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佐藤初女さん

清流出版 (2017年6月27日 14:46)

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佐藤初女(はつめ)さん

・前回、僕は鈴木秀子(シスター鈴木)さんについて書いたが、実は関連して、どうしても書いておきたい人がいる。それが青森県で「イスキアの家」を主宰していた佐藤初女(さとう・はつめ)さんである。初女さんは、残念ながら2016年2月に鬼籍に入られ、今は亡い。そもそも初女さんは、龍村仁監督作品「地球交響楽(ガイヤシンフォニー)第2番」に登場して、一躍人口に膾炙するようになった。龍村仁さんに初女さんを紹介したのが、外ならぬシスター鈴木だった。映画の中での初女さんは、ごく自然体であった。東北の豊かな四季を背景に、雪の下から蕗の薹を優しく掘り出したり、梅干し用の梅を干したり、ご飯を炊いておにぎりを握ったり。当時、73歳だった初女さんの穏やかな日々の営みが、淡々と映像で綴られていただけだった。どのシーンでも印象的だったのが、初女さんの物に触れるときの手の優しい動きである。生まれたての赤ちゃんに触れるとき、人は傷つけまいとして無意識にとる手の動き。そんな優しさが表れていた。

    シスター鈴木は、数回、青森県弘前市の初女さん宅を訪れている。月刊『致知』で対談もしている。初女さんは最初、弘前の自宅を開放して活動していた。素朴な素材の味をそのままに頂く食の見直しによって、心の問題も改善することができる、との考え方を実践していたのだ。同じカトリック信者でもあり、シスター鈴木は初女さんのこの活動に共感を覚えた。食に対する思いに感じ入ったシスター鈴木は、初女さんの夢であった、森の中に憩いの場を作りたいとの実現のため募金活動を開始する。初女さんを母のように慕う全国のファンからの後押しもあって、1992年10月、岩木山麓に「森のイスキア」が完成する。初女さんの念願の夢がここに叶ったのである。ちなみに「イスキア」とは、イタリア西南部のナポリ湾の西に浮かぶイスキア島の名前から採られたもの。実はイスキア島には、こんな逸話があった。ナポリの富豪の息子で、何不自由ない暮らしをしていた青年が、この島を訪れて司祭館に滞在し、贅沢三昧だった生活から、自分を静かに振り返ることを学んだ、というエピソードである。シスター鈴木は、この逸話に感動し、この家を「イスキアの家」と名付けたのだ。

・初女さんの性格は、シスター鈴木が日本に普及させたエニアグラムによれば、タイプ9に分類されるという。タイプ9の解説文にはこうある。
 
【何事にも心を乱されたくない、平穏を愛する者です。人の望みを優先し、相手に共感する能力が高いので、聞き上手です。対立する複数の意見があれば白黒付けずに公平な視点で整理し、天性の調停者として振る舞います。穏やかで、うんうんと頷きながら話を聞く姿勢は皆が好感を持ち、周囲に落ち着きと安らぎをもたらす事でしょう。癒し系と評価される事も多いかもしれません。動物、温泉、運動が好きな事が多いようです。また繋がっているという感覚を大切にするため、道路や線路が繋がっているのが一目で分かる地図や路線図などを好む場合もあります。興味がある物を収集するのも好きです。また、人の内面を感じ取る才能を持ち、その色に染まる傾向があります。周囲が明るく活発であれば活発になり、落ち着いた知的な雰囲気であれば物静かで知的になります。相手の悩みや喜びまで感じ取れるので、他者をまるで自分自身のように支える事ができ、周囲に癒しと安らぎを与え、対立を鎮める潤滑油として機能します。】
 タイプ9のプロフィールはまさに初女さんそのものである。

 
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すり鉢で胡麻を擂る佐藤初女さん
 
・初女さんは1921年、青森市に生まれ、青森技芸学院(現在の明の星高等学校)を卒業後、3年間小学校教員をし、1944年に勤務校の校長だった佐藤又一氏と結婚している。又一氏にはすでに3人の子があり、再婚だった。その後、初女さんは教職を退き、弘前市内に在住して、ろうけつ染めの指導などをし、1964年より15年間、弘前学院短期大学で非常勤講師として家庭科の教鞭をとっている。1979年には、弘前染色工房をオープンさせている。
 
    女学校時代、胸を患ったことが初女さんの人生の方向性を決めた。喀血を繰り返しながら17年間の闘病。その体験が「食べる」ことと深く関わって、生きるきっかけとなった。 「その頃、注射や薬の効き目は些細なもので、これでは治らないということを感じていた。反対に、美味しい食べ物を頂いたときには体内の細胞が躍動するように感じ、注射や薬に頼るのでなく、食べることで元気になろうと思うようになっていった」。17歳での発病以来、自然と少しずつ体を動かせるようになっていく。「もう闘病は終わったとはっきり実感できたのは35歳ぐらいのころ。健康であること、そして働けることへの喜びと感謝の気持ちでいっぱいだった。これ以上の幸せはない、これからは何をすることも厭わないと心に決めた」。
 
・初女さんの心には、幼い頃の思いが刻まれている。それは、近所の教会の鐘の音に惹かれ、何度も教会の前に佇んだ記憶である。“誰がどこで鳴らしているのか”と不思議に思ったという。その後、初女さんは老人ホームを訪問したり、様々な生と死の出会いを重ねるうち、「心だけは人に与えることができる」との結論に思い至った。そこで自宅を開放し、ろうけつ染めを教えるかたわら、心を病んだ人々を受け入れることにした。これが「イスキアの家」のスタートであった。

    多くの出会いから深いものを受けとってきた。≪『私、苦しいんです』と訴える人に対し、頭であれこれ考えても、本当の解決にはなりません。『そう、苦しいね。でも、もっと苦しまなくちゃ』って伝えるときもある。もちろん、私も活動を続ける中で、心の葛藤が生まれることがしばしば。そんなときは苦しみを否定せず、自分の心を真っすぐ見つめ、苦しみを感じきることを大切にしてきた。苦しんで苦しみ抜いて、もうどうにもならない、というところで『神様におまかせ』すればいい≫。

・「一期一会という言葉通り、私たちはそのときの限られた時間しか触れ合えません。疲れたと思いながら会えば、その気持ちが相手にも伝わるので、心を素早く切り替え、いつも新鮮な気持ちで会うこと。それを大切にしている」という。「また、どんなときも自分の都合を優先せず、その人が求める形で出会いたい。何かに取り組むとき、ある限界までは、誰でもできる。けれども、その一線を越えるか越えないかが、大きな違いになる。そして1つ乗り越えると、また限界が出てくる。そのように限界を1つずつ乗り越えることによって、人は成長するし、その過程は生涯続くもの。確かに、このような生き方は大きな犠牲を伴うし、時々自分でも厳しいなあと感じるときがある」。

    以来、「食はいのち」を標榜し、心のこもった食事を提供し、悩める人の話に耳を傾けた。評判は評判を呼んで、国内はもとより 海外からも、迷い、疲れ、 救いを求めて訪れる人が後を絶たなかった。 初女さんのおむすびを食べて自殺を思いとどまった青年がいる。 食べることは、「命」をいただくことだと気づく高校生がいる。悩める若人に伝説のおにぎりで知られるように、食事を通して生きる勇気を鼓舞してきたのだ。
 
 
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岩木山麓に佇ずむように建つ「イスキアの家」

・初女さんの語録は、雑誌や本でも披露されているので、ご存じの方も多いだろう。弊社の月刊『清流』にも「ひと欄」でご登場いただいている。特に僕の印象に残った言葉を取り上げてみよう。

「長い冬に耐えて、雪解けとともに芽ばえた“ふきのとう”の生命をいただいて、おひたしや天ぷらを作る。ただ『美味しく食べさせて上げたい』という心を込めて料理した時、その蕗の薹の生命が、“美味しさ”になって食べる人の生命を活かし、心を癒してくれる」
「お漬物が呼ぶ。もうこの石は重いって。だから夜中でも起きて、小さい石に取り替える」
「放っておけば腐ってゆく自然の生命に、手を加えることによって、別の生命となって生きて頂く。お料理とは生命の移し替えなのかも知れません」
「私の祈りは“動”の祈り。毎日毎日の生活の中にこそ祈りがある」
「自分が喜びに満たされると、人は必ずその喜びを分かち合いたいと思うようになる。霊的な喜びこそ、人間の最大の喜び」
「食事することが『生きる』そのもの。茹でるとか、切るとか、味付けするって、どれ1つ、おろそかにできない。『調理すること』が『生きる姿』そのものだと思う。ごはん炊くのだって、米の研ぎ方とか、スイッチを入れる時間とか、もちろん水加減、できたときのほぐし方、よそい方、ご飯1粒ひとつぶが呼吸できるようにって。食べてみて初めて見えない何かを感じてくれる」
  「食材は特別なものでなく、身近で手に入るもので作る。やはりそれを美味しく作るというところ、それしかない。食べると心の扉が開いて、順々に話し出してくれる。話していると、自分自身で答えを見つけていくもの」
    このように、初女さんの生きとし生けるものへの慈愛に満ちた言葉は、見えない世界を見ているようで実に奥が深い。


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ある日の「イスキアの家」の食事。伝説の真っ黒なおにぎり

・初女さんの台所での動作はゆっくりに見えて無駄がない。必要な速さで動いていることに気付く。お手伝いの数人のスタッフとの間に柔らかな緊張感が流れている。ふわりとして「凜」。例えば食材を茹でている場合、切り上げ時の一瞬を決して逃さない。慌てるふうもなく、しかも速い。この瞬間を初女さんは「いのちの移し替えの瞬間」と呼ぶ。私たち人間は地球上の色々な「いのち」を食べて生きている。食べるもの、すべてが生き物である。「いのち」が「いのち」を食べている。
 
「食材を、ただ『もの』だと思うのと『いのち』として捉えるのでは、調理の仕方が変わってくる。ものだと思えば、ただ煮ればいい、焼けばいいのですが、いのちだと思えば、これはどうすれば生かせるだろうか、になる」。
  「調理の間は意識を集中しないと、食材のいのちと心を通わせることができない。野菜を茹でていると、大地に生きていたときより鮮やかに輝く瞬間がある。そのとき、茎は透き通っている。その状態を留めるため、すぐに水で冷す。透明になったとき火を止めると美味しく、血が通うお料理ができる。素材の味が残るだけでなく、味が染み込みやすいときでもある。野菜がなぜ透き通るかといえば、野菜が私たちのいのちと1つになるため、生まれ変わる瞬間だから。それを≪いのちの移し替えの瞬間」と呼ぶ。」
「蚕がさなぎに変わるときも、最後の段階で一瞬、透明になる。焼き物も同じ。焼き物に生まれ変わる瞬間、窯の中で透き通る。透き通ることは、人生においても大切。心を透き通らせて脱皮、また透き通らせて脱皮というふうに成長し続けることが、生きている間の課題ではないか」

    僕は初女さんと直接、お会いしたことはない。しかし、ご縁を感じている。そもそも、詩人・エッセイスト堤江実さんが企画提案して佐藤初女さんの語り下ろしの本を作ろうと思っていた。だから出版部の臼井雅観君を編集担当に、堤さんと「イスキアの家」に取材に行ってもらった。2泊3日の出張から帰った2人から、初女さんのことを色々と聞いたので、僕もお会いしたような気分になった。臼井君は食事の準備を手伝ったらしい。笊をもって庭に出て、生えているシソの葉を摘み、クルミ和えを作るためのクルミを金槌で割って中身を取り出す作業をした。あの真っ黒なおにぎりの作り方にはビックリしたらしい。まず、釜を覗き込みながら、水加減の調整をする。お米の顔を見ながら、微妙に水を足したり引いたり。炊き上がりのご飯はといえば見事に立っている。そのご飯に初女さんが漬けた梅干しを入れ、心を込めて一つひとつ握る。そして、ご飯の白い色が見えなくなるように、海苔で優しく包む。こんな心のこもったおにぎりだからこそ、食べた人の心に染み入る。自殺を思い留まったり、生きる気力がわいてきたり、来たときと帰るときの顔付きが、まるで違っているというのだから。本当に惜しい方を亡くしたものである。
    最後に、初女さんを知るきっかけを作ってくれたシスター鈴木に感謝を、また、天国の佐藤初女さんには、長い間、お疲れ様でした、と言ってあげたい。

鈴木秀子さん

清流出版 (2017年5月26日 12:51) | コメント(0) | トラックバック(0)

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・僕が敬愛する鈴木秀子(シスター鈴木)さんには、まだ一度しかお会いしたことはない。弊社から『「こころの目」で見る』(2004年刊)を発刊させていただいた際、ご挨拶を交わしただけだ。しかし、そのときのインパクトは、僕の心に強く焼き付いている。明るく軽やかで、少女のような愛らしさがあった。ニコニコと笑顔を絶やさず、人の心を和ませるオーラが出ていた。そんなシスター鈴木の書いた本である。この本の要諦は、モノやお金にこだわっている限り、本当の幸せは手にできない、ということ。「こころの目」で見ることとは、見えない世界に目を向けることである。そしてその見えない世界にこそ大切なものが隠されている。つまり「肝心なことは、目に見えない」ということなのだ。

「肝心なことは、目に見えないんだよ」の言葉は、フランスの作家で飛行士でもあったサン=テグジュペリの書いた『星の王子さま』の一節にある。『星の王子さま』は児童文学であるが、大人向けのメッセージに満ち溢れている。目に見えるものが必ずしも真実とはいえず、心の目で見ること、子供のように曇りのない目で見ることの大切さなど、教えが随所に散りばめられている。人は、正しくものを見ているようでいて、自分にとって損か得かという自己中心的で自分勝手な見方でしか物事を見ていないことが多い。だから、往々にして何が本当で何が偽りなのかを見極めることができないのだ。

 
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・現代社会に生きる私達は、目に見えるものばかりに心を奪われ、数値ばかりを追い求めてきた。その典型が経済至上主義の考え方である。その結果、大切なものを見失い、目に見えない多くのものに支えられていることに気付かない。今こそ、物質的な豊かさではなく、心の豊かさ、心の糧を大切にすべき時期にきている。そして、一人ひとりが、物事の本質、真実の姿、本当に大切なものを見つけていかなければならない。そのためには、純真な心と真実を見定める智慧の眼が必要となるのだ。

『「こころの目」で見る』に挿入された例話が素晴らしい。例えば、森鷗外の傑作に数えられる『じいさんばあさん』という短編小説がある。老夫婦の「互いへの敬意と自立」がよく描かれている。人を殺めて流刑の身となった72歳の夫・伊織が、37年ぶりに「永の御預御免」となって江戸に帰ることになり、71歳の妻「るん」に再会する。流れた37年という歳月は、「あの二人は隔てのない礼儀があって、夫婦にしては少し遠慮をしすぎているようだ」という言葉に表れている。シスター鈴木は、この1行には、読み返すたびに強く心を打たれると書いている。武士として、武士の妻として、一生礼儀をわきまえて生きてきた人の、磨きあげられた輝きが感じ取れるというのだ。高齢社会を迎えた日本では、夫婦の自立が求められる。多くの日本人夫婦の場合は、男性の自立が問題なのだという。その意味でこの小説の夫婦は見事なまでに自立していて、感動を覚える。顧みて、僕も、妻に依存し過ぎのきらいがあり、反省をさせらた小説であった。
 
 また、「幸田露伴が中国の古書『陰隲録』(いんしつろく)から学んだ大切なこと」の挿話を挙げている。『陰隲録』とは、明代、呉江の人で、嘉靖年間から万暦年間を生きて、74歳で亡くなった袁了凡(えん・りょうぼん)が自己の宿命観を乗り越えて、自ら運命を創造してゆくことを悟った、その顛末を書いた本である。人生には、宿命、運命、立命があり、いかにして宿命から脱し、自らの運命に立ち向かい、さらに自ら立命となすのか、シスター鈴木は平易な文章で解説している。僕がまったく知らなかった話であり、とても興味深く読んだ。人生は宿命論だとするならば、どうあがこうと、あらかじめ路線は決まっている。しかし、自らの意志で人生を創造でき、立命に至ることができる、となれば話は違ってくる。例話の袁了凡は、自らの人生を創造し、立命に至っている。そういった元気が出るような例話が、この本には散りばめられている。是非、手に取って欲しい本である。

・ここで、簡単にシスター鈴木のプロフィールに触れておく。1932年、静岡県の生まれ。聖心女子大学文学部を経て、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。文学博士。聖心女子大学文学部教授(日本近代文学専攻)を経て、国際コミュニオン学会名誉会長。聖心会会員。日本に初めてエニアグラムを紹介した、その道の第一人者である。

 シスター鈴木の最新刊『わたしの心が晴れる』(七つの森書館刊、2017年3月)では、見えない世界について触れている。それによれば、命というものは平等に与えられ、しかもすべての命が深いところでつながっている。その命というのは、人間だけに留まらず、生物、動植物から、生きとし生けるもの、そして地球(ガイア)、宇宙まで、すべてを含めてだという。これこそが、「目に見えない世界」の根本原理である。シスター鈴木によれば、大切なことは、見えない世界と見える世界との関係をきちんと理解し、しっかり根を張った上で、見える世界で各人が個性を発揮し、活躍することが望まれている。仮に、見える世界だけに気を取られ、地位や財力を最優先した行動を取れば、人を蹴落とすような醜い争いばかりになりかねないというのだ。

 シスター鈴木の“幸せ観”とは、他の人や、生き物と、深い絆で結ばれていることを実感できるときという。すべての人たち、動物、草花、命あるすべてのものとの共通点は何か、それは、みんな一つの願いで生きていること。すべて命あるものが「幸せになりたい」との願いをもって生きているのである。では、幸せになるにはどうすればいいのか。まず、自分を愛することが第一番だと説く。自分を受け入れ、愛している人からは、気持ちの良い波動が出ているもの。良い波動の人のそばにいれば気持ちがいいし、悪い波動の人のそばにいれば居心地が悪い。だから自分を許せない人は、まず自分を許すことから始めればよい。それができれば、放射される波動も良くなり、黙っていても周りの人と調和できるようになる。自らが幸せになることが、周りの人々を幸せにする第一歩なのだ。シスター鈴木のいう意味は、僕もこれまで多くの著名人に会ってきた経験から、実感としてこれは理解できる。良い波動の出ている人のそばにいれば触発されるし、確かに気持ちがいいものなのだ。

