加登屋のメモと写真…

和田誠さん

清流出版 (2019年11月27日 11:27)

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僕が編集した『ブラウン管の映画館』(ダイヤモンド社刊、1991年)

・10月7日、和田誠さんが肺炎でお亡くなりになった。享年83であった。僕は和田さんの大ファンを自認していただけに、訃報を聞いてショックを受けた。和田さんの偉大さはいうまでもない。イラストレーター、装幀家、エッセイスト、映画評論家、映画監督、翻訳家など、肩書をどうすればいいのか分からないほど、活躍分野の広さにまず驚かされる。和田さんは『週刊文春』の表紙を40年以上にわたって描き続けてきた。その数、2000枚だという。僕も『週刊文春』は好きな週刊誌で読み続けてきたが、表紙画は一目で和田さんが描いたとわかる。一番初めに描いた1977年5月5日号に和田さんは小鳥を描いている。そして2000枚目の2017年7月27号の表紙は、最初に描いた小鳥が空を飛んでいる絵である。こうしたお洒落な遊び心を持ち続けた人であった。

・共に絵本を作るなど、親交の深かった詩人の谷川俊太郎さんは、和田誠さんを悼んで「Natural」と題した詩に詠んでいる。

 Natural  和田誠に
 
 君は過去になれない男
 目の前からいなくなっても
 いのちにあふれた絵とデザインに
 君は軽々と生き続けている
 
 ひとことで言えば君には
 naturalという英語がふさわしい
 自然という日本語だけでは
 捉えきれない君というヒトの巧み
 
 君のカラダとココロの深みにある
 涸れることのない笑みの泉が育んだ
 みずみずしい木陰で私たちは憩う
 
 意味を問いかける前に
 君は線で色で形で機知で答えてくれる
 ここでそしてまた未来のどこかで
 
(詩人・谷川俊太郎)
 
・ロックバンド「トライセラトップス」の和田さんのご子息・和田唱さんは、ご自身のツイッターにこんな追悼文を寄せている。少し長いがとてもいい追悼文なので引用させていただく。

《親父が天国へ旅立った。最近は日々具合が悪くなっていったから、どこかで覚悟はしていたけれど、同時に奇跡が起きることも願っていた。でもそれは叶わなかった。今思えば、きっと親父なりに、ベストなタイミングでの旅立ちだったんだろう。(中略) 親父は映画を教えてくれた。ジャズを教えてくれた。ルールに縛られないこと、好きなものは好きでいいこと、自分がこうだと思ったら貫くことを教えてくれた。お蔭で俺は幸せな人間だ。だから明るくサヨナラをしたい。それが和田流だ。でも魂は死なないし、心にその人がいる限り、どのみちサヨナラなんてない。肉体的なしばしの別れに過ぎないから、「おとう、またな!」くらいにしておこう。でもThank YouとI Love Youは添えておくよ》

・実に心のこもった素晴らしい追悼文である。子どもたちに父親として立派に背中で生き様を見せ、人生の指針となるような言葉も伝えている。僕にも男の子が二人いるが、子育てに関しては忙しさにかまけて、肝心な部分は女房任せにしてきた負い目があり、忸怩たる思いをしてきた。その意味でも和田さんは立派である。

・和田さんは映画に関しての著作がたくさんあり、僕も古巣のダイヤモンド社時代に映画エッセイ『ブラウン管の映画館』を執筆していただいた。無類の映画好きである和田誠さんが、放映予定の映画の中から、気になる作品をピックアップし、解説するという趣向であった。元々は、1987年9月から1990年10月までの3年に渡り、ダイヤモンド社のTV情報誌『TV Station』に連載されたコラムを中心に加筆修正してまとめたものである。取り上げられている作品数は、実に700本強に及ぶ。そのほとんどが、往年の名作を始めとする著名な作品であった。本文中のイラストがまた秀逸であった。

・和田さんの文は平易でさらりとしたものながら、作品そのものとその周辺にまつわる話なども織り交ぜて、貴重な情報を余すところなく伝えている。もちろん装幀・装画は和田さん本人であり、とてもお洒落で粋な作りとなった。その後、文藝春秋から全7巻に及ぶ『お楽しみはこれからだ――映画の中の名セリフ』(Part 1は1975年6月)の刊行が始まるが、判型・体裁ともにダイヤモンド社の装幀を踏襲したスタイルで統一され、一緒に並べても違和感がまるでない。


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文藝春秋から刊行された『お楽しみはこれからだ』シリーズ

・僕は和田誠さんと本作りを通して、お付き合いしていた頃を再確認したくなって、古い1991年のメモ帳を引っ張り出した。それによると、『ブラウン管の映画館』は1991年6月に刊行されたもの。その年は、和田さんの企画のほかにも、同時進行で、徳岡孝夫、鈴木主税、上田惇生、正慶孝の各氏に翻訳をお願いしていた。いずれも分厚い翻訳書だった。またイギリス出身のジャーナリストでニューヨーク・タイムズ東京支局長であったヘンリー・スコット=ストークス氏には三島由紀夫本のオリジナル版を書き下ろし、徳岡孝夫さんに翻訳を頼んだ。さらに大好評であったポール・ボネ名義の『不思議の国ニッポン』シリーズ(全22巻に及んだ)の著者は、実は藤島泰輔(平成天皇のご学友、『孤獨の人』の著者、藤島ジュリー景子ジャニーズ社長の父親)さんであり、宿泊先のホテル(最初はホテルオークラ、次はホテルニューオータニのスイートルームを定宿)に度々訪ねた。藤島さんには、月に数度、執筆内容の相談し、終わると昼間なのに2人で酒や葉巻を嗜み、競馬や映画、政治などのおしゃべりした。

  この年は、まだまだある。クロイワ・カズ氏へのイラストの依頼をし、『香港極上指南』(ホテルやレストラン、ショッピング等を格付けする企画)や『妊娠カレンダー』の企画なども進行していた。当然のことながら、本作りにデザイナーは欠かせない、鈴木一誌、川畑博昭さんなど優秀なデザイナーとのやり取りもしていた。メモ帳の細部を見ると、つくづくこの頃は忙しかったことがよく分かる。そんな合間を縫いながら、和田誠さんの本を進行させていた。初校(1月9日から)、再校、三校、青焼き、色校のチェック、下版作業などがあり、ほかにカバー、栞(しおり)、ポスター、著者謹呈カード等の手配もしていた。とにかく超多忙だったことは確かだ。あの喧噪の時代を懐かしく思い出した。

  結局、和田さんの本は、ご本人には著者校として三校までじっくり見ていただき、カバーデザインの色校チェックと宣伝ポスターなどもお願いしている。そして5月30日に見本が出来上がっている。6月11日には、和田さんの新居のお披露目に合わせて、この本の出版記念パーティも開かれた。ゲストは僕のメモ書きによれば、篠山紀信夫妻、デューク・エイセス、キング・ファイブ、田中一光氏のほか、各社の和田さん担当編集者10名位が参加していた。美味しい料理とお酒を飲みながら、スライド説明やそこここで談論風発する楽しい宴となった。古いメモ帳は30年前の自分を見直す機会を与えてくれた。人間関係における懐かしさとともに楽しい思い出も蘇ってきた。しばし、これこそ編集者という職業の醍醐味に浸った。

・和田さんの奥さんは料理愛好家の平野レミさん。お二人は、会って1週間ほどで結婚を決めたというから、お互い「あ、この人だ!」と直感したのであろう。それから47年のときが過ぎた。僕も何度かお会いしているが、本当に仲の良いご夫婦だった。その平野レミさんが11日、事務所を通じてコメントを発表している。全文は以下の通り(原文ママ)。
《1年ほど前から体調を崩し自宅で療養していました。7月より都内の病院に入院していましたが、肺炎を患い、最後は家族みんなに見守られながら、安らかにお別れをしました。肺炎を患ってからはご飯を食べられなかったので、和田さんが好きなご飯をたくさん作って、安らかな顔の横に置いてあげました。 最後の料理を作っている時はすごく幸せで、『私にとっての一番の幸せは、和田さんにご飯を作ることだったんだ』と改めて気付きました。47年間、私の料理を美味しい美味しいって食べてくれて、本当にありがとう。安らかにね。》

 
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和田誠監督作品『麻雀放浪記』
 
・映画監督としても印象深い作品を世に残された。デビュー作は『麻雀放浪記』だった。その日に撮る絵コンテが素敵で、役者やスタッフに出すととても好評だったと大竹しのぶさんも語っている。僕は麻雀が大好きでダイヤモンド社時代は、親しい仲間たち(ほぼ10名)と毎日のように雀卓を囲み、チイ、ポンを繰り返し、午前様でタクシー帰宅していたものだった。だから阿佐田哲也氏の原作本も楽しく読ませていただいたし、映画は和田さんの眼が隅々まで行き届いた映像美で、見事な出来だった。

・キャストは真田広之(坊や哲)、鹿賀丈史(ドサ健)、名古屋章(上州虎)、加賀まりこ(クラブのママ)、大竹しのぶ(マユミ)、加藤健一(女衒の達)、篠原勝之(禿げ)、天本英世(鉢巻)などを起用し、和田さんがとことん細部にこだわった映画だ。映画の舞台は戦後間もない東京上野。麻雀に打ち込む若者(坊や哲・真田宏之)が、様々な勝負師との出会いを通して成長していく姿を描く。わけてもゴロツキのドサ健(鹿賀丈史)との軽薄な友情関係の中で麻雀賭博に身を投じていく。ドサ健はマユミ(大竹しのぶ)という恋人と同棲しているが、負けが込んだドサ健は、マユミと住んでいた親名義の土地の権利書まで持ち出すのだ。僕が知りえなかったギャンブラー心理の底なしの奥深さ、人間の業の怖さなどが描かれた珠玉の名品であったと思う。まだ話し足りない気分だが、映画評論は専門家に任せることにしよう。

  この『麻雀放浪記』のほか、監督作品としては『快盗ルビイ』(1988年)、『怖がる人々』(1994年)、『しずかなあやしい午後に』(1997年)、『真夜中まで』(1999年)などがある。お亡くなりになった後10月20日(日)には、CSチャンネルで和田誠監督を追悼する特別番組が組まれ、『真夜中まで』が放映された。僕も懐かしくて、録画を何回も観た。

・清流出版でも和田さんに単行本の装丁をお願いしたことがある。それは『犬は東に 日は西に』という犬の鼎談本であった。中野孝次、黒鉄ヒロシ、如月小春の三氏にご登場いただいた。山の上ホテルでほぼ半日がかりで収録した。単なる犬好き談義に留まらず、高齢化社会、死生観などにも言及した、内容的にも深いものであった。編集担当したのは臼井雅観君で、装丁者を誰にしたらいいかと相談されたとき、僕はすぐに和田誠さんを推薦した。


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清流出版刊行の鼎談本『犬は東に 日は西に』

・実は和田さんに装丁をお願いするに当たっては問題があった。それは「バーコードはデザイン上好ましくない」を持論とする和田さんは、カバーの裏表紙にバーコードが入るのを好まなかった。だから各社とも和田さんに装丁を依頼するときは、それぞれ腐心したものだ。通常、書籍のバーコードは裏表紙のカバーに直接印刷されるが、これを嫌った和田さんのデザインは、ISBNの数字のみが表示されたデザインを採り入れていた。結果、バーコードは帯に印刷されることが多かった。
  帯にバーコードを入れない場合は、バーコードを別版にして貼り付けて、購入してすぐに剥がれるようにするケースが多かった。このように面倒なことになるのだが、それでもお願いしたのは、装画・装丁ともお洒落な本になることは目に見えていたからだ。案の定、出来上がりは最高だった。犬のイラストと書き文字のタイトルが絶妙に配されていた。もちろん、評判も上々で販売実績も満足のいくものであった。実は猫の鼎談本も村松友視、小池真理子、南伸坊の三氏で刊行したのだが、本当は和田さんに装丁をお願いしたかったのだが、なにせ南伸坊さんが登場しているのだから、伸坊さんに装丁・装画はお願いすることになった。

・後日談がある。新聞に載っていた伸坊さんの文章を読んで知ったのだが、イラストレーターの世界を志したきっかけは、中学2年生のころに、「お洒落で楽しくて、新しかった」和田さんの雑誌広告を見たことにあったのだという。皆さんお馴染みの煙草「ハイライト」のパッケージ・デザインは、和田さんが広告制作プロダクション、ライトパブリシティ時代に手がけたものだ。このハイライトのデザインは、1964年に開業した東海道新幹線の車体の色を決めるときに配色の参考にされたといわれる。自社のライトパブリシティ及び、社会党のロゴマークも和田さんが手掛けたものだし、キヤノンや東レといった国内有数の企業の広告デザインも和田さんの仕事である。

  更に驚いたことがある。平野レミさんが『週刊文春』の和田誠追悼号に文章を寄せているのだが、それによれば、締め切りのある仕事から解放された和田さんは、2年間はのんびりと自分の好きなことをして過ごしていたという。具体的には、「南伸坊さん、三谷幸喜さん、安西水丸さんといった大好きな友だちの本を毎日のように読んでいました」とのこと。人生は出会いであり、驚きに満ちている。伸坊さんと和田さんも、お互いリスペクトし合っていたわけで、僕は読んでいてなんだかホロリとさせられた。

