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藤沢周平さん+西城秀樹さん

清流出版 (2018年5月25日 12:26) | コメント(0) | トラックバック(0)

●藤沢周平さん


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福沢一郎著『知られざる藤沢周平の真実 待つことは楽しかった』(2004年、弊社刊)


・時代小説作家・藤沢周平が亡くなってすでに二十年になるという。市井もので男と女が織りなす人情を描いて右に出る者がなく、多くのファンの心を掴んでいた。じつは弊社でも藤沢周平関連の本を1冊だけだが出している。それは福沢一郎氏の著になる『知られざる藤沢周平の真実 待つことは楽しかった』(2004年12月刊)という本である。執筆動機について福沢氏は、藤沢周平という作家が、なぜ市井の男女間の想い、人情の機微を鮮やかに描けるようになったのかを探りたいと思ったからだと書いている。

・そもそも福沢氏が藤沢周平について取材することになったきっかけは、死後、藤沢周平全集などの発行元だった文藝春秋が、『文藝春秋』臨時増刊号として藤沢周平追悼特集号を刊行したことにある。福沢氏は追悼号の中で、藤沢の中学校教師時代の教え子たちとの交流を取材した。「仰げば尊し」と題して追悼号で掲載された。これは現在、『藤沢周平のすべて』(文春文庫刊)に収められている。

・『知られざる藤沢周平の真実』では、藤沢の新たな事実が明らかにされている。それは藤沢周平の伴侶についてである。藤沢は最初の妻、悦子さんと結婚し、悦子さんは結婚4年目に展子さんを出産する。そして出産後、わずか8ヶ月でこの世を去るのだ。藤沢は幼いころから、死とは無縁ではない。多くの死との出合いがあった。敬愛する先生たちの死があり、自分も結核との闘いを制し、生還してきたのに、今度は最愛の妻に去られた。その心痛はいかばかりだったのだろうか、察するに余りある。事実、愛娘・展子さんの存在がなかったなら、後追い自殺もしかねないほど、落ち込んでいたのである。それはメモ帳にも書いている。

・一般的な年譜では、この最愛の妻だった悦子さんの死から5年3ヶ月後、和子さんと再婚するとなっているが、福沢氏は取材の過程で新事実を探り出す。実はこの間に、藤沢は何人もの女性に迷惑をかけていることがわかったのである。悦子夫人が亡くなったあと、藤沢は郷里から母を呼び寄せている。同居することで、娘の世話や家事一切を切り盛りしてもらえるよう望んだ。しかし、70歳近い年寄りで軽い脳梗塞もあって、体力的にも続かなかったのである。体調不良ですぐに寝込んだりしてまったく頼りにならなかった。

・そこで藤沢周平はどうしたのか。なんと、かつての教え子たちにプロポーズしたのである。少なくともプロポーズされた教え子は3人はいるという。この頃、教え子たちは20代の半ばになっている。結婚適齢期であったことは間違いない。しかし、さすがに誰もこの申し入れを受け入れなかった。藤沢周平も教師時代、教え子に慕われていたという自負はあっただろうが、さすがにその考えは甘かったのである。

・そして故郷・鶴岡の方から嫁を世話するという話が持ち上がる。困りきっていた時期だったこともあり、勢い込んで結婚に踏み切るも、短期間で離婚に至る。娘の世話をして家事一切を切り盛りしてほしいと願う藤沢に対し、鶴岡から新婚生活を夢見て上京してきた女性とでは、しょせん気持ちにズレが生じる。無理があったのだ。当然ともいえる破綻であった。この間、藤沢は、もう一人鶴岡の女性と結婚している。この女性は、「子どもが生まれない」ことを理由に離婚されたという。結局、藤沢は二人の女性と結婚・離婚をしていたわけだが、この部分は藤沢周平の年表にはまったく書かれていない。藤沢の実弟・小菅繁治が書いた『兄 藤沢周平』(毎日新聞社刊)に、M子やH子として離婚した二人の女性について書かれているだけである。


