加登屋のメモと写真…

養老孟司さん

清流出版 (2021年3月23日 11:32)

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写真:臼井雅観

・新型コロナウイルスは「変異ウイルス」の感染者が増えており、政府もその対応に苦慮している。こうしたコロナ禍での巣ごもり生活やテレワーク(在宅勤務)などの影響もあり、空前のペットブームが到来しているらしい。長引く外出自粛や在宅勤務で、疲れた心をペットに癒してもらうという期待感があるのであろう。だから体の大小に極端な差はない猫はともかく、人気の犬の種類は室内で飼えるチワワやプードルといった小型犬種だという。「ペットフード協会」の調査によれば、昨年、新たに飼われたとされる犬猫はおよそ46万匹以上と類推されるとか。一昨年と比較して実に6万匹以上も増加したといわれる。どうしてこんなことから書き始めたかというと理由がある。440万部を超える大ベストセラー『バカの壁』の著者で、ネコ好きとしても知られた解剖学者・養老孟司さんの愛猫「まる」が昨年末のことだが、亡くなったと共同通信社などが報じていた。18歳だったという。なぜ、1匹の猫の死がこのように報じられたのか。それだけ世間的にもよく知られた猫だったからである。

 
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「まる」写真:臼井雅観

・猫の18歳は人間でいえば、90歳近い老猫である。僕は犬猫にはまったく関心がないのだが、この養老さんの愛猫「まる」の死の報道は、僕の心の隅にあった記憶を呼び起こした。たしか対談企画で弊社の藤木君と臼井君が、養老さんの鎌倉のご自宅に伺ったときの様子を聞いていたからだ。科学ジャーナリスト・林勝彦さんと養老さんの対談企画で、何回か収録をして原稿にまとめようとするものだった。二人からはこんな話を聞いていた。春のポカポカ陽気に誘われて、「まる」が養老邸の縁側でのんびり昼寝をしていた。たまたま家の普請中で、その日、養老邸には職人さんが何人か来て作業をしていた。その職人さんに、「まるが歩き回ることがあるから、蹴とばさないように足元に気を付けて」と養老さんが注文をつけていたのだという。養老さんが、いかにこの猫を可愛がっていたのかがこの話からも偲ばれる。

・「まる」はスコティッシュフォールドという種類の猫だという。耳が寝ているのがこの種の猫の特徴だ。愛嬌のある猫で写真集になるほどの人気ぶり。養老さんは『猫も老人も、役立たずでけっこう』、『うちのまる 養老孟司先生と猫の営業部長』、『そこのまる 養老孟司先生と猫の営業部長』、『まる文庫』、『ねこバカ いぬバカ』など、猫についての著書も多く出版している。2017年には、養老さんと「まる」の日常生活を綴ったNHKの人気ドキュメンタリー番組『ネコメンタリー 猫も、杓子も。』の初回放送に、「養老センセイとまる」というタイトルでテレビ出演している。放送後、全国の猫好きを中心に大反響となり、後日、特別編となる『養老センセイと“まる”鎌倉に暮らす』が放映されている。養老さんのプライベートな時間の過ごし方などとともに、「まる」の存在は世間に広く知れ渡ることになったのである。「まる」が、名物猫として来客を迎えるので、訪れる編集者の間でもよく知られた存在だった。

 
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河出書房新社 2018年 有限会社養老研究所 2010年

・臼井君は北の丸公園の野良猫を撮り続けてきたほどの猫好きだから、「まる」の写真もちゃっかり撮ってきた。写真を見ると、なるほど大きな猫で顔付きも愛嬌たっぷり。縁側に我が物顔で鎮座している。動作もゆっくりで、貫禄さえ感じるほどだ。しかし、動物の寿命は人間より短い。2002年生まれだという「まる」は歳とともに、心臓の筋肉が固くなる拘束型心筋症を患い、晩年はほぼ寝たきりの状態が続いていたという。そして心不全により天国へと旅立ってしまった。養老さんは、自らの著作で「死といかに向き合うべきか」「死を受け入れることについて」を説いてきた一方で、「まるは、私の生きることの “ものさし”である」とも語っていた。その愛猫が亡くなって、そのご心痛はいかばかりであろうか、察するに余りある。

・実は弊社では、養老さんの対談本を3冊出させて頂いている。ライフサイエンス出版から病院薬局向けに刊行されていた『薬の知識』という月刊誌に、1997―2004年にかけて掲載されていたものを弊社が単行本化させてもらった。養老さんの対談相手は実にバラエティに富んでおり、テーマも相手次第で自在に変わる。対談者も小説家、考古学者、生物学者、漫画家、彫刻家、武術家、画家、精神科医、指揮者、役者、メディア作家、写真家など実に多岐にわたっている。対談の内容は得意の人体や解剖学、昆虫の話から、言語学、日本の病理、文明論、食文化、芸術論など、多様多彩な人物との対話によって対談テーマは一層深まり、説得力を増している。


・1冊目は『話せばわかる――養老孟司対談集 身体がものをいう』で、16人のゲストが登場し、心ときめく対談をしている。対談相手と対談テーマについて触れておく。対談内容をなんとなく分かっていただけよう。1人目はなんと猫ブームの立役者の1人岩合光昭さん。テーマは「フィールドワークは動物的勘で」であった。以下、神谷敏郎(非言語的コミュニケーション)、田部井淳子(人間は歩く動物)、立川昭二(“固い社会”を身体で変える)、石毛直道(日本人の食文化と自然)、橋本治(身体感覚を信じる)、山本容子(人は何を表現するのか)、竹宮惠子(マンガと解剖)、中村紘子(演奏家の身体)、岩城宏之(日本人の音楽的アイデンティ)、米原万里(論理の耳に羅列の目)、天野祐吉(言葉の響きと黙読)、日野原重明(身体運動と脳の入出力)、北林谷栄(においと体験の記憶)、大森安恵(“人間らしい生活”という価値観)、多田富雄(能と脳の可能性)となっている。テーマをざっと見ただけでも、読みたくなったと心誘われた方もいるのではないだろうか。


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(2003年9月)

・続いて2ヶ月後に刊行されたのが、『見える日本、見えない日本――養老孟司対談集』である。いま、何を信じて生きたらいいのか?  混迷する現代日本への処方箋ともなっている。対談相手の15人とその対談テーマに触れておく。荒俣宏(混ざる文化・混ざらぬ文化)、奥本大三郎(虫を愛でる日本人の自然観)、田崎真也(香りの認識のメカニズム)、酒井忠康(日本の景観とパブリック・アート)、藤原正彦(数学と日本的美意識)、水木しげる(無意識に身を任せる)、横尾忠則(魂の復権)、岸田秀(現実とは脳が作り出した産物)、中村桂子(“個”を救済する新たなシステムを)、上田紀行(疑似“癒し”からの脱却)、大石芳野(ベトナムの森に思う)、池内紀(言葉の壁を超えて)、ピーター・バラカン(メンバーズ・クラブの国、日本)、阿部謹也(“世間”から飛び出して生きる)、黒川清(“本気”のスピリット)。この本の対談で僕は、博覧強記同士の荒俣宏さんとの対談が特に面白かった。海洋生物採集で奄美大島を訪れていたという荒俣さんが、黒潮による影響で、奄美大島は鳥羽や伊勢神宮周辺の言葉につながると語ると、養老さんはマイマイカブリのDNAから日本列島の形成史を語ることができるなどと返し、僕には興味津々の対談であった。


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(2003年11月)

・3冊目が翌2004年7月に刊行された『生の科学、死の哲学――養老孟司対談集』で、19人の斯界の第一人者と対談している。対談者と対談テーマを掲げておく。夢枕獏(生物と自然の不思議な話)、佐原眞(解剖学と考古学)、中村方子(ミミズのいる豊かさ)、東海林さだお(生物の感覚という自然)、妹尾河童(記憶、生命、連綿と続いてゆくもの)、舟越桂(身体をめぐる具象と抽象)、甲野善紀(古武術が語る身体の可能性)、吉村作治(集めて、調べて、考えるおもしろさを発掘する)、安部譲二(生体と死体、どちらが怖い?)、安野光雅(生と死への処方箋)、船曳建夫(自己意識を舞台に上げる)、香山リカ(スピリチュアルとマテリアル)、佐藤雅彦(ひらめきは快感とともにやってくる)、いとうせいこう(鏡の錯覚、公私の錯覚)、池田清彦(二十一世紀の代謝と循環)、池田晶子(身体を使って考え続けよ)、夏目房之介(マンガの文法を“脳”で読み解く)、関川夏央(憂国の時代)、橋口譲二述(生きる哲学との出会い)。解剖学、哲学から社会時評まで、縦横に語り尽くしている。


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(2004年7月)

・ある対談ではライフワークともいうべき昆虫話で盛り上がり、さらにスパークして話は飛翔する。ある対談では日本の病理に言及し、一体どんな処方箋が必要なのかを語る。そして心からの共感を呼び、励まされる対談もある。知の巨人は実に幅広い知識と蘊蓄を披露してくれる。読者は読んでいて色んなことに興味が惹かれるはずで、これがきっかけとなって、より専門的な勉強をしてみたくなる方もいることだろう。弊社で刊行した対談集の中でも、僕が自信をもってお薦めできる内容だと自負している。ただ、だいぶ前の本なので、古書店でしかお目に掛かれないかもしれない。もし、お手に取って頂く機会があれば幸いである。

なかにし礼さん

清流出版 (2021年2月19日 10:22)

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写真:百瀬恒彦氏

・なかにし礼さんがお亡くなりになった。新聞によれば、2020年秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、同年12月23日に心筋梗塞のため東京都内の病院で死去したとのこと。享年82だった。死後、新聞・雑誌、テレビ番組などで、なかにしさんを偲ぶ記事や追悼番組などが数多く放映されたが、それだけ社会に与えたインパクトは大きかった。なかにしさんは、1938年、中国黒龍江省牡丹江市(現在の中華人民共和国黒竜江省)で生まれた。ご両親は、元は北海道小樽市に在住していたが、満州に渡り酒造業で成功を収めていたのである。終戦後、満州からの引き揚げで家族とともに何度も命の危険に晒される。この壮絶な引き揚げ体験が以後の活動に大きな影響を与える。なかにしさんの実兄は、立教大学から学徒出陣して陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたが終戦となった。この特攻隊の生き残りだった兄が、戦後、北海道で鰊漁(ニシン漁)に投資して失敗、理不尽にもなかにしさんが膨大な借金を肩代わりし、返済に塗炭の苦しみを味わうことになる。


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BSテレビ朝日系追悼番組「昭和偉人伝」より

・兄と同じ立教大学に進んだなかにし礼さんは、在学中の1963年に最初の妻と結婚する。その立教大学の学生だったなかにしさんの才能を見抜いた人が、元タカラジェンヌでシャンソン歌手の深緑夏代さん。彼女に依頼されたことがきっかけでシャンソンの訳詞を手掛けていた。新婚旅行先の静岡県下田のホテルで、『太平洋ひとりぼっち』を撮影中の石原裕次郎と偶然に出会い知遇を得る。石原に「シャンソンの訳詩なんてやってないで、日本語の歌詞を書きなさい」と薦められ、約1年後に作詞・作曲した作品(後の「涙と雨にぬれて」)を石原プロに持ち込んだ。数ヶ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」がヒットする。これが運命の扉を開くことになった。

「知りたくないの」のヒットを機に作詞家になったなかにしさんだが、絶え間なくヒット曲を量産し続ける表の顔と、実兄の常軌を逸した放蕩が生んだ借金に苦しむ裏側の顔が交錯し続けた。そんな絶望と向き合うことで絞り出すようにできた歌が、やがて奇跡を呼ぶことになる。それがあの名曲「石狩挽歌」や、「時には娼婦のように」である。レコードの年間売上枚数1500万枚という金字塔を打ち立て、生涯4000曲もの作詞をした、阿久悠さんと並ぶ昭和を代表する作詞家となっていた。そして昭和の大スター、美空ひばりに「われとわが身を眠らす子守唄」を、石原裕次郎に「わが人生に悔いなし」と「遺書」のような歌詞を贈った後、小説家の道へと歩み始める。

・なかにしさんは、どうしても書きたいテーマがあった。それが前述した特攻隊帰りの兄との確執である。16年間絶縁状態だったなかにしさんの元に、兄の死の報せが届く。胸中によみがえる兄の姿。戦後、破滅的に生きる兄に翻弄され、巨額の借金の肩代わりを強いられた。そんな兄と弟のどうしようもない絆を、哀切の念をこめて描いたのが小説『兄弟』だった。その後も直木賞受賞作『長崎ぶらぶら節』、NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の照子さん』を始め、『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』『世界は俺が回してる』『夜の歌』など話題作を次々発表している。