・人間という宝石箱には必ず宝石が入っている、とシスター鈴木はいう。外側ばかり見ていると、自分の魅力に気づかない。宝石箱とは誰にも等しく与えられた魂であり、この魂によって、存分に自分の命を輝かせていく。それがこの世に生まれてきた人間すべての使命だという。現在、悩みや苦しみにある人には、理解しにくいかもしれない。しかし、現状は現状として受け入れ、目の前にあるものから楽しみを見出そうとすれば、必ず見つかるはずだという。

 目が覚めてみてありがたい。ご飯が食べられてありがたい。命があってありがたい。このような当たり前のことを、奇跡のように有難いことだと気づくことができれば、自分が今、悩んだり苦しんだりしていることが幻想であったとわかる。僕は人生とは苦しみや悲しみを乗り越えるため、自分を厳しく鍛錬するため、と思っていた時期があるが、シスター鈴木は、それは違うという。まさに人生は楽しむために与えられているのであり、その時その時、より楽しんだ人生こそ、よい人生となり得るという。実にポジティブになれる言葉で僕は感動を覚えた。


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・ちょっと寄り道するが、僕は妻が海外旅行で不在だったとき、「ショートステイ」で10日あまり、ある介護施設にご厄介になったことがある。そこの図書室で、鈴木秀子さんと玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)さんの対談本を見つけた。『仏教・キリスト教 死に方・生き方』(講談社+α新書刊、後にPHP研究所刊)というタイトルだった。当時、ちょうど玄侑宗久さんが月刊『清流』で連載中だったこともあり、この対談を僕は大いに楽しんで読んだ。カトリックの聖心会シスター鈴木秀子さんと、仏教の臨済宗僧侶玄侑宗久さんが、お二人の宗教的基盤を超えて、素晴らしい対談をされていた。シスター鈴木はこの対談を「祝福に満ちた節理」であった、と述べている。読者である僕も、この本を読んで限りなく幸せ感を味わった。玄侑さんも「やはり宗教は人なのだ」「我々は充足した『今』を過ごし続けた。驚きも喜びも共感も、『今』にあった」と、お二人の対談を総括されている。「どんな宗教も、深く掘り進むと同じ水脈に通じるという昔からの思いが、今回確信になった」と述べているが、僕もこの感想に同意する。

・シスター鈴木が就職したころは、“自分らしく働く”という価値観は、女性にとっても男性にとってもまだ一般的なものではなかった。現代のように性別に関係なく仕事を選べる時代ではなかったし、女性が社会で働きに出ること自体珍しいことだった。男女ともに“こうあるべき”と進むべき道が決まって、選択肢が少なかったともいえる。

 しかし、人生を豊かに生きようと思ったとき、自分が幸せを感じることとより多く接点をもっていた方がいいことは明白である。そしてそれは、シスター鈴木にとってそれは学びであり、教えることだった。好きなことをとことん突き詰めていったら、60年も続けられる仕事に出会えたということであろう。ただ、シスター鈴木のように好きなものが明確になった人ばかりではない。やりたいことがコロコロ変わってしまう人、自分が最も興味のもてることが何かが分からなくなっている人、“世間体”のように、さして重要ではないものに執着している人もいる。それではダメで、自身のことを深く理解していなければ、組織の中で意にそまない仕事をしながら心身を病んでしまうことになる。シスター鈴木はこれまで多くの人の悩み相談に乗ってきた経験から、自分の本心を欺いて世間の評価を尊重している人が幸せであったためしがないという。

・自分のことをよく理解している人は、単調な仕事やつまらなく思える仕事も、どうしたら楽しくなるかを考えて行動する。そうすると、仕事の成果にも違いが出てくるのは理の当然である。では、自己理解を深めるためにはどうすればいいか。大事なのは、頭でただ考えるのではなく、自分の好きなものや幸せを感じる瞬間のことをひたすら書き出してみることだ。騙されたと思って、自分が好きだと感じることやものについて100個書いてみると、自分自身の傾向が見えてくるはずという。

 また、自分が普段、どんなものにお金と時間をかけているのか。書き出してみることも、自己理解を深める手助けになる。自分にとって価値のあることは何なのか。思いつくままに書き出してみると、その中にきっと軸になるようなものが見つかるはずだという。それが、自らの心を満たし、人生を豊かにしてくれるものなのだ。当たり前のことのように思うかもしれないが、書き出してみないと、その当たり前のことにさえ意外と気付かない。だから、20代、30代の女性たちには、意識的にでも自分自身としっかり向き合う時間をつくってみてほしいとシスター鈴木は提案するのだ。

・もう一つ、自分にとって価値あることを見つけるコツ。それは「聖なるあきらめ」という考え方だという。執着を手放す「諦め」と、物事をはっきりとさせる「明きらめ」の両方を行う、よい意味でのあきらめのことである。すると、目先のことや、見栄、お金、褒められることなど、部分的なことに捕らわれないようになる。ここで改めて、“自分らしく働く”とは何か。その答えは、自分の心が何によって満たされるか知り、それを仕事として周囲に役立てることだといえる。どんな仕事をしていようと、どんなワークスタイルであろうと関係ない。世間からの評価に左右される必要も一切ないのだ。

 これからの時代、女性たちのキャリアは結婚しようが出産しようが長く続いていく。専業主婦になる選択ができる人なんてそうそういない。ライフステージが変わって、自分を取り巻く環境が変化する度に、「これからどうすればいいのだろう」と不安に襲われる女性も多いはず。けれども、自分の心が何によって満たされるのか、自分自身が分かっていれば大丈夫とシスター鈴木は説いている。どんな状況に置かれても、自分で自分を安心させ、楽しませることができるという。

・僕が特に興味をもっているのは、シスター鈴木の傾聴を土台にしたコミュニケーション能力についてである。自らの著書の中で、自動車王ヘンリー・フォードの言葉を例に挙げて説明している。フォードは「成功の秘訣というものがあるとすれば、常に他人の立場を理解し、自分の立場と同時に、相手の立場でものを見る能力である。効果的に聴くことができれば、相手の立場に立って物事を見ることができる」と語っている。このようにヘンリー・フォードは「聴く」ことを非常に重要視し、「聴く」ことによって成功の秘訣としていたのである。

 コミュニケーション能力の重要性が、今ほど真剣に叫ばれている時代はない。企業は、社員のやる気や創造性、個性や自信を引き出して、生産性を高めようとしている。また、国境を越えたグローバル化の中で、有能な人材が活躍できる企業風土の改革にも取り組みつつある。「コミュニケーションの達人」というと、かつては話し上手で、面白い話ができたり、的を射たアドバイスができる人のことをいっていた。コミュニケーションの能力の比重は、「話す」ことに置かれていたのだ。

 ところが近年、「話す」ことより「聴く」ことにその比重は移りつつある。いかに「聴き上手」になるかが、コミュニケーションの最重要テーマとされるようになってきている。また、上司や先輩など指導する立場にある人が、自分のアドバイスや意見を部下や後輩に受け入れてもらうのは、想像以上に難しいことになりつつある。人は情報を一方的に伝えられていると感じると、往々にして拒絶感をもつようになるからだ。その反対に、自分の話をよく聴いてくれる上司の意見は、驚くほど部下も素直に受け入れるものなのだ。人の話を「聴く」ことができれば、相手に届く言葉で、アドバイスや意見を述べることが可能になる。
 

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・シスター鈴木は、ターミナルケア・グリーフケアにも永年たずさわり、「聴く」ことの重要性を説いてきた。この考え方は多くの著名人からも支持されている。「聴く」ことの価値は、広く認識されつつあるが、どのように「聴く」かについては、十分な知識をもっている人は、ビジネス世界でも決して多いとは言えない。そして、いまだに「聴く」ことの価値に気づいていないビジネスパーソンも、実は沢山いるのである。『愛と癒しのコミュニオン』 (文春新書刊)には、アクティブ・リスニング(傾聴)という言葉が出てくる。つまり、だれかが意見を言い、ほかの人がそれを聞くとき、ふつうは聞く人の心の中に賛成か反対か、どちらかの反応が動くもの。また、多くの人たちは、ただちにその賛成や、特に反対の意見を外に表したい気持ちにかられるものだ。しかし、真の傾聴とは、こうした賛成や反対の気分をすべて沈黙させねばならない。他人の話を聞き、それに自分なりの明確な意思表示や評価を行うことを、私たちは、知的な態度だと教わってきた。人から何かの意見を聞いた時に、賛成や反対を示せるだけの知識や知恵を持たねばならないと指導されてきた。それができるかできないかが、知恵のある者か、ない者かの指標とされることが多かったのである。

・しかし、オーストリアのルドルフ・シュタイナーも語っているが、他人の言葉に耳を傾ける際の望ましいあり方は、「自分自身の内なるものが完全に沈黙するようになる習慣」を身に付けることだという。それも「批判しない」「同情しない」「教えようとしない」「評価しない」「ほめようとしない」。これがアクティブ・リスニングの要諦ということらしい。これは言葉では簡単そうだが、実際にやってみるとかなり難しいと思う。完全に沈黙するなど、とてもできそうにないからだ。僕もサラリーマンとして、また、小さい会社ながらも経営者として仕事をしてきたが、人間関係の難しさは痛感してきた。風通しがよく、気持ちよく仕事に打ち込める環境を築き上げるには、上に立つものが聴くことの重要性を知ることが必要不可欠だと思う。「聴く」技能を高めていけば、人間関係は良好になり、新しい出会いと、チャンスが生まれてくるはずというシスター鈴木の言葉が腑に落ちるのだ。「聴く」技術を身に付けて、コミュニケーションにおける摩擦やギャップ、混乱を解消できれば、ビジネスにおいても飛躍的な成果をあげることができるのだ。

『心の対話者』 (文春新書刊)でも、聴く能力の大切さが語られている。家庭生活や学校、職場での人間関係に悩む人がいる。病気や高齢のため不安のうちに日々を過ごしている人がいる。私たちの周りには、心を閉ざしたまま孤立感を深めている人が大勢いる。こうした苦しみの中にいる人たちの心の叫びを、共感をもって受け入れ、その人たちが再び生きる意欲を取り戻せるよう側面からサポートするのが「心の対話者」である。この「心の対話者」に必須の能力とされるのが、「聴く」能力というのだ。これにより、人間関係は良好になり、新たな気づきと出会いが生まれてくる。

・激動の時代を迎え、ビジネスマンたちは、生き残りをかけた闘いを繰り広げているが、何か満たされない感じや空回りばかりしている感じにさいなまれている。会社に守ってもらいたいという願望や過去にしがみつきたいという衝動に囚われているビジネスマンも少なくない。自分の生き方、自分の生かし方がわからない日々は、あまりに心もとないのだ。確かに現在、生き方の手本を見つけるのは難しい。こんな状況下で自分を生かすための知恵としてスポットを浴びたのがエニアグラムである。エニアグラムは、二千年以上の歴史をもつ非常に神秘的な人間学だ。そしてその高度な知恵は、現在まで生き続け、現代人に譲り渡された。エニアグラムの概念を日本に初めて持ち込んだのが、シスター鈴木である。その目指すところは、人々がよりよく生き、自らの能力や個性を最大限に生かすための知恵を提供することにある。

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 ・エニアグラムについて書いた『9つの性格 すべての人は、9つのタイプに分けることができる』(PHP研究所刊、2004年)は、発売されるやすぐに大きな話題を集め、44万部を超えるベストセラーとなった。このエニアグラムは、世界各国で科学的に検証され、日米の一流企業でも神秘の人間学“エニアグラム”として人事研修にも採用されている。タイプを分ける20の質問に答えれば、あなたが、(1)完全でありたい人、(2)人の助けになりたい人、(3)成功を追い求める人、(4)特別な存在であろうとする人、(5)知識を得て観察する人、(6)安全を求め慎重に行動する人、(7)楽しさを求め行動する人、(8)強さを求め自己主張する人、(9)調和と平和を願う人、の中でどのタイプかがわかる。自分のタイプを知り、こだわりや恐れから解放されれば、自らの能力と個性を最大限に生かすことができる。さらに、相手のタイプを知り、長所と短所を見極めれば、その人に合った対応の仕方がわかり、良好な人間関係も築くことができる。まさに、新しい生き方を実現するための“人生の地図”といえるのだ。

 シスター鈴木は、まだ「マインドフルネス」という言葉が日本で知られる前から、こうしたエニアグラムの効果的な利用の仕方など、幸せを手にするためのセミナーを各地で開催し、多くの悩める人たちを救ってきた。いつに変わらぬその献身ぶりには、頭が下がるばかりだ。また、何かの機会にお会いできればと思うが、シスター鈴木はお忙しいし、僕も体が不自由なので行動範囲が制約される。だから僕の叶わぬ夢かもしれない。ただ、これだけはお伝えしておきたい。今後ますますお元気で、ご活躍をされ、多くの悩める人たちを救ってくださることを、衷心よりお願いするものである。

渡部昇一さん

清流出版 (2017年4月26日 10:13) | コメント(0) | トラックバック(0)

・保守派の論客として知られた英語学者・評論家・上智大名誉教授の渡部昇一(わたなべ・しょういち)さんが、心不全のため、この4月17日に亡くなった。享年86だった。お年を召してはいたが、天皇陛下の生前退位を巡る有識者会議のメンバーとして発言されたり、お元気そうだったので僕はこの訃報にショックを受けた。僕の古巣ダイヤモンド社で、月刊誌のため数回会った。清流出版では直接、姿を拝見したのは、ビジネス茶を提唱した荒井宗羅さんの著による『和ごころで磨く』(1997年6月刊)を弊社から出させていただいたとき、出版記念パーティにゲストとしていらっしゃっていた。以来、また渡部さんと僕の付き合いが始まった。実際は金井雅行君が担当で、毎回の連載は順調であった。僕の知っている渡部さんの家は練馬区関町南だったが、金井君の話だと、2007年からは杉並区善福寺の所へ引っ越しされたそうだ。その庭に素晴らしい鯉を何匹も買っていた。渡部さんは、専門は英語学者であったが、保守本流としての歴史論、政治・社会評論活動には目を見張るものがあった。こうした評論については、保守系オピニオン系雑誌である『正論』や『諸君!』『WiLL』『voice』『致知』などのメディアへの寄稿が多かった。

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大ベストセラーとなった『知的生活の方法』(講談社刊)

・僕は渡部さんの日本の近現代史の見直し論や、歴史認識問題への発言に注目していた。物議をかもしだした発言が多い中でも、特に記憶に残るのは、盧溝橋事件は中国共産党の陰謀であるとし、戦前の学校で習った歴史の見方の方が正しかったと主張していた。また、南京大虐殺に関し、「ゲリラの捕虜などを残虐に殺してしまったことがあったのではないか、こういうゲリラに対する報復は世界史的に見て非常に残虐になりがちだ」と殺害事実は認めたものの、「ゲリラは一般市民を装った便衣兵であり、捕虜は正式なリーダーのもとに降伏しなければ捕虜とは認められない。虐殺といえるのは被害者が一般市民となった場合であり、その被害者は約40から50名。ゆえに組織的な虐殺とはいえない」とし、虐殺行為は無かったと結論づけていた。

    慰安婦問題にも言及している。朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治の偽証を朝日新聞が何度も取り上げたこと、中大・吉見義明教授の慰安婦問題捏造報道、日本の弁護士の日本政府への訴訟、日本政府の安易な謝罪などが重なったことが原因で騒動になったものであり、国家による強制や強制連行はなく、捏造であることが証明されていると主張した。これには後日談があり、2007年、アメリカ合衆国下院による慰安婦に対する 日本政府の謝罪を求める対日非難決議案(アメリカ合衆国下121号決議)に対して、日本文化チャンネル桜社長(当時)の水島総が代表を務める「慰安婦問題の歴史的真実を求める会」が作成した抗議書に賛同者の一人として署名している。

・渡部さんは、1930年、山形県鶴岡市の生まれ。上智大学大学院西洋文化研究科修士課程を経て、ドイツのミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)大学院博士課程を修了している。専攻は英語文法史であった。1975年に刊行のウォルポール時代のイギリスを例に取りつつ、政治的腐敗が必ずしも国民の不利益につながらないことを明らかにした『腐敗の時代』(PHP研究所刊)で日本エッセイストクラブ賞を受賞。また、1976年に出版された、読書を中心にした内面の充実を求める生活を実践してきたことを背景に、さまざまなヒントとアイデアを示した『知的生活の方法』(講談社刊)が大ベストセラーとなった。

    この本の発行部数はなんと累計118万部ということで、講談社現代新書シリーズの最大ヒット作だったという。また、大島淳一というペンネームで、ジョセフ・マーフィーの成功哲学を日本に紹介したことでも知られる。主なるジョセフ・マーフィーの訳書には、『マーフィー100の成功法則 』『マーフィー 眠りながら巨富を得る―あなたをどんどん豊かにする「お金と心の法則」』『眠りながら成功する―自己暗示と潜在意識の活用』(いずれも知的生きかた文庫刊)などがある。

 交友関係では、堺屋太一・竹村健一の両氏とは交流が深く、3人で講演会を催したり共著を出版したり、『三ピン鼎談 平成日本の行方を読む』(1990年2月、太陽企画出版刊)を刊行したこともある。また、谷沢永一氏とは共に蔵書家であり、思想的に共感できることが多かったこともあり、多くの共著を出している。渡部さんはテレビでもよくお顔を拝見した。竹村健一氏との掛け合いは面白かった。「竹村健一の世相を斬る」(フジテレビ)にゲスト出演していたのが懐かしく思い出される。また、自身の番組、石原慎太郎、加藤寛、田久保忠衛、岡崎久彦といった著名人を招いての対談番組「渡部昇一の新世紀歓談」(テレビ東京)、渡部昇一の「大道無門」(日本文化チャンネル桜)もやはり対談番組で、各界の著名人を招き、歴史、政治、時事問題などを語り合うホスト役を務めておられた。

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『ワタナベ家のちょっと過剰な人びと』(海竜社)

