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藤島泰輔さん

清流出版 (2017年2月24日 11:43) | コメント(0) | トラックバック(0)

 

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ポール・ボネ、この外国人は誰? と当時は騒がれた! 実は作家・評論家、藤島泰輔(ジャニーズ事務所副社長メリー喜多川の夫)さんのペン・ネームだ。今は、ようやく堂々と言える。僕の大好きなポール・ボネ、いや藤島泰輔さん!

 

 

・僕は自分の人生を振り返って、つくづく「僕は凡人だったが、周りの人には恵まれていた」との意を強くする。大学時代は、フランス文学者の山内義雄先生の薫陶を受けた。また、今でも僕が一番尊敬する椎名其二先生の謦咳に接することもできた。在仏40年の椎名其二先生が日本へ一時帰国された時、直にフランス語や何が人生にとって大事かを教えてくださったのだ。このお二人とお近づきになれたのは、僕が大学生になったばかりの18歳のころだ。お二人はもう70歳に近かったはず。いまにして思えば、奇跡のような出会いだったというしかない。また、大学の部活では、下懸宝生流(ワキ宝生)能楽師の宝生弥一師、宝生閑師の両人間国宝から謡を習った。夏目漱石さんが幸運にも同流を学んでいたお蔭で漱石の門下生である安倍能成、野上豊一郎、野上弥生子、服部嘉香の各氏とも交流することができた。卒業後は、経済雑誌の老舗の一つ、ダイヤモンド社に入り、取材記者を皮切りに雑誌部門や出版局も経験し、出版業界一筋に歩いてきた。その間、石山賢吉、荒畑寒村、星野直樹各氏と幸運にもお近づきになれた。左翼、右翼と関係なく、幅広い人脈が僕の前に現れた。また、雑誌の取材や原稿依頼、単行本企画などで、多くの著名な方々にお会いする機会を得た。今でも思い浮かぶ。まだ立教大学助教授で新進気鋭の文学者だった辻邦生さん、大宅マスコミ塾のメンバーだった草柳大蔵さんに初めてお目にかかったのも記憶に新しい。草柳さんは、週刊誌のアンカーマンとして八面六臂のご活躍をされていた。その後、僕は51歳でダイヤモンド社を定年前に退社し、紆余曲折があった末に、清流出版を創業した。その小さな出版社も、すでに創業以来、20数年という時を経ている。実に半世紀以上にわたり出版界でお世話になった。お会いした方の中にはすでに鬼籍に入られた方も多い。現代の日本は羅針盤がない漂流船のようなもの。さまざまな案件が山積していて、先が見通せない状況だ。そこで泉下にある人に、今もし、生きておられたらどんなお考えをお持ちか、ご意見を拝聴できないかと夢想したものだ。

そのお一人が藤島泰輔(1997年没。享年64)さんだ。藤島さんは僕にとって、よきアドバイザーであり、著者でもあった。大変な慧眼の持ち主で、特に時代を見通す透徹した目は感嘆したもの。今、国会で審議され話題になっている天皇の生前退位問題、これについても藤島さんならどんなご意見をお持ちなのか、是非訊いてみたい気がする。藤島さんは、今上天皇(第125代天皇)のご学友の一人。学習院の高等科時代に、皇太子(当時)と「ご学友」を題材にした小説『孤獨の人』三笠書房、1956年)を書いて、作家デビューを果たした。三島由紀夫氏は藤島さんの8歳ほど年長で、学習院の先輩後輩で親しかったこともあり、『孤獨の人』について序文を寄せている。その序文で三島由紀夫氏は、『孤獨の人』を評して「うますぎて心配なほど」と書いてその文才ぶりを激賞している。同作品は、映画化(日活、監督:西河克己、1957年)もされ、当時大きな話題となった。


 

 

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岩波書店刊――(『孤獨の人』は三笠書房刊、文春ネスコ刊、読売新聞社刊、岩波現代文庫刊と数々の出版社から何回にかけて刊行された)

 

・「お言葉」で今上天皇は、生前退位(譲位)の意向を強くにじませた。即位後、日々、天皇として望ましい在り方を模索して今日に至ったが、高齢になったため、全身全霊で象徴としての務めを果たしていくことが難しくなってきた。その理解を国民に求めたものだった。昭和天皇が1989年崩御(宝算87年)され、平成天皇が昭和天皇より年齢上、上回ることが時間の問題となっている。「孤獨な人」を皇太子時代から最近までを見てきた藤島さんが、天上から腹蔵なく語ってくれたら、どんなにスッキリするだろう。かつて、三島由紀夫氏から藤島さんは、「君は皇太子の友だちなんだから直接、意見してきたらどうか」と度々からかわれていたという。今、生きていたら、正直、どのような発言をしただろうか。藤島さんなら歯に衣着せぬ筆致で論じると思う。学友意識を超え、直言する姿を見たい気がする。

・藤島さんにお訊きしたいことが他にもある。再婚についてである。メリー喜多川さんが再婚相手だが、このメリー喜多川さんが芸能界を揺るがす事件の関係者となる。藤島さんは1963(昭和38)年、高浜虚子の孫娘・朋子さんと結婚し、結婚当初は朋子さんと円満に暮らしていた。ところがその後、藤島さんはメリー喜多川(本名・藤島メリー泰子、現在89歳、当時52歳)さんと内縁関係となり、再婚する。そして、メリー喜多川さんは藤島泰輔さんとの間に藤島ジュリー景子さんをもうけた。このジュリー景子さんが次期社長候補らしい。今や売上高700億円を超える巨大な“ジャニーズ帝国”。この帝国をどのような手法で運営していったらいいのか、藤島さんなら妙案が浮かびそうだ。その裏付けもある。「ジャニーズ事務所は、藤島泰輔というビッグな人物を取り込んだのが最大の成果だ」と言う噂があったほどだからだ。資産家でもあった藤島さんは、長年、長者番付の常連であった。だから草創期にあったジャニーズ事務所を経済的にバックアップし、マスコミ・政財界関係者など知己も紹介、ジャニー喜多川社長(現在85歳)の人脈拡大に貢献したと言われる。

・現在、長女・藤島ジュリー景子(現在50歳)さんはジャニーズ事務所副社長兼ジェイ・ストーム社長の肩書を持っている。メリー喜多川・ジャニー喜多川の姉弟は、ゆくゆくは藤島ジュリー景子さんに会社経営をバトンタッチしたい意向。しかし思惑通りに進むかどうかは不明だ。景子さんは、2004(平成16)年に芸能界とは無関係の一般男性と結婚し、藤島夫妻の孫となる女児を出産している。そして、僕が思い出すのは、港区六本木鳥居坂のマンション(正確には芋洗坂のふもと通り沿い。同マンション内に部屋を3つ保有していた)へ原稿を貰いに行くと、当時中学か高校生くらいだった藤島ジュリー景子さんが、英語でペラペラと父親の藤島さんに頼みごとをしているのを見かけたものだ。天皇陛下生前退位(譲位)の件でも、ジャニーズ事務所の件でも、長いお付き合いの結果から断言できる。藤島さんなら、きっと妙案を考えつくはずだ、と……。藤島さんは、1996年に食道癌の告知を受け、翌1997628日に都内病院で逝去した。 最後まで娘・ジュリーのことを気にしており、最期の言葉は「早く結婚するよう言ってくれ」だったという。 尚、藤島泰輔氏の著作の権利は、娘のジュリーさんが継承した。

・ここで、藤島泰輔さんのプロフィールについて触れておく。1933年の生まれで、97年に逝去。享年64である。職業は小説家、評論家だった。所属するテリトリーは日本文藝家協会、日本ペンクラブ、日本放送作家協会、アメリカ学会の各会員。日本銀行監事藤島敏男・孝子夫妻の長男として東京市に生まれ、祖父(藤島範平氏)は日本郵船の専務取締役だった。一族から福澤諭吉や岩崎弥太郎以降、有名な政治家、財界人、学者を輩出した、名門中の名門である。父君の敏男さんは、一高旅行部から登山に親しみ、日銀パリ駐在員だった昭和10年から3年間はアルプスの山々に登った。登山は趣味の域をはるかに超え、日本山岳会名誉会員となった。また終戦直後、藤島さんは父君と日本銀行に数ヵ月寝泊まりしたというが、普通の人がしようにもできないユニークな体験である。父君は東京帝大法学部卒だったが、藤島さんは初等科から大学まで学習院に学んだ。今上天皇のご学友で、共にエリザベス・ヴァイニング夫人の教育を受けている。1955(昭和30)年、学習院大学政経学部卒業後、東京新聞に入社、社会部記者となる。その後東京新聞を退社し、作家専業となっている。

・作家として、海外生活を題材にしたエッセイ・旅行記など多数の著作を発表。また社会評論家としても活動した。評論家としては大宅壮一の門下生である。右派・保守系の論陣を張り、『文藝春秋』や『諸君!』などに論考を寄稿。左派・リベラル系が多かった大宅壮一門下の評論家グループの中では異色の存在であった。1970(昭和45)年、エベレスト・スキー隊総本部長としてヒマラヤ山脈遠征。1971(昭和46)年、内妻・長女とともにアメリカ・フロリダ州に移住し、アメリカ生活を体験。1972(昭和47)年、高浜虚子の孫娘・朋子さんと正式に離婚後、メリー喜多川さんと再婚したのは前述した通り。実に華麗な出自と経歴であり、稀有な存在だと思う。

・唯一、参議院選挙に立候補落選したのが、藤島さんの汚点と言えば言える。1977年、第11回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補。 新日本宗教団体連合会関連諸団体の推薦を取り付けるなどして188,387票を獲得した。 法定得票数に達したものの66位で落選したのだ。その選挙には、僕の畏友である井口順雄(元日本旅行作家協会事務局長)さん、宮崎正弘(評論家、作家)さんもスタッフとして加わっていたが、いかんせん得票数が今一つ伸びなかった。

・僕は、1980年、ダイヤモンド社の雑誌部門から出版局へ転属し、藤島泰輔さんの編集担当となった。フランス・パリでの生活体験を元に「在日フランス人、ポール・ボネ」名義で著した『不思議の国ニッポン』シリーズの単行本を編集出版する仕事だった。多分、僕が20代の頃、パリに住んでいたことが勘案されたのではないだろうか。藤島さんとは馬が合うはずという出版局幹部の読みは当たった。僕は藤島さんと毎回相談して、この単行本シリーズを「外国人が書くニッポン論」にさせた。イラストはクロイワ・カズさんに頼んだ。「ポール・ボネとは何者ぞ」という噂が流れたが、箝口令を敷いていたので関係者以外誰も知らなかった。このシリーズは、刊行するたび、増刷に次ぐ増刷である。文字通り、笑いが止まらなかった。そして、新刊が刊行されて4年後に、すべて角川書店で文庫化する契約がなされた。僕が担当している間、多分、角川書店から文庫シリーズとしてトータル500万部以上は売れたはずだ。これだけの部数の3(=印税)だから、出版社=ダイヤモンド社の取り分も大きかったはず。まさに濡れ手に粟の状態だった。


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爆発的に売れた『不思議の国ニッポン』シリーズ

・僕は、ダイヤモンド社を1992年初頭に辞めたが、その間、16冊の『不思議の国ニッポン』シリーズを刊行した。思い出すのは、当初、六本木鳥居坂のマンションで原稿の遣り取りをしていたのが、数年経つと、藤島さんはホテルを定宿に替えた。最初はホテルオークラ、後にホテルニューオータニのスイートルームとなる。豪勢な生活だった。当時、最新のCNN海外ニュースや映画『ルートヴィヒ』(ルキノ・ヴィスコンティ監督)など、藤島さんはいつも最新の話題を提供してくれた。仕事に関係のない話題でいつも盛り上がった。毎月の原稿受け渡しを済ますと、僕もホテル・ライフを楽しませてもらった。若かった僕は、高級洋酒やシガー(非キューバ葉巻の中での最高級ブランドで知られるダビドフが多かった)の洗礼を受けた。もちろん、高級洋酒のおつまみとして、珍味のチーズや雲丹、牡蠣などをよくいただいた。

・藤島さんはその後、有り余る金でパリ16区(高級住宅地)に豪邸を手に入れた。「部屋はいくつもあるから、パリに来てもホテルに泊まる必要はないからね……」とよく言っていた。その豪邸を訪ねたことはなかったが、生意気なことに僕も、シャイヨ国立劇場やトロカデロ庭園のすぐ近く、パリ16区のマンションに住んだことがある。そのマンションには、かつてカトリーヌ・ドヌーブが賃貸で借りていたと噂さがあった。つくづく20代の僕も贅沢生活を楽しんだものだ。その後、藤島さんの住まいは、元NHKの花形ニュースキャスター磯村尚徳さんが日本文化会館初代館長になった際、リースされることになった。その話は直木賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作家・深田祐介さんも知っていて、お会いした時にこの話で盛り上がったことが懐かしい。深田さんとは人脈も重なるし、同じ身体障害者の一級同士ということで話が弾んだものだ。その深田さんも今や泉下の客となってしまった。

・ある時、藤島さんが、「加登屋さん、僕は一応、作家・評論家ということになっているが、周囲の皆は、藤島は本を出していない、唄を忘れたカナリヤだといっている。本当は、毎日せっせと、それもベストセラーを書いている。『ポール・ボネは、実は僕なんだ』と何度も告白したい気持ちになる。だからポール・ボネ以外の作品を書くのはいいストレス発散になる。作家として嬉しいし、ぜひ何か仕事を考えて欲しい」とおっしゃった。

その結果、生まれたのが、『中流からの脱出――新しいステータスを求めて』(藤島泰輔著、ダイヤモンド社刊、1986年)である。「1億総中流意識」の時代に贈る、現代日本社会の新クラース〈階級〉論と謳って刊行された。巻末で、「幻想の中流意識」をめぐって、山本夏彦さんと藤島さんの対談を掲載した。大衆社会とスポーツ、ゴルフ人口とゴルフ場の急増、戦前の高級住宅地、現代の1等地と昔の別荘地、自宅に客を招かない事情、郊外の1戸建てか都心の高級マンションか、総中流社会の苛酷な現実、社交クラブ、ロータリークラブ、ヘルスクラブ、皇室と王室、食通と教養、“違いのわかる中流”を阻むものなど、現代日本を俯瞰してみても、違和感がないほど斬新な内容だった。


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・また、次々と分厚い翻訳ものも刊行した。まず『ウルトラ・リッチ―超富豪たちの素顔・価値観・役割』(V.パッカード著、藤島泰輔訳、ダイヤモンド社刊、1990)という本で、アメリカ社会を変える超大金持ちたちの実像に迫ったもの。彼らは資産をどう形成したのか? その生活と哲学は? そして驚くべき彼らの節税法等々……。日本人にも興味深い話題が満載されていた。あのV.パッカードがウルトラ・リッチの実態に鋭く迫った力作だった。この本は458ページの分厚いハードカバーで発売された。

 

 

 


 

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・次は、『名画の経済学――美術市場を支配する経済原理』(ウィリアム・D・グランプ著、藤島泰輔訳、ダイヤモンド社刊、1991年)を刊行した。原題は、『PRICING THE PRICELESS――ArtArtistsEconomics(高価なものの値付け――芸術、芸術家、経済)』。新古典派経済学のリテラシーを用い、芸術作品を財として考え、買われる人、買う人、そして価値付けに参加する人のあらましを説明しながら、財としての美術品が置かれる美術館、その財を生み出す芸術家の経済的な自立をテーマにした。この本も581ページという大著。いまでも頷ける内容だった。いずれの本も藤島さんは大いに楽しんで訳出したものだ。

 


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・最後に、藤島さんが入れ込んだ競馬趣味についてお話しておきたい。ある時、藤島さんが中央競馬会の勧めで馬主になった。その馬が、なんと単行本のベストセラーの印税なみに稼ぐことになる。馬の名前は「ランニングフリー」。19859月、中山競馬場でデビューを果たすと、順調に勝ち抜いて、オープン馬となり、春の“天皇賞”では13番人気ながらタマモクロスに次ぐ2着となった。そのお蔭で皇太子ご夫妻(当時、今上天皇)も府中の競馬場へ足を運ばれた。皇室と競馬を引き合いにした藤島さんの得意の作戦だ。また、ランニングフリーは7歳時には“アメリカジョッキークラブカップ”“日経賞”とG2を2連勝するなど大活躍した。僕も3回ぐらい、ホテルオークラで行なわれた祝勝会に呼ばれ祝杯を挙げたことがある。僕が電話投票で今も競馬を楽しめるのも、その席で藤島さんが農林省の次官殿に頼んで入れてもらったからだ。祝宴会場で競馬の神様・大川慶次郎さんにもお会いし、得難い会話を楽しんだこともいい思い出だ。

