の荒波にもまれながらも、実用書を中心に出版点数も絞り込み、重点的に宣伝活動などしながら会社は着実に歩み続けてきた。坪さんが色々お気遣いしてくれたことには、感謝の念しかない。

・その『本の雑誌』の話を、もう少し述べたい。坪さんは、「昭和52年当時、私の父はダイヤモンド社の社長であったが、私は父からよく、加登屋という面白い編集者がいる、と聞かされた。そしてこの加登屋さんは清流出版という会社を興し、次々と面白い本を刊行していったが、清流出版は加登屋さんの手を離れもうその種の本は出なくなるだろうと、先週あるパーティーで会ったTさんに聞かされた。」と書いてくれた。今だから、さんの名前も高崎俊夫さんと明かそう。高崎さんと僕は、趣味も一致、数々の企画を進めた。
 また、その号には、僕にとって大事なことが、坪さんの筆になっている。坪さんが、『帖面』53号(昭和49年)と56号(昭和52年)を読んでいて、以下の文章に注目された。「共に山内義雄の追悼号だが、56号の巻末の近藤信行『山内先生のあたたかさ』のこういう一節に目が止まる。山内先生の教えをうけ、先生の紹介によって椎名さんのもとへかよった加登屋陽一君(現在ダイヤモンド社勤務)は、『椎名其二さんのこと』と題する山内先生の文章を大切に保存していた。」――坪さんは、僕の本質=シイナイズムを見抜いていたと思う。

 
 
●藤田宜永さん、小池真理子さん
 
・ハードボイルドから恋愛小説まで幅広く手がけた、直木賞作家の藤田宜永(ふじた・よしなが)さんも今年1月30日、右下葉肺腺がんで死去した。藤田さんも働き盛りの69歳だった。藤田さんといえば、サングラスと長髪がトレードマークだった。故人の遺志で葬儀は家族で営み、お別れの会は行わないと書かれていた。妻は作家の小池真理子さんである。藤田さんは、1950年、福井県に生まれた。僕と同じ早稲田大学高等学院から早稲田大学に入学するも中退、渡仏し、80年までエールフランスに勤務していた。帰国後、エッセイなどの執筆活動に入り、86年に「野望のラビリンス」で作家デビューしている。90年に長野県・軽井沢へ移住。95年「鋼鉄の騎士」(新潮社刊、1994年)で日本推理作家協会賞を受賞。冒険小説やミステリーで評価を集め、その後恋愛小説も手がけた。99年「求愛」で島清(しませ)恋愛文学賞を受賞した。2001年、中年の洋服仕立職人を主人公に男女4人の絡み合う情念を描いた「愛の領分」(文藝春秋刊、2004年)で直木賞を受賞した。
 
 
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・藤田宜永さんと僕は、同じ高等学院で学んだ。僕がちょうど10歳上になるのだが、数々の点で、話が合って面白かった。とくに二人とも習った春木一(はじめ)先生の話は、授業を思い出して、何回も笑いあった。隠岐島出身の春木先生が、一体なぜ、英語に興味が湧いたのか、現地を訪ねてその根源を是非聞いてみたいと思っていたが、叶わなかった。

・96年には小池真理子さんが「恋」で直木賞を受賞しており、藤田さんの受賞で、初めての夫婦での直木賞受賞者となった。美男美女でおしどり夫婦として知られていただけに、残された小池さんの心痛は察するに余りある。小池真理子さんは、弊社とも関係がある。直木賞作家・村松友視さん、イラストレーターの南伸坊さんと、鼎談『猫族の夜咄』(弊社刊、1999年)を出させて頂いたのである。キャッチコピーも秀逸だった。「だから、あなたに首ったけ!」「“猫派”として人後に落ちない三人が、猫の魅力を縦横に語り尽くした」と帯にうたった。鼎談はお茶の水の山の上ホテルで行われた。村松さんと小池さんは、初対面であったが、そんなことはまったく感じさせないほど、打ち解けた鼎談になった。ほぼ、1日缶詰になって頂いたことになる。笑いっぱなしのような面白い鼎談で、担当編集者だった臼井君は、その後の編集作業でどれをカットするかで四苦八苦したと聞いた。鼎談後は、山の上ホテルのレストランでワインを開け、楽しい宴になったという。
 
 
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・この本の刊行に際して、サイン会を催した。サイン会そのものは、社として何回も開催してきたが、三人揃ってというのは初めてだった。東京八重洲の八重洲ブックセンターで行い、猫好きがサインを求めて長蛇の列を作った。このサイン会で僕は残念な決断をした。今でも心残りだが、会場の混雑を心配し、サインは1人1冊に限るとしてしまった。三人が順番にサインをするから、時間的にも余裕をもたなければと考えたこともある。ところが結構、お三方共に、サインのスピードが速く、弊社の落款押し係の奮闘もあって、とてもスムーズに進行したのである。3冊、5冊と購入して、猫好き仲間にプレゼントしてもよかったわけで、売り損じてしまったのだ。もちろん、増刷にもなり、弊社は十分儲けさせては頂いた本なのだが。
 