杉田明維子(AICO)さん

清流出版 (2019年10月29日 10:55)

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会場での杉田明維子(AICO)さん

・杉田明維子(AICO)さんの個展が10月3日(木)から10月12日(土)まで、京橋の画廊「四季彩舎」で行われた。僕は個展二日目に当たる10月4日(金)に清流出版に出社し、昼過ぎに斎藤勝義さん、臼井雅観君を誘って出掛けることにした。会場は二階であり、エレベーターがないので、手すりに摑まり、二人に前後を支えられながら、なんとかたどり着くことができた。会場に入ってみると何組かの来場者が和気藹藹と歓談していた。明維子(AICO)さんの人柄もあるのだろう、会場は笑顔と温もりで満たされていた。

・簡単にプロフィールをご紹介しておく。岐阜県の生まれ。女流画家展や昭和会展、安井賞展、月次展、アンチーム展など数々の展覧会に出品する。クリティック賞(日仏現代展パリ)を受賞。絵本『おつきさま』(架空社)、『五月のおしゃべり』(海豹社)、『うまれるって うれしいな』(弊社)、他の作画を担当。また、『朝日ジャーナル』やJALの機内誌『ウィンズ』、『母の友』(福音館)の表紙画を担当した。2015年には、東京・白山に「AICO MUSEUM」をオープンさせた。

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個展案内状

・個展は「AICO展—アイ・ハナマンダラ」と題して、花をテーマにした作品が展示されていた。会場で明維子(AICO)さんに今回の個展のコンセプトを尋ねてみると、「連綿と続いてきた命の連鎖。私たちも宇宙の一滴を抱いて生きています。今回の個展は花をテーマにしました。今を大切に、自分を愛し、人を愛し、生きとし生けるすべてのものを愛し、ワクワクしながら、命を輝かせることができたらと思います。愛という命の循環を作品から感じて頂けたら嬉しい」と答えてくれた。それにしても、みんなが知り合いのように和やかに見えるのが不思議に思えた。明維子(AICO)さんに「来ていただくとみんなお友達になってしまうので、長い間にたくさんの方にご来場いただくようになりました」と言うのを聞き、納得できた。


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個展会場風景

・明維子(AICO)さんの作品の特長は、背景に麻の葉模様が入っていること。麻の葉文様は日本独自の文様であり、正六角形を基本とした幾何学文様である。名前の由来は文字通り「麻」の葉の形を連想する事から名づけられたもの。古くは平安時代の仏像の切金文様の中や、鎌倉・室町時代の繍仏(刺繍によって仏像や菩薩などを表したもの)の中にもよく見られる。また、麻は丈夫ですくすくとまっすぐに伸びることから、昔から子供の産着に用いる風習があった。着物に限らず、帯や襦袢、袋小物にも頻繁に用いられている文様である。「麻の葉模様は末広がりで縁起がいい。どこまでも放射状に広がり、世界へ地球へ宇宙へと繋がっていきますから」とその効用を語った。
 
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花のマンダラだが、地に麻の葉模様が描かれている
 
・明維子(AICO)さんは、弊社から刊行された絵本『うまれるって うれしいな』で画を担当してくれた画家である。文を書いたのは本欄でも何回かご紹介したことがある堤江美さんだ。この絵本は、聖路加病院・名誉院長だった日野原重明氏の推薦文を頂いたこともあり、話題を呼んだ。日本語と英語のバイリンガルの作りにしたのもこの絵本の特長で、ユニセフ関係の雑誌にも紹介されることになった。日野原氏は亡くなってしまったが、いい推薦文だったので一部を抜粋してご紹介しておこう。
 
《日本では一人の女性の生涯から1.2人しか子供が生まれているのに過ぎません。そのような時代に、地球に生まれてきた子供の命を、誰がどう立派に育てるのか、誰が子供に生まれてきてよかったと感じさせるのか。その子供をめぐる日本の大人に、子供の命の大切さを示唆する絵本として発刊されたのが本書です。(中略) 堤江美さんの文は杉田明維子さんの画と溶け合って、よいハーモニーとなって聞こえてきます。》

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弊社刊『うまれるって うれしいな』

・この絵本の温かなタッチで描かれた原画は、銀座、能登、金沢、神戸、静岡など全国各地で原画展として公開された。また、来場者の多くがこの絵本を購入してくれたのは有り難かった。「お孫さんのいる主婦や妊婦さんが購入してくれたり、新婚さんへのプレゼントとしてもよく使われました」。確かに生れいずる命というものを考える上で、格好の教材となるような内容であった。
 実は明維子(AICO)さんのご主人、作宮隆さんも芸術家である。1954年、石川県金沢市生まれ。金沢美術工芸大学商業デザイン専攻卒で、「花炭アート」という芸術分野で確固たる地位を築きつつある。あまり聞き慣れない花炭とは何か。簡単にいうと、木の実、葉、花、種など素材そのままの形で炭化させて作る炭の一種のこと。「飾り炭」とも呼ばれ、遠く室町時代から500年以上もの歴史があり、主に茶の湯の世界で使用されてきた。具体的には、千利休の活躍したころ、茶室の床の間に花炭を置いたのが始まりだという。

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作宮隆作 花炭の作品(木の実や種、花などを炭にした作品)

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作宮杏奈作 彫り絵の作品

・公園や森で採取した木の実や種を、山梨県の故・岡部末治氏の制作した炭焼窯で、花炭技法として焼いている。冬の間に炭に焼いておき、春先から自宅の工房で造形作品に仕上げていくのだという。また、娘さんの作宮杏奈さんも芸術家なのだ。東京造形大学デザイン学科テキスタイルデザイン専攻卒で、彫り絵作家として活躍中という。彫り絵というのも耳慣れない言葉だから、簡単に説明すると、木の板を削って、直接板に彩色する。最初は木版画を制作していたのだが、彫った原版の美しさに魅かれ、そのままの木の状態で展示するスタイルに変えたのだという。だから夫婦二人での展覧会や家族三人の展覧会も何回か開催したことがある。

・種は生命誕生の象徴と位置づけ、宇宙のすべてのDNAが入り込んでいる感覚があると、花炭にこだわる作宮隆さん。連綿と続いてきた命の連鎖を見つめ、精神を研ぎ澄ませ、今回、花の曼荼羅を現出させた明維子(AICO)さん。愛娘の作宮杏奈さんは、地球上の生きとし生けるもの賛歌を、独自の彫り絵で掬い取って見せる。このように三人三様でアートを追究し続けている芸術家一家。それぞれに切磋琢磨しながら、独自の道を切り開き、新たなる世界観をこれからも見せてくれるに違いない。僕は来年の個展も楽しみに待っている。

野見山暁治さんと新井苑子さん

清流出版 (2019年9月25日 12:01)


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・今年、僕は銀座方面によく外出した気がする。先に本欄でもご紹介した藍染作家・菅原匠さんは例年通り、松屋銀座で個展をしたので出掛けたし、その他にも銀座で親しい人の個展が開催されたので、不自由な体ながら出かけて行った。例によって、顧問の斎藤勝義さんと臼井雅観君が付き合ってくれた。本欄で取り上げていなかった個展があるので、多少のタイムラグはあるが紹介しておきたい。一つは今年12月に99歳の白寿を迎える洋画家の野見山暁治さんである。「野見山暁治の気ままな小品展」と題した個展で、銀座・スルガ台画廊で開催された。小品と銘打ってあるように、大きな作品こそ出品されていなかったが、野見山さんらしい作品に見ていて、思わず笑みもこぼれた。というのも、本欄にも書いたが作品とタイトルの対比が実に秀逸なのだ。

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入口の案内板
 
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個展の案内状

・例えば、下の左の作品だが「近よるな」というタイトルがつけられている。砂浜と海のような背景にトドかアザラシのようにも見える動物が跳ねている。どこがどうなって「近よるな」となるのか、僕にはわからない。わからないのだが、近づくと危険そうな雰囲気があり、なんとなく納得してしまう自分がいる。下の右側の作品のタイトルは「嘘っぱちの人生」である。天上世界か、地上世界かわからないが、何人かの人間がうごめいている様子が描かれている。なぜ、嘘っぱちなのか、僕にはよくわからないが、わからないなりに、魅力を感じる。タイトルの付け方の秘訣を野見山さんに直接お聞きしたい気もする。この日も夕方にご本人が個展会場に来る予定だと聞いたのだが、野暮用があって、お会いすることはできなかった。


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    「近よるな」       「嘘っぱちの人生」

・野見山さんの感性は独特であり、人物について書かれたものなどを読むとその人間観察力に驚かされる。現に東京美術学校(現・東京藝術大学)で野見山さんの七つ先輩にあたり、現代画廊の経営者で松田正平さん、田島隆夫さんなどを世に出した須之内徹さんは、野見山さんの事を次のように書いている。

「野見山暁治という人は不思議な人だと思う。最近、昔私が書いていた小説が二巻の全集になって出て、その挟み込みの月報に、野見山さんに文章を書いてもらっているのだが、ろくに会って話したこともないのに、どうして私という人間をこんなに見抜いてしまうのか、不思議という他ない。本当に、私は一度も野見山さんとじっくり話をしたことがないのだ。会うのでも、いつかこの『気まぐれ美術館』に書いたように、私が上野の山を歩いて行くと、向こうからジャムパンを囓りながら歩いてくる野見山さんと出会って、やあ、と言った、というような会い方しかしていないのである」(『人魚を見た人』)

  野見山さんは僕が敬愛する椎名其二さんとも親しかった。12年間のフランス暮らしを書いたエッセイにもよく出てくる。その椎名さんは佐伯祐三と親しくお付き合いがあった。佐伯祐三ゆかりの古びた小箱を野見山さんは椎名さんからもらったという。その下りをこう書いている。
「薬か、繕い用の小物が入っていた古びた箱を、椎名さんは何気なくテーブルの上においた。表面の彩色がかなり擦り減ったその小さいブリキの箱のことは、ずっと忘れないでいる。朱と黄金色と黒い色とがてんでに絡み合い、ところどころ地肌の銀色がにぶく光って、彩りを抑えている。佐伯祐三の絵みたいだな。(中略)あの小箱は佐伯祐三の手垢が沁みたものだ。パリ郊外のアトリエでぼくはずっと使っていた。」(『異郷の陽だまり』)

・僕はこの文章を読んだとき、佐伯祐三、椎名其二、野見山さんと手渡されてきたこの小箱をどうしても見たくなった。しかし、それは叶わなかった。

「ドイツに留学している坂崎乙郎がやってきて、どうしてもと欲しがってきかない。痩せた青年の一途さにツンときて、それっきりになってしまった」(『異郷の陽だまり』)とある。ちなみに坂崎乙郎さんは、僕が高等学院でドイツ語の授業を教わった方だ。その方の父・坂崎坦(しずか)教授は、91歳まで長命だった美術家だったが、坂崎乙郎さんは『夜の画家たち 表現主義から抽象へ』などの著作でドイツ表現派や幻想派の画家を紹介、数々の作品を上梓するも、57歳で自死された。それにしても野見山さんの文章は魅力だ。そっけなさそうで、余韻といおうか、コクがあり深みがある。野見山さんは妹の旦那、田中小実昌さんとは実の兄弟のように気が合い、深く長いお付き合いだった。「12年間のパリ暮らしとコミちゃんの思い出」というテーマで講演をしたこともある。小実昌さんも素敵な小説を書き、ミステリー小説の翻訳なども手掛け、見事な仕事ぶりだったが、文章においては、一目も二目も置いていたに違いない。

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・僕は、田中小実昌さんが話題に出てくる度、古巣ダイヤモン社時代の小実昌さんと奥さんとの微笑ましくも切実な原稿料争奪戦を思い出したものだ。ダイヤモンド社の原稿料の支払いは他の出版社同様、銀行振り込みが主流である。しかし、小実昌さんはそれでは困るという。「銀行振り込みは絶対に駄目だ。女房(野見山さんの実妹)に見つかってしまうから」と言い、月末に現金書留で送るように要求された。小実昌さんは、自宅2階の窓から道路を見下ろしていて、郵便配達人をいち早く見つけると階段を駆け下り、現ナマを我がものにするのだと白状したものだ。

  野見山暁治さんの再婚相手、高級クラブ「みつばち」の元ママ武富京子(本名・野見山京子)さんのことも忘れがたい。終戦直後の1951年、福岡市中央区春吉で開店、56年に西中洲に移転した。井伏鱒二、司馬遼太郎のほか、歴代首相、プロ野球選手らが訪れたという名物クラブだった。週刊誌にも「日本の三大ママ」として銀座、京都のママと並び称されたこともあった。最愛の妻、陽子さんがパリで逝き、二番目の名物クラブママも天国へと旅立ってしまった。