・実は弊社でも、なかにし礼さんがホスト役を務めての対談本『人生の黄金律』シリーズを3冊出させて頂いている。それだけになかにしさんの訃報を聞いた時、僕はガックリするほど脱力感に襲われた。彼の対談本の販促には、僕も力を入れたので当時の記憶は鮮明に残っている。大手出版社で出せばもっと売れたと思われるのも癪なので、随分、広告宣伝費も投入した。準レギュラー枠を持っていた朝日新聞夕刊の全五段広告、『週刊文春』、『週刊新潮』等にも広告を掲載し、販促に注力したものだった。

 元の原稿はといえば、『婦人画報』(アシェット婦人画報社)に3年間にわたって連載されたものだった。当該、対談の担当編集者が自社で刊行が難しいので、と弊社に刊行を依頼してきたのが発端である。僕はビッグネームの対談ということもあり、願ってもない話なので企画を即決した。後はなかにしさんのOKをもらうだけとなった。ほどなく、秘書の梅田恵子さんから、刊行をお願いするに当たり、一度顔合わせをしたいとの連絡があり、編集担当の臼井君が出向いた。臼井君によれば、なかにしさんは出版広告等で弊社をよくご存じで、刊行に向けていい雰囲気だったという。ただ、話の途中で、持病の心臓病薬を何種も服用されていたのが、気がかりに思ったらしい。
 

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2003年8月、弊社より刊行

 
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森光子さんと 写真:百瀬恒彦氏
 
・なかにしさんは、テレビ朝日系列で放送されていた『ワイド! スクランブル』のコメンテーターを務めていたが、2012年3月5日の放送で、食道癌であることを報告し、治療のため休業することを明らかにした。医師たちから抗がん剤治療、放射線治療、手術といった各種治療法の説明を受けるが、自分の心臓は長い手術や放射線治療には耐えられないと考え、他の治療法を探し続ける。インターネットで調べるうち最先端の陽子線療法を知り、それに賭けたのである。費用については、後に、阿川佐和子さんとの『週刊文春』の対談で明かされている。「僕は300万円の自己負担でした。先進医療だから保険は適用されない。でも、それをただ“高い”というのは違うと思うんです。だって、普通のがん手術だって、入院すればそのくらいかかることもあるでしょう。研究促進のため、陽子線治療には国からもお金が出ている。だから僕は本に《ありがとう日本!!》と書いたんですけどね」と語っている。その決断が吉と出て、闘病の結果、食道癌を克服し、同年10月に現場復帰を果たす。しかし、2015年3月、自身のラジオ番組『なかにし礼「明日への風」』で癌が再発したので休養することを明らかにした。そして再度、癌に打ち勝って再起を果たす。なんという粘り腰であろう。再発した癌治療にもう陽子線療法が使えないという逆境の中で、どうやってがんに克つことができたのか。絶対に諦めないという強い心がなければ、到底乗り越えられない。僕には想像もつかない精神力の強さである。


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2003年8月、弊社より刊行


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北野武氏と 写真:百瀬恒彦氏

・弊社刊行の『人生の黄金律―なかにし礼と華やぐ人々』と題したシリーズは、「自由の章」「共生の章」「勇気の章」の3部作であった。具体的に登場したゲストは実に多士済々だった。なかにしさんの交流の広さには驚くばかりだった。「自由の章」の対談相手は、瀬戸内寂聴、岸惠子、コシノジュンコ、中丸三千絵、美輪明宏、市川新之助、田村亮子、荒木経惟、富司純子、森光子、渡辺貞夫の各氏。勿論、魅力的な方ばかりだが、とりわけ僕は、荒木経惟と渡辺貞夫の両氏が好きだったので、天才アラーキーの写真命の熱愛の心と世界のナベサダがどうして生まれたのかを興味深く読んだ。柔道のやわらちゃんとの回でのツーショット写真は、柔道技(払い腰だろうか)で投げられんばかりのなかにしさん。いつに変わらぬサービス精神ぶりが窺えた。


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2004年10月、弊社より刊行

「共生の章」では、黒柳徹子、宮沢りえ、黒川紀章、小宮悦子、五嶋みどり、柳家小三治、コン・リー、黒鉄ヒロシ、松坂慶子、細川護煕・細川佳代子夫妻、錦織健、北野武の各氏であり、これまたバラエティに富んだ人選となっている。この本では、黒川紀章氏との対談テーマ『「弱さ」を認める精神が「共生」を育む』を興味深く読んだ。今でこそ共生という言葉は周知の言葉だが、黒川氏が最初に提唱したものだという。世界的な映画監督となった北野武氏とのテーマ『暴力と死は、優しさと愛』では、映画監督になるに至った経緯が語られる。また、コン・リー氏との対談写真では、なかにしさんもチャイナ服で登場。実にさりげない気配りで、ゲストと交感を深めているのが印象的だった。 

「勇気の章」は、あの長嶋茂雄をはじめ、鳳蘭、安藤忠雄、ピーコ、立花隆、池田理代子、加藤登紀子、篠田正浩、石井好子、横尾忠則、仲代達矢、筑紫哲也の各氏。3冊ともに、ほどよい距離感で相手の魅力を引き出しながら、自らの来し方も語っている、実に味のある対談集になっている。写真は百瀬恒彦氏から拝借した。彼は『婦人画報』の対談を撮影してきたカメラマンだったが、偶然にも臼井君の高校の同級生。そんな幸運もあって、単行本に所収する写真は快く拝借できた。

・昭和という時代に対する「恨みつらみ、愛と感謝、旧満州への望郷の思い」という三つの要素が作詞の源泉と語るなかにしさん。朝日新聞の追悼記事でも、旧満州から始まるなかにしさんの人生は、「戦争への甘美なる復讐」という言葉に凝縮されていると綴る。癌の闘病生活以降は、自らの戦争体験に基づき平和の尊さや核兵器・戦争への反対を訴える著述が多くなった。「僕たち戦争体験者は若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません」とも語っている。僕も5歳の時、信州に疎開を余儀なくされ、戦争の悲惨さを知っている。なかにしさんの平和への熱い思いは、戦争体験者が受け継ぎ語り継いでいかねばなるまい。

野見山暁治さん

清流出版 (2021年1月20日 11:58)

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野見山暁治さん

・野見山暁治さん(洋画家・文化勲章受章者)が昨年12月に100歳になられた。ほぼ時を同じくして、わが家へ新刊『どうにもアトリエ日記』(生活の友社刊)が寄贈で届き、一般財団法人野見山暁治財団から『野見山暁治のいま展』のご案内を頂いた。展覧会の場所は東京・日本橋高島屋S.C.本館8階ホールで、会期は1月9日(土)から18日(月)までとなっていた。1959年から2020年までに制作された2メートルを超える大型油彩絵画を中心に約60点、その大半が2000年以降の近作ばかりという。なんという旺盛な創作意欲であろうか。新型コロナウイルス禍の昨年制作されたばかりの大作も含まれているのだから。コロナ禍の下で野見山さんは「やっぱり絵が描きたい。死にたくない」と語っている。100歳にしてこのような大作に挑戦し続けるエネルギーは、一体どこから出てくるのだろうか。僕からすれば驚異としか形容のしようがない。

 さらに2階下がった同館6階では、小品を中心にした展覧会も同時開催され、こちらは1日長い1月19日(火)までと、二本立ての絵画展になっていた。この6階会場入り口に立てられた、野見山さん直筆の看板の文字がまたいい。墨痕鮮やかに『絵描き、道楽、続けて百年、野見山暁治です』と書かれている。独特の書体なので、一目で野見山さんの書だと分かる。こちらの展覧会場も広く、展観された作品もなかなか見応えがあった。ここ数年、野見山さんも健康面で不安がなかったわけではない。軽い脳梗塞や肺炎などで入院もしている。それでも制作ペースや生活そのものが変わらないというのが凄い。「ものを丁寧に見てスケッチをする。そうやって描いているうちに、これがあれば十分、あとはいらないんだと分かってくる。対象に引きずられることなく、自分のうちにあるものを引き出してくるために画面に向き合う」と絵に対する向き合い方を大切に、淡々と描き続けてきた。野見山さんの絵の魅力といえば、グレーを基調にした豊かな色彩とどこまでも自在で奔放に走る筆触とストロークであろう。展観された絵にはそんな魅力が弾けていた。


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会場入り口のポスター


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6階入り口の野見山さん直筆による看板

・1月8日の朝日新聞(夕刊)と1月9日の日本経済新聞(朝刊)でも大きくこの絵画展についての記事が掲載されていた。朝日新聞のインタビューでは、数年前から、「絵を描くことが、こんなに楽しいものかと思うようになった」と答えている。「年をとるとはこういうことか」と実感するようになったのも、この2、3年のことだという。戸外を自由に歩き回れなくなった。食べるのも遅くなり、昨年は肺炎で入院もした。日課について、インタビューにこう答えている。朝8時半に起きて、就寝は夜半の12時半から1時くらい。「起きている間は絵を描いていますっていうんだけど、昼寝やウトウトしている時間も長いから」と苦笑する。これが野見山さんの通常の生活パターンらしい。

 野見山さん関連の図録、単行本などを販売するコーナーの横では、8分間のビデオ映像による野見山さんの昨今の日常生活風景が流されていた。朝起きて、野菜サラダとトースト、そしてコーヒーという朝食を摂っているところ。フランスのノルマンディ地方を旅して、気に入った場所でのスケッチをしている姿。福岡県糸島市にあるアトリエで大作に挑んでいる野見山さんの制作風景。また、昨年、野見山さんの母校・福岡県立嘉穂高校付属中学で、恒例の美術の特別授業をしている姿などが放映されていた。映像からは、肩肘張ることなく飄々として自然体で過ごしている姿が彷彿とされる。特別授業で野見山さんが慈愛に満ちた眼差しで、中学生たちのスケッチする様を見る、そして出来上がった作品を見る優しい目が、印象深く僕の心に残った。


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放映されていた糸島市のアトリエでの大作の制作風景



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  日本経済新聞1月9日付け(朝刊)   朝日新聞1月8日付け(夕刊)
 
・野見山さんは福岡県の筑豊の生まれで炭鉱のぼた山を見て育った。郷里の川や海で泳ぎ、潜って遊んでいた。そんな体験もあってか福岡県糸島市の海辺にもアトリエを構えている。4年ほど前までは、夏場は毎日のように、この海辺で泳いだり潜ったりしていたという。東京美術学校(現・東京藝術大学)で油絵を学んだが、1943年に繰り上げ卒業となり出征。しかし、戦地で肺を患い、内地に送還され、福岡の病院で終戦を迎えた。戦後、パリ留学を経て、画家としての地歩を築いた。野見山さんのパリ留学は31歳のときである。パリには僕が尊敬してやまない椎名其二さんがいた。野見山さんがパリに着いた1952年から、椎名さんが亡くなる75歳まで、ほぼ10年間お付き合いしたという。「モノにも人にも、あまり愛着を持たない。戦争の影響というわけではないが、どこか愛情が薄い気がするのだ」と自身を振り返っているが、野見山さんにとって椎名其二さんは特別の存在だった気がする。

 野見山さんの若かりし頃、画家はみなパリに行きたがった。しかし、そう簡単には行けない。パスポートを申請しても、絵描きには出さないと断られた。日本は貧乏国家で、外貨を持っていなかったからだ。新聞社の特派員、文部省の研究派遣でもないと行けなかった。野見山さんは、奥さんの陽子さんが見つけた「フランス私費留学生募集」の記事を見つけ、審査に通った後、長男として遺産を前倒しでと親を説得して留学を果たした。留学中、椎名さんの生き方に惚れ、影響を受け“プティ椎名”と呼ばれた。在仏実に40年、「東洋の哲人」と周りのフランス人たちから呼ばれた椎名さん。一方、ユーモア好きの椎名さんは、『Le Rire』(笑うという意味)という雑誌を集め、何冊かをまとめて革張り本にしていた。椎名さんは、この本を野見山さんに譲っている。「挿絵を眺めているだけで、人物でも風景でも絵の発想が浮かんでくる」と野見山さんは語っている。