 
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・これに味をしめた僕は、臼井君に犬の鼎談も是非進めて欲しいむねを伝えた。臼井君が選んだメンバーは、中野孝二、黒鉄ヒロシ、如月小春の三氏であった。犬の魅力にはまった三人が語る、もう犬のいない生活なんて考えられない、というほどの入れ込みぶり。単なる犬の愛玩話では終わらず、老齢化社会、ボケの問題、孤独までもが話題に上がった内容深いものであった。しかし、犬鼎談参加者の中野孝二さん、如月小春さんはすでに亡く、黒鉄さんを残すのみなのは寂しい限りである。ところで販売実績だが、初刷りで終わってしまった犬鼎談に対し、増刷になった猫鼎談に軍配が上がった。僕は動物にそれほど興味がない。よくよく考えてみると、猫好きは血統書つきであろうと野良だろうと猫好きであるのに対し、犬好きは和犬好きの中野孝二さん、ゴールデンレトリバー好きの黒鉄さん、さらには大型犬と室内犬のような小型犬など、細部に分かれるということなのだ。僕はこの2冊の鼎談本を刊行したことで、いい勉強をさせてもらったと思っている。最期に、坪内祐三さん、藤田宜永さん、お二人のご冥福をお祈りして筆を擱きたい。

フジコ・ヘミングさん

清流出版 (2020年3月24日 15:35)

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2002年 弊社刊

・先日、NHK総合テレビで放送された「ファミリーヒストリー」は、人気ピアニスト、フジコ・ヘミングさんの家族史が取り上げられた。フジコさんについては、弊社から『フジ子・ヘミングの「魂のことば」』(2002年)を出版させていただいたこともあり、人一倍思い入れが強い。僕は根っからのクラシックファンだが、フジコさんのピアノ演奏にはいつも感動させられる。フジコさんの魅力をひと言でいうのは難しい。彼女しか醸し出せない独特の音楽世界に誘われるとでもいったらいいのか。フジコさんに、一番大事にしているものを訊ねたとき、こう答えている。「それは“音”。私だけの“音”よ。誰が弾いても同じなら、私が弾く意味なんかないじゃない」。この言葉に彼女のアーティストとしての矜持が、すべて表れている。極端なことをいえば、フジコさんは譜面通り、完璧を目指して弾こうとしているのではない。
 時にはミスタッチもあるかもしれない。自身、こう言っているほどだ。「私よりもテクニックのうまい人はいくらでもいる。ピアニストの中には、ただ正確に弾くことだけを考えている人が多いわね。でも、はっきりいって、そういう音楽には芸術性はないと思う」。そして天才については、「世間では才能を羨む人がいるけれど、才能とは要するに”独断的な個性が強く、偏った考え方をする”ということでもある。だから往々にして才能は孤独で、社会からは受け入れられない。ある意味で才能に恵まれるということは、不幸なことかもしれないわね」。天才なるがゆえにぶち当たる高い壁、僕はなるほどなあと腑に落ちたのだった。
 
・フジコさんの本づくりに関しては、担当編集者の臼井君に聞いたことがある。完成までには色々と紆余曲折があったようだ。例えば、ヨーロッパの本に慣れているフジコさんは、カバーは捨ててしまってもいいもので、表紙が一番大切と考えている。これは僕もフランスにしばらく滞在したことがあるのでよく分かる。しかし、日本では、表紙はモノクロ印刷でカバーがカラー印刷というのがごく一般的だ。結局、臼井君はコスト高になるけれども、表紙・カバーともにカラー印刷にした。また、帯(本の腰巻)も苦心して売るためのキャッチコピーを考え、デザイナーの西山孝司さんが純白の帯に洒落た文字を乗せたデザインをしてくれたのだが、フジコさんは気に入らなかったようだ。「本は中身を見て納得して買ってもらえればいい、惹句に魅かれてという売り方はしたくない」というフジコさんの意見を勘案して、帯は無しでの刊行となった。
 しかし、この本は30刷を超えるヒット商品となった。すべて結果オーライである。ハンディな新書版の上製本にしたこと、また装画、本文中の猫のイラストなど、すべてフジコさんご本人が描いたものであり、お洒落な本になったのも良かったようだ。出版評論家・井狩春男さんが絶賛してくれたことも大きかった。書評を大手新聞・雑誌等のほか、ご自身の著書でも紹介してくれたのである。その他、共同通信社が地方紙に書評を配信してくれたこと、また、全国各地の生協ルート、フジコさんのコンサート会場での販売、5冊、10冊と自分で購入して、友人・知人にプレゼントしたという人も多かった。通常の書店ルート以外で、これだけ動いた本は他にはない。僕は、コンサート会場で直接、フジコさんの演奏を聴いて、真のアーティストに触れてほしいとの気持ちから、弊社の社員はもちろん、ライターや外部編集者なども含め、よくコンサートに行ったものだ。
 