・藤島さんは、4億円稼いだランニングフリーだけではない。所有馬の中には、ジャニーズ事務所のアイドルグループ「光 GENJI」からの命名で「ヒカルゲンジ」という馬もいた。持ち馬の話を単行本化するに当たり、ダイヤモンド社で出すのは、さすがに差し控えた。その本の刊行に加瀬昌男社長が手を挙げ、草思社からの出版となった。『馬主の愉しみ ランニングフリーと私』(草思社刊、1991年)がそれ。加瀬さんがアパレル会社の利益で草思社の赤字を補填され、苦労されたが、僕は無謀にもダイヤモンド社を辞めようか、どうしようか悩んでいた。結局、1993年、紆余曲折があり、加登屋事務所から清流出版を立ち上げていた。まあ、僕の懐古話はそれほど皆さんの興味を引かないだろうから、この辺で筆をおく。それにしても、藤島泰輔さんは、僕にとって余人をもって代えがたい傑物であったことは認めておきたい。

 

徳岡孝夫さん

清流出版 (2017年1月24日 15:09) | コメント(0) | トラックバック(0)

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四半世紀前の徳岡孝夫さんの元気なお姿。まだ、お目も健全な頃。その頃は、僕も今のように右半身不随ではなく健康体だった。


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お目がどんどん悪くなっていた20133月、決死の覚悟で弊社を訪ねて来られた。徳岡さんに連載いただいた月刊『清流』バックナンバーを背にして。


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徳岡孝夫さんとの「連載終了 御礼の会」で、出版部長の松原淑子(右)と僕。横浜港南台高島屋の中国料理店「南国酒家」で。

 

・ついにくるものがきた。これが徳岡孝夫さんについて語る最後の機会になるかもしれない……。感慨無量である。僕の人生の公私共において、一番大切な人が徳岡孝夫さんであった。僕の古巣ダイヤモンド社でお付き合いが始まり、実に35年以上の長きにわたり親しく交情を深めてきた。思い起こせば、徳岡さんにはどんなに助けられたことか。僕がダイヤモンド社時代に編集を担当した『アイアコッカ――わが闘魂の経営』は大ベストセラーとなったが、この本の翻訳者が徳岡さんだった。限られた期間内でのあの名訳は、徳岡さんなればこそ成し遂げられたものだと確信している。結局、増刷に次ぐ増刷となり、最終的には99刷となった。充分に会社の米櫃を潤わせてくれたが、更に、版権は新潮社に売れたので2度美味しい単行本企画となった。

また、僕が創業した清流出版でも大変お世話になった。月刊『清流』を創刊したが、端から僕は徳岡さんを連載執筆者の一人にと考えていた。「明治の女性」をテーマにした連載を4年間お願いし、その後は、「ニュースを聞いて立ち止まり……」を連載していただき、今日に至ったものだ。徳岡さんの素晴らしさを挙げれば、いくつもある。まず締め切り日の厳守である。徳岡さんを担当していた松原君にも確認したが、過去1度たりとも原稿遅れを生じたことがないという稀有な人だ。その上、原稿内容の奥深さ、関西人特有の軽妙洒脱な文章力は折り紙付き。まさに『清流』にとって徳岡さんは、欠くべからざる著者のお一人だった。それにしても、僕はダイヤモンド社時代からのお付き合いに甘え、随分強引に連載執筆をお願いしていたわけで、今更ながら反省しきりである。

 そして昨今、ふと気がついてみれば、徳岡さんが執筆していたメイン媒体である文藝春秋、新潮社などの大手出版社の看板雑誌に、お名前を拝見する機会が少なくなっていた。その理由は、僕にもよく分かっている。徳岡さんは、齢87歳を超えてから急速に視力が衰え、今や執筆も難しくなった。唯一連載を続けている新潮社の『新潮45』の巻頭言も、特大の虫眼鏡を駆使され、苦労してお書きになっておられる。最新号の原稿も僕は涙なくしては読むことができなかった。「まことの弱法師(よろぼし)」と題して、徳岡さんにしか書けない境地を綴っている。「たった1ページ、2枚の原稿を1ヵ月かかってしまう。このまま書きたいが、多分、もう全盲になって執筆不可能だと思う」と嘆いておられるのだ。ここに至って、月刊『清流』においても、201610月号をもって徳岡さんの「ニュースを聞いて立ち止まり……」は連載終了となった。徳岡さんがペンを擱くことを受け入れざるを得なかった。弊社の半ば強引な依頼にもかかわらず、かくも長きに亘り執筆してくださったことに、なんと御礼をいっていいものやら感謝の言葉もない。

 

・弊社では感謝の気持ちを込めて、粗餐を差し上げることにした。昨年1125日のこと、社長の藤木健太郎、出版部長の松原淑子の両君を伴い、三人で徳岡さんのお住まい近くにある港南台高島屋の中国料理店「南国酒家」で小宴を開いた。ちょうどその日は、三島由紀夫の「憂国忌」に当たる。この日は徳岡さんにとっても、生涯忘れることのできない日であったと思う。三島由紀夫氏から「徳岡さん、明日、11時に市ヶ谷にある自衛隊市ヶ谷駐屯地すぐそばの市谷会館に来てほしい」と直接、毎日新聞社の徳岡さんに電話がかかってきた。その翌日が、19701125日だった。そして徳岡さんは、楯の会の隊員から三島さんの手紙と檄文を受け取ったのだ。この日の「連載終了 御礼の会」の席で、徳岡さんはその話題には触れなかったし、われわれも一切、口にしなかった。

 

・その日、徳岡さんはまず歌舞伎を話題にされた。歌舞伎十八番の「鳴神(なるかみ)」の話だった。「能の理解者である加登屋さんならご存じでしょう」と徳岡さんはおっしゃったが、僕は「鳴神」を知らなかった。あとでウィキペディアを見て、大雑把だが理解したのだった。「……鳴神上人は呪術を用いて、雨を降らす竜神を滝壷に封印してしまう。雨の降らない日が続き、やがて国中が旱魃に襲われ、民百姓は困り果てる。そこで朝廷は女色をもって鳴神上人の呪術を破ろうと、美女を上人の許に送り込む。姫の色仕掛けにさすがの上人も抗しきれず、思わずその身体に触れたことで、とうとう戒律を犯し、さらには酒に酔いつぶれて眠ってしまう。その隙を見計って姫が滝壷に張ってある注連縄を切ると封印が解け……」といった話である。この話を例にとり、徳岡さんは、歌舞伎では感動ものもいいけれど、エロティックな話もまた印象深いと述懐された。梨園では、勘三郎、歌右衛門、芝翫、勘九郎、藤十郎、団十郎、扇雀、幸四郎、仁左衛門……などの役者の演技が心に残るとおっしゃった。

話の接ぎ穂で一息入れようと、徳岡さんに食事を勧めたのだが、目の前に置かれたお料理さえ見えないようだった。そこで藤木君が「これは海老チリです」と教え、レンゲで口元まで運んで差し上げた。すると徳岡さんは、「ああ、海老蔵ですね」と当為即妙の洒落で応えられたのが印象に残る。こんな受け答えの妙が、徳岡さんの魅力の一つである。

・最後に残っていた連載『新潮45』の「まことの弱法師」に関連して、徳岡さんは能についても熱く語った。「今の大阪、四天王寺に住んでいた俊徳丸は、人の讒言を信じた父・通俊により家から追放されてしまう。彼は悲しみのあまり盲目となってしまい、乞食坊主として暮らすことを余儀なくされる。折しもその日は、春のお彼岸の中日にあたり、弱法師の袖に梅の花が散りかかる。彼は、仏の慈悲をたたえ、仏法最初の天王寺建立の縁起を述べる。その姿を見ると、通俊はまさしくわが子だと認めたのだったが、人目をはばかって、夜になって名乗ることにする」

西の門、すなわち西方浄土への死の入り口にあって、「弱法師は入り日を拝み、かつては見慣れていた難波の美しい風景を心に思い浮かべ、心眼に映える光景に恍惚となり、興奮のあまり狂うが、往来の人に行き当たり、狂いから覚める。やがて夜も更け、人影もとだえたので、父は名乗る。父親と知った俊徳丸は、わが身を恥じて逃げようとするが、父はその手を取り、連れ立って高安の里に帰る」

――能の「弱法師」は、僕も好きな曲の一つだったので、「あーしもとは、よーろよろと、……」と、謡いの一節を口にした。その『新潮45』の連載タイトルが『巻頭随筆 風が時間を』で、今年1月号は「まことの弱法師10回」になっている。徳岡さんは「連載はこの文章で終わりにしたい。まあその時、僕の人生も終わるなー」とおっしゃったが、僕は胸が詰まってなんと応じていいか分からなかった。とにかく今は、徳岡節の名文をもっともっと読みたいとしか言えなかった。

・徳岡さんが最近、読み終えた本についても言及された。永井荷風の『すみだ川』だという。僕は、能の『隅田川』ならよく知っていたが、永井荷風の小説『すみだ川』はまだ読んだことがない。

話は、幼馴染であるお糸と長吉の、異なる宿命を描いた作品だ。お糸は花柳界へ入り込んでいき、母親に進学・立身を望まれる長吉は取り残される。長吉の寂しさ、哀感よりも、花柳界において自分の道を切り開いていこうとするお糸の明るさ、逞しさがより強く感じられる。根底に、荷風の花柳界に対する肯定がある故の作品である。僕は能の『隅田川』しか知らないのを恥じた。帰宅したら『すみだ川』を是非、読もうと思ったものだ。

かつて徳岡さんが清流出版へ来社されたとき、能の『隅田川』を話題にしたことがある。梅若丸を人買いにさらわれ、京からはるばる武蔵国の隅田川まで訪ねてきて、愛児の死を知った母親(班女)の悲しみはいかばかりだったか。春の物狂いの名作であるが、「名にし負えば いざこととはむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」の名文句が悲しく胸に迫る。その時も、われわれは徳岡さんならではの語り口に、大いに感じ入ったのを覚えている。

徳岡さんは、歌舞伎に関し、「通」といわれるのはお嫌いらしい。強いていえば、歌舞伎をこよなく愛している一ファンであるとの自己認識のようだ。とにかく人生の機微に通じた徳岡節は、聞いていて胸にすっと入ってくる。その博覧強記ぶりは尋常ではなく、何時間話しても尽きることがない。

・もう一つの読書だが、徳岡さんの向学心と懐の深さには驚く。なんと、夏目漱石の『坊ちゃん』を読んでいるとのこと。これまで徳岡さんとは、森鷗外の話が圧倒的に多かったから漱石と聞いてびっくりした。関連して夏目漱石の筆名「漱石」の由来について、徳岡さんは語り始めた。筆名の出典は、宋の太宗の勅命によって、房玄齢や李延寿らによって編纂された、歴史上の著名人の逸話を集めた「蒙求」の「晋書」である。その中の「孫楚伝」の「漱石枕流」(石に漱《くちすす》ぎ、流れに枕す)から採ったというのが定説とされると言う。

孫楚は幼少より秀才の誉れが高く、太守の地位まで登りつめた立志伝中の人物。その孫楚が若い頃に隠遁生活をしようと思い定め、親友の王済に向かって、喧噪な都会を離れ、静かな田舎に引っ込みたいと口にした。「石を枕にして、川の流れで口を漱ぐ」という意味の「枕石漱流」というべきところを、どう間違えたのか「漱石枕流」と言ってしまった。王済に「おいおい、それは『枕石漱流』の間違いだろう」と指摘されると、孫楚は「なあに、『漱石枕流』でいいんだよ。なぜかといえば、石で口を漱ぐのは歯を磨くためであり、流れに枕をするのは嫌いな話を聞いたとき、川の流れで耳を洗うためさ」と強引にこじつけたのだという。つまり、「漱石」の逸話から、漱石の筆名は偏屈で、負け惜しみが強く、変わり者の象徴であるとおっしゃりたかったのだ。

漱石の『草枕』の冒頭にある、「情に掉させば流される」も「情に逆らえば押し流される」と勘違いする人もいるが、「情に乗ってしまうとどんどん加速してしまう」と解釈するのが正しい。母国語の日本語でさえ、時代の流れで解釈が変ったり、真意が伝わらないこともある。徳岡さんは、翻訳本も数多く手掛けてこられたが、同じ英語圏でもスラングや地方独特の言い回しの誤訳や勘違いもあり、なかなか一筋縄にはいかないもの。そんな文章解釈の難しさについて語りたかったのであろう。

・出版部長の松原君が徳岡さんに、「今年、北海道に行かれたご感想は、いかがでしたか?」と尋ねた。ご長男夫婦は北海道暮らしなのだという。「いや―、北海道の十勝平野には地平線がある。皆さんは、見たことがないでしょう? 毎日、地平線を見ていると、人間が変わる。細かいことなど気にならなくなりますよ」とおっしゃった。徳岡さんはもともと大人の風格がある。「細かいことにこだわらず」のニュアンスが見て取れる。僕は、北海道の富良野・美瑛には行ったことがあるが、山間の丘の町なので、地平線はまだ見ていない。一度、徳岡さんのいう果てしなく続く地平線を見てみたいものだと思っている。

・徳岡さんの話は、押しなべて悲しく、しかも面白い。藤木君が「次のお料理ですが、酢豚のあとパイナップルはどうでしょう?」と聞くと、徳岡さんは、「じゃあ、いただきましょう。ところで僕の父と母にまつわる話ですが……」と、自身7歳だった時のこんな話をされた。昭和12年、阪急百貨店で、徳岡さんの母堂が父君に「あなたアップルパイを買って」と言ったらしい。すかさず藤木君が「パイナップルですね」と言ったが、徳岡さんの父君も藤木君同様、アップルパイをパイナップルと間違えたらしい。「父は、パイナップルと勘違いして買わなかったのです」。当時、徳岡さんの母堂は美人の誉れ高かったが、27歳で最後の娘を出産して後、すぐお亡くなりになっている。母堂は徳岡さんの歳からすれば、三分の一しか人生を生きられなかったわけだ。「終戦後、父は街で『アップルパイあります』の看板を見て、アメリカ産のアップルパイというものを初めて認識した。『ああ、これのことだったのか!』と」。徳岡さんは、この話を聞いて以来、母堂の命日には必ずアップルパイを買ってくるとか。「僕の妹からは、お兄さん、まだアップルパイを食べているの?」なんてよく言われるが、その妹さんも70歳を優に超えたという。こんな話から徳岡家の人生模様が垣間見えた。ホロリと胸に染みるエピソードである。

・徳岡さんはとにかくサービス精神旺盛だ。僕は徳岡さんの話の中で「俊寛」が特に印象深く残っている。僕の舌足らずな説明ではもどかしいと思うが、俊寛は喜界ヶ島に流された。一方、都では清盛の娘で高倉天皇の后となった中宮(建礼門院)徳子の安産祈願のため、大赦が行われる。喜界ヶ島の流人も一部赦されることとなり、使者がかの島へ向かった。他の罪人は許されて島を去る。ただ一人、俊寛は残された。孤独への不安と絶望に叫び出し、船を追うが波に阻まれる。船が見えなくなるまで、船に向かい叫び続けるが、声が届かなくなると、なおも諦めずに岩山へと登り、船の行方を追い続ける。ついに船が見えなくなる。そして俊寛の絶望的な叫びとともに……。

僕は能、謡いの「俊寛」は大好きな曲だ。今も時々謡本を開いて、調子外れに唸っている。

 また、徳岡節による平家滅亡のくだりは、残照のようにキラキラと輝く。剛の者であった平教経(のりつね)は、鬼神の如く戦って坂東武者を多数討ち果たす。敵の大将の源義経を道連れにせんものと欲した教経は、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り、八艘彼方へ飛び去ってしまった。世にいう義経の「八艘飛び」である。残された教経は、一人を海に蹴落とすと、二人の武者を抱え込んだまま海に飛び込んだ。平氏随一の猛将として知られ、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで、義経を苦しめ抜いた教経のあっぱれな最期であった。安徳天皇、二位尼(にいのあま=平時子。平清盛の妻)らが入水し、平氏滅亡の様を見届けた平知盛(とももり)は、「見るべき程の事は見つ」とつぶやくと、乳兄弟の平家長と手に手をとってザンブと海へと身を投げ自害した。享年34