 唐突だが、つくづく人生は出会いが大事だと思う。僕の場合、早稲田大学の学生時代(18歳)に椎名其二さん(当時71歳)と野見山暁治さん(当時37歳)を偶然知ることとなった。だが、残念ながら、優れた先達に出会いながら、自分の人生に十分生かそうとはしなかった。いま思えば、そのようなことに自覚が希薄で無関心だった。いつしか僕は、傘寿を超えてしまった。50代に、二度の脳出血をした。右半身不随の身になった上、言語障害や嚥下障害に日々、悩まされている。もう一度、若い頃に戻れるならば、椎名其二さんと野見山暁治さんからもっともっと学びたいと思う。


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野見山暁治さんと僕


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大作に取り組んでいる野見山さん


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2020年12月、生活の友社より刊行

・『異郷の陽だまり』の「あとがき」で野見山さんは「ぼくは知らないうちに追悼屋にされていた」と嘆いている。昨年12月に刊行された最新刊『どうにもアトリエ日記』(生活の友社刊)の「あとがき」にもそんな思いが綴られている。シリーズ最新刊となる本書では、2017年3月から、『美術の窓』で連載第200回となった2020年4月までの日記が収載されている。刊行する株式会社 生活の友社の創業者・一井建二さん(武蔵野美術大学油絵学科卒)が2017年に亡くなり、担当編集者として野見山さんを終始励まし続け、連載の単行本化も手掛けてきた小森佳代子さんも亡くなった。


 銀座の画廊・秋華洞社長・田中千秋さんのブログを見れば小森佳代子さんがどれどの人物だったかがよくわかる。一部を転載させて頂く。
《美術の世界で横串を通して何かを成し遂げようとしたら、知っておくべきだろう。おおきな企画をやるとか組織を作るとか本を編むとか、埋もれた情報を掘り起こし、人の前に何かを明らかにする、少し大きな仕事をするには、誰に協力を求めるのが最も適切なのかを判断し、その人を取り巻く人脈や付き合い方の機微を知らなければ、なかなか物事は動いていかない。そこで人との強い絆を作り、最大限の協力を得る事。それには、仕事への愛、人への愛が必要だ。美術の世界でそうした裏表をよく見聞きし、それでいて本人は裏表のない、明るく、情に厚く、約束を守る、広く信頼される人材が美術の世界にひとり居た。それは生活の友という会社の小森佳代子さんである。》
 まだ40代の若さで逝ってしまった小森佳代子さん。僕は小森佳代子さんとは、銀座のイタリアン・レストランで食事をご一緒したこともある。弊社で野見山さんのアトリエ日記をまとめた『アトリエ日記』、『続アトリエ日記』、『続々アトリエ日記』を刊行させて頂いた。その際には、データ原稿の手配、掲載するイラスト選びなどのお手伝いをして頂き、随分お世話になった。編集者としても素晴らしい才能の持ち主だった。野見山さんもさぞご心痛だったかと思う。心よりご冥福をお祈りする。

堤江実さん

清流出版 (2020年12月18日 10:50)

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堤江実さん

・12月初旬、ショッキングな葉書が届いた。堤大介さん・堤未果さんの姉弟連名で、「去る11月19日、母 江実が八十歳で永眠いたしました」という知らせだった。江実さんはこのところ体調が思わしくなく、入院をしていたらしいのだが、ついに帰らぬ人となってしまった。僕と同い年なので話も合い、特に親しみを感じていたので本当にショックを受けた。葉書には、江実さんのホームページに「お別れの言葉」を残しているとあった。emitsutsumi.o.007.jp/を半信半疑で僕も見てみると、確かに「人生の大切な皆さま」に宛てと題し、お別れの言葉が綴られていた。それも亡くなった日の日付入りである。多くの人との出会いを通じて、幸せな人生を終えられたことへの感謝の言葉である。なんと凄い人だろうと僕は言葉もなかった。江実さんならではの見事な人生の幕の引き方であった。江実さんには、弊社から翻訳本、エッセイ集、童話と単行本もたくさん出させて頂いた。


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左より杉田明維子さん、堤未果さん、堤江実さん


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文・堤江実さん 絵・杉田明維子さんの共作(清流出版)

・堤江実さんの経歴を簡単にご紹介しておこう。1940年、東京都の生まれ。立教大学文学部英米文学科卒。文化放送アナウンサー、グリーティングカード、ラッピングペーパーの(株)カミカ経営を経て、詩、翻訳、エッセイ、絵本など幅広いジャンルの著作がある。自作の詩の朗読コンサート、ワークショップ、日本語についての講演、研修に従事してきた。主な著書に『ことば美人になりたいあなたへ』(清流出版)、『日本語の美しい音の使い方』(三五館)、『アナウンサーになろう』(PHP研究所)他多数。また絵本には、杉田明維子さんとのコラボの『うまれるってうれしいな』(清流出版)、画家・出射茂さん、国立環境研究所主任研究員・功刀正行さんと三人の共著となる『水のミーシャ』(読書推進協議会賞)『風のリーラ』(ユネスコ・アジア文化センター賞)『森のフォーレ』(ユネスコ・アジア文化センター賞)の以上3部作が清流出版から出版されている。その他にも、堤大介さんとの共著である『あ、きこえたよ』、『流れ星のリリリ』(以上PHP研究所)、『ルナ・おつきさんのおそうじや』(講談社)他多数。2011年には、詩と絵本の活動に対して、東久邇宮文化褒賞を受賞している。


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左より出射茂さん、江実さん、功刀正行さん


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受賞楯と共に清流出版刊行の絵本3部作 

・堤江実さんはジャーナリスト・堤未果さん、国際的なアニメーター・堤大介さんと二人のお子さんを女手一つで育て上げた。僕自身は子育てに関しては、任せ切りで関知せず女房の顰蹙をかってきた。翻って江実さんは、確固とした教育方針の元、お二人を国際人に育て上げた。何か秘訣があるはずだ。僕は子育ての要諦について尋ねたことがある。二人とも和光中学・和光高校で学んでいる。なぜなのか尋ねてみると、「和光学園ではクラスに必ず何人かずつ、障害のある子がいるんです」という。障害のある子どもたちと日々日常的に接することで、当たり前のように人を思いやる心が育まれる。弱者への温かい視線がごく自然に養われる、そんな環境を子どもたちのために選んだのである。この辺り、将来を見据えた、江実さんなりの深謀遠慮なのではないだろうか。
 
 そして二人のお子さんを、卒業と同時にアメリカ留学させている。特に大介君は野球に熱中した高校時代を送っており、背中を押されなければ留学はなかったかもしれない。江実さんは将来のグローバル・スタンダードを見越し、乗り切るための基礎作りをしてあげたのか。実際、未果さんはニューヨーク州立大学を経て、同大学院修士課程を修了。国連、アムネスティインターナショナルのニューヨーク支局員を経て、米国野村證券に勤務中、あの9.11に遭遇する。衝撃を受け日本に帰国後は、アメリカ―東京間を行き来しながら、執筆・講演活動を続けている。『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波書店)は衝撃的だった。同書は、「日本エッセイストクラブ賞」、2009年の「新書大賞」を受賞し、ベストセラーとなった。岩波書店からは『ルポ 貧困大国アメリカII』、そして『(株)貧困大国アメリカ』と執筆刊行、シリーズ3部作を完結させている。


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弊社に来社した時の堤未果さん

・堤大介さんも高校卒業後、ニューヨークに渡り、油絵を「スクール・オブ・ビジュアル・アーツ」に学んでいる。1998年の卒業後、ルーカス・フィルム傘下のルーカス・ラーニングで、スタッフ・イラストレーターとして働き始める。2000年、ブルースカイ・スタジオに、視覚効果/色指定担当のアーティストとして採用され、『ロボッツ』『アイスエイジ』、そして『ホートン/ふしぎな世界のダレダーレ』の制作に携わる。 2010年、ピクサー・アニメーション・スタジオに招聘され入社。アカデミー賞を受賞したアニメーション作品『トイストーリー3』 のアートディレクターに就任している。しかし、7年間勤めたピクサー・アニメーション・スタジオを退社、ピクサーで働いていた信頼する同僚ロバート・コンドウさんと二人で独立を果たした。


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トイストーリー3のDVD

 ピクサーで、しかもアートディレクターという大役を任され、自らドリームジョブと評した会社をアッサリ辞めてしまうとは……。その真意が2016年に銀座「クリエイションギャラリーG8」で開催された二人の新作アニメ「ダム・キーパーの旅」を展示した「トンコハウス展」で明かされていた。トンコハウスとは立ち上げたアニメーションスタジオ名である。居心地のよい環境にどっぷり浸ってしまわず、「ゼロから何か新たな世界をもがき苦しみながら作っていきたい」との熱い思いから独立を選んだという。今この経験をしておかなければ、自分の成長は止まってしまうと考えたからだ。ちなみに彼らの初作品となる短編映画「ダム・キーパーの旅」は受賞を逃したものの、2015年の米アカデミー賞にノミネートされている。僕は大きな夢をもち努力する二人の若者を応援したい。米アカデミー賞受賞も夢ではない。大きく羽ばたいて欲しいものだ。


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堤大介さんの新しい門出「トンコハウス展」にて


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堤江実さんと僕

 このような江実さんの子育てに関する考え方は、次代の子どもたちの子育てに役立つと確信した僕は、原稿執筆をお願いしたいと思っていた。その意味でも、突然の訃報はとても残念だった。江実さんは、音楽家とコラボしながらの詩の朗読会を毎年開催した。僕も港区白金台のレストランで行われた朗読会に、何度かお邪魔させて頂いた。会場で経理を担当していた女性が、なんと僕の中学校時代の同級生で、話が盛り上がったこともあった。詩を朗読する時の、あの柔らかトーンの声は、さすがアナウンサー出身ならではであった。
 前述した連名葉書によれば、江実さんのたっての希望だった『堤江実 全詩集』の刊行準備をお二人で進めているとのこと。素晴らしい親孝行になると思う。天国にいった江実さんも、きっとその刊行を心待ちにしているに違いない。1日も早く刊行にこぎつけることを僕も切に願っている。

辻輝子さん 植田いつ子さん

清流出版 (2020年11月24日 10:11)

●辻輝子さん
 
 
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陶芸家・辻輝子さん

・月刊『清流』のバックナンバーを繰っていて、陶芸家・辻輝子さんにご登場頂いたことを思い出した。輝子さんに僕が最初にお会いしたのは、かれこれ半世紀前になる。僕の古巣であるダイヤモンド社に勤務していた時代のことである。僕が編集担当していた『レアリテ』誌の取材でお会いしたのだ。当時、ダイヤモンド社はフランスの雑誌『レアリテ』の日本語版刊行を検討していた。その時、ダイヤモンド社の副社長である石山四郎さんのご指名により、責任者であった僕は、それに向けて入念な下準備をした。版権の交渉や編集技術、販売・広告戦略のノウハウを取得するために、パリにしばらく滞在して、『レアリテ』の本拠地であるSEPE社のあらゆることを学んだ。そしてようやく日本語版が軌道に乗り始めた頃、陶芸家・辻輝子さんを取り上げさせて頂いたというわけだ。

 輝子さんはまさに女性陶芸家の草分け的な存在。作陶のテーマは一貫していて「自然」であった。「あるがままの自然の美を、陶器の中に映しとり、神様の作った自然の美しさを万分の一でも表現したい」との熱い思いで日々仕事に打ち込んでおられた。「近所を散歩するだけでも、次々にイメージが湧いてきて、時間がいくらあっても足りないほどでした。私にとって自然は師であり、よき友だったのです」と発言していた。また輝子さんは、富本憲吉、北大路魯山人、岡本太郎、棟方志功、土門拳、川端康成といった一流の芸術家、文化人たちと親交を結んでおり、その創作の糧としていた。特に魯山人とは深い親交があり、魯山人は輝子さんに仕事場を譲ろうかという話まで出たというが、魯山人が急死したことによって実現しなかった。


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辻輝子作 手鉢

・輝子さんは、現上皇様、上皇后さまのご愛顧も深く、東宮御所で個展も開かれたことがある。1994年には、伊豆高原に個人美術館である「陶の華美術館」を開館している。 もう一つ、輝子さんが夢中になっていたのが、万華鏡であった。幼い頃、父君に買ってもらったヨーロッパ製の万華鏡に魅せられていたこともあり、陶芸の傍ら自ら万華鏡を作ろうと志した。そして多くの作品を生み、1999年には「仙台万華鏡美術館」を開館させている。この美術館には輝子さん自身が制作した万華鏡作品の他にも、貴重なアンティーク作品、そして現代日本で活躍している作家の作品など多数展示されている。また、オリジナル万華鏡の手作り体験が出来るというのも斬新な試みである。2002年、敬宮愛子内親王の万華鏡を制作したというから、陶芸に負けず劣らず万華鏡の世界でも突出した才能を発揮しておられたといえる。脱線するが、辻輝子さんの原稿を書いた照木公子さんは編集プロダクションを主宰していたが、輝子さんとの出会いを機に「万華鏡の世界」にはまった。その後、照木さんは万華鏡楽会代表に収まり、普及、啓蒙に尽力されている。