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2005年 弊社刊

・コンサート会場以外でも、フジコさんにお会いしたことがある。華道家・假屋崎省吾さんの著書『假屋崎省吾の暮らしの花空間』(2005年)を弊社から刊行させていただいたのが縁で、假屋崎さんのブライダル・ファッションショーなどに招待され、担当編集者とよく出かけたものだ。ある時、ファッションショーのゲストとしてフジコさんが登場したことがある。假屋崎さんは大のクラシックファンで、花を活けているときもよく、クラシック音楽を掛けている。特にピアノ曲がお好きなようで、ご自身もピアノ曲をよく弾くという。そしてフジコ・ヘミングさんの大ファンでもあった。恐らくそんな経緯から、ショーのゲストに招聘したのであろう。
 人気者のフジコさんが登場すると、会場の空気は一気に熱を帯びた。観客は少しでも前へ前へと押し合いへしあいしていたが、僕は車椅子だったので、舞台そでから見上げるような位置取りで、フジコさんの演奏を聴くことができた。あの奇跡の『ラ・カンパネラ』(フランツ・リスト)とグリーグのピアノ協奏曲を熱演してくれた。そして演奏を終えて、降壇してきたフジコさんは、真っ先に僕を見つけると近寄ってきて、しっかりと握手をしてくれた。あの手の温もりは今でも覚えている。僕にはいい思い出である。

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フジコ・ヘミングさんと假屋崎省吾さん


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假屋崎さんと僕 担当編集者の秋篠貴子

・番組では、フジコさんの才能を誰よりも信じ抜いた母堂・大月投網子(おおつき・とあこ)さんの執念がついに結実して、フジコさんが晩年近くに大ブレークするまでを追う。投網子さんは、明治36年に大阪で生まれている。父親は明治初頭に国産炭インキを発明した会社(現・東洋インキ)の創業者であった大月専平さんである。フジコさんにとって、祖父に当たる専平さんのインキ製造業の成功により、投網子さんは裕福な家庭で育った。
 明治時代、大阪に暮らす個人宅では珍しい高価なピアノが家にあり、幼いころから慣れ親しんでいた。投網子さんは、さらにピアノの演奏技術を磨きたいとの思いから、音楽教育の最高峰・東京音楽学校(現在の東京藝術大学)への進学を目指す。当時、競争率が約7.5倍という難関を潜り抜け入学。厳しい試験を乗り越え、無事4年で卒業し、実家の支援を受け24歳のときにドイツ留学を果たしている。投網子さんは、留学時代に当時最高のピアノの一つと言われた「ブリュートナー社製」のピアノを購入し、日本に持ち帰っている。このピアノは現在も現役で活躍している。フジコさんが自宅での練習用に今も使用しているのだ。
 
・留学中のベルリンで投網子さんは、7歳年下のスウェーデン人 ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングさんと出会う。ドイツに留学してから4年目のことだった。生まれたフジコさんのファミリーヒストリーは浮沈変転、苦難の連続であった。ドイツでフジコさんが生まれて間もなく、ナチスが勢力を拡大し、自由な芸術活動をするのにさまざまな影響が及び始めるなか、家族は日本で暮らすことを決断する。ドイツでデザイナーとして活躍していたジョスタ・ゲオルギー・ヘミングさんだったが、日本では思うような仕事ができなかった。
 生活に行き詰まった夫婦は口論が絶えなくなり、ジョスタさんは戦争の気配が漂う日本での慣れない暮らしに見切りをつけ、妻と2人の子どもを残してスウェーデンに帰国してしまう。投網子さんはジョスタさんと別れ、幼い子どもたちを一人で育てていく決意を固めたのである。投網子さんは、フジコさんが5歳のとき、何気なく弾いたピアノの音色に驚いてその才能に着目し、ピアノを教えるようになった。それからの投網子さんのレッスンは、スパルタ式の厳しいものだった。
 
・疎開先の岡山県にある、フジコさんの通い始めた小学校には、国産のグランドピアノがあった。戦時中であっても投網子さんは学校に掛け合い、そのピアノでフジコさんが早朝と夕方に練習ができるように頼み込んだ。フジコさんが弾いていたピアノは、今でも総社市立昭和小学校で使われているという。昭和20年、フジコさんが13歳のときに疎開先の岡山県で終戦を迎える。戦前に援助してくれていた投網子さんの大阪の実家は空襲により焼失してしまう。一家の生活は苦しさを増していく。そんな状況下でも投網子さんはフジコさんにピアノを続けさせた。
 フジコさんは16歳のときに、中耳炎をこじらせ、右耳の聴力を失う。それでも聞こえる左耳を頼りにピアノの練習を続けた。母と同じように東京藝術大学に進み、ドイツ留学を目指していた矢先、自身、無国籍者であったことが判明する。29歳になって、避難民としてようやく留学することができた。僕は以前、彼女の壮絶な人生を描いたNHKドキュメント、ETV特集「フジコ―あるピアニストの軌跡」(1999年放送)を観たことがあるが、とにかく彼女の人生は一筋縄ではいかない。
 