『異郷の陽だまり』の「あとがき」で野見山さんは嘆いている。「ぼくは知らないうちに追悼屋にされていた」と。「ひとりで、新聞や雑誌、三つも四つも追悼文を書かせた奴もいる」とも憤って書いている。「お先にね」と、天国へ旅立つ人を見送り続けてきたのは、確かにしんどいことであろう。僕も多くの友人たちに先立たれたので、その感覚はよくわかる。一世紀を生きてきて、第一線で活躍し続けている野見山さんだけに、同情はするが、これはもう仕方のないことなのかもしれない。まだまだ、第一線で走り続けて頂きたいと思っている。


●新井苑子さん

・もう一つ銀座での個展をご紹介したい。それがイラストレーター・画家の新井苑子さんである。『「宇宙の花」を描く』と題して、銀座の永井画廊で開催された。新井さんには、月刊『清流』の表紙絵をお願いしている。僕も表紙絵をジークレー(Giclee)版画(「画題・オランダの花祭り」)にしたものを新井さんから頂いて、家に飾らせてもらっている。近年、ジークレー版画は吹き付けて着色する方法で、最も原画に忠実な表現ができる技法として注目されている。木靴の中から美しい花々が咲いている風景が印象的だ。永井画廊は現社長の永井龍之介さんの父君が銀座で創業し、その後青山に移転し、再び銀座に戻ってきたことになる。現在の所在地は、銀座8丁目の新装なった河北新報ビルの5階にある。とても洗練されたお洒落なビルであり、会場もスッキリとしたレイアウトがなされていた。永井さんも会場におり、少しだけだがお話することができた。


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新井さんから送られた「オランダの花祭り」
 
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新井苑子さん(後列右)は、我々夫婦を招待しご馳走してくださった。後列左は松原淑子(現・社長)。
 
・新井さんは、日本を代表するイラストレーター、画家として知られている。今回のテーマは「宇宙の花」であった。「かけがえのない“地球”が創出する“森羅万象の奇跡”を体験して頂ければ幸いです」と個展開催に際し新井さんはコメントしている。 新井さんによれば、青く美しい地球は「宇宙の花」であり、花や樹、虫など小さな自然から、人、海、山、宇宙まで地球の森羅万象はインスピレーションの宝庫だという。女子美の大学生の頃、顕微鏡で石の断面を見て、抽象画のように美しく感動し、道端の石にも美の世界があることに気づかされた。以来、目には見えないけれどその奥にあって訴えかけてくるもの、心に映った美を表現したい、というのが今日まで描き続けてきた大きなモチベーションになったのだ。
 
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会場風景

・下に掲げた2つの作品は、新井さんの宇宙観が投影された代表的作品であろう。メロンと林檎をモチーフにしながら、銀河系に浮かぶ地球のようであり、表皮には街並みが描かれたり、薔薇の花が描かれている。地球の森羅万象はインスピレーションの宝庫だとする、新井さんのコメントがとてもよく理解できる。地球賛歌を象徴するような作品ではないだろうか。
 
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 また、下の作品も地球に生きる、生きとし生けるものに対する新井さんの視点がよく感じられる作品である。クリスマスツリーをバックにして、本来であればオーナメントが飾り付けられるはずのモミの木だが、代わりにこの絵では、海に生きる熱帯魚やイカ、クラゲなど海の生物が生き生きと描かれている。まさに地球も一つの命であることが感じ取ることかできる。温かい眼差しに彩られ、新井さんの真骨頂である地球賛歌の絵になっている。インスピレーションの翼を限りなく広げ、羽ばたいて、見事に《新井苑子の宇宙観》を現出しているようだ。
 
 
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・新井苑子さんのプロフィールを簡単にご紹介しておく。女子美術大学図案科グラフィックコースを専攻し卒業。1965年、日本デザインセンターイラストレーション部に入社。トヨタ自動車、伊勢丹デパートの広告を手がける。 1971年、フリーとなる。本の装丁、エプロン、スリッパなどのデザインといった分野でも活躍する。 現代グラフィックアートセンターにポスター等約100点の作品が収蔵された。 武蔵野美術短期大学特別講師、女子美術大学非常勤講師を務めた。 主な著書に、『イメージの旅』(グラフィック社)、『花の森』(岩崎美術社)、『イラストレーションの発想と表現』(美術出版社)、『フローラ美術館』(河出書房新社)、「ハーブ絵画館」(文園社)、『アーリーアメリカンクックブック』(中央公論社)、『新井苑子のハブのぬり絵』(文園社)など多数。「九州沖縄サミット」、「日本ユネスコ加盟50周年」等の記念切手52種類以上制作。東京イラストレータズソサエティ、日本自然保護協会、会員。
 
 
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・月刊「清流」の表紙絵を僕は毎号楽しみにしている。季節感を大切にし、メインのモチーフに一ひねり付け加えるのが”新井苑子ワールド”である。例えば5月号では「鯉のぼり」をモチーフにしている。吹き流し、真鯉に緋鯉、子鯉が悠々と泳いでいる絵が描かれるが、緋鯉に一ひねり利かせている。五月晴れにサツキの花を着て、晴れやかな母鯉に仕立てている。緋鯉だけその模様がサツキの花で彩られているのだ。8月号では金魚鉢がモチーフである。金魚鉢の中を金魚が泳いでいるのだが、これも一ひねりしてある。南国情緒豊かで真紅色のブーゲンビリアの花を金魚鉢の中と鉢の上に描き、爽やかな夏を演出している。最新10月号はきのこがモチーフ。タイトルは「きのこのブーケ」である。秋はきのこの季節であり、紅葉の季節でもある。新井さんは、落ち葉を拾ってきてきのこを包み、きのこをブーケにしてしまうのだ。実に素晴らしいインスピレーションではないか。新井さんには、これからも是非、月刊「清流」の顔を新井苑子ワールドで染めていって欲しいと僕は期待している。


渡部昇一、堺屋太一、竹村健一、深田祐介 (サンピンイチスケ)の各氏

清流出版 (2019年8月29日 17:11)

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深田祐介さんと僕
 
・「サンピンイチスケ」という言葉をご存じであろうか。1970年代からマスコミ界を席巻した四人の売れっ子評論家・作家のことである。具体的には、渡部昇一、堺屋太一、竹村健一、深田祐介の四人。三人の名前の最後に一がつくことからサンピン、深田祐介のスケを合わせ「サンピンイチスケ」と命名されたものだった。テレビ、雑誌、新聞などにこの四人はよく登場し、マスコミ露出度もかなり高かった。当然のことながら、知名度が高く人気があっただけに、著者として執筆依頼が殺到したのもよくわかる。この四人の単行本を出せば、大いに話題にもなり売れたからである。
 僕が古巣ダイヤモンド社に在籍し、雑誌部門から出版局に移ったのが1980年、ちょうど40歳だったが、そのころ、「サンピンイチスケ」人気はピークを迎えていた。今回、この「サンピンイチスケ」について書きたいと思った動機だが、渡部昇一さんが2017年 に86歳で、堺屋太一さんが2019年2月8日に83歳で、竹村健一さんが 2019年7月8日に89歳で、深田祐介さんが2014年に82歳で死没ということで、一世を風靡したあの「サンピンイチスケ」は、四人目の竹村健一さんの死によって、全て黄泉の国の住人となってしまったからである。
 
・簡単にこの四人を紹介しておく。渡部昇一さんは、1930年山形県生まれ。1955年、上智大学博士課程を修了。英語学が専攻であった。ドイツ・イギリスに留学。2001年、上智大学の名誉教授となっている。渡部昇一さんが大ブレークするきっかけとなったのは、1976年刊行の『知的生活の方法』であった。累計部数118万部を超えて、講談社現代新書のベストセラーとなった。頭の回転を活発化し、オリジナルな発想を楽しむ生活の仕方を提案したもので、読書の技術、カードの使い方、書斎の整え方、散歩の効用、通勤時間の利用法、ワインの飲み方、そして結婚生活等々、著書自身の体験を通しての柔軟な発想が受けたものだった。渡部さんには、古巣ダイヤモンド社で、月刊誌の取材のために数回会ったことがあった。清流出版を立ち上げてから、直接、お姿を拝見したのは、ビジネス茶を提唱した荒井宗羅さんの著『和ごころで磨く―ビジネスに生かす“茶の湯の精神”』(1997年6月刊)を弊社から刊行した時、出版記念パーティであった。ゲストとして招かれていたのである。その時以来、雑誌の連載をお引き受け頂くなど、渡部さんと僕との長いお付き合いが始まった。

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講談社現代新書の大ペストセラー
 
 渡部昇一さんの交友関係は広い。特に、堺屋太一・竹村健一の両氏とは交流が深く、3人で講演会を催したり共著を出版したり、『三ピン鼎談 平成日本の行方を読む』(1990年2月、太陽企画出版刊)を刊行したこともある。また、谷沢永一さんとは共に知られた蔵書家であり、思想的にも共感できることが多かったらしく、たくさんの共著を出している。渡部さんはテレビでもよくお顔を拝見した。竹村健一さんとの掛け合いは特に面白かった。「竹村健一の世相を斬る」(フジテレビ)にゲスト出演していたのが懐かしく思い出される。また、自身の番組も持っていて、石原慎太郎、加藤寛、田久保忠衛、岡崎久彦といった著名人を招いての対談番組「渡部昇一の新世紀歓談」(テレビ東京)、渡部昇一の「大道無門」(日本文化チャンネル桜)もやはり対談番組で、各界の著名人を招き、歴史、政治、時事問題などを語り合うホスト役を務めておられた。
 堺屋太一(本名・池口小太郎)さんは、1935年大阪府生まれ。東京大学卒業後、通産省の官僚となり、経済企画庁長官、内閣特別顧問、内閣官房参与などを歴任した後、小説家、評論家となった。当時ダイヤモンド社は霞が関1丁目にあり、通産省の隣のビルだった。噂では池口小太郎さんは若手の官僚だが、実に魅力的で面白い人物だとのことで会いに行った。僕は、所属している「経済週刊誌 ダイヤモンド」の新米記者として、「通産省として何かエポックメイキングなことはないですか?」と尋ねた。その時は会話に出なかったが、大きなイベントを成功させることになる。池口小太郎さんは、1970年の「大阪万博」の企画・実施に携わるのだ。来場者が世界中から実に6422万人となり、大成功であった。この頃、堺屋さんはまだ三十代の若さ、小松左京さんや丹下健三さんをはじめ、東大や京大の先生などを強引にかつ粘り強く引っ張っていった手腕は特筆に値する。
 大阪万博にはしっかりとしたコンセプトと哲学があり、後の携帯電話やドーム建築につながるような、新しい世界を見せてくれたのではないか。堺屋さんには、鬼気迫るような面があり、自ら考え、自ら動いた。平気で24時間働き続けるようなバイタリティの持ち主であった。また、博覧強記の人であり、それでいて愛敬があったので多くの池口ファンがいた。時代の節目を鋭く切り取る言葉でも注目され、特に『団塊の世代』という言葉は、本の内容とともに衝撃をもって迎えられた。2000年以降の少子高齢化社会を言い当てる警句ともなった。ちなみに1975年には『油断!』が、1976年には『破断界』が出版され、本の売れ行きと共にこの言葉も話題を呼んだものだった。
 
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 竹村健一さんは1930年大阪府生まれ。京都大学英文科卒業後、フルブライト留学生として米エール大、シラキュース大大学院で学び、『英文毎日』の記者となった。その後、山陽特殊製鋼調査部長、追手門学院大助教授を歴任した。「保守派」の論客として知られ、1979年から1992年までフジテレビ系で放送された「竹村健一の世相を斬る」で司会を務め、関西弁の語り口が人気を博した。日本テレビ系「世相講談」では現・東京都知事の小池百合子さんがアシスタントを務めていた。「モーレツからビューティフルへ」「デリーシャス」などの流行語を生み出したほか、情報を手帳1冊に集約する「これだけ手帳」を自ら提案し発売もしている。「僕なんかこれだけですよ」と本人が語ったCMを覚えている方もおられるだろう。50歳当時、テレビ、ラジオのレギュラー番組が月95本、著書200冊に達するなど多忙を極めた。当人の弁によれば、ピーク時には、「口述筆記で一時間五十枚ほど」書いた、というから驚異的なスピードであった。
 深田祐介(本名・雄輔)さんは1931年東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業。日本航空広報部に勤務したサラリーマン作家として知られ、1976年に『新西洋事情』で大宅壮一ノンフィクション賞、1982年に『炎熱商人』で直木賞を受賞している。日本航空を退社して後は、作家として創作活動に専念した。1987年に『新東洋事情』で文藝春秋読者賞を受賞しているが、サラリーマン生活と海外駐在経験が長かったことから1976年『西洋交際始末』、1977年『貿易戦争と中産階級』、1979年『革命商人』などに代表されるように海外ビジネスや企業小説が多い。
    
