加登屋のメモと写真…: 日記アーカイブ
加登屋のメモと写真…
日記アーカイブ 日記の最近のブログ記事

加藤日出男さん

清流出版 (2020年2月21日 16:58)

katoya10.02.1.jpg
「ふじ丸」船上で挨拶する加藤日出男さん

・2019年12月22日、加藤日出男さんが亡くなった。老衰のため、東京都内の病院で死去したと報じられた。享年90だった。思い返せば、加藤さんと知り合うきっかけは、弊社から刊行された小川宏(2016年11月29日逝去)さんの著書『宏です。小川です――昭和わたく史交友録』(2005年弊社刊)に端を発する。加藤日出男さんとの交友が、エピソードとともに取り上げられていた。加藤さんは、「若い根っこの会」を主宰され、箱根駅伝等で東京農大が出場する時など、「大根踊り」を披露するが、この踊りが加藤さんの発案によるものと知っていたので、機会があればお会いしたいと思っていた。
 
・小川さんはNHK入局後、「ジェスチャー」等で司会を担当、フリーになってからも17年間にわたるフジテレビの人気番組「小川宏ショー」の司会者として「初恋談義」などで同局の看板番組に育てあげた。当然ながら、小川さんの交遊関係は、スポーツ界、歌手・俳優など芸能関係、政治家、科学者、評論家、文化人など広範囲に及び、交友関係における面白いエピソードもいっぱいお持ちの方であった。それに小川さんは知る人ぞ知る「メモ魔」であった。原稿執筆する際は、このメモが大いに役に立ったはずだ。だからその後も弊社から、『小川宏の心に残るいい話』(2008年刊)『小川宏の面白交友録』(2009年刊)などを執筆していただくことになった。

katoya10.02.2.jpg
2005年 弊社刊
 
・加藤日出男さんのプロフィールに触れておく。日本の社会運動家、作詞家、エッセイストとして活躍され、「若い根っこの会」を始めた方であった。1929年、秋田県秋田市に生まれ、秋田鉱専中退後、作男として農村生活に入り、農民運動に情熱をそそいだ。1953年、東京農業大学農学部農業経済学科を卒業し、商社に入社したが間もなく退職、労働青年の交流の場として「若い根っこの会」を結成する。「若い根っこの会」は、発足以来、今年で実に67年目に当たる。
 
・それにしても僕は『大根踊り人生論』(2003年 東京農大出版会刊)を読ませて頂くまで、大根踊りが「若い根っこの会」へと繋がったとは知らなかった。「大根踊り」は1951(昭和26)年に加藤さんが発案したもの。人口に膾炙したのは、翌1952年秋のこと、東京農大の学園祭の宣伝隊が、東京・渋谷の駅前広場の大群衆を前に、「大根踊り」を披露するとともに、大量の大根を都民に無料配布したことにある。まだ敗戦後の飢餓の名残が消え去らぬ頃である。無料で配布された大根がどれほど歓迎されたことだろう。加藤さんは、東京の街にユーモアと明るさを持ち込みたかったのだという。そして大根は純白な根っこでもある。
 
《ひとりぼっちで悲しんでいる根っこ。だれもわかってくれないとねじれる根っこよ、互いに苦しいことを語り合おう。助け合おう。ねじれた根っこをすっきりと地の中へのばしていこう。》 まさにこれが「根っこの会」のルーツなのだ。

katoya10.02.3.jpg
2003年 東京農大出版会刊
 
・加藤さんは、1957年、初の著書『東京の若い根っこたち』(第二書房刊)を発表。これを劇団「民芸」が映画化する。1961年、財団法人「根っこの家」が完成、同年朝日新聞社より「朝日明るい社会賞」を受賞した。1961年、雑誌『若い根っこ』を創刊、現在刊行の月刊誌『友情 Dream』に発展した。1972年、「グアム・サイパン南十字星洋上大学」を開催。以後、これまで39回就航し、すべて団長を務めてきた。文部省教育映画審査審議会委員、都青少年委員などを歴任、またMRA世界大会代表として渡米もしている。
 
・加藤日出男さんは、ラブコールに応えて、弊社に僕を訪ねてきてくれた。その際、単行本のタイトル案と原稿用紙数枚分のレジュメを持参していた。80歳を目前にしながら、正に「生涯青春」を地でゆくような、加藤さんの若々しさに僕は感心させられた。そもそも加藤日出男という人物に惚れ込んでいたし、「若い根っこの会」の後押しがあれば十分売れると踏んだ。だから同席していた出版部の臼井君に単行本化を進めるよう指示した。それが『生涯青春――いのちよ、ありがとう』(2007年 弊社刊)である。この本の中に、「若い根っこの会」が生まれた基本理念が書かれている。素晴らしい理念だと今も思う。
 
《美しい花をみて 根っこを思う人は少ない。少年の日、書いた詩の冒頭の一節である。そして若い根っこの会を創始した。その時、二十三歳だった。いつしか七十七歳をすぎ、今も若い根っこたちの喜怒哀楽の海につかっている。数世紀を生きてきた巨木をみて、人は、そのたくましさに圧倒される。きびしい風雪に耐え、人間の一生を、何回と、みつめて、生きてきたからだ。だが、巨木をささえてきた“根っこ”を思う人は少ない。
  根っこは、巨木が、森をなす数十万枚の葉っぱや、それを宿す、複雑に、からみあった枝々に、栄養をおくりつづけてきたのだ。根っこにも、地中から、もりあがった巨根もある。が、一番大切な、地中に、はりめぐらし、水分や養分を吸収するのは、一番末端の毛根たちなのだ。この毛根たちこそ、働き蜂なのだ。これらの毛根が、朽ちはててゆくと、巨木も、ある日、どうと倒れてしまう。》

katoya10.02.4.jpg
2007年 弊社刊
 
・高度経済成長期に「集団就職」として地方の中学・高校の卒業生たちが、臨時列車に乗って上野駅、大都市圏に働きに出てきた。その得難い労働力は「金の卵」と呼ばれた。まさに加藤さんのいう末端の毛根として日本の高度成長期を支えてきたのである。そんな地方出身の若者たちの拠り所として、「若い根っこの会」は大きな礎となっていく。
 
・加藤さんとの関係は、単行本を出しただけでは終わらなかった。実は加藤さんは「グアム・サイパン南十字星洋上大学」を40年にあまりにわたって実施していた。そのパンフレットを見せてくれたのである。僕はこの洋上大学に大いに興味をそそられた。飛行機で行くようなあわただしい旅行ではなく、ゆとりのある船旅である。多くの講師陣はじめ、参加者との触れ合いは、気分転換にもなるし、斬新な単行本企画も浮かぶかもしれない。そんな読みもあり、参加を申し込んだ。加藤さんは、船内でサイン会を開催して弊社の本の販促にも一役買ってくれるという。その熱意にも僕はほだされた。

katoya10.02.5.jpg
歓迎式典で挨拶する加藤さん
 
・5月の大型連休にからめた9泊10日の船旅である。船は豪華客船「ふじ丸」。総排水量2万3235トン、全長167m、船幅24m。日本のクルーズ客船の嚆矢として、1988年に三菱重工業神戸造船所で進水、翌1989年の4月に就航した。就航時、日本籍では最大の客船であった。展望大浴場が設置され、これはその後の日本籍クルーズ客船の標準となっている。 当初は主にレジャークルーズに使われたが、2002年に運航が日本チャータークルーズに引き継がれ以後は、自治体・企業・団体向けのチャータークルーズが中心となった。
 
・2007年の洋上大学は39回目に当たり、結果的に最後の洋上大学実施となった。弊社からの参加者は、臼井出版部長、斎藤勝義・海外版権担当顧問と僕の3人だった。見渡す限りの紺碧の波を蹴立て、船はひたすら南下していく。上部デッキには、強い日差しが照りつけ、夏の暑さが好きな僕は大満足だった。総勢は、研修生(洋上大学なのでこう呼ぶ)が400名弱、それに乗務員が100人強。総勢500人を超えた。加藤団長の綿密なカリキュラム編成で、毎日、変化に富んだイベントがあり、飽きることがなかった。また、加藤さんは僕らの心意気に対して、様々な配慮をしてくれた。展望大浴場を3人だけで使わせてくれ、ナイトキャップの差し入れも数回に及んだ。そんな気遣いをされる方だった。

katoya10.02.6.jpg
秋草鶴次さん(右端)と船長と僕
 
・この旅行には、加藤団長の計らいで、ベストセラー『十七歳の硫黄島』(文藝春秋刊)の著者・秋草鶴次さんが特別ゲストとして招待されていた。玉砕の硫黄島から生還された秋草さんの講演を聞いて、思わず僕は涙がこぼれた。秋草さんは栃木県足利市の農家の長男として生まれ、17歳の時、玉砕を運命づけられた硫黄島に海軍通信兵として配属された。十分な飲み水も食べ物もない極限状態を生き延びなければいけない。生死の境をさまよいながら、一番安心できる食べ物といえば、自分の体に湧いたウジだったというから、その過酷な運命には言葉もない。非情で過酷な状況に耐え、そして生き抜いた方であり、いかなる人物なのか僕は興味を抱いたものだ。

katoya10.02.7.jpg
戦友と歌を歌う秋草さん(中央)、左端は加藤日出男さん
 
katoya10.02.8.jpgkatoya10.02.9.jpg  
『十七歳の硫黄島』文春新書刊(2006年)、『硫黄島を生き延びて』(2011年 弊社刊)
 
・秋草さんは復員後、悲惨極まる戦争体験を原稿用紙1,000枚以上にわたって綴っていた。しかし、ご両親には一切見せず、大切に保管してきた。2006年夏、NHKが放送した『硫黄島玉砕戦 生還者61年目の証言』で取材に応じるまで、秋草さんはじめ多くの元帰還兵は、硫黄島での惨状に一切口にせず、沈黙を守った。2008年9月、在日米軍の計らいで硫黄島を訪問した秋草さんは、63年ぶりに地下壕の入口の前に立ち「ここに戦友がいるんだ」と慟哭した。沈黙を破り、戦争を語ることは、戦争を生き抜いた人にとって、もう一つの闘いだったと思い知らされた。秋草鶴次著『硫黄島を生き延びて』からは、戦争の悲惨さ恐ろしさが伝わってくる。「あとがき」にこうある。
 
《正しい戦争、聖戦などというものが本当にあるのだろうか? 私には信じられない。あの戦争は一体なんだったのか? (中略) 南方等の戦場で失われた300万を超す命は、この世の平和の柱となって現世を支えている。残酷な戦争の果てに散華された命を私は思う。我々は平和を託されている、と私は理解する。》
 
・全国各地で戦争の悲惨さを伝える講演を精力的に行ってきた秋草さんも、2018年3月30日、泉下の人となった。広島、長崎、沖縄などでも、悲惨な戦争体験を語れる人が亡くなっていく。戦争の悲惨さを語り継ぎ、風化させないためにも、秋草さんの遺言にも似たあの言葉をもう一度、噛み締めなければなるまい。《残酷な戦争の果てに散華された命を私は思う。我々は平和を託されている、のだと》。

安原顯(通称ヤスケン)さん

清流出版 (2020年1月23日 17:51)

・コラムの内容を考えているうち、この1月20日が安原顯(通称:ヤスケン)の命日にあたることを思い出した。2003年に亡くなっているから17年も前のことになる。働き盛りともいうべき63歳という若さでの旅立ちだった。僕の頭の中には、今でも生き生きと活躍していた在りし日のヤスケンが息づいている。「天才ヤスケン」「スーパー・エディター」などと自称し、中央公論社の歴史の一端を担った『海』『マリ・クレール』の編集者として活躍していたころのヤスケンのことが思い出される。ヤスケンと僕は早稲田大学高等学院の同級生だった。だがヤスケンのほうが一つ年上だった。というのも、戦前は女子校であった東京都立八潮高等学校に進学したヤスケンだったが、「元女子校に通う」というのがお気に召さなかったようで、半年後には同校を中退し、僕が通っていた早稲田大学高等学院へ再入学してきたのだった。


加登屋2020.01.1.jpg
 
加登屋2020.01.2.jpg
ヤスケンと通った早稲田大学高等学院(現在の建物)

・そもそもヤスケンはなぜ編集者の道を選んだのか。ルーツをたどってみると、高校時代からアヴァンギャルドにかぶれ文芸部に席を置き、校友会雑誌にコンサート評などを載せていたから、書くことには興味があったのだ。早大仏文科在学中の20歳のころ、教授の坂崎乙郎(西洋美術史研究家・美術評論家)に私淑していたヤスケンは、あらゆるアートが活気に満ちていた1960年代、アート全般について評論のようなものが書け、それでメシが食えたらと夢見ていたらしい。そして21歳のとき、のちに妻となる早大文学部の筑土まゆみさんと出会う。まゆみさんの父君は、僧侶で宗教民俗学者の筑土鈴寛(つくど・れいかん)である。まゆみさんはデビュー作「太陽がいっぱい」でアラン・ドロンの恋人役を演じ、一躍フランスのアイドルとなったマリー・ラフォレ似の美人で、ヤスケンは見せびらかすように、よく大学キャンパス構内を一緒に歩いていたものだ。
 