・バーンスタインがその才能を認め、後押しがあり、コンサートデビューする直前、風邪をこじらせて聴力をすべて失う。1週間、砂糖水で過ごすというような貧乏体験をし、灯油を買うお金もなく、風邪を引いて聴力を失ったのである。耳が聴こえずしてまともな演奏ができるはずもない。リサイタルは惨憺たる結果に終わった。うちひしがれ絶望の中でどうやって暮らしていけばいいのか。ピアノを弾くことよりなにより、今日食べるために働かなければならなくなった、その胸中は察するに余りある。
 平成5年、投網子さんが亡くなってから日本に帰国したフジコさん。テレビで放映されたのがきっかけで、一夜にして有名人になった。遅咲きの60代で大ブレークし、88歳となった今も世界各地のステージに立ち、人々を魅了し続けている。今も左耳だけ、それも普通の人の30%しか聴こえない。そんなどん底体験を経てブレークした。それだけに今も心に残るフジコさんの言葉がある。
 
《どんなに教養があって立派な人でも、心に傷がない人には魅力がない。他人の痛みというものがわからないから。》
 
 山あり谷あり、苦節60年の苦労人だからこそいえる、珠玉の言葉ではないだろうか。


加藤日出男さん

清流出版 (2020年2月21日 16:58)

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「ふじ丸」船上で挨拶する加藤日出男さん

・2019年12月22日、加藤日出男さんが亡くなった。老衰のため、東京都内の病院で死去したと報じられた。享年90だった。思い返せば、加藤さんと知り合うきっかけは、弊社から刊行された小川宏(2016年11月29日逝去)さんの著書『宏です。小川です――昭和わたく史交友録』(2005年弊社刊)に端を発する。加藤日出男さんとの交友が、エピソードとともに取り上げられていた。加藤さんは、「若い根っこの会」を主宰され、箱根駅伝等で東京農大が出場する時など、「大根踊り」を披露するが、この踊りが加藤さんの発案によるものと知っていたので、機会があればお会いしたいと思っていた。
 
・小川さんはNHK入局後、「ジェスチャー」等で司会を担当、フリーになってからも17年間にわたるフジテレビの人気番組「小川宏ショー」の司会者として「初恋談義」などで同局の看板番組に育てあげた。当然ながら、小川さんの交遊関係は、スポーツ界、歌手・俳優など芸能関係、政治家、科学者、評論家、文化人など広範囲に及び、交友関係における面白いエピソードもいっぱいお持ちの方であった。それに小川さんは知る人ぞ知る「メモ魔」であった。原稿執筆する際は、このメモが大いに役に立ったはずだ。だからその後も弊社から、『小川宏の心に残るいい話』(2008年刊)『小川宏の面白交友録』(2009年刊)などを執筆していただくことになった。

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2005年 弊社刊
 
・加藤日出男さんのプロフィールに触れておく。日本の社会運動家、作詞家、エッセイストとして活躍され、「若い根っこの会」を始めた方であった。1929年、秋田県秋田市に生まれ、秋田鉱専中退後、作男として農村生活に入り、農民運動に情熱をそそいだ。1953年、東京農業大学農学部農業経済学科を卒業し、商社に入社したが間もなく退職、労働青年の交流の場として「若い根っこの会」を結成する。「若い根っこの会」は、発足以来、今年で実に67年目に当たる。
 
・それにしても僕は『大根踊り人生論』(2003年 東京農大出版会刊)を読ませて頂くまで、大根踊りが「若い根っこの会」へと繋がったとは知らなかった。「大根踊り」は1951(昭和26)年に加藤さんが発案したもの。人口に膾炙したのは、翌1952年秋のこと、東京農大の学園祭の宣伝隊が、東京・渋谷の駅前広場の大群衆を前に、「大根踊り」を披露するとともに、大量の大根を都民に無料配布したことにある。まだ敗戦後の飢餓の名残が消え去らぬ頃である。無料で配布された大根がどれほど歓迎されたことだろう。加藤さんは、東京の街にユーモアと明るさを持ち込みたかったのだという。そして大根は純白な根っこでもある。
 
《ひとりぼっちで悲しんでいる根っこ。だれもわかってくれないとねじれる根っこよ、互いに苦しいことを語り合おう。助け合おう。ねじれた根っこをすっきりと地の中へのばしていこう。》 まさにこれが「根っこの会」のルーツなのだ。

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2003年 東京農大出版会刊
 
・加藤さんは、1957年、初の著書『東京の若い根っこたち』(第二書房刊)を発表。これを劇団「民芸」が映画化する。1961年、財団法人「根っこの家」が完成、同年朝日新聞社より「朝日明るい社会賞」を受賞した。1961年、雑誌『若い根っこ』を創刊、現在刊行の月刊誌『友情 Dream』に発展した。1972年、「グアム・サイパン南十字星洋上大学」を開催。以後、これまで39回就航し、すべて団長を務めてきた。文部省教育映画審査審議会委員、都青少年委員などを歴任、またMRA世界大会代表として渡米もしている。
 
・加藤日出男さんは、ラブコールに応えて、弊社に僕を訪ねてきてくれた。その際、単行本のタイトル案と原稿用紙数枚分のレジュメを持参していた。80歳を目前にしながら、正に「生涯青春」を地でゆくような、加藤さんの若々しさに僕は感心させられた。そもそも加藤日出男という人物に惚れ込んでいたし、「若い根っこの会」の後押しがあれば十分売れると踏んだ。だから同席していた出版部の臼井君に単行本化を進めるよう指示した。それが『生涯青春――いのちよ、ありがとう』(2007年 弊社刊)である。この本の中に、「若い根っこの会」が生まれた基本理念が書かれている。素晴らしい理念だと今も思う。
 