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・僕は1980年に、ダイヤモンド社の雑誌部門から出版局へ転属し、1992年の初頭に辞め、独立して小出版社をすることになるが、その間、幾多の単行本を手掛け、多くの著者と交友関係を結ぶことができたのは僥倖であった。最初僕は、昭和天皇のご学友・藤島泰輔さんの編集担当となった。藤島さんと僕とで仕掛けたポール・ボネのシリーズは売れに売れ、さらには文庫化の権利も他社に売れた。藤島さんは多額の印税を手にすることになり、フランスのパリ16区に豪邸を取得したり、ランニングフリーなど競走馬を持つことになった(藤島さんの薫陶を受けた僕の趣味が「競馬」となった)。パリの住まいは、元NHKの花形ニュースキャスター磯村尚徳さんが日本文化会館初代館長になった際、リースされることになった。その話は直木賞作家・深田祐介さんも知っていて、お会いした時にこの話で盛り上がったことが懐かしい。深田さんは僕と多くの人脈も重なるし、同じ身体障害者の一級同士ということで話が弾んだものだった。
 
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竹村健一さんの翻訳本
 
・ここで僕は竹村健一さんの話をしておきたい。1967年、竹村さんは『マクルーハンの世界』(講談社)という本を翻訳し、マクルーハン理論を日本に初めて紹介した人物でもあり、尊敬をしていた。マクルーハンは、特にテレビが現代に及ぼした影響についての研究で知られた人である。実は僕が出版局に移る前の1977年にダイヤモンド社から竹村健一さんの『日本の常識は世界の非常識!?』という本を出ており、販売実績も良かった。僕も出版局に移るに当たって、絶好調だった竹村健一さんの本を出したいと思っていた。だから、アポイントを取り、赤坂にあった竹村さんの事務所に伺った。1980年1月のことである。僕は温めていた単行本の企画案を提示して、執筆依頼をしたのだが、執筆はなんとかなりそうなのだが、どうしても条件面で折り合えなかった。
 竹村さんが主張する印税率は、出版界の常識からすれば、考えられないほどであった。最低でも4割増し(14%)、できれば倍近い率(20%)でと要求してくる。竹村さんは、関西弁でなぜそうなるのかをまくしたてるのだが、理論的には分からないわけではない。自身が広告塔になっているから、出せば十分売れる本になる。広告宣伝費込みで考えれば安いものじゃないか、ということになる。そしてついには、手元にあったノートを見せ、他社で出した本の初版部数、印税率等をつまびらかに披露されるに及んで、僕は切れてしまった。「そんな高額な印税を払ってまで出すことはできない」、ときっぱり断ってしまった。帰社してから、営業サイドからは恨まれることになったが、こればかりは受けられなかった。あの丁々発止のやりとりは、今でも懐かしく思い出される。

 
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竹村健一著(1977年 ダイヤモンド社刊) 


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ドラッカー博士と竹村さんとのツーショット(ダイヤモンド社)

・竹村さんとはその後、前述した荒井宗羅さんの『和ごころで磨く』出版記念パーティでお会いし、何のわだかまりもなく気持ちよく挨拶を交わした。それにしても盛況だった荒井宗羅さんの出版パーティ。船井幸雄さん、竹村健一さん、ジェームス三木さん、細川隆一郎さん、浅草寺の京戸慈光師、渡部昇一さんはじめ、綺羅星のごとく宗羅ファンが押しかけた。
 宗羅さんに、竹村健一さんと出会ったきっかけを聞いてみると、なるほどとうなずけるものだった。初めて会ったのは、宗羅さんがプロデューサー兼アートディレクターとして関わった新宿の料亭だという。ビルの最上階にあった100坪以上の料亭には、露地もある本格的な茶室から、当時メディアを騒がせた黄金の茶室や10室ほどの個室もあった。宗羅さんは、この料亭全てのコンセプトメイキングと若い仲居さん達の接客教育、集う政財界、文化人に対するお茶のもてなしの仕方から、日本文化絡みのレクチャーまで広範囲にわたったという。


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出版パーティで荒井宗羅さんと

 たまたまこの料亭を訪れた竹村さんが、この料亭のしつらえや接遇などに感服し、プロデュースした宗羅さんに関心を抱いたということらしい。その時の当意即妙の宗羅さんとの会話が気に入ったらしく、帰り際にねぎらいの言葉を掛けてくれたという。以来、宗羅さんは、竹村さんの自宅で催されたお花見の会や奥方の個展に招かれるようになる。会えば、竹村さんは、トレードマークのパイプをふかしながら、主に海外と日本との比較文化や、英語の特殊な表現法などを教えてくれた。出版記念パーティの時も、竹村さんは開口一番、「宗羅さん、一流の著名人がみんな集まったな。大したもんだ」と褒めてくれたそうだ。宗羅さんならさもありなんである。僕が関わりをもった著者が、世界に羽ばたいていくのを見るのは、編集者冥利に尽きるというものだ。荒井宗羅さんのさらなるご活躍をお祈りしたい。

リー・アイアコッカ

清流出版 (2019年7月24日 19:26)

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・急に過去の記憶が蘇ることがある。実は、リー・アイアコッカの死が報じられた時、僕は古巣ダイヤモンド社での、あの懐かしい喧噪の日々を思い出した。1970年代後半から80年代前半にかけ、破綻寸前だった米自動車大手メーカーのクライスラー(現フィアット・クライスラー・オートモービルズ=FCA=)の再建に手腕を発揮したリー・アイアコッカ元会長が7月2日、パーキンソン病に伴う合併症のためにロサンゼルスの自宅で死去したとマスコミ各紙で報じられた。享年94だった。僕はこの訃報に接し、様々な思いが交錯してしばらく呆然としていた。アイアコッカは1924年の生まれ。ビジネスの世界における、アメリカン・ドリームの体現者として今も記憶に新しい。古巣のダイヤモンド社で僕が単行本の編集者をしていた時代、翻訳者の徳岡孝夫さんとのコンビで、実に99刷までいったリー・アイアコッカ著『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(1985年刊)の出版にこぎつけ、その後も、第2弾ともいうべき『トーキング・ストレート』(1988年刊)を刊行した思い出深き人物であった。さまざまな思いが去来したのも無理はない。

 この本の版権を取得するのが結構大変だった。現在、清流出版の顧問をしてくれている斎藤勝義さんがダイヤモンド社の版権担当者として活躍してくれたことをよく覚えている。アイアコッカは経済雑誌や日本経済新聞等などで取り上げられ、カリスマ経営者として知られていた。しかし、サラリーマンの間ではまだそれほどの知名度はなかった。実際、新橋あたりのサラリーマンに訊くと、「コカ・コーラなら知っているけれど、アイアコッカなんて知らないよ」などと揶揄する人もいた。ダイヤモンド社の販売本部の連中も、「日本人にはまったく知名度がない。どうせだったら、レーガンをやった方が売れるのでは」などと僕の企画に冷ややかな目線だった。

・しかし、アイアコッカは立志伝中の人物であり、アメリカで原著が発売されるや評価は一変することになった。『パブリッシャーズ・ウィークリー』、『ビジネス・ウィーク』、『ニューズ・ウィーク』、『ニューヨーク・タイムズ』、『フォーチュン』など各紙誌の書評等で絶賛されることとなり、爆発的な売れ行きを見せたのである。そうなれば日本での版権はどの出版社が取得するか、取り合いとなったのは必然であった。新潮社、講談社、三笠書房をはじめ、名だたる大手出版社の敏腕編集者、版権担当者が版権取りに参戦してきたことをよく覚えている。日本ユニ・エージェンシーがこの本の版権代理店だったが、アドバンスは値上がりするばかりであった。

  日本ユニ・エージェンシーの武富義夫さんは、当時、まだ社長にはなっていなかったが、経営者に一番近い存在で、ばりばりの凄腕で知られていた。その武富さんと出版社の一編集者であった僕が、『アイアコッカ』の件ではことごとく対立したが、一歩も引かなかったのはいい思い出だ。これには版権担当者だった斎藤勝義さんも苦労されたと思う。結局、武富義夫さんは、1993年、僕がダイヤモンド社を辞めた後で、日本ユニ・エージェンシーの社長に就任した。武富さんの後は、長澤立子さん、山内美穂子さんと二代続けて女性が社長に就任したが、このお二人とはロンドン国際ブックフェア、フランクフルト・ブックフェア、ブックエキスポ・アメリカなど「国際ブックフェア」の会場でよくお会いし、意見交換をしたり、食事をご一緒したりしたものだった。
 

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・なぜダイヤモンド社が版権を取れた決め手だが、過去の経済物の実績と、どうしても出したいと編集者と経営者の熱意の差ではなかったか。僕にも編集企画の心構えとして、まだ日本人には知られていないが、注目すべき人物を追い、世に知らしめたいとする路線は間違っていないとの感覚があった。事実、ダイヤモンド社はビジネス書において、他社の追従を許さぬ実績を積んできていた。ベストセラーとなった本も多々ある。例えば、クラウド・ブリストルの『信念の魔術』(1954年刊)やE.G.レターマンの『販売は断られた時から始まる』 (1964年刊) などは、新装版として何度も装丁を変え、判型を変えたりしながら現在に至るまで売れ続けてきている。また、1950年代からピーター・F・ドラッカー博士の経営学シリーズを一手に引き受け、現在もダイヤモンド社の大事なドル箱路線となっている。


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アイアコッカの第2弾

・ドラッカー博士の本でもそうだったが、版権担当の斎藤勝義さんがこのアイアコッカの本の版権取得に、大手出版社の猛者に負けず奮戦してくれたことも特筆しておかねばなるまい。斎藤さんは、版権代理店の日本ユニ・エージェンシーをすっとばして、自宅から米国の版元であるバンタム・ブックスの版権担当者であったピアジェ女史に直接電話して売り込んでくれたりもした。そのかいあって、編集者だった僕は勇躍、アメリカに飛び、アイアコッカ本人とその弁護士と直に会い、契約にこぎつけることができたのである。両者のサインを受け、ゲラの一部を日本へ持って帰ることで、大手出版社との版権取得競争に決着をつけることができた。大手出版社がいくら切歯扼腕しても、ことここに至っては敗北を認めざるを得なかったのである。このアメリカ出張に際し、思い出に残る1シーンがある。それはワシントンの日本料理店で笹川良一氏とジミー・カーター前大統領が密談している光景を見かけたことであった。

  翻訳出版についても一言述べておきたい。すでに僕は自動車業界ものでベストセラーを出していた。『晴れた日にはGMが見える』(1980年、J.パトリック・ライト著)がそれ。普通だったら翻訳者として『晴れた日にはGMが見える――世界最大企業の内幕』をお願いした風間禎三郎さんに頼むところである。この本は、シボレーの売上げを伸ばし、いくたびかGMの救世主となって、GM史上最年少の重役に昇進した男が、次期社長を目前にして、突然同社を辞した。いったい何故なのか? 自動車業界の風雲児デロリアンの証言と弾劾は、王国の聖域「十四階」のヴェールを剥ぎ取った。デロリアンは、世界的にヒットした映画『バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ』に登場するタイムマシンのベースカーとして広くその存在を知られている。

・この本で翻訳をお願いした風間禎三郎さんに、『アイアコッカ』でもお願いしようかと考えたのは当然であった。しかし、風間さんの場合、一つネックがあった。風間さんは翻訳の仕事に取りかかっても、スムーズに波に乗れないことがある。すると、翻訳を放り出して、釣り竿を持って近くの浅川に日参することがよくあった。発行日を念頭において、締め切りを守ろうとする立場からすれば、とかく編集者泣かせの部分があった。1週間も新しい原稿がいただけないとなれば、ストレスも溜まろうというもの。あれやこれやと今後の道を探っているうち、この『アイアコッカ』の翻訳は、新規軸として、関西弁を駆使した新鮮味と、自動車好きの翻訳者であった、新進気鋭の徳岡孝夫さんにお願いすることにしたのである。

  実は、それより20年も前に遡る1965年の本だが、徳岡孝夫さんの著になる『太陽と砂漠の国々――ユーラシア大陸走破記』という本を読んでいた。その時の印象が強く、自動車関係の本だったら徳岡孝夫さんにお願いしてみたい、と僕なりに思っていたこともある。それに徳岡さんは翻訳が手慣れてうまい上に、早いという噂で、編集者からすれば大変に魅力であった。『晴れた日にはGMが見える』を超える販売実績を摑みたいというコケの一念だった。そして『アイアコッカ』の初版部数が4万部に決まった。この初版部数であれば、ちょっとした広告宣伝費もかけられるとほっとしたものだ。実際に、版を重ねる度に、有識者や本の読み手がどんどん増え、思ったよりダイヤモンド社の経費負担は少なくて済んだ。結局、最終的に『アイアコッカ』の実部数は、70万部を優に超えたのである。

  話は変わるが、イギリス出身のジャーナリストで、ニューヨーク・タイムズの東京支局長だったヘンリー・スコット=ストークスの著になる『三島由紀夫 死と真実』の翻訳をお願いし、徳岡孝夫さんの名訳には感服していたことも後押しした。日本文学界の鬼才、あの三島由紀夫が、なぜ自衛隊市ヶ谷総監部を占拠し、最期は切腹自決するに至ったのか? 偉大なる芸術家である彼の生い立ちから最期の時までをヘンリー・スコット=ストークスが詳しく取材編集したドキュメント本であった。そもそも徳岡さんが三島由紀夫とごく親しかったこともあり、とてもいい本に仕上げることができた。僕はこの本が気に入っていたので、清流出版で復刊したほどである。