・渡部さんは、若い頃から音楽に深い関心はなかったようだが、夫人が桐朋学園音楽科の1期生でピアニストだったこともあり、3人のお子さんが全員音楽家となっている。クラシック音楽ファンの僕には、羨ましい限りの家庭環境だ。『ワタナベ家のちょっと過剰な人びと』(2013年2月、海竜社刊)という本がある。著者の渡部玄一さんはチェリストで、渡部昇一さんのご長男だ。母親がピアニストで姉もピアニスト。弟はヴァイオリニストという家族の来し方が描かれている。玄一さんは、桐朋学園大学を卒業し、同校研究科を卒業後、1993年、米国ニューヨークのジュリアード音楽院を卒業したエリートである。

 その本によれば、渡部さんは、子どもたちに幼い頃より独特な教育を課していたらしい。一日一つの『論語』を学ぶ、百人一首の暗記、縄跳びと、始めたら一日も欠かさず続けさせられたという。そのお陰で、毎日、必ずやり切る! というパワーを叩き込まれ、どんな厳しいレッスンにもめげることなく果敢に挑戦することができたと玄一さんは述懐している。家族五人でのエディンバラでの生活は愛に満ち、家族の絆を強くしたようだ。そんな家族愛を証明するかのように、渡部昇一、渡部玄一両氏の共著で交互にエッセイを綴った『音楽のある知的生活』(PHPエル新書刊、2002年)も出している。

・該博な知識の持ち主であり、個人の蔵書では群を抜く充実ぶりでも知られた。その蔵書数は実に14万冊を超えるというから半端ではない。渡部さんは、古書の蒐集家でもあり、専門の英語学関係の洋書だけでも約1万点を所有していた。その蔵書目録だけでもA4判600ページにも及んだという。1963年、愛書家で、本のコレクターであることを原則に発足した“国際ビブリオフィル協会”があるが、1999年に日本でこの大会が開催されたのを機に、渡部さんが会長となり“日本ビブリオフィル協会”を発足させている。

 本の買い方も豪快そのものだったようだ。『知的生活の方法』の印税で懐が温かだった渡部さんは、エディンバラに滞在していた時、オークションでトラック1台分の希少本を落札したという。自宅に書庫を増設したが、居住空間を侵され始めた夫人が、「ウチには『本権』はあるのに、『人権』はないのですか!」と反対したという逸話も残されている。ちなみに蔵書数でいえば、井上ひさしさんや阪神大震災前の谷沢永一さんの蔵書は20万冊、立花隆さんは10万冊、丸山眞男さんは3万冊ともいわれている。

 日本ビブリオフィル協会会長は稀覯本コレクターで知られる渡部さんにピッタリのジャンルだが、その他に務めていた主な役職としては、インド親善協会理事長、日本財団理事、グレイトブリテン・ササカワ財団(日本財団のイギリスにおける機関)理事、野間教育財団理事、イオングループ環境財団評議員、エンゼル財団理事、「日本教育再生機構」顧問等があり、実に多岐にわたって活躍されていたことがわかる。2015年には、瑞宝中綬章を受章している。

・最後に渡部昇一さんの盟友宮崎正弘さんの弔辞から抜粋してご紹介したい。渡部さんの情の深い人間的な温もりが伝わってくる見事な弔辞である。

【振り返れば、初対面は四半世紀以上前、竹村健一氏のラジオ番組の控室だった。文化放送で「竹村健一『世相を切る』ハロー」という30分番組で、竹村さんは1ヶ月分をまとめて収録するので、スタジオには30分ごとに4人のゲストが待機するシステム、いかにも超多忙「電波怪獣」といわれた竹村さんらしいやり方だった。ある日、呼ばれて行くと、控え室で渡部氏と会った。何を喋ったか記憶はないが、英語の原書を読んでいた。僅か十分とかの待機時間を、原書と向き合って過ごす人は、この人の他に村松剛氏しか知らない。学問への取り組みが違うのである。そういえば、氏のメインは英語学で、『諸君!』誌上で英語教育論争を展開されていた頃だったか。

 その後、いろいろな場所でお目にかかり、世間話をしたが、つねに鋭角的な問題意識を携え、話題の広がりは世界的であり、歴史的であり現代から中世に、あるいは古代に遡及する、その話術はしかも山形弁訛りなので愛嬌を感じたものだった。近年は桜チャンネルの渡部昇一コーナー「大道無門」という番組があって、数回ゲスト出演したが、これも一日で二回分を収録する。休憩時に、氏はネクタイを交換した。意外に、そういうことにも気を遣う人だった。そして石平氏との結婚披露宴では、主賓挨拶、ゲストの祝辞の後、歌合戦に移るや、渡部さんは自ら登壇すると言い、ドイツ語の歌を(きっとお祝いの歌だったのだろう)を朗々と歌われた。芸達者という側面を知った。情の深い人だった。

 最後にお目にかかったのは、ことしの山本七平授賞式のパーティだったが、氏は審査委員長で、無理をおして車椅子での出席だった。「おや、具体でも悪いのですか」と、愚かな質問を発してしまった。

 訃報に接して、じつは最も印象的に思い出した氏との会話は、三島由紀夫に関してなのである。三島事件のとき、渡部さんはドイツ滞在中だった。驚天動地の驚きとともに、三島さんがじつに偉大な日本人であったことを自覚した瞬間でもあった、と語り出したのだ。渡部さんが三島に関しての文章を書かれたのを見たことがなかったので、意外な感想にちょっと驚いた記憶がふっと蘇った。三島論に夢中となって、「憂国忌」への登壇を依頼することを忘れていた。合掌。】

小林薫さん

清流出版 (2017年3月28日 13:00) | コメント(0) | トラックバック(0)


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小林薫さん

・今回ご紹介する人は、あのNHKの大河ドラマ『おんな城主 直虎』に出演中のベテラン俳優・小林薫さんではなく、同姓同名の国際経営評論家・産能大学名誉教授の小林薫さんだ。1931年、東京生まれ。東京大学法学部を卒業し、フルブライト・プログラムでマンハッタン大学に留学、経営学を学んだ。興亜石油、日本能率協会から月刊誌『プレジデント』(1963年創刊、ダイヤモンド・タイム社=当時、現在プレジデント社)の編集部に所属、日米会話学院(同時通訳科、秘書科主任)を経て、産能大学経営情報学部教授になった。専門は国際経営評論であり、ピーター・F・ドラッカー博士に関しては特にお詳しい。僕はダイヤモンド社に勤めていたが、その子会社であるダイヤモンド・タイム社に勤めていた小林さんとは、仕事上の接点があった。後で触れるが、二十代後半の頃、年齢で9歳上だった小林さんと、さる会場で講師を務めたことがある。

・今、小林さんに注目したのには訳がある。先日(3月16日)、日本経済新聞(日経BP社)に、小林薫訳の『ハイアウトプット マネジメント HIGHOUTPUT MANAGEMENT――人を育て、成果を最大にするマネジメント』(アンドリュー・S・グローブ著)という本が半五段広告で大きく告知されていたのだ。調べてみると、amazon第1位(ビジネス・経済 実践経営・リーダーシップ 経営学 2017年3月14日)にランキングされていた。インテルの元CEOのアンドリュー・S・グローブが書いた本である。あのドラッガーも絶賛していたが、シリコンバレーのトップ経営者層に読み継がれている伝説の名著だ。ベン・ホロウィッツ(あらゆる困難《ハード・シングス》へ立ち向かう人に知恵と勇を与える本『HARD THINGS』の著者)が、「世界最高の教師による 世界最高の経営書だ」と序文を寄せている。そんな広告のキャッチ・コピーが僕の目に飛び込んできて、僕はとても嬉しかった。小林さんは僕が兄事すべき存在だったからだ。

・小林さんは英語にすこぶる堪能であり、当時、英語でビジネスを語る際には、必ずといっていいほど名前が挙げられる方であった。現に『プレジデント』を辞めた後、NHK教育テレビで「英語ビジネスワールド」の講師として、また同じNHK教育テレビで「英語で勝負」にも出演されている。その「英語で勝負」の内容は、英語交渉術のABC(日本の「常識」は「非常識」)に始まり、交渉の前提としての自己主張のあり方、クレームという名の交渉法、子供はなぜ交渉上手か? Win/Win交渉への道、前向き交渉成功のカギ、人も歩けば客に当たる、雄弁こそ金なり――「会して議する」ビジネス会議等々、ビジネスマンのニーズに応える内容満載の番組だった。

    アメリカのASTD(American Society for Training & Development=米国人材開発機構)は非営利団体で、訓練・人材開発・パフォーマンスに関する世界最大級の会員制組織だったが、日本人として小林さんは早くも1981年に入会されている。その他にも、ドラッカー学会、国際ビジネス研究会、組織学会、米国教育訓練学会、欧州経営開発学会などに所属し、米国経営近代化学会(SAM)国際理事兼日本支部長、人材育成学会副会長などを務めていた。また、P・F・ドラッカーとは約50年に及ぶ親交を結び、ダイヤモンド社から刊行されたドラッカーの『21世紀の企業経営』(ビデオ8巻+解説書)の総監修や、『経営の新次元』『新しい経営行動の探求』などの訳出も行なっている。

・弊社でも、外国版権担当顧問の斎藤勝義(元ダイヤモンド社)さんを通じて小林さんとコンタクトを取ることにした。小林さんとP・F・ドラッカーの自宅を訪問し、アメリカのブックフェアでも行動を共にし、親交があった斎藤さんを介して、単行本の執筆をお願いしたのだ。結果的に、弊社から小林さんの翻訳で経営書を二冊と、産能大学教授の退官を記念して一冊本を書き下ろしていただいた。若い頃から僕が憧れた小林薫さん。その小林さんの本を、弊社から刊行できたことは、嬉しかった。

    そもそも弊社の単行本部門は、ビジネス分野をメインとはしていなかった。しかし、企業(ビジネス)倫理を追究する本は時代の要請でもあり、刊行することにしたのだ。最初の翻訳本は、『企業倫理の力――逆境の時こそ生きてくるモラル』(K.ブランチャード+N.V.ピール、2000年)だった。この本は、企業は利潤追求を優先すべきなのか、ビジネス倫理を重視すべきなのか。また、利潤追求とビジネス倫理は両立できるのかなど、企業倫理について考える実践書として秀逸だった。もう一冊は、『一度の人生だから――自分でデザインする生き方』(ロバート・オーブレー、2001年)。後悔しない人生を送るために、世界の知性が語った人生の奥義を披露したものである。この訳書には、小林さんが訳者補論として「空恐ろしくなるこれからのキャリア革命」(変化していく社会で、学ぶため、生きるために、学習することを学習する)について特別に論じている。

    退官記念に出した本は、『世界の経営思想家たち――ピーター・F・ドラッカーほか三十余人』(小林薫著、2005年)である。世界の経営思想を訳出してきた小林さんなればこその内容で、世界の経営学を俯瞰するとともに、そうした経営理論を日本がどう取り入れながら経済発展してきたかが一望できる構成となっていた。わけてもドラッカーとの交流歴をベースにしたまとめが素晴らしい。用意周到な小林さんらしく、脱稿直前にクレアモント(ロスの郊外)のご自宅に伺って、95歳の恩師ドラッカーと打ち合わせを済ませてきたという。

・詳しく説明すると、基本的には、日本的経営が世界から何を学び、どこへ向かおうとしているのかを追究したもの。世界の経営思想を見てきて、数多くの先進的な世界の経営思想を日本に紹介したが、その中から厳選した三十余名の欧米の学者、思想家、経営者たちの理論、概念などのエッセンスを浮き彫りにした。小林さんによると「読める小エンサイクロペディア・グロサリー」を狙った企画だ。特に「恩師」と仰ぐP・F・ドラッカー、グローバル経営コンサルタントである畏友スティーブン・H・ラインスミス(全米人材開発機構会長)、フランスを中心に活躍する国際的経営教育コンサルタントのボブ(ロバート)・オーブレーなどの理論、概念、ビジネスモデルなど、詳しく述べている。

    章立ては全9章から構成。著者は本書を通し、日本経済や経営システムの見直しや、革新が迫られている今日、これまでの理論や技法を振り返り、評価し、取捨選択し、次に進むべき方向を模索するための「新たなきっかけ」になることを願っていた。その意味で、期待に十分応える一冊であったといえよう。 


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『世界の経営思想家たち――ピーター・F・ドラッカーほか三十余人』


・小林薫さんの翻訳書は、目ぼしいものでは、『1分間マネジャー』(ダイヤモンド社)、『タバコ・ウォーズ』(早川書房)、『苦手な英語に自信がつく本』(ジャパン・タイムズ)、『問題解決と意思決定』(ダイヤモンド社)、『英語通訳の勘所』(丸善)、『ドラッカーが語るリーダーの心得』(青春出版社)、『会社の数字―英語表現完全マスター』(アスク)、『ビジネス英語の落とし穴』(丸善)、『知力創造社会』(産能大学出版部)などがある。

    冒頭の『1分間マネジャー ―‐何を示し、どう褒め、どう叱るか!』(K.ブランチャード著、ダイヤモンド社、1983年)は、発売と同時に、ベストセラーになって、多くのビジネスマンに読まれた。普通、「有能なマネジャー」は大抵、業績に関心を持つ「タフな独裁者」か、部下に関心を持つ「ナイスな民主主義者」のいずれかだが、どちらも失格である。「有能なマネジャー」とは、自分自身を管理し、一緒に働く人も管理し、組織や同僚にとって存在そのものが利益になるような存在でなければならないと言う。

    そして、「有能なマネジャー」に代わるものとして新しい概念を提案した。すなわち新概念の「1分間マネジャー」とは、部下から大きな成果を引き出すのに、ごくわずかな時間しかかけない。週1回のミーティングで、前週の実績、翌週の計画を確認する以外に時間を割かない。部下の仕事をよく分析して「1分間の目標設定」「1分間の称賛」「1分間の叱責」の3つを行なう。

    著者と訳者の小林さんとの相乗効果で、この1分間シリーズは、続編が誕生した。『1分間マネジャー 実践法――人を活かし成果を上げる現場学』(1984年)、『1分間リーダーシップ――能力とヤル気に即した4つの実践指導法』(1985年)、『1分間顧客サービス――熱狂的ファンをつくる3つの秘訣』(1994年)。最後の本だけは、僕のよく知っている門田美鈴(『チーズはどこへ消えた?』の訳者)さんの翻訳だったが、他はすべて小林薫さんの訳出で刊行されたものだった。


・話は変わるが、約50年前(僕がまだ二十代の後半)、僕はダイヤモンド社で、全子会社10社を含めた幹部社員を集めたコンベンションの演壇に立ったことがある。会場は千鳥ヶ淵の「フェアモントホテル」であった。たまたま僕の前に小林薫さんが講師として話をされた。小林さんは得意の英語を織り交ぜ、経営学の最前線の現状を披露された。僕が話したテーマは、「フランスの出版事情と高価格雑誌の可能性」だった。フランスの『レアリテ』誌や英米の高価格雑誌を研究する僕にとって得意なテーマだった。それにしても今にして思えば、子会社10社を含めた幹部クラス約80名の前で、まだ二十代のヒラ社員だった僕に発表の場が与えられたのは異例であった。子会社の『プレジデント』誌を出すダイヤモンド・タイム社の精鋭だった小林薫さんは、実に堂々と話をされたのを覚えている。僕もクソ度胸で話をしたが、いい思い出である。それから30年ほど経った56歳の時、僕は週5日、清流出版社長としてこの「フェアモントホテル」を定宿にしていたが、脳出血に倒れてしまった。あまりも一国一城を預かる身として、情けない! 「フェアモントホテル」は千鳥ヶ淵にあり、桜のシーズンには格好のお花見スポットとして知られたものだ。そのホテルも2002年、創業から約半世紀を経てホテルとしての使命を終えた。今は豪華マンションになっている。

 

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清流出版を訪れた小林薫さんと

・弊社の海外版権担当顧問(元ダイヤモンド社)の斎藤勝義さんは、小林薫さんとはドラッカーのつながりで長い付き合いだ。お二人の年齢は、現在、斎藤さんが83歳、小林さんが86歳。ダイヤモンド社の傍系で株式会社ポートエムPort EM [Port of Effective Management ] (代表取締役・国永秀男)という会社がある。この会社は、東京と大阪でドラッカー塾を開講している。P・F・ドラッカー教授の卓抜したマネジメント理論を企業経営にどう活かせばよいか、最終決定権のあるトップリーダーが身につけるべきマネジメントの真髄を徹底的に学ぶというのがコンセプト。それぞれのコースにおいて、膨大なP.F.ドラッカーの経営論の中でも、 核となる理論を捉え、分かり易く解説すると共に、実践の場では、どのような視点で考え、適用していくことができるのかを、具体的な事例をまじえて学ぶことになる。この会社のアドバイザーとして名を連ねていたのが、小林薫さん、斎藤勝義さん、上田惇生(ものつくり大学名誉教授、立命館大学客員教授、ドラッカー学会代表)さんの3人であった。

    ここからは、斎藤勝義さんから聞いた話をかいつまんでお伝えする――実は小林さんから斎藤さんに、ドラッカー研究をしている優秀なゼミ生3人をドラッカー博士に引き合わせたいのでアレンジしてくれませんか、との依頼があったのだという。それに加えて、前述したドラッカー塾の主宰者ポートエム社長の国永秀男さんからも、ドラッカー塾で討議された理論上の疑問点を直接尋ねたいとのことで、斎藤さんが日程のアレンジを託された。斎藤さんは、ファクスと電話でやりとりして日程を調整、最終的に2004年5月28日にアメリカ、クレアモントにあるP・F・ドラッカー博士のご自宅を訪問することが決まった。一行は小林さんグループが生徒を含めて4人、国永さんがご夫妻でということで、斎藤さんを含め7人での訪問となった。その日は気持ちよく晴れわたり、ドラッカー夫妻も温かく一行を出迎えてくれた。10時半から12時近くまで、和気あいあいとした雰囲気の中で疑問点を解決し、歓談してドラッカー宅を辞した。