《美しい花をみて 根っこを思う人は少ない。少年の日、書いた詩の冒頭の一節である。そして若い根っこの会を創始した。その時、二十三歳だった。いつしか七十七歳をすぎ、今も若い根っこたちの喜怒哀楽の海につかっている。数世紀を生きてきた巨木をみて、人は、そのたくましさに圧倒される。きびしい風雪に耐え、人間の一生を、何回と、みつめて、生きてきたからだ。だが、巨木をささえてきた“根っこ”を思う人は少ない。
  根っこは、巨木が、森をなす数十万枚の葉っぱや、それを宿す、複雑に、からみあった枝々に、栄養をおくりつづけてきたのだ。根っこにも、地中から、もりあがった巨根もある。が、一番大切な、地中に、はりめぐらし、水分や養分を吸収するのは、一番末端の毛根たちなのだ。この毛根たちこそ、働き蜂なのだ。これらの毛根が、朽ちはててゆくと、巨木も、ある日、どうと倒れてしまう。》

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2007年 弊社刊
 
・高度経済成長期に「集団就職」として地方の中学・高校の卒業生たちが、臨時列車に乗って上野駅、大都市圏に働きに出てきた。その得難い労働力は「金の卵」と呼ばれた。まさに加藤さんのいう末端の毛根として日本の高度成長期を支えてきたのである。そんな地方出身の若者たちの拠り所として、「若い根っこの会」は大きな礎となっていく。
 
・加藤さんとの関係は、単行本を出しただけでは終わらなかった。実は加藤さんは「グアム・サイパン南十字星洋上大学」を40年にあまりにわたって実施していた。そのパンフレットを見せてくれたのである。僕はこの洋上大学に大いに興味をそそられた。飛行機で行くようなあわただしい旅行ではなく、ゆとりのある船旅である。多くの講師陣はじめ、参加者との触れ合いは、気分転換にもなるし、斬新な単行本企画も浮かぶかもしれない。そんな読みもあり、参加を申し込んだ。加藤さんは、船内でサイン会を開催して弊社の本の販促にも一役買ってくれるという。その熱意にも僕はほだされた。

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歓迎式典で挨拶する加藤さん
 
・5月の大型連休にからめた9泊10日の船旅である。船は豪華客船「ふじ丸」。総排水量2万3235トン、全長167m、船幅24m。日本のクルーズ客船の嚆矢として、1988年に三菱重工業神戸造船所で進水、翌1989年の4月に就航した。就航時、日本籍では最大の客船であった。展望大浴場が設置され、これはその後の日本籍クルーズ客船の標準となっている。 当初は主にレジャークルーズに使われたが、2002年に運航が日本チャータークルーズに引き継がれ以後は、自治体・企業・団体向けのチャータークルーズが中心となった。
 
・2007年の洋上大学は39回目に当たり、結果的に最後の洋上大学実施となった。弊社からの参加者は、臼井出版部長、斎藤勝義・海外版権担当顧問と僕の3人だった。見渡す限りの紺碧の波を蹴立て、船はひたすら南下していく。上部デッキには、強い日差しが照りつけ、夏の暑さが好きな僕は大満足だった。総勢は、研修生(洋上大学なのでこう呼ぶ)が400名弱、それに乗務員が100人強。総勢500人を超えた。加藤団長の綿密なカリキュラム編成で、毎日、変化に富んだイベントがあり、飽きることがなかった。また、加藤さんは僕らの心意気に対して、様々な配慮をしてくれた。展望大浴場を3人だけで使わせてくれ、ナイトキャップの差し入れも数回に及んだ。そんな気遣いをされる方だった。

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秋草鶴次さん(右端)と船長と僕
 
・この旅行には、加藤団長の計らいで、ベストセラー『十七歳の硫黄島』(文藝春秋刊)の著者・秋草鶴次さんが特別ゲストとして招待されていた。玉砕の硫黄島から生還された秋草さんの講演を聞いて、思わず僕は涙がこぼれた。秋草さんは栃木県足利市の農家の長男として生まれ、17歳の時、玉砕を運命づけられた硫黄島に海軍通信兵として配属された。十分な飲み水も食べ物もない極限状態を生き延びなければいけない。生死の境をさまよいながら、一番安心できる食べ物といえば、自分の体に湧いたウジだったというから、その過酷な運命には言葉もない。非情で過酷な状況に耐え、そして生き抜いた方であり、いかなる人物なのか僕は興味を抱いたものだ。

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戦友と歌を歌う秋草さん(中央)、左端は加藤日出男さん
 
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『十七歳の硫黄島』文春新書刊(2006年)、『硫黄島を生き延びて』(2011年 弊社刊)
 