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遠藤展子さん

・実は臼井雅観君が最近、月刊『清流』の「著者に聞く」で藤沢周平の娘・遠藤展子さんに取材している。藤沢が亡くなったあと、展子さんの手元には、藤沢の手帳4冊が遺されていた。そのなかには、展子さんが生まれた昭和38年から、直木賞を受賞し、作家生活に踏み出した昭和51年までの苦悩と格闘の日々が克明につづられていた。展子さんも藤沢がたくさん小説を書いていた年齢に近づくにつれ、父親たる藤沢が何を考え、どんな風に仕事をしていたのか、気になるようになったのだ。残された手帳から、藤沢が小説を書く理由として挙げていた「鬱屈」の正体を知りたかったこともある。

・最初の妻・悦子さんがモデルではないか、と展子さんが推測した小説がある。それは映画化もされた『たそがれ清兵衛』である。病気で寝たきりの妻を看病するため、お城の仕事を終えるとすぐに帰宅し、かいがいしく世話をする武士の清兵衛が描かれている。これは藤沢が、悦子さんの入院していた病院に毎日のように通い、妻を励ましながら小説を書いていた藤沢と重なるというのだ。

・それにしても藤沢の展子さんに対する溺愛ぶりは凄かったらしい。態度でももちろんそうだったが、展子さんが結婚をして25歳を過ぎたころ、藤沢から「眼の中に入れても痛くないと思ったよ」と告白されたという。展子さんは小学生のころ、学校から帰るとすぐに藤沢に学校での出来事を逐一報告している。小説の執筆を中断させても、怒られたことは一度もないというから驚きだ。作家が執筆を中断してまでして子どもの話を聞くというのだから、きわめて稀有なケースではないだろうか。

・そして極めつけは、藤沢の死後、机の中から出てきた原稿用紙に書かれた遺言書のような文章である。一般的には、自分が亡くなったら、これまで支え続けてきてくれた妻の和子さんをよろしく頼むと書くであろうに、なんと「展子をよろしく」と書いてあったのだ。このとき、展子さんはすでに結婚して子どももいる。その展子さんを、どうかよろしく頼むと書いていたわけで、その溺愛ぶりが伝わってくるエピソードである。

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・展子さんによれば、手帳を解読するにつれ、作家という職業がどれほど過酷であるかを思い知らされたという。手帳には苦渋に満ちた日々のメモが書かれていた。

――昨日からわずか8枚しか書けていない。

――書いても書いても全体像が見えてこない。

・藤沢の小説の書き方は、エンディングは決まっておらず、先が見えるようになるまで書いていく方式だった。だから同じ書き出しの小説が何本も見つかっこともあるらしい。文章へのこだわりも半端ではなかった。美文調を嫌い、無駄をそぎ落としていく。決して同じような表現は使わず、違った表現を削り出す。身を削り、神経をすり減らし、小説を1本仕上げると3キロ体重が減ったという。あの人生の哀歓溢れる小説が生まれた背景には、こんな過酷な葛藤と煩悶、作品への厳しい自己評価があったのである。

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・藤沢はちゃっかり展子さんをモデルにした人物も登場させている。それは藤沢の代表的時代小説連作集『獄医立花登手控え』全4巻である。医者になるという夢を叶えるべく江戸に出た立花登を迎えたのは、はやらない町医者の叔父と、口うるさい叔母、生意気な娘のおちえである。居候としてこき使われながらも、起倒流柔術の妙技とあざやかな推理で、若き青年医師が、獄舎にもちこまれるさまざまな事件を解いていくといった筋立てだ。このお転婆娘のおちえというのが、どうも展子さんをモデルにしたものらしい。また、おちえの遊び友だちにも、展子さんは心当たりがあるというからなんともおかしい。

・藤沢は40代後半になると、まるでハードボイルドのような趣のある『神谷玄次郎捕物控』、『用心棒日月抄』、『隠し剣シリーズ』などエンターテイメント系の時代小説シリーズを書くようになった。もちろん、こうした時代小説も好きだが、やはり藤沢周平の小説の醍醐味は、市井ものではないかと個人的には思っている。男女の哀歓を描いて、これほどの手練れはいないと思うのだが、皆さんはどう思っているだろうか。