・まゆみさんは、親族の大反対を振り切るようにヤスケンと同棲し、大学卒業後は、電通に就職してコピーライターとなり、森永乳業に派遣されていた。初任給2万8000円ということで、当時としてはかなりな高給取りである。さらに電通は授業料を払って、「久保田宣伝研究所」に半年間まゆみさんを通わせ、プロとしての基礎技術に磨きをかけていた。ヤスケンはといえば、大学を中退しフリーターをしていたが、「女に食わせてもらう」ことにプライドを傷つけられ、まゆみさんに折に触れ「会社を辞めろ」と言い立て、1年後には本当に退社してしまう。電通側もこれには怒り心頭だったらしい。金をかけて基礎技術を教え、さあこれから回収するという矢先に、辞められてしまったのだから。
 ヤスケンはといえば26歳のとき、貧乏時代の池田満寿夫に勧められ、雑誌『早稲田公論』を出版していた出版社に入社する。これが編集者としてのスタートとなった。ヤスケンの編集的センスの良さはこの頃から垣間見える。実際、総合雑誌志向だった『早稲田公論』を文藝雑誌的に変えたのはヤスケンであった。中村光男、高橋和巳、いいだももといった各氏に小説を依頼し、気に入ると同人雑誌からの再録も行った。しかし、『早稲田公論』は廃刊となり失職する。ミュージック・マンスリー社、竹内書店を経て、1969年、中央公論社に入社する。中央公論社に入社した事情については、同僚だった直木賞作家・村松友視氏の『ヤスケンの海』(幻冬舎 2003年 のち文庫再刊)に詳しい。簡単にいえば『海』の編集に携わっていた村松氏が編集長と折り合いが悪く、異動を申請していた。その後釜としてヤスケンが入社することになっていたのだ。
 村松氏は『ヤスケンの海』でヤスケンの「いい加減で破天荒」なキャラクターを綴り「過剰な読者+過剰な編集者」の目線で雑誌が作れる、有能な編集者であったと評している。また、妻のまゆみさんについて、ヤスケンを広く包んだスケールの大きな「人物」として描いている。なお『ヤスケンの海』文庫判の表紙に描かれたヤスケンの似顔絵は、村松氏が描いたものである。
 
加登屋2020.01.3.jpg  加登屋2020.01.4.jpg    
『ヤスケンの海』単行本と文庫版(幻冬舎刊)

・僕は、ダイヤモンド社に入社し、週刊「ダイヤモンド」の取材に精を出していた頃である。僕も文藝路線にはもともと興味があったから、ヤスケンの仕事ぶりは遠くから注目し続けていた。ヤスケンが『海』の編集者をしていたのは1969年から83年の14年間だったが、文藝誌全般に対して警鐘を鳴らし続けていた。編集者と作家がともにサラリーマン化したことに原因があると喝破していた。だから「パワーアップの可能性を秘めた作家や作品に出会うことはほとんどなくなりつつあった」と述懐している。「パワフルな新人が出にくい理由の一つに、新人賞選考委員らの眼力のなさもある」の言は、後に大江健三郎をぶったぎった事件に繋がってゆく。ヤスケンは編集部在籍中に『レコード芸術』に執筆したコラムで大江健三郎氏を罵倒したのだ。そのため大江氏は1年間、中央公論社が主催する谷崎潤一郎賞の選考委員を辞退する事件に発展したのである。
 ヤスケンは無類の小説好きであったが、単なる小説フリークではなかった。映画を観て、ジャズやクラシック音楽を聴き、展覧会にも足しげく通っていた。後年になると、ジャズ評論も手がけ、CS衛星ラジオミュージックバードの番組「ヤスケンのギンギン・ニューディスク」でDJをつとめ、また寺島靖国の「PCMジャズ喫茶」にも毎回ゲスト出演していた。オーディオマニアでもあったのだ。綾戸智絵をいち早く評価するなど、常に芸術全般の新しい才能に目を向け続けた男である。ヤスケンの舌鋒の鋭さもそうした裏付けあったればこそだと思われる。
 ヤスケンの関わってきた雑誌『パイデイア』『海』『マリ・クレール』の三誌によく登場していたのが吉本隆明と蓮實重彦の両氏である。特にインタビュー記事等に関しては、蓮實重彦氏にとにかく世話になった、とヤスケンも書いている。1968年『パイデイア』夏号に「私にとって映画とは何か」のタイトルでアラン・レネのインタビュー記事が掲載されている。この翻訳が蓮實氏との最初の仕事だったようだ。1970年代は『海』に毎月といっていいほど登場している。ヤスケンは吉本隆明邸にも通っていたから、吉本ばななは4歳くらいの頃から知っていた。ばななの『海燕』新人賞を取った「キッチン」を読んで感動したヤスケンは、すぐに連載小説を依頼する。それが200万部を超えて大ヒットとなり、山本周五郎賞を受賞した「TUGUMI」である。

加登屋2020.01.5.jpg
中公文庫刊

・この作品が大成功した要因の一つが、挿し絵画家の人選にあった。ヤスケンが好きだった版画家の山本容子氏に依頼したのだった。毎号2点ずつ挿し絵を入れ、お洒落な頁レイアウトになっていた。単行本にしたときの装画も山本容子氏に依頼した。ヤスケン、吉本ばななともに、単行本の売れ行きの30%は、彼女の装画のお蔭と絶賛している。その他にもヤスケンが一押しした作家は数多い。島尾敏雄・ミホ夫妻、レイモンド・カーヴァを特集し、訳・解説した村上春樹氏、小林信彦・荒木経惟コンビによる「私説東京繁盛記」など、スーパー・エディターの面目躍如たるものがある。ヤスケンは、僕も公私ともにお世話になった辻邦生氏とも親しかった。僕も30歳頃、辻邦生氏に原稿を依頼したことがあり、以来、何かというとお声がかかり、池袋の喫茶店で楽しく会話をしたことが懐かしく思い出される。
 
・1984年5月号をもって『海』は終刊となる。ヤスケンは売れ行き不振で廃刊寸前だった『マリ・クレール』に移り、同年6月号から副編集長となる。いつ廃刊になってもおかしくない、瀕死の状態の『マリ・クレール』であればこそ、社を辞めずに人事異動を受け入れたというのが、いかにもヤスケンらしい。それまで一貫して、フランス語版『マリ・クレール』を翻訳するだけで、オリジナルな自主企画など一切なかった同誌に風穴を明ける。先ず、「書評欄」を新設し、さらに同年9月号で「特集:読書の快楽」を企画したところ、当時の「ニューアカデミズム」ブームで「知がおしゃれ」だったことも追い風となり、雑誌は完売となる。以降も同様の拡大路線を続け、『婦人公論』のビジュアル版といった趣だった女性ファッション誌を「知的な思想・文芸雑誌」に変貌させたのである。ヤスケンが『マリ・クレール』時代に、これはと見込んで後押しした人たちについても触れておきたい。まず小川洋子氏だが、吉本ばななと同様に『海燕』の新人賞でデビューしたが、2作目の「完璧な病室」を読んで感動したヤスケンは、連載小説を依頼する。それが「シュガータイム」だが、ヤスケンの思惑通り、期待以上のいい作品となった。
 
加登屋2020.01.6.jpg
中公文庫刊

 富岡多恵子氏は、ヤスケンが二十歳頃からの知り合いで、処女作「丘に向ってひとは並ぶ」は『中央公論』誌に掲載されたが、その後は『海』で独占的に掲載し続けることになった。新人作家に連載小説を依頼したのは、彼女が初めてだったとヤスケンは書いている。初の連載小説だった富岡氏の『植物祭』は、後に田村俊子賞を受賞することになる。中条省平氏は、僕も親しくお付き合いさせて頂いているが、ヤスケンはいち早くその才能を見出していた。書評、映画評、ジャズ評と、様々な原稿を依頼していたが、フランスでの学位論文が「バルベー・ドールヴィイ」だと知る。この作家についてヤスケンはほとんど知らなかったが、日頃の文章や人柄を通して中条氏を信用していたので面白いに違いない、との確信を持ち連載を依頼したという。その後の活躍ぶりについては、皆さんご承知の通りである。
 
・飯島洋一氏(詩人である飯島耕一の子息)は、大手ゼネコンに勤めていたが、話を聞くと将来、建築評論家になりたいという。そこでヤスケンは編集長を口説き落として、カラー1頁の「建築コラム」の連載を依頼する。このコラムをきっかけに『SD』誌に連載が決まり、『光のドラマトゥルギ― 20世紀の建築』(青土社)として一冊にまとめられ、『マリ・クレール』の連載コラムも『37人の建築家 現代建築の情況』(福武ブックス)として結実した。ヤスケンがその才能を引き出したことにより、飯島氏も見事に羽ばたいたのだ。『マリ・クレール』での特集は、多くが、角川書店時代から親交のあった見城徹(現・幻冬舎社長)に依頼し、角川文庫で刊行されることになる。
 
加登屋2020.01.7.png 加登屋2020.01.8.jpg    
清流出版で復刊した2冊の単行本

・僕が清流出版を立ち上げ、月刊『清流』を刊行するとともに、出版部を発足させ好きな文藝路線も拡充していた。そして風の便りにヤスケンが闘病中であることを知った。それまで僕は、ヤスケンの仕事ぶりを遠くから眺めていただけだったが、闘病生活をしているとなれば、少しでも手助けしたい思いが募った。そこでヤスケンが信頼する井上俊子嬢に編集をお願いし、装丁家もヤスケンお気に入りの山田英春氏に依頼して『読んでもたかだか五万冊』と『ふざけんな人生』(共に倒産したジャパンミックス社刊行)を清流出版から復刊することにした。と同時に、月刊『清流』でも「ファイナル・カウントダウン」として「ヤスケンの編集長日記」を死ぬまで連載してもらおうと決めたのだ。この編集長日記で「癌告知と余命一ヶ月である」ことを公表することになる。
『ヤスケンの海』で月刊『清流』の連載について、村松氏はこう書いている。
《「ヤスケンの編集長日記」には、あきらかにヤスケンらしいリズム、愛嬌、そして屈折したやさしさがあらわれていた。これを読んで私は、ヤスケンは、自分の読者=編集者としての魅力が発揮できるメディアと、ようやく遭遇したという思いを抱いた。ヤスケンの夢を実現するためには、「ヤスケンのやることを十分に理解し、ヤスケンの性格を大きく受け入れ、ヤスケンの仕事の心強いうしろ楯となり、ヤスケンの失敗に寛容で、巨万の富をもっている経営者が不可欠」だと、これまで私は思っていた。(中略)ところが、出版界という領域を超えたホームページを自分の“会社”とすれば、読書人としてはこれまで通り満喫できるし、編集者としてのトラブルはいっさい生じない。ヤスケンは、その中で気ままに読者と交信することができるのだ。その仲間の数は、今でこそ限られているが、いつヤスケンの想像を超えた広がりをみせるか分からないではないか。》 ヤスケンに自由に書いてもらうための場を提供したことについて、村松氏にこんな風に書いて頂いたことを嬉しく思う。

加登屋2020.01.9.jpg
ヤスケンの絶筆となった編集長日記『ファイナル・カウントダウン』(弊社)

 それまで僕はヤスケンに褒められたことなどなかったのだが、連載誌面で《「持つべきは友!」と超感動している。加登屋君、有難う!》と書いてくれた。発言の場とともに、ヤスケンの癌闘病中にかかる経済的負担の軽減に多少なりとも協力できたことに僕は満足している。スーパー・エディターだったヤスケンだが、天国にいっても、相変わらず罵詈雑言をまき散らしているのではないだろうか、と僕は夢想している。ヤスケンよ、僕も齢80になるから、そのうちそっちにいくよ。そしたらまた、立て板に水の如く、小気味のいい罵詈雑言をしばらくぶりに聞かせてくれ。

天満敦子さん

清流出版 (2019年12月20日 10:55)

加登屋1912.1.jpg
 
・11月15日、毎年恒例となっている天満敦子さん(ヴァイオリン)と岡田博美さん(ピアノ)のデュオ・リサイタルを聴きに行った。コンサート会場は紀尾井ホールである。プログラムは『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ1番より アダージョ』(バッハ)からスタートした。パンフレットによれば、天満さんはリハーサルの時と入客後の響きの違いを感じ取るには、無伴奏曲集から選ぶのが最適と捉えていて、その会場の響きの感触によっては弓を変えたりすることもあるのだという。微妙な響きの違いを感じ取って、自在に対処するこの類まれなる感性の鋭さこそ天満さんの真骨頂である。
 後日、毎年のように、天満さんのコンサートを長野県松本市で開催してきた松本在住の石川治良さんにお聞きしたのだが、なんとこの日、天満さんは、左手の中指に違和感があったのだという。石川さん自身はこの日、都合が悪くて来られなかったそうだが、しっかりとそんな微妙な情報まで摑んでおられる。さすがに天満さんとは長いお付き合いをされてきた方である。僕はコンサートが終ってからこの話を聞いたわけだが、演奏を聴いていて、そんなことはまったく感じなかった。ステージ上の天満さんは、集中力を研ぎ澄まし、迫真の名演奏を披露してくれた。天才の天才たる所以であろう。

加登屋1912.2.jpg
石川治良さんと僕
 
・ヴァイオリンとピアノのデュオ・リサイタルで、ちなみに曲名だけを記しておきたい。『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ1番より アダージョ』(バッハ)から始まって、『ヴォカリーズ』(ラフマニノフ)、『カンタービレ』(パガニーニ)、『ツイガーヌ』(ラベル)、映画「秋刀魚の味」より『主題曲とポルカと終曲』(斎藤高順・和田薫編曲)、『シャコンヌ』(ヴィターリ)、『ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル・ソナタ」』(ベートーヴェン)。時に無伴奏で、時にデュオでと素晴らしい演奏が続き、僕は感動で放心状態であった。
 最後に天満さんは、自身の代名詞とも称される、ポルムべスクの『望郷のバラード』を演奏した。1993年の初演以来、すべての公演で弾き続けてきたというこの曲。「万という回数を弾き続けているにもかかわらず、一度もまたかと思ったことがない」と天満さんは語っているが、聴く側も同じである。聴くたびに切なく胸に響いてきて、新たな感慨に浸っている。いまから136年前、29歳で獄中死したルーマニアの天才が残したこのメロディが、天満さんの素晴らしい演奏を通して、遠く離れた日本人の心を震わせている。もし、まだこの曲を聴いたことがない人は、是非聴いて欲しい。それもできれば生演奏で。
 そしてアンコールで、懐かしの『仰げば尊し』を演奏された。会場に向けてタクトを振るように手を振って、みんなで歌うよう促したので、コンサートホール全体が温かな歌声に満ちた。歌いながら、各々の学生時代に思いを馳せたものである。同行した藤木健太郎君は、この選曲に、天満さんはデュオ・リサイタルを今回で卒業するつもりではないかと心配したが、どうやら杞憂に終わったので安心した。
 
