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野見山暁治さん

清流出版 (2018年1月23日 11:57) | コメント(0) | トラックバック(0)

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野見山暁治さんと僕

・旧臘、画家の野見山暁治さんから新刊『じわりとアトリエ日記』(2017年12月16日発行、2500円+税金、生活の友社刊)が贈られてきた。さっそく拝見すると、約510ページもの大著である。片手しか使えない僕には、持ち運びがしんどいほどだ。その本が文字通り「どん!」とばかりに届いた。野見山さんの本業はもちろん画家だが、僕は文章も大好きなので大いに楽しんだ。暮れからお正月にかけ、この本を何回も繰り返し読んだ。本欄『加登屋のメモと写真』で、野見山さんのことは何度も書いてきたが、初めてこのコラムをご覧になる方は、野見山さんと僕がどのような関係なのか分からないだろう。おいおい説明をしていきたい。

・『アトリエ日記』の連載は、月刊誌『美術の窓』で2003年12月号にスタートし、すでに14年以上になる人気シリーズである。そもそも単行本化については、わが清流出版が口火を切った。僕のたっての希望で野見山暁治さんを説得し、出版にこぎつけたものだった。『アトリエ日記』(2007年)、『続アトリエ日記』(2009年)、『続々アトリエ日記』(2012年)と、都合3巻まで清流出版から刊行させていただいた。その後、僕が清流出版の代表を降りたので、月刊誌『美術の窓』を発行する(株)生活の友社が引き続き刊行することになった。4巻が『やっぱりアトリエ日記』(2014年)、今回の5巻目が『じわりとアトリエ日記』となったわけだ。
『じわりとアトリエ日記』には、2013年11月から2017年2月までの日記を収載している。さすがに美術専門出版社らしく、単行本にする時の企画内容が斬新だった。4巻の巻末では野見山さんに聴くと題し「105の質問」を収載し、これまでの作品と比べ差別化を図っていた。生活の友社の編集企画部長・小森佳代子さんの尽力によるものだ。今回の刊行も、大げさなようだが、小森さんが命賭けで取り組んだ結果、刊行にこぎつけられたのである。彼女は癌という病を得て、闘病生活をしながら、著者や印刷所を暮れも正月もなく動かし、本作りを行なったものだという。野見山さんの日記を読むと、小森さんの闘病の日々が窺い知れる。「抗癌剤治療後の小森さんの頭にも、黒々と髪の毛が生えてきた」(『じわりとアトリエ日記』)などという記述があったからだ。実に素晴らしい小森さんの仕事ぶり。その編集者魂には脱帽するばかりである。

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『じわりとアトリエ日記』のカバー

・野見山暁治さんは、1952年からパリで12年間の絵の勉強を終えて、1964年に日本に帰国した。1968年に母校である東京藝術大学に助教授として招聘され、後に教授となり、1981年まで勤務した。最後は、東京藝術大学名誉教授となっている。野見山さんは、軽妙洒脱な文章でも知られ、『愛と死はパリの果てに』以降、20冊以上の単行本を上梓されている。僕が一番好きなのは、『四百字のデッサン』(1978年、日本エッセイスト・クラブ賞受賞)というエッセイ集である。僕はこの本を初めて読んだ時の衝撃を、いまもって忘れることができない。

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河出書房新社刊の文庫判

・野見山さんは、齢97歳というご高齢にもかかわらず、絵に文章にとますます多忙を極めている。文化功労者顕彰(2000年)、文化勲章受章(2014年)など世俗の名誉も得た。僕が、そのような方との知遇を得られたのは、天の見えざる配剤であろうと感謝している。今回の『じわりとアトリエ日記』も、過去のシリーズ同様に、野見山さんの身辺雑記的な日常を淡々と描いている。日ごろ知りえない画家の日常生活だけに、僕にとってとても興味深いものだった。締め切りに追われ、呻吟しながらの個展用の作品制作から、時には画廊・美術館・博物館巡りをするなどアグレッシブな日常ぶりが窺える。交友関係の広さにも驚くばかりで、そんな男友だち女友だちとの交流ぶりが淡々と綴られている。

・今回の『じわりとアトリエ日記』で、一つの読みどころは、野見山さんの名誉欲に対する恬淡さである。一般に、功成り名を遂げた著名人というのは、名誉に固執するものだ。野見山さんは、芸術選奨、文化功労者としても顕彰された。戦没画学生慰霊美術館「無言館」の開設・運営にも尽力し、館長の窪島誠一郎さんとともに菊池寛賞も受賞している。平成26年には、文化勲章を受章したが、野見山さんはいまだに受章したことを悩んでいるようなのだ。「勲章を受けた方がよかったのか、断った方がすんなりといったのか。いまだに葛藤が続いている。先々、描き続けるには、どちらが良かったろう」(『じわりとアトリエ日記』)。

・昨年お亡くなりなった(有)無限の代表取締役、奥田敏夫さんと僕は、お酒を酌み交わしながら、この件について語り合ったことがある。「どうやら野見山さんが、今度の文化勲章受章者にノミネートされたらしい。野見山さんは、どうされるのかに興味深いけど、すでに文化功労者の顕彰を受けておられるし、どうかな……」「無欲な野見山さんだから、断るかもしれないね」などと噂したものだ。芸術家・画家の立場を超え、一人の人間としては、「心底、野見山さんは素晴らしい方だから、受けるも断るも、どっちに転んでも野見山さんらしい」と結論は一致したのが懐かしく思いだされる。

・ここからは、僕が『じわりとアトリエ日記』から興味を引かれた個所を引いてみる。野見山さんは個展をしばしば行なっている。その個展に間に合わせて、作品制作を頑張っている。そして、その合間を縫って、自らの個展の出席はもちろんのこと、友人知人、触発されられる芸術家、物故者などの展覧会、個展にもせっせっと足を運んでいる。
 例えば――、
 ニューオータニの展覧会、尾道の美術館、みゆき画廊の正月展、「上海博物館・中国絵画の至宝」展(上野の博物館)、宮脇愛子の新作展、菅野夫妻の二人展、高島屋の井上悟展、「印象派を超えて――点描の画家たち」(六本木の国立新美術館)、ギャラリームサシでムサ美の実専展、山口長男を讃えて新年宴会、芸大で佐藤一郎の退官記念展、遠藤彰子展、「国宝大神社展(大宰府の博物館)、高島屋で「千里の個展」、大阪の高島屋で個展「はじめまして百貨店、野見山暁治です」――ここに紹介したのは、アトリエ日記のほんの一部の引用である。傑作なのは、大阪の高島屋の個展で、「はじめまして百貨店、野見山暁治です」のキャッチフレーズ。実に野見山さんらしいウィットが冴え渡っている。

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左から小森佳代子さん、山口千里さん、野見山暁治さんと僕

・野見山さんの文章は「日記体」だが、例えば、
 ≪2013年12月31日。年越しそばを、夜遅く千里が運んでくれる約束。それに併せて小森さんが推敲のゲラを取りに来る手はず。せっかくボクシングの中継なのに口惜しい。ともかくゲラを渡さなきゃ年が越せん。小森さんもそれを持って帰らないと、正月が迎えられん。ぎりぎりの大晦日かもしれんが、ぎりぎりの年齢。あまり、こき使うな。≫などと、軽妙洒脱な表現とユーモアが光っている。
 千里とは、山口千里さんのことである。野見山さんと同郷の福岡県のご出身で、いわば野見山さんの秘書的な役目を務めておられる。聖心女子大学教育学科を出て、国展、女流画家展を中心に絵の世界でも活躍中で、伊藤廉記念賞展、東京セントラル美術館油絵大賞展、第2回ジャパン大賞展、上野の森美術館大賞、国展奨励賞などを受賞した気鋭の画家、国画会会友である。

・野見山さんは、人物描写が抜群にうまい。本書でも、さまざまの方をスケッチしているが、アットランダムで紹介する。野見山さんの実妹は、作家・翻訳家の田中小実昌さんの妻である。小実昌(「こみまさ」が正式だが、「こみしょう」と愛称された)さんが、2000年2月27日、旅先のロサンゼルスで亡くなるまで、実の兄弟のような温かい交流が続いた。小実昌さんはアメリカのスラングにも通じ、翻訳した『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(原作ジェームズ・M・ケイン)は、都合5人ぐらいの訳者が翻訳したが、僕はどの訳者より断然訳がこなれていてうまいと思った。
『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、ルキノ・ヴィスコンティ監督などによって、4度も映画化されている。小実昌さんが生きていたら、野見山さんと文章の掛け合い漫談を仕掛けたいと思ったほど。本書でも、小実昌さんのことを何回もお書きになって、懐かしさを吐露しておられる。僕は、小実昌さんが出てくる度、古巣ダイヤモンド社時代での小実昌さんとのお付き合いが思い出される。僕が小実昌さんへの原稿料の支払い手続きをする時、「銀行振り込みは絶対に駄目だ。女房(野見山さんの実妹)に見つかってしまうから」と言い、月末に現金書留で送るよう要求された。そして自宅2階の窓から道を見下ろしていて、郵便配達人をいち早く見つけると階段を駆け下り、現ナマを我がものにするのだと白状したものだ。

・小野田寛郎さんのことも、お書きになっている。小野田さんは、野見山さんが東京藝術大学に勤務しているころ発見されたが、独りで戦争を遂行した人に会ってみたかったと書いておられる。僕は小野田夫人の町枝さんに、『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(2002年、弊社)という本を書いてもらった。刊行後も町枝さんはよく清流出版を訪ねてきた。自著にサインをし、随分、後援者に本の販売してもらったものだ。ご夫妻と会食したことも何度かある。寛郎さんは、分厚いステーキを本当に美味しそうに食べていた。付け合わせや野菜サラダはほとんど食べないので、町枝さんに注意されていた。僕も野菜サラダは嫌いで残すことが多い。食生活がよく似ていると思ったものだ。僕はいまでも寛郎さんのことをよく思い出すが、機会があったら野見山さんと語り合いたいと思っている。

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清流出版刊

・戦没画学生の展示館「無言館」の館長・窪島誠一郎さんは、何度も登場する。この二人は、全国各地で戦没画学生のお宅を訪ねて回った仲間である。ここで、今年1月8日の朝日新聞が、「絵を描く未来 奪った戦争」と題し、大きく報道されているので、ほんのさわりだがご紹介しておきたい。「彼らが絵を描いた時代があり、戦争が表現者である彼らの尊厳を奪った。このことを私たちは忘れてはなりません」(窪島誠一郎さん)……「無言館設立のきっかけは、東京藝術大学名誉教授の野見山暁治さん(97)との出会いだった」……「あの狂気の時代をかいくぐった人間として、ああいう時代が待ち伏せて、いつかあれにやられるという不安が抜けないできた」(野見山暁治さん)。そして、毎年6月に行ってきた「無言忌」も、昨年の20回目で一区切りとしたと記事が伝えている。
――僕も長野県上田市にある無言館まで何回も足を運んで、戦没画学生の絵を前にして涙したものだ。ある時は、僕の親友・長島葡萄房の長島秀吉君が無言館で天満敦子さんの“無言館コンサート”を企画し、清流出版社員有志を引き連れ、バスをチャーターして乗り込んだこともある。だが、最近は厳しい状況らしい。「無言館の入場者が年々減少してきて、二人、顔を合わせれば、話はそこに落ちる。人間は確実に年をとる。バトンを渡す次の走者も考えなくちゃならん」――とのこと。昭和の時代、戦争の悲惨さを伝える場が、どんどん少なくなっているのには危機感を覚える。

・野見山さんは、メキシコの画家フリーダ・カーロが大好きだ。この本でも数ヶ所、フリーダ・カーロについての記述が見られる。「(パリの)グラン・パレでメキシコ展。土俗性と神との共存がいい。タマヨは好きだ。ぼくも、フリーダ・カーロに憧れている」と言う記述もある。僕(加登屋)もフリーダ・カーロが大好きだ、弊社から、文化女子大学教授の堀尾真紀子さんの著になる『絵筆は語る――自分色を生きた女たち』(2009年刊)を刊行しているが、その第1章にフリーダ・カーロを取り上げてもらった。彼女が、イサム・ノグチと恋に落ちた結末やロシアから亡命するトロツキーを秘密の文通や密会を繰り返した激情的な気質などは書いていないが、野見山さんも同じようにフリーダ・カーロのことを感じていると直感した。野見山さんは、日本の女流画家への関心も高い。例えば、堀文子さん、小倉遊亀さん、三岸節子さんなどが日記にしばしば出てくる。特に堀文子さんとは年齢も近いし交流も深く、昵懇の間柄と聞いている。

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清流出版刊

・エディット・ピアフも登場する。「パリにいたとき、シャンソンはよく聴きに行った。オランピア劇場で、すっかり弱ったピアフが、若いアミに抱かれたまま、舞台に出てきて喝采を浴びていた。彼女が亡くなった日の夕刊に、ジャン・コクトーがその死を悼んだ文章を載っけていて、その翌日、コクトーの死が報じてあったのは忘れられん」とお書きになっているが、1963年10月10日、エディット・ピアフが死、翌10月11日、ジャン・コクトーが死んだ。その衝撃的事実を、野見山さんはリアルタイムで体感したのだ。この後、この日記は、「加藤登紀子さんと思い出を喋っていると、パリにいた昔、今につながらないくらいムカシの若い日が、懐かしく思い出される」と綴っている。

・私生活では二度結婚し、いずれも奥様に先立たれた経験をもつ。 1948年、妹さんの同級生だった内藤陽子さんと結婚した。その陽子さんはフランスに呼び寄せてわずか1年でガンを発症。闘病の末に早世した。『じわりとアトリエ日記』では、何ヶ所かでこのことに触れており、「陽子がそこで亡くなってから六十年の歳月。パリの屋根をスケッチした水彩画。遠い日か、昨日のことか」と日記にある。このあたりの事情については、『愛と死はパリの果てに』(1961年、講談社刊)に詳しく明かされており、読んだら思わずもらい泣きしてしまう。
 また、後妻として福岡で有名な高級クラブ「みつばち」を経営していた武富京子さんを迎え、別居結婚の形をとる。たびたび九州へ足を運んだが、彼女も20代からガンなどの病歴があった。野見山さんは健康面、店の経営面両面から京子さんを支え続けた。京子さんは後年までクラブを切り盛りするも、2001年、体力の限界などからクラブを完全閉店し、まもなくお亡くなりになった。
 その名物女将ぶりを慕っていた川鍋燿子さん(新宿ゴールデン街『あり』のママ)が、追悼の席を企画し司会などをした。各界の人々が参集し、『週刊新潮』にも載って話題を呼んだものだ。こんなことを僕が知っているのは、川鍋燿子さんの連れ合いの川鍋宏之君と僕が親しかったからだ。川鍋君の実兄は、あの『日刊ゲンダイ』の創業者・川鍋孝文さんだ。出版界における名物編集者のお一人である。

・「板橋区立美術館で『井上長三郎・照子』二人展を観る。近頃にないおかしな絵だ。打たれた。……井上夫人の照子さんとは同じ年に、ぼくは自由美術の会員になった」――この井上長三郎さんは日本美術会の委員長を務めたほか、1972年、第25回日本アンデパンダン展の実行委員長を務めた。時勢を風刺した作品を数多く描き、風刺画家として知られている。お嬢さんが僕と中学生の時、机を並べていた井上リラさんだ。そのリラさんも画家となった。野見山さんは「池袋モンパルナス」時代のことをしばしば講演で話されている。リラさんも親ゆずりの「池袋モンパルナス」の申し子で、ある時、演壇に登り、講演したこともある。

・「ヨーコと暮らしたパンテオン脇の小路、すぐ傍らのルクサンブルグ公園。それを右へ辿った、椎名さんの、半地下の棲家。いくらか様子を変えてはいるものの、そのまま静かに横たわっている」――野見山さんの日記とは離れるが、椎名其二さんは僕にとっても生涯もっとも大切な方である。 当時、椎名さんは70歳で、僕は19歳だった。その出会いは偶然だった。詳しいことは端折るが、フランスにいた椎名さんがなぜ日本に帰国し、僕たち早稲田大学の学生たちに、フランス語を教えてくれたのか。また、なぜ三年間しか故国に留らずに、フランスへ戻ろうとしたのか。当時、野見山さんはパリで絵と格闘されていたが、椎名さんの窮状を鑑みて、旅費を捻出するためにご自身の絵を提供された。この話は長くなるので次回に譲る。