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『独歩―辻清明の宇宙』(弊社)

 この辻輝子さんの実弟が陶芸家・辻清明さんである。弊社は辻清明さんの作陶した陶芸品と世界各地で手に入れた収集品を掲載した豪華本を刊行している。『独歩―辻清明の宇宙』(3万2400円 2010年8月)がそれだ。この本には日本を代表する陶芸評論家、作家などから推薦文を頂いた。具体的には、「独歩の人 辻清明」として、頴川美術館理事長、菊池寛実記念智美術館館長などを務めた林屋晴三さん、「てのひらとゆびの 辻清明の器に寄せて」と題して詩人・谷川俊太郎さんの詩、「辻清明の陶業について」と題して美術史家、京都大学名誉教授、金沢美術工芸大学名誉教授、兵庫陶芸美術館名誉館長であった乾由明さん、「陶器に関するエッセイ」と題して芥川賞作家の安部公房さん、そして掉尾を飾ったのが「辻さんの作品」と題してのドナルド・キーンさんの推薦文(翻訳は徳岡孝夫さんにお願いした)であった。特にキーンさんの文章は、奇才・辻清明という陶芸家の作家魂を過不足なく伝える名文であった。ちなみにこの豪華本の写真はすべて、土門拳の愛弟子として知られる藤森武氏が撮影したものである。弊社にとって初の豪華本であり、販売に不安をもってスタートしたが、杞憂に終わり、お蔭様でほぼ完売してしまった。弊社としても豪華本発行に向けていい知的財産になった。




●植田いつ子さん
 
 
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・上皇后美智子様の話が出たので、もう一人上皇后様にゆかりのある女性をご紹介したい。1976年から美智子妃殿下のデザイナーを拝命した植田いつ子さんである。月刊『清流』にもご登場頂いたことがある。毎年、11月の半ばくらいに、東京千代田区紀尾井町の紀尾井ホールでヴァイオリニスト・天満敦子さんとピアニスト・岡田博美さんの「デュオ・リサイタル」が行われる。僕はこのリサイタルを楽しみにしている。天満さんの代名詞ともいうべきポルムべスクの「望郷のバラード」など、1993年の初演以来、すべての公演で弾き続けてきたという。「万という回数を弾き続けているにもかかわらず、一度もまたかと思ったことがない」と天満さんは語っているが、聴く側もまったく同様である。僕は聴くたびに切なく胸に響いてきて、新たな感慨に浸っている。いまから136年前、29歳で獄中死したルーマニアの天才が残したこのメロディが、天満さんの素晴らしい演奏を通して、遠く離れた日本人の心を震わせている。まだこの曲を聴いたことがない人は、是非聴いて欲しい、それもできれば生演奏で。


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仕事中の植田いつ子さん

 天満さんのヴァイオリン演奏は天衣無縫とでも言おうか、自在に音色が飛翔する。ヴァイオリンは名器アントニオ・ストラディヴァリウス「サンライズ」であり、弓は伝説の巨匠ウージェーヌ・イザイ遺愛の名弓である。豪放な音楽ともいうべき天満敦子さんと、完璧なテクニックでクールに、そして繊細な音楽を作り出す岡田博美さんの絶妙のコンビである。このお二人の演奏家の資質がうまく合っているのだ。岡田さんの弾くピアノの切れ味、リズム感のよさは抜群である。それに天満さんの弾くストラディヴァリウスは、まるで複数の奏者が弾いているような超絶技巧に裏打ちされた個性あふれる音色である。このリサイタルには、天満さんが「誠ちゃま」と呼ぶ親しい間柄の窪島誠一郎さんも常連である。その窪島さんのエスコートする女性が僕の関心事でもあった。ある時は、作家の澤地久枝さんであり、デザイナーの植田いつ子さんもよくご一緒しておられた。僕は月刊『清流』にご登場頂いたこともあるので、お会いするとご挨拶させて頂いた。


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窪島誠一郎氏(右)と藤木健太郎君(左)と僕。天満敦子さんの演奏会場「紀尾井ホール」で

 さて、植田いつ子さんであるが、1928年熊本県玉名市に生まれた。桑沢デザイン、文化学院で服飾デザインを学び、56年に東京・溜池のアメリカ大使館にほど近い、小さな2階家の一室に「植田いつ子アトリエ」を開設する。以来、オートクチュールを中心に幅広く活躍してきた。上皇后様の洋服を作り始めた頃、こんなことを言われたという。「意外といろいろな姿勢をとることがあるので、そうした動きに無理のないように作ってくださいね」と。「テレビをよく拝見して、なるほどと納得させられました」。実際、病院や老人ホームでは、ベッドに身を屈めたり、体育館にお見舞いの折りには、膝を床につけ、目の高さで話をされていたからだ。いつ子さんは初めてヨーロッパへ行った時、日本文化と対極にある西洋文化と遭遇した時、相容れないものを感じ、心身ともに打ちのめされてしまった。ヘトヘトに疲れて帰国したいつ子さんは、「取りあえず、日本の古いものに埋まりたくなりました」。すぐに京都や奈良の寺々を訪ね、子供の頃から好きだった仏像と語ることで、心の平穏を取り戻そうとしたのだ。薄暗い寺の一隅から射す陽光に、ぼんやりと浮かび上がる仏像の尊顔を見つめるうちに、「私は日本人なんだ。日本人なのだから、日本人の心で作ればいいんだ」との思いが湧き上がってきた。その時、植田さんは真の日本人向けの「衣装哲学」を体得されたに違いない。「人間の身体は本来丸いものです。服はその身体の上に立体的な型をつくり、人体そして精神までも一致したものでなくてはなりません」と。


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2015年 集英社文庫

 1990年、ニューヨークの国際ベスト・ドレス委員会は、内外記者団に対し、1989年から1990年度における授賞者リストの発表が行われたが、冒頭、上皇后様は、次のような特別な言及をお受けになられたという。「日本の皇后さまは、皇太子妃でいらした頃より、和洋の着こなしとともにこの上なく美しい感覚の持ち主として注目を受けてこられたが、この度、世界の服装界における国際的宝(インターナショナル・トレジャー)との評価をお受けになった」(発表文要約)。植田さんもこの特別な言及には感動一入ではなかったか、と推察するのだ。「自分になじまず、不似合いなものは拒否する勇気も必要です。決してかたくなではなく、柔軟な心を持ち、着るものに着せられず、あまり意識しなくなったときから、真の個性ある装いが出発するものです。何を、どのように選び、どのような方法で、自分の生き方とかかわり合流させるかによって、服の価値も決まります」。デザイナーとしての矜持が伝わってくる文章ではないだろうか。直木賞作家の向田邦子さんとは、15年という長いお付き合いだったという。向田さんの「物を視る場合には、その物の品性を、また人を見る時は、その志の高さを尊重する姿」に惹かれていた。志村喬・政子夫妻に「三人姉妹」と呼ばれ、親しく遊んだものだという。実際の年齢とは違うけれど、頭のよい長女が澤地久枝さん、敏捷でお茶目で、優しい思いやりを持つ次女が向田邦子さん、そして三女が植田いつ子さんという位置づけであったらしい。今頃は、天上で向田邦子さんと植田いつ子さん、姉妹仲良く遊び、語り合っているような気がする。

アルヤ・サイヨンマーさん フジコ・ヘミングさん

清流出版 (2020年10月26日 10:26)

●アルヤ・サイヨンマーさん

 
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会場で歌うアルヤ・サイヨンマーさん  

・自宅で資料関係の整理をしていたら、懐かしい写真が出てきた。フィンランドにアルヤ・サイヨンマー(Saijonmaa,Arja)という歌手がおり、“フィンランドの歌姫”と呼ばれている。彼女が来日して東京都新宿区初台のオペラシティでコンサートをしたときの写真である。実は、弊社はアルヤさんの本の版権を取得し、翻訳出版したのだ。その際、販売促進も兼ねて来日して頂いたのである。僕は原著を手にしたとき、アルヤさんのサウナを通して魂と肉体の「癒し」の大切さを問いかけると同時に、北欧の文化や母国に対する深い愛情や想いが伝わる本だと確信し、版権取得に踏み切った。書名は熟考した末に、『アルヤ、こころの詩――サウナと神話に癒されて』(2002年10月刊)とした。内容を簡単に説明すると、都会の慌ただしい生活を逃れ、故郷へ帰ってきたアルヤさんが、湖畔のサウナで心身の疲れを癒しながらもの思いに耽る。サウナと「カレワラ神話」を介して、現在と過去、現実と幻想が交錯する、彼女の精神世界が垣間見えてくるものであった。サウナの素晴らしさ、サウナにまつわる様々な思い出と逸話、そしてフィンランドに伝わる叙事詩「カレワラ」について語る、詩的で幻想的なエッセイ集である。

 
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『アルヤ、こころの詩―サウナと神話に癒されて』


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アルヤさんと僕

・アルヤさんは、ヨーロッパではよく知られた存在だが、日本ではまだ知名度が低かった。どんな歌を歌う歌手なのか、知ってもらうための意味もあって、僕はこの本に「Millionere Rosor」(「百万本のバラ」のフィンランド語版)ほか、本邦初公開のアルヤさんのヒットナンバー3曲入りのCDを付けることにした。アルヤさんは1965年に歌手としてデビューして以来、これまでに26枚のアルバムを発表してきた。クラシックからポピュラー・ソングまで歌う歌い手として幅広く活動している。また、「フィンランド・タンゴ」という新しい音楽ジャンルも開拓し、ヨーロッパだけではなく、アメリカのブロードウェイやヴィレッジ・ゲイトにも出演し、好評を博している世界的な歌手なのだ。幅広いレパートリーを持ち、フィンランドの民謡や北欧調の現代音楽、サルサなどのラテン音楽なども手掛けている。

・とくにギリシヤの音楽家ミキス・テオドラキス氏とは深い親交があり、たびたび彼とは共演を果たし、世界各地で公演活動を行っている。他にも、ヒューマニタリアンの運動の一環として、各地で数多くのコンサートを開催している。ゴルバチョフ元ソ連大統領が「ペレストロイカ」を発表した1982年のモスクワ平和会議にスペシャルゲストとして招待され、特別コンサートを行ってもいる。スウェーデンの元首相オロフ・パルメの葬儀(1988年)や、ドイツの元首相ウィリー・ブラントの葬儀(1992年)では「レクイエム」を歌ったこともある。国連の平和活動の一環としても、たびたびコンサートを開催してきた。1987年には、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)親善大使にも選ばれている。行動的な国際人なのである。

 
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熱心なファンの栗原小巻さんも駆けつけた

・ヨーロッパでは、よく知られた三人の女性歌手がいる。もちろん、アルヤさんも含めてである。あとの二人はエンヤさんとヤドランカさんである。エンヤさんは、アイルランド出身の歌手で、作曲家、音楽プロデューサーでもある。「ウォーターマーク」(1988年)が成功し、シングル「オリノコ・フロウ」が各国のチャートでトップ10入りし世界的な名声を得た。その後も、「シェパード・ムーン」(1991年)、メモリー・オブ・トゥリーズ」(1995年)、「ア・デイ・ウィズアウト・レイン」(2000年)の各アルバムが数百万枚を売り上げた。

  ヤドランカさんも日本人にはお馴染みの歌手である。16歳の時にドイツに住む叔父のジャズグループに加わり、ベースとボーカルを担当。1984年、サラエボオリンピックのメインテーマ曲を作詞、作曲。自らそのテーマ曲を歌い、一躍ユーゴスラビアの国民的歌手となった。以前から日本文化、特に浮世絵、俳句に興味を抱いており、1988年、日本でレコーディングを行うために来日したが、その間に祖国ボスニアの内戦が酷くなり、それ以降、2011年まで日本を活動の拠点としていたという背景もあった。