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ダイヤモンド社の本

・さて、アイアコッカの話に戻るが、彼はイタリア移民の子として生まれ、プリンストン大大学院修了後の1946年に米フォード・モーターに入社している。アイアコッカが開発を主導した低価格のスポーツカー「マスタング」は、1964年の発売直後から若者の間で爆発的に売れた。この成功が評価され社長にまで上り詰めたが、創業家と対立して、1978年に解任された。同年、ライバル社のクライスラーに請われて社長として入社し、1979年に会長に就任している。低燃費小型車の開発遅れと日本車の追撃を受けて、5億ドルの累積赤字と史上最大の在庫を抱えたレームダック状態であったが、アイアコッカは、矢継ぎ早に大ナタを振るって企業体質の改善に努めた。アメリカ議会を説得して政府の債務保証を取り付けた上で、なんと自らの年俸を1ドルにカットする。人員削減や小型車強化策を断行し、石油危機の影響で販売不振にあえいでいたクライスラーの黒字化を果たすことになるのだ。

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清流出版で復刊した三島由紀夫本

  この再生手腕によって「カリスマ経営者」として名をはせ、結局、自伝『アイアコッカ』は世界累計で700万部を超える大ベストセラーとなったわけだ。その日本語版でレジェンドの一翼を担うことができたことに僕は誇りを持っている。『アイアコッカ――わが闘魂の経営』は結局、増刷に次ぐ増刷となり、最終的には99刷となった。しかし、この大ベストセラーがありながら、ダイヤモンド社出版局全体ではその期の損益バランスは、なんと赤字だったのである。販売本部も『アイアコッカ』だけを増刷しながら売っていれば、営業的に問題はなかったはず。しかし、出版局としてそうはいかない。他の出版物が目論見通りには売れずに足を引っ張ることになった。

  しかし、嬉しいことにタイミングよく助っ人が現れた。新潮社の前田速夫さんである。前田さんは、当時、雑誌『新潮』の編集長であった。『アイアコッカ』は充分にダイヤモンド社の米櫃を潤わせてくれたが、更に、版権が前田さんの仲介によって新潮社に売れることになった。『アイアコッカ』はダイヤモンド社で99版を達成したが、100版は新潮社に任せればよいと僕は決断した。これによって、ダイヤモンド社は印税をしこたま稼ぐことかできた。印税が3割、新潮社から振り込んでくる。2度美味しい単行本企画となったのである。ちなみに前田さんは東大英文科卒の俊英であった。大学時代はボクシング部に所属していたと言う。僕も趣味と言えばボクシングだった。大学3年生の時、後楽園ジムで、生物学者アルビン・R・カーンに1年間教えを受けたこともある。カーンさんはあの白井義男の名トレーナとして知られた方である。前田さんの話に戻すと、その後数年して前田さんは新潮社を退社、民俗学者・歴史研究者となり、『渡来の原郷――白山・巫女・秦氏の謎を追って』(2010年、共著)をはじめ、『白山信仰の謎と被差別部落』(2013年)、『異界歴程』(2016年)、『北の白山信仰 もう一つの「海上の道」』(2018年)などの他、最新刊は今年2月に『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』を刊行されるなど、素晴らしい研究実績を残しておられる。僕は『アイアコッカ』の出版によって、出版の世界の面白さと怖さを十分に思い知らされることになった。

・アイアコッカは著書でこう語っている。「自分が絢爛たる人生を送ったことを、私は否定しない。私にチャンスをくれたのはアメリカであり、私はその機会を掴んだ。私は一夜にして有名になったテレビ・スターではない。40年近い勤勉努力によって、今日に至ったのだ」と。フォード社を首になったアイアコッカの契約書には、フォードを辞職した場合には、新しい職が見つかるまでオフィスを一つ与えるとあった。その新オフィスとはケチな倉庫の中であった。小さな部屋に小さな机と電話があるだけ。そして彼の秘書ドロシーが目にいっぱい涙をたたえていた。アイアコッカがシベリアに流刑になった気分だったというのも理解できる。人間は逆境に立たされた時、凄まじい反発力が生まれることがあると言える。アイアコッカがまさにそれだった。「内心の苦痛は忍ぶことができる。だが、公衆の面前で侮辱された私は、怒り狂った」と書いているが、アイアコッカの反発力は凄まじかった。電光石火というべき速さの、退社からわずか2週間後に、クライスラー社長に就任したのである。こうしてレジェンドとなりえたのだ。

・アイアコッカが、日本へ来たことについても話しておこう。日本語版は1985年1月1日に発売開始されたが、売れ行きが好調だったので来日したのである。翻訳者の徳岡孝夫さん、ダイヤモンド社の川島譲社長、版権担当者の斎藤勝義さん、編集担当の僕が帝国ホテルのスイートルームに呼ばれたのである。その時の写真撮影は許されていなかったので、残念ながら証拠写真はない。徳岡孝夫さんはビジネス英会話も堪能な方である。アイアコッカと丁々発止と早口で話し続け、アイアコッカが何度も頷いていた。僕は、アイアコッカの燻らせたシガー、見たことのない長い太巻きの葉巻の方に気をとられ、「日本での本の売れ行きは、あっという間に30万部を達成したが、翻ってクラスラーの車は100台も売れていない。社長の権威が丸つぶれとなった」と嘆息していたところしか記憶に残っていない。話は変わるが、ある時、アイアコッカご自慢のイタリアのワイナリーで熟成されたワインがダイヤモンド社に届けられた。「VILLA NICOLA BRUNELLO DI MONTALCINO 1981 bottled for LEE IACOCCA PRODUCT OF ITALY」というラベル。僕はそのワインをまだ試飲していない。訊けば、斎藤勝義さんもまだ飲んでいないという。万感の意がこめられたこのワインである。僕は体調がそろそろ危なくなった時に、このワインを飲み干そうと思っている。

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徳岡孝夫さんと僕

  最後に徳岡孝夫さんについて触れておきたい。僕の人生の公私共において、一番大切な人が徳岡孝夫さんである。ダイヤモンド社でお付き合いが始まり、今日まで実に35年以上の長きにわたり親しく交情を深めてきた。思い起こせば、徳岡さんにはどんなに助けられたことか。筆舌に尽くしがたいほどである。月刊『清流』にも長い間、ホットなニュース解説を連載していただいたが、目が不自由になって字が見えないと聞けば、無理に原稿執筆をお願いするわけにはいかない。やむなく連載を下りて頂いた。僕も両目ともに白内障の手術をしたが、目が不調だと気分が萎えるものである。これだけ科学技術、医学が発達した世の中である。何か特効薬や画期的治療法が発見されても不思議はない。徳岡さんと再び、コンビを組める日がこないものだろうか。僕はそんなささやかな夢を見ている。

菅原匠さん

清流出版 (2019年6月30日 11:35)

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・この時期、僕が楽しみにしているイベントがある。伊豆大島に在住の染色家で陶芸家でもある菅原匠さんの個展である。「藍染めとやきもの展」が、今年も5月29日(水)から6月3日(月)まで、松屋銀座8階の「イベント・スクエア」で開催された。僕はほぼ毎年、この個展を楽しみに出かけているが、いつものメンバーの斎藤勝義さんの都合がつかなかったので、臼井雅観君と二人で見に行くことにした。連日、蒸し暑くて過ごしにくい日が続き、気分が萎えてしまいかねなかったのだが、会場は「藍染」の涼やかな間仕切りや暖簾が掛けられ、涼しげな展示がなされほっとしたものだ。例年のごとく会場内は熱気に満ち、多くのご婦人たちでにぎわっていた。

 

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涼しげな藍染の間仕切り

  僕は菅原さんの藍染作品ややきものの新作も楽しみだが、実は来場者にも興味がある。もちろん、中年以上のご婦人方が圧倒的に多いのだが、結構、妙齢の女性も訪れるのだ。数年前のことになるが、菅原さんの藍染ファンで、気に入った作品があると購入しているという若い女性にお会いした。この若さでしっかりとした審美眼をお持ちなのに感心したので、記念に写真を一緒に撮らせてもらった。日本的な美人のその女性は、後日、お送りした月刊「清流」を気に入ってくれ、その後定期購読者になってくれたのである。僕には大変嬉しい出来事だった。この女性にこのイベント会場で、またお会いできるかもしれない、そんな楽しみも後押ししてくれたのも事実である。

・菅原さんの藍染めは、下書きをいっさいせず、指描き・筒引きによって、のびやかで大胆なユニークな紋様を描くのが特徴とされる。麻布を使ったり、科布を使ったりして、趣の異なる表情を楽しめるようになっている。常連のお客さんが引きも切らず訪れる合間に、菅原さんとしばらくお話することができた。僕がお聞きしたかったのは、世に出るきっかけを作った菅原さんの熱烈な後援者、白洲正子さんとのお付き合いである。白洲さんには、かなりな点数の藍染作品を買って頂いたというが、個人的にどんな印象をお持ちなのか、興味が尽きなかったからだ。20分程度であったが、僕の聞きたかったことは、大体、お聞きできたと思っている。ちょっと変則的だとは思うが、なかなかいいお話だったのでこの場を借りてご披露したい。

 

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下書きなしで描くユニークな紋様


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大胆な構図が生きている

  白洲さんが菅原さんを知るきっかけになったのは、織司の田島隆夫さんである。白洲さんは、銀座で「こうげい」という店を経営していたことがあるが、地機織という独特の織り方で織られた田島さんの反物を気に入り、優先的に仕入れていた。そして田島さんが余技で描いた書画にも惚れており、現代画廊の須之内徹さんと二人、田島さんの絵の展覧会を毎年、後押ししていたのである。田島さんの自宅は埼玉県行田市にあったが、白洲さんと須之内さんは、毎年行われる展覧会用の作品選びに、田島さんの自宅を訪ねていた。その際、菅原匠さんの藍染の暖簾が掛かっていて魅せられたのである。白洲さんは当時、婦人雑誌「ミセス」に《つくる》という連載を持っており、そこで紹介しようと思ったらしい。紹介の労をとってくれるよう田島さんに依頼したのだ。

・菅原さんは当時、まだ埼玉県大宮市の実家に住んでいた。実家は大きな老舗の呉服屋であり、その次男坊であった。どっしりとした構えの店で、店先には、菅原さんが制作した見事な暖簾が掛かっていた。白洲さんはこの取材をきっかけに、母堂と意気投合したというから面白い。店のことは菅原さんが「肝っ玉母さん」と呼んでいる母堂がすべて取り仕切っていた。白洲さんが惚れるほどである。母堂はなかなかの人物だったようだ。菅原さんは店の裏に藍甕を建て、そこで藍染をしていた。「匠は何をやってんだか、あたしにゃちっとも分かりませんよ」といいながらも、時々、仕事場を覗いたりする。そっけないように見えながら、お互いに信頼し合っているのが伝わってきたという。そんなつかず離れずの親子の距離感を白洲さんは大いに気に入ったのだ。若いうちは、好きなことを試行錯誤しながらも、行くべき道を探ればいいといったおおらかな育て方が、白洲さんの心にも響いたということであろう。

 この時、菅原さん本人は、取材らしい取材は受けなかったという。まあ、白洲さんのような審美眼の持ち主は、存分に話などしなくても相手の技量のほどはお見通しであった。菅原さんはこの頃すでに、町中では落ち着いて仕事ができないからと、伊豆大島に土地を購入し、すでに普請に取り掛かっていた時期でもある。だから月の半分は、伊豆大島で仕事をしていた。初めて白洲さんが菅原さんに依頼した藍染作品は、印半纏だったらしい。お気に入りの京都の職人さんがいて、プレゼントしたいからと依頼したものだった。印半纏の素材は厚手なので、藍染には苦労したらしい。しかし、出来上がったものを納めると、白洲さんは大層気に入ってくれたという。


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仏像のやきもの依頼も増えている

・菅原さんは何度も白洲邸にも遊びに行き、気心も知れてきた。その頃に依頼されたのが、「市女笠」の暖簾である。菅原さんによると、白洲さんは富岡鉄斎が愛用していた硯の墨だまりが、市女笠の形をしていたとかで、とても気に入っていた。これを藍染で表現できないものかと依頼してきたのである。菅原さんは二つ返事で引き受けたという。なぜなら、いいものを収める自信があったからだ。その自信の裏付けを尋ねて、僕はなるほどと思った。実は伊豆大島の工房には、藍甕が六つ、七つあるらしいが、その屋根が市女笠の形なのだという。つまり菅原さんの大好きな形でもあったのだ。その後も白洲さんは、菅原さんの「科布藍染筒引富士山文暖簾」「自家織麻布藍染指描月文暖簾」など、藍染作品を愛用し続けたことでも知られている。


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白洲邸の「市女笠」

  昭和57年4月、白洲さんはその菅原さんを伊豆大島に訪ねている。田島隆夫夫妻と連れ立ってであった。そのときの桜の絶景について白洲さんは、こう書いている。《家の背後には、一面に桜の咲いた山々がつらなり、風が吹くと、家も庭も花吹雪につつまれる》と。桜はもちろん、敷地内にもあり、地元の大島桜が何種類かと琉球緋寒桜がメインである。菅原さんは、毎年、その枝を切っては束ね白洲さんに送っている。白洲さんは、その桜を鎌倉時代に焼かれた常滑の大壺や信楽焼きの大壺に生けては楽しんでいたらしい。