・なお、日本経済新聞が毎週土曜日に掲載される、「傍らにいた人」という連載エッセイがある。今月1月20日ですでに47回を数えている。僕が新聞で真っ先に見る詩歌教養ページである。文が堀江敏幸さん(作家・仏文学者。『熊の敷石』で芥川龍之介賞)で、「絵」が野見山暁治さんである。毎回、堀江さんの文章の素晴らしさに唸らされる。そして、野見山さんの「絵」をしばし、じっと観る。具象か抽象か、いずれにしてもユニークなもの。そして、堀江さんの文章と関連が奈辺にあるか、読者それぞれに問うているかのようだ。1月20日の紙面を観て、判断材料を探ると、メインの文章はフランスのルナールだが、堀江さんが途中で田中小実昌の短編「ポロポロ」を連想してか、話を変えている。ここらへんで答えが分かった。野見山さんと「こみしょう」さんとの間柄を一切明かさずに、新聞社がつけたキャッチコピーが、「言葉にしないで伝わる本質」とある。新聞社の担当記者にも、なかなかの洒落者がいるではないか。

・最後に、野見山さんの人生のけじめについて、どう思っておられるかについて、触れておきたい。
≪2013年11月21日。一般財団法人という、よく分からんが、ぼくの名前の財団を作るため、銀座の小さなレストラン。五人の友人たちに集まってもらう。つまりぼくの死後の作品についての処理法。なんのことはない。生きている間、ぼくはゴミを撒き散らして、あとの人に取り片付けてくれというお願い≫
 ――この一般財団法人 野見山暁治財団は、2017年に発足。理事長は窪島誠一郎、理事に酒井忠康、伊藤真、評議委員長に野見山暁治、評議員に上葛明広、中村節子、事務長に山口千里とある。野見山さんの≪ぼくはゴミを撒き散らして、あとの人に取り片付けてくれというお願い≫という文章は、当事者でありがら、とても当事者とも思えない。自らを見事に客観視しており、とても野見山さんらしい。

小林薫さん、船川淳志さん、国永秀男さん

清流出版 (2017年12月25日 17:28) | コメント(0) | トラックバック(0)

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船川淳志さん(左)と国永秀男さん

・12月1日、僕は朝からこの日を楽しみにしていた。弊社に株式会社グローバル インパクトの代表パートナーである船川淳志さんと株式会社ポートエム(Port of Effective Management)の代表取締役の国永秀男さんが来社する予定だったからだ。実際、お会いしてみると、共に初対面だったにもかかわらず、なんだかそんな気がしなかった。というのも、お二人は小林薫先生とはごく親しいお知り合いで、僕もなんだか昔からの知り合いのような気分になったからだ。お会いすることになったきっかけは、僕が清流出版ホームページに書いている「加登屋のメモ写真」である。小林薫先生が亡くなって、僕が追悼の記事を書いたのだが、それを読んだお二人からご連絡があったのだ。10月ごろに連絡があって、時間をそれぞれ調整した結果、12月1日に決まった。当日は船川・国永両氏と、弊社社長の藤木健太郎君、弊社の海外版権担当で国永さんとはドラッカーつながりの斎藤勝義さん、それに小林薫先生の著書の編集担当だった臼井雅観君も同席してしばらく歓談した。藤木君は所用で席をはずすことになり、僕らは場所を近くの中華料理屋に移して、昼食を摂りながら話を続けることになった。
 
・船川さんは1956年生まれの61歳。慶応義塾大学卒業後、東芝、アリコ・ジャパンに勤務、アメリカ国際経営大学院(サンダーバード校)にて修士号を取得(MBA in International Management)している。その後、米国シリコンバレーを拠点に組織コンサルタントとして活躍された。日本に帰国してからは、グロービスのシニアマネジャーを経て、人と組織のグローバル化対応を支援するコンサルティング会社、グローバル インパクト社を大前研一さんらと設立して代表パートナーとなり、今日に至っている。シリコンバレーでコンサルタントをされていたわけだから当然ビジネス英語は堪能である。NHK教育テレビ「実践・ビジネス英会話」の講師も務められたこともある。

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船川淳志さん

・一方、国永さんは、僕の古巣ダイヤモンド社の傍系で、京都市中京区に本拠を置くポートエムという会社の代表取締役である。1962年生まれの55歳で、大阪工業大学卒業後、大手コンサルタント会社、経営情報サービスを手掛けるコンサルタント会社を歴任し、経営コンサルタント歴はすでに28年にのぼる。「正しいマネジメントこそがエクセレントな企業を作る」をモットーに、経営理論の確立やトップマネジメントチームの構築、あるいは経営戦略の策定まで、経営者とひざ詰めで作り上げる親身な指導法には定評がある。生前、経営学の神様の異名をとったP.F.ドラッカー博士を心から尊敬し、毎年のようにアメリカのご自宅に訪ね、ドラッカー理論に磨きをかけ、またその理論の日本での浸透に心血を注いできた。
 
 
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・お二人の小林先生との関わりは、ドラッカー博士を抜きにしては考えられない。船川さんは2008年5月、『GLOBAL manager』誌の、ご自身がホスト役を務める対談に小林薫先生をゲストに招いて対談している。対談テーマは、「世界標準となるビジネススキルの磨き方」。近年の世界的なビジネス潮流の変化に基づく日本的経営の課題と、個々のビジネスマンが世界で活躍していくためには、どんな資質が必要なのかなどが語られた。この対談の中には、小林先生のビジネススタンスに対する考え方がよく表れている。少し発言から引いてみよう。ビジネスマンに不可欠の資質を、小林先生はドラッカー博士の名言を例に説明している。「昨日を捨てよ」「表の風に吹かれろ」「革新とは、単なる新しい方法ではなく、新しい世界観を意味する」など、経営の神髄と時代の潮流を読み取って凝縮した名言があるとし、特に「強みの上に築け」の名言は、どんな組織、どんな人物にも当てはまるもので、ドラッカー経営学の要諦であると強調している。
 
・対談中、船川さんが、「共生」は世界に誇れる日本の理念ではないかと問いかけると、小林先生は「共生」が利潤追求のみに走らない独自の日本的経営モデルであると認めた上で、日本人もこれからはもう少し自己主張していくべきだと強調された。そして真に優秀なマネジャーとは、各国固有の文化の違いに惑わされず、どのような組織、風土でも活躍できなければならないとし、そのための資質としては、グローバル経営コンサルタントのスティーブン.H.ラインスミス(同氏の本も翻訳出版している)が述べたという、(1)大局観をもち、(2)リーダーとして変革を進め、(3)パラドックスを受け入れ、(4)予期せぬことを扱う際は、プロセスを重視し、(5)変化を好機と受け止めて気楽に対応し、(6)常にオープンでいる、と都合6つの条件を挙げている。
 
・また、グローバル化時代に世界で通用するマネジャーになるには、世界の経済状況、各国の力関係や日本立ち位置の変化などをしっかりと把握し、地理的、歴史的にも、視野を広く取って物事を見て、判断することが大事と語った。最後に、ドラッカー博士のグローバル経営成功のエッセンスを紹介している。それは現地で優秀な人材を活用し、相手の宗教や価値観を認めた古代ローマ帝国の統治なども参考にし、融和を図っていけばいいというものだ。歴史は繰り返すわけで、謙虚に歴史から学び、歴史への造詣を深めれば、必然的に未来も見通しやすくなるとアドバイスしている。
 
・僕は小林先生が例に引いたスティーブン.H.ラインスミスさんの著書『グローバル・マネジャー・ガイド』(小林薫訳)で感銘を受けた部分がある。それは雁行に学ぶリーダーシップ論である。隊列を組んで綺麗なライン・フォーメーションで大空を行く雁の群れの飛行は見事だが、そこから学べることは大きいというのだ。雁は家族や群れで過ごし、結束力も強い。外的を寄せ付けず、群れでものを食べているときも見張りを置き、ときには夜間にも飛ぶ。「雁の教訓」は多文化チームのメンバーに対し、強い感受性育成に参考になるとしている。(1)V字型の隊列で飛ぶことで、一羽の雁が羽ばたく度に後に続く雁のための揚力が生じる。単独で飛ぶより71%も飛翔距離を伸ばせる。共通の方向性とコミュニティ意識をもっているチームメートは、お互いの推進力の共有によって目的に到達できる教訓となる。(2)先導の雁が疲れると隊列の中に舞い戻り、別の雁が先頭位置について飛ぶ。辛い仕事を交代でやり、複数の人間でリーダーシップを共有することは価値がある。(3)隊列全体のスピードが鈍ると、後方の雁が先方の雁に鳴き声を挙げて励まし、せっつく。(4)1羽の雁が病気やケガを負った場合、1羽が隊列を離れ、落ちた雁が再び飛翔できるよう付き添う。要は助け合いの精神である。

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国永秀男さん

・国永さんも小林先生とはお付き合いが深かった。ポートエムのアドバイザーであったことでもそれはわかる。ロサンゼルスの「ホテルニューオータニ」で、小林先生が倒れたとき、国永夫妻がいなかったら、斎藤勝義さん1人では大変だったはずだ。ホテルマンに救急車の手配を頼み、小林先生の家族に連絡しなければならない。斎藤さんと国永夫妻は日程を変更し、ロスの病院まで同乗した。「LAC+USC メディカルセンター」に到着して専門医が診察。斎藤さんは付き添い、国永さんは旅行保険関係の問い合わせをする。この2人の迅速な対応がなかったなら、小林先生はもっと重篤になっていた可能性がある。
 
・国永さんが経営するポートエムは、マネジメントやコンサルティング、あるいは、学習のしくみ作りなどについて、直接ドラッカー博士からアドバイスを受けてきた。eラーニングの展開としてブレンディッド・ラーニングを導入、経営に携わる顧客のためにマネジメントを学ぶ支援を行っている。高邁な使命感をもって、ビジョンを体現する企業や組織が増えてくれればの一心から、コンサルティングや講演活動を続けてきた。ダイヤモンド社主催『ドラッカー塾』の専任講師として、経営者限定の「トップマネジメントコース」を始め、「エグゼクティブコース」、「マネジメント基本コース」なども展開し、ドラッカーマネジメントを体系的に学び、実践できると参加企業から高い評価を得ている。ドラッカー博士の「自らの強みを活かせ(Build on Your Own Strength.)」は、船川さんと同様、国永さんも胸に刻む言葉だという。バブル崩壊後の難しい経営局面の打開には、最も力を与えてくれる言葉ではないか。僕はそう確信している。

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・あと付け加えるなら、船川さんが、会話の途中で、しばしばフランスのロラン・バルトのことを述べたのが印象的だった。僕が、今から50年前、25歳から35歳の頃、入れ込んだ哲学者・批評家である。彼の『零度の文学』『神話作用』『表徴の帝国』などは、今でも僕の本箱の中、メインで取り出せる場所に置いてある。この周辺にソシュール、ジャック・ラカン、ジョルジュ・バタイユ、モーリス・ブランショ、ジャック・デリダ……などの書籍を置いてある。かつて真面目に読んだのだが、現在は怠慢になって、さっぱりご無沙汰している。懐かしい名前を思い出して、独り頷いた。だが現在も、船川さんはロラン・バルトとP.F.ドラッカーの関連に追究されている様子だ。
 
・僕は食前酒が食事をするときの楽しみの一つだが、船川さんが一滴もお酒が飲めないというのには驚いた。一見した限りでは「斗酒なお辞せず」の雰囲気があるからだ。僕の過ごしてきた出版界では、編集者が酒を一滴も飲めないと、作家とのお付き合いも大変だった。ビジネスの世界でもそれは同じだと言えるのではないか。それだけ個人的魅力をお持ちということであろう。船川さんは小林先生に是非にと乞われながら、果たせなかったことがあるという。それは産業能率大学で教えていた小林先生の後任として、教壇に立って欲しいと言われていたのだ。これだけは今でも心残りに思っているという。対照的に国永さんはお酒に強く、淡々と静かに杯を重ねるタイプとお見受けした。いずれにしても、小林先生のエピソードを聞くなど、楽しいひとときを過ごせた。談論風発する楽しい食事会となったが、お二人には感謝するしかない。

シスター鈴木秀子さん

清流出版 (2017年11月24日 11:28) | コメント(0) | トラックバック(0)

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シスター鈴木と僕。右は同席した臼井雅観君

 ・この1012日、僕は新宿の京王プラザホテルでシスター鈴木と会食する機会を得た。きっかけは僕が清流出版ホームページに連載しているコラム「加登屋の一口メモ」である。僕はシスター鈴木を心から尊敬しており、こんなことをそのコラムに書いた。

 ≪僕が敬愛する鈴木秀子(シスター鈴木)さんには、まだ一度しかお会いしたことはない。弊社からシスター鈴木の著になる『「こころの目」で見る』(2004年刊)を発刊させていただいたとき、1度、ご挨拶を交わしただけだ。しかし、そのときのインパクトは、僕の心に強く焼き付いている。明るくて軽やかで、少女のような愛らしさがあった。ニコニコと笑顔を絶やさず、人の心を和ませるオーラが出ていた。(中略) 

 シスター鈴木は、まだ「マインドフルネス」という言葉が日本で知られる以前から、こうしたエニアグラムの効果的な利用の仕方など、幸せを手にするためのセミナーを各地で開催し、多くの悩める若人たちを救ってきた。いつに変わらぬその献身ぶりには、頭が下がるばかりだ。また、何かの機会にお会いできればと思うが、シスター鈴木はお忙しいし、僕も体が不自由なので行動範囲が制約されている。だから僕の叶わぬ夢かもしれない。ただ、これだけはお伝えしておきたい。今後ますますお元気で、ご活躍をされ、多くの悩める人たちを救ってくださることを、衷心よりお願いするものである。≫と……。

  このコラムを僕と同じマンションに住み、交流もあるAさんが読んでくれた。Aさんは奇しくもシスター鈴木の聖心女子大学での教え子であり、シスター鈴木との間を取りもってくれたのでこの会食が実現したのだった。

 ・同席したのは5人。僕ら夫婦とAさん、それにシスター鈴木の『「こころの目」で見る』(弊社刊、2004年)の編集担当をし、最近、月刊『清流』にシスター鈴木の新刊『わたしの心が晴れるChange your Mind, Change your Life.』(七つ森書館刊、2017年)の書評を書いた臼井雅観君も同席してくれた。久し振りにお会いしたシスター鈴木は、あのころとまったくお変わりなかった。あの、人を温かく包み込むような眼差しで、迎えてくれた。季節の食材を使った和食を楽しみながら話ははずんだ。臼井君が龍村仁監督の「ガイアシンフォニー2番」でブレークした佐藤初女(はつめ)さんの写真を持参してくれたので、初女さんの想い出話にも花が咲いた。シスター鈴木は人間の生かし方を学ぶ“エニアグラム”という概念を日本に初めて紹介した人である。エニアグラムは、ギリシア語で「9つの点をもった図」を意味している。「人間には9つの性格タイプがあり、すべての人はそのうちの1つをもって生まれてくる」というのが基本的な考え方。その歴史は古く、2000年前のアフガニスタン地方で生まれ、イスラム社会に秘伝として受け継がれてきたものだといわれる。

 

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ベストセラーとなったエニアグラムの本

 ・シスター鈴木によれば、佐藤初女さんはこのエニアグラムに照らすと、「タイプ9」に分類されるとのこと。基本的にタイプ9の方というのは、「調和と平和を願う人」たちなのだという。争いや混乱を嫌う平和主義者であり、外見的にはのんきで穏やかな印象を与える。偏見がなくて聞き上手、人の気持ちが理解できる反面、自ら選択し、意見をいうのは苦手なタイプ。初女さんは、なるほどこのタイプにピッタリ当てはまりそうな気がした。この初女さんをシスター鈴木は、愛情をこめて「何もしない人だから」と表現して笑わせた。

 ・岩木山の麓にあった、初女さんが主宰する「イスキアの家」には、全国各地から悩める人たちが訪れた。ノリで覆われた真っ黒なおにぎりを食べ、その後、初女さんに悩みを聞いてもらうためである。初女さんは、心のこもった食事を食べさせ、話をただ黙って聞いてあげる。それだけで自殺を思いとどまった人もいれば、明日を生きる勇気を得た人などが続出した。僕は初女さんをよく知る、詩人でエッセイストの堤江美さんにお願いし、初女さんの語録をまとめて欲しいと考えていた。そこで編集担当の臼井君と堤江美さんに佐藤初女さんの取材に行ってもらった。しかし、初女さんの体調不良もあったのか、取材は不調に終わり、単行本にはできなかった。それだけは僕の心残りである。

 

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臨死体験を書いた本

・シスター鈴木には臨死体験があるという。『臨死体験 生命の響き』(大和書房刊、2005年)という本も書いておられる。シスター鈴木の原点は、この臨死体験にあるのではないか。僕はそう思っている。その臨死体験とは、シスター鈴木が学会出席のため、修道院に泊めてもらったときに起こった。夜中、寝付かれず起きだしたシスター鈴木は、足を踏み外して、階段から転げ落ちたのだ。その修道院は宮家の立派なお屋敷を改築したもので、その階段はとても高く急なものだった。そうして階段から落ち、気を失っている間に、シスター鈴木は不思議な臨死体験をしたという。気がつくと、ぽっかりと宙に浮かんでいて、その体をもう一人の自分が一段高いところから見下ろしていた。そして宙に浮かんでいるシスター鈴木の周りに、たくさんの蓮の花があり、その花弁が11枚とゆっくりとはがれ落ちていく。はがれ落ちるたびに、シスター鈴木は自分がこの世のしがらみから自由になっていくのを感じたそうだ。