・さて、著者を知ってもらうためのコンサートには、新聞各社の担当記者も駆けつけてくれ、記事を書いてくれた。この本の船出には恰好の宣伝材料となったと確信している。特に東京新聞で紹介された記事は素晴らしいものだった。今も僕の印象に強く残っている。また、アルヤさんの熱心なファンだという栗原小巻さんがお忙しい中を参加してくれ、フィンランドの国民的歌手ということからフィンランド大使館からも多くの参加者があったので、とても華やかな会場風景となった。僕は直木賞作家の常盤新平さんとは長いお付き合いだが、新平さんの奥様には、このコンサートで大変お世話になった。陽子さん(会議通訳)にこのイベントの司会をして頂き、大いに会場を盛り上げてもらったのである。外国のそれも売れっ子歌手を、販売促進を兼ね来日して頂いて、イベントを開催したというのは、後にも先にもこれ1回だけ。この時の想い出は、僕の記憶の中に息づいている。


 
●フジコ・ヘミングさん
 

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フジコ・ヘミングさん

・実は先月末の日曜日、WOWOWで“魂のピアニスト”フジコ・ヘミングさんの特集が放映された。なんと3部構成で4時間半に及んだこの特集は、改めてフジコ・ヘミングという不世出のピアニストを再認識させられたものだ。第1部が『フジコ・ヘミング ソロコンサート  ―いと小さきいのちのために― 』と題して、2017年に行われたチャリティーコンサートの録画であった。よく知られた「別れの曲」「月の光」や「ため息」に加え、代表曲となる「ラ・カンパネラ」など、全13曲が演奏された。第2部はドキュメンタリー映画『フジコ・ヘミングの時間』であった。60代後半になって遅咲きのデビューを果たし、一躍人気に火が付いた奇跡のピアニストの知られざる素顔と魅力に迫った秀作映画である。デビュー以来、88歳になった今でも、世界中で演奏活動を続けるフジコ・ヘミングさん。ヨーロッパ、日本、北米・南米と、世界を股にかけて行われるコンサートは、実に年間約60回に及ぶという。チケットは即完売で新たなオファーも絶えない。その情感あふれるダイナミックな演奏は、多くの人の心をとらえ、“魂のピアニスト”と呼ばれている。そんなフジコ・ヘミングさんを2年間にわたって撮影し、これまであまり明かされることのなかったオンとオフの素顔に迫った初のドキュメンタリー映画だ。


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DVDにもなった「フジコ・ヘミングの時間」

・お気に入りのアンティークと猫たちに囲まれて暮らすパリの自宅で迎えるクリスマスの情景、宮大工がリフォームした古民家で過ごす京都の休日、留学時代の思い出が宿るベルリン郊外への旅など、初公開のプライベート映像も満載している。そこから浮かび上がるのは、自分の芸術に対してはストイックであり、私生活では弱者と動物に対して優しく、おしゃれが大好きなフジコさんの愛すべき人柄だ。世界中の人々を魅了してやまないフジコさんの音楽は、どんなライフスタイル・人生から生まれてきたのか。本作は、その秘密を解き明かしていく。

 
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シンガーソングライターで牧師の陣内大蔵氏


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番組中で紹介された弊社の本
 
・第3部が『フジコ・ヘミング 教会ソロ演奏 2020 ―くすしき調べ、とこしえなる響き―』と題し、今年8月に日本基督教団 阿佐ヶ谷教会にて無観客で行われた1時間半の彼女のピアノソロ演奏の模様が放映された。ナビゲーターはシンガーソングライターであり牧師でもある陣内大蔵氏が務めている。この第3部では、この困難な時代に心豊かに生きてゆくフジコ流の心得や自粛生活中の暮らしぶりなど、心温まるインタビューも行われ、好きなピアノ演奏も楽しめる構成になっていた。しかし、なんといっても感動したのは、冒頭に弊社刊『フジコ・ヘミングの「魂のことば」』からの言葉が引用されているのだ。また、番組の中でも陣内大蔵氏がこの本を取り上げており、フジコさんもお気に入りの1冊であることが窺い知れたからだ。残念なことに、現在、在庫がない。増刷ができればいいのだが。

・フジコさんの経歴を復習しておこう。東京音楽学校(現・東京芸術大学)出身のピアニスト、大月投網子さんとロシア系スェーデン人画家/建築家だったジョスタ・ゲオルギー・ヘミング氏を両親にベルリンに生まれる。5歳から母、大月投網子さんの手ほどきでピアノを始め、10歳から、ロシア生まれのドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツアー氏に師事する。東京芸大卒業後、28歳でドイツへ留学。ベルリン音楽学校を優秀な成績で卒業。長年にわたりヨーロッパに在住し、ブルーノ・マデルナに才能を認められ、彼のソリストとして契約した。この契約に際し、フジコの演奏に感銘を受けたレナード・バーンスタイン、ニキタ・マガロフ、シューラ・チェルカスキーからの支持、及び援助があった。しかしリサイタル直前に風邪をこじらせ、聴力を失う。失意の中、耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得、以後はピアノ教師をしながら、欧州各地でコンサート活動を続ける。

・1999年2月、ピアニストとしての軌跡を描いたNHKのドキュメント番組、ETV特集『フジコ ―あるピアニストの軌跡―』が放映され大反響を巻き起こす。1999年に発売されたファーストCD『奇蹟のカンパネラ』は200万枚(2012年4月現在)を超え、記録を更新し続けている。2001年、ニューヨーク・カーネギーホールでのリサイタルでは、感動の渦を巻き起こした。2012年には、自主レーベル「ダギーレーベル」を設立。これは、フジコさん自身がリスナーに届けたい曲を、納得できる音質で録音し、世界に発信するという本人の音楽に対する強い決意によるものだという。猫や犬をはじめ動物愛護への関心も深く、長年の援助も続けている。また、米国同時多発テロ後の被災者救済のために1年間CDの印税の全額寄付や、アフガニスタン難民のためのコンサート出演料の寄付、3.11東日本大震災復興支援及び被災動物支援チャリティーコンサートといった支援活動を続けている。88歳を過ぎてなお、年間60回ものコンサートを続けているフジコさん。今後のより一層のご活躍をお祈りしたい。

笹本恒子さん

清流出版 (2020年9月23日 16:43)

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笹本恒子さんと僕

・今月9月21日は敬老の日であった。昨今、元気なお年寄りが多くなり、皆さん人生を楽しんでいるのは嬉しい限りだ。しかし、僕も含め長引くコロナ禍の影響で行動がどうしても制約されてしまうのは、残念なことである。僕の知り合いにもとびきりの元気印の方がいる。男性では僕が敬愛してやまない洋画家の野見山暁治さんを真っ先に挙げたい。野見山さんは、今年12月17日、御年百歳の大台に乗るはずだが、今も現役で画を描き続けておられるのだから凄い。素晴らしいバイタリティである。生涯現役とは野見山さんのような方をいうのであろう。僕など野見山さんより20歳近く年下なのに、病気の後遺症もあって足元も覚束ないのだから情けない。野見山さんは『四百字のデッサン』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しているように、文章もひょうひょうとして味わい深いものがある。月刊誌『美術の窓』(生活の友社)に2003年12月号からというから、17年にもならんとする連載エッセイ《アトリエ日記》は、僕がいつも楽しみに愛読しているエッセイだ。野見山さんは、最近のアトリエ日記で「追悼文ばかり書かされているようで堪らん」と書いておられた。追悼文を依頼されるのは、親しかった証でもあり、残された者の義務として仕方がないのではないか、とも思える。とにかく、野見山さんのエッセイを毎月楽しみにしている読者が全国にたくさんいるのだから、もっともっと書き続けていってほしい。


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地下鉄神宮前駅「いつかは逢える」(野見山暁治 2008年)

・さて女性では、なんといっても日本初の女性報道写真家・笹本恒子さんを挙げたい。今年、御年106歳になられるはずで、女性活躍社会のお手本のような方である。好奇心を大切にし、アンテナを張り巡らし、率先して行動してきた。清流出版を立ち上げた頃の僕は、月刊『清流』に続き、出版部門をスタートさせようと思っていた。出版分野としては、海外翻訳物、文藝エッセイ、実用書、小説、童話などを候補に上げた。更には僕が好きな芸術分野の出版物も柱として考えていた。芸術分野といっても広い。書道や洋画・日本画などの画集、美術エッセイ、写真集などがその候補であった。ちょうど創業から3年ほど経った1996年、写真集の著者候補として恰好の人物にお会いできた。それが笹本恒子さんであった。笹本さんはその頃、あるテーマをもって写真を撮り続けていた。その対象への思いをこう語ってくれた。「女性の権利がまだ保障されていなかった明治時代に生まれ、大正、昭和と走り抜けてきた、この人たちの苦労を残しておかなければならないとの強い思いから、明治生まれの女性を撮り続けてきました」と。

 
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弊社応接室にて

・僕は日ごろから、女性の潜在的なパワーには感服していたこともあり、そのテーマに心を惹きつけられた。写真を見せてもらって、すぐに出版することを決め、笹本さんには写真選びと添える説明文をお願いした。こうして写真集が完成の運びとなった。弊社刊行の『きらめいて生きる 明治の女性たち――[笹本恒子写真集]』はこうして世に出たのである。明治という時代に生まれ、大正、昭和と生き抜き、時代を牽引してきた各界の女性たちは輝いていた。笹本さんは、そんな女性たち60人に直接会い、毅然として生きる姿を活写してきたのである。お恥ずかしい話だが、題字は元気だったころの僕が書いたものだ。


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初版の表紙である 

 ちなみに登場人物は、歌手、小説家、詩人、随筆家、美容家、政治家、経営者、デザイナー、舞踊家など、極めて多岐にわたる。具体名(敬称略)を挙げれば、宇野千代、淡谷のり子、加藤シヅエのほか、佐多稲子、杉村春子、沢村貞子、秋野不矩、住井すゑ、丸木俊、飯田深雪、石垣綾子、井上八千代、北林谷栄、田中澄江、長岡輝子、三岸節子、吉行あぐりの諸氏など錚々たる女性たちが並ぶ。判型もA4変形を採用したので大きく掲載することができ、迫力のある写真集となった。これをきっかけに笹本さんには、何冊か弊社から単行本を出させて頂いた。『夢紡ぐ人びと――一隅を照らす18人』(2002年)、『ライカでショット!――お嬢さんカメラマンの昭和奮戦記』(2002年)、『昭和を彩る人びと――私の宝石箱の中から一〇〇人』(2003年)など、弊社の出版物のラインナップに華を添えて頂いた。

・簡単に笹本さんのプロフィールを紹介しておく。1914年、東京都の生まれ。日本初の女性報道写真家として知られる。1940(昭和15)年、財団法人写真協会に入社。社会派の写真を手掛ける一方、旺盛な行動力で明治の女性たちを手弁当で追いかけ、紹介してきた。終戦後、写真家として復帰し、国内で起こった話題・事件の女性たちを撮り、数多くのグラフ雑誌に掲載したが、活動の場であった写真グラフ誌の多くが廃刊され活動を休止した。約20年間の沈黙を破り、1985年に71歳で国内を代表する著名な女性有名人を集めた写真展「昭和史を彩った人たち」で再び写真家として復帰した。2001年、第16回ダイヤモンドレディー賞、2011年には吉川英治文化賞、2014年、第43回ベストドレッサー賞・特別賞、2016年、米国のルーシー賞(英語版)(ライフタイム・アチーブメント部門賞)など数々の賞を受賞している。2016年3月、それまでに撮影した100点の写真を長野県須坂市に寄贈。2018年、東京都名誉都民に顕彰される。

 また時に笹本さんは、自費出版したという写真集を、売り込みに来社されたこともある。僕は笹本さんからその本が出版に至った経緯を聞くに及び、意気に感じて数十冊購入したことがある。それが『素顔の三岸節子 60年の想いをこめて』である。自費出版してまで三岸節子さんとの約束を守った、笹本恒子という人間に惚れ直したものだ。笹本さんは、1988年にフランスのヴェロンに三岸節子さんのアトリエを訪ねた際、絵と人となりを伝える写真集を出版するという約束をしたのだという。そのまま約束が果たせず、いつしか10年という月日が経ってしまったのだった。


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自費出版(1998年)

 二人の初めての出会いは、1938年にまで遡る。笹本さんは写真家になる前、画家を志していたことがあり、絵を見てもらおうと三岸節子さんを訪ねたことがあった。フランスはパリから南へ130キロ、ブルゴーニュ地方のヴェロン村の三岸邸を訪ねた時には、その時からすでに半世紀近くも経っていた。三岸さんはこう言った。「そういえば、初めて絵を持って私のところにいらした時は、あなたはお下げ髪の少女だったわね。確か新聞社の偉い方の紹介で……」。笹本さんは、三岸さんの記憶力の良さにびっくりしたらしい。そんなに長いお付き合いがあり、約束を果たせなかった笹本さんは、自らの不甲斐なさに切歯扼腕していたことだろう。僕は見本を見て、写真はもちろん、添えられた文章にもほだされた。読むほどに、三岸節子画伯と笹本恒子さんの人間と人間の深い絆がひしひし伝わってきた。僕は編集者が作家とお付き合いしていく上での一つの形として、弊社の編集者にも是非読ませたいと思い、1冊ずつ配ったことを覚えている。
 