他の人々が海に流され沈んだが、建礼門院(平徳子)は、髪の毛が長かったので船にひっかかって生き残り、京へ送還された。平家滅亡後、剃髪し大原寂光院に遁世の日々を送る。建礼門院は、安徳天皇と一門の菩提を弔った。その建礼門院に尼となって仕えたのが、平清盛の子の重衡の妻となり、後に安徳天皇の乳母をつとめ、従三位典侍・大納言典侍(大納言佐)と称した藤原輔子(ほし)である。大納言佐は女院の最期を看取った。大原三千院のところは、徳岡さんも「おおはら、さんぜんいん……」と口ずさんだ。こうした話を徳岡さんは、あたかも琵琶法師のように語って聞かせてくれた。

 徳岡さんを囲む会は、いつも心がときめく。酒はそう強いほうではない。少しか飲まないのに、この語りの面白さはなんだろう。もっぱら徳岡節に魅了されることになる。何を語っても蘊蓄があり、ユーモアがあり、そして人情の機微を知る人の一抹のもの悲しさと温もりがある。余人をもって替えがたい“徳岡ワールドへの誘い”とでも形容しようか。誘われた人は、一様に心地よく徳岡ワールドに酔ってしまうのだ。

・最後に、徳岡孝夫さんの著になる書籍の内、お勧めしたい作品をここでまとめてみる。

まず、三島由紀夫関連の書籍で、欠かせないのは、『悼友紀行――三島由紀夫の作品風土』(ドナルド・キーンとの共著、中央公論社刊、1973年)、『五衰の人――三島由紀夫私記』(文藝春秋刊、1996年、新潮学芸賞)が挙げられる。

 次に、翻訳も多く手がけ、ドナルド・キーン著『日本文学史 近世篇』(中央公論社刊 上下、1976-77年)、アルビン・トフラー著『第三の波』(中央公論社刊、1982年)、リー・アイアコッカ著『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(ダイヤモンド社刊、1985年)、ヘンリー・スコット=ストークス著『三島由紀夫 死と真実』(ダイヤモンド社刊、1985年)。なお、この本は1998年、清流出版で『三島由紀夫 生と死』と改題し、刊行した。その時は、冒頭に「三人の友――三島由紀夫を偲んで――ドナルド・キーン、徳岡孝夫、ヘンリー・スッコト=ストークス」の鼎談を新たに設けた。リチャード・ニクソン著『指導者とは』(文藝春秋刊、1986 年)などベストセラーが続々。

また、ノンフィクション『横浜・山手の出来事』(文藝春秋刊、1990年、日本推理作家協会賞を受賞)、『薄明の淵に落ちて』(新潮社刊、1991年)、『舌づくし』(文藝春秋刊、2001年)、『妻の肖像』(文藝春秋刊、2005年)、『完本 紳士と淑女 1980-2009』(文藝春秋刊、2009年)、『お礼まいり』(清流出版刊、2010年)など。1986年には菊池寛賞を受賞した。

なお、余談だが、徳岡さんとドナルド・キーンさんは、付き合いも長く、とても懇意にしている。弊社は陶芸家・辻清明さんの豪華本を刊行したことがある。『独歩 辻清明の宇宙』(写真:藤森武、清流出版刊、2010年)だが、この本の推薦文をドナルド・キーンさんにお願いした。そして和訳を徳岡さんが快く引き受けてくれた。これも僕には嬉しいことであった。徳岡さんは、ユーモア溢れる語学力を駆使して、外国人とも丁々発止と渡り合い、上質なジョークを交えながらしゃべれる数少ない日本人である。英会話が堪能なことは、世界的視野を広げ、一流人との付き合いも深めることができる。

僕は若い頃、徳岡孝夫さんの本『太陽と砂漠の国々――ユーラシア大陸走破記』(中央公論社刊、1965年)や『誤解 ヨーロッパvs.日本』(エンディミヨン・ウィルキンソン著、中央公論社刊、1980年)を読んでファンになった。

結局、僕はダイヤモンド社と清流出版で、徳岡孝夫さんの本を合計9冊も刊行することができた。今回、徳岡さんと久し振りに会って、改めて徳岡さんとの出会いに感謝したくなった。人の気をそらさず、常に気遣いを忘れない。やはり徳岡さんは人生の達人であり、敬愛する一流の人物である。こんな方と親交を結ぶことができた僕は、幸せな男だったといえるのではないだろうか。

 

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『お礼まいり』(清流出版刊、2010年)は、天寿を全うした人への畏敬の念、温かな交流のあった人への想い、また無念の死を遂げた人や家族の代弁者として、生と死の深淵を見つめ続けた著者の珠玉の随筆集である。三島由紀夫から教えられた「じゃがいもの冷製スープビシソワーズ」の味、しばしば飲食を共にし、温かな交流のあった山本夏彦翁や久世光彦氏との悲しい別れ、最愛の妻の死など、喪失感を抱えながら死ぬまで生きることの意味を問いかけた名著といえる。著者自身も昨年、悪性リンパ種を克服し、死の淵から生還された。書名ともなった復活後、書いた随筆「御礼参り」などを所収している。


 

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徳岡孝夫さんとの「連載終了 御礼の会」にて。藤木健太郎社長(右)と僕。横浜港南台高島屋で。

 


鎌田實さん

清流出版 (2016年12月20日 18:21) | コメント(0) | トラックバック(0)

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鎌田實さんの新著。「遊行」の言葉が、人生を変える!


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鎌田實さん(右)と中華料理店「源来酒家」で。左は藤木健太郎社長。

・鎌田實(かまた・みのる)さん(医師、作家、諏訪中央病院名誉院長)が弊社に来社された。僕は前々から尊敬しており、鎌田さんの本を弊社から出させてほしい、と切望していた。嬉しいことにそれが実現することになった。タイトル名は、『遊行(ゆぎょう)を生きる――悩み、迷う自分を劇的に変える124の言葉』だ。四六判ソフトカバーで、232ページ、予価(本体1000円+税)、2017年1月20日の発売予定となっている。
 この本を編集担当した古満温君は、暮れも押し迫った今も、本の宣伝、拡販、パブリシティ戦略に向け忙しい日々を送っている。この日、鎌田さんは、金曜日にも関わらず、わざわざ弊社に足を運んでくださった。というのも、鎌田さんは、木曜日の午後7時まで、日本テレビの「ニュース・エブリィ」のレギュラーコメンテーターを務め、その後は中央本線の新宿から諏訪の家に帰られるのが通常パターン。この日は、自著の拡販に向け、販促にご協力いただいたのである。
 鎌田さんは午前10時、「オフィス ブラインド スポット」の石井さんと一緒に来社された。石井さんとは旧知の仲らしく、「彼女はなかなかいい本読み」だと評していた。僕も「オフィス ブラインド スポット」については、代表者の平塚一惠さんと一緒に仕事をしたことがある。女の細腕ながら、剛腕という言葉がピッタリの仕事ぶりで、山本夏彦・久世光彦共著で刊行された『昭和恋々』というフォトエッセイ集を、新聞、雑誌、テレビ局等に売り込み、センセーションを巻き起こした。その後、この本は文春文庫から文庫版としても発行されたので、大いに稼いでくれた。そのことが僕の印象に強く残っている。この日鎌田さんの予定は、午前中11時までJBプレスの取材、正午から弊社応接室で、プレジデントオンライン、さらに、かの花田紀凱(かずよし)編集長の『月刊Hanada』の取材が控えていた。
 鎌田さんと挨拶もそこそこに、昼食を摂るため11時過ぎに外に出た。弊社からは徒歩数分の距離にある、馴染みの中華料理店「源来酒家」に向かう。鎌田さんは、「源来酒家」をご紹介して以来、この店がいたく気に入ったらしく、しばしば他社の編集者を誘うほど、その味に惚れ込んでいる。欠かせないのが、まず、「豆腐の細切りサラダ」と「餃子」(当日、参加したみんなで一個ずつ分けた)。そして、「麻婆麺」も鎌田さんの好きな料理だという。コラーゲンがたっぷり入った逸品である。「源来酒家」のご主人・傳さんも、自然に鎌田さんの大ファンとなり、「先生の本が出たら、すぐに買いに行きたい!」と言っているほどだ。

・僕が、「鎌田實先生と行くドリームフェスティバルinハワイ6日間」というイベントに参加してから、早くも3年半という月日が経った。その折、「ぜひ、わが社から鎌田先生のご著書を出させていただけないか」と、お願いしたことがある。が、どう考えても実現は難しいだろうと思っていた。なぜなら、弊社のような弱小出版社では、大手の出版社のような販売スタッフ、宣伝費や販促費を賭けられないからだ。初版の刷り部数も当然少な目にならざるを得ない。鎌田さんには、月刊『清流』に連載していただいていたが、単行本の刊行については大手出版社からという感触であった。だが、連載を続けコミュニケーションを取るうち、意気に感じてくれたのか、弊社からの刊行を了解してくれた。僕はこの鎌田さんの気持ちが嬉しかった。精一杯、全社員一丸となって販促にこれ努め、このご厚意に応えたいと思っている。

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ハワイ旅行で鎌田先生とのツーショット

・さて、この『遊行(ゆぎょう)を生きる――悩み、迷う自分を劇的に変える124の言葉』だが、ざっと内容について触れてみたい。鎌田さんは、この「遊行」の鎌田流解釈と自らの人生体験を絡めて、わかりやすく解説してくれている。古代インドの聖人は、人生を「四住期」と名付けた。「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の四つである。中でも遊行期は人生の晩節に当たり、死の準備の時期であり、人生の締めくくりの時期ともいわれる。そうした古代インドの聖人が唱えた遊行期の解釈とは違って、鎌田さんは文字通り、「遊び、行く」と考えたのがユニークなところ。晩年にフラフラしても構わないとおっしゃる。この時期こそ、本当に自分の好きな仕事や、やりたいことをする時期でもあるというから嬉しくなる。
 鎌田さんは、遊行期を、人生の諸問題から解放され、自分に正直に、肩の力を抜いて、しがらみから離れて生きていく大切な時期と考えた。つまり鎌田流の「遊行」とは、一人の人間が子どもの頃のような、自由な心で生きること、先入観などに囚われず、こだわりを捨てて“遊び”を意識すること。さまざまな殻を打ち破って、生命のもっとも根っこの部分で世界を生きることだと鎌田さんはおっしゃる。そして、いい言葉はいい人生を生み、いい人生はいい言葉を生み出す。「遊行」が、人生を変えてくれ、生きるのが楽になったという。確かに遊びを意識すると、何気ない毎日が特別になり、生きるのが楽になり楽しくなってくる。

・こうなると「遊行期」にある人も、人生を達観しなくてもいい。人間臭く、ドロドロとした「遊び、行く」をしたらとおっしゃる。そもそも鎌田さんは、若者からお年寄り、女も男も「遊行」を意識したらどうかと考えてきた。人は毎日忙しい。経済的な問題もある。病気や障害を抱えている……。だから「遊行」なんて思ってもできない、と思われる方もいるかもしれない。だが、安心してください。苦しみの中にいる人が、「遊行」を意識し、生きることで、苦しみから解放され、人生を大逆転することだってできる。鎌田さんも「七〇歳を前に苦しんでいます」と正直にその心境を語る。自分は本当に自分自身を生きてきただろうか。子どもの頃は、親や周囲の大人の、そして大人になってからも同僚や患者さんの期待に応えるために、“いい子”や“いいカマタ”を演じ、無意識のうちに無理してきたのではないか……。このまま老い、死んでいったら後悔してしまうのではないか……。ここ数年、そんな悩みがしこりのように心の奥に巣食っていたのだ。そこに、一筋の光のように、「遊行」という言葉、考え方が頭に射し込んできて、「生きるのがグッと楽になりました」と鎌田さんは述懐する。

・この後、鎌田さんは古今東西の「遊行」した方々に焦点を当てる。一人ひとり取り上げて、共感したこと、感銘した点などを読者に提示してくれる。取り上げた方々を見て、僕は鎌田さんのその博学ぶりには脱帽するしかなかった。思いつくままに上げてみるが、有名無名を問わず、斯界に名を馳せた人たちが綺羅星のように並ぶ。
 ヨハン・ホイジンガ(歴史学者、『ホモ・ルーデンス』)、きだみのる(仏英に精通し、稀代の教養人、ファーブルの『昆虫記』訳者)、種田山頭火(自由律の俳人)、ポール・ゴーギャン(画家、タヒチ)、孔子(『論語』)、ニーチェ(哲学者、『曙光』、『ツァラトゥストラかく語りき』、『悦ばしき知識』)、山本常朝(『葉隠』)、ディラン・トマス(イギリス・ウェールズの詩人)、東小雪(元タカラジェンヌ)、ヘミングウェイ(『老人と海』、『キリマンジャロの雪』、『誰がために鐘は鳴る』)、イングリッド・バーグマン(女優、アカデミー賞三度受賞)。
 大塚範一(テレビの司会者)、アルバート・アインシュタイン(相対性理論)、畠山昌樹(医者、高機能広汎性発達障害者)、ジャン・ジョレス(仏・政治家)、荘子、モンテーニュ、池田晶子(哲学者)、ジョン・スタインベック(『エデンの東』、『怒りの葡萄』、『チャーリーとの旅』)、チェ・ゲバラ(革命家)、アルベール・カミュ(仏・作家、ノーベル賞、『シジフォスの神話』)、オルハン・パムク(作家、2006年のノーベル文学賞、『新しい人生』)、空海、なかにし礼。
 フランツ・カフカ(作家、『変身』)、鴨長明(『方丈記』)、親鸞(『歎異抄』)、ランボー(作家、『地獄の季節』)、ヴェルレーヌ(詩人)、佐野洋子(『100万回生きたねこ』)、ヘルマン・ヘッセ(独・作家)、ジャン・リュック・ゴダール(映画監督、『気狂いピエロ』)、アウンサンスーチー(ミャンマー民主化運動の指導者、ノーベル平和賞)、カール・ヒルティ(スイスの哲学者)、ゲーテ(独・文豪)、スティーブン・サットン(英・15歳の大腸がん、約3年間で七回の外科手術)。
 高橋礼華・松友美佐紀(リオデジャネイロ五輪、バトミントン・ダブルス優勝)、ウィスタン・ヒュー・オーデン(英・詩人、『見るまえに跳べ』)、マザー・テレサ、キング牧師、スティーブ・ジョブズ(アップル社創立者の一人)、ジッドゥ・クリシュナムルティ(インドの思想家・瞑想家、『最初で最後の自由』)、ジョン・レノン(ミュージシャン)……。
 これらの人々は、間違いなく鎌田流「遊行」の行動や思考をされたことが本文を見ると頷ける。

・「遊行」の先達と認める方々のうち、鎌田さんが一番相応しいと考えている人は誰だろうか? 担当編集者の古満君に尋ねてみると、「ランボー」ではないか、という。「ちょっと極端過ぎる人生ですが、ランボーの人生に、自分にない、自由さを見て、あこがれていらっしゃるようですから」と。確かに、鎌田さんは、高校時代にランボーに出会っている。難解な反面、若さがほとばしるその詩に魅了される。とくに代表作『地獄の季節』の詩が好きという。「ある夜、俺は『美』を膝の上に坐らせた。――苦々しい奴だと思った。――俺は思いっきり毒づいてやった。俺は正義に対して武装した」 この詩には、「もう詩なんか書かないぞ」という、ランボーの決意が見てとれる。自らを過酷な状況に追い込みながら、それでもランボーが望んだのは、『自由なる自由』。「何者にも束縛されない『絶対自由』を求めようとしたのだと思います」、と鎌田さんはいう。
 
 ランボーは若くして、「遊行」の意思をもって生きていたに違いありません。「遊行」とは「人生の放蕩」に励むことなのです。ランボーは、筆を折った後、オランダ軍の傭兵、サーカスの通訳、キプロス島の石切り場の現場監督、アラビア半島のアデンで貿易商となり、その後エチオピアで商人など、次々に職を変えています。三七年間の短い生涯だったが、毎日がハラハラドキドキ、お祭りのような日々。これほど面白い人生はありません。「遊行」とは一見、みすぼらしいのに、内実は幸福感に満ちた生き方なのです。鎌田さんは「自分がいま、本当に自由に生きてるんだろうかと、ランボーの詩を読むたびに、人生を見直します――」というわけで、古満君の「遊行人=ランボー」ではないか、と答えたのは、この本をよく読んでいるなと僕も賛成だ。また、古満君は、「ほかには、スティーブ・ジョブズでしょうか。ああいう生き方にも憧れがあるようです。鎌田先生は借金を抱えていた病院を立て直した自負もありますので……」と続けた。さもありなんである。この指摘にも、僕は素直に頷いたものだ。