・秋草さんは復員後、悲惨極まる戦争体験を原稿用紙1,000枚以上にわたって綴っていた。しかし、ご両親には一切見せず、大切に保管してきた。2006年夏、NHKが放送した『硫黄島玉砕戦 生還者61年目の証言』で取材に応じるまで、秋草さんはじめ多くの元帰還兵は、硫黄島での惨状に一切口にせず、沈黙を守った。2008年9月、在日米軍の計らいで硫黄島を訪問した秋草さんは、63年ぶりに地下壕の入口の前に立ち「ここに戦友がいるんだ」と慟哭した。沈黙を破り、戦争を語ることは、戦争を生き抜いた人にとって、もう一つの闘いだったと思い知らされた。秋草鶴次著『硫黄島を生き延びて』からは、戦争の悲惨さ恐ろしさが伝わってくる。「あとがき」にこうある。
 
《正しい戦争、聖戦などというものが本当にあるのだろうか? 私には信じられない。あの戦争は一体なんだったのか? (中略) 南方等の戦場で失われた300万を超す命は、この世の平和の柱となって現世を支えている。残酷な戦争の果てに散華された命を私は思う。我々は平和を託されている、と私は理解する。》
 
・全国各地で戦争の悲惨さを伝える講演を精力的に行ってきた秋草さんも、2018年3月30日、泉下の人となった。広島、長崎、沖縄などでも、悲惨な戦争体験を語れる人が亡くなっていく。戦争の悲惨さを語り継ぎ、風化させないためにも、秋草さんの遺言にも似たあの言葉をもう一度、噛み締めなければなるまい。《残酷な戦争の果てに散華された命を私は思う。我々は平和を託されている、のだと》。

安原顯(通称ヤスケン)さん

清流出版 (2020年1月23日 17:51)

・コラムの内容を考えているうち、この1月20日が安原顯(通称:ヤスケン)の命日にあたることを思い出した。2003年に亡くなっているから17年も前のことになる。働き盛りともいうべき63歳という若さでの旅立ちだった。僕の頭の中には、今でも生き生きと活躍していた在りし日のヤスケンが息づいている。「天才ヤスケン」「スーパー・エディター」などと自称し、中央公論社の歴史の一端を担った『海』『マリ・クレール』の編集者として活躍していたころのヤスケンのことが思い出される。ヤスケンと僕は早稲田大学高等学院の同級生だった。だがヤスケンのほうが一つ年上だった。というのも、戦前は女子校であった東京都立八潮高等学校に進学したヤスケンだったが、「元女子校に通う」というのがお気に召さなかったようで、半年後には同校を中退し、僕が通っていた早稲田大学高等学院へ再入学してきたのだった。


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ヤスケンと通った早稲田大学高等学院(現在の建物)

・そもそもヤスケンはなぜ編集者の道を選んだのか。ルーツをたどってみると、高校時代からアヴァンギャルドにかぶれ文芸部に席を置き、校友会雑誌にコンサート評などを載せていたから、書くことには興味があったのだ。早大仏文科在学中の20歳のころ、教授の坂崎乙郎(西洋美術史研究家・美術評論家)に私淑していたヤスケンは、あらゆるアートが活気に満ちていた1960年代、アート全般について評論のようなものが書け、それでメシが食えたらと夢見ていたらしい。そして21歳のとき、のちに妻となる早大文学部の筑土まゆみさんと出会う。まゆみさんの父君は、僧侶で宗教民俗学者の筑土鈴寛(つくど・れいかん)である。まゆみさんはデビュー作「太陽がいっぱい」でアラン・ドロンの恋人役を演じ、一躍フランスのアイドルとなったマリー・ラフォレ似の美人で、ヤスケンは見せびらかすように、よく大学キャンパス構内を一緒に歩いていたものだ。
 
・まゆみさんは、親族の大反対を振り切るようにヤスケンと同棲し、大学卒業後は、電通に就職してコピーライターとなり、森永乳業に派遣されていた。初任給2万8000円ということで、当時としてはかなりな高給取りである。さらに電通は授業料を払って、「久保田宣伝研究所」に半年間まゆみさんを通わせ、プロとしての基礎技術に磨きをかけていた。ヤスケンはといえば、大学を中退しフリーターをしていたが、「女に食わせてもらう」ことにプライドを傷つけられ、まゆみさんに折に触れ「会社を辞めろ」と言い立て、1年後には本当に退社してしまう。電通側もこれには怒り心頭だったらしい。金をかけて基礎技術を教え、さあこれから回収するという矢先に、辞められてしまったのだから。
 ヤスケンはといえば26歳のとき、貧乏時代の池田満寿夫に勧められ、雑誌『早稲田公論』を出版していた出版社に入社する。これが編集者としてのスタートとなった。ヤスケンの編集的センスの良さはこの頃から垣間見える。実際、総合雑誌志向だった『早稲田公論』を文藝雑誌的に変えたのはヤスケンであった。中村光男、高橋和巳、いいだももといった各氏に小説を依頼し、気に入ると同人雑誌からの再録も行った。しかし、『早稲田公論』は廃刊となり失職する。ミュージック・マンスリー社、竹内書店を経て、1969年、中央公論社に入社する。中央公論社に入社した事情については、同僚だった直木賞作家・村松友視氏の『ヤスケンの海』(幻冬舎 2003年 のち文庫再刊)に詳しい。簡単にいえば『海』の編集に携わっていた村松氏が編集長と折り合いが悪く、異動を申請していた。その後釜としてヤスケンが入社することになっていたのだ。
 村松氏は『ヤスケンの海』でヤスケンの「いい加減で破天荒」なキャラクターを綴り「過剰な読者+過剰な編集者」の目線で雑誌が作れる、有能な編集者であったと評している。また、妻のまゆみさんについて、ヤスケンを広く包んだスケールの大きな「人物」として描いている。なお『ヤスケンの海』文庫判の表紙に描かれたヤスケンの似顔絵は、村松氏が描いたものである。
 