 
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PHP研究所刊(2017年)   

・笹本さんは長らく都内の高層マンションに一人住まいをされていたが、自宅で転んで大腿骨を骨折してしまう。立ち上がろうと手を突いた時に、手首も骨折してしまう。あまりの痛さにそのまま気を失い、22時間倒れたままだったという。この時の笹本さんの情況は僕にもよく分かる。僕も似たような体験をしたからだ。僕は、清流出版を立ち上げて以降、編集のほか経理や広告、営業等も見ていたので忙しく、ウィークデイはフェアモントホテル(当時)を定宿にし、週末だけ八王子の自宅に帰るという生活をしていた。午前1時前、ホテルに入浴して浴槽から上がってきて、そのまま脳出血で倒れてしまう。笹本さん同様、ほぼ一昼夜というもの倒れたままであった。不審に思った社員からの問い合わせで、ホテル側がカギを開けて発見されることになった。

 笹本さんの場合も、翌朝、取材で訪れた方が異変に気づき、なんとかカギを開けて発見され、そのまま入院し緊急手術となった。そんな笹本さんに更なる悲劇が襲う。なんと今度は、入院先の病院のベッドから転げ落ち、反対側の大腿骨も骨折してしまう。両方の大腿骨を骨折してしまっては、歩けるわけがない。車椅子の生活となり、一人暮らしを諦めて100歳で鎌倉の老人ホームに入所することになった。老人ホームは安心・安全な場所として重宝されるが、バリアフリーで何もかも介護の人がやってくれるので、身体を使わなくなり筋力低下は否めない。意識しないと頭も使わなくなり、老化がますます進行することになる。笹本さんはそんなことは百も承知だった。自分を鼓舞する方法を知っている。

・「ここに移ってからすぐに、全身が映る鏡を買いました。いつも身だしなみには気をつけなければね。壁には大好きなゴッホの『ひまわり』の絵を飾りました」。気持ちよく暮らしたい、の思いからだという。好奇心を持って前向きにというのが、笹本さんの真骨頂だ。仕事に生き、ときめきの対象を見つける名人でもある。暮らしている老人ホームの最高齢なのはもちろん笹本さんだ。「一番忙しくしているのも私かもしれません。とにかくボーッとしている時間がないの。いつどうなっても不思議ではないから、やり残した仕事を完成させないと、おちおち死ねません」。と意気軒高である。『好奇心ガール、いま97歳』の著書もある笹本さん。今日という日を充実して過ごしている。こんな前向きな生き方、次代の若者たちに是非学んでほしいものである。

バーバラ寺岡さん

清流出版 (2020年8月26日 12:16)

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バーバラ寺岡さん

・バックナンバーを繰っていると、いかに多くの方々にお会いしてきたかを実感させられる。その人たちの支えがあってこそ、僕は、なんとか出版界を生き抜いてこられた。そのお一人であるバーバラ寺岡(本名:寺岡たみ子、1945年3月―2017年6月)さんがお亡くなりになった。腹膜ガンのため、享年72であった。「バーバラ」という名前は、彼女の祖母の名前であり、仕事をするようになった際に姓名判断により選んだ名前だという。バーバラさんには大変お世話になった。月刊『清流』にご登場頂いたし、弊社から2冊の単行本を出させても頂いた。僕は代々木にあったバーバラさんのご自宅に、何度かお邪魔している。砂利を敷き詰めた庭に、外国製の大きなキャンピングカーが止まっていたことがあり、びっくりしたことがある。フォード社製のキャンピングカーだという。広い車内には、ベッドはもちろん、キッチンやトイレ、シャワー等の設備があり、冷蔵庫、電子レンジなど電化製品も完備、食糧品と水さえ積めば、大地震があっても生活できる準備がすべて整っているとのことだった。自らの波瀾万丈の人生経験から、何が起こっても事前に準備しておかなければならない、という考え方になったようだ。

 エネルギッシュな方であり、ポンポンと立て板に水のごとく、ユニークな発想を口にされたのを懐かしく思い出す。実際、アイデアウーマンとして知られ、実に250種以上の発明品の製法特許、実用新案特許、商標権などをお持ちであった。具体的には、包丁やまな板の類から、食器、衣類、絨毯など生活全般にわたっている。例えば「掃除ッパ」である。そもそも商品名からしてユニーク。スリッパの裏にモップを付けたもので、歩きながら床掃除ができるというのがウリであった。また「サバイバル・バッグ」は、ファスナーを開け、裏返すとスポーツバッグになり、もう一つのファスナーを開けて裏返すと、ブルーのナイロン地と黄色のキルティングの寝袋になるという代物だった。また、食べ物では、小麦粉の代わりに玄米粉を使った「玄米粉ケーキ」を発案している。機能性とともに、美的感覚も備えているというのが、いかにもバーバラさんらしいと感心したものだ。


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月刊『清流』の「人間劇場」にも登場した

・もう一つ、バーバラさんは、ある編集者との出会いを演出してくれた。後に弊社出版部長となった臼井雅観君である。実は臼井君とバーバラさんは、臼井君が女性誌の編集者をしていた縁で知り合い、これまでにバーバラさんとのコンビで何冊か単行本を手掛けた実績があった。たまたま僕が波乗社の山口哲夫(グッチャン)君とバーバラ邸を訪れていた時に、臼井君も丁度訪ねてきて、そこで出会ったのだ。聞けば、単行本1冊分に十分な分量の書き下ろし原稿があり、臼井君がほぼ編集作業を終えているとのこと。弊社では、バーバラさんの著になる『美容 健康 爆発 クッキング――バーバラ特効スタミナダイエット食』という本を出させて頂いたばかり。その販売状況の報告と、次の単行本企画の相談でもしようと思って訪ねた矢先である。僕は即断即決した。臼井君の編集企画した原稿で2冊目を出せばよい。渡りに船とはこのことであった。


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『美容 健康 爆発 クッキング――バーバラ特効スタミナダイエット食』

・臼井君がほぼ編集作業を終えていたことから、原稿を受け取ってから刊行までは早かったのを覚えている。書名はバーバラさんの希望も取り入れて、『バーバラ・ウルトラ学――これを知らずして美・食・ファッションを語るなかれ』とした。内容はバーバラさんが、試行錯誤を繰り返しながら、独自に生み出した美容・健康法の指南書といったものであった。新聞広告を出した時の惹句はこんな風になった。《大使令嬢であった著者が美の本流ハンガリーの美・食・ファッションについて、エリザベート皇妃が実践していた本当の豊かさとブランドの使いこなし方を「マリー・アントワネット症候群」の日本女性に贈る》と。ちなみに、エリザベートとは、美人の誉れ高く、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝(兼国王)フランツ・ヨーゼフ1世の妃であり、「シシィ」の愛称で知られた皇妃である。

 表紙は「バーバラ」の名を受け継ぐことになった祖母のバーバラさん、それにエリザベート皇妃、ご本人の三枚の写真をあしらったデザインとした。巻頭のカラー口絵では、バーバラさんの人脈の広さを伝える、世界的なファッションデザイナーや文化人、プロスポーツ選手との華麗なツーショット写真や、健康に適したアイデア料理や全国各地から精選したお薦めのパン・菓子類などを紹介していた。バーバラさんは、「人間の生活たる衣食住には、風味、風景、風土の三つの要素が大切であり、特に風土にあった生活をしなければなりません」を持論としていた。本書は、そんなバーバラさんの思いを体現するためのアイデアが、いっぱいに詰まった本であった。

・バーバラさんの経歴を簡単に紹介しておこう。1945(昭和20)年、ハンガリーの生まれ。父君は日本人の外交官、母堂はハンガリー人の美顔術師であった。父君はペルー大使、イラン大使を務め、サンフランシスコ条約締結時には、吉田茂首相の秘書官として仕えた寺岡洪平氏である。祖父は日本海軍少将だった寺岡平吾で、曾祖父に当たるのが、新撰組の山脇正勝という立派な家系であった。終戦と共に外交官だった父君はソビエト抑留の国外追放となり、さらにハンガリーに社会主義政権ができたために、旧ブルジョア階級は田舎への移住を迫られた。母堂とバーバラさんも、田舎に移住させられることになった。お嬢さん育ちの母堂が、途方に暮れているのを尻目に、未就学児のバーバラさんが色々な物を売り歩き、日々の生活の糧を得ていたという。彼女のアイデアとたぐいまれな生活力は、この頃からすでに醸成されていたものと思われる。

 その後、父君とウィーンで再会し、15歳でようやく日本へ。白百合学園高校に通っていた時代に、父君が40歳の若さで他界され、家族の生活が一変する。お嬢様育ちで生活能力のない母親に代わり、通訳などの仕事を始め、家計を支えた。そのため勉学に差し支えるとともに、学校側からも厳重注意を受ける。それほど馴染めない校風だったこともあり、退学することになる。そもそも幼少の頃からアトピー性皮膚炎や喘息などの持病があったバーバラさん。この時のアルバイト生活でさらに体調を崩し、苦悩の青春時代を迎えることになる。体調不良と肥満に悩み、後年には、膠原病にも見舞われたが、生来の探求心によって中国の医者・学者に出会い、中国の伝統薬膳料理を研究し、体質改善するなど試行錯誤しながら病気を克服してきた。1966年『デザートとお菓子』という著書で料理研究家としてデビューし、1970年、日本にまだ登場して間もなかった電子レンジを使った調理法を初めて紹介した。薬膳料理や東洋医学を元に生活全般と風土の関係を探求し、オリジナルな健康法や美容法を考案したのである。内外のファッションリーダーとも親しく、よくテレビ出演もされており、料理研究家のほかに、皇室ファッションなどファッション評論家としても活躍された。

 また、バーバラさんは、日本語のほか、ハンガリー語、英語、スペイン語、イタリア語など何か国語も自由自在に話すことができる方であった。ご自分の頭に浮かぶアイデアも、ポリグロット(多言語を操る人)らしく数か国語で表現する人だったと思う。バーバラさんがユニークだった秘密もそのあたりにあるかもしれない。


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『バーバラ・ウルトラ学――これを知らずして美・食・ファッションを語るなかれ』』

・さて、『バーバラ・ウルトラ学』だが、売れに売れ弊社の売り上げに大いに貢献してくれた。というのも、バーバラさんは、当時の東京12チャンネルで放映されていた「レディース4」にゲスト出演し、この本についてコメントしたのである。なんと放映中から弊社の電話がなりっ放しとなった。社員全員、昼飯抜きで電話応対したのだ。問い合わせの内容は、具体的に女性の美の原点でもある黒髪について語ったのだ。「合成洗剤入りのシャンプーを長く使用し続けることによって、私の髪はすっかり傷んでしまいました。ボリュームもなくなり、地肌も荒れて惨憺たる有様。そこで私は、自分用のシャンプーを手作りすることにしたのです。髪の質が一変しました。頭皮・頭髪にも優しく、髪のツヤを引き出し、潤いを与え、サラッと美しい自然な髪に仕上がりました。こんなに黒々とボリュームたっぷりの髪に生まれ変わったのです」と語ったのだ。

 そして、ワインと卵の黄身を使っての自家製シャンプーの作り方を披露したわけだ。当時から、それだけ髪の悩みを抱えている女性が多かったのであろう。とにかく放映後も連日、電話はなりっ放しの状態が続いた。毎週、増刷しなければ間に合わないという嬉しい悲鳴であった。この喧噪状態は1ヶ月ほど続いたが、弊社の短期間での販売部数で、この本は記録的だったといっていい。自家製シャンプーについて補足すれば、ワインの中でもトカイアスーワイン(ハンガリーの貴腐ワイン)が一番のお薦めと言っていた。しかし、日本人の髪質からすれば、お手軽なワインでも十分効能効果があるらしかった。

・熟年になってからのバーバラさんは、「長生きしたければ、日頃から摂生に努め、体の機能が劣化しないように適度の運動を行い、自分を律していくよりほかない。それでも致命的な病気になるなら、天命として受け入れるしかない」などと言っていた。部分的に病気を探し治療していたのでは、かえって生活の質が落ちて、後悔することになる。だから、不要不急の検査は行わないこととし、自分から病気を探すことはしなかった。だから死の病となった腹膜ガンについても、痛みはなかったが腹水が溜まるので診療を受け、ガンが見つかったのである。しかし、無用な治療を受けることなく、痛みに苦しむこともなく、静かにお亡くなりになったという。人生を達観したような潔さが漂う、バーバラ寺岡さんらしい最期であった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