・さて、今年最後のコラムになるので、今年亡くなった方への惜別の思いを書いておきたい。元国連難民高等弁務官・緒方貞子さんがお亡くなりになった。国連難民高等弁務官就任は、国際分野への女性進出を促そうとした当時の三木武夫首相の肝いりで実現した人事といわれている。緒方さんは、国際基督教大学の教員であったが、三木首相が惚れこんで抜擢したわけだ。緒方さんはその期待に十分応えたといえる。人命優先の理念を携え、敢然として難民の支援対象を広げてきた方である。緒方さんが国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を率いた1991年から約10年間は、東西冷戦が終結したばかりで、国家間の力のバランスが崩れ、人種間、民族間の対立が表面化した時代であった。フセイン政権下のイラクではクルド人勢力が武装蜂起し、鎮圧される事態となった。トルコとの国境近くに約40万人ものクルド人が押し寄せたが、トルコは入国を拒否したのでそこに止まることとなった。この時、緒方さんは支援を決め、難民に手を差し伸べる転機となった。現在でも故郷を追われている人は、世界で約7000万人に及んでいる。世界各地で紛争、戦禍は絶えず深刻さを増している。まだまだ活躍して欲しかった。大事な人を亡くしたものである。

加登屋1912.3.jpg
1999年5月 清流出版より刊行

・実は緒方貞子さんに弊社刊行の本を推薦してもらった。国連大学で刊行された原著を翻訳刊行したものだ。『平和のつくり方――紛争地帯の国際ボランティア』(国際ボランティア計画編)がそれ。翻訳は小山田英治さんを中心とした翻訳グループにお願いした。内容は国連ボランティアの実態を赤裸々に抉り出したもの。特に紛争地帯に派遣されるボランティアは、生死の境をさまようこともあり、まさに命がけの活動となる。そんな命の危険さえも懸念される紛争地帯に赴かせるものとは一体何なのか、実体験を通して問いかける。「正義感なのか?」「使命感なのか? 」、それとも「愛なのだろうか?」。 カンボジア、南アフリカ、モザンビーク、旧ユーゴスラビア、ルアンダ、ソマリア……。そこに支援や援助を求める人がいる限り、ボランティアたちは果敢に現地に赴くのである。内容が内容なだけに、緒方さんは気持ちよく推薦者になっていただいた。
 国連大学について少し説明しておく。英語の略称は「UNU」(United Nations University)。 国連およびその加盟国が関心を寄せる、緊急性の高い地球規模課題の解決に取り組むため、共同研究、教育、情報の普及、政策提言を通じて寄与することを使命としている。地球規模の課題の解決に取り組むため、共同研究や教育、政策提言などを行なっており、国連加盟国の大学や研究機関と連携し、さまざまなプロジェクトや研究を進めている。正確には「大学」ではなく「シンクタンク機関」および「大学院」といった機能を持つ。専門家を集めて、社会で起きているさまざまな課題を調査・研究し、政策助言やその成果発表などを行う機関といったらいいだろうか。
 国連大学が活動の礎として掲げるテーマは「サステイナビリティ」(持続可能性)だ。「サステイナビリティ」とは、人間と自然が調和した持続可能な地球社会を構築することを目指す考え方である。国連大学では、世界の紛争や貧困などの諸問題の解決に向けて意欲的に活動しており、研究テーマとしても「サステイナビリティ」が軸となっている。なお、国連大学の職員の数は約700人で、開発途上国、開発先進国双方からの出身者である。管理理事会があり、6年の任期を持つ24人の理事、国連大学学長、職権上の3理事、国連事務総長、ユネスコ事務局長、UNITAR事務局長で構成される。「国連大学プレス」が出版部門を担当する部署である。


加登屋1912.4.jpg
1999年4月 清流出版より刊行

・弊社の国連大学シリーズとしては、『誰が飢えているか――飢餓はなぜ、どうして起こるのか?』も翻訳出版して良かったと思う本だ。著者はL.デローズ、E.メッサー、S.ミルマンと三人の共著で、翻訳は中村定さんにお願いした。僕はいまでもこの本を気に入っている。表題通り、「飢えの情況はどれほど深刻なのか?」を個人レベル、家族レベル、社会レベルに分けて、統計的事実、具体的調査に基づいて分析するもので、特に現代の飢餓が決して食糧生産の不足のみによって起こるわけでないことを明らかにしたのが素晴らしい。この本の推薦者には、古巣ダイヤモンド社で刊行した名著『飢えの構造――近代と非ヨーロッパ世界』の著者であった西川潤・早稲田大学教授にお願いした。僕が学んだ高校(早稲田大学高等学院)の4年先輩であり、早稲田大学名誉教授になったが、若くして政治経済学部切っての俊才として知られた方。惜しくも昨年、お亡くなりなった。
 その西川教授は、こんな推薦文を寄せてくれた。《21世紀の最大の問題の一つは、世界で増大しつつある飢餓の問題である。本書はこの飢餓の概念、測定方法、広がりの現状と動向、可能な対策、紛争と飢餓の関連についての最初の包括的な科学的報告書である。国際開発、農業、平和日本の生き方に関心をもつ読者に広く勧めたい。》
 
・嬉しいことに国連大学関係の本は、翻訳する権利というべき版権が考えられないほど安い。確かこの素晴らしい本の版権もたった1ドルだった。人間と自然が調和した、持続可能な地球社会を構築することを目指す考え方に基づいた研究を続けるこの機関。もっともっと、飢餓、難民、水資源、紛争地帯、地球温暖化など、今日的なテーマを真摯に掘り下げた魅力的な原著を探し出し、翻訳出版して世に問いたいものだと思っている。

和田誠さん

清流出版 (2019年11月27日 11:27)

katoya19.11.1.jpg
僕が編集した『ブラウン管の映画館』(ダイヤモンド社刊、1991年)

・10月7日、和田誠さんが肺炎でお亡くなりになった。享年83であった。僕は和田さんの大ファンを自認していただけに、訃報を聞いてショックを受けた。和田さんの偉大さはいうまでもない。イラストレーター、装幀家、エッセイスト、映画評論家、映画監督、翻訳家など、肩書をどうすればいいのか分からないほど、活躍分野の広さにまず驚かされる。和田さんは『週刊文春』の表紙を40年以上にわたって描き続けてきた。その数、2000枚だという。僕も『週刊文春』は好きな週刊誌で読み続けてきたが、表紙画は一目で和田さんが描いたとわかる。一番初めに描いた1977年5月5日号に和田さんは小鳥を描いている。そして2000枚目の2017年7月27号の表紙は、最初に描いた小鳥が空を飛んでいる絵である。こうしたお洒落な遊び心を持ち続けた人であった。

・共に絵本を作るなど、親交の深かった詩人の谷川俊太郎さんは、和田誠さんを悼んで「Natural」と題した詩に詠んでいる。

 Natural  和田誠に
 
 君は過去になれない男
 目の前からいなくなっても
 いのちにあふれた絵とデザインに
 君は軽々と生き続けている
 
 ひとことで言えば君には
 naturalという英語がふさわしい
 自然という日本語だけでは
 捉えきれない君というヒトの巧み
 
 君のカラダとココロの深みにある
 涸れることのない笑みの泉が育んだ
 みずみずしい木陰で私たちは憩う
 
 意味を問いかける前に
 君は線で色で形で機知で答えてくれる
 ここでそしてまた未来のどこかで
 
(詩人・谷川俊太郎)
 
・ロックバンド「トライセラトップス」の和田さんのご子息・和田唱さんは、ご自身のツイッターにこんな追悼文を寄せている。少し長いがとてもいい追悼文なので引用させていただく。

《親父が天国へ旅立った。最近は日々具合が悪くなっていったから、どこかで覚悟はしていたけれど、同時に奇跡が起きることも願っていた。でもそれは叶わなかった。今思えば、きっと親父なりに、ベストなタイミングでの旅立ちだったんだろう。(中略) 親父は映画を教えてくれた。ジャズを教えてくれた。ルールに縛られないこと、好きなものは好きでいいこと、自分がこうだと思ったら貫くことを教えてくれた。お蔭で俺は幸せな人間だ。だから明るくサヨナラをしたい。それが和田流だ。でも魂は死なないし、心にその人がいる限り、どのみちサヨナラなんてない。肉体的なしばしの別れに過ぎないから、「おとう、またな!」くらいにしておこう。でもThank YouとI Love Youは添えておくよ》

・実に心のこもった素晴らしい追悼文である。子どもたちに父親として立派に背中で生き様を見せ、人生の指針となるような言葉も伝えている。僕にも男の子が二人いるが、子育てに関しては忙しさにかまけて、肝心な部分は女房任せにしてきた負い目があり、忸怩たる思いをしてきた。その意味でも和田さんは立派である。

・和田さんは映画に関しての著作がたくさんあり、僕も古巣のダイヤモンド社時代に映画エッセイ『ブラウン管の映画館』を執筆していただいた。無類の映画好きである和田誠さんが、放映予定の映画の中から、気になる作品をピックアップし、解説するという趣向であった。元々は、1987年9月から1990年10月までの3年に渡り、ダイヤモンド社のTV情報誌『TV Station』に連載されたコラムを中心に加筆修正してまとめたものである。取り上げられている作品数は、実に700本強に及ぶ。そのほとんどが、往年の名作を始めとする著名な作品であった。本文中のイラストがまた秀逸であった。

・和田さんの文は平易でさらりとしたものながら、作品そのものとその周辺にまつわる話なども織り交ぜて、貴重な情報を余すところなく伝えている。もちろん装幀・装画は和田さん本人であり、とてもお洒落で粋な作りとなった。その後、文藝春秋から全7巻に及ぶ『お楽しみはこれからだ――映画の中の名セリフ』(Part 1は1975年6月)の刊行が始まるが、判型・体裁ともにダイヤモンド社の装幀を踏襲したスタイルで統一され、一緒に並べても違和感がまるでない。


katoya19.11.2.jpg
文藝春秋から刊行された『お楽しみはこれからだ』シリーズ

・僕は和田誠さんと本作りを通して、お付き合いしていた頃を再確認したくなって、古い1991年のメモ帳を引っ張り出した。それによると、『ブラウン管の映画館』は1991年6月に刊行されたもの。その年は、和田さんの企画のほかにも、同時進行で、徳岡孝夫、鈴木主税、上田惇生、正慶孝の各氏に翻訳をお願いしていた。いずれも分厚い翻訳書だった。またイギリス出身のジャーナリストでニューヨーク・タイムズ東京支局長であったヘンリー・スコット=ストークス氏には三島由紀夫本のオリジナル版を書き下ろし、徳岡孝夫さんに翻訳を頼んだ。さらに大好評であったポール・ボネ名義の『不思議の国ニッポン』シリーズ(全22巻に及んだ)の著者は、実は藤島泰輔(平成天皇のご学友、『孤獨の人』の著者、藤島ジュリー景子ジャニーズ社長の父親)さんであり、宿泊先のホテル(最初はホテルオークラ、次はホテルニューオータニのスイートルームを定宿)に度々訪ねた。藤島さんには、月に数度、執筆内容の相談し、終わると昼間なのに2人で酒や葉巻を嗜み、競馬や映画、政治などのおしゃべりした。

  この年は、まだまだある。クロイワ・カズ氏へのイラストの依頼をし、『香港極上指南』(ホテルやレストラン、ショッピング等を格付けする企画)や『妊娠カレンダー』の企画なども進行していた。当然のことながら、本作りにデザイナーは欠かせない、鈴木一誌、川畑博昭さんなど優秀なデザイナーとのやり取りもしていた。メモ帳の細部を見ると、つくづくこの頃は忙しかったことがよく分かる。そんな合間を縫いながら、和田誠さんの本を進行させていた。初校(1月9日から)、再校、三校、青焼き、色校のチェック、下版作業などがあり、ほかにカバー、栞(しおり)、ポスター、著者謹呈カード等の手配もしていた。とにかく超多忙だったことは確かだ。あの喧噪の時代を懐かしく思い出した。

  結局、和田さんの本は、ご本人には著者校として三校までじっくり見ていただき、カバーデザインの色校チェックと宣伝ポスターなどもお願いしている。そして5月30日に見本が出来上がっている。6月11日には、和田さんの新居のお披露目に合わせて、この本の出版記念パーティも開かれた。ゲストは僕のメモ書きによれば、篠山紀信夫妻、デューク・エイセス、キング・ファイブ、田中一光氏のほか、各社の和田さん担当編集者10名位が参加していた。美味しい料理とお酒を飲みながら、スライド説明やそこここで談論風発する楽しい宴となった。古いメモ帳は30年前の自分を見直す機会を与えてくれた。人間関係における懐かしさとともに楽しい思い出も蘇ってきた。しばし、これこそ編集者という職業の醍醐味に浸った。

・和田さんの奥さんは料理愛好家の平野レミさん。お二人は、会って1週間ほどで結婚を決めたというから、お互い「あ、この人だ!」と直感したのであろう。それから47年のときが過ぎた。僕も何度かお会いしているが、本当に仲の良いご夫婦だった。その平野レミさんが11日、事務所を通じてコメントを発表している。全文は以下の通り(原文ママ)。
《1年ほど前から体調を崩し自宅で療養していました。7月より都内の病院に入院していましたが、肺炎を患い、最後は家族みんなに見守られながら、安らかにお別れをしました。肺炎を患ってからはご飯を食べられなかったので、和田さんが好きなご飯をたくさん作って、安らかな顔の横に置いてあげました。 最後の料理を作っている時はすごく幸せで、『私にとっての一番の幸せは、和田さんにご飯を作ることだったんだ』と改めて気付きました。47年間、私の料理を美味しい美味しいって食べてくれて、本当にありがとう。安らかにね。》

 
katoya19.11.3.jpg
和田誠監督作品『麻雀放浪記』
 
・映画監督としても印象深い作品を世に残された。デビュー作は『麻雀放浪記』だった。その日に撮る絵コンテが素敵で、役者やスタッフに出すととても好評だったと大竹しのぶさんも語っている。僕は麻雀が大好きでダイヤモンド社時代は、親しい仲間たち(ほぼ10名)と毎日のように雀卓を囲み、チイ、ポンを繰り返し、午前様でタクシー帰宅していたものだった。だから阿佐田哲也氏の原作本も楽しく読ませていただいたし、映画は和田さんの眼が隅々まで行き届いた映像美で、見事な出来だった。