・こうして白洲さんが交遊録などで、菅原匠さんのことを書くようになり、菅原さんはメジャーになっていった。実は、菅原邸の見ものは桜吹雪だけではない。庭造りを楽しむ菅原さんは、庭に三百何十種類もの椿の樹を植えているのだ。寒椿の咲く頃には、借景の山々と溶け合ってそれは見事なものらしい。そして庭のあちこちには、石像や自作の三重塔の焼き物が置かれている。借景には緑濃い山々が連なり、もう一方には海が近く、潮騒が聴こえる。まさにうらやむばかりの環境下で藍染と焼き物作りを続けてきたのである。麗子夫人に聞いてみると、広い敷地内を行ったり来たりしていると、1日1万歩を歩くのはザラだという。残念ながら、僕は体が不自由なので現地で見ることは叶わないが、想像するだけでも楽しい。

  菅原さんは、マスコミに取材されるようになり、昭和63年3月号「太陽」では藍染している仕事場風景が紹介された。この号では全国から15人の染織作家が特集されていた。誌面では、麗子夫人と囲炉裏端でくつろぐ菅原さんの写真が掲載されたのだが、その壁に藍染に「どう考えてもたかが染っぺら」と書いた白抜きの言葉が躍っていた。それを見た白洲さんは、すぐに菅原さん宛てに手紙を書いている。《「どう考えてもたかが染っぺら」は本当にそうなんです。そして、奥さんもいいし、暖簾もいいし、囲炉裏も見事な味付けになっている。ちゃんと住んでいるという風で、おめでとうございます》と書き送っている。羨ましくなるような関係ではないか。


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定番の巾着・マフラーなども目を引いた

「一流は一流を知る」という言葉があるが、白洲正子さんが見出した菅原匠さんのケースもそれであろう。白洲さんの「遊鬼」(新潮社)には、わが師わが友として、深い交流をしてきた多くの名が出てくる。田島隆夫、早川幾忠、小林秀雄、青山二郎、須之内徹、梅原龍三郎、福原麟太郎、鹿島清兵衛……などなど、白洲さんのお眼鏡にかなった人がいた。もちろん、菅原さんもそのお一人であった。市女笠を購入したとき白洲さんは「余韻を聞く」(世界文化社)にこう書いている。《多くの説明は要るまい。物事はすべてバランスにあると、近頃私は思うようになっているが、それは目に見える色や形だけのことではなく、目に見えぬ時間もその中に入る。そういうものをこののれんの上に見て下されば事は足りる。》こうして見出された菅原さんは、さらなる進化を遂げている。最近、依頼が増えたという陶芸作品などその最たるものだ。これからも麗子夫人と二人三脚で、いい作品を発表し続けて欲しいと切に願うものである。

吉沢久子さん

清流出版 (2019年5月28日 21:02)

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吉沢久子さん

・吉沢久子さんが、今年2019年3月21日、心不全のため101歳で亡くなられた。吉沢さんには弊社としても随分お世話になっただけにとても残念である。吉沢さんは幼い頃に両親が離婚したので、母堂に女手一つで育てられた。しかし、子供ながらに養育費の援助を受けての生活を情けなく思っていたと。自立心はそんなところから育まれたものと思われる。吉沢さんは、手に職をつけようと考えた末に速記者を志す。速記を学ぶ学校に1年ほど通い、速記をマスターしてしまう。「速記学校に残ってしばらく勤めましたが、フリーランスになりました。職業婦人の日給が60銭から80銭といわれた頃に、速記者は1時間で7円頂けました」というから、先見の明があったといわざるを得ない。戦時中は『海と空』という雑誌の座談会に速記者として同席し、原稿に仕上げることをしたらしい。昭和26年、朝鮮戦争勃発の翌年になるが、評論家の古谷綱武氏と結婚する。結婚式などはせず、親戚に紹介されただけだという。義弟となったのは毎日新聞論説委員でTBSのニュースキャスターなどを務め活躍をされた古谷綱正氏である。
 
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27歳から書き始めた戦時下の日記
 
・弊社で出版させていただいたのだが、吉沢さんは戦時中、日記を書いていた。これは綱武氏が戦地に赴く際に、書いておくよう求められたものだ。当時、家族も疎開して無人になった留守宅を、20代の秘書が守った記録ということになる。空襲が激しくなった戦争末期、そこへ毎日新聞記者だった弟の故・古谷綱正氏が社員寮の空爆で住めなくなったからと同僚と移り住み、男性3人を下宿させる非常時の留守居役をかねた。綱武氏の原稿料等が振り込まれると疎開先の家族へと送金、下宿人のためにヤミ物資の購入などもやってのけ、あるじの復員まで家と生活を守り抜いた奮闘記でもある。「ヤミ物価や入手方法など、面白いのよ。これを活字にしておきたくて」とおっしゃっていたが、確かに資料的な価値も認められる貴重な日記となった。

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月刊『清流』に3年間連載されたものを刊行
 
・古谷綱武氏は敗戦の直前に満州から帰国し、平和になってからは婦人論などを書いたのが好評で原稿料が入ってきた。マスコミ関係の訪問者も多く、吉沢さんは鳥の丸焼きを作ったり、大鍋いっぱいのけんちん汁を作ったりした。すると、その料理を簡単に紹介してくれませんか、などといった原稿依頼があり、いつの間にか生活に密着したテーマで書く仕事が増えていった。元々、ご本人は、童話作家になりたいという夢があった方なので、原稿執筆はまったく苦にならなかったという。そうこうするうち、NHKに勤めていた友人からラジオ番組の「若い女性」で台本を書く仕事を依頼される。テレビ放送が始まると、TBSの「テレビ婦人教室」の番組台本を書く仕事、さらには台本を書いて司会もとキャリアアップしていくのである。

  昭和30年代は「もはや戦後ではない」といわれ、日本経済が急速に発展した時期にあたる。一般家庭にも洗濯機や炊飯器が出回るようになり、女性は厳しい家事労働から解放されるようになる。吉沢さんの活躍の場が一気に増えた。どうしたら炊飯器でも、薪で炊いたご飯と同じように美味しく炊けるか、メーカーが工夫をする中でアドバイスを求められた。電化製品ばかりではない。新型の鍋や台所用品なども出回り、その上手な見分け方や使い方を実際に使ってみて体験的にアドバイスをするなどの仕事もしている。着実に家事評論家としての地歩を築いていった。

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月刊『清流』で掲載された対談を単行本化したもの

・吉沢さんの略歴に触れておこう。1918年、東京都江東区深川のご出身で文化学院文科卒業。1941年に速記者から始まり、古谷綱武氏の秘書を務めてから出会ったことをきっかけに1951年に結婚。綱武氏が10歳年上だった。秘書時代は文化学院、東京栄養学院、東京学院に学んだ。生活に関することを経験に生かし評論家となったが、1969年に「“家事評論家”廃業宣言」と書き話題となる。1969年、綱武氏は気心の知れた仲間と勉強会「むれの会」をスタートさせている。会費は一ヶ月5000円で毎月第2日曜日に開催してきた。参加者はそれぞれテーマを決め、勉強した成果を発表し会報も出してきた。この会は綱武氏が亡くなった後も吉沢さんが引き継ぎ続けてきた。

  常時集まるのは12、13人だったという。女性のみならず、県庁を定年退職した男性なども参加していたというから、面白い会であったようだ。すでにこの会も400回以上続いたというから凄い。メンバーの1人であった阿部絢子さんは、物の捨て方をテーマに発表したが、その成果が『モノを整理してスッキリ暮らす』として単行本になっている。研究テーマもレベルが高いものだったことが、このことをもってしても推測される。夫の死後は一人暮らしをしていたが、例えば蔵書の整理なども見事なものである。綱武氏、吉沢さん共に資料としてかなりな数の本を所蔵していたが、「むれの会」のメンバーのツテで福井県春江町立センターの図書館に「古谷綱武・吉沢久子文庫」を作ってもらい、すべて寄贈したという。この辺りも見事な断捨離だと感心するばかりだ。

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弊社の単行本が文春文庫になった

・弊社関連本としては、共著の形での刊行も多く、岸本葉子さんとの『ひとりの老後は大丈夫?』(清流出版、2011年、のちに文春文庫)。笹本恒子さんとの『はつらつ! 恒子さん98歳、久子さん95歳 楽しみのおすそ分け』(清流出版、2013年)。上坂冬子さんとの『年をとる楽しみ まぁるく生きるかトンガッて生きるか』(清流出版、2002年)がある。また、『ていねいな暮らし ここちよい生活歳時記』(清流出版、2006年)、『あの頃のこと 吉沢久子、27歳。戦時下の日記』(清流出版、2012年、のちに『吉沢久子、27歳の空襲日記』文春文庫、2015年)などがあり、増刷になったり、他社で文庫化されたりして、いずれも弊社の財産となっている。

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元気なお二人の対談は今も耳朶に残る

・綱武氏亡き後、一人暮らしを貫いた吉沢さん。微笑ましい趣味の持ち主でもある。実は僕は競馬が大好きだが、なんと吉沢さんも競馬をするというのだ。「実は乳業協議会というところのお仕事に関連していたせいか、団体で競馬見物のお誘いを受けまして府中競馬場に行きました。最初は怖気づいていたんですが、競馬場の雰囲気が洒落ていることと、何より馬の走る姿が素晴らしくてはまりました。馬券も勝ち馬の予想はできないので、好きな名前の馬を買っています」と楽しんでおられる。吉沢さんのお年で競馬などといえば、ギャンブルは不道徳といった印象があるはずなのに、競馬を楽しんでしまうところが素晴らしい。好奇心が旺盛で、世間的な評価などに左右されないのだ。

  吉沢さんはライフワークとして「台所の戦後史」に取り組んでおられた。台所革命は電気釜から始まったといわれる。そして洗濯機が普及する。冷蔵庫、洗濯機、テレビは三種の神器とあがめられた。それに合わせて、台所はどう変化を遂げていったのか、大変興味あるところだが、その後の進展についてはどうなっているのか。研究成果を知りたい気がする。僕が知らないだけで、活字になっているのなら、是非、読んでみたいと思っている。吉沢さんは僕も親しかった清川妙さんとも対談し、『八十歳をすぎてわかってきた大切なこと』(海竜社、2004年)という本を刊行している。僕が敬愛していたこのお二人とも鬼籍に入られた。なんとも残念なことである。ご冥福をお祈りしたい。

ドナルド・キーンさん

清流出版 (2019年4月19日 11:16)

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ドナルド・キーンさんの畏友であり名翻訳者だった徳岡孝夫さんと

・今年、2月24日、日本文学研究者のドナルド・キーンさんが心不全で亡くなられた。享年96であった。松尾芭蕉『奥の細道』や三島由紀夫、安部公房らの日本文学を数多く英訳したほか、能や狂言といった著作によって日本の文学と日本文化を世界に知らしめた功労者である。生涯独身を通したが、古浄瑠璃の復活に尽力したのが縁で、義太夫節や古浄瑠璃の三味線奏者として活躍してきた上原誠己さんを養子に迎えている。春とは思えぬ寒気の影響で、冷たい雨が降り続いた4月10日には、青山葬儀場で「お別れの会」が催され1500人もの人が別れを惜しみ参列したといわれる。

 喪主を務めた養子の上原誠己さんは「父は日本の雨が大好きでした。今日のような日は、窓から外を見て『雨で緑の葉が洗われて美しい』と言っていました。この雨は悲しみの雨ではありません。父の喜びの雨だと思います。平和を愛し、戦争が大嫌いな父でした。自分の希望通り、夢に描いた通り、日本の土になりました」と挨拶した。キーンさんは、コロンビア大学を退職後は、あの3月11日の東日本大震災を契機として、日本国籍を取得し、日本に永住する意思を表明していた。東日本大震災の被災地で、絶望の淵に立たされながらも、静かに列を作って待つ人々の映像に感動したのがきっかけで、「今こそ、日本人とともに生きたい」決意したといわれる。

・2011年(平成23年)9月1日、日本に永住するために来日し「家具などを全部処分して、やっと日本に来ることができて嬉しい。今日は曇っているが、雲の合間に日本の畑が見えて美しいと思った」などと流暢な日本語で語っている。日本に帰化したことで、ご本人が希望したように、日本の土になられたということだろう。その長い生涯において、日本の文学を研究し、翻訳し、世界に紹介し続けた功績はとてつもなく大きい。
 

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徳岡孝夫さんとキーンさんの共著

 キーンさんとは長年の友人であり、共著『悼友紀行―三島由紀夫の作品風土』(中央公論社)もあるジャーナリストの徳岡孝夫さんは「ドナルド・キーンさんが日本永住を決め、日本国籍を取得する時に『アメリカは、国籍を捨てるほどの悪い国ではない』と反対しました。するとキーンさんは『日本を本当に愛しているんだ』と言ったのです。日本に、日本人に惚れた人だったと思います。評論する場合も、日本人の日常行動を見る場合でも、良いものは良い、悪いものは悪いとはっきり言う人でした」。また、「とにかくのめり込む人でしたね。研究では原典に必ず当たる。伝統芸能を学べば、日本文化がよりわかるのではと狂言を習いました。美術や工芸にも造詣が深く、自分の中に日本を取り込んでいたのです」と、キーンさんを偲んでコメントしている。
 