熊井啓・明子夫妻

清流出版 (2020年7月27日 10:51)

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熊井啓(くまい けい)・明子(あきこ)夫妻

・創刊間もない頃の月刊『清流』を繰っていて、「夫婦で歩む人生」に熊井啓(1930―2007年)・明子さんご夫妻にご登場頂いたことを思い出した。お二人は長野県松本市出身である。僕は信州には何か不思議なご縁を感じている。以前、ここでも書いたことがあるが、家内が松本市の出身であるし、僕も戦時中、信州は上田市に近い塩尻という所に疎開していたことがある。大好きなクラシック音楽でも、松本は思い出深い。毎年、紀尾井ホールで聴いている天満敦子さんとごく親しく、松本での天満さんのコンサートをプロデュースしていた石川治良さんが松本の三城にお住まいだし、「セイジオザワ松本フェスティバル」は1992年、指揮者の小澤征爾さんが創立したものだが、毎夏、松本市で行われていた。「サイトウ・キネン・オーケストラ」を指揮した、小澤征爾さんの演奏会チケットが思いがけず手に入り、勇躍、駆け付けて至福の夕べを過ごしたこともあった。松本は盆地であり、標高が670メートル前後と高い。真夏でも湿度が低いのでとても過ごしやすい。年を取るにしたがって、暑さが身に応えるようになった僕には、信州の涼しさはとても魅力的に思え、何度でも訪れてしまうのだ。

・春の選抜高校野球、夏の選手権大会など、高校野球も好きでよくテレビで見ていたものだが、松商学園など長野県の代表チームをつい応援している自分に気づき、我ながら苦笑したものだった。右半身不随となってしまった今は、そう簡単に行けなくなったが、温泉好きの僕がお薦めしたいのは、松本市入山辺の「扉温泉」である。扉温泉の由来は、天の岩戸を開いた天手力男命(アメノタヂカラオ)が戸(扉)を戸隠神社に運ぶ途中、ここで休んだという神話に由来する。「東の扉」「西の白骨」とも言われ、胃腸病を治す名湯としてもよく知られている。僕が一番好きな温泉といっていい。松本駅から車で40分ほどの薄川に沿った閑静な山の中にある温泉で、宿は「明神館」1軒だけである。この明神館から見る緑滴る山の景色、和洋料理も温泉の質も実に素晴らしい。僕が敬愛してやまない清川妙さんも、この温泉をこよなく愛し、よくこの明神館に泊まって、原稿を書いておられたのを懐かしく思い出す。

・映画好きだった僕は、大学卒業時、ダイヤモンド社の他に映画会社の東映も受験し受かっていた。銀幕の世界にも大変興味があり、映画制作に携わってみたいという強い思いがあった。だから東映の役員面接の際、事実上の創業者であった大川博氏を前にして「僕は製作をやってみたいんです」などと大言壮語してしまった。これに対して大川氏は、半ば苦笑しながら、「君、製作は僕の仕事だよ」と言ったものだ。それほどの映画好きだったから、熊井啓さんは気になる監督の一人であった。作品もほとんど観ている。

・熊井啓さんの監督としてのデビュー作は、日活時代に自作オリジナル脚本による『帝銀事件・死刑囚』(1964年)であった。戦後間もない1948年に起きた、帝国銀行椎名町支店(僕の実家に近い)の行員毒殺事件を入念に再検証し、犯人とされた平澤貞通を無罪とする視点で、事件経過をドキュメンタリータッチで再現した野心作であった。明子夫人は、新婚間もない頃、この映画の資料集めや企画書の清書などで監督に協力している。現代のようにコピーなどという便利なものがない時代である。熊井監督が借り出してきた裁判記録を、明子夫人が全部手書きで書き写したのだという。腕が腫れ上がるほどの作業だったというから、相当な重労働であったはずだ。しかし明子夫人は、資料を筆写しながら、事件の真実や確固たる考証を求めるために、懸命になっている監督のスタンスに感銘を覚えたというという。名実ともに最高のコンビだったわけだ。お二人は、松本深志高校、信州大学の先輩・後輩であり、監督が明子夫人より10歳年上で、監督が文理学部、明子夫人が教育学部の出身であった。


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「夫婦で歩む人生」

・二人はお見合い結婚で、結婚したのは1962年だった。熊井監督の母堂と明子夫人の祖母が、松本の女子師範学校の同級生だったのがご縁の始まり。信州大学を卒業後、明子夫人は長野県内の清内路村という僻地で小学校の先生をしていた。見合いから結婚までは約1年ほどだったが、遠距離恋愛ということもあり、この間、会ったのは2回だけだった。監督は明子夫人の勤務先の小学校に宛て、毎日のように速達で近況と雑感を書き送った。明子夫人は、「田舎の小学校のことですから、速達というと何かあったのか、と郵便局員が血相を変えて配達にくるわけです。『もし返事があるなら預かっていきますよ』などと、親切な申し出を受けたりしました」と笑った。当然ながら、恋人からの手紙らしいと分かってからは、郵便局員もそんな対応はしなくなったというが。

・熊井啓監督は安曇野市の名誉市民となっている。現・安曇野市豊科町に生をうけ、映画監督として日本の映画界に多大な功績を遺してきた。前述した『帝銀事件・死刑囚』で映画監督デビューを果たしてからも、『日本列島』(1965年)、『サンダカン八番娼館――望郷』(1974年)、『日本の熱い日々――謀殺・下山事件』(1981年)、『日本の黒い夏――冤罪』(2001年)といった日本の近現代における社会問題や社会事件を主題とした作品を世に問うてきた。社会の裏側の隠れた真実を、綿密な調査によって白日の下に晒す作品であった。これらの作風から骨太な「社会派映画監督」として高く評価されている。熊井監督は日活を退社してフリーになったが、退社の背景には、三船プロと石原プロが組んだ『黒部の太陽』の監督を引き受けたことにある。当時、映画界には五社協定というものがあり、それに違反するからと、日活が監督を降りるようクレームをつけたからだった。


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DVD版『黒部の 太陽』のポスター

・『黒部の太陽』(1968年)は、石原裕次郎氏(石原プロ)、三船敏郎氏(三船プロ)を主演に、黒部峡谷に黒部第四ダムを建設するまでの壮大なドラマであった。世紀の大工事といわれた黒四ダム工事は、大自然との闘いの連続でもあった。軟弱な花崗岩帯にぶつかり、山崩れと大量の水が何度も切削中のトンネルを襲う。そんな難関を突破して、北アルプスを抜いてトンネルが開通するまでを描いている。石原裕次郎氏は、52年の生涯で100本近い映画に出演したが、最も印象深い作品として、やはり『黒部の太陽』を挙げている。「五社協定」のぶ厚い壁に阻まれて苦戦を強いられ、それを乗り越えて完成させることができたという経緯に加え、破砕シーンのロケ現場で右手親指を骨折、全身打撲の大けがを負った。そんな命がけのロケだったからである。

  その後も、『忍ぶ川』(1972年)、『天平の甍』(1980年)、ベルリン映画祭銀熊賞受賞作の『海と毒薬』(1986年)、ベネチア国際映画祭銀賞受賞作の『千利休――本覚坊遺文』(1989年)、『深い河』(1995年)、『愛する』(1997年)など、意欲的な作品群を撮り続けた。日本の文芸作品を主たる原作として、人間の生と死の深淵を見つめ、私たちに生きることの意味を問いかけてくる。こうしたキャリアに対して、熊井監督は紫綬褒章も受章している。

・しかし、フリーランスになった当初の生活は不安定で、『地の群れ』を撮った時は、フィルム代にも事欠く情況だったという。しかし、明子夫人はまったく意に介さなかった。それが有り難かったと監督は後に述懐している。『忍ぶ川』のクランクイン直前には、監督が出血性胃炎で倒れ、危篤状態に陥ったこともある。眠気覚ましに煙草を吹かし、ウイスキーを飲みながらシナリオを書く日々だったというから、胃腸も爛れてしまったのであろう。吐血して救急病院に運び込まれ、「99パーセント助かりそうもないから、身内の人を呼びなさい」と医者に言われたというが、明子夫人は誰にも知らせなかった。親戚の人たちがベッドの回りに顔を揃えたら、彼はショックを受けて、助かるわずかな可能性さえ無くしてしまう、との判断だったという。僕はこの話を聞いて、腹の座り方がまるで違うと驚嘆させられたものだ。

 
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熊井啓記念館(豊科交流学習センター「きぼう」内)

 
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1998年刊行

 
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2008年刊行

・明子夫人にはハーブにまつわるエッセイを中心にした『こころに香る詩』(1998年)という本を出させて頂いた。そして2008年、熊井監督の一周忌に間に合わせるよう編集作業を急がせたのだが、熊井監督が本文中の全写真撮影を、そして明子さんが文章を書いた『シェイクスピアの故郷――ハーブに彩られた町の文学紀行』という夫婦合作本を弊社から刊行することができた。熊井ご夫妻が、生涯で唯一の共著書であった。明子夫人に大変喜んでいただけたので、出版部の面々が強行日程で頑張ったのも報われた思いがした。

  実は、この本の編集・制作過程での副産物がある。明子さんにお聞きしたのだが、僕はご夫妻の熱い絆に心底驚かされた。というのは、仲良し夫妻といえども、当然のことながら夫婦喧嘩をすることもある。そんな時に、熊井監督はよく、「来世で結婚してやらないからな」と言っていたのだという。この言葉が仲直りするための殺し文句になるとは、僕にはまったく考えられない。夫婦間にいかに深い絆が結ばれていたかが、よく分かろうというものだ。僕などどちらかといえば、好き放題してきて、家内に愛想尽かしをされかねない。まるで月とスッポンである。安曇野市豊科町には、熊井啓監督の記念館がある。松本を訪れる機会があったら、穂高町の碌山美術館とともに、是非、再訪してみたいと思っている。

岡部伊都子さんと京都の作家たち、環境アートのクリストとジャンヌ=クロード夫妻

清流出版 (2020年6月22日 11:30)

●岡部伊都子さんと京都の作家たち


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岡部伊都子さん

・新型コロナウイルスの影響で、巣ごもり生活が続いている。創刊して間もない頃の月刊『清流』を眺めていたら、懐かしさに胸が熱くなった。清流出版を立ち上げ、必要なスタッフを募集した。月刊『清流』を創刊するに当たり、連載や特集記事を企画立案し、それに合わせて原稿依頼に東奔西走していた。当然のことながら、3ヶ月号分くらいを同時進行で進め、目処をつけておく必要がある。簡単に引き受けてくれる人もあれば、無名の出版社の依頼ということもあり、渋る人もいた。編集作業が始まった。締切日に原稿を受け取り、原稿整理して印刷所に入稿する。初校ゲラが上がってくれば、スタッフとともに校正をし、印刷所に戻す。再校が上がってくる。総頁の半分以上がカラーということもあり、色校正も自らチェックしなければならなかった。

  もちろん、原稿料の支払い、入出金管理など経理全般も見ていたので、身体がいくつあっても足りないほどの忙しさ。当時、僕は都下の八王子に住んでいた。京王線の最寄り駅まで数十分かかり、そこから九段下まで電車で1時間ほどかかる。都合、1時間半以上、通勤にかかった。この通勤の往復時間が惜しくて、千鳥ヶ淵にあった“フェアモントホテル”(2002年1月に閉鎖され、今はない) を定宿にすることにし、週末だけ家に帰ることにした。ここなら会社まで徒歩5分ほどであり、朝早くから夜遅くまで、仕事に没頭できた。そうなると楽しみといえば食べるだけで、およそ神保町界隈の美味しいといわれる店は、和洋中華、ほぼ完全制覇したと自負している。