・キャストは真田広之(坊や哲)、鹿賀丈史(ドサ健)、名古屋章(上州虎)、加賀まりこ(クラブのママ)、大竹しのぶ(マユミ)、加藤健一(女衒の達)、篠原勝之(禿げ)、天本英世(鉢巻)などを起用し、和田さんがとことん細部にこだわった映画だ。映画の舞台は戦後間もない東京上野。麻雀に打ち込む若者(坊や哲・真田宏之)が、様々な勝負師との出会いを通して成長していく姿を描く。わけてもゴロツキのドサ健(鹿賀丈史)との軽薄な友情関係の中で麻雀賭博に身を投じていく。ドサ健はマユミ(大竹しのぶ)という恋人と同棲しているが、負けが込んだドサ健は、マユミと住んでいた親名義の土地の権利書まで持ち出すのだ。僕が知りえなかったギャンブラー心理の底なしの奥深さ、人間の業の怖さなどが描かれた珠玉の名品であったと思う。まだ話し足りない気分だが、映画評論は専門家に任せることにしよう。

  この『麻雀放浪記』のほか、監督作品としては『快盗ルビイ』(1988年)、『怖がる人々』(1994年)、『しずかなあやしい午後に』(1997年)、『真夜中まで』(1999年)などがある。お亡くなりになった後10月20日(日)には、CSチャンネルで和田誠監督を追悼する特別番組が組まれ、『真夜中まで』が放映された。僕も懐かしくて、録画を何回も観た。

・清流出版でも和田さんに単行本の装丁をお願いしたことがある。それは『犬は東に 日は西に』という犬の鼎談本であった。中野孝次、黒鉄ヒロシ、如月小春の三氏にご登場いただいた。山の上ホテルでほぼ半日がかりで収録した。単なる犬好き談義に留まらず、高齢化社会、死生観などにも言及した、内容的にも深いものであった。編集担当したのは臼井雅観君で、装丁者を誰にしたらいいかと相談されたとき、僕はすぐに和田誠さんを推薦した。


katoya19.11.4.jpg
清流出版刊行の鼎談本『犬は東に 日は西に』

・実は和田さんに装丁をお願いするに当たっては問題があった。それは「バーコードはデザイン上好ましくない」を持論とする和田さんは、カバーの裏表紙にバーコードが入るのを好まなかった。だから各社とも和田さんに装丁を依頼するときは、それぞれ腐心したものだ。通常、書籍のバーコードは裏表紙のカバーに直接印刷されるが、これを嫌った和田さんのデザインは、ISBNの数字のみが表示されたデザインを採り入れていた。結果、バーコードは帯に印刷されることが多かった。
  帯にバーコードを入れない場合は、バーコードを別版にして貼り付けて、購入してすぐに剥がれるようにするケースが多かった。このように面倒なことになるのだが、それでもお願いしたのは、装画・装丁ともお洒落な本になることは目に見えていたからだ。案の定、出来上がりは最高だった。犬のイラストと書き文字のタイトルが絶妙に配されていた。もちろん、評判も上々で販売実績も満足のいくものであった。実は猫の鼎談本も村松友視、小池真理子、南伸坊の三氏で刊行したのだが、本当は和田さんに装丁をお願いしたかったのだが、なにせ南伸坊さんが登場しているのだから、伸坊さんに装丁・装画はお願いすることになった。

・後日談がある。新聞に載っていた伸坊さんの文章を読んで知ったのだが、イラストレーターの世界を志したきっかけは、中学2年生のころに、「お洒落で楽しくて、新しかった」和田さんの雑誌広告を見たことにあったのだという。皆さんお馴染みの煙草「ハイライト」のパッケージ・デザインは、和田さんが広告制作プロダクション、ライトパブリシティ時代に手がけたものだ。このハイライトのデザインは、1964年に開業した東海道新幹線の車体の色を決めるときに配色の参考にされたといわれる。自社のライトパブリシティ及び、社会党のロゴマークも和田さんが手掛けたものだし、キヤノンや東レといった国内有数の企業の広告デザインも和田さんの仕事である。

  更に驚いたことがある。平野レミさんが『週刊文春』の和田誠追悼号に文章を寄せているのだが、それによれば、締め切りのある仕事から解放された和田さんは、2年間はのんびりと自分の好きなことをして過ごしていたという。具体的には、「南伸坊さん、三谷幸喜さん、安西水丸さんといった大好きな友だちの本を毎日のように読んでいました」とのこと。人生は出会いであり、驚きに満ちている。伸坊さんと和田さんも、お互いリスペクトし合っていたわけで、僕は読んでいてなんだかホロリとさせられた。

杉田明維子(AICO)さん

清流出版 (2019年10月29日 10:55)

katoya201910.1.jpg
会場での杉田明維子(AICO)さん

・杉田明維子(AICO)さんの個展が10月3日(木)から10月12日(土)まで、京橋の画廊「四季彩舎」で行われた。僕は個展二日目に当たる10月4日(金)に清流出版に出社し、昼過ぎに斎藤勝義さん、臼井雅観君を誘って出掛けることにした。会場は二階であり、エレベーターがないので、手すりに摑まり、二人に前後を支えられながら、なんとかたどり着くことができた。会場に入ってみると何組かの来場者が和気藹藹と歓談していた。明維子(AICO)さんの人柄もあるのだろう、会場は笑顔と温もりで満たされていた。

・簡単にプロフィールをご紹介しておく。岐阜県の生まれ。女流画家展や昭和会展、安井賞展、月次展、アンチーム展など数々の展覧会に出品する。クリティック賞(日仏現代展パリ)を受賞。絵本『おつきさま』(架空社)、『五月のおしゃべり』(海豹社)、『うまれるって うれしいな』(弊社)、他の作画を担当。また、『朝日ジャーナル』やJALの機内誌『ウィンズ』、『母の友』(福音館)の表紙画を担当した。2015年には、東京・白山に「AICO MUSEUM」をオープンさせた。

katoya201910.2.jpg
個展案内状

・個展は「AICO展—アイ・ハナマンダラ」と題して、花をテーマにした作品が展示されていた。会場で明維子(AICO)さんに今回の個展のコンセプトを尋ねてみると、「連綿と続いてきた命の連鎖。私たちも宇宙の一滴を抱いて生きています。今回の個展は花をテーマにしました。今を大切に、自分を愛し、人を愛し、生きとし生けるすべてのものを愛し、ワクワクしながら、命を輝かせることができたらと思います。愛という命の循環を作品から感じて頂けたら嬉しい」と答えてくれた。それにしても、みんなが知り合いのように和やかに見えるのが不思議に思えた。明維子(AICO)さんに「来ていただくとみんなお友達になってしまうので、長い間にたくさんの方にご来場いただくようになりました」と言うのを聞き、納得できた。


katoya201910.3.jpg
katoya201910.4.jpg
個展会場風景

・明維子(AICO)さんの作品の特長は、背景に麻の葉模様が入っていること。麻の葉文様は日本独自の文様であり、正六角形を基本とした幾何学文様である。名前の由来は文字通り「麻」の葉の形を連想する事から名づけられたもの。古くは平安時代の仏像の切金文様の中や、鎌倉・室町時代の繍仏(刺繍によって仏像や菩薩などを表したもの)の中にもよく見られる。また、麻は丈夫ですくすくとまっすぐに伸びることから、昔から子供の産着に用いる風習があった。着物に限らず、帯や襦袢、袋小物にも頻繁に用いられている文様である。「麻の葉模様は末広がりで縁起がいい。どこまでも放射状に広がり、世界へ地球へ宇宙へと繋がっていきますから」とその効用を語った。
 
katoya201910.5.jpgkatoya201910.6.jpg    
花のマンダラだが、地に麻の葉模様が描かれている
 
・明維子(AICO)さんは、弊社から刊行された絵本『うまれるって うれしいな』で画を担当してくれた画家である。文を書いたのは本欄でも何回かご紹介したことがある堤江美さんだ。この絵本は、聖路加病院・名誉院長だった日野原重明氏の推薦文を頂いたこともあり、話題を呼んだ。日本語と英語のバイリンガルの作りにしたのもこの絵本の特長で、ユニセフ関係の雑誌にも紹介されることになった。日野原氏は亡くなってしまったが、いい推薦文だったので一部を抜粋してご紹介しておこう。
 
《日本では一人の女性の生涯から1.2人しか子供が生まれているのに過ぎません。そのような時代に、地球に生まれてきた子供の命を、誰がどう立派に育てるのか、誰が子供に生まれてきてよかったと感じさせるのか。その子供をめぐる日本の大人に、子供の命の大切さを示唆する絵本として発刊されたのが本書です。(中略) 堤江美さんの文は杉田明維子さんの画と溶け合って、よいハーモニーとなって聞こえてきます。》

katoya201910.7.jpg
弊社刊『うまれるって うれしいな』

・この絵本の温かなタッチで描かれた原画は、銀座、能登、金沢、神戸、静岡など全国各地で原画展として公開された。また、来場者の多くがこの絵本を購入してくれたのは有り難かった。「お孫さんのいる主婦や妊婦さんが購入してくれたり、新婚さんへのプレゼントとしてもよく使われました」。確かに生れいずる命というものを考える上で、格好の教材となるような内容であった。
 実は明維子(AICO)さんのご主人、作宮隆さんも芸術家である。1954年、石川県金沢市生まれ。金沢美術工芸大学商業デザイン専攻卒で、「花炭アート」という芸術分野で確固たる地位を築きつつある。あまり聞き慣れない花炭とは何か。簡単にいうと、木の実、葉、花、種など素材そのままの形で炭化させて作る炭の一種のこと。「飾り炭」とも呼ばれ、遠く室町時代から500年以上もの歴史があり、主に茶の湯の世界で使用されてきた。具体的には、千利休の活躍したころ、茶室の床の間に花炭を置いたのが始まりだという。

katoya201910.8.jpg
作宮隆作 花炭の作品(木の実や種、花などを炭にした作品)

katoya201910.9.jpg
作宮杏奈作 彫り絵の作品

・公園や森で採取した木の実や種を、山梨県の故・岡部末治氏の制作した炭焼窯で、花炭技法として焼いている。冬の間に炭に焼いておき、春先から自宅の工房で造形作品に仕上げていくのだという。また、娘さんの作宮杏奈さんも芸術家なのだ。東京造形大学デザイン学科テキスタイルデザイン専攻卒で、彫り絵作家として活躍中という。彫り絵というのも耳慣れない言葉だから、簡単に説明すると、木の板を削って、直接板に彩色する。最初は木版画を制作していたのだが、彫った原版の美しさに魅かれ、そのままの木の状態で展示するスタイルに変えたのだという。だから夫婦二人での展覧会や家族三人の展覧会も何回か開催したことがある。

・種は生命誕生の象徴と位置づけ、宇宙のすべてのDNAが入り込んでいる感覚があると、花炭にこだわる作宮隆さん。連綿と続いてきた命の連鎖を見つめ、精神を研ぎ澄ませ、今回、花の曼荼羅を現出させた明維子(AICO)さん。愛娘の作宮杏奈さんは、地球上の生きとし生けるもの賛歌を、独自の彫り絵で掬い取って見せる。このように三人三様でアートを追究し続けている芸術家一家。それぞれに切磋琢磨しながら、独自の道を切り開き、新たなる世界観をこれからも見せてくれるに違いない。僕は来年の個展も楽しみに待っている。

野見山暁治さんと新井苑子さん

清流出版 (2019年9月25日 12:01)


katoya2019.09.12.jpg

・今年、僕は銀座方面によく外出した気がする。先に本欄でもご紹介した藍染作家・菅原匠さんは例年通り、松屋銀座で個展をしたので出掛けたし、その他にも銀座で親しい人の個展が開催されたので、不自由な体ながら出かけて行った。例によって、顧問の斎藤勝義さんと臼井雅観君が付き合ってくれた。本欄で取り上げていなかった個展があるので、多少のタイムラグはあるが紹介しておきたい。一つは今年12月に99歳の白寿を迎える洋画家の野見山暁治さんである。「野見山暁治の気ままな小品展」と題した個展で、銀座・スルガ台画廊で開催された。小品と銘打ってあるように、大きな作品こそ出品されていなかったが、野見山さんらしい作品に見ていて、思わず笑みもこぼれた。というのも、本欄にも書いたが作品とタイトルの対比が実に秀逸なのだ。

katoya2019.09.1.jpg 
入口の案内板
 
katoya2019.09.3.jpg
個展の案内状

・例えば、下の左の作品だが「近よるな」というタイトルがつけられている。砂浜と海のような背景にトドかアザラシのようにも見える動物が跳ねている。どこがどうなって「近よるな」となるのか、僕にはわからない。わからないのだが、近づくと危険そうな雰囲気があり、なんとなく納得してしまう自分がいる。下の右側の作品のタイトルは「嘘っぱちの人生」である。天上世界か、地上世界かわからないが、何人かの人間がうごめいている様子が描かれている。なぜ、嘘っぱちなのか、僕にはよくわからないが、わからないなりに、魅力を感じる。タイトルの付け方の秘訣を野見山さんに直接お聞きしたい気もする。この日も夕方にご本人が個展会場に来る予定だと聞いたのだが、野暮用があって、お会いすることはできなかった。


katoya2019.09.4.jpgkatoya2019.09.5.jpg  
    「近よるな」       「嘘っぱちの人生」

・野見山さんの感性は独特であり、人物について書かれたものなどを読むとその人間観察力に驚かされる。現に東京美術学校(現・東京藝術大学)で野見山さんの七つ先輩にあたり、現代画廊の経営者で松田正平さん、田島隆夫さんなどを世に出した須之内徹さんは、野見山さんの事を次のように書いている。