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『ヤスケンの海』単行本と文庫版(幻冬舎刊)

・僕は、ダイヤモンド社に入社し、週刊「ダイヤモンド」の取材に精を出していた頃である。僕も文藝路線にはもともと興味があったから、ヤスケンの仕事ぶりは遠くから注目し続けていた。ヤスケンが『海』の編集者をしていたのは1969年から83年の14年間だったが、文藝誌全般に対して警鐘を鳴らし続けていた。編集者と作家がともにサラリーマン化したことに原因があると喝破していた。だから「パワーアップの可能性を秘めた作家や作品に出会うことはほとんどなくなりつつあった」と述懐している。「パワフルな新人が出にくい理由の一つに、新人賞選考委員らの眼力のなさもある」の言は、後に大江健三郎をぶったぎった事件に繋がってゆく。ヤスケンは編集部在籍中に『レコード芸術』に執筆したコラムで大江健三郎氏を罵倒したのだ。そのため大江氏は1年間、中央公論社が主催する谷崎潤一郎賞の選考委員を辞退する事件に発展したのである。
 ヤスケンは無類の小説好きであったが、単なる小説フリークではなかった。映画を観て、ジャズやクラシック音楽を聴き、展覧会にも足しげく通っていた。後年になると、ジャズ評論も手がけ、CS衛星ラジオミュージックバードの番組「ヤスケンのギンギン・ニューディスク」でDJをつとめ、また寺島靖国の「PCMジャズ喫茶」にも毎回ゲスト出演していた。オーディオマニアでもあったのだ。綾戸智絵をいち早く評価するなど、常に芸術全般の新しい才能に目を向け続けた男である。ヤスケンの舌鋒の鋭さもそうした裏付けあったればこそだと思われる。
 ヤスケンの関わってきた雑誌『パイデイア』『海』『マリ・クレール』の三誌によく登場していたのが吉本隆明と蓮實重彦の両氏である。特にインタビュー記事等に関しては、蓮實重彦氏にとにかく世話になった、とヤスケンも書いている。1968年『パイデイア』夏号に「私にとって映画とは何か」のタイトルでアラン・レネのインタビュー記事が掲載されている。この翻訳が蓮實氏との最初の仕事だったようだ。1970年代は『海』に毎月といっていいほど登場している。ヤスケンは吉本隆明邸にも通っていたから、吉本ばななは4歳くらいの頃から知っていた。ばななの『海燕』新人賞を取った「キッチン」を読んで感動したヤスケンは、すぐに連載小説を依頼する。それが200万部を超えて大ヒットとなり、山本周五郎賞を受賞した「TUGUMI」である。

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中公文庫刊

・この作品が大成功した要因の一つが、挿し絵画家の人選にあった。ヤスケンが好きだった版画家の山本容子氏に依頼したのだった。毎号2点ずつ挿し絵を入れ、お洒落な頁レイアウトになっていた。単行本にしたときの装画も山本容子氏に依頼した。ヤスケン、吉本ばななともに、単行本の売れ行きの30%は、彼女の装画のお蔭と絶賛している。その他にもヤスケンが一押しした作家は数多い。島尾敏雄・ミホ夫妻、レイモンド・カーヴァを特集し、訳・解説した村上春樹氏、小林信彦・荒木経惟コンビによる「私説東京繁盛記」など、スーパー・エディターの面目躍如たるものがある。ヤスケンは、僕も公私ともにお世話になった辻邦生氏とも親しかった。僕も30歳頃、辻邦生氏に原稿を依頼したことがあり、以来、何かというとお声がかかり、池袋の喫茶店で楽しく会話をしたことが懐かしく思い出される。
 
・1984年5月号をもって『海』は終刊となる。ヤスケンは売れ行き不振で廃刊寸前だった『マリ・クレール』に移り、同年6月号から副編集長となる。いつ廃刊になってもおかしくない、瀕死の状態の『マリ・クレール』であればこそ、社を辞めずに人事異動を受け入れたというのが、いかにもヤスケンらしい。それまで一貫して、フランス語版『マリ・クレール』を翻訳するだけで、オリジナルな自主企画など一切なかった同誌に風穴を明ける。先ず、「書評欄」を新設し、さらに同年9月号で「特集:読書の快楽」を企画したところ、当時の「ニューアカデミズム」ブームで「知がおしゃれ」だったことも追い風となり、雑誌は完売となる。以降も同様の拡大路線を続け、『婦人公論』のビジュアル版といった趣だった女性ファッション誌を「知的な思想・文芸雑誌」に変貌させたのである。ヤスケンが『マリ・クレール』時代に、これはと見込んで後押しした人たちについても触れておきたい。まず小川洋子氏だが、吉本ばななと同様に『海燕』の新人賞でデビューしたが、2作目の「完璧な病室」を読んで感動したヤスケンは、連載小説を依頼する。それが「シュガータイム」だが、ヤスケンの思惑通り、期待以上のいい作品となった。
 