    その後、一行はワイナリーなどを見学したりして、小林さん、斎藤さん、国永夫妻は夕方にはロサンゼルスの「ホテルニューオータニ」に戻った。ビールやワインを飲みながらの反省会は、大いに盛り上がったという。斎藤さんと国永さん夫妻は、翌日、朝9時半にはハリウッド見学に出かける予定であった。小林さんはというと、翌日、東京でのアポイントが入っているというので、朝8時半に迎えの車を手配して、その日のうちに日本に発つ予定だった。そして次の日の朝7時頃、斎藤さんと小林さんは一緒に日本食での朝食を済ませ、小林さんは8時10分にはロビーに降りると斎藤さんに伝えて部屋に戻った。斎藤さんと国永さんは、見送りだけでもしようと8時にはロビーに降りて待っていた。ところが約束の8時10分を過ぎ、30分になって、迎えの車も来ているのに、小林さんが一向に降りてこない。小林さんは時間に厳格な人で知られ、余程のことでもない限り遅れることなどない。

    そこでホテルのマネジャーを呼んで、小林さんの部屋をあけて調べてもらったところ、ドアの近くに身支度を済ませ、荷物も準備したままの格好で、小林さんが倒れていたというのだ。一目見て、脳梗塞か脳出血かが疑われた。手だけを動かして小林さんは、何かを伝えようとしていたが、その何かは分からなかった。これからが大変だった。時間との勝負になるからだ。至急、ホテルマンに救急車の手配を頼むとともに、日本の小林さんの家族にも連絡しなければならない。10分ほどで救急車が到着した。斎藤さんと国永さん夫妻は、その後の日程を変更し、ロスの病院まで同乗して行くことになった。アメリカの場合は、救急車といえども誰が支払いをするのかをはっきりさせ、サインしてからでないと動かない。「LAC+USC メディカルセンター」に到着してすぐに、専門医が診察をした。斎藤さんは付き添い、国永さんは旅行保険関係の問い合わせをする――。

    ご子息の小林豊さんが日本から駆け付けたのが翌日のこと。小林さんは病状が安定してくると、日本で治療して欲しいと切望するようになった。しかし、医師からは看護師が付き添いでなければだめだという。家族が手を尽くすも、同乗してくれる看護師の手配はつかず、アメリカでの入院は3週間にも及んだ。看護師をなんとか手配でき、受け入れ病院も聖路加に決まると、飛行機への搭乗が許され、ようやく日本の地を踏んだのである。小林さんは、リハビリ施設として一級の病院を選んだ。長嶋監督が入院したことで知られる「初台リハビリテーション病院」等でリハビリに精を出した。
 
    小林薫さんが一度、杖を突きながら弊社を訪ねてきたことがある。その時、僕が乗っていた電動車椅子を、興味津々の表情で見ておられたのを覚えている。

 そして今年、2017年、2月に入ってすぐのこと、斎藤さんはご子息の小林豊さんから衝撃の連絡をうけた。小林薫さんがお正月の1月1日に亡くなっていたことを知らされたのだ。小林さんは、1歳の孫娘に「明けましておめでとう」を言ったあと、上機嫌で食事をしている最中、かまぼこを喉に詰まらせて亡くなったのだという。僕と小林さんは同じように半身不随になり、同じようにリハビリをしてきたが、まさか喉に物を詰まらせて亡くなられるとは……。なんともやりきれない気持ちだけが残った。もう少し、お互い若かりし頃の話もしたかったし、ドラッカー博士から学んだことについて話もしたかった。残念としかいいようがない。衷心より、ご冥福をお祈りしたい。

藤島泰輔さん

清流出版 (2017年2月24日 11:43) | コメント(0) | トラックバック(0)

 

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ポール・ボネ、この外国人は誰? と当時は騒がれた! 実は作家・評論家、藤島泰輔(ジャニーズ事務所副社長メリー喜多川の夫)さんのペン・ネームだ。今は、ようやく堂々と言える。僕の大好きなポール・ボネ、いや藤島泰輔さん!

 

 

・僕は自分の人生を振り返って、つくづく「僕は凡人だったが、周りの人には恵まれていた」との意を強くする。大学時代は、フランス文学者の山内義雄先生の薫陶を受けた。また、今でも僕が一番尊敬する椎名其二先生の謦咳に接することもできた。在仏40年の椎名其二先生が日本へ一時帰国された時、直にフランス語や何が人生にとって大事かを教えてくださったのだ。このお二人とお近づきになれたのは、僕が大学生になったばかりの18歳のころだ。お二人はもう70歳に近かったはず。いまにして思えば、奇跡のような出会いだったというしかない。また、大学の部活では、下懸宝生流(ワキ宝生)能楽師の宝生弥一師、宝生閑師の両人間国宝から謡を習った。夏目漱石さんが幸運にも同流を学んでいたお蔭で漱石の門下生である安倍能成、野上豊一郎、野上弥生子、服部嘉香の各氏とも交流することができた。卒業後は、経済雑誌の老舗の一つ、ダイヤモンド社に入り、取材記者を皮切りに雑誌部門や出版局も経験し、出版業界一筋に歩いてきた。その間、石山賢吉、荒畑寒村、星野直樹各氏と幸運にもお近づきになれた。左翼、右翼と関係なく、幅広い人脈が僕の前に現れた。また、雑誌の取材や原稿依頼、単行本企画などで、多くの著名な方々にお会いする機会を得た。今でも思い浮かぶ。まだ立教大学助教授で新進気鋭の文学者だった辻邦生さん、大宅マスコミ塾のメンバーだった草柳大蔵さんに初めてお目にかかったのも記憶に新しい。草柳さんは、週刊誌のアンカーマンとして八面六臂のご活躍をされていた。その後、僕は51歳でダイヤモンド社を定年前に退社し、紆余曲折があった末に、清流出版を創業した。その小さな出版社も、すでに創業以来、20数年という時を経ている。実に半世紀以上にわたり出版界でお世話になった。お会いした方の中にはすでに鬼籍に入られた方も多い。現代の日本は羅針盤がない漂流船のようなもの。さまざまな案件が山積していて、先が見通せない状況だ。そこで泉下にある人に、今もし、生きておられたらどんなお考えをお持ちか、ご意見を拝聴できないかと夢想したものだ。

そのお一人が藤島泰輔(1997年没。享年64)さんだ。藤島さんは僕にとって、よきアドバイザーであり、著者でもあった。大変な慧眼の持ち主で、特に時代を見通す透徹した目は感嘆したもの。今、国会で審議され話題になっている天皇の生前退位問題、これについても藤島さんならどんなご意見をお持ちなのか、是非訊いてみたい気がする。藤島さんは、今上天皇(第125代天皇)のご学友の一人。学習院の高等科時代に、皇太子(当時)と「ご学友」を題材にした小説『孤獨の人』三笠書房、1956年)を書いて、作家デビューを果たした。三島由紀夫氏は藤島さんの8歳ほど年長で、学習院の先輩後輩で親しかったこともあり、『孤獨の人』について序文を寄せている。その序文で三島由紀夫氏は、『孤獨の人』を評して「うますぎて心配なほど」と書いてその文才ぶりを激賞している。同作品は、映画化(日活、監督:西河克己、1957年)もされ、当時大きな話題となった。


 

 

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岩波書店刊――(『孤獨の人』は三笠書房刊、文春ネスコ刊、読売新聞社刊、岩波現代文庫刊と数々の出版社から何回にかけて刊行された)

 

・「お言葉」で今上天皇は、生前退位(譲位)の意向を強くにじませた。即位後、日々、天皇として望ましい在り方を模索して今日に至ったが、高齢になったため、全身全霊で象徴としての務めを果たしていくことが難しくなってきた。その理解を国民に求めたものだった。昭和天皇が1989年崩御(宝算87年)され、平成天皇が昭和天皇より年齢上、上回ることが時間の問題となっている。「孤獨な人」を皇太子時代から最近までを見てきた藤島さんが、天上から腹蔵なく語ってくれたら、どんなにスッキリするだろう。かつて、三島由紀夫氏から藤島さんは、「君は皇太子の友だちなんだから直接、意見してきたらどうか」と度々からかわれていたという。今、生きていたら、正直、どのような発言をしただろうか。藤島さんなら歯に衣着せぬ筆致で論じると思う。学友意識を超え、直言する姿を見たい気がする。

・藤島さんにお訊きしたいことが他にもある。再婚についてである。メリー喜多川さんが再婚相手だが、このメリー喜多川さんが芸能界を揺るがす事件の関係者となる。藤島さんは1963(昭和38)年、高浜虚子の孫娘・朋子さんと結婚し、結婚当初は朋子さんと円満に暮らしていた。ところがその後、藤島さんはメリー喜多川(本名・藤島メリー泰子、現在89歳、当時52歳)さんと内縁関係となり、再婚する。そして、メリー喜多川さんは藤島泰輔さんとの間に藤島ジュリー景子さんをもうけた。このジュリー景子さんが次期社長候補らしい。今や売上高700億円を超える巨大な“ジャニーズ帝国”。この帝国をどのような手法で運営していったらいいのか、藤島さんなら妙案が浮かびそうだ。その裏付けもある。「ジャニーズ事務所は、藤島泰輔というビッグな人物を取り込んだのが最大の成果だ」と言う噂があったほどだからだ。資産家でもあった藤島さんは、長年、長者番付の常連であった。だから草創期にあったジャニーズ事務所を経済的にバックアップし、マスコミ・政財界関係者など知己も紹介、ジャニー喜多川社長(現在85歳)の人脈拡大に貢献したと言われる。

・現在、長女・藤島ジュリー景子(現在50歳)さんはジャニーズ事務所副社長兼ジェイ・ストーム社長の肩書を持っている。メリー喜多川・ジャニー喜多川の姉弟は、ゆくゆくは藤島ジュリー景子さんに会社経営をバトンタッチしたい意向。しかし思惑通りに進むかどうかは不明だ。景子さんは、2004(平成16)年に芸能界とは無関係の一般男性と結婚し、藤島夫妻の孫となる女児を出産している。そして、僕が思い出すのは、港区六本木鳥居坂のマンション(正確には芋洗坂のふもと通り沿い。同マンション内に部屋を3つ保有していた)へ原稿を貰いに行くと、当時中学か高校生くらいだった藤島ジュリー景子さんが、英語でペラペラと父親の藤島さんに頼みごとをしているのを見かけたものだ。天皇陛下生前退位(譲位)の件でも、ジャニーズ事務所の件でも、長いお付き合いの結果から断言できる。藤島さんなら、きっと妙案を考えつくはずだ、と……。藤島さんは、1996年に食道癌の告知を受け、翌1997628日に都内病院で逝去した。 最後まで娘・ジュリーのことを気にしており、最期の言葉は「早く結婚するよう言ってくれ」だったという。 尚、藤島泰輔氏の著作の権利は、娘のジュリーさんが継承した。

・ここで、藤島泰輔さんのプロフィールについて触れておく。1933年の生まれで、97年に逝去。享年64である。職業は小説家、評論家だった。所属するテリトリーは日本文藝家協会、日本ペンクラブ、日本放送作家協会、アメリカ学会の各会員。日本銀行監事藤島敏男・孝子夫妻の長男として東京市に生まれ、祖父(藤島範平氏)は日本郵船の専務取締役だった。一族から福澤諭吉や岩崎弥太郎以降、有名な政治家、財界人、学者を輩出した、名門中の名門である。父君の敏男さんは、一高旅行部から登山に親しみ、日銀パリ駐在員だった昭和10年から3年間はアルプスの山々に登った。登山は趣味の域をはるかに超え、日本山岳会名誉会員となった。また終戦直後、藤島さんは父君と日本銀行に数ヵ月寝泊まりしたというが、普通の人がしようにもできないユニークな体験である。父君は東京帝大法学部卒だったが、藤島さんは初等科から大学まで学習院に学んだ。今上天皇のご学友で、共にエリザベス・ヴァイニング夫人の教育を受けている。1955(昭和30)年、学習院大学政経学部卒業後、東京新聞に入社、社会部記者となる。その後東京新聞を退社し、作家専業となっている。

・作家として、海外生活を題材にしたエッセイ・旅行記など多数の著作を発表。また社会評論家としても活動した。評論家としては大宅壮一の門下生である。右派・保守系の論陣を張り、『文藝春秋』や『諸君!』などに論考を寄稿。左派・リベラル系が多かった大宅壮一門下の評論家グループの中では異色の存在であった。1970(昭和45)年、エベレスト・スキー隊総本部長としてヒマラヤ山脈遠征。1971(昭和46)年、内妻・長女とともにアメリカ・フロリダ州に移住し、アメリカ生活を体験。1972(昭和47)年、高浜虚子の孫娘・朋子さんと正式に離婚後、メリー喜多川さんと再婚したのは前述した通り。実に華麗な出自と経歴であり、稀有な存在だと思う。

・唯一、参議院選挙に立候補落選したのが、藤島さんの汚点と言えば言える。1977年、第11回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補。 新日本宗教団体連合会関連諸団体の推薦を取り付けるなどして188,387票を獲得した。 法定得票数に達したものの66位で落選したのだ。その選挙には、僕の畏友である井口順雄(元日本旅行作家協会事務局長)さん、宮崎正弘(評論家、作家)さんもスタッフとして加わっていたが、いかんせん得票数が今一つ伸びなかった。

・僕は、1980年、ダイヤモンド社の雑誌部門から出版局へ転属し、藤島泰輔さんの編集担当となった。フランス・パリでの生活体験を元に「在日フランス人、ポール・ボネ」名義で著した『不思議の国ニッポン』シリーズの単行本を編集出版する仕事だった。多分、僕が20代の頃、パリに住んでいたことが勘案されたのではないだろうか。藤島さんとは馬が合うはずという出版局幹部の読みは当たった。僕は藤島さんと毎回相談して、この単行本シリーズを「外国人が書くニッポン論」にさせた。イラストはクロイワ・カズさんに頼んだ。「ポール・ボネとは何者ぞ」という噂が流れたが、箝口令を敷いていたので関係者以外誰も知らなかった。このシリーズは、刊行するたび、増刷に次ぐ増刷である。文字通り、笑いが止まらなかった。そして、新刊が刊行されて4年後に、すべて角川書店で文庫化する契約がなされた。僕が担当している間、多分、角川書店から文庫シリーズとしてトータル500万部以上は売れたはずだ。これだけの部数の3(=印税)だから、出版社=ダイヤモンド社の取り分も大きかったはず。まさに濡れ手に粟の状態だった。


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爆発的に売れた『不思議の国ニッポン』シリーズ

・僕は、ダイヤモンド社を1992年初頭に辞めたが、その間、16冊の『不思議の国ニッポン』シリーズを刊行した。思い出すのは、当初、六本木鳥居坂のマンションで原稿の遣り取りをしていたのが、数年経つと、藤島さんはホテルを定宿に替えた。最初はホテルオークラ、後にホテルニューオータニのスイートルームとなる。豪勢な生活だった。当時、最新のCNN海外ニュースや映画『ルートヴィヒ』(ルキノ・ヴィスコンティ監督)など、藤島さんはいつも最新の話題を提供してくれた。仕事に関係のない話題でいつも盛り上がった。毎月の原稿受け渡しを済ますと、僕もホテル・ライフを楽しませてもらった。若かった僕は、高級洋酒やシガー(非キューバ葉巻の中での最高級ブランドで知られるダビドフが多かった)の洗礼を受けた。もちろん、高級洋酒のおつまみとして、珍味のチーズや雲丹、牡蠣などをよくいただいた。

・藤島さんはその後、有り余る金でパリ16区(高級住宅地)に豪邸を手に入れた。「部屋はいくつもあるから、パリに来てもホテルに泊まる必要はないからね……」とよく言っていた。その豪邸を訪ねたことはなかったが、生意気なことに僕も、シャイヨ国立劇場やトロカデロ庭園のすぐ近く、パリ16区のマンションに住んだことがある。そのマンションには、かつてカトリーヌ・ドヌーブが賃貸で借りていたと噂さがあった。つくづく20代の僕も贅沢生活を楽しんだものだ。その後、藤島さんの住まいは、元NHKの花形ニュースキャスター磯村尚徳さんが日本文化会館初代館長になった際、リースされることになった。その話は直木賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作家・深田祐介さんも知っていて、お会いした時にこの話で盛り上がったことが懐かしい。深田さんとは人脈も重なるし、同じ身体障害者の一級同士ということで話が弾んだものだ。その深田さんも今や泉下の客となってしまった。

・ある時、藤島さんが、「加登屋さん、僕は一応、作家・評論家ということになっているが、周囲の皆は、藤島は本を出していない、唄を忘れたカナリヤだといっている。本当は、毎日せっせと、それもベストセラーを書いている。『ポール・ボネは、実は僕なんだ』と何度も告白したい気持ちになる。だからポール・ボネ以外の作品を書くのはいいストレス発散になる。作家として嬉しいし、ぜひ何か仕事を考えて欲しい」とおっしゃった。

その結果、生まれたのが、『中流からの脱出――新しいステータスを求めて』(藤島泰輔著、ダイヤモンド社刊、1986年)である。「1億総中流意識」の時代に贈る、現代日本社会の新クラース〈階級〉論と謳って刊行された。巻末で、「幻想の中流意識」をめぐって、山本夏彦さんと藤島さんの対談を掲載した。大衆社会とスポーツ、ゴルフ人口とゴルフ場の急増、戦前の高級住宅地、現代の1等地と昔の別荘地、自宅に客を招かない事情、郊外の1戸建てか都心の高級マンションか、総中流社会の苛酷な現実、社交クラブ、ロータリークラブ、ヘルスクラブ、皇室と王室、食通と教養、“違いのわかる中流”を阻むものなど、現代日本を俯瞰してみても、違和感がないほど斬新な内容だった。


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・また、次々と分厚い翻訳ものも刊行した。まず『ウルトラ・リッチ―超富豪たちの素顔・価値観・役割』(V.パッカード著、藤島泰輔訳、ダイヤモンド社刊、1990)という本で、アメリカ社会を変える超大金持ちたちの実像に迫ったもの。彼らは資産をどう形成したのか? その生活と哲学は? そして驚くべき彼らの節税法等々……。日本人にも興味深い話題が満載されていた。あのV.パッカードがウルトラ・リッチの実態に鋭く迫った力作だった。この本は458ページの分厚いハードカバーで発売された。

 

 

 


 