「野見山暁治という人は不思議な人だと思う。最近、昔私が書いていた小説が二巻の全集になって出て、その挟み込みの月報に、野見山さんに文章を書いてもらっているのだが、ろくに会って話したこともないのに、どうして私という人間をこんなに見抜いてしまうのか、不思議という他ない。本当に、私は一度も野見山さんとじっくり話をしたことがないのだ。会うのでも、いつかこの『気まぐれ美術館』に書いたように、私が上野の山を歩いて行くと、向こうからジャムパンを囓りながら歩いてくる野見山さんと出会って、やあ、と言った、というような会い方しかしていないのである」(『人魚を見た人』)

  野見山さんは僕が敬愛する椎名其二さんとも親しかった。12年間のフランス暮らしを書いたエッセイにもよく出てくる。その椎名さんは佐伯祐三と親しくお付き合いがあった。佐伯祐三ゆかりの古びた小箱を野見山さんは椎名さんからもらったという。その下りをこう書いている。
「薬か、繕い用の小物が入っていた古びた箱を、椎名さんは何気なくテーブルの上においた。表面の彩色がかなり擦り減ったその小さいブリキの箱のことは、ずっと忘れないでいる。朱と黄金色と黒い色とがてんでに絡み合い、ところどころ地肌の銀色がにぶく光って、彩りを抑えている。佐伯祐三の絵みたいだな。(中略)あの小箱は佐伯祐三の手垢が沁みたものだ。パリ郊外のアトリエでぼくはずっと使っていた。」(『異郷の陽だまり』)

・僕はこの文章を読んだとき、佐伯祐三、椎名其二、野見山さんと手渡されてきたこの小箱をどうしても見たくなった。しかし、それは叶わなかった。

「ドイツに留学している坂崎乙郎がやってきて、どうしてもと欲しがってきかない。痩せた青年の一途さにツンときて、それっきりになってしまった」(『異郷の陽だまり』)とある。ちなみに坂崎乙郎さんは、僕が高等学院でドイツ語の授業を教わった方だ。その方の父・坂崎坦(しずか)教授は、91歳まで長命だった美術家だったが、坂崎乙郎さんは『夜の画家たち 表現主義から抽象へ』などの著作でドイツ表現派や幻想派の画家を紹介、数々の作品を上梓するも、57歳で自死された。それにしても野見山さんの文章は魅力だ。そっけなさそうで、余韻といおうか、コクがあり深みがある。野見山さんは妹の旦那、田中小実昌さんとは実の兄弟のように気が合い、深く長いお付き合いだった。「12年間のパリ暮らしとコミちゃんの思い出」というテーマで講演をしたこともある。小実昌さんも素敵な小説を書き、ミステリー小説の翻訳なども手掛け、見事な仕事ぶりだったが、文章においては、一目も二目も置いていたに違いない。

katoya2019.09.6.jpg
 
・僕は、田中小実昌さんが話題に出てくる度、古巣ダイヤモン社時代の小実昌さんと奥さんとの微笑ましくも切実な原稿料争奪戦を思い出したものだ。ダイヤモンド社の原稿料の支払いは他の出版社同様、銀行振り込みが主流である。しかし、小実昌さんはそれでは困るという。「銀行振り込みは絶対に駄目だ。女房(野見山さんの実妹)に見つかってしまうから」と言い、月末に現金書留で送るように要求された。小実昌さんは、自宅2階の窓から道路を見下ろしていて、郵便配達人をいち早く見つけると階段を駆け下り、現ナマを我がものにするのだと白状したものだ。

  野見山暁治さんの再婚相手、高級クラブ「みつばち」の元ママ武富京子(本名・野見山京子)さんのことも忘れがたい。終戦直後の1951年、福岡市中央区春吉で開店、56年に西中洲に移転した。井伏鱒二、司馬遼太郎のほか、歴代首相、プロ野球選手らが訪れたという名物クラブだった。週刊誌にも「日本の三大ママ」として銀座、京都のママと並び称されたこともあった。最愛の妻、陽子さんがパリで逝き、二番目の名物クラブママも天国へと旅立ってしまった。

『異郷の陽だまり』の「あとがき」で野見山さんは嘆いている。「ぼくは知らないうちに追悼屋にされていた」と。「ひとりで、新聞や雑誌、三つも四つも追悼文を書かせた奴もいる」とも憤って書いている。「お先にね」と、天国へ旅立つ人を見送り続けてきたのは、確かにしんどいことであろう。僕も多くの友人たちに先立たれたので、その感覚はよくわかる。一世紀を生きてきて、第一線で活躍し続けている野見山さんだけに、同情はするが、これはもう仕方のないことなのかもしれない。まだまだ、第一線で走り続けて頂きたいと思っている。


●新井苑子さん

・もう一つ銀座での個展をご紹介したい。それがイラストレーター・画家の新井苑子さんである。『「宇宙の花」を描く』と題して、銀座の永井画廊で開催された。新井さんには、月刊『清流』の表紙絵をお願いしている。僕も表紙絵をジークレー(Giclee)版画(「画題・オランダの花祭り」)にしたものを新井さんから頂いて、家に飾らせてもらっている。近年、ジークレー版画は吹き付けて着色する方法で、最も原画に忠実な表現ができる技法として注目されている。木靴の中から美しい花々が咲いている風景が印象的だ。永井画廊は現社長の永井龍之介さんの父君が銀座で創業し、その後青山に移転し、再び銀座に戻ってきたことになる。現在の所在地は、銀座8丁目の新装なった河北新報ビルの5階にある。とても洗練されたお洒落なビルであり、会場もスッキリとしたレイアウトがなされていた。永井さんも会場におり、少しだけだがお話することができた。


katoya2019.09.7.jpg 
新井さんから送られた「オランダの花祭り」
 
katoya2019.09.8.jpg 
新井苑子さん(後列右)は、我々夫婦を招待しご馳走してくださった。後列左は松原淑子(現・社長)。
 
・新井さんは、日本を代表するイラストレーター、画家として知られている。今回のテーマは「宇宙の花」であった。「かけがえのない“地球”が創出する“森羅万象の奇跡”を体験して頂ければ幸いです」と個展開催に際し新井さんはコメントしている。 新井さんによれば、青く美しい地球は「宇宙の花」であり、花や樹、虫など小さな自然から、人、海、山、宇宙まで地球の森羅万象はインスピレーションの宝庫だという。女子美の大学生の頃、顕微鏡で石の断面を見て、抽象画のように美しく感動し、道端の石にも美の世界があることに気づかされた。以来、目には見えないけれどその奥にあって訴えかけてくるもの、心に映った美を表現したい、というのが今日まで描き続けてきた大きなモチベーションになったのだ。
 
katoya2019.09.9.jpg 
 
katoya2019.09.10.jpg
会場風景

・下に掲げた2つの作品は、新井さんの宇宙観が投影された代表的作品であろう。メロンと林檎をモチーフにしながら、銀河系に浮かぶ地球のようであり、表皮には街並みが描かれたり、薔薇の花が描かれている。地球の森羅万象はインスピレーションの宝庫だとする、新井さんのコメントがとてもよく理解できる。地球賛歌を象徴するような作品ではないだろうか。
 
katoya2019.09.11.jpgkatoya2019.09.122.jpg
  
 また、下の作品も地球に生きる、生きとし生けるものに対する新井さんの視点がよく感じられる作品である。クリスマスツリーをバックにして、本来であればオーナメントが飾り付けられるはずのモミの木だが、代わりにこの絵では、海に生きる熱帯魚やイカ、クラゲなど海の生物が生き生きと描かれている。まさに地球も一つの命であることが感じ取ることかできる。温かい眼差しに彩られ、新井さんの真骨頂である地球賛歌の絵になっている。インスピレーションの翼を限りなく広げ、羽ばたいて、見事に《新井苑子の宇宙観》を現出しているようだ。
 
 
katoya2019.09.13.jpg

・新井苑子さんのプロフィールを簡単にご紹介しておく。女子美術大学図案科グラフィックコースを専攻し卒業。1965年、日本デザインセンターイラストレーション部に入社。トヨタ自動車、伊勢丹デパートの広告を手がける。 1971年、フリーとなる。本の装丁、エプロン、スリッパなどのデザインといった分野でも活躍する。 現代グラフィックアートセンターにポスター等約100点の作品が収蔵された。 武蔵野美術短期大学特別講師、女子美術大学非常勤講師を務めた。 主な著書に、『イメージの旅』(グラフィック社)、『花の森』(岩崎美術社)、『イラストレーションの発想と表現』(美術出版社)、『フローラ美術館』(河出書房新社)、「ハーブ絵画館」(文園社)、『アーリーアメリカンクックブック』(中央公論社)、『新井苑子のハブのぬり絵』(文園社)など多数。「九州沖縄サミット」、「日本ユネスコ加盟50周年」等の記念切手52種類以上制作。東京イラストレータズソサエティ、日本自然保護協会、会員。
 
 
katoya2019.09.14.jpg
 
・月刊「清流」の表紙絵を僕は毎号楽しみにしている。季節感を大切にし、メインのモチーフに一ひねり付け加えるのが”新井苑子ワールド”である。例えば5月号では「鯉のぼり」をモチーフにしている。吹き流し、真鯉に緋鯉、子鯉が悠々と泳いでいる絵が描かれるが、緋鯉に一ひねり利かせている。五月晴れにサツキの花を着て、晴れやかな母鯉に仕立てている。緋鯉だけその模様がサツキの花で彩られているのだ。8月号では金魚鉢がモチーフである。金魚鉢の中を金魚が泳いでいるのだが、これも一ひねりしてある。南国情緒豊かで真紅色のブーゲンビリアの花を金魚鉢の中と鉢の上に描き、爽やかな夏を演出している。最新10月号はきのこがモチーフ。タイトルは「きのこのブーケ」である。秋はきのこの季節であり、紅葉の季節でもある。新井さんは、落ち葉を拾ってきてきのこを包み、きのこをブーケにしてしまうのだ。実に素晴らしいインスピレーションではないか。新井さんには、これからも是非、月刊「清流」の顔を新井苑子ワールドで染めていって欲しいと僕は期待している。


渡部昇一、堺屋太一、竹村健一、深田祐介 (サンピンイチスケ)の各氏

清流出版 (2019年8月29日 17:11)

katoya201908.1.jpg
深田祐介さんと僕
 
・「サンピンイチスケ」という言葉をご存じであろうか。1970年代からマスコミ界を席巻した四人の売れっ子評論家・作家のことである。具体的には、渡部昇一、堺屋太一、竹村健一、深田祐介の四人。三人の名前の最後に一がつくことからサンピン、深田祐介のスケを合わせ「サンピンイチスケ」と命名されたものだった。テレビ、雑誌、新聞などにこの四人はよく登場し、マスコミ露出度もかなり高かった。当然のことながら、知名度が高く人気があっただけに、著者として執筆依頼が殺到したのもよくわかる。この四人の単行本を出せば、大いに話題にもなり売れたからである。
 僕が古巣ダイヤモンド社に在籍し、雑誌部門から出版局に移ったのが1980年、ちょうど40歳だったが、そのころ、「サンピンイチスケ」人気はピークを迎えていた。今回、この「サンピンイチスケ」について書きたいと思った動機だが、渡部昇一さんが2017年 に86歳で、堺屋太一さんが2019年2月8日に83歳で、竹村健一さんが 2019年7月8日に89歳で、深田祐介さんが2014年に82歳で死没ということで、一世を風靡したあの「サンピンイチスケ」は、四人目の竹村健一さんの死によって、全て黄泉の国の住人となってしまったからである。
 