・いよいよ最後の1枚だけになり、これが散ったときに、完全に自由になれる! と思ったが、最後の1枚は落ちなかった。そのまま空高く飛翔し、これまでに見たこともない暖かな白い光に包まれた。そして目前に、光の輝きに満ちた世界が広がっていた。そのときシスター鈴木は、「世界が完璧になっている」との感覚に包まれたという。あまりに気持ちがいいので、「ずっとここにいたい」と思ったが、その光の主は「現世に帰りなさい」と、はっきりシスター鈴木に告げたそうだ。そしてふと気がついてみると、シスター鈴木はベッドの上にいたのだった。駆けつけた救急隊員によれば、これだけ高さのある急階段から転げ落ちて、命が助かったことだけでも奇跡だといわれたらしい。

・シスター鈴木は、この臨死体験からの帰還後、不思議な能力が身に付いていた。まず、手術を予定していた膠原病が、なぜかスッキリと治ってしまっていた。また人の病気を癒す能力も授かり、末期がんの患者さんなどの元を訪れてはヒーリングの仕事をするようになる。臨死体験の後のシスター鈴木は、人との一体感を感じやすくなったという。シスター鈴木に限らず、実際に臨死体験を体験した人の中には、不思議な能力が芽生えたり、闘病中の病気が治ってしまったりする。まさに科学では説明のつかない不思議な体験である。臨死体験をしてこの世に戻ってきた人は、「何か自らの使命があるのでは」と感じ、それまでの生き方を改め、生かされた命を人のために使おうとする人が多い。僕も2度の脳出血を体験している。実際、死の淵まで近づいたにことがあるが、シスター鈴木のような臨死体験をしたことはない。倒れて警察病院に搬送された僕は、目覚めたとき記憶は飛んでいた。半年以上、妻の名前も息子の名前も出てこなかった。そのときの体験をシスター鈴木にお話すると、何か僕にもなすべき使命があり生かされているからですよ、といってくれた。その言葉に心の底からの安らぎを覚えた。

・人間にとって「死」は究極にして永遠のテーマである。死に対するイメージは、穢れたもの、ねんごろに供養しなければならないものとされ、それを怠ると、死者はこの世に恨みや執着を残す負の概念で塗り固められている。臨死体験により、死後の生の輝きを知り、死の意味に対する認識を深めてきたシスター鈴木は、そんな死に対する負の概念を払拭する。『仏教・キリスト教 死に方・生き方』(講談社+α新書刊、2005年)という本で、シスター鈴木は臨済宗僧侶の玄侑宗久氏と宗派を超え死について語り合っている。死を目前にした人は最後に何を望むのか。そして死にゆく大切な人のために、私たちには何ができるのか。仏教の僧侶とキリスト教のシスターという異なる宗教に立脚する二人が、正面から「死」と向き合い、「生」を充実させるための智恵を存分に語り合うという好著である。僕はこの本をとても興味深く読んだ。「死」を「生」からの“突然の断絶”と捉えるのではなく、徐々に進行する連続したものとして、その“受容と変容”へのプロセスを浮かび上がらせているのがとても斬新に思えた。人は亡くなる直前に温かい大きな思いが広がり、すべてを許し合おうとする。人生に無駄なものも偶然なものもない。すべては生を深めるためにあることに気づくことが大切なのであろう。


 

 

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・シスター鈴木は、死を前にした人には、「ただ、寄り添って、話を聞いてあげればいい。最後の最後に家族が死にゆく人にしてあげられる一番大切なことは、聞いてあげることだと思います。初めは病人自身、何を話しているのかもわからず、漫然と話し始めたりしますが、話し終わると解放され、自由になっていく経過を私はずいぶん見てきました」と語っている。死とは、魂がこの世に携えてきた課題・使命の完了の合図であり、誰も偶然に死ぬことはない。死は終わりではなく、歓喜と平安に彩られた新たな命の始まり。このことを知ることで、私たちがなぜこの世に生かされているかの認識が深まり、命そのものがもつ奇跡が開示されていく。死の瞬間、誰もがすべてから赦され、愛されていることを知る。自分の死に対しても、大切な人の死に対しても、不安や恐怖や悲しみが和らぐうえ、「悔いなく美しく生きられるようになる」。死と向き合えば、限られた時間や限られた出会いの中で、よりよく生きることを考える、絶好の機会となるというのだ。

・シスター鈴木は自著で何度も書いている。宇宙の星も、地球上の人も花も動物も石や岩も、すべては同じものでできている。そしてすべては深いところで繋がっているというのだ。すべてのものは、突きつめていけば原子になり、さらに行きつけば粒子になる。人は自他をわけて考えるから苦しむことになる。すべての生きとし生けるもの、すべての目に見えるものが自分と同じ粒子だと考えると、自分と一体であることがわかる。シスター鈴木は近刊の『幸せになる9つの法則』で、この真理を般若心経の言葉を引いて説明している。「お聞きなさい あなたも 宇宙のなかで 粒子でできています 宇宙のなかの ほかの粒子と一つづきです あなたと宇宙は一つです」と。

・僕はシスター鈴木と会食できたことに感謝している。あの慈愛に満ちた笑顔に接しただけで、心が安らぎ、晴れ晴れとしてきた。とりもってくれたAさんにはいくら感謝しても、感謝し足りない気持ちだ。21世紀を「新しい意識の時代」と位置付けているシスター鈴木。今は、人間一人ひとりが心を開きはじめ、すべてのものと調和のうちに一体となる、旅立ちのときを迎えているのだという。まだまだ頑張っていただかなければならない。精神世界のリーダーとのシスター鈴木の位置づけは、今後ますます重要になってくるはずだ。

 

辻清明さん

清流出版 (2017年10月27日 10:23) | コメント(0) | トラックバック(0)

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「陶匠 辻清明の世界―明る寂びの美」―特別展のポスターの前で

・東京国立近代美術館工芸館で2017年11月23日まで2ヶ月強という長期間にわたり、「陶匠 辻清明の世界―明る寂びの美」が開催されている。工芸館の開館40周年記念と辻清明の没後10年を記念した特別展である。工芸館は、陶磁、ガラス、漆芸、木工、竹工、染織、人形、金工、工業デザイン、グラフィックデザインなど 、近現代の工芸およびデザイン作品を展示紹介する東京国立近代美術館の分館として、1977年に開館されている 。北の丸公園の森の中に佇むように建つ洒落た赤レンガの建物であり、重要文化財にも指定されている。この工芸館が弊社からほど近い北の丸公園内であることと、弊社が辻清明氏の作陶品とコレクションを俯瞰した豪華本『独歩―辻清明の宇宙』(3万2400円 2010年8月)を刊行していることもあり、編集担当者だった臼井雅観君と出かけることにした。会場では、この本の編集で大変お世話になった、辻清明氏の秘書、山本幸子さんにも久し振りにお会いできた。

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辻清明の遊び心に溢れた「鬼の金棒」

・ちなみにこの豪華本『独歩―辻清明の宇宙』の写真はすべて、土門拳の愛弟子として知られる藤森武氏が撮影したものである。『独歩―辻清明の宇宙』は結構、難産の末に生まれた本であった。というのも、写真家の藤森武氏が前々から辻清明氏の陶芸作品をカメラに収めていたのだが、亡くなったことにより、撮影作業は途中で頓挫していたのだ。それを知った僕は、なんとか形に出来ないものかと思案していた。奥様の辻協さんに当たってみると、刊行に前向きなことがわかったので、中断していた豪華本企画を進めることになった。春まだ浅い3月、僕と担当編集者の臼井君、写真家の藤森武氏らと辻協さんにご挨拶するため、東京・多摩のご自宅へと伺うことになった。ご自宅は京王線の聖跡桜ヶ丘駅からタクシーで15分ほど、山の中腹に傾斜を利用して建てられた立派なお住まいであった。玄関前にはちょっとした野外パーティもできる庭があり、竹林がある奥まった場所に薪を燃料にした登り窯があった。敷地全体には、桜の木を中心とした植栽がなされ、自宅から小道を少し下ったところには、立派な茶室も設えられているといった凝りよう。

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辻協さんと
 
・辻清明(1927?2008年)は、陶磁の道に進む前、すでに4、5歳のころには古美術に関心があったという。生涯にわたって国内外の名品も多く蒐集したことでも知られている。その中でもとりわけ、古信楽の作品が与えた重要なインスピレーションが辻清明の「明る寂び」として作陶に生かされている。「明る寂び」とは、元々、山口諭助が自著『美の日本的完成』の中で用いた表現であり、「寂び」の考えを「冷え寂び」「暗寂び」などに分類したものの一つ。辻清明は、古信楽の中に見出した「明る寂び」について、優美で伸びやかで、夜明けの空に似て明るく澄んだ気配があり、そこはかとない華やかさや軽いユーモアを含んだものとして、自らの制作でも、目指すところと位置づけていた。また、自らの師として、故郷の奈良県に本格的な窯を築いて陶芸創作に励み、後に人間国宝となる富本憲吉(1886-1963年)や、やはり陶芸家で郷里茨城の名山筑波山に因んで波山と号した板谷波山(1872-1963年)らから教えを受けた。

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辻清明の年譜の前で
 
・板谷波山については付記しておきたい。簡単にプロフィールに触れておく。波山こと板谷嘉七は、茨城県真壁郡の下館城下(町制施行前の真壁郡下館町字田町)に、醤油醸造業と雑貨店を営み、文化人でもあった善吉(板谷増太郎善吉)とその妻・宇多の三男として生まれた。上京して2年後の1889年、18歳の嘉七は東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に入学し、岡倉覚三(天心)、高村光雲らの指導を受けた。1894年に東京美術学校を卒業した後、1896年、金沢の石川県工業学校に彫刻科の主任教諭に採用され、同校で陶芸の指導を担当する。これをきっかけに本格的な作陶に励み、「勤川」を名乗る。1903年、先生の職を辞し、家族と共に上京し、東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区田端)に粗末な住居と窯場小屋を築き、作陶の研究に打ち込む。1906年、初窯を焼き上げて好成績を得る。号を「波山」に改めたのはこの頃。波山は1908年の日本美術協会展の受賞以来、数々の賞を受賞し、1917年の第57回日本美術協会展で出品した「珍果花文花瓶」が同展最高の賞である1等賞金牌(金メダル)を受賞した。第二次世界大戦後の1953年、陶芸家として初めて文化勲章受章。1960年には重要無形文化財保持者(人間国宝)候補となるが辞退。「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく芸術家」という自負がその理由と言われる。
 
・この板谷波山の生涯は、2004年に『HAZAN』というタイトル名で映画化、一般公開されている。主人公の板谷波山を演じたのが、人気俳優・榎木孝明さんだった。長々と書いてきたのは、僕がこの映画を気に入ったことと、もう一つの理由が榎木孝明さんへの思い入れからである。実は、榎木さんは、多彩な才能の持ち主で、軽いタッチの水彩画もお描きになる。画集も各社から刊行されている。弊社からも大判の画集『風の旅、心の旅』(1998年)と、続編である『自分への旅 風の旅、心の旅2』(2002年)を出版させて頂いた。榎木孝明ファンは女性を中心に全国各地にいて、お蔭さまで絵画展などのイベント会場で、この本を売って頂いたので、何刷も版を重ねることになった。弊社にとって大変有難い著者であった。

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辻清明のコレクション展示
 
・今回の辻清明の展覧会では、辻の工房を訪れて「作陶」に挑戦した、抽象画家の山口長男(1902-1983年)や同じく抽象画家だったアメリカ・カリフォルニア生まれのサム・フランシス(1923-1994年)ら、その他、アメリカの彫刻家でもあり、前衛陶芸を牽引したピーター・ヴォーコス(1924-2002年)、半世紀にわたって共に作陶した妻の辻協(協子 1930-2008年)ら、親交のあった作家の作品も併せて紹介されているのが興味深かった。余談だが、僕は山口長男も好きな画家で、弊社から『山口長男―終わりのないかたち』(2007年)という本を刊行させて頂いたことを思い出した。
 
・辻清明は、1955年に登り窯を築いて以降、信楽の土を用いた無釉焼き締め陶を活動の中心とし、古美術の蒐集や芸術家との交流を通して感性を磨き、信楽特有の美の世界を構築した。茶陶やオブジェなどの代表作とともに、古信楽や古代ペルーの土器など、きびしい目で選び抜かれた愛蔵品も興味深いものがある。「宇宙のシンボル」と称して、傍に置いていたという《天心》をはじめ、五百羅漢を模して作られた花生のほか、缶や瓶、帽子やステッキなどをかたどった、ユーモアあふれる作品も紹介されている。高台のついた器や、百合鉢など陶磁の発想を転用したガラスの作品や、筆だけでなく、時には筆替わりに藁も用いたという、のびやかな書作品も目を引いた。
 
・辻清明のプロフィールだが、父・清吉、母・とみ。東京府荏原郡(現・東京都世田谷区)に生まれる。四人兄弟の末っ子である。陶芸家の辻輝子は姉。1941年、姉・輝子とともに辻陶器研究所を設立し、倒焰式窯を築く。日本犬研究家の斎藤弘吉は義兄。妻の辻協、子の辻文夫、甥の辻厚成、大甥の辻厚志はすべて陶芸家となっている。骨董・古美術を愛好した父と、その父を頻繁に訪れる古美術商の影響で幼少の頃から焼物に惹かれ、学校へはほとんど行かずに陶芸を学んだ。父にせがんで初めて買ってもらったのが、雄鶏をいただき透かし彫りのある野々村仁清作「色絵雄鶏香炉」だった(戦火で焼失)。・辻清明の作品は世界的にも人気が高く、1963年、アメリカ合衆国・ホワイトハウスに『緑釉布目板皿』を収蔵。1965年、アメリカ・インディアナ大学美術館に『信楽自然釉壺』を収蔵。1973年、イタリア・ファエンツァ陶芸博物館に『茶碗』を収蔵。2001年、ドイツ・ハンブルクダヒトアホール美術館開催の日本現代陶芸展に招待出品された。2006年度には東京都名誉都民となっている。2008年、肝臓がんのため逝去。享年81。主な著書には、『趣味のやきもの作り』(徳間書店、1963)、『ぐいのみ』 (保育社、1963年)、『辻清明器蒐集』(文化出版局、1976年)、辻協共著『肴と器と』(講談社、1982年)、『焱に生きる 辻清明自伝』(日本経済新聞社、1985年)、『辻清明折々の古器 我が奔放コレクション人生』(世界文化社、1996年)、『陶芸家・辻清明の眼 作品とコレクション 愛知県陶磁資料館コレクション』(愛知県陶磁資料館、1999年)などがある。
 
・話は戻る。奥様の辻協さんにお会いしたとき、近い将来、辻清明の陶芸作品を展示する「辻清明美術館」を造りたい意向をお持ちだった。僕は、これはとてもいいお話だと思った。美術館ができて常設展示がなされれば、年間を通して多くのファンが訪れることになる。コーナーに本を置いて頂いて、販売してもらうこともできる、と夢は膨らんだ。しかし、好事魔多し、とはよくいったものだ。辻清明氏が逝去してからわずか4ヶ月ほど、後を追うようにして辻協さんが逝ってしまった。これには僕も大ショックだった。しかし、編集半ばにして放り投げるわけにもいかない。山形県にある東北芸術工科大学教授になられた長女の辻けいさんや、お弟子さんたちのご協力を得ながら、編集作業を進めることができた。特にデザイナーの坪内祝義氏がとてもいいお仕事をしてくれたと思う。装丁は満足のいくものだった。弊社で一番の豪華本であり、定価も3万2400円。果たして採算が合うかどうか、多少懸念された。これは僕の杞憂に終わった。前述した山本幸子さんが随分販促にも尽力してくれ、お蔭さまでかなりの黒字になった。多少は辻ご夫妻にご恩返しができたかと思っている。

坂村真民さん

清流出版 (2017年9月21日 18:08)