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・次は、『名画の経済学――美術市場を支配する経済原理』(ウィリアム・D・グランプ著、藤島泰輔訳、ダイヤモンド社刊、1991年)を刊行した。原題は、『PRICING THE PRICELESS――ArtArtistsEconomics(高価なものの値付け――芸術、芸術家、経済)』。新古典派経済学のリテラシーを用い、芸術作品を財として考え、買われる人、買う人、そして価値付けに参加する人のあらましを説明しながら、財としての美術品が置かれる美術館、その財を生み出す芸術家の経済的な自立をテーマにした。この本も581ページという大著。いまでも頷ける内容だった。いずれの本も藤島さんは大いに楽しんで訳出したものだ。

 


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・最後に、藤島さんが入れ込んだ競馬趣味についてお話しておきたい。ある時、藤島さんが中央競馬会の勧めで馬主になった。その馬が、なんと単行本のベストセラーの印税なみに稼ぐことになる。馬の名前は「ランニングフリー」。19859月、中山競馬場でデビューを果たすと、順調に勝ち抜いて、オープン馬となり、春の“天皇賞”では13番人気ながらタマモクロスに次ぐ2着となった。そのお蔭で皇太子ご夫妻(当時、今上天皇)も府中の競馬場へ足を運ばれた。皇室と競馬を引き合いにした藤島さんの得意の作戦だ。また、ランニングフリーは7歳時には“アメリカジョッキークラブカップ”“日経賞”とG2を2連勝するなど大活躍した。僕も3回ぐらい、ホテルオークラで行なわれた祝勝会に呼ばれ祝杯を挙げたことがある。僕が電話投票で今も競馬を楽しめるのも、その席で藤島さんが農林省の次官殿に頼んで入れてもらったからだ。祝宴会場で競馬の神様・大川慶次郎さんにもお会いし、得難い会話を楽しんだこともいい思い出だ。

・藤島さんは、4億円稼いだランニングフリーだけではない。所有馬の中には、ジャニーズ事務所のアイドルグループ「光 GENJI」からの命名で「ヒカルゲンジ」という馬もいた。持ち馬の話を単行本化するに当たり、ダイヤモンド社で出すのは、さすがに差し控えた。その本の刊行に加瀬昌男社長が手を挙げ、草思社からの出版となった。『馬主の愉しみ ランニングフリーと私』(草思社刊、1991年)がそれ。加瀬さんがアパレル会社の利益で草思社の赤字を補填され、苦労されたが、僕は無謀にもダイヤモンド社を辞めようか、どうしようか悩んでいた。結局、1993年、紆余曲折があり、加登屋事務所から清流出版を立ち上げていた。まあ、僕の懐古話はそれほど皆さんの興味を引かないだろうから、この辺で筆をおく。それにしても、藤島泰輔さんは、僕にとって余人をもって代えがたい傑物であったことは認めておきたい。

 

徳岡孝夫さん

清流出版 (2017年1月24日 15:09) | コメント(0) | トラックバック(0)

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四半世紀前の徳岡孝夫さんの元気なお姿。まだ、お目も健全な頃。その頃は、僕も今のように右半身不随ではなく健康体だった。


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お目がどんどん悪くなっていた20133月、決死の覚悟で弊社を訪ねて来られた。徳岡さんに連載いただいた月刊『清流』バックナンバーを背にして。


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徳岡孝夫さんとの「連載終了 御礼の会」で、出版部長の松原淑子(右)と僕。横浜港南台高島屋の中国料理店「南国酒家」で。

 

・ついにくるものがきた。これが徳岡孝夫さんについて語る最後の機会になるかもしれない……。感慨無量である。僕の人生の公私共において、一番大切な人が徳岡孝夫さんであった。僕の古巣ダイヤモンド社でお付き合いが始まり、実に35年以上の長きにわたり親しく交情を深めてきた。思い起こせば、徳岡さんにはどんなに助けられたことか。僕がダイヤモンド社時代に編集を担当した『アイアコッカ――わが闘魂の経営』は大ベストセラーとなったが、この本の翻訳者が徳岡さんだった。限られた期間内でのあの名訳は、徳岡さんなればこそ成し遂げられたものだと確信している。結局、増刷に次ぐ増刷となり、最終的には99刷となった。充分に会社の米櫃を潤わせてくれたが、更に、版権は新潮社に売れたので2度美味しい単行本企画となった。

また、僕が創業した清流出版でも大変お世話になった。月刊『清流』を創刊したが、端から僕は徳岡さんを連載執筆者の一人にと考えていた。「明治の女性」をテーマにした連載を4年間お願いし、その後は、「ニュースを聞いて立ち止まり……」を連載していただき、今日に至ったものだ。徳岡さんの素晴らしさを挙げれば、いくつもある。まず締め切り日の厳守である。徳岡さんを担当していた松原君にも確認したが、過去1度たりとも原稿遅れを生じたことがないという稀有な人だ。その上、原稿内容の奥深さ、関西人特有の軽妙洒脱な文章力は折り紙付き。まさに『清流』にとって徳岡さんは、欠くべからざる著者のお一人だった。それにしても、僕はダイヤモンド社時代からのお付き合いに甘え、随分強引に連載執筆をお願いしていたわけで、今更ながら反省しきりである。

 そして昨今、ふと気がついてみれば、徳岡さんが執筆していたメイン媒体である文藝春秋、新潮社などの大手出版社の看板雑誌に、お名前を拝見する機会が少なくなっていた。その理由は、僕にもよく分かっている。徳岡さんは、齢87歳を超えてから急速に視力が衰え、今や執筆も難しくなった。唯一連載を続けている新潮社の『新潮45』の巻頭言も、特大の虫眼鏡を駆使され、苦労してお書きになっておられる。最新号の原稿も僕は涙なくしては読むことができなかった。「まことの弱法師(よろぼし)」と題して、徳岡さんにしか書けない境地を綴っている。「たった1ページ、2枚の原稿を1ヵ月かかってしまう。このまま書きたいが、多分、もう全盲になって執筆不可能だと思う」と嘆いておられるのだ。ここに至って、月刊『清流』においても、201610月号をもって徳岡さんの「ニュースを聞いて立ち止まり……」は連載終了となった。徳岡さんがペンを擱くことを受け入れざるを得なかった。弊社の半ば強引な依頼にもかかわらず、かくも長きに亘り執筆してくださったことに、なんと御礼をいっていいものやら感謝の言葉もない。

 

・弊社では感謝の気持ちを込めて、粗餐を差し上げることにした。昨年1125日のこと、社長の藤木健太郎、出版部長の松原淑子の両君を伴い、三人で徳岡さんのお住まい近くにある港南台高島屋の中国料理店「南国酒家」で小宴を開いた。ちょうどその日は、三島由紀夫の「憂国忌」に当たる。この日は徳岡さんにとっても、生涯忘れることのできない日であったと思う。三島由紀夫氏から「徳岡さん、明日、11時に市ヶ谷にある自衛隊市ヶ谷駐屯地すぐそばの市谷会館に来てほしい」と直接、毎日新聞社の徳岡さんに電話がかかってきた。その翌日が、19701125日だった。そして徳岡さんは、楯の会の隊員から三島さんの手紙と檄文を受け取ったのだ。この日の「連載終了 御礼の会」の席で、徳岡さんはその話題には触れなかったし、われわれも一切、口にしなかった。

 

・その日、徳岡さんはまず歌舞伎を話題にされた。歌舞伎十八番の「鳴神(なるかみ)」の話だった。「能の理解者である加登屋さんならご存じでしょう」と徳岡さんはおっしゃったが、僕は「鳴神」を知らなかった。あとでウィキペディアを見て、大雑把だが理解したのだった。「……鳴神上人は呪術を用いて、雨を降らす竜神を滝壷に封印してしまう。雨の降らない日が続き、やがて国中が旱魃に襲われ、民百姓は困り果てる。そこで朝廷は女色をもって鳴神上人の呪術を破ろうと、美女を上人の許に送り込む。姫の色仕掛けにさすがの上人も抗しきれず、思わずその身体に触れたことで、とうとう戒律を犯し、さらには酒に酔いつぶれて眠ってしまう。その隙を見計って姫が滝壷に張ってある注連縄を切ると封印が解け……」といった話である。この話を例にとり、徳岡さんは、歌舞伎では感動ものもいいけれど、エロティックな話もまた印象深いと述懐された。梨園では、勘三郎、歌右衛門、芝翫、勘九郎、藤十郎、団十郎、扇雀、幸四郎、仁左衛門……などの役者の演技が心に残るとおっしゃった。

話の接ぎ穂で一息入れようと、徳岡さんに食事を勧めたのだが、目の前に置かれたお料理さえ見えないようだった。そこで藤木君が「これは海老チリです」と教え、レンゲで口元まで運んで差し上げた。すると徳岡さんは、「ああ、海老蔵ですね」と当為即妙の洒落で応えられたのが印象に残る。こんな受け答えの妙が、徳岡さんの魅力の一つである。

・最後に残っていた連載『新潮45』の「まことの弱法師」に関連して、徳岡さんは能についても熱く語った。「今の大阪、四天王寺に住んでいた俊徳丸は、人の讒言を信じた父・通俊により家から追放されてしまう。彼は悲しみのあまり盲目となってしまい、乞食坊主として暮らすことを余儀なくされる。折しもその日は、春のお彼岸の中日にあたり、弱法師の袖に梅の花が散りかかる。彼は、仏の慈悲をたたえ、仏法最初の天王寺建立の縁起を述べる。その姿を見ると、通俊はまさしくわが子だと認めたのだったが、人目をはばかって、夜になって名乗ることにする」

西の門、すなわち西方浄土への死の入り口にあって、「弱法師は入り日を拝み、かつては見慣れていた難波の美しい風景を心に思い浮かべ、心眼に映える光景に恍惚となり、興奮のあまり狂うが、往来の人に行き当たり、狂いから覚める。やがて夜も更け、人影もとだえたので、父は名乗る。父親と知った俊徳丸は、わが身を恥じて逃げようとするが、父はその手を取り、連れ立って高安の里に帰る」

――能の「弱法師」は、僕も好きな曲の一つだったので、「あーしもとは、よーろよろと、……」と、謡いの一節を口にした。その『新潮45』の連載タイトルが『巻頭随筆 風が時間を』で、今年1月号は「まことの弱法師10回」になっている。徳岡さんは「連載はこの文章で終わりにしたい。まあその時、僕の人生も終わるなー」とおっしゃったが、僕は胸が詰まってなんと応じていいか分からなかった。とにかく今は、徳岡節の名文をもっともっと読みたいとしか言えなかった。

・徳岡さんが最近、読み終えた本についても言及された。永井荷風の『すみだ川』だという。僕は、能の『隅田川』ならよく知っていたが、永井荷風の小説『すみだ川』はまだ読んだことがない。

話は、幼馴染であるお糸と長吉の、異なる宿命を描いた作品だ。お糸は花柳界へ入り込んでいき、母親に進学・立身を望まれる長吉は取り残される。長吉の寂しさ、哀感よりも、花柳界において自分の道を切り開いていこうとするお糸の明るさ、逞しさがより強く感じられる。根底に、荷風の花柳界に対する肯定がある故の作品である。僕は能の『隅田川』しか知らないのを恥じた。帰宅したら『すみだ川』を是非、読もうと思ったものだ。

かつて徳岡さんが清流出版へ来社されたとき、能の『隅田川』を話題にしたことがある。梅若丸を人買いにさらわれ、京からはるばる武蔵国の隅田川まで訪ねてきて、愛児の死を知った母親(班女)の悲しみはいかばかりだったか。春の物狂いの名作であるが、「名にし負えば いざこととはむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」の名文句が悲しく胸に迫る。その時も、われわれは徳岡さんならではの語り口に、大いに感じ入ったのを覚えている。

徳岡さんは、歌舞伎に関し、「通」といわれるのはお嫌いらしい。強いていえば、歌舞伎をこよなく愛している一ファンであるとの自己認識のようだ。とにかく人生の機微に通じた徳岡節は、聞いていて胸にすっと入ってくる。その博覧強記ぶりは尋常ではなく、何時間話しても尽きることがない。

・もう一つの読書だが、徳岡さんの向学心と懐の深さには驚く。なんと、夏目漱石の『坊ちゃん』を読んでいるとのこと。これまで徳岡さんとは、森鷗外の話が圧倒的に多かったから漱石と聞いてびっくりした。関連して夏目漱石の筆名「漱石」の由来について、徳岡さんは語り始めた。筆名の出典は、宋の太宗の勅命によって、房玄齢や李延寿らによって編纂された、歴史上の著名人の逸話を集めた「蒙求」の「晋書」である。その中の「孫楚伝」の「漱石枕流」(石に漱《くちすす》ぎ、流れに枕す)から採ったというのが定説とされると言う。

孫楚は幼少より秀才の誉れが高く、太守の地位まで登りつめた立志伝中の人物。その孫楚が若い頃に隠遁生活をしようと思い定め、親友の王済に向かって、喧噪な都会を離れ、静かな田舎に引っ込みたいと口にした。「石を枕にして、川の流れで口を漱ぐ」という意味の「枕石漱流」というべきところを、どう間違えたのか「漱石枕流」と言ってしまった。王済に「おいおい、それは『枕石漱流』の間違いだろう」と指摘されると、孫楚は「なあに、『漱石枕流』でいいんだよ。なぜかといえば、石で口を漱ぐのは歯を磨くためであり、流れに枕をするのは嫌いな話を聞いたとき、川の流れで耳を洗うためさ」と強引にこじつけたのだという。つまり、「漱石」の逸話から、漱石の筆名は偏屈で、負け惜しみが強く、変わり者の象徴であるとおっしゃりたかったのだ。

漱石の『草枕』の冒頭にある、「情に掉させば流される」も「情に逆らえば押し流される」と勘違いする人もいるが、「情に乗ってしまうとどんどん加速してしまう」と解釈するのが正しい。母国語の日本語でさえ、時代の流れで解釈が変ったり、真意が伝わらないこともある。徳岡さんは、翻訳本も数多く手掛けてこられたが、同じ英語圏でもスラングや地方独特の言い回しの誤訳や勘違いもあり、なかなか一筋縄にはいかないもの。そんな文章解釈の難しさについて語りたかったのであろう。

・出版部長の松原君が徳岡さんに、「今年、北海道に行かれたご感想は、いかがでしたか?」と尋ねた。ご長男夫婦は北海道暮らしなのだという。「いや―、北海道の十勝平野には地平線がある。皆さんは、見たことがないでしょう? 毎日、地平線を見ていると、人間が変わる。細かいことなど気にならなくなりますよ」とおっしゃった。徳岡さんはもともと大人の風格がある。「細かいことにこだわらず」のニュアンスが見て取れる。僕は、北海道の富良野・美瑛には行ったことがあるが、山間の丘の町なので、地平線はまだ見ていない。一度、徳岡さんのいう果てしなく続く地平線を見てみたいものだと思っている。

・徳岡さんの話は、押しなべて悲しく、しかも面白い。藤木君が「次のお料理ですが、酢豚のあとパイナップルはどうでしょう?」と聞くと、徳岡さんは、「じゃあ、いただきましょう。ところで僕の父と母にまつわる話ですが……」と、自身7歳だった時のこんな話をされた。昭和12年、阪急百貨店で、徳岡さんの母堂が父君に「あなたアップルパイを買って」と言ったらしい。すかさず藤木君が「パイナップルですね」と言ったが、徳岡さんの父君も藤木君同様、アップルパイをパイナップルと間違えたらしい。「父は、パイナップルと勘違いして買わなかったのです」。当時、徳岡さんの母堂は美人の誉れ高かったが、27歳で最後の娘を出産して後、すぐお亡くなりになっている。母堂は徳岡さんの歳からすれば、三分の一しか人生を生きられなかったわけだ。「終戦後、父は街で『アップルパイあります』の看板を見て、アメリカ産のアップルパイというものを初めて認識した。『ああ、これのことだったのか!』と」。徳岡さんは、この話を聞いて以来、母堂の命日には必ずアップルパイを買ってくるとか。「僕の妹からは、お兄さん、まだアップルパイを食べているの?」なんてよく言われるが、その妹さんも70歳を優に超えたという。こんな話から徳岡家の人生模様が垣間見えた。ホロリと胸に染みるエピソードである。

・徳岡さんはとにかくサービス精神旺盛だ。僕は徳岡さんの話の中で「俊寛」が特に印象深く残っている。僕の舌足らずな説明ではもどかしいと思うが、俊寛は喜界ヶ島に流された。一方、都では清盛の娘で高倉天皇の后となった中宮(建礼門院)徳子の安産祈願のため、大赦が行われる。喜界ヶ島の流人も一部赦されることとなり、使者がかの島へ向かった。他の罪人は許されて島を去る。ただ一人、俊寛は残された。孤独への不安と絶望に叫び出し、船を追うが波に阻まれる。船が見えなくなるまで、船に向かい叫び続けるが、声が届かなくなると、なおも諦めずに岩山へと登り、船の行方を追い続ける。ついに船が見えなくなる。そして俊寛の絶望的な叫びとともに……。

僕は能、謡いの「俊寛」は大好きな曲だ。今も時々謡本を開いて、調子外れに唸っている。

 また、徳岡節による平家滅亡のくだりは、残照のようにキラキラと輝く。剛の者であった平教経(のりつね)は、鬼神の如く戦って坂東武者を多数討ち果たす。敵の大将の源義経を道連れにせんものと欲した教経は、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り、八艘彼方へ飛び去ってしまった。世にいう義経の「八艘飛び」である。残された教経は、一人を海に蹴落とすと、二人の武者を抱え込んだまま海に飛び込んだ。平氏随一の猛将として知られ、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで、義経を苦しめ抜いた教経のあっぱれな最期であった。安徳天皇、二位尼(にいのあま=平時子。平清盛の妻)らが入水し、平氏滅亡の様を見届けた平知盛(とももり)は、「見るべき程の事は見つ」とつぶやくと、乳兄弟の平家長と手に手をとってザンブと海へと身を投げ自害した。享年34