・簡単にこの四人を紹介しておく。渡部昇一さんは、1930年山形県生まれ。1955年、上智大学博士課程を修了。英語学が専攻であった。ドイツ・イギリスに留学。2001年、上智大学の名誉教授となっている。渡部昇一さんが大ブレークするきっかけとなったのは、1976年刊行の『知的生活の方法』であった。累計部数118万部を超えて、講談社現代新書のベストセラーとなった。頭の回転を活発化し、オリジナルな発想を楽しむ生活の仕方を提案したもので、読書の技術、カードの使い方、書斎の整え方、散歩の効用、通勤時間の利用法、ワインの飲み方、そして結婚生活等々、著書自身の体験を通しての柔軟な発想が受けたものだった。渡部さんには、古巣ダイヤモンド社で、月刊誌の取材のために数回会ったことがあった。清流出版を立ち上げてから、直接、お姿を拝見したのは、ビジネス茶を提唱した荒井宗羅さんの著『和ごころで磨く―ビジネスに生かす“茶の湯の精神”』(1997年6月刊)を弊社から刊行した時、出版記念パーティであった。ゲストとして招かれていたのである。その時以来、雑誌の連載をお引き受け頂くなど、渡部さんと僕との長いお付き合いが始まった。

katoya201908.2.jpg
講談社現代新書の大ペストセラー
 
 渡部昇一さんの交友関係は広い。特に、堺屋太一・竹村健一の両氏とは交流が深く、3人で講演会を催したり共著を出版したり、『三ピン鼎談 平成日本の行方を読む』(1990年2月、太陽企画出版刊)を刊行したこともある。また、谷沢永一さんとは共に知られた蔵書家であり、思想的にも共感できることが多かったらしく、たくさんの共著を出している。渡部さんはテレビでもよくお顔を拝見した。竹村健一さんとの掛け合いは特に面白かった。「竹村健一の世相を斬る」(フジテレビ)にゲスト出演していたのが懐かしく思い出される。また、自身の番組も持っていて、石原慎太郎、加藤寛、田久保忠衛、岡崎久彦といった著名人を招いての対談番組「渡部昇一の新世紀歓談」(テレビ東京)、渡部昇一の「大道無門」(日本文化チャンネル桜)もやはり対談番組で、各界の著名人を招き、歴史、政治、時事問題などを語り合うホスト役を務めておられた。
 堺屋太一(本名・池口小太郎)さんは、1935年大阪府生まれ。東京大学卒業後、通産省の官僚となり、経済企画庁長官、内閣特別顧問、内閣官房参与などを歴任した後、小説家、評論家となった。当時ダイヤモンド社は霞が関1丁目にあり、通産省の隣のビルだった。噂では池口小太郎さんは若手の官僚だが、実に魅力的で面白い人物だとのことで会いに行った。僕は、所属している「経済週刊誌 ダイヤモンド」の新米記者として、「通産省として何かエポックメイキングなことはないですか?」と尋ねた。その時は会話に出なかったが、大きなイベントを成功させることになる。池口小太郎さんは、1970年の「大阪万博」の企画・実施に携わるのだ。来場者が世界中から実に6422万人となり、大成功であった。この頃、堺屋さんはまだ三十代の若さ、小松左京さんや丹下健三さんをはじめ、東大や京大の先生などを強引にかつ粘り強く引っ張っていった手腕は特筆に値する。
 大阪万博にはしっかりとしたコンセプトと哲学があり、後の携帯電話やドーム建築につながるような、新しい世界を見せてくれたのではないか。堺屋さんには、鬼気迫るような面があり、自ら考え、自ら動いた。平気で24時間働き続けるようなバイタリティの持ち主であった。また、博覧強記の人であり、それでいて愛敬があったので多くの池口ファンがいた。時代の節目を鋭く切り取る言葉でも注目され、特に『団塊の世代』という言葉は、本の内容とともに衝撃をもって迎えられた。2000年以降の少子高齢化社会を言い当てる警句ともなった。ちなみに1975年には『油断!』が、1976年には『破断界』が出版され、本の売れ行きと共にこの言葉も話題を呼んだものだった。
 
katoya201908.3.jpgkatoya201908.4.jpg
   

 竹村健一さんは1930年大阪府生まれ。京都大学英文科卒業後、フルブライト留学生として米エール大、シラキュース大大学院で学び、『英文毎日』の記者となった。その後、山陽特殊製鋼調査部長、追手門学院大助教授を歴任した。「保守派」の論客として知られ、1979年から1992年までフジテレビ系で放送された「竹村健一の世相を斬る」で司会を務め、関西弁の語り口が人気を博した。日本テレビ系「世相講談」では現・東京都知事の小池百合子さんがアシスタントを務めていた。「モーレツからビューティフルへ」「デリーシャス」などの流行語を生み出したほか、情報を手帳1冊に集約する「これだけ手帳」を自ら提案し発売もしている。「僕なんかこれだけですよ」と本人が語ったCMを覚えている方もおられるだろう。50歳当時、テレビ、ラジオのレギュラー番組が月95本、著書200冊に達するなど多忙を極めた。当人の弁によれば、ピーク時には、「口述筆記で一時間五十枚ほど」書いた、というから驚異的なスピードであった。
 深田祐介(本名・雄輔)さんは1931年東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業。日本航空広報部に勤務したサラリーマン作家として知られ、1976年に『新西洋事情』で大宅壮一ノンフィクション賞、1982年に『炎熱商人』で直木賞を受賞している。日本航空を退社して後は、作家として創作活動に専念した。1987年に『新東洋事情』で文藝春秋読者賞を受賞しているが、サラリーマン生活と海外駐在経験が長かったことから1976年『西洋交際始末』、1977年『貿易戦争と中産階級』、1979年『革命商人』などに代表されるように海外ビジネスや企業小説が多い。
    
katoya201908.5.jpgkatoya201908.6.jpg
 
 
・僕は1980年に、ダイヤモンド社の雑誌部門から出版局へ転属し、1992年の初頭に辞め、独立して小出版社をすることになるが、その間、幾多の単行本を手掛け、多くの著者と交友関係を結ぶことができたのは僥倖であった。最初僕は、昭和天皇のご学友・藤島泰輔さんの編集担当となった。藤島さんと僕とで仕掛けたポール・ボネのシリーズは売れに売れ、さらには文庫化の権利も他社に売れた。藤島さんは多額の印税を手にすることになり、フランスのパリ16区に豪邸を取得したり、ランニングフリーなど競走馬を持つことになった(藤島さんの薫陶を受けた僕の趣味が「競馬」となった)。パリの住まいは、元NHKの花形ニュースキャスター磯村尚徳さんが日本文化会館初代館長になった際、リースされることになった。その話は直木賞作家・深田祐介さんも知っていて、お会いした時にこの話で盛り上がったことが懐かしい。深田さんは僕と多くの人脈も重なるし、同じ身体障害者の一級同士ということで話が弾んだものだった。
 
katoya201908.7.jpg
竹村健一さんの翻訳本
 
・ここで僕は竹村健一さんの話をしておきたい。1967年、竹村さんは『マクルーハンの世界』(講談社)という本を翻訳し、マクルーハン理論を日本に初めて紹介した人物でもあり、尊敬をしていた。マクルーハンは、特にテレビが現代に及ぼした影響についての研究で知られた人である。実は僕が出版局に移る前の1977年にダイヤモンド社から竹村健一さんの『日本の常識は世界の非常識!?』という本を出ており、販売実績も良かった。僕も出版局に移るに当たって、絶好調だった竹村健一さんの本を出したいと思っていた。だから、アポイントを取り、赤坂にあった竹村さんの事務所に伺った。1980年1月のことである。僕は温めていた単行本の企画案を提示して、執筆依頼をしたのだが、執筆はなんとかなりそうなのだが、どうしても条件面で折り合えなかった。
 竹村さんが主張する印税率は、出版界の常識からすれば、考えられないほどであった。最低でも4割増し(14%)、できれば倍近い率(20%)でと要求してくる。竹村さんは、関西弁でなぜそうなるのかをまくしたてるのだが、理論的には分からないわけではない。自身が広告塔になっているから、出せば十分売れる本になる。広告宣伝費込みで考えれば安いものじゃないか、ということになる。そしてついには、手元にあったノートを見せ、他社で出した本の初版部数、印税率等をつまびらかに披露されるに及んで、僕は切れてしまった。「そんな高額な印税を払ってまで出すことはできない」、ときっぱり断ってしまった。帰社してから、営業サイドからは恨まれることになったが、こればかりは受けられなかった。あの丁々発止のやりとりは、今でも懐かしく思い出される。

 
katoya201908.8.jpg
竹村健一著(1977年 ダイヤモンド社刊) 


katoya201908.9.jpg
ドラッカー博士と竹村さんとのツーショット(ダイヤモンド社)

・竹村さんとはその後、前述した荒井宗羅さんの『和ごころで磨く』出版記念パーティでお会いし、何のわだかまりもなく気持ちよく挨拶を交わした。それにしても盛況だった荒井宗羅さんの出版パーティ。船井幸雄さん、竹村健一さん、ジェームス三木さん、細川隆一郎さん、浅草寺の京戸慈光師、渡部昇一さんはじめ、綺羅星のごとく宗羅ファンが押しかけた。
 宗羅さんに、竹村健一さんと出会ったきっかけを聞いてみると、なるほどとうなずけるものだった。初めて会ったのは、宗羅さんがプロデューサー兼アートディレクターとして関わった新宿の料亭だという。ビルの最上階にあった100坪以上の料亭には、露地もある本格的な茶室から、当時メディアを騒がせた黄金の茶室や10室ほどの個室もあった。宗羅さんは、この料亭全てのコンセプトメイキングと若い仲居さん達の接客教育、集う政財界、文化人に対するお茶のもてなしの仕方から、日本文化絡みのレクチャーまで広範囲にわたったという。


katoya201908.10.jpg
出版パーティで荒井宗羅さんと

 たまたまこの料亭を訪れた竹村さんが、この料亭のしつらえや接遇などに感服し、プロデュースした宗羅さんに関心を抱いたということらしい。その時の当意即妙の宗羅さんとの会話が気に入ったらしく、帰り際にねぎらいの言葉を掛けてくれたという。以来、宗羅さんは、竹村さんの自宅で催されたお花見の会や奥方の個展に招かれるようになる。会えば、竹村さんは、トレードマークのパイプをふかしながら、主に海外と日本との比較文化や、英語の特殊な表現法などを教えてくれた。出版記念パーティの時も、竹村さんは開口一番、「宗羅さん、一流の著名人がみんな集まったな。大したもんだ」と褒めてくれたそうだ。宗羅さんならさもありなんである。僕が関わりをもった著者が、世界に羽ばたいていくのを見るのは、編集者冥利に尽きるというものだ。荒井宗羅さんのさらなるご活躍をお祈りしたい。

リー・アイアコッカ

清流出版 (2019年7月24日 19:26)

katoya1908.1.jpg

・急に過去の記憶が蘇ることがある。実は、リー・アイアコッカの死が報じられた時、僕は古巣ダイヤモンド社での、あの懐かしい喧噪の日々を思い出した。1970年代後半から80年代前半にかけ、破綻寸前だった米自動車大手メーカーのクライスラー(現フィアット・クライスラー・オートモービルズ=FCA=)の再建に手腕を発揮したリー・アイアコッカ元会長が7月2日、パーキンソン病に伴う合併症のためにロサンゼルスの自宅で死去したとマスコミ各紙で報じられた。享年94だった。僕はこの訃報に接し、様々な思いが交錯してしばらく呆然としていた。アイアコッカは1924年の生まれ。ビジネスの世界における、アメリカン・ドリームの体現者として今も記憶に新しい。古巣のダイヤモンド社で僕が単行本の編集者をしていた時代、翻訳者の徳岡孝夫さんとのコンビで、実に99刷までいったリー・アイアコッカ著『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(1985年刊)の出版にこぎつけ、その後も、第2弾ともいうべき『トーキング・ストレート』(1988年刊)を刊行した思い出深き人物であった。さまざまな思いが去来したのも無理はない。

 この本の版権を取得するのが結構大変だった。現在、清流出版の顧問をしてくれている斎藤勝義さんがダイヤモンド社の版権担当者として活躍してくれたことをよく覚えている。アイアコッカは経済雑誌や日本経済新聞等などで取り上げられ、カリスマ経営者として知られていた。しかし、サラリーマンの間ではまだそれほどの知名度はなかった。実際、新橋あたりのサラリーマンに訊くと、「コカ・コーラなら知っているけれど、アイアコッカなんて知らないよ」などと揶揄する人もいた。ダイヤモンド社の販売本部の連中も、「日本人にはまったく知名度がない。どうせだったら、レーガンをやった方が売れるのでは」などと僕の企画に冷ややかな目線だった。

・しかし、アイアコッカは立志伝中の人物であり、アメリカで原著が発売されるや評価は一変することになった。『パブリッシャーズ・ウィークリー』、『ビジネス・ウィーク』、『ニューズ・ウィーク』、『ニューヨーク・タイムズ』、『フォーチュン』など各紙誌の書評等で絶賛されることとなり、爆発的な売れ行きを見せたのである。そうなれば日本での版権はどの出版社が取得するか、取り合いとなったのは必然であった。新潮社、講談社、三笠書房をはじめ、名だたる大手出版社の敏腕編集者、版権担当者が版権取りに参戦してきたことをよく覚えている。日本ユニ・エージェンシーがこの本の版権代理店だったが、アドバンスは値上がりするばかりであった。

  日本ユニ・エージェンシーの武富義夫さんは、当時、まだ社長にはなっていなかったが、経営者に一番近い存在で、ばりばりの凄腕で知られていた。その武富さんと出版社の一編集者であった僕が、『アイアコッカ』の件ではことごとく対立したが、一歩も引かなかったのはいい思い出だ。これには版権担当者だった斎藤勝義さんも苦労されたと思う。結局、武富義夫さんは、1993年、僕がダイヤモンド社を辞めた後で、日本ユニ・エージェンシーの社長に就任した。武富さんの後は、長澤立子さん、山内美穂子さんと二代続けて女性が社長に就任したが、このお二人とはロンドン国際ブックフェア、フランクフルト・ブックフェア、ブックエキスポ・アメリカなど「国際ブックフェア」の会場でよくお会いし、意見交換をしたり、食事をご一緒したりしたものだった。
 

無題1908.1.png
 
・なぜダイヤモンド社が版権を取れた決め手だが、過去の経済物の実績と、どうしても出したいと編集者と経営者の熱意の差ではなかったか。僕にも編集企画の心構えとして、まだ日本人には知られていないが、注目すべき人物を追い、世に知らしめたいとする路線は間違っていないとの感覚があった。事実、ダイヤモンド社はビジネス書において、他社の追従を許さぬ実績を積んできていた。ベストセラーとなった本も多々ある。例えば、クラウド・ブリストルの『信念の魔術』(1954年刊)やE.G.レターマンの『販売は断られた時から始まる』 (1964年刊) などは、新装版として何度も装丁を変え、判型を変えたりしながら現在に至るまで売れ続けてきている。また、1950年代からピーター・F・ドラッカー博士の経営学シリーズを一手に引き受け、現在もダイヤモンド社の大事なドル箱路線となっている。


katoya1908.3.jpg
アイアコッカの第2弾

・ドラッカー博士の本でもそうだったが、版権担当の斎藤勝義さんがこのアイアコッカの本の版権取得に、大手出版社の猛者に負けず奮戦してくれたことも特筆しておかねばなるまい。斎藤さんは、版権代理店の日本ユニ・エージェンシーをすっとばして、自宅から米国の版元であるバンタム・ブックスの版権担当者であったピアジェ女史に直接電話して売り込んでくれたりもした。そのかいあって、編集者だった僕は勇躍、アメリカに飛び、アイアコッカ本人とその弁護士と直に会い、契約にこぎつけることができたのである。両者のサインを受け、ゲラの一部を日本へ持って帰ることで、大手出版社との版権取得競争に決着をつけることができた。大手出版社がいくら切歯扼腕しても、ことここに至っては敗北を認めざるを得なかったのである。このアメリカ出張に際し、思い出に残る1シーンがある。それはワシントンの日本料理店で笹川良一氏とジミー・カーター前大統領が密談している光景を見かけたことであった。