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小池邦夫さんの個展会場控室にて

    絵手紙の創始者である小池邦夫さんとは、臼井雅観君が親しかったことが縁で、長いお付き合いになる。住まいも近く、僕が成城で小池さんはお隣の狛江市に住んでいる。何度か話すうち、同じスーパーマーケットで買い物をしていることもわかり、顔を見合わせて笑ったものだ。ご承知のように、狛江市は小池さんが絵手紙講座を初めて開催した地であることから、「絵手紙発祥の地」としてよく知られる。小田急線の狛江駅前には小池さんの描いた絵手紙をモチーフにしたモニュメントが建っている。著者としても都合、10冊以上出させてもらった。その中には小池さんが好きな作家ということで、監修者として刊行させて頂いた本も何冊かある。とりわけ僕が好きなのは、2010年3月に刊行された武者小路実篤の『龍となれ雲自ずと来る―武者小路実篤の画讃に学ぶ』と、2012年3月に刊行された坂村真民の『一寸先は光 坂村真民の詩が聴こえる』の2冊である。共に僕自身が好きな作家、詩人だったこともあり、弊社から単行本として刊行できたことは嬉しかった。
 

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小池邦夫さん監修の武者小路実篤本
 
    武者小路実篤(1885-1976)の遺愛品や原稿、書画、資料等を展示している「武者小路実篤記念館」は調布市にあり、自宅から近いこともあって何度か足を運んだことがある。小池さんも十代のころから武者小路実篤の大ファンだったらしい。図書館通いをして、ほぼすべての実篤本を読破したというから入れ込みぶりも半端ではない。実篤は、雑誌「白樺」の中心人物として、また新しき村運動の創始者、実践者として知られているが、90年の生涯を通じ、小説家、戯曲家、詩人、エッセイスト、画家、書家など、いずれの面でも強烈な個性を発揮してきた。 
    単行本化にあたり、掲載する作品選びをすることになったが、多くの実篤作品の中から、小池さんが一体、どんな基準でどんな作品を選ぶのか、興味津々で同席させて頂いた。その際、実篤が絵、それもたくさんの油絵を描いていたことを初めて知った。洋画家の中川一政や岸田劉生など画家とも親交のあった実篤だが、本格的な油絵を描いていたとは驚きだった。実篤が描いたと知らせず、これらの作品群を見せたら、おそらく多くの人が名のある洋画家が描いた作品だと思うに違いない。実篤といえば色紙に描かれた俳画のようなイメージがあるが、油絵はまったく違った。実にダイナミックで迫力に満ちたもので驚愕した覚えがある。
    さて、坂村真民さんの『一寸先は光 坂村真民の詩が聴こえる』だが、さすがに真民さんについては、住まいが愛媛県の砥部町だったこともあり、身体が不自由な僕は飛行機に乗ることができず、同行すること叶わなかった。真民さんは愛媛県砥部町に「タンポポ堂」を構え、40年以上にわたって「詩国」という月刊詩誌を発信していた。単行本化にあたり、小池さんと担当編集者の臼井君が砥部町に坂村真民さんの三女・西澤真美子さんを訪ね、厖大な作品群から掲載作品を選ばせて頂くことになった。
 

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西澤真美子さん(夫君の西澤孝一氏は「坂村真民記念館館長」)
 
    そして資料を探すうちに、思わぬ宝物を見つけたという。それは真民さんが毎日のように欠かさず書いていた800冊にも及ぶ詩作ノートであった。「詩記」と書かれた大判の大学ノートにはNo.1からNo.796までのナンバリング、40年以上にわたっての厖大な詩作の下書きメモであった。例えば541号には、真民さんの最愛の母、種子さんについて書いた一篇がある。真民さんの心を明るく照らし続ける光であったことがよくわかる。「光の種子」を引いてみよう。
 
≪母の名を種子といった だからわたしは
花の種 果物の種 どんな種でも てのひらにのせ
母をおもい その苦闘の生涯をしのぶ
そして近頃特に ああ母は 
光の種子のような人であったと
しきりに思うようになった
「念ずれば花ひらく」八文字の真言を授けてくださった母よ
それは生命の光のように わたしを育ててゆく≫ 
    そして同じノートには愛妻への賛歌の詩も書かれていた。
≪妻は根っからの明るい人だ 天真な人だ
そのことをしみじみと思った この人には信仰などはいらない
生まれながら天の美質を受けている人だ
この人と共にあったことの幸せを感謝しよう≫ 
 
    母堂、そして細君に感謝する日々、そこからあの素晴らしい詩の数々が生まれてきたのであろう。

 
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小池邦夫監修の坂村真民本
 
    この本にはこの詩作ノートからの抜粋を15頁にわたって紹介している。日々、真民さんがどのように詩作に励んでいたかの片鱗を窺い知ることができる。直しては書き、直しては書き、さらには後ほど朱を入れて校正したりしている。その詩作の過程をありありと彷彿とさせるのだ。貴重な資料ともなり得るものだ。もう一つ、この本の特長は真民さんの生原稿を載せていることだ。実は僕も真民さんの詩は好きだし、出版各社から詩集も発刊されているが、生原稿というのは見たことがなかった。それが今回、真民さんが連載していた『曹洞宗報』という曹洞宗の機関紙に寄せた生原稿が見つかり、それを原寸大で掲載することができた。ブルーブラックのインクで一文字一文字、まるで彫るように刻まれた字を見たとき、僕は感動を覚えた。まさに魂のこもった字であった。都合5枚の生原稿の中でも僕がとりわけ感動したのが、「あとから来る者のために」という詩である。ここに引いてみよう。
 
≪あとから来る者のために 
田畑を耕し 種を用意しておくのだ
山を 川を 海を
きれいにしておくのだ
ああ あとから来る者のために
苦労をし 我慢をし みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
みなそれぞれ自分にできる
なにかをしてゆくのだ≫
 
 
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「あとから来る者のために」の生原稿
 
    ちなみに坂村真民さんは明治42年、熊本県荒尾市の生まれ。熊本県立玉名中学校を経て、1931年、神宮皇學館(現・神宮皇學館大學)を卒業した。愛媛県砥部町に「たんぽぽ堂」と称する居を構え、毎朝1時に起床し、近くの重信川で未明の中で祈りをささげるのが日課であった。詩は解りやすいものが多く、小学生から財界人にまで広く愛された。特に「念ずれば花ひらく」は多くの人の共感を呼び、その詩碑は全国、さらに外国にまで建てられている。愛知県出身の教育者、大学教授、哲学者であった森信三氏が、早くから坂村真民の才覚を見抜き後世まで残る逸材とまで評した。
    真民さんは1934年に朝鮮に渡り、短歌に傾倒する。1946年に愛媛県に引き上げ、国語教師として教鞭をとりつつ詩作に従事した。1953年、尼僧・杉村春苔に出会い大きな影響を受ける。1960年、個人雑誌「ペルソナ」を創刊する。1962年、自らの詩をつづった月刊詩誌「詩国」を創刊。1,200部を無料配布した。1967年、新田高等学校に国語教師として赴任、砥部町に居を構える。1970年、「念ずれば花ひらく」の第1号碑が、京都市鷹峯常照寺に建つ。1974年、新田高等学校を退職し、詩作に専念する。1980年 文部省中学校教育課『道徳指導要領三』に、詩「二度とない人生だから」が採録され、多くの教科書に掲載されるようになる。2006年12月11日、97歳で永眠している。

 
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真夜中の1時に起床して近くの重信川で祈りを捧げるのを日課とした
 
    真民さんほど平和を希求し続けた方はいない。詩に命をかけ、世界平和を叫び続けてきた方だ。そんな日々の尊い活動に対して、昭和55年、第4回正力松太郎賞、平成3年、第25回仏教伝道文化賞、同11年、愛媛県功労賞、同15年、熊本県近代文化功労者賞などを受賞している。実は古巣ダイヤモンド社出版部で僕の先輩に当たる地主浩侍さんが、頭脳集団ぱるす出版を創業しており、坂村真民さんの本を刊行していた。『坂村真民詩集 地球に額をつけて』『鳥は飛ばねばならぬ』『自選詩集 千年のまなざし』などで、真民さんのコアの読者が全国におり、順調に販売実績を重ねていた。
    その地主さんが弊社を訪ねて来たことがある。その際、真民さんの本を出してみないかとのお誘いを受けた。その頃の僕はといえば、創業した清流出版が超がつくほどの繁忙期にあり、人的にも受ける余裕がなかった。そうこうするうち、2010年6月30日、地主さんが77歳で亡くなってしまった。亡くなる前日まで出社し、本人の口癖「生涯現役」を貫いた生涯だったという。僕はなんとなく地主さんに借りを作ったままのような気がして、気になっていた。小池さんの監修で、こうして真民さんの本を刊行できたことで、少し肩の荷が下りた気がしている。

 
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「念ずれば花ひらく」の碑は世界中に737基建っている
 
    平和の大切さを伝える一手段として「詩国」を発行した真民さん。詩を愛好する人たちによって真民さんの「念ずれば花ひらく」が刻まれた詩碑が、国内のみならず世界各地に建立され、いまでは世界6大州に737基の詩碑が建っている。301号の詩記ノートに「続けることだ」という詩が書かれている。この詩からは、「詩国」を刊行し続ける熱意が伝わってくる。真民さんの詩は各社からたくさん刊行されている。是非、この平和を希求し続けた詩人の詩を一篇でも読んでみてほしい。世界が平和であること、紛争・戦争のない世の中が、どんなに幸せなことであるか、心に響いてくるはずだ。
    そして最後に僕が感銘を受けた三つの短い詩を引いて終わりにしたい。
 
「ほろびないもの」
≪わたしのなかに 生き続けている 一本の木
わたしのなかに 咲き続けている 一輪の花
わたしのなかに 燃え続けている 一筋の火≫
「サラリ」
≪サラリと 生きてゆかん 雲のごとく
サラリと 忘れてゆかん 風のごとく
サラリと 流してゆかん 川のごとく≫
「独自」
≪小さい花でいい 独自の花であれ
小さい光でいい 独自の光であれ≫

青木外司さん

清流出版 (2017年8月25日 14:43)

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青木外司さん(中)、千代浦昌道さん(右)、僕が手にしている本が、『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』

・東京・銀座にある青木画廊の創業者、青木外司(とし)さんが、ある日の午後、千代浦昌道(獨協大学名誉教授)さんと一緒に、わが家を訪ねてくれた。実は昨年4月、青木さんが自転車で転倒し骨折したというので、お会いする約束を取りやめにした経緯がある。青木さんの家は世田谷区上祖師谷でわが家に近いのを知りながら、なんとなく会えないままになっていた。千代浦さんは同じ世田谷区の下馬在住で、成城のわが家を2度ほど訪ねてくれたこともあり道をよくご存じである。青木さんと会うのは、僕の親友・故長島秀吉君の葬儀(2009年11月)以来で、ほぼ8年ぶり。92歳になるというが若々しい。普段、呼吸のために酸素ボンベを持ち歩かなくてはならない身にはとても見えない。

    会って話してみると、青木さんは僕と同じディサービスに通っておられることが分かった。ディサービスは、上祖師谷と成城の2か所にあり、青木さんは上祖師谷、僕は成城でお世話になっている。代表者は坪井信子さんといい、介護福祉分野で有名な方だ。その両方のディサービスを担当している杉本三奈さんが、青木さんと僕のメモをやりとりしてくれた。聞くと、上祖師谷の理事をされていた伊藤社長が先日急逝され、青木さんにはショックだったようだ。伊藤さんとは月1回会って、食事会を始め、飲み会や落語会の開催から、仕事上でも、表具、額装等、何やかやと、お世話になった方だと言う。さらには、青木さんの奥様が2011年の東日本大震災があった年、ご自宅で心臓の「動脈解離」で、急死されたと聞き、びっくりした。

    青木さんの知遇を得たのは、1960年だから優に半世紀になる。きっかけは故龍野忠久(1927年―1993年、享年66)さんが作ってくれた。当時、龍野さん32歳、千代浦さん21歳、長島君と僕が19歳で、山内義雄教授のフランス語を通じ親しくお付き合いし、いわば“龍野グループ”を形成していた。そして、しばしば銀座の青木画廊に集まった。わが青春の思い出は、青木画廊によって作られたと言っても過言ではない。その僕は30年以上経て52歳でダイヤモンド社を辞め、その後、清流出版を立ち上げるのに忙しく、挙句の果て脳出血で右半身不随となった。人と会うのが億劫になり、青木さんとも会えずにいた。われわれを指導された龍野さんも清流出版は知らないで永眠された。もう一つ、青木画廊から遠のいた理由がある。会うには、青木画廊に行かなくてはならないが、入り口が急勾配なのだ。半身不随の身には大きなネックとなる。2、3階の会場に行くことができず、もう青木さんとは会えないと思っていた。その間、千代浦さんはといえば、青木さんとはカメラと猫趣味で結ばれ、ずっと付き合ってきたと言う。


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懐かしい写真。千葉県御宿の辺りまで旅行した。多分、1968年頃。前列左から次男・径(青木画廊後継者)さん、後列左より青木外司(とし)さん、幸子(ゆきこ)さん、長男・純さん。われわれは龍野忠久さん(前列右から二人目)を中心に、千代浦昌道さん、長島秀吉君、加登屋と同行した。この旅行の途中、画家の高松純一郎さんの家に立ち寄ったが、近くの料亭の席を取ってくれ、ご馳走になった。高松さんは、青木さんを「先生!」と呼んでいたことが耳に残っている。

・今回、青木さんはごく最近、刊行されたご著書、『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』(青木画廊編、風濤社刊、 2017年5月)を持参してくれた。これは有難いプレゼントだった。青木画廊の来し方を俯瞰する意味で、過去に開催された数々の個展、美術評論家や作家との交流などが網羅され、素晴らしい「年代記」と認識した。青木さんは富山県生まれ。戦後、上京し、最初の数年間は小学校教師として図工を教え、その後、知り合った東京画廊の社長・故山本孝さんの勧めで画商の道に。東京画廊で、画廊経営のノウハウを学び、青木画廊をオープンする。僕はオープン前に一度、青木さんと龍野さんの打ち合わせに同行したことがある。飯田橋駅にほど近く、青木さんは碁会場を営んでおられた。その頃、息子さんはまだ7、8歳ぐらいで、奥様が美人だったことを覚えている。1961年、青木画廊をオープン。画廊については、「素晴らしい!」の一語に尽きる。日本初、本格的なウィーン幻想派、シュルレアリズムを紹介された。同じ富山県出身の美術評論家だった瀧口修造さん、フランス文学者・翻訳者・エッセイストの澁澤龍彦さんの企画内容が見事だった。他にも、著名な方々が数々の名文を寄せ、美術ファンのみならず文学ファンの間に衝撃を呼んだ。僕にとっても衝撃的だったウィーン幻想派、シュルレアリズムをもっと知りたいと思った。

・青木画廊のような画廊は他にない。それは以下の文章でも頷けよう。
『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』によると、
≪ようこそ幻想絵画の巣窟へ――ウィーン幻想派の紹介、金子國義、四谷シモンの展覧会デビューで、1960年代―70年代はアヴァンギャルドの牙城となり、瀧口修造、澁澤龍彦もオブザーバー的に関わった孤高の画廊。その画廊精神は現在にも引き継がれ、澁澤龍彦曰く「密室の画家たち」が発表の場を求めている。青木画廊で個展を開いた70数人の作家、寄稿文7本、座談会5本、展覧会パンフレットのテクスト90本で辿る55年の軌跡、青木画廊大全!≫――この魅力的な惹句がすべてを物語っている。目次を見ると、より詳しい内容が分かる。目次の一部をご紹介する。

≪ウィーン幻想派を中心に海外作家≫ エルンスト・フックス、ヘルマン・セリエント、エーリヒ・ブラウアー、カール・コーラップ、F.ゾンネンシュターン、ペーター・プロクシ、ペーター・クリーチ、ホルスト・ヤンセン、ケーテ・コルヴィッツ、バット・ヨセフ、ヨルク・シュマイヤー、マリレ・オノデラ、ボナ・ド・マンディアルク ◎原稿 川口起美雄「フッター先生のこと」、市川伸彦「3人の“B“」、マリレ・オノデラ「エルンスト・フックス」、多賀新「シュマイサーとベルメール」
≪青木画廊 黎明期≫ 池田龍雄、中村宏、山下菊二、横尾龍彦、前田常作、齋藤真一、小牧源太郎、野地正記、松澤宥、北脇昇、石井茂雄、藤野一友、秋吉巒、桂川寛、堀田操、森弘之 ◎座談「黎明期の青木画廊」 池田龍雄×中村宏×青木外司×青木径

≪青木画廊 アヴァンギャルド≫ 金子國義 四谷シモン、川井昭一、高松潤一郎、小沢純、大山弘明、藤野級井、宮下勝行、直江眞砂、松井喜三男、杉原玲子、樹下龍児(龍青)、渡辺高士、上村次敏、スズキシン一、池田一憲、渡辺隆次、高橋一榮、砂澤ビッキ、三輪休雪(龍作) ◎鼎談「青木画廊 アヴァンギャルド」 四谷シモン×青木外司×青木径 ◎原稿 三輪休雪「青木画廊の事」