他の人々が海に流され沈んだが、建礼門院(平徳子)は、髪の毛が長かったので船にひっかかって生き残り、京へ送還された。平家滅亡後、剃髪し大原寂光院に遁世の日々を送る。建礼門院は、安徳天皇と一門の菩提を弔った。その建礼門院に尼となって仕えたのが、平清盛の子の重衡の妻となり、後に安徳天皇の乳母をつとめ、従三位典侍・大納言典侍(大納言佐)と称した藤原輔子(ほし)である。大納言佐は女院の最期を看取った。大原三千院のところは、徳岡さんも「おおはら、さんぜんいん……」と口ずさんだ。こうした話を徳岡さんは、あたかも琵琶法師のように語って聞かせてくれた。

 徳岡さんを囲む会は、いつも心がときめく。酒はそう強いほうではない。少しか飲まないのに、この語りの面白さはなんだろう。もっぱら徳岡節に魅了されることになる。何を語っても蘊蓄があり、ユーモアがあり、そして人情の機微を知る人の一抹のもの悲しさと温もりがある。余人をもって替えがたい“徳岡ワールドへの誘い”とでも形容しようか。誘われた人は、一様に心地よく徳岡ワールドに酔ってしまうのだ。

・最後に、徳岡孝夫さんの著になる書籍の内、お勧めしたい作品をここでまとめてみる。

まず、三島由紀夫関連の書籍で、欠かせないのは、『悼友紀行――三島由紀夫の作品風土』(ドナルド・キーンとの共著、中央公論社刊、1973年)、『五衰の人――三島由紀夫私記』(文藝春秋刊、1996年、新潮学芸賞)が挙げられる。

 次に、翻訳も多く手がけ、ドナルド・キーン著『日本文学史 近世篇』(中央公論社刊 上下、1976-77年)、アルビン・トフラー著『第三の波』(中央公論社刊、1982年)、リー・アイアコッカ著『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(ダイヤモンド社刊、1985年)、ヘンリー・スコット=ストークス著『三島由紀夫 死と真実』(ダイヤモンド社刊、1985年)。なお、この本は1998年、清流出版で『三島由紀夫 生と死』と改題し、刊行した。その時は、冒頭に「三人の友――三島由紀夫を偲んで――ドナルド・キーン、徳岡孝夫、ヘンリー・スッコト=ストークス」の鼎談を新たに設けた。リチャード・ニクソン著『指導者とは』(文藝春秋刊、1986 年)などベストセラーが続々。

また、ノンフィクション『横浜・山手の出来事』(文藝春秋刊、1990年、日本推理作家協会賞を受賞)、『薄明の淵に落ちて』(新潮社刊、1991年)、『舌づくし』(文藝春秋刊、2001年)、『妻の肖像』(文藝春秋刊、2005年)、『完本 紳士と淑女 1980-2009』(文藝春秋刊、2009年)、『お礼まいり』(清流出版刊、2010年)など。1986年には菊池寛賞を受賞した。

なお、余談だが、徳岡さんとドナルド・キーンさんは、付き合いも長く、とても懇意にしている。弊社は陶芸家・辻清明さんの豪華本を刊行したことがある。『独歩 辻清明の宇宙』(写真:藤森武、清流出版刊、2010年)だが、この本の推薦文をドナルド・キーンさんにお願いした。そして和訳を徳岡さんが快く引き受けてくれた。これも僕には嬉しいことであった。徳岡さんは、ユーモア溢れる語学力を駆使して、外国人とも丁々発止と渡り合い、上質なジョークを交えながらしゃべれる数少ない日本人である。英会話が堪能なことは、世界的視野を広げ、一流人との付き合いも深めることができる。

僕は若い頃、徳岡孝夫さんの本『太陽と砂漠の国々――ユーラシア大陸走破記』(中央公論社刊、1965年)や『誤解 ヨーロッパvs.日本』(エンディミヨン・ウィルキンソン著、中央公論社刊、1980年)を読んでファンになった。

結局、僕はダイヤモンド社と清流出版で、徳岡孝夫さんの本を合計9冊も刊行することができた。今回、徳岡さんと久し振りに会って、改めて徳岡さんとの出会いに感謝したくなった。人の気をそらさず、常に気遣いを忘れない。やはり徳岡さんは人生の達人であり、敬愛する一流の人物である。こんな方と親交を結ぶことができた僕は、幸せな男だったといえるのではないだろうか。

 

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『お礼まいり』(清流出版刊、2010年)は、天寿を全うした人への畏敬の念、温かな交流のあった人への想い、また無念の死を遂げた人や家族の代弁者として、生と死の深淵を見つめ続けた著者の珠玉の随筆集である。三島由紀夫から教えられた「じゃがいもの冷製スープビシソワーズ」の味、しばしば飲食を共にし、温かな交流のあった山本夏彦翁や久世光彦氏との悲しい別れ、最愛の妻の死など、喪失感を抱えながら死ぬまで生きることの意味を問いかけた名著といえる。著者自身も昨年、悪性リンパ種を克服し、死の淵から生還された。書名ともなった復活後、書いた随筆「御礼参り」などを所収している。


 

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徳岡孝夫さんとの「連載終了 御礼の会」にて。藤木健太郎社長(右)と僕。横浜港南台高島屋で。

 


鎌田實さん

清流出版 (2016年12月20日 18:21) | コメント(0) | トラックバック(0)

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鎌田實さんの新著。「遊行」の言葉が、人生を変える!


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鎌田實さん(右)と中華料理店「源来酒家」で。左は藤木健太郎社長。

・鎌田實(かまた・みのる)さん(医師、作家、諏訪中央病院名誉院長)が弊社に来社された。僕は前々から尊敬しており、鎌田さんの本を弊社から出させてほしい、と切望していた。嬉しいことにそれが実現することになった。タイトル名は、『遊行(ゆぎょう)を生きる――悩み、迷う自分を劇的に変える124の言葉』だ。四六判ソフトカバーで、232ページ、予価(本体1000円+税)、2017年1月20日の発売予定となっている。
 この本を編集担当した古満温君は、暮れも押し迫った今も、本の宣伝、拡販、パブリシティ戦略に向け忙しい日々を送っている。この日、鎌田さんは、金曜日にも関わらず、わざわざ弊社に足を運んでくださった。というのも、鎌田さんは、木曜日の午後7時まで、日本テレビの「ニュース・エブリィ」のレギュラーコメンテーターを務め、その後は中央本線の新宿から諏訪の家に帰られるのが通常パターン。この日は、自著の拡販に向け、販促にご協力いただいたのである。
 鎌田さんは午前10時、「オフィス ブラインド スポット」の石井さんと一緒に来社された。石井さんとは旧知の仲らしく、「彼女はなかなかいい本読み」だと評していた。僕も「オフィス ブラインド スポット」については、代表者の平塚一惠さんと一緒に仕事をしたことがある。女の細腕ながら、剛腕という言葉がピッタリの仕事ぶりで、山本夏彦・久世光彦共著で刊行された『昭和恋々』というフォトエッセイ集を、新聞、雑誌、テレビ局等に売り込み、センセーションを巻き起こした。その後、この本は文春文庫から文庫版としても発行されたので、大いに稼いでくれた。そのことが僕の印象に強く残っている。この日鎌田さんの予定は、午前中11時までJBプレスの取材、正午から弊社応接室で、プレジデントオンライン、さらに、かの花田紀凱(かずよし)編集長の『月刊Hanada』の取材が控えていた。
 鎌田さんと挨拶もそこそこに、昼食を摂るため11時過ぎに外に出た。弊社からは徒歩数分の距離にある、馴染みの中華料理店「源来酒家」に向かう。鎌田さんは、「源来酒家」をご紹介して以来、この店がいたく気に入ったらしく、しばしば他社の編集者を誘うほど、その味に惚れ込んでいる。欠かせないのが、まず、「豆腐の細切りサラダ」と「餃子」(当日、参加したみんなで一個ずつ分けた)。そして、「麻婆麺」も鎌田さんの好きな料理だという。コラーゲンがたっぷり入った逸品である。「源来酒家」のご主人・傳さんも、自然に鎌田さんの大ファンとなり、「先生の本が出たら、すぐに買いに行きたい!」と言っているほどだ。

・僕が、「鎌田實先生と行くドリームフェスティバルinハワイ6日間」というイベントに参加してから、早くも3年半という月日が経った。その折、「ぜひ、わが社から鎌田先生のご著書を出させていただけないか」と、お願いしたことがある。が、どう考えても実現は難しいだろうと思っていた。なぜなら、弊社のような弱小出版社では、大手の出版社のような販売スタッフ、宣伝費や販促費を賭けられないからだ。初版の刷り部数も当然少な目にならざるを得ない。鎌田さんには、月刊『清流』に連載していただいていたが、単行本の刊行については大手出版社からという感触であった。だが、連載を続けコミュニケーションを取るうち、意気に感じてくれたのか、弊社からの刊行を了解してくれた。僕はこの鎌田さんの気持ちが嬉しかった。精一杯、全社員一丸となって販促にこれ努め、このご厚意に応えたいと思っている。

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ハワイ旅行で鎌田先生とのツーショット

・さて、この『遊行(ゆぎょう)を生きる――悩み、迷う自分を劇的に変える124の言葉』だが、ざっと内容について触れてみたい。鎌田さんは、この「遊行」の鎌田流解釈と自らの人生体験を絡めて、わかりやすく解説してくれている。古代インドの聖人は、人生を「四住期」と名付けた。「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の四つである。中でも遊行期は人生の晩節に当たり、死の準備の時期であり、人生の締めくくりの時期ともいわれる。そうした古代インドの聖人が唱えた遊行期の解釈とは違って、鎌田さんは文字通り、「遊び、行く」と考えたのがユニークなところ。晩年にフラフラしても構わないとおっしゃる。この時期こそ、本当に自分の好きな仕事や、やりたいことをする時期でもあるというから嬉しくなる。
 鎌田さんは、遊行期を、人生の諸問題から解放され、自分に正直に、肩の力を抜いて、しがらみから離れて生きていく大切な時期と考えた。つまり鎌田流の「遊行」とは、一人の人間が子どもの頃のような、自由な心で生きること、先入観などに囚われず、こだわりを捨てて“遊び”を意識すること。さまざまな殻を打ち破って、生命のもっとも根っこの部分で世界を生きることだと鎌田さんはおっしゃる。そして、いい言葉はいい人生を生み、いい人生はいい言葉を生み出す。「遊行」が、人生を変えてくれ、生きるのが楽になったという。確かに遊びを意識すると、何気ない毎日が特別になり、生きるのが楽になり楽しくなってくる。

・こうなると「遊行期」にある人も、人生を達観しなくてもいい。人間臭く、ドロドロとした「遊び、行く」をしたらとおっしゃる。そもそも鎌田さんは、若者からお年寄り、女も男も「遊行」を意識したらどうかと考えてきた。人は毎日忙しい。経済的な問題もある。病気や障害を抱えている……。だから「遊行」なんて思ってもできない、と思われる方もいるかもしれない。だが、安心してください。苦しみの中にいる人が、「遊行」を意識し、生きることで、苦しみから解放され、人生を大逆転することだってできる。鎌田さんも「七〇歳を前に苦しんでいます」と正直にその心境を語る。自分は本当に自分自身を生きてきただろうか。子どもの頃は、親や周囲の大人の、そして大人になってからも同僚や患者さんの期待に応えるために、“いい子”や“いいカマタ”を演じ、無意識のうちに無理してきたのではないか……。このまま老い、死んでいったら後悔してしまうのではないか……。ここ数年、そんな悩みがしこりのように心の奥に巣食っていたのだ。そこに、一筋の光のように、「遊行」という言葉、考え方が頭に射し込んできて、「生きるのがグッと楽になりました」と鎌田さんは述懐する。

・この後、鎌田さんは古今東西の「遊行」した方々に焦点を当てる。一人ひとり取り上げて、共感したこと、感銘した点などを読者に提示してくれる。取り上げた方々を見て、僕は鎌田さんのその博学ぶりには脱帽するしかなかった。思いつくままに上げてみるが、有名無名を問わず、斯界に名を馳せた人たちが綺羅星のように並ぶ。
 ヨハン・ホイジンガ(歴史学者、『ホモ・ルーデンス』)、きだみのる(仏英に精通し、稀代の教養人、ファーブルの『昆虫記』訳者)、種田山頭火(自由律の俳人)、ポール・ゴーギャン(画家、タヒチ)、孔子(『論語』)、ニーチェ(哲学者、『曙光』、『ツァラトゥストラかく語りき』、『悦ばしき知識』)、山本常朝(『葉隠』)、ディラン・トマス(イギリス・ウェールズの詩人)、東小雪(元タカラジェンヌ)、ヘミングウェイ(『老人と海』、『キリマンジャロの雪』、『誰がために鐘は鳴る』)、イングリッド・バーグマン(女優、アカデミー賞三度受賞)。
 大塚範一(テレビの司会者)、アルバート・アインシュタイン(相対性理論)、畠山昌樹(医者、高機能広汎性発達障害者)、ジャン・ジョレス(仏・政治家)、荘子、モンテーニュ、池田晶子(哲学者)、ジョン・スタインベック(『エデンの東』、『怒りの葡萄』、『チャーリーとの旅』)、チェ・ゲバラ(革命家)、アルベール・カミュ(仏・作家、ノーベル賞、『シジフォスの神話』)、オルハン・パムク(作家、2006年のノーベル文学賞、『新しい人生』)、空海、なかにし礼。
 フランツ・カフカ(作家、『変身』)、鴨長明(『方丈記』)、親鸞(『歎異抄』)、ランボー(作家、『地獄の季節』)、ヴェルレーヌ(詩人)、佐野洋子(『100万回生きたねこ』)、ヘルマン・ヘッセ(独・作家)、ジャン・リュック・ゴダール(映画監督、『気狂いピエロ』)、アウンサンスーチー(ミャンマー民主化運動の指導者、ノーベル平和賞)、カール・ヒルティ(スイスの哲学者)、ゲーテ(独・文豪)、スティーブン・サットン(英・15歳の大腸がん、約3年間で七回の外科手術)。
 高橋礼華・松友美佐紀(リオデジャネイロ五輪、バトミントン・ダブルス優勝)、ウィスタン・ヒュー・オーデン(英・詩人、『見るまえに跳べ』)、マザー・テレサ、キング牧師、スティーブ・ジョブズ(アップル社創立者の一人)、ジッドゥ・クリシュナムルティ(インドの思想家・瞑想家、『最初で最後の自由』)、ジョン・レノン(ミュージシャン)……。
 これらの人々は、間違いなく鎌田流「遊行」の行動や思考をされたことが本文を見ると頷ける。

・「遊行」の先達と認める方々のうち、鎌田さんが一番相応しいと考えている人は誰だろうか? 担当編集者の古満君に尋ねてみると、「ランボー」ではないか、という。「ちょっと極端過ぎる人生ですが、ランボーの人生に、自分にない、自由さを見て、あこがれていらっしゃるようですから」と。確かに、鎌田さんは、高校時代にランボーに出会っている。難解な反面、若さがほとばしるその詩に魅了される。とくに代表作『地獄の季節』の詩が好きという。「ある夜、俺は『美』を膝の上に坐らせた。――苦々しい奴だと思った。――俺は思いっきり毒づいてやった。俺は正義に対して武装した」 この詩には、「もう詩なんか書かないぞ」という、ランボーの決意が見てとれる。自らを過酷な状況に追い込みながら、それでもランボーが望んだのは、『自由なる自由』。「何者にも束縛されない『絶対自由』を求めようとしたのだと思います」、と鎌田さんはいう。
 
 ランボーは若くして、「遊行」の意思をもって生きていたに違いありません。「遊行」とは「人生の放蕩」に励むことなのです。ランボーは、筆を折った後、オランダ軍の傭兵、サーカスの通訳、キプロス島の石切り場の現場監督、アラビア半島のアデンで貿易商となり、その後エチオピアで商人など、次々に職を変えています。三七年間の短い生涯だったが、毎日がハラハラドキドキ、お祭りのような日々。これほど面白い人生はありません。「遊行」とは一見、みすぼらしいのに、内実は幸福感に満ちた生き方なのです。鎌田さんは「自分がいま、本当に自由に生きてるんだろうかと、ランボーの詩を読むたびに、人生を見直します――」というわけで、古満君の「遊行人=ランボー」ではないか、と答えたのは、この本をよく読んでいるなと僕も賛成だ。また、古満君は、「ほかには、スティーブ・ジョブズでしょうか。ああいう生き方にも憧れがあるようです。鎌田先生は借金を抱えていた病院を立て直した自負もありますので……」と続けた。さもありなんである。この指摘にも、僕は素直に頷いたものだ。

・冒頭に触れた花田紀凱さんのことに戻ろう。この日花田さんは、『月刊Hanada』の取材で弊社に来られた。いつもは、ライターに任せのようだが、特別に自分が興味のある人、内容の取材には同行するようだ。どうやら鎌田さんの新刊本に興味を惹かれたようだ。宣伝に一役買ってくれるとうれしい。花田さんも、文藝春秋の『週刊文春』編集長を辞めて後、朝日新聞社の女性誌『uno!』編集長、角川書店の『月刊フィーチャー』発行人、『MEN'S WALKER』編集長、宣伝会議の月刊誌『宣伝会議』編集長、『編集会議』編集長、ワック・マガジンズの『WiLL』編集長を経て、現在の飛鳥新社『月刊Hanada』に至っている。
 花田さんとは今から14年前、宣伝会議の『編集会議』編集長だった時に、お世話になっている。それは、僕の高校の同級生・安原顯(天才ヤスケン)に絡んだものだ。ヤスケンが「肺ガンで余命1ヶ月」の宣告を受けた後、僕は彼の本を3冊、弊社から刊行に踏み切った。出版界始まって以来の刊行スケジュールには、さすがに鬼神ともいえども避けて通るはず、ついでに肺ガンも怖れをなして飛んでゆくのではないか、と考えたのだ。花田さんは、それを「ニュースの価値あり」と乗ってくれた。その時は、花田さんが僕の原稿に筆を入れて、『編集会議』の最新号に間に合わせてくれた。お礼を言うのは場違いだが、「花田さん、その節はありがとう!」といっておきたい。