  翻訳出版についても一言述べておきたい。すでに僕は自動車業界ものでベストセラーを出していた。『晴れた日にはGMが見える』(1980年、J.パトリック・ライト著)がそれ。普通だったら翻訳者として『晴れた日にはGMが見える――世界最大企業の内幕』をお願いした風間禎三郎さんに頼むところである。この本は、シボレーの売上げを伸ばし、いくたびかGMの救世主となって、GM史上最年少の重役に昇進した男が、次期社長を目前にして、突然同社を辞した。いったい何故なのか? 自動車業界の風雲児デロリアンの証言と弾劾は、王国の聖域「十四階」のヴェールを剥ぎ取った。デロリアンは、世界的にヒットした映画『バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ』に登場するタイムマシンのベースカーとして広くその存在を知られている。

・この本で翻訳をお願いした風間禎三郎さんに、『アイアコッカ』でもお願いしようかと考えたのは当然であった。しかし、風間さんの場合、一つネックがあった。風間さんは翻訳の仕事に取りかかっても、スムーズに波に乗れないことがある。すると、翻訳を放り出して、釣り竿を持って近くの浅川に日参することがよくあった。発行日を念頭において、締め切りを守ろうとする立場からすれば、とかく編集者泣かせの部分があった。1週間も新しい原稿がいただけないとなれば、ストレスも溜まろうというもの。あれやこれやと今後の道を探っているうち、この『アイアコッカ』の翻訳は、新規軸として、関西弁を駆使した新鮮味と、自動車好きの翻訳者であった、新進気鋭の徳岡孝夫さんにお願いすることにしたのである。

  実は、それより20年も前に遡る1965年の本だが、徳岡孝夫さんの著になる『太陽と砂漠の国々――ユーラシア大陸走破記』という本を読んでいた。その時の印象が強く、自動車関係の本だったら徳岡孝夫さんにお願いしてみたい、と僕なりに思っていたこともある。それに徳岡さんは翻訳が手慣れてうまい上に、早いという噂で、編集者からすれば大変に魅力であった。『晴れた日にはGMが見える』を超える販売実績を摑みたいというコケの一念だった。そして『アイアコッカ』の初版部数が4万部に決まった。この初版部数であれば、ちょっとした広告宣伝費もかけられるとほっとしたものだ。実際に、版を重ねる度に、有識者や本の読み手がどんどん増え、思ったよりダイヤモンド社の経費負担は少なくて済んだ。結局、最終的に『アイアコッカ』の実部数は、70万部を優に超えたのである。

  話は変わるが、イギリス出身のジャーナリストで、ニューヨーク・タイムズの東京支局長だったヘンリー・スコット=ストークスの著になる『三島由紀夫 死と真実』の翻訳をお願いし、徳岡孝夫さんの名訳には感服していたことも後押しした。日本文学界の鬼才、あの三島由紀夫が、なぜ自衛隊市ヶ谷総監部を占拠し、最期は切腹自決するに至ったのか? 偉大なる芸術家である彼の生い立ちから最期の時までをヘンリー・スコット=ストークスが詳しく取材編集したドキュメント本であった。そもそも徳岡さんが三島由紀夫とごく親しかったこともあり、とてもいい本に仕上げることができた。僕はこの本が気に入っていたので、清流出版で復刊したほどである。

katoya1908.4.jpg
ダイヤモンド社の本

・さて、アイアコッカの話に戻るが、彼はイタリア移民の子として生まれ、プリンストン大大学院修了後の1946年に米フォード・モーターに入社している。アイアコッカが開発を主導した低価格のスポーツカー「マスタング」は、1964年の発売直後から若者の間で爆発的に売れた。この成功が評価され社長にまで上り詰めたが、創業家と対立して、1978年に解任された。同年、ライバル社のクライスラーに請われて社長として入社し、1979年に会長に就任している。低燃費小型車の開発遅れと日本車の追撃を受けて、5億ドルの累積赤字と史上最大の在庫を抱えたレームダック状態であったが、アイアコッカは、矢継ぎ早に大ナタを振るって企業体質の改善に努めた。アメリカ議会を説得して政府の債務保証を取り付けた上で、なんと自らの年俸を1ドルにカットする。人員削減や小型車強化策を断行し、石油危機の影響で販売不振にあえいでいたクライスラーの黒字化を果たすことになるのだ。

katoya1908.5.jpg
清流出版で復刊した三島由紀夫本

  この再生手腕によって「カリスマ経営者」として名をはせ、結局、自伝『アイアコッカ』は世界累計で700万部を超える大ベストセラーとなったわけだ。その日本語版でレジェンドの一翼を担うことができたことに僕は誇りを持っている。『アイアコッカ――わが闘魂の経営』は結局、増刷に次ぐ増刷となり、最終的には99刷となった。しかし、この大ベストセラーがありながら、ダイヤモンド社出版局全体ではその期の損益バランスは、なんと赤字だったのである。販売本部も『アイアコッカ』だけを増刷しながら売っていれば、営業的に問題はなかったはず。しかし、出版局としてそうはいかない。他の出版物が目論見通りには売れずに足を引っ張ることになった。

  しかし、嬉しいことにタイミングよく助っ人が現れた。新潮社の前田速夫さんである。前田さんは、当時、雑誌『新潮』の編集長であった。『アイアコッカ』は充分にダイヤモンド社の米櫃を潤わせてくれたが、更に、版権が前田さんの仲介によって新潮社に売れることになった。『アイアコッカ』はダイヤモンド社で99版を達成したが、100版は新潮社に任せればよいと僕は決断した。これによって、ダイヤモンド社は印税をしこたま稼ぐことかできた。印税が3割、新潮社から振り込んでくる。2度美味しい単行本企画となったのである。ちなみに前田さんは東大英文科卒の俊英であった。大学時代はボクシング部に所属していたと言う。僕も趣味と言えばボクシングだった。大学3年生の時、後楽園ジムで、生物学者アルビン・R・カーンに1年間教えを受けたこともある。カーンさんはあの白井義男の名トレーナとして知られた方である。前田さんの話に戻すと、その後数年して前田さんは新潮社を退社、民俗学者・歴史研究者となり、『渡来の原郷――白山・巫女・秦氏の謎を追って』(2010年、共著)をはじめ、『白山信仰の謎と被差別部落』(2013年)、『異界歴程』(2016年)、『北の白山信仰 もう一つの「海上の道」』(2018年)などの他、最新刊は今年2月に『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』を刊行されるなど、素晴らしい研究実績を残しておられる。僕は『アイアコッカ』の出版によって、出版の世界の面白さと怖さを十分に思い知らされることになった。

・アイアコッカは著書でこう語っている。「自分が絢爛たる人生を送ったことを、私は否定しない。私にチャンスをくれたのはアメリカであり、私はその機会を掴んだ。私は一夜にして有名になったテレビ・スターではない。40年近い勤勉努力によって、今日に至ったのだ」と。フォード社を首になったアイアコッカの契約書には、フォードを辞職した場合には、新しい職が見つかるまでオフィスを一つ与えるとあった。その新オフィスとはケチな倉庫の中であった。小さな部屋に小さな机と電話があるだけ。そして彼の秘書ドロシーが目にいっぱい涙をたたえていた。アイアコッカがシベリアに流刑になった気分だったというのも理解できる。人間は逆境に立たされた時、凄まじい反発力が生まれることがあると言える。アイアコッカがまさにそれだった。「内心の苦痛は忍ぶことができる。だが、公衆の面前で侮辱された私は、怒り狂った」と書いているが、アイアコッカの反発力は凄まじかった。電光石火というべき速さの、退社からわずか2週間後に、クライスラー社長に就任したのである。こうしてレジェンドとなりえたのだ。

・アイアコッカが、日本へ来たことについても話しておこう。日本語版は1985年1月1日に発売開始されたが、売れ行きが好調だったので来日したのである。翻訳者の徳岡孝夫さん、ダイヤモンド社の川島譲社長、版権担当者の斎藤勝義さん、編集担当の僕が帝国ホテルのスイートルームに呼ばれたのである。その時の写真撮影は許されていなかったので、残念ながら証拠写真はない。徳岡孝夫さんはビジネス英会話も堪能な方である。アイアコッカと丁々発止と早口で話し続け、アイアコッカが何度も頷いていた。僕は、アイアコッカの燻らせたシガー、見たことのない長い太巻きの葉巻の方に気をとられ、「日本での本の売れ行きは、あっという間に30万部を達成したが、翻ってクラスラーの車は100台も売れていない。社長の権威が丸つぶれとなった」と嘆息していたところしか記憶に残っていない。話は変わるが、ある時、アイアコッカご自慢のイタリアのワイナリーで熟成されたワインがダイヤモンド社に届けられた。「VILLA NICOLA BRUNELLO DI MONTALCINO 1981 bottled for LEE IACOCCA PRODUCT OF ITALY」というラベル。僕はそのワインをまだ試飲していない。訊けば、斎藤勝義さんもまだ飲んでいないという。万感の意がこめられたこのワインである。僕は体調がそろそろ危なくなった時に、このワインを飲み干そうと思っている。

katoya1908.6.jpg
徳岡孝夫さんと僕

  最後に徳岡孝夫さんについて触れておきたい。僕の人生の公私共において、一番大切な人が徳岡孝夫さんである。ダイヤモンド社でお付き合いが始まり、今日まで実に35年以上の長きにわたり親しく交情を深めてきた。思い起こせば、徳岡さんにはどんなに助けられたことか。筆舌に尽くしがたいほどである。月刊『清流』にも長い間、ホットなニュース解説を連載していただいたが、目が不自由になって字が見えないと聞けば、無理に原稿執筆をお願いするわけにはいかない。やむなく連載を下りて頂いた。僕も両目ともに白内障の手術をしたが、目が不調だと気分が萎えるものである。これだけ科学技術、医学が発達した世の中である。何か特効薬や画期的治療法が発見されても不思議はない。徳岡さんと再び、コンビを組める日がこないものだろうか。僕はそんなささやかな夢を見ている。

菅原匠さん

清流出版 (2019年6月30日 11:35)

katoya1907.1.jpg

・この時期、僕が楽しみにしているイベントがある。伊豆大島に在住の染色家で陶芸家でもある菅原匠さんの個展である。「藍染めとやきもの展」が、今年も5月29日(水)から6月3日(月)まで、松屋銀座8階の「イベント・スクエア」で開催された。僕はほぼ毎年、この個展を楽しみに出かけているが、いつものメンバーの斎藤勝義さんの都合がつかなかったので、臼井雅観君と二人で見に行くことにした。連日、蒸し暑くて過ごしにくい日が続き、気分が萎えてしまいかねなかったのだが、会場は「藍染」の涼やかな間仕切りや暖簾が掛けられ、涼しげな展示がなされほっとしたものだ。例年のごとく会場内は熱気に満ち、多くのご婦人たちでにぎわっていた。

 

katoya1907.2.jpg

涼しげな藍染の間仕切り

  僕は菅原さんの藍染作品ややきものの新作も楽しみだが、実は来場者にも興味がある。もちろん、中年以上のご婦人方が圧倒的に多いのだが、結構、妙齢の女性も訪れるのだ。数年前のことになるが、菅原さんの藍染ファンで、気に入った作品があると購入しているという若い女性にお会いした。この若さでしっかりとした審美眼をお持ちなのに感心したので、記念に写真を一緒に撮らせてもらった。日本的な美人のその女性は、後日、お送りした月刊「清流」を気に入ってくれ、その後定期購読者になってくれたのである。僕には大変嬉しい出来事だった。この女性にこのイベント会場で、またお会いできるかもしれない、そんな楽しみも後押ししてくれたのも事実である。

・菅原さんの藍染めは、下書きをいっさいせず、指描き・筒引きによって、のびやかで大胆なユニークな紋様を描くのが特徴とされる。麻布を使ったり、科布を使ったりして、趣の異なる表情を楽しめるようになっている。常連のお客さんが引きも切らず訪れる合間に、菅原さんとしばらくお話することができた。僕がお聞きしたかったのは、世に出るきっかけを作った菅原さんの熱烈な後援者、白洲正子さんとのお付き合いである。白洲さんには、かなりな点数の藍染作品を買って頂いたというが、個人的にどんな印象をお持ちなのか、興味が尽きなかったからだ。20分程度であったが、僕の聞きたかったことは、大体、お聞きできたと思っている。ちょっと変則的だとは思うが、なかなかいいお話だったのでこの場を借りてご披露したい。

 

katoya1907.3.jpg

下書きなしで描くユニークな紋様


katoya1907.4.jpg

大胆な構図が生きている

  白洲さんが菅原さんを知るきっかけになったのは、織司の田島隆夫さんである。白洲さんは、銀座で「こうげい」という店を経営していたことがあるが、地機織という独特の織り方で織られた田島さんの反物を気に入り、優先的に仕入れていた。そして田島さんが余技で描いた書画にも惚れており、現代画廊の須之内徹さんと二人、田島さんの絵の展覧会を毎年、後押ししていたのである。田島さんの自宅は埼玉県行田市にあったが、白洲さんと須之内さんは、毎年行われる展覧会用の作品選びに、田島さんの自宅を訪ねていた。その際、菅原匠さんの藍染の暖簾が掛かっていて魅せられたのである。白洲さんは当時、婦人雑誌「ミセス」に《つくる》という連載を持っており、そこで紹介しようと思ったらしい。紹介の労をとってくれるよう田島さんに依頼したのだ。