    このあと、≪青木画廊 第三世代≫、≪青木画廊 新世代≫と続くが省略する。目次の最後に≪展覧会に寄せられた文章群≫がある。それには、◎瀧口修造「一角獣の変身」、「エルンスト・フックス展」(1965―66年)◎澁澤龍彦「未来と過去のイヴ」、四谷シモン人形展「未来と過去のイヴ」(1973年)◎種村季弘「文明の皮剥ぎ職人」、「ホルスト・ヤンセン展」(1971年)◎針生一郎「怪鳥年代記」、「山下菊二展」(1964年)など、展覧会に寄せられテクスト90本を収録している。

    僕にとって、忘れかけていた「青木画廊の宝庫」が、もう一度蘇ったようだ。青木画廊の企画展の歴史、軌跡、数多くのアーティストたちと作品群は、画廊のホームページや今回の本『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』をご覧いただければ幸いである。

・僕が今もって忘れえぬ画家、推薦された評論家について、少し述べてみたい。

    まず、エルンスト・フックスである。1930年生まれで、オーストリア、ウィーンの画家。ウィーン幻想派の代表的作家の一人。1944年聖アンナ美術学校で、さらに46年ウィーン国立美術学校で学び、48年アート・クラブに参加。51年「フンズグルッペ」を創立し、58年ギャラリー「エルンスト・フックス」を設立する。69年サンパウロ・ビエンナーレ展で受賞し、74年「一角獣の凱旋」(エッチング)で注目される。ゴシック絵画やマニエリスム絵画の影響を受け、旧約聖書や神話を題材に預言的な幻想絵画を作り出した。

    瀧口修造さんが青木画廊の「エルンスト・フックス展」に名文を寄せている。その一節に、「私(瀧口)はあまりに聖書の叙事的な画家になろうとするときのフックスよりも、ヘブライ神話の新しい変貌譚をみずから創りださずにはいられないフックス自身の心情に惹かれる」、「その迷路のように晦渋なフォルムがいよいよ明澄性に迫ろうとするのを見ると、これひとつだけで画家にあたえられた誘惑にみちた完全な命題のように思われる。いずれにしろ、知天使ケルビムの究極の象徴は一瞬にして視透す遍在的な瞳であるにちがいない」云々。エルンスト・フックスと瀧口修造さんのコラボが、わが青春に衝撃を与えた。エルンスト・フックスに入れ込み、机の片隅に彼の絵葉書を飾っていたほどだ。

・次に、エーリヒ・ブラウアーとフリードリヒ・ゾンネンシュターンについて。エーリヒ・ブラウアーもウィーン幻想派であるが、異端の画家だ。1928年生まれ、オーストリア、ウィーンの画家、版画製作者、詩人、ダンサー、歌手で舞台演出家でもある。恋多き人生を送ったボヘミアンだ。もう一人は、フリードリヒ・ゾンネンシュターン。1892年―1982年の生涯、ドイツ、東プロイセンのティルジット生まれの画家だ。本名フリードリヒ・シュレーダー。 色鉛筆でシュルレアリスムの絵を描いたアウトサイダー・アートの作家。「ゾンネンシュターン」とは、ドイツ語の「太陽(Sonne)」と「星(Stern)」からなり、自らを「月の精の画家」と称した。この2人を、瀧口修造さん、澁澤龍彦さん、種村季弘さんが、クローズアップした。幻想的でエロティクな画風に魅了された紹介文には、澁澤、種村両氏の情熱が感じられた。僕は、この2人が推薦するものは、原文のドイツ語で読みたいと思った。瀧口、澁澤、種村の各氏を、僕が編集に携わった月刊『レアリテ』(ダイヤモンド社)に、翻訳、企画記事として採用させて頂いた。

・もう1人がフンデルト・ヴァッサーである。僕が青木画廊から買った絵はこれだけだがとても気に入っている。本名フリードリヒ・シュトーヴァッサーは1928年12月、ウィーンの生まれ。20歳のときウィーン美術アカデミーで本格的に絵を学んだ。21歳のとき、フンデルト(“百”の意味)・ヴァッサー(“水”の意味)と名乗る。1959年、画家アルヌルフ·ライナーとエルンスト·フックスと一緒に、“ピントラリウム”と呼ばれる芸術家のための新しいプログラムを提唱。彼の絵にはカラフルな赤や黄色、緑、青が多用され、やがてどこまでも続く線や螺旋渦巻きが登場し、その曲線で家が描かれる。彼の作品には、家と人と自然の共存という意が込められている。


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フンデルト・ヴァッサーの絵。僕の自宅の玄関に飾っている。

    フンデルト・ヴァッサーは環境芸術にも貢献した。例えば、青い煙突の建物「舞洲スラッジセンター」は、下水汚泥をブロックなど建築資材に転用する機能を持つ施設である。建築を画家としての大きなテーマと位置づけ、機能性を重視した建築の合理主義を否定し、自然と共に生きることを生涯にわたって訴え続けてきたフンデルト・ヴァッサーの思い描く建築の合理性が、舞洲工場の奇抜な外観に集約されている。

・また、国内作家では、池田龍雄、中村宏、山下菊二、齋藤真一、野地正記の各氏を紹介された。その中でも、金子國義さん、四谷シモンさんの展覧会デビューは美術界に衝撃を与え、一躍アヴァンギャルドの画廊として広く認知されるところとなった。瀧口修造さん、澁澤龍彦さんがオブザーバー的に企画にも絡み、瀬木慎一、針生一郎、種村季弘、高橋睦郎、吉岡実など各氏は美術評論家・作家・詩人として数多くの文章を寄せ、美術ファンのみならず文学ファンにも知られる存在になった。その画廊精神は現在も引き継がれ、澁澤龍彦さん曰く「密室の画家」たちがこぞって発表の場を求めていると言う。とくに、金子國義さんは、埼玉県蕨市出身で、日本大学藝術学部卒業後、1966年、『O嬢の物語』の翻訳を行っていた澁澤龍彦さんの依頼で同作の挿絵を手がけている。翌1967年、澁澤さんの紹介により青木画廊で個展「花咲く乙女たち」を開き画壇デビューした。世紀末的・デカダンスな雰囲気を漂わせる妖艶な女性の絵、独特な描写の人物像など退廃的な画風が人々の関心を惹く。活動・表現領域は幅広いが、『ユリイカ』『婦人公論』の表紙や新潮文庫の『不思議の国のアリス』の挿絵を担当。コシノジュンコとは、古くから親交があった。2015年、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去、78歳没。澁澤龍彦さんが発見したが、金子國義さんは「時代のアジテーターの寵愛する画廊」として、青木画廊のファン拡大に一役買ったのである。

    青木画廊は1960―70年代にセンセーショナルでアヴァンギャルドな画廊として、認知されていく。面白い話がある。同じ名前で、同年生まれの横尾龍彦さんと澁澤龍彦さんが知り合いで、横尾さんを通じて、青木外司さんは澁澤さんの知遇を得る。澁澤さんは個展パンフレットに1966年の横尾龍彦展を嚆矢として、金子國義、高松潤一郎、四谷シモン、川井昭一、ボナ、秋吉各氏と、1982年までに8本の原稿を寄せている。ちなみに横尾龍彦さんは東京自由大学初代学長、画家。1928年、福岡県生まれ。東京藝術大学日本画科卒。1965年ルドルフ・シュタイナー研究会、高橋巌教授のセミナーに参加。1978年より鎌倉三雲禅堂、山田耕雲老師に師事、以後毎年、接心、独参を続ける。1985年ケルン郊外に居住。現在ベルリンと秩父にアトリエを設け東西を往来する。B・B・K・ドイツ美術家連盟会員。1989年、東京サレジオ学園の聖像彫刻、吉田五十八賞受賞。これまでに、国内はもとより、海外での個展、グループ展多数開催。青木画廊の先駆的な役割が目立つ。

    澁澤龍彦さんと同じく、もう一人の翻訳家が種村季弘さん。こちらは独文学者。種村季弘さんが書いた『迷宮の魔術師たち――幻想画人伝』(求龍堂刊)やフリードリヒ・ゾンネンシュターン著『シュルレアリスムと画家叢書「骰子の7の目」』(河出書房新社刊、1976年)、『一角獣物語』(大和書房刊、1985年)などが青木画廊の個展に結び付く。また、ドイツ語と言えば、坂崎乙郎さんも青木画廊の個展へ解説者となっている。僕は早稲田大学高等学院の時、坂崎先生にドイツ語を習っている。その5年後、坂崎さんの『夜の画家たち―表現主義から抽象へ 』(雪華社刊、1960年) が話題となった。著名な父親・坂崎坦さんが長生きしたのに、彼の自害は、残念だ!

・忘れられない方が前田常作さんだ。1926年―2007年、享年81。富山県生まれで、武蔵野美術学校を卒業。1957年、第1回国際青年美術家展で大賞受賞。翌年、奨学金を得てフランスに留学。パリ滞在中、美術批評家K.A.ジェレンスキーの批評により、≪夜のシリーズ≫などの作品を「マンダラ」と評される。そこでマンダラに関心をもち、帰国後、東寺の両界曼荼羅に触発され、マンダラを描き始める。前田さんは、以来「人間風景」「人間誕生」「人間星座」「人間空間」「空間の秘儀」「人間波動粒子」などのシリーズを発表。さらには、「須弥山マンダラ」「観想マンダラ」とマンダラ・シリーズを展開した。それにより、1979年には、第11回日本芸術大賞受賞。1983年、武蔵野美術大学教授。1992年、紫綬褒章受章、翌年、安田火災東郷青児美術館大賞受賞。1994年、武蔵野美術大学の学長就任。素晴らしい人生だが、ご本人は肩書や賞に関係なく、「生きること=毎日マンダラを描く」と、徹底的に追究する日々を送った。曼荼羅以前の作風から大きく変ったのも凄いが、僕とは大好きな映画の話で盛り上がる。「あれは観たか、これは観たか?」という調子。60年代から80年代まで、青木画廊はじめ、銀座や新宿の喫茶店、飲み屋で気軽に談笑したが、1990年になるとお互い忙しくなり、会うことができなくなった。

・僕の記憶では、瀧口修造さん、吉岡実さん、大島辰雄さんのトリオで集まることが多かった。3人で青木画廊の展覧会を観た後、銀座の店に繰り出した。また他の画廊や展覧会、さらに各種イベントに集う時、例えば、後楽園の「ボリショイ・サーカス」や赤瀬川原平さんの「千円札裁判」まで付き合って、ご一緒した。そして、その度に、僕はご馳走になった。ほとんどが『藝術新潮』編集長だった山崎省三さんがお支払い、新潮社に奢ってもらったことになる。コーヒー、食事はもとより、特にお酒が入ると大いに談論風発し、楽しい集まりであった。集まりの中では、僕だけが若輩者だった。なんという幸せな一時を過ごしたことだろう。

    瀧口さんは1903(明治36)年―1979(昭和54)年。享年76。近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱であり、近代詩の詩人とは一線を画す存在。
 
    吉岡実さんは、1919(大正8)年―1990(平成2)年。享年71。筑摩書房に勤務、取締役も務め、詩人。H氏賞、高見順賞、藤村記念歴程賞、を受賞。シュルレアリズム的な幻視の詩風で、戦後のモダニズム詩の代表的詩人である。

    大島辰雄さんも1909(明治42)年―1982(昭和57)年。享年73。美術評論家でフランス文学の紹介と翻訳、フランス文学の紹介のほか、昭和30年代前後から主に西洋近・現代美術に関する執筆、翻訳活動を展開し、また映画にも深い関心を示した。『藝術新潮』への執筆に「囚われの画家・シケイロス」などがある。

    こうした集まりは、まず青木画廊や展覧会、イベントが出発点であり、3人の偉大な方々と、スポンサーシップの『藝術新潮』編集長、山崎さんが必要不可欠の存在だった。僕の勤務先が経済誌中心の出版社であり、芸術や文学のジャンルに野心がないことを山崎省三編集長もよく知っていて気軽に呼んでくれた。山川みどり(『藝術新潮』編集長・作家・山川方夫氏夫人)さんの前任者、山崎省三さんには心からお礼を言いたい。山川みどりさんは、のちに、弊社から『還暦過ぎたら遊ぼうよ』の著作を刊行された。不思議な縁である。長じて僕は、自分の出版社を持つ身分になりながら、山崎さんのようにはついぞなれなかった。

・池田龍雄さん。日本経済新聞(夕刊)に8月14日から5日間、「こころの玉手箱」と題して、『予科練時代の写真』『花田清輝の著作』『岡本太郎にもらったカフスボタン』『瀧口修造の瓶詰オリーブ』『1950年代から愛用するペン』というエッセイをお書きになった。いずれも魅力的な記事だ。1928(昭和3)年生まれで、現在89歳。1948(昭和23)に上京、多摩造形芸術専門学校(多摩美術大学)へ入学する。同年秋には学友に誘われ岡本太郎や花田清輝らの「アヴァンギャルド芸術研究会」に参加し、アバンギャルド(前衛芸術)の道を歩む。60年代以降には政治的主題を離れ宇宙や時間など物理学的なテーマへ移り、「百仮面」「楕円空間」「玩具世界」「BRAHMAN」「万有引力」「場の位相」シリーズなど風刺や諧謔を交えたペン画シリーズを制作している。

・まだまだ書いておきたい方々がいる。例えば、中村宏さん、森弘之さん、渡辺隆次さん、建石修志さん……等など、僕の青木画廊への思い出につながる人たちについても、機会があったら、書きたいと思っている。


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世田谷区美術館で「瀧口修造 夢の漂流物 ――同時代・前衛美術家たちの贈物1950?1970――」(2005年)。

可兒鈴一郎さん

清流出版 (2017年7月28日 11:20) | コメント(0) | トラックバック(0)

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可兒鈴一郎さん


・今回ご紹介するのは、経営評論家・可兒(かに)鈴一郎(81歳)さんである。弊社の外国版権担当顧問である斎藤勝義さんが、以前から懇意にしていた方である。その縁で、僕にも紹介してくれた。付き合っていた過程で可児さんからは何冊も、企画を出していただいた。可兒さんは東京都のご出身。慶応義塾大学経済学部を卒業後、堪能だった語学力を生かし、スウェーデン系のガデリウス株式会社(現ABB)に入社した。同社では、輸入業務・営業、企画調査、財務、経理、人事・人材開発など様々な職務を経験された。その後、1989年1月、自身、インテック・ジャパン株式会社を設立、日本から海外への進出企業を対象に、異文化コミュニケーション・ビジネススキル研修、海外事業所赴任前研修などをスタートさせた。
 同社の研修プログラムは、顧客企業それぞれのニーズに応じたカリキュラムをデザインすることで知られ、専門スタッフによるオーダーメイド型で対応しており、そのクオリティの高い研修内容は顧客企業に高く評価されていた。現在、可兒さんはインテック・ジャパンの社長を退いているが、僕がお会いしたころは、会社を軌道に乗せるとともに、注目され始めていた北欧流の経営を日本に紹介する本の執筆などにも力を入れていた。ちなみにインテック・ジャパンは、2012年1月より株式会社リンクアンドモチベーションのグループ会社となり、株式会社リンクグローバルソリューションに社名変更している。
 
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『ノルディック・サプライズ――北欧企業に学ぶ生き残り術』

・弊社で刊行された可兒さんの最初の著書は『ノルディック・サプライズ―― 北欧企業に学ぶ生き残り術』(清流出版刊、2004年5月)だ。オッレ・ヘドクヴィスト氏と可兒鈴一郎さんとの共著である。ヘドクヴィスト氏はスウェーデンのハルムスタッド市出身でゴーテンバーグ経済大学卒業後、ガデリウス株式会社に勤務していた。可兒さんとは気の合う同僚だった。なかなかの経営手腕の持ち主でもあり、その後、ガデリウスの代表取締役財務本部長にまで昇りつめている。ガデリウスを離れてからも、北欧および欧州企業の経営指導に従事した。再来日して後、スウェーデン・センター社長を経て、在日非営利団体スウェーデン・ブックセンターを主宰している。
 さて、この本の内容だが、北欧企業は携帯電話のノキアをはじめ、家具のイケア、自動車のボルボ、重電メーカーABBなど、世界に雄飛した堅実な有名企業が多い。一体なぜ、これほどまでに北欧企業は、活気があり競争力をもち得るのか。その全貌を明らかにしようと意図したもの。アメリカ型の経営には、ときに反省すべき点が多い。どういう特徴を持っているかといえば、まず、ガバナンスのあり方に特徴がある。会社は株主のものである。株主は経営者に経営を委ねるが、配当が出来ないなどの不手際があると、遠慮なく経営者のクビをすげ替える。徹底した株主資本主義である。株主は、投資家であるから、投資効率のみを追求する。四半期決算の動向を注視し、株式価格の動向を予想しながら、売買を繰り返す。従って、経営者も短期的経営指標に敏感にならざるを得ない。経営が短期業績重視である。そして資金効率至上主義になる傾向を持つ。経済全体では金融業が肥大化する傾向を持つのだ。アメリカの金融業のGDPに占める割合は、8%を超えているというから、異常な膨張ぶりである。
 これに対して、北欧型企業がもっている強みとは、米国や欧州の大国と違って長期の視点を重視し、徹底した議論の末に出した結論には下手な駆け引きをしないし、長期の信頼関係が築けるとされる。人間関係、現場主義、透明性、異文化力など、その背景には、あの脈々と流れるヴァイキング精神が息づいている。