●西城秀樹さん

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『THE 45――西城秀樹デビュー45周年フォトエッセイ』から。(撮影:武藤 義さん)

・ここまで書いてきたところで、あの西城秀樹さんが、お亡くなりになったというニュースが入ってきた。2018年4月25日、自宅で家族団欒の席で倒れて緊急入院し、懸命の治療が行われたが、5月16日23時53分、急性心不全のため神奈川県横浜市内の病院で死去したという。享年63。
 
・西城秀樹さんの訃報を受け、新御三家としてライバルであり友でもあった郷ひろみさんと野口五郎さんを始め、数多くの著名人が追悼コメントを発表している。2018年5月26日、青山斎儀場で妻の美紀夫人が喪主を務め、葬儀と告別式が行われる予定とある。

・実は、清流出版でも西城秀樹さんには前々から注目していた。2015年1月号から2016年12月号まで、月刊『清流』で連載したほどだ。そして、2016年9月に単行本『THE 45――西城秀樹デビュー45周年フォトエッセイ』を刊行している。著者は、西城秀樹、武藤 義の二人。単行本化に当たっては、編集担当した古満 温(すなお)君が隅々まで気配りした編集作業をしてくれた。その古満君が西城秀樹さんと同郷の広島県人であったこともお互いの信頼関係を築くのに役立った。また、装丁等を担当したデザイナーの日戸秀樹氏、そして編集協力の浅野祐子さんもアイデアを出し合い、いい作品に仕上がった。

・西城秀樹さんは、2003年と2011年の2度にわたって脳梗塞を発症し、特に2度目の脳梗塞のあとは言語障害や右半身のしびれなど、目に見える形での後遺症が残った。1メートルを歩くのに1分ほどかかったこともあったらしい。そんな重い後遺症が残りながらも、不屈の闘志でステージに立ち続けた西城秀樹さん。僕も同じ病(二度の脳出血)に倒れ、歩くのもままならない状態になった。だから西城さんには特別の思い入れがあった。だからとても残念である。衷心より、ご冥福をお祈りしたい。

升本喜年さん

清流出版 (2018年4月26日 17:43) | コメント(0) | トラックバック(0)

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升本喜年さん


・実は先日、臼井雅観君が松竹関係者に取材した際に、聞いて分かったのだが、升本喜年さんが昨暮、お亡くなりになったという。好きな著者だっただけに、僕はとてもショックだった。それだけ升本さんは、弊社にとって大切な人だった。とにかく一本気な方で、曲がったことが大嫌い。かといって文章を書けば、絹糸を吐くような繊細さも持ち合わせていた。升本さんには弊社から『田宮二郎、壮絶! いざ帰りなん、映画黄金の刻へ』(2007年刊)という本を刊行させて頂いた。この本はアマゾンを見て頂ければ分かるが、4人のカスタマーレビューで満点近い「4.5」の評価がついている。400頁を超える大著ながら、これだけ評価されたのは、田宮二郎という人物の魅力であり、陰になり日向になり支え続け、共に歩いた升本さんの筆力によるものであろう。京都生まれのボンボン、学習院大学卒業で英語がペラペラだった田宮二郎。幼い頃に肉親を相次いで亡くしたことによる愛情の欠如があり、なかなか芽が出なかった大部屋時代も経験した。そして二面性を持つ繊細で複雑な性格の持ち主でもあった。そんな田宮二郎という俳優がもつ魅力に、升本さんがいかに共鳴していたかがよく理解できる。

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右から升本喜年さん、嶋田親一さん、僕、小黒通顕さん(嶋田さんと小黒さんは別企画での来社だったが同席しての企画会議になった。相乗効果が発揮されるので僕は大いに歓迎した)