・菅原さんは当時、まだ埼玉県大宮市の実家に住んでいた。実家は大きな老舗の呉服屋であり、その次男坊であった。どっしりとした構えの店で、店先には、菅原さんが制作した見事な暖簾が掛かっていた。白洲さんはこの取材をきっかけに、母堂と意気投合したというから面白い。店のことは菅原さんが「肝っ玉母さん」と呼んでいる母堂がすべて取り仕切っていた。白洲さんが惚れるほどである。母堂はなかなかの人物だったようだ。菅原さんは店の裏に藍甕を建て、そこで藍染をしていた。「匠は何をやってんだか、あたしにゃちっとも分かりませんよ」といいながらも、時々、仕事場を覗いたりする。そっけないように見えながら、お互いに信頼し合っているのが伝わってきたという。そんなつかず離れずの親子の距離感を白洲さんは大いに気に入ったのだ。若いうちは、好きなことを試行錯誤しながらも、行くべき道を探ればいいといったおおらかな育て方が、白洲さんの心にも響いたということであろう。

 この時、菅原さん本人は、取材らしい取材は受けなかったという。まあ、白洲さんのような審美眼の持ち主は、存分に話などしなくても相手の技量のほどはお見通しであった。菅原さんはこの頃すでに、町中では落ち着いて仕事ができないからと、伊豆大島に土地を購入し、すでに普請に取り掛かっていた時期でもある。だから月の半分は、伊豆大島で仕事をしていた。初めて白洲さんが菅原さんに依頼した藍染作品は、印半纏だったらしい。お気に入りの京都の職人さんがいて、プレゼントしたいからと依頼したものだった。印半纏の素材は厚手なので、藍染には苦労したらしい。しかし、出来上がったものを納めると、白洲さんは大層気に入ってくれたという。


katoya1907.5.jpg

仏像のやきもの依頼も増えている

・菅原さんは何度も白洲邸にも遊びに行き、気心も知れてきた。その頃に依頼されたのが、「市女笠」の暖簾である。菅原さんによると、白洲さんは富岡鉄斎が愛用していた硯の墨だまりが、市女笠の形をしていたとかで、とても気に入っていた。これを藍染で表現できないものかと依頼してきたのである。菅原さんは二つ返事で引き受けたという。なぜなら、いいものを収める自信があったからだ。その自信の裏付けを尋ねて、僕はなるほどと思った。実は伊豆大島の工房には、藍甕が六つ、七つあるらしいが、その屋根が市女笠の形なのだという。つまり菅原さんの大好きな形でもあったのだ。その後も白洲さんは、菅原さんの「科布藍染筒引富士山文暖簾」「自家織麻布藍染指描月文暖簾」など、藍染作品を愛用し続けたことでも知られている。


katoya1907.6.jpg

白洲邸の「市女笠」

  昭和57年4月、白洲さんはその菅原さんを伊豆大島に訪ねている。田島隆夫夫妻と連れ立ってであった。そのときの桜の絶景について白洲さんは、こう書いている。《家の背後には、一面に桜の咲いた山々がつらなり、風が吹くと、家も庭も花吹雪につつまれる》と。桜はもちろん、敷地内にもあり、地元の大島桜が何種類かと琉球緋寒桜がメインである。菅原さんは、毎年、その枝を切っては束ね白洲さんに送っている。白洲さんは、その桜を鎌倉時代に焼かれた常滑の大壺や信楽焼きの大壺に生けては楽しんでいたらしい。

・こうして白洲さんが交遊録などで、菅原匠さんのことを書くようになり、菅原さんはメジャーになっていった。実は、菅原邸の見ものは桜吹雪だけではない。庭造りを楽しむ菅原さんは、庭に三百何十種類もの椿の樹を植えているのだ。寒椿の咲く頃には、借景の山々と溶け合ってそれは見事なものらしい。そして庭のあちこちには、石像や自作の三重塔の焼き物が置かれている。借景には緑濃い山々が連なり、もう一方には海が近く、潮騒が聴こえる。まさにうらやむばかりの環境下で藍染と焼き物作りを続けてきたのである。麗子夫人に聞いてみると、広い敷地内を行ったり来たりしていると、1日1万歩を歩くのはザラだという。残念ながら、僕は体が不自由なので現地で見ることは叶わないが、想像するだけでも楽しい。

  菅原さんは、マスコミに取材されるようになり、昭和63年3月号「太陽」では藍染している仕事場風景が紹介された。この号では全国から15人の染織作家が特集されていた。誌面では、麗子夫人と囲炉裏端でくつろぐ菅原さんの写真が掲載されたのだが、その壁に藍染に「どう考えてもたかが染っぺら」と書いた白抜きの言葉が躍っていた。それを見た白洲さんは、すぐに菅原さん宛てに手紙を書いている。《「どう考えてもたかが染っぺら」は本当にそうなんです。そして、奥さんもいいし、暖簾もいいし、囲炉裏も見事な味付けになっている。ちゃんと住んでいるという風で、おめでとうございます》と書き送っている。羨ましくなるような関係ではないか。


katoya1907.7.jpg

定番の巾着・マフラーなども目を引いた

「一流は一流を知る」という言葉があるが、白洲正子さんが見出した菅原匠さんのケースもそれであろう。白洲さんの「遊鬼」(新潮社)には、わが師わが友として、深い交流をしてきた多くの名が出てくる。田島隆夫、早川幾忠、小林秀雄、青山二郎、須之内徹、梅原龍三郎、福原麟太郎、鹿島清兵衛……などなど、白洲さんのお眼鏡にかなった人がいた。もちろん、菅原さんもそのお一人であった。市女笠を購入したとき白洲さんは「余韻を聞く」(世界文化社)にこう書いている。《多くの説明は要るまい。物事はすべてバランスにあると、近頃私は思うようになっているが、それは目に見える色や形だけのことではなく、目に見えぬ時間もその中に入る。そういうものをこののれんの上に見て下されば事は足りる。》こうして見出された菅原さんは、さらなる進化を遂げている。最近、依頼が増えたという陶芸作品などその最たるものだ。これからも麗子夫人と二人三脚で、いい作品を発表し続けて欲しいと切に願うものである。

吉沢久子さん

清流出版 (2019年5月28日 21:02)

katoya1905.1.jpg
吉沢久子さん

・吉沢久子さんが、今年2019年3月21日、心不全のため101歳で亡くなられた。吉沢さんには弊社としても随分お世話になっただけにとても残念である。吉沢さんは幼い頃に両親が離婚したので、母堂に女手一つで育てられた。しかし、子供ながらに養育費の援助を受けての生活を情けなく思っていたと。自立心はそんなところから育まれたものと思われる。吉沢さんは、手に職をつけようと考えた末に速記者を志す。速記を学ぶ学校に1年ほど通い、速記をマスターしてしまう。「速記学校に残ってしばらく勤めましたが、フリーランスになりました。職業婦人の日給が60銭から80銭といわれた頃に、速記者は1時間で7円頂けました」というから、先見の明があったといわざるを得ない。戦時中は『海と空』という雑誌の座談会に速記者として同席し、原稿に仕上げることをしたらしい。昭和26年、朝鮮戦争勃発の翌年になるが、評論家の古谷綱武氏と結婚する。結婚式などはせず、親戚に紹介されただけだという。義弟となったのは毎日新聞論説委員でTBSのニュースキャスターなどを務め活躍をされた古谷綱正氏である。
 
katoya1905.2.jpg  
27歳から書き始めた戦時下の日記
 
・弊社で出版させていただいたのだが、吉沢さんは戦時中、日記を書いていた。これは綱武氏が戦地に赴く際に、書いておくよう求められたものだ。当時、家族も疎開して無人になった留守宅を、20代の秘書が守った記録ということになる。空襲が激しくなった戦争末期、そこへ毎日新聞記者だった弟の故・古谷綱正氏が社員寮の空爆で住めなくなったからと同僚と移り住み、男性3人を下宿させる非常時の留守居役をかねた。綱武氏の原稿料等が振り込まれると疎開先の家族へと送金、下宿人のためにヤミ物資の購入などもやってのけ、あるじの復員まで家と生活を守り抜いた奮闘記でもある。「ヤミ物価や入手方法など、面白いのよ。これを活字にしておきたくて」とおっしゃっていたが、確かに資料的な価値も認められる貴重な日記となった。

katoya1905.3.jpg
月刊『清流』に3年間連載されたものを刊行
 
・古谷綱武氏は敗戦の直前に満州から帰国し、平和になってからは婦人論などを書いたのが好評で原稿料が入ってきた。マスコミ関係の訪問者も多く、吉沢さんは鳥の丸焼きを作ったり、大鍋いっぱいのけんちん汁を作ったりした。すると、その料理を簡単に紹介してくれませんか、などといった原稿依頼があり、いつの間にか生活に密着したテーマで書く仕事が増えていった。元々、ご本人は、童話作家になりたいという夢があった方なので、原稿執筆はまったく苦にならなかったという。そうこうするうち、NHKに勤めていた友人からラジオ番組の「若い女性」で台本を書く仕事を依頼される。テレビ放送が始まると、TBSの「テレビ婦人教室」の番組台本を書く仕事、さらには台本を書いて司会もとキャリアアップしていくのである。

  昭和30年代は「もはや戦後ではない」といわれ、日本経済が急速に発展した時期にあたる。一般家庭にも洗濯機や炊飯器が出回るようになり、女性は厳しい家事労働から解放されるようになる。吉沢さんの活躍の場が一気に増えた。どうしたら炊飯器でも、薪で炊いたご飯と同じように美味しく炊けるか、メーカーが工夫をする中でアドバイスを求められた。電化製品ばかりではない。新型の鍋や台所用品なども出回り、その上手な見分け方や使い方を実際に使ってみて体験的にアドバイスをするなどの仕事もしている。着実に家事評論家としての地歩を築いていった。

katoya1905.4.jpg
月刊『清流』で掲載された対談を単行本化したもの

・吉沢さんの略歴に触れておこう。1918年、東京都江東区深川のご出身で文化学院文科卒業。1941年に速記者から始まり、古谷綱武氏の秘書を務めてから出会ったことをきっかけに1951年に結婚。綱武氏が10歳年上だった。秘書時代は文化学院、東京栄養学院、東京学院に学んだ。生活に関することを経験に生かし評論家となったが、1969年に「“家事評論家”廃業宣言」と書き話題となる。1969年、綱武氏は気心の知れた仲間と勉強会「むれの会」をスタートさせている。会費は一ヶ月5000円で毎月第2日曜日に開催してきた。参加者はそれぞれテーマを決め、勉強した成果を発表し会報も出してきた。この会は綱武氏が亡くなった後も吉沢さんが引き継ぎ続けてきた。

  常時集まるのは12、13人だったという。女性のみならず、県庁を定年退職した男性なども参加していたというから、面白い会であったようだ。すでにこの会も400回以上続いたというから凄い。メンバーの1人であった阿部絢子さんは、物の捨て方をテーマに発表したが、その成果が『モノを整理してスッキリ暮らす』として単行本になっている。研究テーマもレベルが高いものだったことが、このことをもってしても推測される。夫の死後は一人暮らしをしていたが、例えば蔵書の整理なども見事なものである。綱武氏、吉沢さん共に資料としてかなりな数の本を所蔵していたが、「むれの会」のメンバーのツテで福井県春江町立センターの図書館に「古谷綱武・吉沢久子文庫」を作ってもらい、すべて寄贈したという。この辺りも見事な断捨離だと感心するばかりだ。

katoya1905.5.jpg
弊社の単行本が文春文庫になった

・弊社関連本としては、共著の形での刊行も多く、岸本葉子さんとの『ひとりの老後は大丈夫?』(清流出版、2011年、のちに文春文庫)。笹本恒子さんとの『はつらつ! 恒子さん98歳、久子さん95歳 楽しみのおすそ分け』(清流出版、2013年)。上坂冬子さんとの『年をとる楽しみ まぁるく生きるかトンガッて生きるか』(清流出版、2002年)がある。また、『ていねいな暮らし ここちよい生活歳時記』(清流出版、2006年)、『あの頃のこと 吉沢久子、27歳。戦時下の日記』(清流出版、2012年、のちに『吉沢久子、27歳の空襲日記』文春文庫、2015年)などがあり、増刷になったり、他社で文庫化されたりして、いずれも弊社の財産となっている。

katoya1905.6.jpg
元気なお二人の対談は今も耳朶に残る

・綱武氏亡き後、一人暮らしを貫いた吉沢さん。微笑ましい趣味の持ち主でもある。実は僕は競馬が大好きだが、なんと吉沢さんも競馬をするというのだ。「実は乳業協議会というところのお仕事に関連していたせいか、団体で競馬見物のお誘いを受けまして府中競馬場に行きました。最初は怖気づいていたんですが、競馬場の雰囲気が洒落ていることと、何より馬の走る姿が素晴らしくてはまりました。馬券も勝ち馬の予想はできないので、好きな名前の馬を買っています」と楽しんでおられる。吉沢さんのお年で競馬などといえば、ギャンブルは不道徳といった印象があるはずなのに、競馬を楽しんでしまうところが素晴らしい。好奇心が旺盛で、世間的な評価などに左右されないのだ。

  吉沢さんはライフワークとして「台所の戦後史」に取り組んでおられた。台所革命は電気釜から始まったといわれる。そして洗濯機が普及する。冷蔵庫、洗濯機、テレビは三種の神器とあがめられた。それに合わせて、台所はどう変化を遂げていったのか、大変興味あるところだが、その後の進展についてはどうなっているのか。研究成果を知りたい気がする。僕が知らないだけで、活字になっているのなら、是非、読んでみたいと思っている。吉沢さんは僕も親しかった清川妙さんとも対談し、『八十歳をすぎてわかってきた大切なこと』(海竜社、2004年)という本を刊行している。僕が敬愛していたこのお二人とも鬼籍に入られた。なんとも残念なことである。ご冥福をお祈りしたい。

メインページ | アーカイブ
検索
2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
カテゴリ