・一般的なイメージでは、ヴァイキングは海賊であり、略奪者という印象が強い。しかし、実際は造船と航海技術を駆使した海の冒険者たちであり、8世紀の終わりから11世紀の始め頃まで、250年にも亘って、世界的に交易を誘導し大きな成功を収めたことで知られる。その行動規範は、現代の複雑で難解なビジネス環境にも通用するものであり、その実践例が、今世界で成果をあげつつあるということ。未来が見通せず混沌とした時代を迎え、未曾有の危機に立たされたとき、それを乗り越えるにはどうすればいいか。学ぶべきは、アメリカ型のグローバルスタンダード企業ではなく、独自の技術と知恵を武器に戦う北欧型企業から学ぶべきなのでは。その源流にあるのは、ヴァイキングの知恵である。ヴァイキングの人生哲学には、未来のサバイバルへのヒントが詰まっている。
「各個人が自分自身の生き方に責任を負う」。これが、ヴァイキングの人生哲学といえる。一艘の小舟で荒波を乗り越えて行くためには、それぞれが任されたポジショニングを守り、責任を全うすることが必要不可欠である。それは時に大海原を旅する際においては、生死に関わる重大な要素でもあった。こうした厳しい生活環境の中で生まれた知恵と行動規範は、今日の日本人、特にビジネスマンには、逆境を生き抜くために役立つ指針となったのである。

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『ユビキタス時代のコミュニケーション術』

・2冊目は『ユビキタス時代のコミュニケーション術』(清流出版刊、2005年4月)である。この本は羽倉弘之さんとの共著であった。羽倉さんは、可兒さん同様に東京都のご出身で米国コロンビア大学大学院卒業(MBA)。元通産省外郭流通関係研究所研究員、日本ポラロイド(株)経営企画室課長、マーケティング・マネジャー、アートウェア(株)代表取締役社長・会長などを歴任し、海外企業との接触を行ってきた経験を持つ。東京国際大学・文教大学大学院講師、三次元映像のフォーラム企画・編集幹事のほか、季刊『3D映像』を主宰しており、まさに最先端の未来技術を研究されている方だった。
 簡単にいえば、近い将来、モバイルIT機器を仕事に活用する時代がくるが、近未来コミュニケーション術とはいったいどのようなものなのか。それを知らなければ、あなたはこれからの時代に生き残れない、とする刺激的な内容だった。オフィスレス時代のプレゼンテーション力、ボーダーレス時代のビジネス・コミュニケーション術、ユビキタス時代に立ちはだかる文化の壁、オフィス環境の変容によってミーティング形態はどうなるかなど、近未来予測に必要な情報が盛り込まれていた。僕は近未来のオフィス形態が頭の中に思い描けず、疎かった分野だっただけに、本書で明かされた近未来のコミュニケーション術には目を見開かされた思いがした。

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『WIN‐WIN交渉術!――ユーモア英会話でピンチをチャンスに』

・この本は兒さんの著ではないが、インテック・ジャパンの社員、ガレス・モンティース氏 、佐藤志緒理さんの共著で出版されたもの。『WIN‐WIN交渉術!――ユーモア英会話でピンチをチャンスに』(清流出版刊、2003年6月)である。インテックには、海外への進出企業を対象にした異文化コミュニケーション・ビジネススキル等の研修を実施しているわけだから、英会話力に自信のある社員が多くいる。雑誌に定期的に寄稿する社員もいるほどだ。ちなみにガレス・モンティース氏は当時、ケンブリッジ大学大学院MBAコースに在学中の俊英だった。また、佐藤志緒理さんは津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業後、(財)国際文化会館企画部を経て、1992年タイ国チュラロンコン大学文学部に留学している。1996年タイ・スタディーズ専攻修士号取得後に、インテック・ジャパンに入社している才媛だった。
 英語でビジネスを進めるだけでも大変なのに、ジョークを口にすることなど思いも及ばないい。余裕をもてないのだ。そんな時、強力な助っ人になってくれそうなのがこの本である。国際舞台で交渉事をスムーズに進めるためには、ユーモアのセンスが必要不可欠だということはよく分かる。欧米人のエグゼクティヴたちが、ビジネス交渉の緊迫した雰囲気をほぐすのに使う、軽妙なジョークは見事である。また、そんなスキルをもち合わせなければビジネスは円滑に進まないのも事実だ。

・ことほど左様に、英語をマスターする近道は、手当たり次第に手を出しても効率は悪い。いくつかのテーマを決めて、集中的に学習するのが効果的である。特にビジネス英会話の上達には、ジョークを活用するのもひとつの方法であるという意味で面白い本だった。スピーチをするときに、日本では「お詫び」から入ることが多く、欧米では小粋な「ジョーク」から入るというのが一般的なケースだ。確かにユーモア溢れるジョークは、人の心をなごませる意味で必要不可欠とされる。
 この『WIN-WIN交渉術!――』は、ジョークの手引書として、基本ルール、活用例、押さえどころなどの情報が盛り込まれている。誰でも知っている身近な話題をどう取り上げたらいいのか、また、自分の名前をジョークにして自己紹介する方法なども書かれていて興味深い。そして日本の文化に疎い外国人が、日本を理解するためにも役立つ。逆もまた真なりで、外国人に日本を説明するヒントにもなるのがミソだ。特に情況に合わせた生きた会話やジョークの実例が、豊富に盛り込まれているのが役に立つ。映画のジョークやワンポイントなどのコラムも、読み物として楽しめる。

・特筆しておきたいのが、兒さんの人脈が契機となって、弊社にいい出版話が舞い込んだことだ。これはある程度、部数の買い取りを含んだ出版契約となり、弊社にとっていくら感謝してもしきれないほど。それがスウェーデン系商社、ガデリウスが日本に100年以上に亘り根を下ろし、成功してきた軌跡を追った『成功企業のDNA――在日スウェーデン企業100年の軌跡』(清流出版刊、2005年7月)である。

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『成功企業のDNA――在日スウェーデン企業100年の軌跡』

・本書を読むと100年もの長きに亘っての同社の奮闘が、日本の経済発展の歴史と見事に重なる。外資系企業といえば、たいてい、四半期毎に結果を出さなければならない。株主が力をもっており、容易に利潤を生まなければ、社長の首をすげ替えてでも結果を求められる。ところが同社には、そんな利潤追求はしていない。創業者がじっくりと腰を据えて、経営基盤を作ったことにもその理由がありそうだ。
 何故、創業者クヌート・ガデリウスはそれほどまで日本にこだわったのか。その秘密が明かされる。米国系企業が多い中で、異色ともいえるスウェーデン企業の事業展開は僕にとって感動的ですらあった。この企業が日本の横浜へ進出したのが、1907(明治40)年。以来、日本の産業発展、工業発展の担い手として貢献してきた。こんな企業があること、こんな歴史があることすら、知らない日本人が多い。一見、社史のようなスタイルをとりながらも、生々しい人物像をフォーカスしている。数少ない欧州系対日進出外資企業の、貴重な対日事業展開のケーススタディではないだろうか。

 創業者のクヌート・ガデリウス氏は一体、どんな対日事業観や経営観をもっていたのだろうか。他の外資には見られぬ、日本への真摯な思いが滲み出ていたように思う。自分の子どもたちに、太郎、次郎、花子といった日本的な名前を付けたことからも、日本への並々ならぬ傾倒ぶりが伝わってくる。だからこそ、「日本のために、日本人とともに」を会社のビジョンとして掲げ、有言実行してきたクヌートの生き様(ライフスタイル)が、日本人読者の魂を揺さぶるのだ。こうして日本でのビジネスを成功に導いた企業DNAとは何なのか、本書は格好な教材となったはずだ。合わせて、弊社はこの本を出版することによってリスクなく利益を上げることができた。つないで下さった兒さんには、お礼の申し上げようもない。多少、体調を崩されたとも聞いたが、早く完治されて講演会にご執筆にと頑張って欲しいものだ。
 

佐藤初女さん

清流出版 (2017年6月27日 14:46)

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佐藤初女(はつめ)さん

・前回、僕は鈴木秀子(シスター鈴木)さんについて書いたが、実は関連して、どうしても書いておきたい人がいる。それが青森県で「イスキアの家」を主宰していた佐藤初女(さとう・はつめ)さんである。初女さんは、残念ながら2016年2月に鬼籍に入られ、今は亡い。そもそも初女さんは、龍村仁監督作品「地球交響楽(ガイヤシンフォニー)第2番」に登場して、一躍人口に膾炙するようになった。龍村仁さんに初女さんを紹介したのが、外ならぬシスター鈴木だった。映画の中での初女さんは、ごく自然体であった。東北の豊かな四季を背景に、雪の下から蕗の薹を優しく掘り出したり、梅干し用の梅を干したり、ご飯を炊いておにぎりを握ったり。当時、73歳だった初女さんの穏やかな日々の営みが、淡々と映像で綴られていただけだった。どのシーンでも印象的だったのが、初女さんの物に触れるときの手の優しい動きである。生まれたての赤ちゃんに触れるとき、人は傷つけまいとして無意識にとる手の動き。そんな優しさが表れていた。

    シスター鈴木は、数回、青森県弘前市の初女さん宅を訪れている。月刊『致知』で対談もしている。初女さんは最初、弘前の自宅を開放して活動していた。素朴な素材の味をそのままに頂く食の見直しによって、心の問題も改善することができる、との考え方を実践していたのだ。同じカトリック信者でもあり、シスター鈴木は初女さんのこの活動に共感を覚えた。食に対する思いに感じ入ったシスター鈴木は、初女さんの夢であった、森の中に憩いの場を作りたいとの実現のため募金活動を開始する。初女さんを母のように慕う全国のファンからの後押しもあって、1992年10月、岩木山麓に「森のイスキア」が完成する。初女さんの念願の夢がここに叶ったのである。ちなみに「イスキア」とは、イタリア西南部のナポリ湾の西に浮かぶイスキア島の名前から採られたもの。実はイスキア島には、こんな逸話があった。ナポリの富豪の息子で、何不自由ない暮らしをしていた青年が、この島を訪れて司祭館に滞在し、贅沢三昧だった生活から、自分を静かに振り返ることを学んだ、というエピソードである。シスター鈴木は、この逸話に感動し、この家を「イスキアの家」と名付けたのだ。

・初女さんの性格は、シスター鈴木が日本に普及させたエニアグラムによれば、タイプ9に分類されるという。タイプ9の解説文にはこうある。
 
【何事にも心を乱されたくない、平穏を愛する者です。人の望みを優先し、相手に共感する能力が高いので、聞き上手です。対立する複数の意見があれば白黒付けずに公平な視点で整理し、天性の調停者として振る舞います。穏やかで、うんうんと頷きながら話を聞く姿勢は皆が好感を持ち、周囲に落ち着きと安らぎをもたらす事でしょう。癒し系と評価される事も多いかもしれません。動物、温泉、運動が好きな事が多いようです。また繋がっているという感覚を大切にするため、道路や線路が繋がっているのが一目で分かる地図や路線図などを好む場合もあります。興味がある物を収集するのも好きです。また、人の内面を感じ取る才能を持ち、その色に染まる傾向があります。周囲が明るく活発であれば活発になり、落ち着いた知的な雰囲気であれば物静かで知的になります。相手の悩みや喜びまで感じ取れるので、他者をまるで自分自身のように支える事ができ、周囲に癒しと安らぎを与え、対立を鎮める潤滑油として機能します。】
 タイプ9のプロフィールはまさに初女さんそのものである。

 
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すり鉢で胡麻を擂る佐藤初女さん
 
・初女さんは1921年、青森市に生まれ、青森技芸学院(現在の明の星高等学校)を卒業後、3年間小学校教員をし、1944年に勤務校の校長だった佐藤又一氏と結婚している。又一氏にはすでに3人の子があり、再婚だった。その後、初女さんは教職を退き、弘前市内に在住して、ろうけつ染めの指導などをし、1964年より15年間、弘前学院短期大学で非常勤講師として家庭科の教鞭をとっている。1979年には、弘前染色工房をオープンさせている。
 
    女学校時代、胸を患ったことが初女さんの人生の方向性を決めた。喀血を繰り返しながら17年間の闘病。その体験が「食べる」ことと深く関わって、生きるきっかけとなった。 「その頃、注射や薬の効き目は些細なもので、これでは治らないということを感じていた。反対に、美味しい食べ物を頂いたときには体内の細胞が躍動するように感じ、注射や薬に頼るのでなく、食べることで元気になろうと思うようになっていった」。17歳での発病以来、自然と少しずつ体を動かせるようになっていく。「もう闘病は終わったとはっきり実感できたのは35歳ぐらいのころ。健康であること、そして働けることへの喜びと感謝の気持ちでいっぱいだった。これ以上の幸せはない、これからは何をすることも厭わないと心に決めた」。
 
・初女さんの心には、幼い頃の思いが刻まれている。それは、近所の教会の鐘の音に惹かれ、何度も教会の前に佇んだ記憶である。“誰がどこで鳴らしているのか”と不思議に思ったという。その後、初女さんは老人ホームを訪問したり、様々な生と死の出会いを重ねるうち、「心だけは人に与えることができる」との結論に思い至った。そこで自宅を開放し、ろうけつ染めを教えるかたわら、心を病んだ人々を受け入れることにした。これが「イスキアの家」のスタートであった。

    多くの出会いから深いものを受けとってきた。≪『私、苦しいんです』と訴える人に対し、頭であれこれ考えても、本当の解決にはなりません。『そう、苦しいね。でも、もっと苦しまなくちゃ』って伝えるときもある。もちろん、私も活動を続ける中で、心の葛藤が生まれることがしばしば。そんなときは苦しみを否定せず、自分の心を真っすぐ見つめ、苦しみを感じきることを大切にしてきた。苦しんで苦しみ抜いて、もうどうにもならない、というところで『神様におまかせ』すればいい≫。

・「一期一会という言葉通り、私たちはそのときの限られた時間しか触れ合えません。疲れたと思いながら会えば、その気持ちが相手にも伝わるので、心を素早く切り替え、いつも新鮮な気持ちで会うこと。それを大切にしている」という。「また、どんなときも自分の都合を優先せず、その人が求める形で出会いたい。何かに取り組むとき、ある限界までは、誰でもできる。けれども、その一線を越えるか越えないかが、大きな違いになる。そして1つ乗り越えると、また限界が出てくる。そのように限界を1つずつ乗り越えることによって、人は成長するし、その過程は生涯続くもの。確かに、このような生き方は大きな犠牲を伴うし、時々自分でも厳しいなあと感じるときがある」。

    以来、「食はいのち」を標榜し、心のこもった食事を提供し、悩める人の話に耳を傾けた。評判は評判を呼んで、国内はもとより 海外からも、迷い、疲れ、 救いを求めて訪れる人が後を絶たなかった。 初女さんのおむすびを食べて自殺を思いとどまった青年がいる。 食べることは、「命」をいただくことだと気づく高校生がいる。悩める若人に伝説のおにぎりで知られるように、食事を通して生きる勇気を鼓舞してきたのだ。
 
 
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岩木山麓に佇ずむように建つ「イスキアの家」

・初女さんの語録は、雑誌や本でも披露されているので、ご存じの方も多いだろう。弊社の月刊『清流』にも「ひと欄」でご登場いただいている。特に僕の印象に残った言葉を取り上げてみよう。

「長い冬に耐えて、雪解けとともに芽ばえた“ふきのとう”の生命をいただいて、おひたしや天ぷらを作る。ただ『美味しく食べさせて上げたい』という心を込めて料理した時、その蕗の薹の生命が、“美味しさ”になって食べる人の生命を活かし、心を癒してくれる」
「お漬物が呼ぶ。もうこの石は重いって。だから夜中でも起きて、小さい石に取り替える」
「放っておけば腐ってゆく自然の生命に、手を加えることによって、別の生命となって生きて頂く。お料理とは生命の移し替えなのかも知れません」
「私の祈りは“動”の祈り。毎日毎日の生活の中にこそ祈りがある」
「自分が喜びに満たされると、人は必ずその喜びを分かち合いたいと思うようになる。霊的な喜びこそ、人間の最大の喜び」
「食事することが『生きる』そのもの。茹でるとか、切るとか、味付けするって、どれ1つ、おろそかにできない。『調理すること』が『生きる姿』そのものだと思う。ごはん炊くのだって、米の研ぎ方とか、スイッチを入れる時間とか、もちろん水加減、できたときのほぐし方、よそい方、ご飯1粒ひとつぶが呼吸できるようにって。食べてみて初めて見えない何かを感じてくれる」
  「食材は特別なものでなく、身近で手に入るもので作る。やはりそれを美味しく作るというところ、それしかない。食べると心の扉が開いて、順々に話し出してくれる。話していると、自分自身で答えを見つけていくもの」
    このように、初女さんの生きとし生けるものへの慈愛に満ちた言葉は、見えない世界を見ているようで実に奥が深い。