 
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徳岡孝夫さんの名訳で刊行『日本文学の歴史』(中央公論社)

・ドナルド・キーンさんの略歴を書いておこう。1922年、アメリカ・ニューヨークで生まれている。38年に「飛び級」でコロンビア大学文学部に入学。アーサー・ウェイリー訳になる『源氏物語』に感動する。日米開戦後は、海軍日本語学校」で特訓。日本語文書の翻訳や捕虜の訊問を担当した。徳岡さんはこの頃のキーンさんについて「日記や手紙を読んで日本人の心情に触れたそうです。米兵はママのアップルパイが食べたい、などと書いているのに比べ、日本兵はなんと繊細なのかと衝撃を受けたといっていた」と回想している。

 53年、京都大学大学院に留学、永井道雄、川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫、吉田健一らと親交を深める。55年、コロンビア大学助教授。60年、コロンビア大学教授となる。コロンビア大学で教えながら日米を往復し、近松門左衛門、松尾芭蕉など古典を中心に研究を続けた。三島由紀夫とは特に親しくなり、三島の『近代能楽集』や『宴の後』なども英訳している。ノーベル文学賞の選考委員会は、日本文学に対するキーンさんの知見を参考にしていた。68年の川端康成のノーベル文学賞は祝福しながらも、三島由紀夫の受賞を願っていたというのが本心だった、と伝えられている。86年、コロンビア大学に「ドナルド・キーン日本文化センター」を設立。87年、国際日本文化研究センター客員教授。97年、『日本文学の歴史』(全18巻)完結。2008年、文化勲章受章。12年、日本への永住を決め、日本国籍を取得した。2013年、新潟県柏崎市に「ドナルド・キーン・センター柏崎」開館する。

・弊社とキーンさんとの関係にも触れておきたい。一つ目は、1938年英国生まれで『フィナンシャル・タイムズ』東京支局長のヘンリー・スコット=ストークス著、徳岡孝夫訳『三島由紀夫 生と死』(1998年)の単行本企画についてのご協力である。この本を著者や日本語に訳した徳岡孝夫さんと三島由紀夫の友人である日本文化研究家のドナルド・キーンさんが、『三人の友――三島由紀夫を偲んで』のタイトルの下で語り合ってくれた。ヘンリー・スコット=ストークスはこの鼎談では、もっぱら聞き役に回ったが、徳岡孝夫さんの上手な質問で、ドナルド・キーンさんも思わず本音を吐露した発言をされた。この箇所は読む人の特権に任せたい。

 ほかにいろいろと話題の話も盛り沢山だった。例えば、ドナルド・キーンさんと三島由紀夫は、もっぱら日本語で話すようだ。三島由紀夫が学校ではあまり英語を習わなかったが、習ったのはドイツ語だったらしいとの箇所で、僕にとっては面白かった。ノーベル賞の話では、徳岡さんが「もし、三島さんがノーベル文学賞を取っていれば、三島さんの運命は変わっていたとお思いですか」との質問で、キーンが「思います」と答えている。「三島由紀夫が取っていれば、三島も川端もまだ生きていただろうと」との遣り取りがあったが、これも頷ける話である。この鼎談は、東京・有楽町にある「外国人記者クラブ(FCCJ)」のプライベートルームで行なった。僕は「また、チーズとワインを持ってご自宅に行きます」と言ったが、その機会はなく果たされることはなかった。ドナルド・キーン(鬼怒鳴門)さん、残念だとしか言えない。


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ヘンリー・スコット=ストークス著 徳岡孝夫訳(弊社)

 もう一つが、陶芸家・辻清明さんの豪華本の刊行である。弊社では『独歩―辻清明の宇宙』(3万2400円 2010年8月)を刊行したが、キーンさんはその本に推薦文を寄せてくれたのだ。辻さんのご自宅は新宿から京王線特急で30分ほどの聖跡桜ヶ丘駅にあった。駅からタクシーに乗って15分ほど、山の中腹に傾斜を利用して建てられた立派なお住まいがある。玄関前にはちょっとした野外パーティもできる庭があり、竹林がある奥まった場所に登り窯がしつらえてあった。敷地全体には、桜の木を中心とした植栽がなされ、自宅から小道を少し下ったところには、立派な茶室も設えられているといった凝りようであった。


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弊社刊行の『独歩』

 この本には日本を代表する陶芸評論家、作家などから推薦文を頂いた。具体的には、「独歩の人 辻清明」として、頴川美術館理事長、菊池寛実記念智美術館館長などを務めた林屋晴三さん、「てのひらとゆびの?辻清明の器に寄せて」として詩人・谷川俊太郎さんの詩、「辻清明の陶業について」題して美術史家、京都大学名誉教授、金沢美術工芸大学名誉教授、兵庫陶芸美術館名誉館長であった乾由明さん、「陶器に関するエッセイ」と題して芥川賞作家の安部公房さん、そして掉尾を飾ったのが「辻さんの作品」と題してのドナルド・キーンさんの推薦文であった。キーンさんの英文原稿については、徳岡孝夫さんに翻訳の労を取って頂いた。キーンさんを偲んで、この推薦文を抄訳させて頂くことにする。

《初めて辻清明さんに会ったのは、四〇年近い昔で、辻さんと親しかった作家・安部公房さんに連れられてお宅に行き、二時間ほどいた。実はそれまで、辻さんのお名前は聞いたことがなかった。(中略) お宅で作品を拝見する前に、まず辻さんに会って話をした。私の先入観は一変した。辻さんは広く世界の芸術に興味と知識を持つ、面白い人だった。その後で登り窯を見せられた。窯の火はすでに電気、ガスなど、はるかに便利で効率的な火力が使われ始めていたが、辻さんは断固として薪に頼る人らしい。薪の持つ不確定さ、その不確定さがあるからこそ、薪は面白いのだと言った。焼成が正しく行われなければ、半年がかりの作陶の努力は無に帰す。伝統的方式を守る作家は、薪の具合と火加減に心を砕いていた。巧くいったとき、窯は作家自身の想像を超える名品を生み出す。(中略) 辻作品の魅力は、無理のない自然さ、一見すべての技巧を排した素朴さにある。それは、足元から掬い取り、他の陶芸家なら不純物として捨てたであろう小石や木屑も一緒くたに、土をそこに置いたという感じを与える。だがそれは、決して無技巧でも一瞬の閃きでもなく、長い思慮と努力に裏打ちされている。何気なくひねったように見える作品にも、そこには真の芸術家・辻清明の個性がしっかり刻印されているのである。》

 素晴らしい推薦文ではないだろうか。奇才・辻清明という陶芸家の作家魂を過不足なく伝えている。実に惜しい方を亡くしたものである。衷心よりドナルド・キーンさんのご冥福をお祈りしたい。

画家の堀文子さん

清流出版 (2019年3月27日 10:37)

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印象深く魅力的だった堀文子さんとの出会い
 
・日本画家の堀文子さんが2019年2月5日、心不全のため平塚市内の病院で死去された。100歳の大台に乗って、今後、ますますのご活躍をと期待していたのに、とても残念である。僕よりも、もっと悲しんだであろう人がいる。洋画家の野見山暁治さんである。2005年には「堀文子・野見山暁治二人展」をナカジマアートで開催しており、とても親しい関係にあっただけに、さぞやお力落としのことであろうと推測する。堀さんは野見山さんより二つ年上だった。お知り合いになって40年余りというから長いお付き合いであった。
  野見山さんは堀さんについて、次のように評している。「さっぱりと雄々しく、あんなにも艶っぽい、年齢知らずの女性はそうはいない」と……。そして堀さんの絵に対する姿勢もとても評価していた。キャンバスに向かうに当たって、堀さんは真剣さを欠いた絵は絶対に許せない、というスタンスを通した。だから、いい加減な絵を描く画家とは口もきかなかったという。そもそも堀さんは、画家同士のお付き合いを煩わしく思っていた節がある。もちろん、野見山さんは除いてではあるが……。会や団体に属していても、群れるということが一切なく、孤高の画家であったといえるだろう。  

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二人展での堀文子さんと野見山暁治さん
 
・堀さんは29歳で、役人にしては進歩的な考え方をし、柔軟性があった外交官の箕輪三郎氏と結婚する。1960年、42歳の時、その箕輪氏と死別する。翌1961年、初めての海外旅行に出かける。それも3年をかけて、エジプト、ギリシア、イタリア、フランスから、アメリカ、メキシコを放浪している。さらに1995年、77歳にしてアマゾンの熱帯雨林、メキシコのタスコ、マヤ遺跡を取材。1996年には、ポルトガル、1997年には、ネパール、1998年、80歳のときには、ヒマラヤ山麓、ペルーにインカ文明など、精力的に取材旅行を敢行したものだ。さらに驚かされたのは、翌1999年には、81歳にして、幻の高山植物「ブルーポピー」を描くために、ヒマラヤ山脈にスケッチ旅行をしている。
  ブルーポピーは、5000メートル以上の高地に咲く花といわれる。それもガレ場を好んで咲く花である。富士山よりはるかに高い標高であり、そこまで登らなければ見ることができない。これだけの高地になると、この花以外は咲いていなかったというから、やはり高山植物なのだと実感できる。厳しい岩場で咲く孤高のブルーポピーは、堀さん自身の姿勢とも重なり、代表作ともなっている。堀さんはこのブルーポピーを3枚だけ本画に残している。実はこのブルーポピーに注文が相次いだという。高地に毅然と咲いている見事な青い花に、魅力を感じるのは当然である。しかし、いくら頼まれても堀さんは、それ以上、このブルーポピーを描かなかった。描けば必ず売れるのにである。いかにも堀さんらしいエピソードではあるまいか。

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高山に咲くブルーポピー
 
・その堀さんを病魔が襲ったのが、2001年、83歳のときである。「解離性動脈瘤」という病に倒れたのである。奇跡的に自然治癒に至るのだが、闘病中は思うように動くこともできない。そこで堀さんは高解像度の顕微鏡を購入し、極微の世界に惹かれることになる。顕微鏡を覗きながら、微生物の世界を描くことに熱中したのである。「すべての生き物は等しくこの世に生きているのに、人間はあまりにも傲慢になった」と日頃からおっしゃっておられたが、命の根源に触れることによって、その思いを再認識されたのではないか。
  日本画という伝統的なジャンルに属する画家でありながら、堀さんの描く絵のテーマは自由自在であり、破天荒とさえいえそうである。羽切り蟻の行進を描いたかと思えば、蜘蛛の巣と女郎蜘蛛、さらには枝分かれする脳の血管などもテーマに絵を描いている。さらに、顕微鏡による極微の世界に惹かれたわけだ。ミジンコ、クリオネ、クラゲなどの命に、温かい視線を向けられている。《微生物やくらげの不滅の命に触れたことか、私の終わりへの不安を救ってくれた。》とも書いている。こうして新境地を開拓していったわけだが、なんと自由で柔軟な魂をもっている方であろうか。

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顕微鏡を見ながら描いたミジンコ
 
・堀さんの略歴にも触れておく。1918年、東京府麹町平河町に生まれる。永田町小学校、東京府立第五高等女学校を経て、女子美術専門学校師範科日本画部を卒業している。そもそも母堂は信州松代藩の士族出身であり、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に学んだ女性であった。長崎県に生まれの日本画家であり、写実による花鳥画を得意とした荒木十畝に絵の指導を受けたという。女子美術専門学校在学中の1938年に、第2回「新美術人協会展」に入選。1940年、女子美術専門学校を卒業し新美術人協会会員。『キンダーブック』(フレーベル館)、『ふたば』などで挿画や装幀をしたりして生計を立てる。  
  1967年、神奈川県大磯に転居する。1974年、創画会の結成に参画。 1974年に多摩美術大学日本画科教授に就任。その後、多摩美術大学客員教授として日本画の指導を行う。1999年に多摩美術大学客員教授を退任。 1981年に軽井沢にアトリエを構える。1987年にイタリアのアレッツォにアトリエを構える。1992年にアレッツオ市で「堀文子個展」を開催。2011年に女子美術大学より名誉博士の称号を得る。 2001年に解離性動脈瘤で倒れて以降、微生物に着目し、海中に生きる命をモチーフとする作品を発表する。これらの作品は画文集や個展で公開された。自然の中に存在する命や、花鳥をモチーフとする作品を多く制作し「花の画家」と呼ばれた。