・冒頭に触れた花田紀凱さんのことに戻ろう。この日花田さんは、『月刊Hanada』の取材で弊社に来られた。いつもは、ライターに任せのようだが、特別に自分が興味のある人、内容の取材には同行するようだ。どうやら鎌田さんの新刊本に興味を惹かれたようだ。宣伝に一役買ってくれるとうれしい。花田さんも、文藝春秋の『週刊文春』編集長を辞めて後、朝日新聞社の女性誌『uno!』編集長、角川書店の『月刊フィーチャー』発行人、『MEN'S WALKER』編集長、宣伝会議の月刊誌『宣伝会議』編集長、『編集会議』編集長、ワック・マガジンズの『WiLL』編集長を経て、現在の飛鳥新社『月刊Hanada』に至っている。
 花田さんとは今から14年前、宣伝会議の『編集会議』編集長だった時に、お世話になっている。それは、僕の高校の同級生・安原顯(天才ヤスケン)に絡んだものだ。ヤスケンが「肺ガンで余命1ヶ月」の宣告を受けた後、僕は彼の本を3冊、弊社から刊行に踏み切った。出版界始まって以来の刊行スケジュールには、さすがに鬼神ともいえども避けて通るはず、ついでに肺ガンも怖れをなして飛んでゆくのではないか、と考えたのだ。花田さんは、それを「ニュースの価値あり」と乗ってくれた。その時は、花田さんが僕の原稿に筆を入れて、『編集会議』の最新号に間に合わせてくれた。お礼を言うのは場違いだが、「花田さん、その節はありがとう!」といっておきたい。

・鎌田さんは、新年号から月刊『清流』で、「なんでもない毎日を、特別に生きる!――常識破りの逆境脱出法」という連載を始めています。第1回は、「無常を生きる」がタイトルである。「無常」と「オートファジー」のにまつわる心のあり方をめぐっての話である。人間の細胞がつねに入れ替わっているのは「流転」ということ。つまり、「オートファジー」は「万物流転」の思想です。われわれの生命の源である細胞だって流転しているのだから、われわれの生き方も考え方も、もっと流転してもいいのだなと鎌田さんは考えたと言う。この連載は大いに楽しみにしている。
 その『清流』2017年2月号では、鎌田さんが主宰する「JIM-NET」では、毎年、北海道の六花亭が原価で特別に製造してくれたチョコレートで、冬季限定の募金キャンペーンを行っていると言います。イラク・シリアの情勢は悪化の一途、難民は増えるばかり。多くの難民がヨーロッパを目指しますが、イラクに残った難民の中には、劣悪な環境で治療を受けている子どもたちがいます。鎌田さんたちは、こうした子どもや家族の負担を少しでも減らすために「子どもサポートハウス」の開設を目指し、そのための募金を集めているとおっしゃる。今回は、少女たちが描いた絵を缶のパッケージにして、バレンタインのチョコレートをつくったと言う。鎌田さんは、イラク支援、福島支援、難民支援……などの活動に、チョコ募金を含めて、世界的視野でご覧になられていらっしゃる。

辻 一郎さん、高田宏さん

清流出版 (2016年11月28日 14:55) | コメント(0) | トラックバック(0)

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『忘れえぬ人々――放送記者の40年のノートから』(1998年刊)

・僕も喜寿に近くなり、親しい友人たちが、一人、また一人と鬼籍に入ってしまい、秋の夜長は酒でも飲まなければ間がもたない。そんな漂泊の思いの中で、ふと辻  一郎さん父子と高田宏さんの友情について書いてみたくなった。辻さんは弊社から3冊単行本を刊行されたが、きっかけは既に弊社からエッセイ集『出会い』(1998年刊)を刊行していた高田宏さんの橋渡しによるもの。その高田さんも2015年11月24日に亡くなってしまった。享年83。死因は肺がんであった。本欄の2016年5月号に書いたが、実は高田さんについては、まだまだ書き足りない思いがしていた。高田さんは編集者として刮目すべき存在であった。僕は編集の先輩として高田さんのファンであり尊敬もしていた。

    高田さんは、当代きっての読書人であり、博覧強記の人でもあった。無類の酒好きだったことでも知られ、酒が入ると底なしだったとも聞く。辻  一郎さんによれば学生時代、高田さんの好きな酒場は、庶民的な店ばかり。実際、縄のれんの常連さんだった。10軒はしごしても平気だったというから、酒豪ぶりも半端ではない。高田さんが、卒業後、京都を離れることになるからと、馴染みの店を1軒ずつ訪ねて回った卒業間際のことである。このとき同行した辻さんは、高田さんの人望に目を見開かされる。「驚いたことに、どの店も餞別のネクタイを用意していて、その夜、高田がもらったネクタイは、10本近くにはなったはず」というのだから凄い。酒の場の盛り上げ方に秀でており、最高の話し上手であり、聞き上手でもあったらしいから無理もない。

    こんな逸話も残されている。高田さんの京大時代の親友が長野県飯田市の実家で結婚式を挙げることになった。その結婚披露宴に呼ばれて、高田さんが飯田に出かけたときのことである。披露宴では勧められるままに杯を空け続け、しこたま酒を飲んだはずなのだが、少しも酔っているようには見えなかった。辞して旅館に戻ろうとする高田さんを呼び止めて、新郎のお父さんがこう言ったそうだ。「少しは千鳥足で歩いてくださいよ。お酒をケチったと、ご近所の方に思われてしまいますので……」と。

・辻さんと高田さんは、京大時代からの無二の親友であったが、その出会いというのが、実に不思議な計らいとしか思えない。京大入学後の身体検査の会場で、お隣同士並んで待つことになった二人。ウマが合ったか、話が弾んで友達となり、生涯のお付き合いとなったというから、まさに“人生は出会いである”を地でいったことになる。だから卒業した学部も辻さんが法学部、高田さんは、文学部の卒業で違っている。 

    辻さんは大学を卒業後、新日本放送(現・毎日放送)に入社し、主として報道畑を歩いて、取材活動にあたる一方、報道番組の制作にも携わっている。自らプロデュースしたテレビ番組「若い広場」、「70年への対話」で民間放送連盟賞、「対話1972」、「20世紀の映像」でギャラクシー賞を受賞、その異才振りを発揮している。その後、毎日放送の取締役報道局長、取締役編成局主幹を歴任された後、大学教授に転身されて今日に至っている。

・辻さんの父君は辻  平一と言い、伝説的な編集者として知られた人物だ。大阪外語大学露語科を出て、大阪毎日新聞に入社、敏腕記者として健筆をふるった。署名入りで「大阪が生んだ文壇人」と題し、直木三十五、宇野浩二、川端康成、藤澤恒夫、武田麟太郎らをエピソード豊かに描いた連載執筆をしたこともある。戦後間もなく、『サンデー毎日』に異動した平一は、週刊誌と言えば『週刊朝日』と2誌しかない往時の『サンデー毎日』の名編集長として名を馳せている。

   その頃、ライバルだった『週刊朝日』は扇谷正造が率いており、昭和25年4月から吉川英治の『新平家物語』を連載、飛躍的に部数を伸ばしていた。平一はそれに対抗するように、懸賞小説で発掘した源氏鶏太を売りにし、『三等重役』を連載して、『週刊朝日』を急追したのである。当時、『サンデー毎日』では懸賞小説を募集しており、この入選をきっかけに文壇に登場した作家は数多かった。

    名前を挙げれば、海音寺潮五郎をはじめ、山手樹一郎、村上元三、源氏鶏太、山岡荘八、城山三郎、永井路子などビッグネームがきら星のように並ぶ。特に海音寺潮五郎とのお付き合いは、海音寺が上京して鎌倉に居を定めてから最晩年に至るまで、43年間の長きに及び、終生厚い友情の灯は途絶えなかったという。その間の、海音寺からの70通あまりの手紙が残されたが、すべて巻紙に能筆で認められていた。今は遺族に戻されて、海音寺潮五郎記念館に収められている。平一自身、『文藝記者三十年』(昭和32年、毎日新聞社刊)、『人間 野間清治』(昭和35年、講談社刊)などの著書もある。


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『父の酒』(2001年刊)

・さて、この伝説の編集者辻  平一が、日本の企業PR誌のイメージを一変させたと言わしめた高田宏さんと関わってくるから人生は面白い。昭和29年の秋から冬にかけて、京大卒業を前にした高田さんは次々と入社試験に落ちていた。NHK、新日本放送、朝日放送、松竹、東映、そして平一のいた毎日新聞も、である。このうち、受験のための紹介者が必要だった新日本放送、松竹、東映は平一の紹介で受験したものだ。毎日新聞は自由応募だったから、紹介はいらなかったらしいが、動向を気にしていた平一が調べてみると、高田さんは作文が良かったという理由で面接には残っていたが、試験の成績は何百何十番目だったとか。採用予定者数名に対して百人が面接に残り、その百番目ではどうもならなかった。平一は「高田君、むつかしいぜ、これは」と言ったという。

    こうして就職も決まらず、お先真っ暗な日々を送っていた高田さんを救ったのも平一だった。「少女雑誌の会社なら、受けるだけは受けられるがどうかね」と、高田さんに話をもってきたのだ。その出版社は東京の光文社で、この年初めて入社試験をして社員を採用するということだった。光文社は東京の大学数校に募集案内を出しているが、辻さんの知人が役員をしている会社なので受験を頼むことができたらしい。もちろん、藁にも縋る思いだった高田さんは、二つ返事で上京して受験する。当時、光文社は文京区音羽の講談社5階に間借りしていた。

    入社試験はユニークそのものだった。二百字詰五十枚綴じの原稿用紙が1冊ずつ配られて、5、6時間以内に6本の原稿を書かされたという。課題は次の通り。「戦後の大衆娯楽の種々相を論じ、それについて所見を述べよ」、「我が父(母)を語る」、 「旧師へ卒業を知らせる手紙」、「最近感銘を受けた本について感想を述べよ」、 「現代の尊敬する人物とその理由を述べよ」、「愛読する新聞とその特長、及びどういう欄、或いは記事を好んで読むかを記せ」。高田さんは、課題に対して「酒」で書けるものはみんな酒で料理しようと決めた。それがダメなものは「笑い」でいこうと考えた。酒は高田さんの一部でもあったし、笑いは卒論のテーマ(「フローベールの笑いについて」)でもあったので、自信があったのだ。こうして課題の35枚の原稿を書き終えた高田さんは、帰りに、そのころスタートしたばかりのカッパブックス第1号目の伊藤整著『文学入門』をおみやげに京都に帰った。

・採用通知がきて、翌春4月、めでたく『少女』編集部に配属となり、高田さんの編集者人生が始まったのである。光文社では、入社してしばらくして春の社員旅行があった。修善寺温泉1泊旅行である。飲み放題の酒に大喜びの高田さんは大酒をくらい、新入社員の分際で、いきなり光文社の「のんべえ四天王」の一人となる。僕は高田さんほどのんべえでもないが、大の酒好きの身として、こういう話は大好きだ。出版部のKさんというのが、のんべえ四天王の一人で、たまたま京大の先輩だった。そのKさんが、「君か、酒の話ばかり書いて入ってきたのは」と笑って、どんどん酒をついでくれたそうだ。古き良き時代の話である。

    辻さんと高田さんは、卒業直後は、ともに東京で仕事をしていたので、有楽町のガード下あたりで飲むことがあった。「今日は社で仕事をしながら、一人でウィスキーのボトル1本空けてしまったよ」という高田さんの話を聞いて、辻さんは驚いたらしい。出版社と放送会社では職場の雰囲気がこんなにも違うものだとの印象を深くしたことと、それだけ飲んでも、まったく顔に出ていない高田さんの酒豪ぶりに改めて呆れたのだった。

    辻さんは、父・平一と高田さんの関係についてこんなことを書いている。「高田は私の父とも仲良しでした。二人をつなぐ接点はもちろんお酒でした」と。実際、平一は友人の中でも、酒飲みを特に優遇したらしい。だから、平一は高田夫妻の結婚に際し仲人を務め、その後も深いお付き合いが続いたのである。

・高田さんに麻雀を教えたのは辻  一郎さんである。平一が麻雀好きで、家庭麻雀を楽しんでいたので自然に覚えたのだ。ところが辻さんが京大に入ってみると、麻雀を知っている学友は少なかった。そこで何人かを下宿に誘い込み、ルールを教えることにした。弟子は5、6人いたらしいが、その中の出色の弟子が高田さんだった。麻雀を教えたその日に、国士無双をあがって、先生の辻さんをびっくりさせたらしい。

    平一と高田さんも当然ながら雀友となった。高田さんが訪ねていくと、平一は喜んで麻雀に誘ったらしい。何度も雀卓を囲んで談笑している。平一の麻雀は人間同様に大らかそのものだった。小さな手では絶対、上がろうとしない。「常に1翻安くせよ」は、作家・五味康祐の教えだが、平一の場合は、少しでも大きくすることしか考えなかった。だから大抵は負けていた。一方、息子である辻さんは、負けない麻雀を身上とする。これでウマが合うわけがない。辻さんが上がる度に、「なんたる心事陋劣(しんじろうれつ)!」と怒られたという。せっかくこんな大きな手を楽しんでいるのに、さっさと上がるとは何事だというわけだ。僕も今でも麻雀をやるが、どちらかといえば、遊びより精神にこだわる男だ。

    辻さんは『話の特集』の編集長だった矢崎泰久などとも卓を囲んだことがあり、相当な力量の持ち主だったようだ。それが証拠に、矢崎を取り巻くレギュラーメンバーだった毒舌のばばこういちや、テレビマンユニオンで活躍していた宝官正章などを相手に負け知らずだったらしいが、「その矢崎と一緒に遊んでも、負けた記憶がほとんどない」、というほどの腕前だった。矢崎泰久にこう言われたこともあったそうだ。「辻さん、『近代麻雀』の対談に出てくれませんか。八段をあげますよ」と。

    それにしても羨ましい。辻さんの雀友の一人として、美人女優の加賀まりこさんがいるというではないか。立木義浩が六本木族と呼ばれていたころの加賀まりこさんを「とげとげしいけど愛くるしい」と評したそうだが、僕もそのころから加賀まりこさんの大ファンだった。その加賀さんはなかなかの打ち手だったようだ。ぼやきを入れながら自摸牌を次々切ってくるので、まだ聴牌はないと辻さんが安心していたら、思いがけず国士無双を聴牌していたこともあったそうだ。辻さんが「すっかり騙されました」と言うと、加賀まりこさんはニヤリと笑って、「だって私、女優ですもの。騙すのが商売なのよ」と言ったそうだ。いい話である。


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『私だけの放送史――民放の黎明期を駆ける』(2008年刊)

・話を高田さんに戻そう。本欄5月号に書いたが、プロフィールを簡単にご紹介しておく。1932年に京都市に生まれ、4歳の時に石川県加賀市大聖寺町に移り住み、大聖寺高等学校をへて京大文学部仏文科へ進む。大学に入り、マックス・スティルネルの著になる『唯一者とその所有』(辻潤訳、日本評論社出版部、1920年刊)に出会う。これが高田さんのバックボーンとなった。すなわち、この本の「自分を何物にも従属させないで生きる」という考えに共感し、何物にも縛られない自分こそが真に自由な自分であると確信し、「とらわれない、縛られない」を自らの生き方のモットーとしたのである。何ものにも従属しないと決めても、食べていかなければならない。生活のためには職に就かなければならない。だが、雑誌編集の要諦は企画力であり、何ものにとらわれない斬新さが重要なので、「とらわれない、縛られない」という基本姿勢は、雑誌編集の仕事を続ける上で、有利に働いたといえよう。

    1975年、46歳の時、編集の総括として『言葉の海へ』を出版し、退職の意志を固め文筆専業となった。代表作には『島焼け』などの歴史小説をはじめ、自然、猫などをテーマに随筆・評論・紀行など著書は都合百冊ほどになる。公職としても日本ペンクラブ理事、石川県九谷焼美術館館長、深田久弥山の文化館館長をそれぞれ務め、また将棋ペンクラブ会長でもあった。受賞歴としては、1978年に『言葉の海へ』(言語学者・大槻文彦の評伝)で大佛次郎賞と亀井勝一郎賞、1990年に『木に会う』で読売文学賞、1995年に雪国文化賞、1996年に旅の文化賞をそれぞれ受賞している。