・鎌田さんは、新年号から月刊『清流』で、「なんでもない毎日を、特別に生きる!――常識破りの逆境脱出法」という連載を始めています。第1回は、「無常を生きる」がタイトルである。「無常」と「オートファジー」のにまつわる心のあり方をめぐっての話である。人間の細胞がつねに入れ替わっているのは「流転」ということ。つまり、「オートファジー」は「万物流転」の思想です。われわれの生命の源である細胞だって流転しているのだから、われわれの生き方も考え方も、もっと流転してもいいのだなと鎌田さんは考えたと言う。この連載は大いに楽しみにしている。
 その『清流』2017年2月号では、鎌田さんが主宰する「JIM-NET」では、毎年、北海道の六花亭が原価で特別に製造してくれたチョコレートで、冬季限定の募金キャンペーンを行っていると言います。イラク・シリアの情勢は悪化の一途、難民は増えるばかり。多くの難民がヨーロッパを目指しますが、イラクに残った難民の中には、劣悪な環境で治療を受けている子どもたちがいます。鎌田さんたちは、こうした子どもや家族の負担を少しでも減らすために「子どもサポートハウス」の開設を目指し、そのための募金を集めているとおっしゃる。今回は、少女たちが描いた絵を缶のパッケージにして、バレンタインのチョコレートをつくったと言う。鎌田さんは、イラク支援、福島支援、難民支援……などの活動に、チョコ募金を含めて、世界的視野でご覧になられていらっしゃる。

辻 一郎さん、高田宏さん

清流出版 (2016年11月28日 14:55) | コメント(0) | トラックバック(0)

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『忘れえぬ人々――放送記者の40年のノートから』(1998年刊)

・僕も喜寿に近くなり、親しい友人たちが、一人、また一人と鬼籍に入ってしまい、秋の夜長は酒でも飲まなければ間がもたない。そんな漂泊の思いの中で、ふと辻  一郎さん父子と高田宏さんの友情について書いてみたくなった。辻さんは弊社から3冊単行本を刊行されたが、きっかけは既に弊社からエッセイ集『出会い』(1998年刊)を刊行していた高田宏さんの橋渡しによるもの。その高田さんも2015年11月24日に亡くなってしまった。享年83。死因は肺がんであった。本欄の2016年5月号に書いたが、実は高田さんについては、まだまだ書き足りない思いがしていた。高田さんは編集者として刮目すべき存在であった。僕は編集の先輩として高田さんのファンであり尊敬もしていた。

    高田さんは、当代きっての読書人であり、博覧強記の人でもあった。無類の酒好きだったことでも知られ、酒が入ると底なしだったとも聞く。辻  一郎さんによれば学生時代、高田さんの好きな酒場は、庶民的な店ばかり。実際、縄のれんの常連さんだった。10軒はしごしても平気だったというから、酒豪ぶりも半端ではない。高田さんが、卒業後、京都を離れることになるからと、馴染みの店を1軒ずつ訪ねて回った卒業間際のことである。このとき同行した辻さんは、高田さんの人望に目を見開かされる。「驚いたことに、どの店も餞別のネクタイを用意していて、その夜、高田がもらったネクタイは、10本近くにはなったはず」というのだから凄い。酒の場の盛り上げ方に秀でており、最高の話し上手であり、聞き上手でもあったらしいから無理もない。

    こんな逸話も残されている。高田さんの京大時代の親友が長野県飯田市の実家で結婚式を挙げることになった。その結婚披露宴に呼ばれて、高田さんが飯田に出かけたときのことである。披露宴では勧められるままに杯を空け続け、しこたま酒を飲んだはずなのだが、少しも酔っているようには見えなかった。辞して旅館に戻ろうとする高田さんを呼び止めて、新郎のお父さんがこう言ったそうだ。「少しは千鳥足で歩いてくださいよ。お酒をケチったと、ご近所の方に思われてしまいますので……」と。

・辻さんと高田さんは、京大時代からの無二の親友であったが、その出会いというのが、実に不思議な計らいとしか思えない。京大入学後の身体検査の会場で、お隣同士並んで待つことになった二人。ウマが合ったか、話が弾んで友達となり、生涯のお付き合いとなったというから、まさに“人生は出会いである”を地でいったことになる。だから卒業した学部も辻さんが法学部、高田さんは、文学部の卒業で違っている。 

    辻さんは大学を卒業後、新日本放送(現・毎日放送)に入社し、主として報道畑を歩いて、取材活動にあたる一方、報道番組の制作にも携わっている。自らプロデュースしたテレビ番組「若い広場」、「70年への対話」で民間放送連盟賞、「対話1972」、「20世紀の映像」でギャラクシー賞を受賞、その異才振りを発揮している。その後、毎日放送の取締役報道局長、取締役編成局主幹を歴任された後、大学教授に転身されて今日に至っている。

・辻さんの父君は辻  平一と言い、伝説的な編集者として知られた人物だ。大阪外語大学露語科を出て、大阪毎日新聞に入社、敏腕記者として健筆をふるった。署名入りで「大阪が生んだ文壇人」と題し、直木三十五、宇野浩二、川端康成、藤澤恒夫、武田麟太郎らをエピソード豊かに描いた連載執筆をしたこともある。戦後間もなく、『サンデー毎日』に異動した平一は、週刊誌と言えば『週刊朝日』と2誌しかない往時の『サンデー毎日』の名編集長として名を馳せている。

   その頃、ライバルだった『週刊朝日』は扇谷正造が率いており、昭和25年4月から吉川英治の『新平家物語』を連載、飛躍的に部数を伸ばしていた。平一はそれに対抗するように、懸賞小説で発掘した源氏鶏太を売りにし、『三等重役』を連載して、『週刊朝日』を急追したのである。当時、『サンデー毎日』では懸賞小説を募集しており、この入選をきっかけに文壇に登場した作家は数多かった。

    名前を挙げれば、海音寺潮五郎をはじめ、山手樹一郎、村上元三、源氏鶏太、山岡荘八、城山三郎、永井路子などビッグネームがきら星のように並ぶ。特に海音寺潮五郎とのお付き合いは、海音寺が上京して鎌倉に居を定めてから最晩年に至るまで、43年間の長きに及び、終生厚い友情の灯は途絶えなかったという。その間の、海音寺からの70通あまりの手紙が残されたが、すべて巻紙に能筆で認められていた。今は遺族に戻されて、海音寺潮五郎記念館に収められている。平一自身、『文藝記者三十年』(昭和32年、毎日新聞社刊)、『人間 野間清治』(昭和35年、講談社刊)などの著書もある。


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『父の酒』(2001年刊)

・さて、この伝説の編集者辻  平一が、日本の企業PR誌のイメージを一変させたと言わしめた高田宏さんと関わってくるから人生は面白い。昭和29年の秋から冬にかけて、京大卒業を前にした高田さんは次々と入社試験に落ちていた。NHK、新日本放送、朝日放送、松竹、東映、そして平一のいた毎日新聞も、である。このうち、受験のための紹介者が必要だった新日本放送、松竹、東映は平一の紹介で受験したものだ。毎日新聞は自由応募だったから、紹介はいらなかったらしいが、動向を気にしていた平一が調べてみると、高田さんは作文が良かったという理由で面接には残っていたが、試験の成績は何百何十番目だったとか。採用予定者数名に対して百人が面接に残り、その百番目ではどうもならなかった。平一は「高田君、むつかしいぜ、これは」と言ったという。

    こうして就職も決まらず、お先真っ暗な日々を送っていた高田さんを救ったのも平一だった。「少女雑誌の会社なら、受けるだけは受けられるがどうかね」と、高田さんに話をもってきたのだ。その出版社は東京の光文社で、この年初めて入社試験をして社員を採用するということだった。光文社は東京の大学数校に募集案内を出しているが、辻さんの知人が役員をしている会社なので受験を頼むことができたらしい。もちろん、藁にも縋る思いだった高田さんは、二つ返事で上京して受験する。当時、光文社は文京区音羽の講談社5階に間借りしていた。

    入社試験はユニークそのものだった。二百字詰五十枚綴じの原稿用紙が1冊ずつ配られて、5、6時間以内に6本の原稿を書かされたという。課題は次の通り。「戦後の大衆娯楽の種々相を論じ、それについて所見を述べよ」、「我が父(母)を語る」、 「旧師へ卒業を知らせる手紙」、「最近感銘を受けた本について感想を述べよ」、 「現代の尊敬する人物とその理由を述べよ」、「愛読する新聞とその特長、及びどういう欄、或いは記事を好んで読むかを記せ」。高田さんは、課題に対して「酒」で書けるものはみんな酒で料理しようと決めた。それがダメなものは「笑い」でいこうと考えた。酒は高田さんの一部でもあったし、笑いは卒論のテーマ(「フローベールの笑いについて」)でもあったので、自信があったのだ。こうして課題の35枚の原稿を書き終えた高田さんは、帰りに、そのころスタートしたばかりのカッパブックス第1号目の伊藤整著『文学入門』をおみやげに京都に帰った。

・採用通知がきて、翌春4月、めでたく『少女』編集部に配属となり、高田さんの編集者人生が始まったのである。光文社では、入社してしばらくして春の社員旅行があった。修善寺温泉1泊旅行である。飲み放題の酒に大喜びの高田さんは大酒をくらい、新入社員の分際で、いきなり光文社の「のんべえ四天王」の一人となる。僕は高田さんほどのんべえでもないが、大の酒好きの身として、こういう話は大好きだ。出版部のKさんというのが、のんべえ四天王の一人で、たまたま京大の先輩だった。そのKさんが、「君か、酒の話ばかり書いて入ってきたのは」と笑って、どんどん酒をついでくれたそうだ。古き良き時代の話である。

    辻さんと高田さんは、卒業直後は、ともに東京で仕事をしていたので、有楽町のガード下あたりで飲むことがあった。「今日は社で仕事をしながら、一人でウィスキーのボトル1本空けてしまったよ」という高田さんの話を聞いて、辻さんは驚いたらしい。出版社と放送会社では職場の雰囲気がこんなにも違うものだとの印象を深くしたことと、それだけ飲んでも、まったく顔に出ていない高田さんの酒豪ぶりに改めて呆れたのだった。

    辻さんは、父・平一と高田さんの関係についてこんなことを書いている。「高田は私の父とも仲良しでした。二人をつなぐ接点はもちろんお酒でした」と。実際、平一は友人の中でも、酒飲みを特に優遇したらしい。だから、平一は高田夫妻の結婚に際し仲人を務め、その後も深いお付き合いが続いたのである。

・高田さんに麻雀を教えたのは辻  一郎さんである。平一が麻雀好きで、家庭麻雀を楽しんでいたので自然に覚えたのだ。ところが辻さんが京大に入ってみると、麻雀を知っている学友は少なかった。そこで何人かを下宿に誘い込み、ルールを教えることにした。弟子は5、6人いたらしいが、その中の出色の弟子が高田さんだった。麻雀を教えたその日に、国士無双をあがって、先生の辻さんをびっくりさせたらしい。

    平一と高田さんも当然ながら雀友となった。高田さんが訪ねていくと、平一は喜んで麻雀に誘ったらしい。何度も雀卓を囲んで談笑している。平一の麻雀は人間同様に大らかそのものだった。小さな手では絶対、上がろうとしない。「常に1翻安くせよ」は、作家・五味康祐の教えだが、平一の場合は、少しでも大きくすることしか考えなかった。だから大抵は負けていた。一方、息子である辻さんは、負けない麻雀を身上とする。これでウマが合うわけがない。辻さんが上がる度に、「なんたる心事陋劣(しんじろうれつ)!」と怒られたという。せっかくこんな大きな手を楽しんでいるのに、さっさと上がるとは何事だというわけだ。僕も今でも麻雀をやるが、どちらかといえば、遊びより精神にこだわる男だ。

    辻さんは『話の特集』の編集長だった矢崎泰久などとも卓を囲んだことがあり、相当な力量の持ち主だったようだ。それが証拠に、矢崎を取り巻くレギュラーメンバーだった毒舌のばばこういちや、テレビマンユニオンで活躍していた宝官正章などを相手に負け知らずだったらしいが、「その矢崎と一緒に遊んでも、負けた記憶がほとんどない」、というほどの腕前だった。矢崎泰久にこう言われたこともあったそうだ。「辻さん、『近代麻雀』の対談に出てくれませんか。八段をあげますよ」と。

    それにしても羨ましい。辻さんの雀友の一人として、美人女優の加賀まりこさんがいるというではないか。立木義浩が六本木族と呼ばれていたころの加賀まりこさんを「とげとげしいけど愛くるしい」と評したそうだが、僕もそのころから加賀まりこさんの大ファンだった。その加賀さんはなかなかの打ち手だったようだ。ぼやきを入れながら自摸牌を次々切ってくるので、まだ聴牌はないと辻さんが安心していたら、思いがけず国士無双を聴牌していたこともあったそうだ。辻さんが「すっかり騙されました」と言うと、加賀まりこさんはニヤリと笑って、「だって私、女優ですもの。騙すのが商売なのよ」と言ったそうだ。いい話である。


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『私だけの放送史――民放の黎明期を駆ける』(2008年刊)

・話を高田さんに戻そう。本欄5月号に書いたが、プロフィールを簡単にご紹介しておく。1932年に京都市に生まれ、4歳の時に石川県加賀市大聖寺町に移り住み、大聖寺高等学校をへて京大文学部仏文科へ進む。大学に入り、マックス・スティルネルの著になる『唯一者とその所有』(辻潤訳、日本評論社出版部、1920年刊)に出会う。これが高田さんのバックボーンとなった。すなわち、この本の「自分を何物にも従属させないで生きる」という考えに共感し、何物にも縛られない自分こそが真に自由な自分であると確信し、「とらわれない、縛られない」を自らの生き方のモットーとしたのである。何ものにも従属しないと決めても、食べていかなければならない。生活のためには職に就かなければならない。だが、雑誌編集の要諦は企画力であり、何ものにとらわれない斬新さが重要なので、「とらわれない、縛られない」という基本姿勢は、雑誌編集の仕事を続ける上で、有利に働いたといえよう。

    1975年、46歳の時、編集の総括として『言葉の海へ』を出版し、退職の意志を固め文筆専業となった。代表作には『島焼け』などの歴史小説をはじめ、自然、猫などをテーマに随筆・評論・紀行など著書は都合百冊ほどになる。公職としても日本ペンクラブ理事、石川県九谷焼美術館館長、深田久弥山の文化館館長をそれぞれ務め、また将棋ペンクラブ会長でもあった。受賞歴としては、1978年に『言葉の海へ』(言語学者・大槻文彦の評伝)で大佛次郎賞と亀井勝一郎賞、1990年に『木に会う』で読売文学賞、1995年に雪国文化賞、1996年に旅の文化賞をそれぞれ受賞している。

・光文社からアジア経済研究所に転じた高田さんは、『アジア経済』の編集に従事する。しかし、時間の余裕はたっぷりあったが、仕事があまり面白くないことと、給料にも多少の不満があった。そこで数年で見限ってエッソ・スタンダード石油に入社する。そこで伝説が生まれるのである。PR誌『エナジー』の編集をし、続いて『エナジー対話』を編集する。このころから、辻さんは取材先で、高田さんの噂を聞くことが多くなったと書いている。このPR誌のクォリティがあまりに高く評判となり、一躍世に知られるところとなったのである。『エナジー』は1964年の創刊以来、ユニークで格調高い内容で評判を取り、「PR誌らしからぬPR誌」との評価を得ている。日本の企業広報誌のイメージを一変させる役割を果たしたといっていい。1冊1特集という形式を取ったのも、斬新で画期的な企画構成であった。1号目の特集は「海」。2号は「探検」。3号は「海外における日本研究」。それぞれの特集には、そのテーマについて当代一流の監修者を立てた。例えば13号の「未来学の提唱」の監修者には、梅棹忠夫、加藤秀俊、川添登、小松左京、林雄二郎が選ばれ、監修に当たっている。これだけのメンバーを揃えては、「下手な総合雑誌以上と評判がある」と小松左京に言わしめているのもよく分かる。京大人文研のメンバーにしばしば原稿執筆を依頼し、PR誌を超えた雑誌として評価されたのである。

・僕は清流出版という小さな出版社を始めたときから、高田宏さんの本を出したいと強く思っていた。そして、弊社でその高田さんの本を2冊刊行できたのは、すこぶる嬉しかった。前述した『出会う』(1998年刊)と『還暦後』(2000年刊)である。ともにエッセイを編んだものだが、高田さんらしさがよく表れた本だと思っている。『出会う』は、樹木・森・島・雪などの大自然の佇まいを愛でる、また、旅先での何気ない人間の触れ合いを描いたエッセイの中から、担当編集者の臼井雅観君が精選したものだった。

    また、『還暦後』はその題名の通り、高田さんが還暦を過ぎてから書いたエッセイから精選して編んだものだ。60代半ばを過ぎると、当然のことながら生と死について思うところが多くなる。高田さんはこう言っている。「人間も、草木鳥獣虫魚や山河も、すべてが懐かしく思えてくる。旅をする日々には、胸の奥にこれが最後という気持ちがある」。そんな気分を背景にして還暦後に書かれたエッセイを集成したものだけに、しみじみと心に沁みてくるエッセイだ。この本は女優の浜美枝さんが書評で絶賛してくれたことを思い出す。しかし、無二の親友を失った辻  一郎さんの胸中はいかばかりか。僕も体験しているから分かるのだが察するに余りある。時間が解決するなどと、軽はずみに言う方もいるがそんなものではない。寂量感でポッカリと胸に風穴を開けられたような心地がしたものだ。僕は晩秋の夜長、高田宏さんを偲んで、この2冊の本を、もう一度、読み返そうと思っている。

鹿島茂さんご夫妻

清流出版 (2016年10月26日 16:48)

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鹿島茂さん、奥様の岸リューリさん
 

・今回は、フランス文学者・評論家で明治大学国際日本学部教授でもある鹿島茂さんについて書いてみたい。というのも、今年、11月18日の発売予定で鹿島茂さんの新刊が弊社から刊行されるからだ。書名は『「悪知恵」の逆襲――毒か? 薬か? ラ・フォンテーヌの寓話』である。実はラ・フォンテーヌとは17世紀フランスの詩人で、「すべての道はローマへ通ず」「火中の栗を拾う」など、多くの名言・格言を残した人である。イソップ寓話を基にした寓話詩(Fables、1668年)でよく知られている。 