・升本さんは大変、エネルギッシュな方であり、地声も大きく、弊社に入ってくるとすぐにそれと知れたものだった。大の話好きであり、いつも映画関係の話やテレビ関係の話で大いに盛り上がった。お蔭様で『田宮二郎、壮絶!  いざ帰りなん、映画黄金の刻へ』は増刷となり、弊社に利益をもたらしてくれたが、実はもっと売れる可能性があった。というのも、著者である升本さんと田宮二郎とはかなり近い関係にあったので、ご遺族にとってはあまり好ましくない表現や記述があったものと思われる。刊行を直前にして、弊社宛に田宮二郎のご遺族から内容証明便が届いており、刊行に至った場合には訴訟も辞さないとの内容であった。ただ、升本さんはこの本を執筆する前に、ご遺族には会って仁義を切っており、了解を得ていたことは事実である。

・確かに、この本の中には、升本さんから見た等身大の田宮二郎が語られている。初めての出会いから、田宮が五社協定に苦しんでの不遇時代を過ごして後、TVに活躍の場を移し、あの「クイズタイムショック」の司会に活路を見出すまで、さらには田宮が「白いシリーズ」で一躍TV界の大スターに登りつめてゆくまでが語られる。升本さん自身も「白い巨塔」のドラマ製作が念願だったことにも触れられている。田宮二郎の個人的な頭髪に関する、オフレコにしたいような記述も確かにあった。田宮二郎という俳優は、几帳面であり生真面目な性格だったようだ。そのため心身を病んで、終には猟銃自殺に至るのである。映画の世界が興行成績を金科玉条とすれば、TV業界は視聴率がすべてである。田宮二郎はそんな視聴率という魔物に取りつかれてしまったのであり、彼の良くも悪しくも律儀な点につけこんだ男達に滅ぼされたということになろうか。

・さて、この訴訟も辞さないといっていた田宮二郎のご遺族はどうしたのか。結局は刊行した後、ご遺族からはなんのリアクションもなかったが、僕には訴訟に対しての自信があった。というのも、僕には強力な助っ人がいたからだ。それは升本さんのご子息で、小柄な升本さんとは正反対の180センチを超える長身、イケメン弁護士の升本喜郎さんである。経歴を紹介する。1962年、神奈川県生まれ。東京大学卒業後、最高裁判所司法研修所入所。1993年、第二東京弁護士会登録、TMI総合法律事務所勤務。2000年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校ロースクール卒業。ニューヨークのソニー・ミュージックエンタテインメント・インク法務/ビジネスアフェアーズ部勤務。2001年、TMI総合法律事務所復帰。2002年、パートナー就任。2004年、中央大学法科大学院兼任講師。2006年、映画専門大学院大学教授(―2012年)。2007年、一般社団法人外国映画輸入配給協会理事。2010年、一般社団法人衛星放送協会理事(―2012年)。2017年、一般財団法人映画倫理機構理事、映画倫理委員会委員、と素晴らしい経歴の持ち主の方なのである。

・升本喜年さんのご子息・升本喜郎さんの著書を見れば、どんな弁護士かが更によく分かる。『著作権の法律相談』(共著・青林書院)、『あなたがアーティストとして成功しようとするなら』(ドナルド・S・パスマン著、升本喜朗訳、ソニー・マガジンズ)、『エンターテインメントと法律』(共著・商事法務)、『スポーツMBA』(共著・創文企画)、『映画・ゲームビジネスの著作権』(共著・著作権情報センター)、『知的財産法をめぐる理論と実務』(共著・新日本法規出版)、『知財ライセンス契約の法律相談』(共著・青林書院)、『エンタテインメント訴訟における主張・立証活動?映画・音楽等に関する著作権侵害訴訟を中心として』(著作権情報センター)、『日本映画の国際ビジネス』(共著・キネマ旬報社)等々、とにかく映画業界・ゲームビジネスなどに、滅法お詳しい方なのだ。この喜郎さんが、訴訟を起こされた場合、全面的に協力してくれることになっていた。だから僕は、まったく恐れてはいなかった。むしろ訴訟になって、本が話題になってくれたら、販促に寄与してくれるのではないかと期待していたくらいなのだ。