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ある日の「イスキアの家」の食事。伝説の真っ黒なおにぎり

・初女さんの台所での動作はゆっくりに見えて無駄がない。必要な速さで動いていることに気付く。お手伝いの数人のスタッフとの間に柔らかな緊張感が流れている。ふわりとして「凜」。例えば食材を茹でている場合、切り上げ時の一瞬を決して逃さない。慌てるふうもなく、しかも速い。この瞬間を初女さんは「いのちの移し替えの瞬間」と呼ぶ。私たち人間は地球上の色々な「いのち」を食べて生きている。食べるもの、すべてが生き物である。「いのち」が「いのち」を食べている。
 
「食材を、ただ『もの』だと思うのと『いのち』として捉えるのでは、調理の仕方が変わってくる。ものだと思えば、ただ煮ればいい、焼けばいいのですが、いのちだと思えば、これはどうすれば生かせるだろうか、になる」。
  「調理の間は意識を集中しないと、食材のいのちと心を通わせることができない。野菜を茹でていると、大地に生きていたときより鮮やかに輝く瞬間がある。そのとき、茎は透き通っている。その状態を留めるため、すぐに水で冷す。透明になったとき火を止めると美味しく、血が通うお料理ができる。素材の味が残るだけでなく、味が染み込みやすいときでもある。野菜がなぜ透き通るかといえば、野菜が私たちのいのちと1つになるため、生まれ変わる瞬間だから。それを≪いのちの移し替えの瞬間」と呼ぶ。」
「蚕がさなぎに変わるときも、最後の段階で一瞬、透明になる。焼き物も同じ。焼き物に生まれ変わる瞬間、窯の中で透き通る。透き通ることは、人生においても大切。心を透き通らせて脱皮、また透き通らせて脱皮というふうに成長し続けることが、生きている間の課題ではないか」

    僕は初女さんと直接、お会いしたことはない。しかし、ご縁を感じている。そもそも、詩人・エッセイスト堤江実さんが企画提案して佐藤初女さんの語り下ろしの本を作ろうと思っていた。だから出版部の臼井雅観君を編集担当に、堤さんと「イスキアの家」に取材に行ってもらった。2泊3日の出張から帰った2人から、初女さんのことを色々と聞いたので、僕もお会いしたような気分になった。臼井君は食事の準備を手伝ったらしい。笊をもって庭に出て、生えているシソの葉を摘み、クルミ和えを作るためのクルミを金槌で割って中身を取り出す作業をした。あの真っ黒なおにぎりの作り方にはビックリしたらしい。まず、釜を覗き込みながら、水加減の調整をする。お米の顔を見ながら、微妙に水を足したり引いたり。炊き上がりのご飯はといえば見事に立っている。そのご飯に初女さんが漬けた梅干しを入れ、心を込めて一つひとつ握る。そして、ご飯の白い色が見えなくなるように、海苔で優しく包む。こんな心のこもったおにぎりだからこそ、食べた人の心に染み入る。自殺を思い留まったり、生きる気力がわいてきたり、来たときと帰るときの顔付きが、まるで違っているというのだから。本当に惜しい方を亡くしたものである。
    最後に、初女さんを知るきっかけを作ってくれたシスター鈴木に感謝を、また、天国の佐藤初女さんには、長い間、お疲れ様でした、と言ってあげたい。

鈴木秀子さん

清流出版 (2017年5月26日 12:51) | コメント(0) | トラックバック(0)

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・僕が敬愛する鈴木秀子(シスター鈴木)さんには、まだ一度しかお会いしたことはない。弊社から『「こころの目」で見る』(2004年刊)を発刊させていただいた際、ご挨拶を交わしただけだ。しかし、そのときのインパクトは、僕の心に強く焼き付いている。明るく軽やかで、少女のような愛らしさがあった。ニコニコと笑顔を絶やさず、人の心を和ませるオーラが出ていた。そんなシスター鈴木の書いた本である。この本の要諦は、モノやお金にこだわっている限り、本当の幸せは手にできない、ということ。「こころの目」で見ることとは、見えない世界に目を向けることである。そしてその見えない世界にこそ大切なものが隠されている。つまり「肝心なことは、目に見えない」ということなのだ。

「肝心なことは、目に見えないんだよ」の言葉は、フランスの作家で飛行士でもあったサン=テグジュペリの書いた『星の王子さま』の一節にある。『星の王子さま』は児童文学であるが、大人向けのメッセージに満ち溢れている。目に見えるものが必ずしも真実とはいえず、心の目で見ること、子供のように曇りのない目で見ることの大切さなど、教えが随所に散りばめられている。人は、正しくものを見ているようでいて、自分にとって損か得かという自己中心的で自分勝手な見方でしか物事を見ていないことが多い。だから、往々にして何が本当で何が偽りなのかを見極めることができないのだ。

 
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・現代社会に生きる私達は、目に見えるものばかりに心を奪われ、数値ばかりを追い求めてきた。その典型が経済至上主義の考え方である。その結果、大切なものを見失い、目に見えない多くのものに支えられていることに気付かない。今こそ、物質的な豊かさではなく、心の豊かさ、心の糧を大切にすべき時期にきている。そして、一人ひとりが、物事の本質、真実の姿、本当に大切なものを見つけていかなければならない。そのためには、純真な心と真実を見定める智慧の眼が必要となるのだ。

『「こころの目」で見る』に挿入された例話が素晴らしい。例えば、森鷗外の傑作に数えられる『じいさんばあさん』という短編小説がある。老夫婦の「互いへの敬意と自立」がよく描かれている。人を殺めて流刑の身となった72歳の夫・伊織が、37年ぶりに「永の御預御免」となって江戸に帰ることになり、71歳の妻「るん」に再会する。流れた37年という歳月は、「あの二人は隔てのない礼儀があって、夫婦にしては少し遠慮をしすぎているようだ」という言葉に表れている。シスター鈴木は、この1行には、読み返すたびに強く心を打たれると書いている。武士として、武士の妻として、一生礼儀をわきまえて生きてきた人の、磨きあげられた輝きが感じ取れるというのだ。高齢社会を迎えた日本では、夫婦の自立が求められる。多くの日本人夫婦の場合は、男性の自立が問題なのだという。その意味でこの小説の夫婦は見事なまでに自立していて、感動を覚える。顧みて、僕も、妻に依存し過ぎのきらいがあり、反省をさせらた小説であった。
 
 また、「幸田露伴が中国の古書『陰隲録』(いんしつろく)から学んだ大切なこと」の挿話を挙げている。『陰隲録』とは、明代、呉江の人で、嘉靖年間から万暦年間を生きて、74歳で亡くなった袁了凡(えん・りょうぼん)が自己の宿命観を乗り越えて、自ら運命を創造してゆくことを悟った、その顛末を書いた本である。人生には、宿命、運命、立命があり、いかにして宿命から脱し、自らの運命に立ち向かい、さらに自ら立命となすのか、シスター鈴木は平易な文章で解説している。僕がまったく知らなかった話であり、とても興味深く読んだ。人生は宿命論だとするならば、どうあがこうと、あらかじめ路線は決まっている。しかし、自らの意志で人生を創造でき、立命に至ることができる、となれば話は違ってくる。例話の袁了凡は、自らの人生を創造し、立命に至っている。そういった元気が出るような例話が、この本には散りばめられている。是非、手に取って欲しい本である。

・ここで、簡単にシスター鈴木のプロフィールに触れておく。1932年、静岡県の生まれ。聖心女子大学文学部を経て、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。文学博士。聖心女子大学文学部教授(日本近代文学専攻)を経て、国際コミュニオン学会名誉会長。聖心会会員。日本に初めてエニアグラムを紹介した、その道の第一人者である。

 シスター鈴木の最新刊『わたしの心が晴れる』(七つの森書館刊、2017年3月)では、見えない世界について触れている。それによれば、命というものは平等に与えられ、しかもすべての命が深いところでつながっている。その命というのは、人間だけに留まらず、生物、動植物から、生きとし生けるもの、そして地球(ガイア)、宇宙まで、すべてを含めてだという。これこそが、「目に見えない世界」の根本原理である。シスター鈴木によれば、大切なことは、見えない世界と見える世界との関係をきちんと理解し、しっかり根を張った上で、見える世界で各人が個性を発揮し、活躍することが望まれている。仮に、見える世界だけに気を取られ、地位や財力を最優先した行動を取れば、人を蹴落とすような醜い争いばかりになりかねないというのだ。

 シスター鈴木の“幸せ観”とは、他の人や、生き物と、深い絆で結ばれていることを実感できるときという。すべての人たち、動物、草花、命あるすべてのものとの共通点は何か、それは、みんな一つの願いで生きていること。すべて命あるものが「幸せになりたい」との願いをもって生きているのである。では、幸せになるにはどうすればいいのか。まず、自分を愛することが第一番だと説く。自分を受け入れ、愛している人からは、気持ちの良い波動が出ているもの。良い波動の人のそばにいれば気持ちがいいし、悪い波動の人のそばにいれば居心地が悪い。だから自分を許せない人は、まず自分を許すことから始めればよい。それができれば、放射される波動も良くなり、黙っていても周りの人と調和できるようになる。自らが幸せになることが、周りの人々を幸せにする第一歩なのだ。シスター鈴木のいう意味は、僕もこれまで多くの著名人に会ってきた経験から、実感としてこれは理解できる。良い波動の出ている人のそばにいれば触発されるし、確かに気持ちがいいものなのだ。

・人間という宝石箱には必ず宝石が入っている、とシスター鈴木はいう。外側ばかり見ていると、自分の魅力に気づかない。宝石箱とは誰にも等しく与えられた魂であり、この魂によって、存分に自分の命を輝かせていく。それがこの世に生まれてきた人間すべての使命だという。現在、悩みや苦しみにある人には、理解しにくいかもしれない。しかし、現状は現状として受け入れ、目の前にあるものから楽しみを見出そうとすれば、必ず見つかるはずだという。

 目が覚めてみてありがたい。ご飯が食べられてありがたい。命があってありがたい。このような当たり前のことを、奇跡のように有難いことだと気づくことができれば、自分が今、悩んだり苦しんだりしていることが幻想であったとわかる。僕は人生とは苦しみや悲しみを乗り越えるため、自分を厳しく鍛錬するため、と思っていた時期があるが、シスター鈴木は、それは違うという。まさに人生は楽しむために与えられているのであり、その時その時、より楽しんだ人生こそ、よい人生となり得るという。実にポジティブになれる言葉で僕は感動を覚えた。


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・ちょっと寄り道するが、僕は妻が海外旅行で不在だったとき、「ショートステイ」で10日あまり、ある介護施設にご厄介になったことがある。そこの図書室で、鈴木秀子さんと玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)さんの対談本を見つけた。『仏教・キリスト教 死に方・生き方』(講談社+α新書刊、後にPHP研究所刊)というタイトルだった。当時、ちょうど玄侑宗久さんが月刊『清流』で連載中だったこともあり、この対談を僕は大いに楽しんで読んだ。カトリックの聖心会シスター鈴木秀子さんと、仏教の臨済宗僧侶玄侑宗久さんが、お二人の宗教的基盤を超えて、素晴らしい対談をされていた。シスター鈴木はこの対談を「祝福に満ちた節理」であった、と述べている。読者である僕も、この本を読んで限りなく幸せ感を味わった。玄侑さんも「やはり宗教は人なのだ」「我々は充足した『今』を過ごし続けた。驚きも喜びも共感も、『今』にあった」と、お二人の対談を総括されている。「どんな宗教も、深く掘り進むと同じ水脈に通じるという昔からの思いが、今回確信になった」と述べているが、僕もこの感想に同意する。

・シスター鈴木が就職したころは、“自分らしく働く”という価値観は、女性にとっても男性にとってもまだ一般的なものではなかった。現代のように性別に関係なく仕事を選べる時代ではなかったし、女性が社会で働きに出ること自体珍しいことだった。男女ともに“こうあるべき”と進むべき道が決まって、選択肢が少なかったともいえる。

 しかし、人生を豊かに生きようと思ったとき、自分が幸せを感じることとより多く接点をもっていた方がいいことは明白である。そしてそれは、シスター鈴木にとってそれは学びであり、教えることだった。好きなことをとことん突き詰めていったら、60年も続けられる仕事に出会えたということであろう。ただ、シスター鈴木のように好きなものが明確になった人ばかりではない。やりたいことがコロコロ変わってしまう人、自分が最も興味のもてることが何かが分からなくなっている人、“世間体”のように、さして重要ではないものに執着している人もいる。それではダメで、自身のことを深く理解していなければ、組織の中で意にそまない仕事をしながら心身を病んでしまうことになる。シスター鈴木はこれまで多くの人の悩み相談に乗ってきた経験から、自分の本心を欺いて世間の評価を尊重している人が幸せであったためしがないという。

・自分のことをよく理解している人は、単調な仕事やつまらなく思える仕事も、どうしたら楽しくなるかを考えて行動する。そうすると、仕事の成果にも違いが出てくるのは理の当然である。では、自己理解を深めるためにはどうすればいいか。大事なのは、頭でただ考えるのではなく、自分の好きなものや幸せを感じる瞬間のことをひたすら書き出してみることだ。騙されたと思って、自分が好きだと感じることやものについて100個書いてみると、自分自身の傾向が見えてくるはずという。

 また、自分が普段、どんなものにお金と時間をかけているのか。書き出してみることも、自己理解を深める手助けになる。自分にとって価値のあることは何なのか。思いつくままに書き出してみると、その中にきっと軸になるようなものが見つかるはずだという。それが、自らの心を満たし、人生を豊かにしてくれるものなのだ。当たり前のことのように思うかもしれないが、書き出してみないと、その当たり前のことにさえ意外と気付かない。だから、20代、30代の女性たちには、意識的にでも自分自身としっかり向き合う時間をつくってみてほしいとシスター鈴木は提案するのだ。

・もう一つ、自分にとって価値あることを見つけるコツ。それは「聖なるあきらめ」という考え方だという。執着を手放す「諦め」と、物事をはっきりとさせる「明きらめ」の両方を行う、よい意味でのあきらめのことである。すると、目先のことや、見栄、お金、褒められることなど、部分的なことに捕らわれないようになる。ここで改めて、“自分らしく働く”とは何か。その答えは、自分の心が何によって満たされるか知り、それを仕事として周囲に役立てることだといえる。どんな仕事をしていようと、どんなワークスタイルであろうと関係ない。世間からの評価に左右される必要も一切ないのだ。

 これからの時代、女性たちのキャリアは結婚しようが出産しようが長く続いていく。専業主婦になる選択ができる人なんてそうそういない。ライフステージが変わって、自分を取り巻く環境が変化する度に、「これからどうすればいいのだろう」と不安に襲われる女性も多いはず。けれども、自分の心が何によって満たされるのか、自分自身が分かっていれば大丈夫とシスター鈴木は説いている。どんな状況に置かれても、自分で自分を安心させ、楽しませることができるという。

・僕が特に興味をもっているのは、シスター鈴木の傾聴を土台にしたコミュニケーション能力についてである。自らの著書の中で、自動車王ヘンリー・フォードの言葉を例に挙げて説明している。フォードは「成功の秘訣というものがあるとすれば、常に他人の立場を理解し、自分の立場と同時に、相手の立場でものを見る能力である。効果的に聴くことができれば、相手の立場に立って物事を見ることができる」と語っている。このようにヘンリー・フォードは「聴く」ことを非常に重要視し、「聴く」ことによって成功の秘訣としていたのである。

 コミュニケーション能力の重要性が、今ほど真剣に叫ばれている時代はない。企業は、社員のやる気や創造性、個性や自信を引き出して、生産性を高めようとしている。また、国境を越えたグローバル化の中で、有能な人材が活躍できる企業風土の改革にも取り組みつつある。「コミュニケーションの達人」というと、かつては話し上手で、面白い話ができたり、的を射たアドバイスができる人のことをいっていた。コミュニケーションの能力の比重は、「話す」ことに置かれていたのだ。