・原稿の依頼先はもちろん関東近辺が多かったが、古都・京都にも結構通った。依頼にお邪魔して、その後、単行本を出させて頂いた方も多い。原稿執筆の依頼では、ウィリアム・ブレイクの翻訳で知られた寿岳文章氏(英文学者、随筆家、書誌・和紙研究家)や、娘さんの寿岳章子さんにも大変お世話になった。作家の秦恒平氏には、その後『京都、上げたり下げたり』という単行本を出させて頂いた。市田ひろみさんには『パルミラのコイン――旅に想い、旅をうたう』をご執筆頂いた。民族衣裳が好きで、人や自然との触れ合いを求め、国内外を旅する著者が、旅先で心に残った情景や出来事を、見たまま感じたままを、紀行文と詩で綴ったものだった。旅先のスナップ写真を適宜入った、見ても読んでも楽しい本だった。また、京都・醍醐寺座主の麻生文雄氏にもお会いし、ひろさちや氏と『修験道の魅力』という対談集を出させて頂いている。保守派の論客で知られた京都大学名誉教授・会田雄次氏も、僕の熱意に免じてご承諾を頂いたのも忘れがたい。最近では、特集に瀬戸内寂聴さん、今や売れっ子で『京都まみれ』の著書の井上章一氏にもご登場頂いている。

  
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秦恒平著          市田ひろみ著   
『京都、上げたり下げたり』 『パルミラのコイン』
             

・京都大学卒業の作家にも随分お会いし、寄稿して頂いた。南極越冬隊長だった西堀栄三郎氏、『日本沈没』がベストセラーとなったSF作家・小松左京氏の他、高田宏、辻一郎両氏も思い出深い著者である。二人は京都大学の入学式後の健康診断で初めて出会い、生涯の親友となったという。高田氏には2冊の本を編ませて頂いた。『出会う』は様々な出会いを綴ったエッセイ集で、名も知らぬ人との一期一会の出会い、木や森との出会い、川や海や島に出会い、町や村に出会う。そんな出会いの数々が人生に彩りを添えてきた、と綴ったものだ。『還暦後』は、年を重ねるにつれ死が身近となり、関わるもの全てに感謝の気持ちが湧いてきた。旅好きの著者は、胸の奥でこれが最後という気持ちがあると、すべてが愛おしく、すべてが懐かしく思えてきたというエッセイ集。この本を読んだ女優の浜美枝さんが、新聞の書評欄で絶賛してくれたことを思い出した。

 
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・そして高田氏は親友の辻一郎氏を紹介してくれた。辻一郎氏にも3冊の本を出させて頂いた。『父の酒』、『忘れえぬ人々』、『私だけの放送史』だが、特に僕が興味深かったのは『父の酒』である。というのも、辻一郎氏の父君が往時の『サンデー毎日』編集長だった辻平一氏であったからだ。まだ新聞社系の週刊誌しかない時代、辻氏の『サンデー毎日』と扇谷正造・編集長が率いる『週刊朝日』が、ガチで部数を競っていた。文字通り、企画力と連載小説で、切磋琢磨しながら部数を伸ばしていく様はまさにドラマチックであった。

・辻平一氏は大阪外語大学露語科を出て、大阪毎日新聞に入社、敏腕記者として健筆をふるった。戦後間もなく、『サンデー毎日』に異動し、ライバルだった『週刊朝日』が、吉川英治の『新平家物語』を連載することによって、飛躍的に部数を伸ばすと、対抗するように『サンデー毎日』は、懸賞小説で発掘した源氏鶏太の『三等重役』を連載し、『週刊朝日』を急追した。懸賞小説から、多くの有能な作家を世に送り出した。文壇に登場した主な作家を挙げてみると、海音寺潮五郎、山手樹一郎、村上元三、山岡荘八、城山三郎、永井路子など後のビッグネームがきら星のように並ぶ。辻一郎氏は、そんな偉大な父君の足跡を辿ることによって、新たな発見もあり楽しい執筆だったようだ。

  ちなみに、辻一郎氏は、僕も受けて受かった、映画会社の東映には入社せず、新日本放送(現・毎日放送)に入社する。主として報道畑を歩き、取材活動にあたる一方、報道番組の制作に携わっている。テレビ番組の制作では、「若い広場」、「70年への対話」で民間放送連盟賞を、「対話1972」、「20世紀の映像」で日本の放送文化の質的な向上を願い、優秀な番組・個人・団体を顕彰する、権威ある「ギャラクシー賞」を受賞している。後年、取締役報道局長、取締役テレビ編成局主幹などを歴任した。退社して後に、大手前大学教授、同志社大学大学院非常勤講師などを務めた方であった。

 
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・さて、京都生まれではなく大阪の生まれだが、もっとも僕の心の奥深く息づいている人がいる。その人が随筆家の岡部伊都子さんである。京都府の北区出雲路のご自宅には、約20回、お邪魔させて頂いた。庭には季節の花々が咲き、出迎えてくれた。季節の変遷とともに、寒椿が咲き、梅が咲き、桜が咲く。馬酔木や射干、初夏には山梔子、紫陽花など、いつも四季折々の草花を丹精されていた。伊都子さんは落ちた花々にも、再び命を吹き込んでいた。大きな水盤に落花を浮かべ、それを楽しむのである。記憶に残っているのは、椿の真っ赤な花が淡い日差しを受けて、水面を彩っていた。それは一幅の日本画のようでとても美しかったのを覚えている。

  岡部伊都子さんは、大正12年大阪の生まれ。大阪相愛高女を病気中退している。14歳で結核を患って以来、病身をいたわりながらこれまで生きてきた。伊都子さんには、最初、「いま、この人」という人物ドキュメントにご登場頂いた。その後、連載執筆をお願いし、お引き受け頂いた時は、有頂天になったものだ。「映すしらべ 未来創る人びと」と題し、美術を通して哲学と愛に満ちた自分の発見、その喜びが未来を創る人々の力となる、というコンセプトで魅力ある人々を1年12回にわたってご紹介頂いた。随筆家への道は、当時、花森安治さんが編集していた『暮らしの手帖』の公募に応じ原稿を送ったことに始まる。病身の身であり、普段着は寝巻であったことから「ねまきの夢」と題したエッセイだった。このエッセイが採用され、随筆家への道が開けたのである。以来、随筆一筋に生きてきた。


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月刊『清流』の「いま、この人」に登場
 
・岡部さんは「私は“加害の女”なんです」とよくおっしゃっていた。「私は一番大切な人を殺してしまったの」と今も悔恨の情を抱き続けている。すでに戦争で兄を失っていた岡部さんに、結婚話が持ち上がった。親族会議では「生きて帰れるかも分からない人と結婚しても……」と反対する声が多かったという。そんな中で母堂がこう言ったという。「ここは伊都子の気持ちに任せるということでどうだろう」と。初めて二人になった時、婚約者は伊都子さんに、こう言ったという。「自分はこの戦争は間違っていると思う。天皇陛下のために死ぬのはいやだ。君や国のためになら、喜んで死ねるけれど……」。その時、婚約者は22歳、岡部さんはまだ20歳にもなっていなかった。「私は本当にびっくりしました。でも、その言葉の意味が分からず、受け入れることができませんでした」。


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連載エッセイ「映すしらべ 未来創る人びと」

・岡部さんは「加害の女」の中でこのように綴っている。
《戦争のため、愛しい男たちを送り出した女たちは、被害者だという気が深かった。けれど戦争で死にたくない男側からみれば、「なぜ、喜んで死ねとばかりに送り出すのか。女なんて、愛するとは口ばかり。当然のように男を殺す側に渡す」と恨めしく思ったろう。その自分の加害にはっきりと気づいた。》と。

・伊都子さんの著書は100冊を優に超える。全集も『岡部伊都子集』全5巻が岩波書店から刊行されている。そして藤原書店からも『岡部伊都子作品選・美と巡礼』 全5巻が刊行されている。藤原書店の作品選の編者は、岡部伊都子さんを尊敬し、熱心な愛読者でもあった落合恵子さんと佐高信氏のお二人であった。この藤原書店の出版記念会が行なわれた際、僕は臼井君と招待されて出席している。藤原書店は主に、歴史、経済学、社会学、女性学等の社会科学全般の専門書や、教養書の出版をしている。僕の目標とする出版社であり、その出版活動には常に注目していた。この選集の内容も造本も素晴らしかった。出席者も岡部伊都子さんにゆかりある人々ばかりだったから、会場の雰囲気からして、フレンドリーなもので、とても居心地がよかった。関係者のスピーチも演奏された音楽も、実に心のこもったいい出版記念会であった。藤原良雄さん(藤原書店社長)にもご挨拶し、本日の盛会を讃辞し、ついでに僕の恩師・椎名其二さんを書いた『パリに死す 評伝・椎名其二』(藤原書店刊)の刊行されたことに感謝していると述べた。

  伊都子さんは新刊が出る度に、サイン本を贈ってくださった。僕は本が届くと、味わいながらゆっくりと読んだ。歩んだ軌跡がもたらすものか、言葉に奥行きがあり重みがあるので、ゆっくり味わって読まないと、理解が及ばず上滑りしてしまうからだ。一貫しているのは、いつも弱者の視点に立ち、温かい眼差しを向けていたこと。僕に心残りがあるとすれば、1年間、連載して頂いたエッセイに加筆修正をしてもらえば、単行本化できたかもしれないのに、それをお願いしなかったことだ。お会いすると、いつも凛とした和服姿で、はんなりとした京言葉が心地よかった。今でもそれが耳朶に残っている。その岡部伊都子さんも、2008年4月29日、肝臓がんで逝去された。享年85であった。謹んでご冥福をお祈りしたい。



●環境アートのクリストとジャンヌ=クロード夫妻


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クリストとジャンヌ=クロード夫妻


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『アンブレア・プロジェクト』のパンフレット


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『梱包されたポン・ヌフ』(1985年)

・僕とも関わりがあった不思議な芸術家を紹介しておきたい。1935年6月13日、同じ日に生まれた、ブルガリア出身の美術家と、環境芸術作家の一人として知られる妻のフランス人美術家ジャンヌ=クロードのおしどり夫婦がいた。2人は、世にも珍しい芸術を編み出した。「梱包芸術」である。一例をあげると、『梱包されたポン・ヌフ』(1985年)だ。セーヌ川にかかるパリの最古の橋を白い布で覆って完全梱包したのである。2週間の会期中に300万人が見物に来たそうだ。


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『梱包されたライヒスターク』(1971–1995年、ベルリン)

・「梱包芸術」は「環境アート」、「ランド・アート」、「アースワーク」、「ヌーヴォー・レアリスム」などと評される。「芸術とは何か」という問いを改めて投げかけた点で、後世に記憶されるであろう。僕が大好きなジャンルの話である。
 
・お二人の「環境アート」、「ランド・アート」の意気込みに、魅せられた人がいる。ヘンリー・スコット=ストークスさんだ。僕より、2歳上の英国生まれで、『三島由紀夫 死と真実』(ダイヤモンド社刊、後に清流出版から改定)を書いたジャーナリスト。彼は、クリストとジャンヌ=クロード夫妻の環境アートに入れ込んで、彼らの『アンブレラ・プロジェクト』(19841991)に深く関わった。

・1991年には、6年間という準備期間を経て、茨城県とカルフォルニア同時に、全部合わせて3100本の傘を立てた『アンブレラ・プロジェクト』が世界の注目をあびた。僕がダイヤモンド社を辞める直前、ヘンリー・スコット=ストークスさんと奥様が来社され、僕にも賛同と協力してほしいと依頼された。具体的には、クリスト夫妻と茨城県の対象地域の土地の所有者を一軒一軒訪ねて、企画の趣旨を説明するのである。その手法は常に美術界ばかりでなく、社会的にも大きな話題を投げかけた。この間、ストークスさんは、文字通り寝食を忘れ、『アンブレラ・プロジェクト』の実現に邁進された。ダイヤモンド社をしばしば訪れたストークスさんは、土地の所有者(地権者)を説得するのに、さらにいいアイデアがないかと聞かれ、僕は「これ以上、ノー・アイデアだ」と答えざるを得なかった。

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『アンブレラ 日本―アメリカ合衆国 1984-91』 日本側会場光景
 
・太平洋を挟んで、カリフォルニアの砂漠地帯に1760本の黄色の傘を、茨城県の水田地帯には1340本の青色の傘を同時期に点在させた。一本の傘の大きさは高さ6メートル、直径約8.7メートルという巨大なもの。1ヶ月弱の会期中に日本で50万人、アメリカで200万人を動員した。しかし、日本は台風シーズンに重なり、傘を閉ざさざるを得ない日が多く、訪れた観客を残念がらせた。このプロジェクトに対し、『高松宮殿下記念世界文化賞』(1995年)を授与された。そのクリスト氏が今年、5月31日、84歳で亡くなった。妻ジャンヌ=クロードさんは、すでに2009年、74歳で亡くなっている。ご夫妻は、日本の自然風景を愛し、アートにしてくれた。ご存じでなかった方は、僕の拙い文章で環境アート作品を観て味わい、末永く心に刻んで欲しい。謹んでご夫妻のご冥福をお祈りしたい。

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