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升本さんの『田宮二郎、壮絶! いざ帰りなん、映画黄金の刻へ』(2007年刊)

・升本喜年さんの経歴にも触れておこう。1929年、熊本県玉名の生まれ。日本大学芸術学部(映画学科)卒業後、早稲田大学大学院(演劇学専攻)修了。1954年、松竹大船撮影所にプロデューサー助手として入社している。映画興行では松竹がトップを走っていた時期であり、升本さんが入社する半年ほど前には、大島渚や山田洋次らが助監督として入社した年でもある。1963年、プロデューサーに昇格し、『大根と人参』(1965)、『アンコ椿は恋の花』(1965)、『男の顔は履歴書』(1966)、『コント55号』シリーズ(1968―)、『薄化粧』(1985)など、多くの作品を担当した。松竹シナリオ研究所所長、松竹映像社取締役を経て、1988年、松竹を退社している。その後、テレビドラマの企画制作会社「梟雄舎(きゅうゆうしゃ)」を設立し代表となった。主な著書には、『紫陽花や山田五十鈴という女優』、『女優・川田芳子の生涯』、『女優 岡田嘉子』といった女優論。『人物・松竹映画史―蒲田の時代―』、『松竹映画の栄光と崩壊―大船の時代―』、『映画プロデューサー風雲録』など映画業界の興亡史などが光る。とりわけ『紫陽花や山田五十鈴という女優』は、戦前戦後を通じて映画・演劇のスター女優として他の追随を許さず、私生活では四度の結婚離婚を繰り返し、ひとり娘・瑳峨美智子との死別など山田五十鈴の波瀾万丈の人生が描かれる。女優道ともいうべき彼女の生き方を、松竹プロデューサーとして私的な思いを込めて綴っており、あまたある山田五十鈴論の中では、一番心に残っている。女優論でありながら、日本映画・演劇の興亡史ともなっている。

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升本さんが紹介してくれた太田哲生さんの『僕は、なんのために生きて来たんだ』(2006年刊) 

・升本さんの紹介で太田哲生さんを知り、『僕は、なんのために生きて来たんだ』(2006年、弊社刊)という本が誕生したことにも触れておかねばなるまい。太田哲生さんの本名は太田哲哉。1926年、香川県の小豆島に生まれた。拓殖大学商学部を卒業して、1952年、松竹株式会社に入社している。本社宣伝部員として木下惠介監督『二十四の瞳』、『野菊の如き君なりき』、『喜びも悲しみも幾歳月』など木下監督作品のほとんどを担当した。大船撮影所宣伝課長を経て、映画製作本部芸文室長となり、松坂慶子、森田健作、由美かおるなどの俳優の育成にあたる。その後、映画宣伝部チーフプロデューサーとして、『衝動殺人息子よ』、『父よ母よ!』、『機動戦士ガンダム』、『魚影の群れ』、『化粧』などを担当、1986年に松竹を退社している。この太田さんと升本さんはウマが合ったようだ。『僕は、なんのために生きて来たんだ』は、太田さんのご子息が20歳の若さで亡くなり、その追悼の意味も込めて出版された本だったが、升本さんは、この本を自身の制作会社で映像化しようと考えていた。豊富なプロデューサー経験にプラス、独立後はドラマの企画提案や制作の仕事を続けてきた升本さんが自らのプランを持って来社された。
 アイデアを伺ってみると、得意だった映画・テレビの力を借りて単行本のパワーを全開したいとおっしゃる。僕も、もっともな路線だと思ったし異存はなかった。メディア・ミックスの相乗効果は、大いに有望路線である。僕は、ぜひ映画化、テレビドラマ化にご尽力をお願いした。升本さんの構想には、松竹時代に交流のあった某大物俳優も含まれ、これが実現したらと思うとわくわくしたものだった。