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中公文庫刊

 富岡多恵子氏は、ヤスケンが二十歳頃からの知り合いで、処女作「丘に向ってひとは並ぶ」は『中央公論』誌に掲載されたが、その後は『海』で独占的に掲載し続けることになった。新人作家に連載小説を依頼したのは、彼女が初めてだったとヤスケンは書いている。初の連載小説だった富岡氏の『植物祭』は、後に田村俊子賞を受賞することになる。中条省平氏は、僕も親しくお付き合いさせて頂いているが、ヤスケンはいち早くその才能を見出していた。書評、映画評、ジャズ評と、様々な原稿を依頼していたが、フランスでの学位論文が「バルベー・ドールヴィイ」だと知る。この作家についてヤスケンはほとんど知らなかったが、日頃の文章や人柄を通して中条氏を信用していたので面白いに違いない、との確信を持ち連載を依頼したという。その後の活躍ぶりについては、皆さんご承知の通りである。
 
・飯島洋一氏(詩人である飯島耕一の子息)は、大手ゼネコンに勤めていたが、話を聞くと将来、建築評論家になりたいという。そこでヤスケンは編集長を口説き落として、カラー1頁の「建築コラム」の連載を依頼する。このコラムをきっかけに『SD』誌に連載が決まり、『光のドラマトゥルギ― 20世紀の建築』(青土社)として一冊にまとめられ、『マリ・クレール』の連載コラムも『37人の建築家 現代建築の情況』(福武ブックス)として結実した。ヤスケンがその才能を引き出したことにより、飯島氏も見事に羽ばたいたのだ。『マリ・クレール』での特集は、多くが、角川書店時代から親交のあった見城徹(現・幻冬舎社長)に依頼し、角川文庫で刊行されることになる。
 
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清流出版で復刊した2冊の単行本

・僕が清流出版を立ち上げ、月刊『清流』を刊行するとともに、出版部を発足させ好きな文藝路線も拡充していた。そして風の便りにヤスケンが闘病中であることを知った。それまで僕は、ヤスケンの仕事ぶりを遠くから眺めていただけだったが、闘病生活をしているとなれば、少しでも手助けしたい思いが募った。そこでヤスケンが信頼する井上俊子嬢に編集をお願いし、装丁家もヤスケンお気に入りの山田英春氏に依頼して『読んでもたかだか五万冊』と『ふざけんな人生』(共に倒産したジャパンミックス社刊行)を清流出版から復刊することにした。と同時に、月刊『清流』でも「ファイナル・カウントダウン」として「ヤスケンの編集長日記」を死ぬまで連載してもらおうと決めたのだ。この編集長日記で「癌告知と余命一ヶ月である」ことを公表することになる。
『ヤスケンの海』で月刊『清流』の連載について、村松氏はこう書いている。
《「ヤスケンの編集長日記」には、あきらかにヤスケンらしいリズム、愛嬌、そして屈折したやさしさがあらわれていた。これを読んで私は、ヤスケンは、自分の読者=編集者としての魅力が発揮できるメディアと、ようやく遭遇したという思いを抱いた。ヤスケンの夢を実現するためには、「ヤスケンのやることを十分に理解し、ヤスケンの性格を大きく受け入れ、ヤスケンの仕事の心強いうしろ楯となり、ヤスケンの失敗に寛容で、巨万の富をもっている経営者が不可欠」だと、これまで私は思っていた。(中略)ところが、出版界という領域を超えたホームページを自分の“会社”とすれば、読書人としてはこれまで通り満喫できるし、編集者としてのトラブルはいっさい生じない。ヤスケンは、その中で気ままに読者と交信することができるのだ。その仲間の数は、今でこそ限られているが、いつヤスケンの想像を超えた広がりをみせるか分からないではないか。》 ヤスケンに自由に書いてもらうための場を提供したことについて、村松氏にこんな風に書いて頂いたことを嬉しく思う。

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ヤスケンの絶筆となった編集長日記『ファイナル・カウントダウン』(弊社)

 それまで僕はヤスケンに褒められたことなどなかったのだが、連載誌面で《「持つべきは友!」と超感動している。加登屋君、有難う!》と書いてくれた。発言の場とともに、ヤスケンの癌闘病中にかかる経済的負担の軽減に多少なりとも協力できたことに僕は満足している。スーパー・エディターだったヤスケンだが、天国にいっても、相変わらず罵詈雑言をまき散らしているのではないだろうか、と僕は夢想している。ヤスケンよ、僕も齢80になるから、そのうちそっちにいくよ。そしたらまた、立て板に水の如く、小気味のいい罵詈雑言をしばらくぶりに聞かせてくれ。

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