・光文社からアジア経済研究所に転じた高田さんは、『アジア経済』の編集に従事する。しかし、時間の余裕はたっぷりあったが、仕事があまり面白くないことと、給料にも多少の不満があった。そこで数年で見限ってエッソ・スタンダード石油に入社する。そこで伝説が生まれるのである。PR誌『エナジー』の編集をし、続いて『エナジー対話』を編集する。このころから、辻さんは取材先で、高田さんの噂を聞くことが多くなったと書いている。このPR誌のクォリティがあまりに高く評判となり、一躍世に知られるところとなったのである。『エナジー』は1964年の創刊以来、ユニークで格調高い内容で評判を取り、「PR誌らしからぬPR誌」との評価を得ている。日本の企業広報誌のイメージを一変させる役割を果たしたといっていい。1冊1特集という形式を取ったのも、斬新で画期的な企画構成であった。1号目の特集は「海」。2号は「探検」。3号は「海外における日本研究」。それぞれの特集には、そのテーマについて当代一流の監修者を立てた。例えば13号の「未来学の提唱」の監修者には、梅棹忠夫、加藤秀俊、川添登、小松左京、林雄二郎が選ばれ、監修に当たっている。これだけのメンバーを揃えては、「下手な総合雑誌以上と評判がある」と小松左京に言わしめているのもよく分かる。京大人文研のメンバーにしばしば原稿執筆を依頼し、PR誌を超えた雑誌として評価されたのである。

・僕は清流出版という小さな出版社を始めたときから、高田宏さんの本を出したいと強く思っていた。そして、弊社でその高田さんの本を2冊刊行できたのは、すこぶる嬉しかった。前述した『出会う』(1998年刊)と『還暦後』(2000年刊)である。ともにエッセイを編んだものだが、高田さんらしさがよく表れた本だと思っている。『出会う』は、樹木・森・島・雪などの大自然の佇まいを愛でる、また、旅先での何気ない人間の触れ合いを描いたエッセイの中から、担当編集者の臼井雅観君が精選したものだった。

    また、『還暦後』はその題名の通り、高田さんが還暦を過ぎてから書いたエッセイから精選して編んだものだ。60代半ばを過ぎると、当然のことながら生と死について思うところが多くなる。高田さんはこう言っている。「人間も、草木鳥獣虫魚や山河も、すべてが懐かしく思えてくる。旅をする日々には、胸の奥にこれが最後という気持ちがある」。そんな気分を背景にして還暦後に書かれたエッセイを集成したものだけに、しみじみと心に沁みてくるエッセイだ。この本は女優の浜美枝さんが書評で絶賛してくれたことを思い出す。しかし、無二の親友を失った辻  一郎さんの胸中はいかばかりか。僕も体験しているから分かるのだが察するに余りある。時間が解決するなどと、軽はずみに言う方もいるがそんなものではない。寂量感でポッカリと胸に風穴を開けられたような心地がしたものだ。僕は晩秋の夜長、高田宏さんを偲んで、この2冊の本を、もう一度、読み返そうと思っている。

鹿島茂さんご夫妻

清流出版 (2016年10月26日 16:48)

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鹿島茂さん、奥様の岸リューリさん
 

・今回は、フランス文学者・評論家で明治大学国際日本学部教授でもある鹿島茂さんについて書いてみたい。というのも、今年、11月18日の発売予定で鹿島茂さんの新刊が弊社から刊行されるからだ。書名は『「悪知恵」の逆襲――毒か? 薬か? ラ・フォンテーヌの寓話』である。実はラ・フォンテーヌとは17世紀フランスの詩人で、「すべての道はローマへ通ず」「火中の栗を拾う」など、多くの名言・格言を残した人である。イソップ寓話を基にした寓話詩(Fables、1668年)でよく知られている。 

 ラ・フォンテーヌの童話集・寓話集は日本でも岩波書店、河出書房、社会思想社など大手出版社から十数冊翻訳出版され、今もって根強い人気を博している。「北風と太陽」や「金のタマゴを産むめんどり」「かえるの王様」などは、皆さんもよくご存じの寓話であろう。イソップ寓話というのは、子供向けに書かれたようで子供向けではない。実は混迷する現代日本を生き抜いていくに必要な、大人向けの人生訓がきら星のように散りばめられているのだ。

 弊社では、このイソップ寓話を鹿島流解釈により、現代の処世訓として蘇らせるとして、連載を月刊『清流』にお願いした。これがとても好評だったので、その連載を元に2013年、『「悪知恵」のすすめ ラ・フォンテーヌの寓話に学ぶ処世訓』として刊行させていただいた。これが大手新聞社、共同通信社の書評掲載、NHKのラジオ番組「土曜あさいちばん」で取り上げられるなど、評判となり増刷出来となったのだ。これに味をしめたというのではないが、再びラ・フォンテーヌの寓話を現代に読み解くという連載をお願いして、その2冊目が今回の『「悪知恵」の逆襲――毒か? 薬か? ラ・フォンテーヌの寓話』となったわけだ。
 

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『「悪知恵」のすすめ――ラ・フォンテーヌの寓話に学ぶ処世訓』(2013年刊)
 
 

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『「悪知恵」の逆襲――毒か? 薬か? ラ・フォンテーヌの寓話』(2016年刊)
 

・鹿島さんとのお付き合いは、かれこれ十数年といったところだろうか。これだけの売れっ子になると、書き下ろしは絶対に無理だという。確かに20本以上の連載を抱えていると聞けば、無理ならんと思えてくる。そこで考えて、雑誌に連載していただき、それを単行本にするというのが一番お願いしやすいこともあり、最初、「神田村通信」として神田神保町の古書街や古書事情などをテーマにして月刊『清流』にエッセイを連載していただいた。文章を鹿島さん、挿絵を奥様の岸リューリさんにお願いした。なかなかにユニークな誌面で、僕も印象深い。
 

 この月刊『清流』に連載された神田村暮らしのエッセイをメインに、プラスして他の雑誌、新聞からのエッセイを精選して一冊に編んで刊行したものだった。単行本として刊行した『神田村通信』(2007年)は、神田神保町の東京堂で発売と同時に、その週のベストワンに選ばれた。以降、順位は多少上下しつつも、数か月にわたってベスト10に入り続けた。このころ鹿島さんは、東京堂のすぐ傍に仕事場と居宅があり、当時の勤め先だった共立女子大学も神田村周辺にあった。だから帯のキャッチにこう書いたのを覚えている。「本の町・神田神保町に暮らす“フラヌール鹿島"の全生活を公開!!」と。僕も若い頃、神田神保町の遊歩者(フラヌール)に憧れたこともあったが、所詮、一介のサラリーマンの夢だった。
 

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『神田村通信』(2007年刊)
 

・鹿島さんといえば、1949年生まれで神奈川県のご出身。神奈川県立湘南高等学校から東京大学文学部仏文学科卒業し、同大学院人文科学研究科博士課程中退。32歳の時、翻訳した『映画と精神分析』(クリスチャン・メッツ著 白水社刊 1981年)を皮切りに、数々の著訳書があり、ざっと数えただけでも160冊を優に超えるのではないか。わが国有数の書き手でいらっしゃるのは事実だ。1991年には『馬車が買いたい!』(白水社刊)でサントリー学芸賞、1996年に『子供より古書が大事と思いたい』(青土社刊)で講談社エッセイ賞、1998年に『愛書狂』(角川春樹事務所刊)でゲスナー賞、1999年に『職業別パリ風俗』(白水社刊)で読売文学賞、2002年に『成功する読書日記』(文藝春秋刊)で毎日書評賞を受賞している。出版する本が軒並み高く評価されるという稀有な作家である。
 

 鹿島さんは、なんといっても19世紀フランスを専門領域とし、わけてもオノレ・ド・バルザック、エミール・ゾラ、ヴィクトル・ユゴー等を題材にしたエッセイで知られている。その上、古書マニアとして有名だ。毎回、フランスへ行くと、どっさり古書を買ってしまう。カード決済で購入されるらしいのだが、財布の中はカードだらけでどう収めようとしても入りきらないと嘆いてらした。ただ一つの朗報はこのところのユーロ安であろうか。一時、160円近くまでいったユーロで古書を買うにも負担増で頭を抱えておられたが、現在は110円台で推移している。円高になっての50円近い差は、随分お金の使い勝手が違うことだろう。僕が1969年から1970年まで、パリ生活をしてせっせと古書店巡りした時は1ドル360円、そして、外国に持ち出せるドルは制限があり、たった500ドルだった。僕は少々、早すぎたらしい。1990年代になってから古書店巡りに目覚めれば良かった。
 

・鹿島さんは、流石に超売れっ子である。今年に入って、すでに3冊の新刊を刊行された。弊社が4冊目である。『フランス文学は役に立つ!「赤と黒」から「異邦人」まで』(NHK出版刊)と、2冊は「ドーダ理論」をテーマにした偉人伝だ。「ドーダ」とは「自己愛に源を発するすべての表現行為」である。著書『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』(朝日新聞出版刊)の概要にはこうある。≪作家はそれぞれ「ドーダ」を表現欲として書き続けてきた。小林秀雄の文章は難解である。「なぜ、小林秀雄は分かりづらいのか」。そこから本書はスタートし、小林のコンプレックスを突き止め、偉大な文学者の本質を軽やかに衝く。難解な小林秀雄の文章が身近に感じられる、読みはじめたら止まらない文学論、かつ、コンプレックスにがんじがらめになった小林を身近に感じ、苦手意識が薄らぐ、読み応えのある小林秀雄論≫であると。続いて刊行されたのが、『ドーダの人、森鴎外――踊る明治文学史』(朝日新聞出版刊)である。同じく概要ではこうある。≪東大で独逸語を学び、ドイツに留学したのちには軍医の傍ら、小説家としても名をはせた森鴎外。彼には西欧人コンプレックスから生まれた「ドーダ」がある、と著者は説く。偉大な文学者の過剰な自意識に迫る画期的な文学評論≫と。いずれにしても鹿島さん独特の視点から書かれたドーダ理論に裏打ちされた異色の偉人伝である。大いに興味深いところだ。
 

・鹿島さんの所蔵するコレクションが、また、素晴らしい。2012年の5月、雨がそぼ降る日だったが、僕は、月刊『清流』の長沼里香編集長と練馬区立美術館で開催された『鹿島茂コレクション』を観に行った。そして、『バルビエ×ラブルール展』を観て、興奮を抑えきれなかった。ともにフランスのアール・デコ期を代表する挿し絵画家、ジョルジュ・バルビエ(1882-1932)とジャン=エミール・ラブルール(1877-1943)の見事なコレクションの数々。鹿島さんのコレクターとしての慧眼ぶりに目を見開かれた思いがした。バルビエは鮮やかな色彩の妙に、そしてラブルールは緻密な線描写が素晴らしかった。バルビエがニジンスキーのダンスを描いた名高いデッサンには思わず唸らされた。また、ラブルールは文学作品の挿し絵を多く手がけ、オスカー・ワイルドの代表作『ドリアン・グレイの肖像』の他、アンドレ・ジッドの『法王庁の抜け穴』の挿し絵などが特に印象に残っている。それにしても、見事なコレクションであった。鹿島さんは、ここ数年、練馬区立美術館と組んで、『グランヴィル展』(19世紀フランス幻想版画)や『モダン・パリの装い展』(19世紀から20世紀初期のファッション・プレート)等のコレクションを行っているが、このような試みは、本来の類なき“文才”の名はもちろんだが、その上“名コレクター鹿島茂”の評価を高めることになったのではないだろうか。

熊井明子さん、桐原春子さん姉妹

清流出版 (2016年9月23日 10:45)

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英国旅行にて熊井明子さん(左)と桐原春子さん (写真提供:桐原春子)


・熊井明子さん、桐原春子さん姉妹には、大変お世話になった。弊社から単行本も二冊ずつ出させていただいた。また、現在、熊井明子さんには、月刊『清流』に「五感で楽しむポプリテラピー」という連載をお願いしている。毎月、季節感を感じさせるハーブ、果物、草花、精油などを使った簡単に家庭でも出来るポプリを提案していただいており、読者からも好評だと聞いている。熊井さんと桐原さんは信州松本市のご出身だが、実は愚妻も松本市の出身であるし、僕が子供のころ疎開した先も信州の塩尻(上田市)という所だったこともあり、特別信州には思い入れ深いものがある。 

   信州にはいい美術館がたくさんあり、美術館巡りも随分してきた。安曇野には草柳大蔵氏が絶賛していた碌山美術館やいわさきちひろの絵本原画を展示した安曇野ちひろ美術館など。諏訪市には北沢美術館、原田泰治美術館などがある。余談だが、原田泰治美術館で僕が「ふるさと風景」の絵を見て回っていたところ、「失礼ですが、原田泰治さんでいらっしゃいますか?」と声を掛けられたことがある。風貌が似ているとも思えないが、小児麻痺で両足が不自由な原田さんは車椅子生活、僕も車椅子で見て回っていたので、間違われたのであろう。長野市にも信濃美術館東山魁夷館、池田満寿夫美術館などが思い浮かぶ。小布施には日本中の桜の古木を描いた中島千波の「おぶせミュージアム・中島千波館」があり、上田市にはこの欄でも度々取り上げさせていただいた戦没画学生の展示館「無言館」がある。館長の窪島誠一郎さんについては、過去の当ブログを参照していただければと思う。

   僕の大好きな音楽でも松本は思い出深い。「セイジオザワ松本フェスティバル」は1992年、指揮者の小澤征爾が創立したもので、毎夏、松本市で行われている音楽祭である。サイトウ・キネン・オーケストラを指揮した小澤征爾の演奏会のチケットが思いがけず手に入り、勇躍、駆け付けて至福の夕べを過ごしたこともある。信州は盆地で標高が元々高い。真夏でも湿度が低いので過ごしやすい。年を取るにしたがって、暑さが身に応えるようになった僕には信州の涼しさはとても魅力的だ。温泉も僕は障害者になってからは、なかなか思い通りには行けなくなってしまったが、扉温泉のように、知る人ぞ知る隠れたいい温泉があったりする。

・さて、安曇野市豊科町は、熊井明子さんの夫君・故熊井啓監督の生誕の地である。実は豊科町には熊井啓記念館があり、僕も訪れたことがある。これまで熊井啓さんが監督・助監督をした作品の資料がすべて収められている。「帝銀事件・死刑囚」でデビューした熊井監督は、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏?冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けている。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「地の群れ」「お吟さま」「サンダカン八番娼館・望郷」「天平の甍」「千利休 本覺坊遺文」「深い河」などがある。

   特に僕の印象に残っているのは、あの「黒部の太陽」であった。石原裕次郎は、52年の生涯で100本近い映画に出演したが、最も印象深い作品にやはり「黒部の太陽」を挙げている。「五社協定」のぶ厚い壁に阻まれて苦戦を強いられ、それを乗り越えて完成させることができたという経緯に加え、破砕シーンのロケ現場で右手親指骨折、全身打撲の大けがを負ったからである。そんな「黒部の太陽」の脚本が展示されていた。各所に書き込みがなされており、制作過程での懊悩も窺える。

   その他、ポスター類、絵コンテ、撮影現場写真など、貴重な資料が所狭しと並んでいた。また、熊井啓、明子夫妻の著になる本もすべて納められ陳列されている。もちろん、弊社の本も収められていた。実は前にも本欄で触れたことがあるが、熊井啓監督が写真撮影をし、明子さんが解説文を書いた『シェイクスピアの故郷 ハーブに彩られた町の文学紀行』という本を弊社から出させていただいた。熊井夫妻唯一の共著書である。編集作業を急ぎ、熊井監督の一周忌に間に合わせて刊行させていただいた。明子さんに大変喜んでいただけたのは記憶に新しい。
 

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熊井啓監督と明子さんの共著

・お二人の本の編集担当者として長くお付き合いをしてきた臼井雅観君は同じ信州人であり、熊井さん、桐原さん姉妹については僕よりも詳しい。臼井君によれば、お二人は毎年のイギリス旅行を定例化しているとか。二人旅のきっかけとなったのは、1988年の7月から8月にかけての英国への取材撮影旅行だったという。姉妹の共著『ハーブ&ポプリ英国風の楽しみ方』(主婦の友社)の刊行の最終詰めに当たり、裏付け取材と写真撮影のための18日間にわたる旅であった。熊井明子さんの生涯かけての研究テーマがシェイクスピアであり、『今に生きるシェイクスピア』(千早書房)、『シェイクスピアのハーブ』(誠文堂新光社)などの著書もあるし、1999年には『シェイクスピアの香り』(東京書籍)等の著作活動により第7回山本安英賞を受賞している。受賞理由は、「シェイクスピアの魅力を新たな角度から探求した業績を評価して」となっており、その果たしてきた功績はとても大きい。