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お嬢さんの升本由喜子さんは元女優

・この映像化の打ち合わせに、升本喜年さんに伴って来たのが、娘さんの升本由喜子さんだった。升本由喜子さんは、渡瀬ゆきの芸名で活躍した元女優さん。旧芸名は渡瀬由喜子さんといった。早稲田大学中退後、劇団所属を経て、1980年に「太陽にほえろ!」に本名でデビュー。その後「西部警察」にゲスト出演の際に渡哲也の命名で「渡瀬由喜子」に改名した。「渡瀬ゆき」に再改名後の1983年から1987年まで、「太陽にほえろ!」で、ブルースこと澤村誠刑事(又野誠治)の妻・泉役でセミレギュラー出演していた方である。「太陽にほえろ!」終了後は、プロデューサー業に転じ、父・喜年さんが設立したプロダクション「梟雄舎」の代表取締役として現在も、数多くの作品制作の現場に立っている。この親子で各テレビ局のディレクターに働きかけて、作品制作を摸索したのだが、残念ながら実現には至らなかった。今も僕の心残りとなっている。

・それにしても升本喜年さんの素晴らしいDNAは、見事に受け継がれたといっていい。ご子息のイケメン敏腕弁護士は、著作権分野では日本を代表する弁護士として知られる。そして美人でプロダクション経営を任された娘さんである。その意味でも、僕は升本喜年さんに心から拍手を送りたい気分である。衷心より、升本喜年さんのご冥福をお祈りしたい。どうぞ安らかに。

熊谷守一さん

清流出版 (2018年3月22日 14:53) | コメント(0) | トラックバック(0)

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「熊谷守一 没後40年――生きるよろこび展」。国立東京近代美術館で

 3月2日、清流出版からほど近い国立東京近代美術館で開催中の「熊谷守一展」を臼井雅観君と見に行った。前々から行きたいと思っていた展覧会だったので、思い切って出かけてよかった。弊社からは営団地下鉄九段下駅から1駅の竹橋駅が近いのだが、僕が電動車椅子なので北の丸公園を通って美術館まで行くことにした。これが正解だった。というのも、ちょうど公園内には、寒桜や河津桜、緋寒桜が咲き始めており、春の息吹を肌で感じることができた。

 思い起こせば、僕が小学生だった頃、熊谷守一の家を見て、印象的だったことがある。当時の町並みといえば、木造の小さな家が軒を接するように建っていたものが、そんな中で熊谷守一の家はコンクリート塀に囲まれたモダンな作りだったことを覚えている。僕は豊島区立千早小学校に通っていたが、その校門から近い場所に熊谷守一の家があった。僕の家からも東へ300メートルほど小学校、その先、熊谷守一の家は100メートル、合計400メートルしか離れていなかった。当時の僕は、芸術に目を向けることもなく、腕白なガキ大将として遊び回っていた。画家・熊谷守一より、近くにあった立教大学の野球部グラウンドの方に魅かれていた。

 僕の中学時代、神宮球場で開催される東京六大学野球で、「鬼の砂押監督」率いる立教大学は黄金時代を迎えていた。三塁手は華麗な守備と天才打者だった長嶋茂雄、ピッチャーは無類の制球力と剛腕で知られた下手投げの杉浦忠、遊撃手には堅実な守備の本屋敷錦吾がいた。いずれも後に巨人、南海、阪急と球団はそれぞれ散ったが、プロ野球を沸かせる人気スター選手がそろっていた。日本ハムの監督になった大沢啓二親分も、外野手としてこの黄金時代を支えていた。僕たちはいまでいう追っかけをしながら、野球に入れ込んだものだった。

 現在、熊谷守一の居宅は、豊島区立熊谷守一美術館となっている。また、1976年に恵那郡付知町(現・中津川市付知町)で生まれた熊谷守一の偉業を記念して、同町に美術ギャラリーを開設した。以降40年以上にわたり、熊谷守一の作品・遺品等を展示してきた。そして2015年に、次女・熊谷榧(かや)が館長となり、“つけちギャラリー”としてリニューアルオープンしている。