 ラ・フォンテーヌの童話集・寓話集は日本でも岩波書店、河出書房、社会思想社など大手出版社から十数冊翻訳出版され、今もって根強い人気を博している。「北風と太陽」や「金のタマゴを産むめんどり」「かえるの王様」などは、皆さんもよくご存じの寓話であろう。イソップ寓話というのは、子供向けに書かれたようで子供向けではない。実は混迷する現代日本を生き抜いていくに必要な、大人向けの人生訓がきら星のように散りばめられているのだ。

 弊社では、このイソップ寓話を鹿島流解釈により、現代の処世訓として蘇らせるとして、連載を月刊『清流』にお願いした。これがとても好評だったので、その連載を元に2013年、『「悪知恵」のすすめ ラ・フォンテーヌの寓話に学ぶ処世訓』として刊行させていただいた。これが大手新聞社、共同通信社の書評掲載、NHKのラジオ番組「土曜あさいちばん」で取り上げられるなど、評判となり増刷出来となったのだ。これに味をしめたというのではないが、再びラ・フォンテーヌの寓話を現代に読み解くという連載をお願いして、その2冊目が今回の『「悪知恵」の逆襲――毒か? 薬か? ラ・フォンテーヌの寓話』となったわけだ。
 

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『「悪知恵」のすすめ――ラ・フォンテーヌの寓話に学ぶ処世訓』(2013年刊)
 
 

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『「悪知恵」の逆襲――毒か? 薬か? ラ・フォンテーヌの寓話』(2016年刊)
 

・鹿島さんとのお付き合いは、かれこれ十数年といったところだろうか。これだけの売れっ子になると、書き下ろしは絶対に無理だという。確かに20本以上の連載を抱えていると聞けば、無理ならんと思えてくる。そこで考えて、雑誌に連載していただき、それを単行本にするというのが一番お願いしやすいこともあり、最初、「神田村通信」として神田神保町の古書街や古書事情などをテーマにして月刊『清流』にエッセイを連載していただいた。文章を鹿島さん、挿絵を奥様の岸リューリさんにお願いした。なかなかにユニークな誌面で、僕も印象深い。
 

 この月刊『清流』に連載された神田村暮らしのエッセイをメインに、プラスして他の雑誌、新聞からのエッセイを精選して一冊に編んで刊行したものだった。単行本として刊行した『神田村通信』(2007年)は、神田神保町の東京堂で発売と同時に、その週のベストワンに選ばれた。以降、順位は多少上下しつつも、数か月にわたってベスト10に入り続けた。このころ鹿島さんは、東京堂のすぐ傍に仕事場と居宅があり、当時の勤め先だった共立女子大学も神田村周辺にあった。だから帯のキャッチにこう書いたのを覚えている。「本の町・神田神保町に暮らす“フラヌール鹿島"の全生活を公開!!」と。僕も若い頃、神田神保町の遊歩者(フラヌール)に憧れたこともあったが、所詮、一介のサラリーマンの夢だった。
 

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『神田村通信』(2007年刊)
 

・鹿島さんといえば、1949年生まれで神奈川県のご出身。神奈川県立湘南高等学校から東京大学文学部仏文学科卒業し、同大学院人文科学研究科博士課程中退。32歳の時、翻訳した『映画と精神分析』(クリスチャン・メッツ著 白水社刊 1981年)を皮切りに、数々の著訳書があり、ざっと数えただけでも160冊を優に超えるのではないか。わが国有数の書き手でいらっしゃるのは事実だ。1991年には『馬車が買いたい!』(白水社刊)でサントリー学芸賞、1996年に『子供より古書が大事と思いたい』(青土社刊)で講談社エッセイ賞、1998年に『愛書狂』(角川春樹事務所刊)でゲスナー賞、1999年に『職業別パリ風俗』(白水社刊)で読売文学賞、2002年に『成功する読書日記』(文藝春秋刊)で毎日書評賞を受賞している。出版する本が軒並み高く評価されるという稀有な作家である。
 

 鹿島さんは、なんといっても19世紀フランスを専門領域とし、わけてもオノレ・ド・バルザック、エミール・ゾラ、ヴィクトル・ユゴー等を題材にしたエッセイで知られている。その上、古書マニアとして有名だ。毎回、フランスへ行くと、どっさり古書を買ってしまう。カード決済で購入されるらしいのだが、財布の中はカードだらけでどう収めようとしても入りきらないと嘆いてらした。ただ一つの朗報はこのところのユーロ安であろうか。一時、160円近くまでいったユーロで古書を買うにも負担増で頭を抱えておられたが、現在は110円台で推移している。円高になっての50円近い差は、随分お金の使い勝手が違うことだろう。僕が1969年から1970年まで、パリ生活をしてせっせと古書店巡りした時は1ドル360円、そして、外国に持ち出せるドルは制限があり、たった500ドルだった。僕は少々、早すぎたらしい。1990年代になってから古書店巡りに目覚めれば良かった。
 

・鹿島さんは、流石に超売れっ子である。今年に入って、すでに3冊の新刊を刊行された。弊社が4冊目である。『フランス文学は役に立つ!「赤と黒」から「異邦人」まで』(NHK出版刊)と、2冊は「ドーダ理論」をテーマにした偉人伝だ。「ドーダ」とは「自己愛に源を発するすべての表現行為」である。著書『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』(朝日新聞出版刊)の概要にはこうある。≪作家はそれぞれ「ドーダ」を表現欲として書き続けてきた。小林秀雄の文章は難解である。「なぜ、小林秀雄は分かりづらいのか」。そこから本書はスタートし、小林のコンプレックスを突き止め、偉大な文学者の本質を軽やかに衝く。難解な小林秀雄の文章が身近に感じられる、読みはじめたら止まらない文学論、かつ、コンプレックスにがんじがらめになった小林を身近に感じ、苦手意識が薄らぐ、読み応えのある小林秀雄論≫であると。続いて刊行されたのが、『ドーダの人、森鴎外――踊る明治文学史』(朝日新聞出版刊)である。同じく概要ではこうある。≪東大で独逸語を学び、ドイツに留学したのちには軍医の傍ら、小説家としても名をはせた森鴎外。彼には西欧人コンプレックスから生まれた「ドーダ」がある、と著者は説く。偉大な文学者の過剰な自意識に迫る画期的な文学評論≫と。いずれにしても鹿島さん独特の視点から書かれたドーダ理論に裏打ちされた異色の偉人伝である。大いに興味深いところだ。
 

・鹿島さんの所蔵するコレクションが、また、素晴らしい。2012年の5月、雨がそぼ降る日だったが、僕は、月刊『清流』の長沼里香編集長と練馬区立美術館で開催された『鹿島茂コレクション』を観に行った。そして、『バルビエ×ラブルール展』を観て、興奮を抑えきれなかった。ともにフランスのアール・デコ期を代表する挿し絵画家、ジョルジュ・バルビエ(1882-1932)とジャン=エミール・ラブルール(1877-1943)の見事なコレクションの数々。鹿島さんのコレクターとしての慧眼ぶりに目を見開かれた思いがした。バルビエは鮮やかな色彩の妙に、そしてラブルールは緻密な線描写が素晴らしかった。バルビエがニジンスキーのダンスを描いた名高いデッサンには思わず唸らされた。また、ラブルールは文学作品の挿し絵を多く手がけ、オスカー・ワイルドの代表作『ドリアン・グレイの肖像』の他、アンドレ・ジッドの『法王庁の抜け穴』の挿し絵などが特に印象に残っている。それにしても、見事なコレクションであった。鹿島さんは、ここ数年、練馬区立美術館と組んで、『グランヴィル展』(19世紀フランス幻想版画)や『モダン・パリの装い展』(19世紀から20世紀初期のファッション・プレート)等のコレクションを行っているが、このような試みは、本来の類なき“文才”の名はもちろんだが、その上“名コレクター鹿島茂”の評価を高めることになったのではないだろうか。

熊井明子さん、桐原春子さん姉妹

清流出版 (2016年9月23日 10:45)

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英国旅行にて熊井明子さん(左)と桐原春子さん (写真提供:桐原春子)


・熊井明子さん、桐原春子さん姉妹には、大変お世話になった。弊社から単行本も二冊ずつ出させていただいた。また、現在、熊井明子さんには、月刊『清流』に「五感で楽しむポプリテラピー」という連載をお願いしている。毎月、季節感を感じさせるハーブ、果物、草花、精油などを使った簡単に家庭でも出来るポプリを提案していただいており、読者からも好評だと聞いている。熊井さんと桐原さんは信州松本市のご出身だが、実は愚妻も松本市の出身であるし、僕が子供のころ疎開した先も信州の塩尻(上田市)という所だったこともあり、特別信州には思い入れ深いものがある。 

   信州にはいい美術館がたくさんあり、美術館巡りも随分してきた。安曇野には草柳大蔵氏が絶賛していた碌山美術館やいわさきちひろの絵本原画を展示した安曇野ちひろ美術館など。諏訪市には北沢美術館、原田泰治美術館などがある。余談だが、原田泰治美術館で僕が「ふるさと風景」の絵を見て回っていたところ、「失礼ですが、原田泰治さんでいらっしゃいますか?」と声を掛けられたことがある。風貌が似ているとも思えないが、小児麻痺で両足が不自由な原田さんは車椅子生活、僕も車椅子で見て回っていたので、間違われたのであろう。長野市にも信濃美術館東山魁夷館、池田満寿夫美術館などが思い浮かぶ。小布施には日本中の桜の古木を描いた中島千波の「おぶせミュージアム・中島千波館」があり、上田市にはこの欄でも度々取り上げさせていただいた戦没画学生の展示館「無言館」がある。館長の窪島誠一郎さんについては、過去の当ブログを参照していただければと思う。

   僕の大好きな音楽でも松本は思い出深い。「セイジオザワ松本フェスティバル」は1992年、指揮者の小澤征爾が創立したもので、毎夏、松本市で行われている音楽祭である。サイトウ・キネン・オーケストラを指揮した小澤征爾の演奏会のチケットが思いがけず手に入り、勇躍、駆け付けて至福の夕べを過ごしたこともある。信州は盆地で標高が元々高い。真夏でも湿度が低いので過ごしやすい。年を取るにしたがって、暑さが身に応えるようになった僕には信州の涼しさはとても魅力的だ。温泉も僕は障害者になってからは、なかなか思い通りには行けなくなってしまったが、扉温泉のように、知る人ぞ知る隠れたいい温泉があったりする。

・さて、安曇野市豊科町は、熊井明子さんの夫君・故熊井啓監督の生誕の地である。実は豊科町には熊井啓記念館があり、僕も訪れたことがある。これまで熊井啓さんが監督・助監督をした作品の資料がすべて収められている。「帝銀事件・死刑囚」でデビューした熊井監督は、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏?冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けている。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「地の群れ」「お吟さま」「サンダカン八番娼館・望郷」「天平の甍」「千利休 本覺坊遺文」「深い河」などがある。

   特に僕の印象に残っているのは、あの「黒部の太陽」であった。石原裕次郎は、52年の生涯で100本近い映画に出演したが、最も印象深い作品にやはり「黒部の太陽」を挙げている。「五社協定」のぶ厚い壁に阻まれて苦戦を強いられ、それを乗り越えて完成させることができたという経緯に加え、破砕シーンのロケ現場で右手親指骨折、全身打撲の大けがを負ったからである。そんな「黒部の太陽」の脚本が展示されていた。各所に書き込みがなされており、制作過程での懊悩も窺える。

   その他、ポスター類、絵コンテ、撮影現場写真など、貴重な資料が所狭しと並んでいた。また、熊井啓、明子夫妻の著になる本もすべて納められ陳列されている。もちろん、弊社の本も収められていた。実は前にも本欄で触れたことがあるが、熊井啓監督が写真撮影をし、明子さんが解説文を書いた『シェイクスピアの故郷 ハーブに彩られた町の文学紀行』という本を弊社から出させていただいた。熊井夫妻唯一の共著書である。編集作業を急ぎ、熊井監督の一周忌に間に合わせて刊行させていただいた。明子さんに大変喜んでいただけたのは記憶に新しい。
 

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熊井啓監督と明子さんの共著

・お二人の本の編集担当者として長くお付き合いをしてきた臼井雅観君は同じ信州人であり、熊井さん、桐原さん姉妹については僕よりも詳しい。臼井君によれば、お二人は毎年のイギリス旅行を定例化しているとか。二人旅のきっかけとなったのは、1988年の7月から8月にかけての英国への取材撮影旅行だったという。姉妹の共著『ハーブ&ポプリ英国風の楽しみ方』(主婦の友社)の刊行の最終詰めに当たり、裏付け取材と写真撮影のための18日間にわたる旅であった。熊井明子さんの生涯かけての研究テーマがシェイクスピアであり、『今に生きるシェイクスピア』(千早書房)、『シェイクスピアのハーブ』(誠文堂新光社)などの著書もあるし、1999年には『シェイクスピアの香り』(東京書籍)等の著作活動により第7回山本安英賞を受賞している。受賞理由は、「シェイクスピアの魅力を新たな角度から探求した業績を評価して」となっており、その果たしてきた功績はとても大きい。

   一方、実践派のハーブ研究家として多くの本を出し、朝日カルチャーセンター、読売文化センター、玉川高島屋コミュニティークラブたまがわのハーブ教室ほか各カルチャーセンターで、家庭でのハーブの楽しみ方などを提案するなど講師を長らく努めてきている桐原春子さん。何年にもわたって読売新聞に月1回のペースで長らく世界の庭園をルポしてきた(現在、連載は終了した)が、イギリスの庭園はその中でも白眉ともいうべき存在であった。

   ヒドコートやシシングハーストなどの有名どころから個人庭まで、英国の庭が34箇所も紹介され、それぞれの解説も簡潔でわかりやすいと評判をとった『とっておきの英国庭園』(千早書房)や読売新聞の連載から精選した庭園を紹介した弊社刊の『桐原春子の花紀行 世界の庭園めぐり』など、英国の庭園関連本を多数刊行しておられる。
必然的にお二方ともに単独での英国旅行も多くしてきており、イギリスへの並々ならぬ関心の高さがうかがえる。だからお二方ともに、イギリスは何度行っても興味が尽きない国となるらしい。
 

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弊社刊行、桐原春子さんの著書

   面白いのは、それぞれ旅ごとにテーマ色を決めているというのだ。テーマ色に合わせて着るものやスカーフ、靴、小物などまで色を揃えるのだ。ちなみにこのテーマを決めて初めてイギリス旅行をしたのは2012年という。ちなみに2012年のテーマ色は緑色だった。2013年はオレンジ色、2014年は青色、2015年はピンク色、そして今年もイギリス旅行に行ってきたのだが、テーマ色は紫色であったという。桐原さんはブログで日々の活動や旅行の詳細を発信しており、この旅行の様子も実に分かりやすく解説されている。桐原さんのブログは写真も多数アップされており、好評とのことで、今年8月13日のブログには、90万アクセスが達成されたことへの感謝の言葉が載っていた。90万アクセスとは僕も驚いた。凄い数の人々が桐原さんのブログに関心を持っているということ、その影響力はかなりなものだ。

・今年のイギリス旅行は7月20日から27日まで、8日間だったそうだ。行先は昨年と同様、ワイト島と西南端のコーンウォールの旅。ワイト島では、上陸してすぐにオズボーンハウスを訪ねている。オズボーンハウスはヴィクトリア女王が生涯愛し続けた離宮で海を臨む場所にある。そのすべての設計を最愛の夫アルバート公が手がけたという見事な庭園つきの離宮である。ヴィクトリア女王の治世にあった1837年から1901年は英国の黄金期、爛熟期であった。そんな栄華を偲ぶ旅になったという。また、ワイト島はジョン・キーツやアルフレッド・テニソンゆかりの島でも知られる。キーツが2回も訪ねて詩作したという滝や、キーツの泊まっていたホテルを実際に眺めたりと、詩人ゆかりの場所を楽しみながら辿る思い出深い旅となったようだ。
 

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ワイト島の白い崖を背に紫色基調の服で (写真提供桐原春子)
 

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今年のテーマカラー、紫色が映える (写真提供桐原春子)

・お二人は大の猫好きでも知られる。熊井さんの愛猫は長毛系の「ニャン」。年は8歳になる。ニャンは毎朝、足の裏の長い毛を、まぶたや頬にそっと当てて熊井さんを起こしてくれるそうだ。こんな起こし方をする猫は初めてだという。熊井監督のご存命中飼っていたマロンは、目覚まし時計の音をまねて、「ニャニャニャニャ……」と耳元で鳴いたらしい。マロンから十数年ぶりに飼ったニャンは、忘れていた“猫による幸せな朝の目覚め”をもたらした、と感謝しているとか。一方、桐原さんの猫はやはり長毛系シルバーチンチラの「モヤ」。御年17歳という長寿猫。桐原さんのブログにもたびたび登場している。今年の夏は特に暑かったので、ペットサロンで夏バージョンカット、つまり頭を残して丸刈りにしてもらった。だから見るからに涼しそうである。

   猫好きが旅をすると、行く先々で猫に出会うから不思議。まあ、岩合光昭氏の世界猫歩きを見ていても、猫がいそうな場所が分かるということもあるのだろう。行きつけのホテルの猫、路地裏の猫、いろんな場所で猫に会ってしまう。猫は本能的に猫好きな人が分かる。そんな旅先で出会った猫たちがが桐原さんの日々のブログでも紹介されている。

 
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英国旅行先で猫と戯れる (写真提供桐原春子)

・熊井さんと桐原さんは、好対照のお二人である。少女時代から文学少女だった熊井さん。少女時代から活発に飛び回るアウトドア派だった桐原さん。とてもよいコンビだとお見受けする。「香りのある楽しい暮らし」と題しての姉妹セミナーや姉妹講演会をされたり、『味覚春秋』という雑誌では、林望さんと姉妹での鼎談を行ったりと、なかなか仲のいいお二人である。現在、熊井さんは、猫に関するエッセイをまとめているとか。いずれ単行本化したいと考えておられるようだ。桐原さんも、読売新聞に連載してきた世界の庭園巡りを形にしたいと思っておられる。ともあれ、姉妹でご活躍なのは、傍から見ている僕も嬉しい。また、雑誌や単行本でコラボする機会ができればと思っている。
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