   一方、実践派のハーブ研究家として多くの本を出し、朝日カルチャーセンター、読売文化センター、玉川高島屋コミュニティークラブたまがわのハーブ教室ほか各カルチャーセンターで、家庭でのハーブの楽しみ方などを提案するなど講師を長らく努めてきている桐原春子さん。何年にもわたって読売新聞に月1回のペースで長らく世界の庭園をルポしてきた(現在、連載は終了した)が、イギリスの庭園はその中でも白眉ともいうべき存在であった。

   ヒドコートやシシングハーストなどの有名どころから個人庭まで、英国の庭が34箇所も紹介され、それぞれの解説も簡潔でわかりやすいと評判をとった『とっておきの英国庭園』(千早書房)や読売新聞の連載から精選した庭園を紹介した弊社刊の『桐原春子の花紀行 世界の庭園めぐり』など、英国の庭園関連本を多数刊行しておられる。
必然的にお二方ともに単独での英国旅行も多くしてきており、イギリスへの並々ならぬ関心の高さがうかがえる。だからお二方ともに、イギリスは何度行っても興味が尽きない国となるらしい。
 

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弊社刊行、桐原春子さんの著書

   面白いのは、それぞれ旅ごとにテーマ色を決めているというのだ。テーマ色に合わせて着るものやスカーフ、靴、小物などまで色を揃えるのだ。ちなみにこのテーマを決めて初めてイギリス旅行をしたのは2012年という。ちなみに2012年のテーマ色は緑色だった。2013年はオレンジ色、2014年は青色、2015年はピンク色、そして今年もイギリス旅行に行ってきたのだが、テーマ色は紫色であったという。桐原さんはブログで日々の活動や旅行の詳細を発信しており、この旅行の様子も実に分かりやすく解説されている。桐原さんのブログは写真も多数アップされており、好評とのことで、今年8月13日のブログには、90万アクセスが達成されたことへの感謝の言葉が載っていた。90万アクセスとは僕も驚いた。凄い数の人々が桐原さんのブログに関心を持っているということ、その影響力はかなりなものだ。

・今年のイギリス旅行は7月20日から27日まで、8日間だったそうだ。行先は昨年と同様、ワイト島と西南端のコーンウォールの旅。ワイト島では、上陸してすぐにオズボーンハウスを訪ねている。オズボーンハウスはヴィクトリア女王が生涯愛し続けた離宮で海を臨む場所にある。そのすべての設計を最愛の夫アルバート公が手がけたという見事な庭園つきの離宮である。ヴィクトリア女王の治世にあった1837年から1901年は英国の黄金期、爛熟期であった。そんな栄華を偲ぶ旅になったという。また、ワイト島はジョン・キーツやアルフレッド・テニソンゆかりの島でも知られる。キーツが2回も訪ねて詩作したという滝や、キーツの泊まっていたホテルを実際に眺めたりと、詩人ゆかりの場所を楽しみながら辿る思い出深い旅となったようだ。
 

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ワイト島の白い崖を背に紫色基調の服で (写真提供桐原春子)
 

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今年のテーマカラー、紫色が映える (写真提供桐原春子)

・お二人は大の猫好きでも知られる。熊井さんの愛猫は長毛系の「ニャン」。年は8歳になる。ニャンは毎朝、足の裏の長い毛を、まぶたや頬にそっと当てて熊井さんを起こしてくれるそうだ。こんな起こし方をする猫は初めてだという。熊井監督のご存命中飼っていたマロンは、目覚まし時計の音をまねて、「ニャニャニャニャ……」と耳元で鳴いたらしい。マロンから十数年ぶりに飼ったニャンは、忘れていた“猫による幸せな朝の目覚め”をもたらした、と感謝しているとか。一方、桐原さんの猫はやはり長毛系シルバーチンチラの「モヤ」。御年17歳という長寿猫。桐原さんのブログにもたびたび登場している。今年の夏は特に暑かったので、ペットサロンで夏バージョンカット、つまり頭を残して丸刈りにしてもらった。だから見るからに涼しそうである。

   猫好きが旅をすると、行く先々で猫に出会うから不思議。まあ、岩合光昭氏の世界猫歩きを見ていても、猫がいそうな場所が分かるということもあるのだろう。行きつけのホテルの猫、路地裏の猫、いろんな場所で猫に会ってしまう。猫は本能的に猫好きな人が分かる。そんな旅先で出会った猫たちがが桐原さんの日々のブログでも紹介されている。

 
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英国旅行先で猫と戯れる (写真提供桐原春子)

・熊井さんと桐原さんは、好対照のお二人である。少女時代から文学少女だった熊井さん。少女時代から活発に飛び回るアウトドア派だった桐原さん。とてもよいコンビだとお見受けする。「香りのある楽しい暮らし」と題しての姉妹セミナーや姉妹講演会をされたり、『味覚春秋』という雑誌では、林望さんと姉妹での鼎談を行ったりと、なかなか仲のいいお二人である。現在、熊井さんは、猫に関するエッセイをまとめているとか。いずれ単行本化したいと考えておられるようだ。桐原さんも、読売新聞に連載してきた世界の庭園巡りを形にしたいと思っておられる。ともあれ、姉妹でご活躍なのは、傍から見ている僕も嬉しい。また、雑誌や単行本でコラボする機会ができればと思っている。

飯島晶子さんと『被爆ピアノコンサート「未来への伝言」2016』

清流出版 (2016年8月24日 10:27)

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「被爆ピアノコンサート」のチラシ

・僕が毎年、楽しみにしているコンサートイベントがある。飯島晶子さんが企画した『被爆ピアノコンサート「未来への伝言」』である。このコンサートの企画趣旨について、飯島晶子さんは「音楽や朗読を通じて、平和の大切さを伝えていきたい」と語っている。その伝達手段として、広島の被爆ピアノが重要な役割を果たしてきた。被爆ピアノは爆心地から1.8キロの地点で被爆したにも関わらず、一人の調律師によって蘇り、力強い音色を響かせる。飯島さんは、この被爆ピアノを平和への祈りの象徴と位置づけ、アーティスト仲間と一緒に、被爆コンサートを続けてきた。被爆ピアノと飯島さんとの出逢いは、2005年にまで遡る。関東で最初の被爆ピアノコンサートが開催されたとき、飯島さんはこのピアノの半生についての朗読を担当した。被爆時に受けたガラスの傷が今も残る痛々しい姿にも関わらず、ピアノの力強い音色に驚かされ、このピアノを通して平和への祈りを捧げていこうと決意したのだ。今年の公演会場は、営団地下鉄半蔵門駅からほど近いTOKYO FMホール。期日は8月11日(木曜日)「山の日」の旗日であった。皇居のお濠に面したこのビル。皇居周回のランニングコースが目の前であり、この日も様々なウェアに身を包み、軽快に駆け抜ける市民ランナーの走る姿が見られた。
 
・この被爆ピアノを使ってのコンサートだが、これまで全国各地で20回近く公演されてきた。飯島さんの企画によるこの被爆ピアノコンサートも、今年で8年目を迎えるという。そもそも僕と飯島晶子さんとのお付き合いは、2006年、飯島さんの著になる『声を出せば脳はルンルン』というCD付きの本を刊行させていただいたことに始まる。飯島さんは刊行から10年にもなる現在も、この本の販売に尽力してくれている。弊社にとって大変有り難い著者である。これをご縁として、飯島さんは毎年のようにこの被爆ピアノコンサートに招待してくれるのが嬉しい。この日僕は、飯島さんの本を編集担当した臼井雅観君と待ち合わせて出かけることにした。会場に入ってみると、席はすべて埋まり満席状態であった。聞けば入場券は2週間も前に売り切れて、キャンセル待ちの状態だったらしい。人気のほどが伺い知れるというものだ。簡単に飯島晶子さんのプロフィールにも触れておく。日本大学藝術学部を卒業後、朗読に目覚め、NPO日本朗読文化協会理事を務める。河崎早春と朗読の窓「驢馬の耳」主宰。「生活の中で生きる朗読空間」をテーマに、舞台をはじめ、展示会、教会等において朗読活動を展開し、「愛・地球博」ではアンデルセン童話の朗読をした。中学校教科書CD朗読や、番組・企業ナレーションでも活躍中。各種専門学校・大学・カルチャースクールの講師を務めるほか、日本デンマーク協会、お茶の水音声言語学習会会員でもある。

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司会進行役を担当した飯島晶子さん (撮影:谷川淳)
 
・さてコンサートの幕開け。黒基調のレースをあしらったシックな装いで登場した飯島晶子さん。間がいい耳に心地よい司会でスタートした。全体は15分ほどの休憩を含む二部構成で、実にバラエティに富んだものだった。印象に深く残ったものを挙げてみたい。毎年、演じられて印象深いのが、エピグラム「原爆を裁く」である。ピアノ、ヴァイオリン、とクラーク記念高等学校パフォーマンスコースの生徒たちの朗読によるものだ。40数年前に人間国宝・杵屋淨貢(巳太郎改め)氏によって作曲され、放送用に録音されたものの、過激だからとの意見で放送できなかったというこの曲。作詞者=谷川俊太郎氏のご子息である谷川賢作さんのピアノと、佐久間大和さんのヴァイオリンが、耳障りな不協和音で原爆の理不尽さを表現し、生徒たちの朗読がそこにかぶさる。これは何度聴いても衝撃的で心を抉ってくる。

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「原爆を裁く」 (撮影:谷川淳)
 

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MJC(南相馬ジュニアコーラス) (撮影:谷川淳)

・今回が初めてという出し物も印象に残る。東日本大震災の被災地、福島県南相馬からMJC(南相馬ジュニアコーラス)アンサンブルが登場した。2009年6月に結成された女子高校生だけのコーラスグループ。見るからに純粋で素朴な高校生が、透明感のある歌声で見事な歌声を響かせた。南相馬の古い酒蔵を復元した銘醸館を拠点に活動中とか。東日本大震災後、あかりの消えた街に原発という新たな恐怖が襲い、7万人いた街の多くの人々が避難を余儀なくされた。懐かしい故郷は悲しみの中にあり、コーラスメンバーもバラバラになりながら、残った学生たちで自主練習を続け、2011年8月7日に『2011こどもコーラスフェスティバル』に出場する。以来、今も被災地からの感謝と元気を届ける活動を続けている。東日本大震災、津波被害、原発事故、風評。ともすれば挫けそうになる大人たちの心を励ましたのが、こうした生徒たちの笑顔と明るい歌声だったというのは感動的である。震災以降、5年目で公演も100回を超えるとか。被災地に未来の夢を与えて続けてくれている。素晴らしい活動である。
 
    もう一つ、巣鴨に生まれ育ち地元巣鴨に「すがも児童合唱団」を結成し今年で24年目を迎えたという大澤よしこさん。彼女の指導する童謡メドレーも良かった。皆さんは「あめふり」という童謡をご存じだろうか? “♪あめあめふれふれかあさんが”で始まる童謡だ。“♪しょうしょうしょうじょうじ”で始まる「証城寺の狸囃子」など懐かしい歌ばかり。しばし童心に返ることができた。東京音楽大学の声楽演奏家コース三年生の娘・和音さんとのコラボも良かった。それにちびっ子たちは、伸び伸びと歌う楽しさを発現していた。それが何より心地良かった。そしてお馴染みのメンバー、ピアニストの谷川賢作さん、人間国宝で三味線の杵屋浄貢さん、新たに参加したヴァイオリニストの佐久間大和さん、皆さんの演奏も詳しくは触れないが心に染み入った。歌の力、音楽の力というのは、素晴らしい底力を秘めている。人間を勇気づけてくれる。

 
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「すがも児童合唱団」 (撮影:谷川淳)


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おおたか静流さん (撮影:谷川淳)

・7色の声を自在に操るというおおたか静流さん。月刊『清流』にもご登場頂いたこともあり、僕が大好きな歌い手さんだが、静流さんが歌った「あの夏のまま……」という歌は、信州上田市の窪島誠一郎さんの無言館の一枚の画に材を取ったものだとか。戦後54年を経た1999年の夏のこと、戦没画学生慰霊美術館「無言館」の一枚の絵の前に一人の老婦人が立った。彼女はその絵のモデルになった女性だった。この画のモデルとなったこの女学生の、戦地で散った画学生に向けての鎮魂歌は、涙なしに聴くことができない。二十歳の彼女を描き、青春の真っ只中に戦地に駆り立てられ生きて帰らなかった画学生。残された老婦人のノートに書かれた「安典さんへ」と自身の詩「あなたを知らない」を、無言館館主・窪島誠一郎さんが朗読する。そのミニアルバムが8月15日の終戦記念日に発売されたようだ。是非、手に入れたいと思っている。窪島誠一郎さんには、弊社から3冊本を刊行させていただいた。長いお付き合いになるが、終戦記念日のころ、上田市の無言館では鎮魂のコンサートが行われてきた。そこには僕の大好きなヴァイオリニスト天満敦子さんも出演されている。懐かしい名前が出てきてつい脱線してしまった。
 
・実は2時半の開演の前に臼井君と会場近くで食事をしたのだが、その店で思わぬ出会いがあった。大きなテーブルで僕らの前に二人のご婦人が座った。漏れ聞こえてくる話を聞いていると、どうも同じ被爆コンサートにいらした方のようだったので、話しかけてみた。するとなんと毎年、素晴らしいパフォーマンスを見せてくれるクラーク記念国際高校パフォーマンスコースの生徒さんの母堂と祖母だという。ちなみにこのクラーク記念国際高校の校長は、あの冒険家としてその名を知られる三浦雄一郎氏である。僕はいつもクラークの高校生たちのパフォーマンスの迫力には圧倒される思いでいたのだが、その秘密の一端をうかがい知ることができた。聞けば今年入学したばかりの娘さんがいて、その娘さんが選抜されて今回のコンサートに出演しているのだという。その練習量たるやすさまじく、毎日4、5時間の睡眠時間で練習を重ねてきたらしい。道理で一糸乱れぬ動きといい、声の出し方といい、実に堂々としたものだった。その秘密がこの練習の成果だったわけだ。さらに驚いたことに、今回の公演を終えた後、そのまま夜行バスに乗り9時間かけて甲子園球場に駆け付け、北北海道代表を勝ち取ったクラーク記念国際高校の本校と姉妹校に当たる創志学園の野球2試合を全力で応援に行くという。翌朝、帰京すると、そのまま国立劇場ダンス稽古を再開するというから、いくら若いとはいっても過酷な日程ではないか。
 また、約2,000校が参加する文化系の甲子園、全国高校演劇大会を勝ち抜いた演劇部優秀校3校が集う国立劇場公演(他に日本音楽・郷土芸能部門あり)に、パフォーマンスコースの生徒は約15分間のダンスを披露する。しかもオープニングパフォーマンスだというから実力は証明済みだ。圧倒的なダンスを舞うべく、稽古に打ち込む日々が続くのだという。この過酷な鍛錬の日々あればこそ、あれだけのパフォーマンスが可能なのであろうと納得したものだ。
 
・ちょっと話が逸れてしまったが、これからも飯島さんには、被爆ピアノコンサートを続けていくことによって、次代を担う若者たちに、自由の尊さ、平和の大切さを伝えていって欲しい。幸いなことに、飯島晶子さんの回りには、たくさんのボランティア、協賛者、協力者が集まってきている。とりわけ、飯島さんが名前を挙げて感謝したいと言った方がいる。それが演出・構成を担当した飯田輝雄さんである。これまで8回すべての演出・構成を手掛け、コンサートを成功に導いてきた。地方公演では、現場のスタッフのモラールアップを図り、また今回の東京公演では150名以上にもなる個性溢れる出演者たちをまとめあげたとか。飯島さんは飯田さんのその手腕がなければ、これまで続けてこられなかったとしみじみ述懐したものだ。しかし、僕はその前提として、本気で協力したいと思わせる飯島さんの人間的魅力があったればこそだと思う。いずれにしても、いいものを見せていただいた。今年もまた、素晴らしいコンサートにお招きいただき、感動をありがとうと伝えたい。

瀬川昌治さん

清流出版 (2016年7月21日 16:29) | コメント(0) | トラックバック(0)

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瀬川昌治さん(右)と映画通の編集者・高崎俊夫さん。我が社の応接間で。

 