 ところが近年、「話す」ことより「聴く」ことにその比重は移りつつある。いかに「聴き上手」になるかが、コミュニケーションの最重要テーマとされるようになってきている。また、上司や先輩など指導する立場にある人が、自分のアドバイスや意見を部下や後輩に受け入れてもらうのは、想像以上に難しいことになりつつある。人は情報を一方的に伝えられていると感じると、往々にして拒絶感をもつようになるからだ。その反対に、自分の話をよく聴いてくれる上司の意見は、驚くほど部下も素直に受け入れるものなのだ。人の話を「聴く」ことができれば、相手に届く言葉で、アドバイスや意見を述べることが可能になる。
 

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・シスター鈴木は、ターミナルケア・グリーフケアにも永年たずさわり、「聴く」ことの重要性を説いてきた。この考え方は多くの著名人からも支持されている。「聴く」ことの価値は、広く認識されつつあるが、どのように「聴く」かについては、十分な知識をもっている人は、ビジネス世界でも決して多いとは言えない。そして、いまだに「聴く」ことの価値に気づいていないビジネスパーソンも、実は沢山いるのである。『愛と癒しのコミュニオン』 (文春新書刊)には、アクティブ・リスニング(傾聴)という言葉が出てくる。つまり、だれかが意見を言い、ほかの人がそれを聞くとき、ふつうは聞く人の心の中に賛成か反対か、どちらかの反応が動くもの。また、多くの人たちは、ただちにその賛成や、特に反対の意見を外に表したい気持ちにかられるものだ。しかし、真の傾聴とは、こうした賛成や反対の気分をすべて沈黙させねばならない。他人の話を聞き、それに自分なりの明確な意思表示や評価を行うことを、私たちは、知的な態度だと教わってきた。人から何かの意見を聞いた時に、賛成や反対を示せるだけの知識や知恵を持たねばならないと指導されてきた。それができるかできないかが、知恵のある者か、ない者かの指標とされることが多かったのである。

・しかし、オーストリアのルドルフ・シュタイナーも語っているが、他人の言葉に耳を傾ける際の望ましいあり方は、「自分自身の内なるものが完全に沈黙するようになる習慣」を身に付けることだという。それも「批判しない」「同情しない」「教えようとしない」「評価しない」「ほめようとしない」。これがアクティブ・リスニングの要諦ということらしい。これは言葉では簡単そうだが、実際にやってみるとかなり難しいと思う。完全に沈黙するなど、とてもできそうにないからだ。僕もサラリーマンとして、また、小さい会社ながらも経営者として仕事をしてきたが、人間関係の難しさは痛感してきた。風通しがよく、気持ちよく仕事に打ち込める環境を築き上げるには、上に立つものが聴くことの重要性を知ることが必要不可欠だと思う。「聴く」技能を高めていけば、人間関係は良好になり、新しい出会いと、チャンスが生まれてくるはずというシスター鈴木の言葉が腑に落ちるのだ。「聴く」技術を身に付けて、コミュニケーションにおける摩擦やギャップ、混乱を解消できれば、ビジネスにおいても飛躍的な成果をあげることができるのだ。

『心の対話者』 (文春新書刊)でも、聴く能力の大切さが語られている。家庭生活や学校、職場での人間関係に悩む人がいる。病気や高齢のため不安のうちに日々を過ごしている人がいる。私たちの周りには、心を閉ざしたまま孤立感を深めている人が大勢いる。こうした苦しみの中にいる人たちの心の叫びを、共感をもって受け入れ、その人たちが再び生きる意欲を取り戻せるよう側面からサポートするのが「心の対話者」である。この「心の対話者」に必須の能力とされるのが、「聴く」能力というのだ。これにより、人間関係は良好になり、新たな気づきと出会いが生まれてくる。

・激動の時代を迎え、ビジネスマンたちは、生き残りをかけた闘いを繰り広げているが、何か満たされない感じや空回りばかりしている感じにさいなまれている。会社に守ってもらいたいという願望や過去にしがみつきたいという衝動に囚われているビジネスマンも少なくない。自分の生き方、自分の生かし方がわからない日々は、あまりに心もとないのだ。確かに現在、生き方の手本を見つけるのは難しい。こんな状況下で自分を生かすための知恵としてスポットを浴びたのがエニアグラムである。エニアグラムは、二千年以上の歴史をもつ非常に神秘的な人間学だ。そしてその高度な知恵は、現在まで生き続け、現代人に譲り渡された。エニアグラムの概念を日本に初めて持ち込んだのが、シスター鈴木である。その目指すところは、人々がよりよく生き、自らの能力や個性を最大限に生かすための知恵を提供することにある。

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 ・エニアグラムについて書いた『9つの性格 すべての人は、9つのタイプに分けることができる』(PHP研究所刊、2004年)は、発売されるやすぐに大きな話題を集め、44万部を超えるベストセラーとなった。このエニアグラムは、世界各国で科学的に検証され、日米の一流企業でも神秘の人間学“エニアグラム”として人事研修にも採用されている。タイプを分ける20の質問に答えれば、あなたが、(1)完全でありたい人、(2)人の助けになりたい人、(3)成功を追い求める人、(4)特別な存在であろうとする人、(5)知識を得て観察する人、(6)安全を求め慎重に行動する人、(7)楽しさを求め行動する人、(8)強さを求め自己主張する人、(9)調和と平和を願う人、の中でどのタイプかがわかる。自分のタイプを知り、こだわりや恐れから解放されれば、自らの能力と個性を最大限に生かすことができる。さらに、相手のタイプを知り、長所と短所を見極めれば、その人に合った対応の仕方がわかり、良好な人間関係も築くことができる。まさに、新しい生き方を実現するための“人生の地図”といえるのだ。

 シスター鈴木は、まだ「マインドフルネス」という言葉が日本で知られる前から、こうしたエニアグラムの効果的な利用の仕方など、幸せを手にするためのセミナーを各地で開催し、多くの悩める人たちを救ってきた。いつに変わらぬその献身ぶりには、頭が下がるばかりだ。また、何かの機会にお会いできればと思うが、シスター鈴木はお忙しいし、僕も体が不自由なので行動範囲が制約される。だから僕の叶わぬ夢かもしれない。ただ、これだけはお伝えしておきたい。今後ますますお元気で、ご活躍をされ、多くの悩める人たちを救ってくださることを、衷心よりお願いするものである。

渡部昇一さん

清流出版 (2017年4月26日 10:13) | コメント(0) | トラックバック(0)

・保守派の論客として知られた英語学者・評論家・上智大名誉教授の渡部昇一(わたなべ・しょういち)さんが、心不全のため、この4月17日に亡くなった。享年86だった。お年を召してはいたが、天皇陛下の生前退位を巡る有識者会議のメンバーとして発言されたり、お元気そうだったので僕はこの訃報にショックを受けた。僕の古巣ダイヤモンド社で、月刊誌のため数回会った。清流出版では直接、姿を拝見したのは、ビジネス茶を提唱した荒井宗羅さんの著による『和ごころで磨く』(1997年6月刊)を弊社から出させていただいたとき、出版記念パーティにゲストとしていらっしゃっていた。以来、また渡部さんと僕の付き合いが始まった。実際は金井雅行君が担当で、毎回の連載は順調であった。僕の知っている渡部さんの家は練馬区関町南だったが、金井君の話だと、2007年からは杉並区善福寺の所へ引っ越しされたそうだ。その庭に素晴らしい鯉を何匹も買っていた。渡部さんは、専門は英語学者であったが、保守本流としての歴史論、政治・社会評論活動には目を見張るものがあった。こうした評論については、保守系オピニオン系雑誌である『正論』や『諸君!』『WiLL』『voice』『致知』などのメディアへの寄稿が多かった。

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大ベストセラーとなった『知的生活の方法』(講談社刊)

・僕は渡部さんの日本の近現代史の見直し論や、歴史認識問題への発言に注目していた。物議をかもしだした発言が多い中でも、特に記憶に残るのは、盧溝橋事件は中国共産党の陰謀であるとし、戦前の学校で習った歴史の見方の方が正しかったと主張していた。また、南京大虐殺に関し、「ゲリラの捕虜などを残虐に殺してしまったことがあったのではないか、こういうゲリラに対する報復は世界史的に見て非常に残虐になりがちだ」と殺害事実は認めたものの、「ゲリラは一般市民を装った便衣兵であり、捕虜は正式なリーダーのもとに降伏しなければ捕虜とは認められない。虐殺といえるのは被害者が一般市民となった場合であり、その被害者は約40から50名。ゆえに組織的な虐殺とはいえない」とし、虐殺行為は無かったと結論づけていた。

    慰安婦問題にも言及している。朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治の偽証を朝日新聞が何度も取り上げたこと、中大・吉見義明教授の慰安婦問題捏造報道、日本の弁護士の日本政府への訴訟、日本政府の安易な謝罪などが重なったことが原因で騒動になったものであり、国家による強制や強制連行はなく、捏造であることが証明されていると主張した。これには後日談があり、2007年、アメリカ合衆国下院による慰安婦に対する 日本政府の謝罪を求める対日非難決議案(アメリカ合衆国下121号決議)に対して、日本文化チャンネル桜社長(当時)の水島総が代表を務める「慰安婦問題の歴史的真実を求める会」が作成した抗議書に賛同者の一人として署名している。

・渡部さんは、1930年、山形県鶴岡市の生まれ。上智大学大学院西洋文化研究科修士課程を経て、ドイツのミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)大学院博士課程を修了している。専攻は英語文法史であった。1975年に刊行のウォルポール時代のイギリスを例に取りつつ、政治的腐敗が必ずしも国民の不利益につながらないことを明らかにした『腐敗の時代』(PHP研究所刊)で日本エッセイストクラブ賞を受賞。また、1976年に出版された、読書を中心にした内面の充実を求める生活を実践してきたことを背景に、さまざまなヒントとアイデアを示した『知的生活の方法』(講談社刊)が大ベストセラーとなった。

    この本の発行部数はなんと累計118万部ということで、講談社現代新書シリーズの最大ヒット作だったという。また、大島淳一というペンネームで、ジョセフ・マーフィーの成功哲学を日本に紹介したことでも知られる。主なるジョセフ・マーフィーの訳書には、『マーフィー100の成功法則 』『マーフィー 眠りながら巨富を得る―あなたをどんどん豊かにする「お金と心の法則」』『眠りながら成功する―自己暗示と潜在意識の活用』(いずれも知的生きかた文庫刊)などがある。

 交友関係では、堺屋太一・竹村健一の両氏とは交流が深く、3人で講演会を催したり共著を出版したり、『三ピン鼎談 平成日本の行方を読む』(1990年2月、太陽企画出版刊)を刊行したこともある。また、谷沢永一氏とは共に蔵書家であり、思想的に共感できることが多かったこともあり、多くの共著を出している。渡部さんはテレビでもよくお顔を拝見した。竹村健一氏との掛け合いは面白かった。「竹村健一の世相を斬る」(フジテレビ)にゲスト出演していたのが懐かしく思い出される。また、自身の番組、石原慎太郎、加藤寛、田久保忠衛、岡崎久彦といった著名人を招いての対談番組「渡部昇一の新世紀歓談」(テレビ東京)、渡部昇一の「大道無門」(日本文化チャンネル桜)もやはり対談番組で、各界の著名人を招き、歴史、政治、時事問題などを語り合うホスト役を務めておられた。

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『ワタナベ家のちょっと過剰な人びと』(海竜社)

・渡部さんは、若い頃から音楽に深い関心はなかったようだが、夫人が桐朋学園音楽科の1期生でピアニストだったこともあり、3人のお子さんが全員音楽家となっている。クラシック音楽ファンの僕には、羨ましい限りの家庭環境だ。『ワタナベ家のちょっと過剰な人びと』(2013年2月、海竜社刊)という本がある。著者の渡部玄一さんはチェリストで、渡部昇一さんのご長男だ。母親がピアニストで姉もピアニスト。弟はヴァイオリニストという家族の来し方が描かれている。玄一さんは、桐朋学園大学を卒業し、同校研究科を卒業後、1993年、米国ニューヨークのジュリアード音楽院を卒業したエリートである。

 その本によれば、渡部さんは、子どもたちに幼い頃より独特な教育を課していたらしい。一日一つの『論語』を学ぶ、百人一首の暗記、縄跳びと、始めたら一日も欠かさず続けさせられたという。そのお陰で、毎日、必ずやり切る! というパワーを叩き込まれ、どんな厳しいレッスンにもめげることなく果敢に挑戦することができたと玄一さんは述懐している。家族五人でのエディンバラでの生活は愛に満ち、家族の絆を強くしたようだ。そんな家族愛を証明するかのように、渡部昇一、渡部玄一両氏の共著で交互にエッセイを綴った『音楽のある知的生活』(PHPエル新書刊、2002年)も出している。

・該博な知識の持ち主であり、個人の蔵書では群を抜く充実ぶりでも知られた。その蔵書数は実に14万冊を超えるというから半端ではない。渡部さんは、古書の蒐集家でもあり、専門の英語学関係の洋書だけでも約1万点を所有していた。その蔵書目録だけでもA4判600ページにも及んだという。1963年、愛書家で、本のコレクターであることを原則に発足した“国際ビブリオフィル協会”があるが、1999年に日本でこの大会が開催されたのを機に、渡部さんが会長となり“日本ビブリオフィル協会”を発足させている。

 本の買い方も豪快そのものだったようだ。『知的生活の方法』の印税で懐が温かだった渡部さんは、エディンバラに滞在していた時、オークションでトラック1台分の希少本を落札したという。自宅に書庫を増設したが、居住空間を侵され始めた夫人が、「ウチには『本権』はあるのに、『人権』はないのですか!」と反対したという逸話も残されている。ちなみに蔵書数でいえば、井上ひさしさんや阪神大震災前の谷沢永一さんの蔵書は20万冊、立花隆さんは10万冊、丸山眞男さんは3万冊ともいわれている。

 日本ビブリオフィル協会会長は稀覯本コレクターで知られる渡部さんにピッタリのジャンルだが、その他に務めていた主な役職としては、インド親善協会理事長、日本財団理事、グレイトブリテン・ササカワ財団(日本財団のイギリスにおける機関)理事、野間教育財団理事、イオングループ環境財団評議員、エンゼル財団理事、「日本教育再生機構」顧問等があり、実に多岐にわたって活躍されていたことがわかる。2015年には、瑞宝中綬章を受章している。

・最後に渡部昇一さんの盟友宮崎正弘さんの弔辞から抜粋してご紹介したい。渡部さんの情の深い人間的な温もりが伝わってくる見事な弔辞である。

【振り返れば、初対面は四半世紀以上前、竹村健一氏のラジオ番組の控室だった。文化放送で「竹村健一『世相を切る』ハロー」という30分番組で、竹村さんは1ヶ月分をまとめて収録するので、スタジオには30分ごとに4人のゲストが待機するシステム、いかにも超多忙「電波怪獣」といわれた竹村さんらしいやり方だった。ある日、呼ばれて行くと、控え室で渡部氏と会った。何を喋ったか記憶はないが、英語の原書を読んでいた。僅か十分とかの待機時間を、原書と向き合って過ごす人は、この人の他に村松剛氏しか知らない。学問への取り組みが違うのである。そういえば、氏のメインは英語学で、『諸君!』誌上で英語教育論争を展開されていた頃だったか。

 その後、いろいろな場所でお目にかかり、世間話をしたが、つねに鋭角的な問題意識を携え、話題の広がりは世界的であり、歴史的であり現代から中世に、あるいは古代に遡及する、その話術はしかも山形弁訛りなので愛嬌を感じたものだった。近年は桜チャンネルの渡部昇一コーナー「大道無門」という番組があって、数回ゲスト出演したが、これも一日で二回分を収録する。休憩時に、氏はネクタイを交換した。意外に、そういうことにも気を遣う人だった。そして石平氏との結婚披露宴では、主賓挨拶、ゲストの祝辞の後、歌合戦に移るや、渡部さんは自ら登壇すると言い、ドイツ語の歌を(きっとお祝いの歌だったのだろう)を朗々と歌われた。芸達者という側面を知った。情の深い人だった。

 最後にお目にかかったのは、ことしの山本七平授賞式のパーティだったが、氏は審査委員長で、無理をおして車椅子での出席だった。「おや、具体でも悪いのですか」と、愚かな質問を発してしまった。

 訃報に接して、じつは最も印象的に思い出した氏との会話は、三島由紀夫に関してなのである。三島事件のとき、渡部さんはドイツ滞在中だった。驚天動地の驚きとともに、三島さんがじつに偉大な日本人であったことを自覚した瞬間でもあった、と語り出したのだ。渡部さんが三島に関しての文章を書かれたのを見たことがなかったので、意外な感想にちょっと驚いた記憶がふっと蘇った。三島論に夢中となって、「憂国忌」への登壇を依頼することを忘れていた。合掌。】
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