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弊社が刊行した著者唯一の対談集
 
・弊社との関係でいえば、堀文子さんの著書の中で、唯一の対談集『堀文子 粋人に会う』を2009年に弊社から出版させて頂いた。お蔭様で増刷にもなり、この本を出させて頂いて本当に幸せだったと思っている。この本の「あとがき」に堀さんらしい記述があるので引用する。
《会話が成立する条件とは、ムダ話を面白く膨らませることができるかどうかだと思います。お互いの思いやりがどれくらいあるかということでしょうね。ムダは損だと思っている人たちがいますが、ムダは真理ですし、美はムダの中にあるものです。
  そういうムダ話をできる人が少なくなりましたね。自慢話が入ってはいけません。成功した人は、自分の功績をいいたがりますが、自慢したい気持ちを抑えるべきです。はにかむ心を持ち続けることです。ちやほやされることが当たり前になってしまったら危険です。》
  確かにこの本に登場している対談相手を見てみると、そのような含羞をお持ちの方ばかりである。対談者と対談テーマを紹介してみよう。
「人生に老後なし」で吉行あぐりさん(美容家)、「ムダ話の長電話」で山本夏彦氏(作家)、「わが師は自然」で鈴木治雄氏(経営者)、「明治の躾」で青木玉さん(随筆家)、「情熱よ、どこへ行った」で瀬戸内寂聴さん(作家・僧侶)、「草や木や風の声」で黒田杏子さん(俳人)、「稲妻のごとく」で山下洋輔氏(ジャズピアニスト)、「出たとこ勝負の潔さ」でタモリ氏(タレント)、「極微という宇宙」で坂田明氏(サックス奏者)などなど、実に多士済済で魅力的な人たちであり、テーマではないだろうか。
  そうかといって堀さんの対人関係の要諦は独特である。親しそうに見えたとしても、馴れはしないという姿勢が一貫しているのだ。
《本当のことをいうとき、相手を傷つけないでいえるようなセンスのある人は、会話の達人です。そういう方に惹かれますが、私は馴れ馴れしくはいたしません。群れない、好かれないことをモットーにしております。
  知り合いは沢山おりますが、友だちではございません。付き合いは水のように淡く、見え隠れがいい関係ですね。師も弟子も持たず、とぼとぼと一人歩き続けてまいりましたが、いつの間にか似たものが自然に集まるのが面白いですね。》と書いている。類は友を呼ぶ、とはよくいったものである。

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堀さんと坂田明さんの対談現場で
 
 ギネス世界記録を更新中の人気番組「徹子の部屋」の背景には、黒柳さんをモデルに堀さんが描いた気高いアフガン女性の絵が飾られている。しかし、実際にお会いし、お話したインパクトにはかなわない。僕はホテル・グランドパレスで行われた、堀文子さんと坂田明さんとのミジンコ対談「極微という宇宙」の現場に立ち会い、敬愛する堀さんとお話をすることができた。そのことをとても幸せに思っている。つくづく、惜しい方を亡くしたものである。衷心より、ご冥福をお祈りしたい。

小池邦夫さん

清流出版 (2019年2月26日 10:17)

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絵手紙講師を前に講演中の小池邦夫さん

・久し振りに小池邦夫さんについて書いてみたい。きっかけがある。実は、「あいつ今何してる?」というテレビ朝日(毎週水曜日、午後7時から)があり、9歳の絵手紙天才少女・山路智恵さんが登場していた。この智恵さんが初めて絵手紙をかいたのが、小池邦夫さん宛てのものだった。智恵さんの母堂が絵手紙を小池さんに師事しており、智恵さんが私もかきたいと始めたのだ。智恵さんは小学校入学と同時に、小池さんを受け手として毎日、絵手紙をかき始める。最初は、マジックで絵本の中の絵を真似てかいたりしていたが、筆を使うようになり、だんだん個性も際立ってきた。言葉がいいし、絵にも迫力が出た。作品も葉書サイズで収まらず、大きくなっていく。小池さんは、塾の講師などもしたことがあるが、生徒の才能を見出し、そして引き出すのがうまい。だからこそ智恵さんも、絵手紙を毎日小池さんに宛ててかいて、1000日、2000日と続けることができたのである。簡単に1000日、2000日というが、六年間かき続けたわけで、とんでもないロングランである。ちなみに『智恵の絵手紙1000日』『もしもーし小池先生 絵手紙2000日』ともに、単行本になっている。
 
・小池さんは、智恵ちゃんもそうだが、ちょっと惰性に流されているなと感じたり、ぐんと腕を上げたと感じた時など、節目節目に直筆の絵手紙をくれる。励ましであったり、お褒めの手紙だったりする。もらった側は嬉しいから、それを励みにまた頑張れるのである。実は智恵さんは、僕もよく知っている。平成12(2000)年の4月号から翌、平成13(2001)年の3月号まで、月刊『清流』に絵手紙の連載をしてもらったことがあるのだ。ナスやミョウガ、サンマや毛ガニなど、季節の野菜や魚介類などの絵に言葉が添えられていた。『清流』読者は中年以上の主婦が多く、絵手紙を楽しむ層とリンクしたので連載は好評を博した。現在、智恵さんは37歳になっている。今も絵手紙を続けている。2020年の「東京オリンピック・パラリンピック」に向け、外国人に東京の魅力を知ってもらうため、東京の見どころ100景を絵手紙にかいているとか。半紙程度の小さなものではない。畳2畳で一つの風景だから、大作ばかりである。小池さんの絵手紙精神でもあるのだが、どんな大きな作品でも、下絵はかかずにいきなり本番である。一気呵成にかききる。これが絵に迫力を生み、線にも緊張感が生まれる。豪雪地帯で知られる長野県栄村に、山路智恵絵手紙美術館があり、智恵さんは、そこの館長も務めている。小池さんの教え子がなんとも大きく育ってくれたものである。才能を見出し開花させた小池さんに拍手を送りたい。

 
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 余談だが、小池さんは40歳過ぎまで、塾で国語を教えていた。教科書通りに教えないから、父母から陰口を叩かれたこともあったらしい。しかし、塾の名声を上げることが起こった。小池さんの教え子が東大に入学したのである。国語力を高めるその方法を聞いて僕は驚いた。なんと小学生の生徒に毎日、自分の家で取っている新聞をスクラップさせた。朝日新聞なら「天声人語」、読売新聞なら「編集手帳」、産経新聞なら「産経抄」を一字一句たがえず毎日筆写をし、疑問点があった場合には、当該新聞社宛に投書をさせた。高学年とはいえ小学生である。習ってない漢字もあるし、難しい言い回しもある。が、とにかく毎日続けさせたのだ。確かにこれなら国語力はつきそうだ。思わぬ副産物も生んだ。というのは朝日新聞の天声人語氏が投書には大いに感動したらしい。しっかり読み込み、わからない点を質問してくるのだから。可愛い手紙がちょくちょく届くことになる。天声人語氏は、小池さんが依頼をしたところ、無報酬で塾を訪れ、2時間ほど講演してくれたそうだ。実にいい話ではないか。


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小池さんの個展会場でツーショット
 
 
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弊社刊行の2冊

・小池さんが、銀座・鳩居堂で個展をされていた時は、必ず見に行っていたのだが止めてしまわれたので、ここ数年お会いできていなかった。小池さんには弊社も大変お世話になった。刊行された小池さんの絵手紙関連本も十数冊にはなろうか。なんとか絵手紙コーナーを書店に設けたいの気持ちはあったが、残念ながら夢に終わった。小池さんが住む狛江市は、絵手紙発祥の地として知られる。小池さんの住まいは僕のマンションとごく近い。隣り組のようなものだ。昨年、『小池邦夫の絵手紙集 自分で光れ』が日本絵手紙協会から刊行された。小池さんの初期の絵手紙中心に編まれたもので、見ていて感慨深いものがある。37歳の時、季刊『銀花』に挿入するため、1年で6万枚の絵手紙をかきあげたが、その夜に最愛の妻・芙美子さんが天に召される。

 失意のどん底に落ちた小池さんは、半年間でたった31枚しか絵手紙をかけなかった。その血反吐を吐くようにしてかいた絵手紙を、小池さんは食べるために個展で売ろうとした。1枚たった2000円である。中学時代から親友の正岡千年さんは、作品がバラバラに散逸してしまうからと止めたそうだ。すると小池さんは、「わしゃあ百姓の出だ。人参や大根を売るのとおんなじだから売る」という。正岡千年さんは真の友である。個展初日に、この31枚すべてを買い取り、無くさないよう封筒に入れた。それを30年間持っていた。それを2010年の「絵手紙の日」が制定された日、亡き芙美子さんの教え子でもある今の奥さんの恭子さんに「記念だから」と渡したのである。小池さんの絵手紙の名キャッチャー、その正岡千年さんの本も出させて頂いた。小池さんとの50年間の友情がにじみ出ている本である。絵手紙はいいキャッチャーがいるから楽しいのだ。世界でたった1枚しかない絵手紙が届く。もらう側も、心がときめくはずである。


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名キャッチャー正岡千年さんの著書

・名キャッチャーといえば、小池さんは日本絵手紙協会の新企画として「自分で光れ」をテーマに1年間絵手紙をかき続けようと提案している。具体的には挑戦したい人は、絵手紙を受け取ってくれるキャッチャーを決め、日本絵手紙協会にエントリーするのである。エントリーすると「エントリー証」が届く。そしてキャッチャー役に宛てて、毎日かき続けるのである。小池さんはこの企画への参加者を50―60人くらいと予想したらしいが、実際は2月下旬の時点ですでに1000人を優に超えたという。5月まで募集されるというから、最終的には2000人を超すかもしれない。凄いパワーである。1年間かき続けて、達成報告書を提出すると、「小池邦夫のオリジナル達成証」がプレゼントされるという。小池さんは過去に1年間かき続けた人たち、また小池さんご自身の経験からして、1年間休まずにかき続ければ、相当、絵手紙に飛躍が認められると確信している。第二、第三の山路智恵さんも出てくるかもしれない

 小池さんが提唱した絵手紙精神「ヘタでいい、ヘタがいい」を見たり聞いたりしたことがあるかも知れない。実は僕もリハビリの一環として絵手紙に挑戦したことがある。いくら「ヘタでいい、ヘタがいい」といわれても、なかなか思い通りにはいかない。絵手紙にはお手本がない。自分で考えて描くしかない。小池さんはいう。「手本に頼ると一生、頼らないとかけない。それより、自分のヘタさに頼るほうがいい。そのヘタさに味があるのだから」と。人間にはつまらぬ見栄がある。上手にかきたい、褒められたいなどと邪念が湧いてくる。小池さんは、上手になったらつまらないという。その人のその人らしさ、味が出ればそれでいいという。僕はその言葉に励まされた気がして、気持ちが軽くなったことを覚えている。

・小池さんは、群馬県の上武大学で絵手紙を教えている。「手がき文化研究所」が学内にあり、その所長が小池さんなのだ。顧問には理事長の澁谷朋子さんが就任し、絵手紙の普及、手がき文化の調査・研究をしている。小池さんは、「直筆文化を廃れさせてはならぬ」の気持ちから引き受けたという。その成果が上武大学の「絵手紙ギャラリー&ミュージアム」開設で実を稔らせた。開設にあたり、上武大学理事長の澁谷朋子さんはこう書いている。
《「絵手紙ギャラリー&ミュージアム」を開設しました。小池邦夫先生の絵手紙を習い始めて22年、大学の美術の時間に絵手紙を導入し7年になりました。学生は絵手紙を楽しみ真剣に取り組んでいます。デジタル全盛の流れに逆らい手でかく喜びを味わう学生の姿を見て、手がき文化の大切さを教えられました。学生たちの絵手紙、地域の皆様の絵手紙、また小池先生の絵手紙などを展示し、皆様に見て頂きたいと考えました。》
 理事長の澁谷朋子さんは、昭和19年、群馬県生まれ。昭和42年、北里大学を卒業。昭和43年、日展評議員・徳野大空氏に書道を、深谷徹氏に油絵を学ぶ。平成4年、小池さんの絵手紙に出会い師事したのである。

 
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小池さんの書になる看板

 実は上武大学には硬式野球部員が230人いる。かなりの大所帯である。その全員が絵手紙を習っているという。そして、なんと絵手紙を習い始めて4年目、その硬式野球部が「第62回全日本大学野球選手権大会」で初優勝を飾った。実力はもちろん、歴史と伝統のある東京六大学野球連盟や東都大学野球連盟の代表校も出場している中で快挙といえる。硬式野球部監督は絵手紙を学んだことが大きかったと小池さんに謝意を伝えたという。小池さんは、飛躍し過ぎではないかと笑ったが、僕は一理ある気がする。というのも、絵手紙は自分をとことん見つめ直す手段として格好のツールだ。自分をどう発信すればいいか、個性を伸ばすにはどうしたらいいか、更には受け取った相手はどう思うかなど、精神的に成長を図る格好のツールなのだ。特にピッチャーとキャッチャーがお互い絵手紙交換を続ければ、以心伝心に極めて有用ではないか。現在、大学日本一になった野球部にあやかろうと、サッカー部員、駅伝部員も参加、運動部の男性陣だけでも400人超が絵手紙を学んでいるという。絵手紙を出す相手は、圧倒的に両親が多いとか。大学に通う息子から両親に絵手紙が届く。普通では考えられない。親は大喜びである。家族の絆も強まっていいことづくめである。小池さんの絵手紙が根付き、芽吹きつつある。今後が実に楽しみである。
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