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『素晴らしき哉 映画人生』(定価=本体2200+税、四六判、並製、2012年刊)

 

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『乾杯!ごきげん映画人生』(定価=本体2000+税、四六判、並製、2007年刊)

 

2016620日、日本の映画監督、脚本家、舞台演出家であり、喜劇映画の名手とされ、1960年代に数多くの喜劇シリーズ を監督した瀬川昌治さんの訃報が伝えられた。1925(大正14)年生まれで享年91であった。「ぽんこつ」「図々しい奴」「喜劇 急行列車」等50本以上の映画を撮り、脚本を40作以上書いておられる。僕が大好きな映画監督だっただけに、惜しい人を亡くしたととても残念である。実は瀬川さんは、我が清流出版のある神田神保町のお生まれなのだ。

現在も、弊社から、徒歩3分足らずのマンションにスタジオと自宅を構えておられる。だから弊社から、『乾杯!ごきげん映画人生』(定価2100円、20071月刊)、『素晴らしき哉 映画人生!』(定価2310円、20123月刊)の2冊単行本を刊行させていただいたが、散歩のついでにという感じで直接本を買いに来られたこともあった。とにかく熱心に本を売って下さる方で、同窓会でも映画祭でも、折に触れイベントの際にはサイン会を催し、販促にご協力いただいたものだ。だから著書は増刷出来にもなった。弊社にとって大変有り難い著者であった。

 

・瀬川さんは、幼少時から映画少年であったという。当時、一世を風靡した時代劇映画のスターたち。片岡千恵蔵がいた、「アラカン」の愛称で親しまれた嵐寛寿郎がいた、「バンツマ」と呼ばれた坂東妻三郎がいた、そして大河内傳次郎、市川右太衛門など綺羅星のように並ぶ。そんな時代劇映画に夢中になり、学習院高等科在学中には、先輩である三島由紀夫と映画について語り合ったこともあるという。その後、瀬川さんは東京帝国大学文学部英文科に入学した。が、ただの青白きインテリではなかった。もって生まれた卓抜した運動能力も存分に発揮された。なんと東大野球部に入部し、レギュラー選手となったのだ。俊足・好打の外野手として鳴らし、東京六大学野球のリーグ戦でも大活躍されたというのが凄い。

・東京帝大を卒業すると瀬川さんは最初、映画プロデューサーを目指す。当時ハリウッドのプロデューサー・システムを採り入れていた新東宝の製作部に入社するが、次第に演出に興味を持つようになる。1950年には同社の助監督部に異動して、阿部豊、松林宗、中川信夫などに師事している。1957年、新東宝が大蔵貢のワンマン体制に移行して従来のような自由な映画作りが困難になると、退社を決意する。フリーのシナリオライターになったのだ。そして、1959年、東映の契約助監督となる。

1960年には、『ポンコツ』で監督デビューを果たし、以後、デビュー間もない三田佳子をヒロインに迎えたミュージカル・コメディ『乾杯! ごきげん野郎』や、不器用に生きる男の生きざまを描いた『馬喰一代』など、独自の作風で注目を集めてゆく。アクション映画や文芸映画を手掛ける一方、エノケンと愛称された榎本健一などの浅草出身コメディアンを起用して喜劇に才能を発揮する。そして1967年、東宝や松竹に対抗して東映が立ち上げた喜劇「列車シリーズ」の監督を任される。これが瀬川さんの名をいやが上にも高めることになる。旧国鉄の協力を得て、全国各地の鉄道や観光地が登場する渥美清主演のこのシリーズは、計3本作られ好評を得たが、列車シリーズを高く評価した松竹社長・城戸四郎から「松竹の正月映画で列車シリーズをやってほしい」との誘いを受け、翌1968年には松竹に移籍。山田洋次監督の『男はつらいよ』第一作の同時上映作品として「旅行シリーズ」の一作目『喜劇・大安旅行』をフランキー堺主演で監督したのだ。

・列車シリーズの主人公が鉄道の車掌で固定されていたのに対し、旅行シリーズでは主人公は観光地の鉄道駅に勤務する駅員か駅長なども演じるようになり、作品に登場するロケ地もよりスケールアップして(『喜劇・誘惑旅行』ではフィリピン・ロケを敢行したことも)、喜劇であると同時に観光地映画という独自のジャンルを確立することになる。緻密に練られた構成の妙と、伴淳三郎やミヤコ蝶々などベテラン喜劇俳優を巧みに使いこなしてヒット作を量産する瀬川さんの演出手法は、城戸四郎から絶大な信頼を得ることとなり、1969年の年頭挨拶において城戸は「瀬川を見習え」と全社員に訓示するというエピソードを残している。

・なお、松竹に移籍した背景には、東映で保留されていた学習院の先輩・三島由紀夫の小説『愛の疾走』映画化の企画を進めるという瀬川さんの意図があったが、旅行ものがシリーズ化されたために、『愛の疾走』の企画は立ち消えとなったらしい。瀬川さんとしては痛恨の極みだったに違いない。旅行シリーズは計11本制作され、1972年の『快感旅行』で終了(のちに番外編としてTVドラマ『喜劇団体旅行 開運祈願』がフランキー堺主演で作られた)。松竹では他に、渡辺祐介がメインディレクターを務めた「全員集合!!シリーズ」の『ザ・ドリフターズのカモだ!!御用だ!!』と『正義だ!味方だ!全員集合!!』、前田陽一が立ち上げた「喜劇・男シリーズ」の『喜劇・男の泣きどころ』と『喜劇・男の腕だめし』を手掛けている。

1978年に瀬川さんは松竹を離れ、1984年ににっかつ(日活)ロマンポルノ『トルコ行進曲・夢の城』で映画界カムバックを果たす。この頃から、社会の最底辺にいる水商売の女たちや芸人たちのプロフェッショナリズム賛歌を喜劇タッチの中に盛り込むようになり、ビートたけしやタモリなどテレビタレントの意外な一面を引き出すことに成功した。瀬川さんの人間観察の透徹した目が引き出したものである。1990年の『Mr.レディー 夜明けのシンデレラ』でも、プロ根性のあるニューハーフを芸人と見なし、そのプロフェッショナリズム礼賛を喜劇タッチで描いたこともある。

晩年近くなっても、映画への情熱は衰えない。映画界への恩返しの意味もあったのだろうか、瀬川さんは2009年、俳優育成のため瀬川塾を立ち上げている。瀬川塾を立ち上げて3周年の記念特別公演として現在のラッパ屋の原点とも言われる鈴木聡作『凄い金魚』を築地本願寺のブディストホールで上演したことがある。出演は瀬川塾の塾生たち。そのほか協力出演として山口ひろかず(コント山口君と竹田君)、村山竜平というベテラン俳優2人が力強く支えていた。ご案内をいただいたので、清流出版のメンバー総勢10人でこの『凄い金魚』の観劇に出かけたのを思い出す。160席のホールは超満員で、熱気に満ち溢れていた。笑いとペーソスに満ちたノンストップの2時間で好感の持てる舞台だった。この時瀬川さんは87歳だったはずで、まだ演出家として現役バリバリで活躍されていることが我がことのように嬉しかったことを覚えている。

・瀬川さんの1歳年上の兄・瀬川昌久さんも東京帝国大学法学部の卒業。富士銀行に入行し、ニューヨーク支店駐在中からジャズ評論を開始され、退職後は、音楽関連レクチャーやコンサート企画などを精力的に行ったことで知られる。弊社からも『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』(定価2100円、200510月刊)を刊行させていただいた。さらには三男・瀬川昌昭さんも東京帝国大学政経科を卒業し、NHKに入局。社会番組部長などを歴任され、現在は()瀬川事務所の社長である。まさに秀才三兄弟だが、皆さん趣味が高じて実業として成り立たせている。これが僕にはうらやましい。最後に瀬川事務所を統括する三男・瀬川昌昭さんが、瀬川三兄弟について語った言葉がある。引用させていただいて、瀬川昌治さんを偲ぶこの文を終えたいと思う。

・≪瀬川昌昭さんの文≫――

少し長くなりますが私たち兄弟のことをお話したいと思います。振り返ってみると私は二人の兄の背を見て生い立ち、そして人生を過ごしてきたような気がします。少年時代まで私たち兄弟は両親の愛情に育まれ、環境と情報を殆ど共有して育ちました。その3人が別の道を歩み始めたのは第二次世界大戦が契機でした。私たちに戦前派にとって戦争は大東亜戦争とよばれていました。長兄の昌久は幹部候補生を志願して海軍経理学校に入学、次兄の昌治はやはり幹部候補生として徴兵され、陸軍の、今で言えば特殊部隊人間魚雷の搭乗要員の訓練部隊に身を投じました。

年齢が1才徴兵に届かなかった末弟は旧制高校1年生で、勤労動員という名のもとに兵器工場に派遣されました。海軍、陸軍、学徒勤労隊とそれぞれ違う世界を見ることになります。当時の若者にとって出征することは再び生きて会えないと覚悟することでした。出征する兄たちとの別れ際に「もし空襲で家が燃えたら何を持ち出すか?」遺言を訊くつもりで尋ねたことを思い出します。昌久は「レコード」と答え、昌治は「本」と言いました。レコードは兄が戦時中に東京神田の古レコード屋を廻って集めていた内外のジャズのSP盤、昌治の「本」は太宰治や田中英光が多かったと記憶しています。

私たちの家は昭和207月、最後の東京大空襲で延焼しました。家を守っていた私は庭に掘った防空壕に「レコード」と「本」を運びましたが、お宝の大部分は灰と化してしまいました。命ながらえて終戦後間もなく再会の日を迎えた3兄弟はその後三人三様の道を歩き始めます。昌久は法学部で庭球部、昌治は文学部で野球部、私は経済学部で陸上競技部でした。仕事も銀行員、映画監督、テレビディレクターとサイクルが全く違いました。時は夢のように過ぎ、そろって21世紀を迎えることになった次第です。

少年時代から夢だったジャズ専門家を達成した昌久は、今でも夜11時に帰宅、ジャズをきき、原稿を書いて午前2-3時就寝、10時前後起床すると慌しく朝食をとって外出します。「3人でめし食おうよ」というと手帳を開いて、「今月は空いてないな、来月の20日ごろどうだ」と言うような始末です。監督の兄も留守がちです。問い合わせると「今週はシナリオでカンヅメなのよ」と兄嫁が教えてくれるという具合です。

70の声を聞いた頃から、私は自身「老い」を感じるようになりました。体に色々な不具合が生じます。こころにも老いを感じます。「昔ならこんな仕事は半日で片付けられたことなのに」頭が廻らない、動作が遅いもどかしさをたびたび自覚しては年を思うようになりました。でも3才、4才年上の兄たちは殆ど老いを感じていないように見えます。それなら俺もあと3年、4年は大丈夫かなと気を取り直します。そんなときふと思いつきました。高齢化社会、60才以上の人口が4人に1人になった日本で、同じシニア又は高齢者の同世代の仲間たちは加齢をどう捉えているのだろう。もし残る人生をその人たちと共有できたらそれは素晴らしい人生のフィナーレとなるのではないか? 兄たちも賛同してくれました。

私たちは大したことはできません。できることは我々が一生で蓄積してきた事々を語り伝えることぐらいでしょう。高齢者には限りません。人生を語り伝えたいと言う思いを持つ方に1人でも多くここに来て語っていただければ幸いです。私はこの「イーライフストリート」のデジタル広場で言いたい、話したいと思うことを記録して行きたいと考えています。また自分の経験やアドバイスで皆さんの悩みやストレスが解決できたらなお素晴らしいと思います。老いてもなお、志を持ち続けたいと願う方々はぜひストリートを散歩して下さるよう願っております。

・瀬川3兄弟、よく分かったと思います。各々、ご自分の才能と、得意なジャンルを、お持ちになっている。このような棲み分けがあると、喧嘩にならず、理想的な兄弟関係が成立する。本当にうらやましい兄弟愛だ。

藍染作家・陶芸家の菅原匠さん

清流出版 (2016年6月17日 14:22)

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菅原匠さんの個展案内状

 

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会場の前で菅原匠さんと奥様の麗子さん

 

・菅原匠さんの「藍染とやきもの展」が例年通り開催された。会期は525()から30()までの6日間。会場は松屋銀座8階のイベントスクエアである。僕はこの時期、菅原さんの個展を見に行くのをいつも楽しみにしている。白洲正子さんが絶賛していたように、藍染作品が剽軽でとても魅力的なのだ。実は、弊社の応接室入口にも菅原さんの藍染暖簾がかかっている。会場で気に入って会社用に購入したものだ。モチーフは山道をゆく西行の後ろ姿である。飄々とした絵柄は温もりがあり、生き馬の目を抜くようなビジネス世界に一服の清涼剤となっている。菅原さんの藍染の制作過程はユニークなものだ。一般的には型紙や下絵を用いて図柄を描くものだが、菅原さんは「指描き」や「筒描き」で麻布に直に図柄を描いていく。自信と技術的な裏付けあればこその技法である。そのデザインが前述したように愛嬌があるというか、遊び心に満ちたもので、思わず笑みがこぼれるのはいつものことだ。今回の案内状にも藍染と設楽焼が一点ずつ印刷されていた。藍染は泳ぐ亀が描かれた麻布・筒引の暖簾である。表情がユーモラスでこれぞ菅原さんの本領発揮といった作品である。焼き物は設楽焼の飛雲文壺で、これも現物を見たくなると思わせるものだった。


・そしてこれは極めて個人的な興味だが、僕が菅原さんの個展を楽しみにする理由がもう一つある。菅原さんのファンは、やはり大半が女性で美人が多いのも特徴である。何回か会場でお会いした菅原匠ファンのお嬢さんがいる。この方は気に入った作品があると購入するというが、会期中、何回も訪れるらしい。だからお会いできる確率も高くなる。僕好みの美人なので無理を言って、菅原さん夫妻と一緒に写真を撮らせていただいたこともある。今年もお会いできたらな、と心密かに思っていたのだ。

 

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生けられたイボタノキが芳香を放っていた

 

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藍染作品 暖簾と染織

 

・会場は藍染作品と焼き物類で埋め尽くされていた。展示の仕方も藍染と焼き物をコラボさせている。藍染の敷物の上に花を生けた焼き物壺が飾られている。生けられた草花や草木は、すべて大島のご自宅から切ってきたものだ。この日も会場に入ってすぐにいい香りに包まれた。生けられたイボタノキの芳香が、会場内に漂っていたのだ。心憎いばかりの演出である。藍染の暖簾もいいが、現代風にアレンジした藍染のリュックも出品されている。このあたり、実に菅原さんの考え方は柔軟なのだ。伝統の技である藍染で、リュックを作るなど、なかなか発想できることではない。そんな発想の柔軟性は焼き物にも発揮されている。それが焼き物の仏像である。すでに京都のお寺に収めた仏像もあるらしい。通常、仏像は型で抜いて作る。ところが、菅原さんは藍染同様、手作りにこだわる。手間暇かけて、オリジナル作品を生み出していく。大したプロ根性である。

 

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この遊び心こそ菅原さんの真骨頂だ

 

・菅原さんの交友関係は広い。お師匠さんが、あの水原徳言翁だとはうなづける。水原徳言とは、あの世界的なドイツの建築家、ブルーノ・タウトと深く親交のあった知の巨人である。タウトはご承知の通り、桂離宮の名を世界に知らしめた世界的な建築家。水原徳言は、日本における、ブルーノ・タウトの唯一の弟子と言われている。類まれな才を発揮し、都市計画、建築、デザイン、美術、商業に多くの影響を与えた人物だ。1911年に生まれ、1930年、井上房一郎が高崎で始めた工芸製品活動に参加した。タウトが高崎に滞在し、工芸製品制作の指導に関わるようになった際、共同制作者、協力者として活動したことで知られる。実は菅原さんと織司・田島隆夫さんとはごく親しい間柄なのだが、この二人を結び付けたのが水原徳言翁だったという。菅原さんは十代の頃から水原徳言に私淑していたらしい。三十数年前のある日、徳言翁にこう言われたのだという。「行田の田島隆夫さんは、江戸時代の紬のような良い布を織っている。訪ねて行って勉強させてもらったらどうか」と。

 

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陶器と藍染のコラボレーション

 

1972年、初めて田島さんの織った織物を見た菅原さんは衝撃を受ける。「田島さんの織物は、配色といい、縞模様といい、風合いといい、すべてが過不足ないバランス。素朴でいて、高雅な詩情すら醸し出していました」。染織工芸に関して造詣が深かった白洲正子さんは、乞われて銀座で「こうげい」という店を任されていたことがある。白洲さんが四十代も半ばの頃のことだ。古澤万千子、志村ふくみといったすぐれた工芸作家も白洲さんとの交流で技を磨いていく。この店に織物を納めていた職人の一人が田島隆夫さんである。田島さんが初めて白洲さんに会ったのは、昭和三十五年頃のこと。柳悦博の紹介だったという。田島さんの織物は地機織りという。晴れ着よりも普段着を目指したものだった。一般の手織りの機より、風合いのいい織物ができた。だからこそ、普段着にはピッタリだったのだ。厳しい審美眼の持ち主であった白洲さんのお眼鏡に叶ったのだから品質は一級品だった。実際、白洲さんが亡くなって後、白洲家の箪笥からは畳紙に包まれた十数点の田島さんの織物が出てきた。よほど気に入っていたのだろう、大切にしまい込まれていたという。

 

・菅原さんは書画も趣味で描いている。趣味というには失礼なほど、レベルは高い。田島さんは大島に菅原さんを訪ねて、一緒にスケッチをしたという。菅原さんの運転で、尾瀬にドライブがてら、スケッチ旅行に行ったこともある。二人で妙義山を描いた時のエピソードが面白い。描いているうちに日が陰ってきた。そこで車のライトをつけて描いた。ついには妙義山も見えなくなってきた。星がまたたき始めても書き続けた。家に帰って二人の絵を見比べてみると、菅原さんの山の絵はいかにも妙義山らしかったらしいが、田島さんの絵は真っ黒に塗られていたという。田島さんは真っ暗になったら、黒く塗るより仕方なかったと言ったらしい。絵の中の嘘を嫌う、田島さんらしさがよく表れている。

 

・大島のご自宅には、田島さんの書画がたくさん残されている。それもいいものばかりが。なぜなのか。実は田島さんは藍染に菅原宅を訪れると、何日かは泊まっていくことになる。前述のように、スケッチに出かけたり、近隣から草花、草木などを取ってきて、自宅で描くこともあった。そして帰る時に、描いた作品群の中から、泊まり賃代わりに、特に気に入ったものを何点か菅原さんに選ばせたという。だから遊び心が横溢した素晴らしい書画が、ご自宅に所蔵されているわけだ。機会があったら是非、この作品群を見せてもらいたいものだ。ついでといってはなんだが、蔵には李朝の壺だけでも、相当数お持ちらしい。菅原さんは贋作も相当混じっていると思うとおっしゃるが、それはそれで興味深い。是非、見せてもらいたい気がする。

 

・焼き物を焼く時期は、寒い時期である。菅原さんも窯の火入れは11月から12月が多い。通常使用する薪は、備前から取り寄せた赤松を使うという。焼き物を焼く登り窯も敷地内に持っている。今回展示されていた焼き物も、厳冬期にご夫妻が寝ずの番をして窯を焚き、焼き上げたものだ。火を絶やさず、不眠不休で薪をくべ続けるのは大変な重労働であるが、ご夫妻は自分たちだけでこれまでも焼き上げてきた。信楽焼きの「波文壷」「高坯形花生」、お手軽なところでは、お猪口にご飯茶碗などまで、実に多彩で色も上品な色合いである。

 

・伊豆大島の古い民家で、李朝の壺などの骨薫に囲まれ、自然とつかず離れず暮らしている。奥様の麗子さんとお話できたので聞いてみると、窯焚きはやはり年々相当な重労働になっているらしい。でも、二人力を合わせて、やれるところまでやってみたいとの決意を述べられた。それに菅原さんの体調に関していえば、小麦粉のグルテンアレルギーがあるのだという。菅原さんの鼻が赤く見えるのは、そのアレルギー反応の現れで、酒焼けに見られることもあるらしい。つまり酒好きの?兵衛と思われることが多いらしいが、実際には下戸の口だという。だからパンが大好きな菅原さんだが、原料を小麦粉でなく米粉にするなど厳選しないとアレルギー反応が出てしまうらしい。会場で菅原さんに、パンを差し入れておられたご婦人がいたが、こんな暮らしぶりと温かな人脈に恵まれた菅原さんが僕は羨ましくなった。

ところで前述した菅原ファンのお嬢さんであるが、残念ながら今回お会いできなかった。まあ、ご縁があればきっとまたお会いできるだろう。来年の個展を待とうと思う。

高田宏さん

清流出版 (2016年5月16日 14:14)

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弊社から2冊の本を刊行された。『出会う』『還暦後』、いずれも快著であった


・高田宏さんが亡くなられた。昨年の11月のことである。83歳、死因は肺がんであった。すでに半年ほど経ったことになる。実はもっと早く書きたかったのだが、つい書きそびれてしまった。僕は編集者としての高田宏さんのファンであり尊敬もしていた。高田さんは、当代きっての読書人であり、博覧強記の人であった。若い頃から無類の酒好きで知られ、酒が入ると底なしだったと聞く。しかし、場の盛り上げ方に秀でていて、最高の話し上手で、聞き上手でもあったらしい。弊社の編集担当者だった臼井雅観君は、神田の路地裏のショットバーに誘われたことがあるという。杯を重ねるうち、常連客も交えての談論風発する楽しい酒になったようだ。

    自然が好きだから津々浦々の島巡りをするなど旅を愛した。旅のエッセイは自然派高田さんの面目躍如である。「読売文学賞」を受賞した『木に会う』など、その最たるもので、我々が忘れかけていた木と人間との関わりを、見て、歩いて、感じて、考えた、優しさに満ちた自然論である。樹齢七千年の縄文杉の下で一夜を過ごし、白山のブナ林を歩く。真冬の山里を訪ね、銀座の並木に思いを馳せ、能面師、木工師と対話する。そして、木とともにある文化、木とともにある生活、木とともにある生命とは、どういうことなのか、静かに語りかけてくるのである。また、大の猫好きでも知られ、自宅には常に数匹の猫が同居し、今度生まれる時には猫か樹木になると明言していたとか。八ケ岳山中に山小屋を持ち、よく独りっきりでこもって執筆に励んだ。だから社交好きのようでいて、孤独癖があり、見識が広く融通性のある人物のように見えて、ご自分に関しては結構頑固なほどの思い込みが強かったようだ。

・高田さんを世に知らしめたのは、あの伝説ともなった『エナジー』誌の編集長時代である。京都大学文学部仏文学科を卒業後、光文社に入社、その後、アジア経済研究所の雑誌編集を経て、1964年から11年間エッソ石油(現・エクソンモービル)広報部でPR誌『エナジー』の編集長をされた。このPR誌のクォリティがあまりに高く評判となり、一躍世に知られるところとなった。高田さんは京大時代からの友人、SF作家の小松左京や、梅棹忠夫など京大人文研のメンバーにしばしば原稿執筆を依頼し、斬新な特集記事を組み、PR誌を超えた雑誌として評価されたのである。

    小松左京といえば、このところ日本列島で大地震が続いているが、映画化もされた著書『日本沈没』では、地震列島日本の今日と行く末を予知したような符合に驚く。日本列島沈没はあくまでも舞台設定で、地球物理学への関心はその後から涌いたものだという。しかし、そのために駆使されたのが当時やっと認知され始めた「プレート・テクトニクス」であり、この作品はその分野を広く紹介する大きな役割も果たした。この分野に関する作品中の解説やアイデアは修士論文に相当するとの声もあったほどだ。難民となって世界中に散った日本人を描く第2部の構想(仮題は『日本漂流』)もあり、下巻の最後に「第1部・完」と記されていた。下巻発刊後、長い間執筆されることはなかったが、2006年のリメイク版映画の公開に合わせ谷甲州との共著という形で出版されている。

    また、吹田市千里万博公園にある国立民族学博物館初代館長を務めた梅棹忠夫も印象深い。日本における文化人類学のパイオニアであり、梅棹文明学とも称されるユニークな文明論を展開し、多方面に多くの影響を与えたことで知られる。京大では今西錦司門下の一人。生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学(文化人類学)、比較文明論に研究の中心を移した。僕の記憶に残っているのは、梅棹忠夫が世界各地で撮影した写真の中から自ら46点を選び、写真展「民族学者 梅棹忠夫の眼」を1982 年から2010年にかけて国内各地で開催したことだ。日本写真家協会会員でもあった民族学者・梅棹忠夫が、カメラ・レンズを通して「眼」をこらした世界は見る者の目を釘付けにした。

    例えばチベット系農耕民で、金沙江上流の大屈曲点ちかく、玉龍山(5950メール)の山麓、麗江にすむナシ族を梅棹忠夫は撮影している。古くから漢文化に接し、その影響をうけ独特の風俗、文化を保ち、奇妙な絵文字で書かれた「トンバ経」を伝えているという。また、イタリア共和国アブルッツォ・モリーゼ県チェルクエート村の写真である。年に一度の村祭の場面だ。お寺での儀式ののち、聖者の像、マリア様の像などが担ぎ出され、村の中を練り歩く。村びとは、老人も子どもも、その行列に加わる。となり村から、楽隊が雇われてきている。そんな知られざる世界を垣間見せてくれたのだ。

・話を戻すが、僕は高田宏さんの本を出したいと強く思った。そして、弊社でその高田さんの本を2冊刊行できたのは、すこぶる嬉しかった。その本とは、『出会う』(1998年刊)と『還暦後』(2000年刊)である。ともにエッセイを編んだものだが、高田さんらしさがよく表れた本だと思っている。『出会う』は、樹木・森・島・雪などの自然の佇まい、旅先での何気ない人間同士の触れ合いを描いた数々のエッセイの中から、担当編集者の臼井君がページ数を決め選んで編んだもの。

    また、『還暦後』はその題名通り、高田さんが還暦過ぎて書いたエッセイから精選して編んだものだ。60代半ばを過ぎると、当然のことながら生と死について思うところが多くなる。高田さんは言う。「人間も、草木鳥獣虫魚や山河も、すべてが懐かしく思えてくる。旅をする日々には、胸の奥にこれが最後という気持ちがある」。そんな気分を背景にして還暦後に書かれたエッセイを集成したものだけに、しみじみと心に沁みてくるエッセイだ。

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『出会う』(1998年刊)


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『還暦後』(2000年刊)

・高田さんにこんな話を聞いたことがある。「60代半ばを過ぎれば、健康診断で数値が悪い個所が出て当然だ。だから再検査と称して、身体中を小突き回されるより、健康診断そのものを受けないことにしました」と。もし、病気が発症したとしても、淡々とそれを受け入れるというのである。だから「もし、半身不随とか車椅子生活を余儀なくされたとしたら、真っ赤な車椅子を買って動き回りたいもの」と楽しそうに語った。いかにも高田さんらしい発言だと感じ入った覚えがある。僕はリースの車椅子で、高田さんのように思い切った発想ができない。

    何度か高田さんの奥沢の自宅を訪れた臼井君によれば、書斎には木工の人間国宝、黒田辰秋氏のがっしりした大机が置いてあり、高田さんはそこで原稿執筆していたようだ。高田さんの家の猫たちは、大事にされているからだろう、20歳近い老いた猫が数匹いた。後で触れたいと思うが、高田さんの二男、高田雄太さんは猫を得意とするイラストレーターとして活躍中である。

・高田宏さんのプロフィールを簡単にご紹介しておく。1932年に京都市に生まれ、4歳の時に石川県加賀市大聖寺町に移り住み、大聖寺高等学校をへて京都大文学部仏文科へ進む。大学に入って、マックス・スティルネルの著になる『唯一者とその所有』(辻潤訳)に出会う。これが高田さんのバックボーンとなった。すなわち、この本の「自分を何物にも従属させないで生きる」という考えに共感し、何物にも縛られない自分こそが真に自由な自分であると確信し、「とらわれない、縛られない」を自らの生き方のモットーとしたのである。僕も、若い頃、スティルネルに入れ込んだことがある。辻潤はじめ、松尾邦之助、大杉栄、石川三四郎、幸徳秋水、堺利彦、荒畑寒村など無政府主義や自由思想の本を片っ端から読んだものだ。わが師、椎名其二さんの影響が大きかった。

    高田さんは大学卒業後、編集者として光文社で少女雑誌、アジア経済研究所で『アジア経済』の編集に携わり、その後、エッソ石油でPR誌『エナジー』『エナジー対話』『エナジー叢書』『エナジー小事典』等の創刊、また、石油情報誌や社内報等の編集に携わり、28年9ヶ月を雑誌編集一筋に勤め上げた。若い頃に何ものにも従属しないと決めたとしても、食べていかなければならない。生活のためには職に就かなければならないのだ。だが、雑誌編集の要諦は企画力であり、何ものにとらわれない斬新さが重要なので、「とらわれない、縛られない」という基本姿勢は、雑誌編集の仕事を続けていく上で、有利に働いたといえよう。
    雑誌の企画を練るのには、知識が必要である。多種多様な本を読まなければならない。取材では多くの人と会い、日本各地を巡り歩くことになった。それによって広範囲の知識を得るとともに、個性的な人物や地方の自然・民俗・歴史に直接触れることができた。結果的に広い視野に立った大局観と独自の自然観や歴史観を培うことになった。

    1975年、46歳の時、編集の総括として『言葉の海へ』を出版し、退職の意志を固め文筆専業となった。代表作には『島焼け』などの歴史小説をはじめ、自然、猫などをテーマに随筆・評論・紀行など著書は都合百冊ほどになる。公職としても日本ペンクラブ理事、石川県九谷焼美術館館長、深田久弥山の文化館館長をそれぞれ務め、また将棋ペンクラブ会長でもあった。受賞歴としては、1978年に『言葉の海へ』(言語学者・大槻文彦の評伝)で大佛次郎賞と亀井勝一郎賞、1990年に『木に会う』で読売文学賞、1995年に雪国文化賞、1996年に旅の文化賞をそれぞれ受賞している。

・高田さんのご紹介で弊社から本を出した方がいる。それが高田さんの京大時代からの親友、辻一郎さんである。辻さんは、『忘れえぬ人々―放送記者40年のノートから』(1998年刊) 、『父の酒』(2001年刊)、『私だけの放送史―民放の黎明期を駆ける』(2008年刊)と都合3冊出させていただいた。辻さんは1933年、奈良県の生まれ。京都大学法学部卒業。新日本放送(現・毎日放送)に入社。主として報道畑を歩き、取材活動にあたる一方、報道番組の制作に携わった方だ。テレビ番組「若い広場」「70年への対話」で民間放送連盟賞、「対話1972」「20世紀の映像」でギャラクシー賞を受賞している。毎日放送取締役報道局長、取締役編成局主幹を務めた後、大学教授となった。高田さんとの出会いが面白い。京大入学後の健康診断で相前後して並ぶことになった二人、話が弾んで親友となり、生涯の付き合いとなったというのだから、まさに“人生は出会いである”を地でいったことになる。

・ご子息についても簡単に触れておきたい。長男の高田尚平さんは、将棋棋士で七段。1962年の生まれだから54歳になられる。麻布の中高出の秀才。将棋はかなり特徴的であり、トップアマの中にも愛用する高田流と呼ばれる指し方が幾つかあるという。それが2冊の著書になっている。書名もズバリ『高田流新感覚振り飛車破り』(2000年刊)と『高田流新戦略3手目7八金』(2002年刊)である。いずれも毎日コミュニケーションズから刊行されている。アマチュア高段者のバイブルになっているそうだ。天才が群雄割拠するプロ棋士の世界。元将棋ペンクラブ会長の高田宏さんも泉下から、暖かく見守っているに違いない。

    二男の高田雄太さんは、前述したようにイラストレーターとして活躍中だ。猫を描くのを得意としており、個展もされている。『猫のしっぽ』という本では、文が高田宏、イラストが高田雄太で親子の共作を果たしている。雄太さんは、今年も「猫だくさん」展を開催された。猫の肖像画展といったところ。高田家で暮らしを共にした代々の猫たち。そしてご近所や友人の猫たち30数匹がモデルだそう。ハイパーリアリズムに近い細密な筆遣いで描かれた猫たち。柔らかい毛並みやヒゲ、硝子玉のように光る目はそれぞれの「猫生」のドラマを想像させ、楽しい。そしてなにより猫たちを深く慈しむ画家のこころが伝わってくる。そしてこれからは絵本に力を入れていきたいようだ。

    高田さんとは異なる道を歩むご子息だが、何ごとにもとらわれない、縛られないという生き方は父君のモットーを引き継いでいるように思われる。自分の信じた道を歩き、新たな新境地を開拓して欲しいと願っている。
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