 今回の「熊谷守一展」の案内にはこうあった。

≪熊谷守一(明治13年昭和52年)は、明るい色彩とはっきりしたかたちを特徴とする作風で広く知られている。特に、花や虫、鳥など身近な生きものを描く晩年の作品は、世代を超えて多くの人に愛されている。その作品は一見ユーモラスで、何の苦もなく描かれたように思える。
 しかし、70年以上に及ぶ制作活動をたどると、暗闇でのものの見え方を探ったり、同じ図柄を何度も使うための手順を編み出したりと、実にさまざまな探究を行っていたことがわかる。描かれた花や鳥が生き生きと見えるのも、色やかたちの高度な工夫があってのこと。穏やかな作品の背後には、科学者にも似た観察眼と、考え抜かれた制作手法とが隠されている。
 東京では久々となるこの回顧展では、200点以上の作品に加え、スケッチや日記などもご紹介し、画家の創造の秘密に迫っている。明治から昭和に及ぶ97年の長い人生には、貧困や家族の死など様々なことがあった。しかし、熊谷守一はひたすらに描き、95歳にしてなお「いつまでも生きていたい」と語ったという。その驚くべき作品世界に、機会があったら是非、触れてみて下さい。≫

 熊谷守一は無欲恬淡としていて、かつ反骨心の持ち主でもあり、語り草になっている逸話も数多い。昭和42年、文化勲章受章者に内定して連絡を受けたのだが、「これ以上、人が来るようになっても困る」として辞退した。同様に、昭和47年の勲三等叙勲の内示を受けた際にも、「お国のために、何もしていないから」との理由で受諾を断っている。

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画家・熊谷守一(撮影:藤森武さん)

 僕は犬・猫といった動物や鳥類など生き物を特に好きでもないし、あまり興味が湧かないのだが、熊谷守一は年を経るにしたがって、ごく身近にいる蛙や蟻、猫や兎、鳥や昆虫など、さまざまな生き物を描いてきた。また、頼まれれば熊谷守一は書もよくしているが、僕も書は好きだった。健常だったころは、弊社から刊行した出版物の題字を自分流で書いたこともある。特に誰に習ったということもなく、まったくの無手勝流であった。だから熊谷守一が最晩年近くに書いた、なんとも形容のしがたい枯れた書には大いに関心があった。それと僕がリハビリの過程で体験した絵手紙への関心から、遊び心に満ちた画家のスケッチにも興味があった。

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画家がよくモチーフとした「猫」(撮影:藤森武さん)

 絵手紙といえば、熊谷守一は、弊社からも十数冊刊行させて頂いた絵手紙創始者・小池邦夫さんが尊敬する画家の1人でもあった。小池さんは、熊谷守一の油絵より特に書や素描に関心があったようだ。確かに、熊谷守一のデッサンした蛙にしても鳥にしても、一本の線でサラサラッと簡単に描いているように見える。小池さんは、「それでいながら動きがあり、鳴き声さえ聞こえてきそうだ」と評している。

「線というのは誰にでも引ける。誰にだってお喋りができるのと同じである。だが、生きた線を引けるかどうかとなると、これは大変に難しい。お喋りはできても、人を感動させるお喋りとなるとなかなかできないのと同じである」。小池さんは、分かりやすくそう説明してくれた。

 そういえば、今回展示されていた作品の中に、雨粒が水に跳ねている絵があった。ただ水溜りに雨粒が落ちて跳ねているだけの絵なのだが、不思議なことに動いているように見えた。線が生きているかどうか、という小池さんの言葉が実感として腑に落ちたのだった。

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蝦蟇カエルの素描画

 よく熊谷守一の観察眼の凄さ・鋭さを語るのに出てくる逸話がある。それは蟻の観察についてである。なんと蟻は歩き始めるときに、前足の2番目から動き出すというのだ。なんという観察力だろうか。奥村土牛も凝視して描く画家であったが、蟻をこれほどの観察眼で見ていた画家がいただろうか。多分、僕はいないと思う。

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蟻の絵

 これは余談だが、40数年前、素描に感動した小池邦夫さんは、熊谷守一宛にファンレターを書いたことがある。是非とも写真を頂けませんか、とのおねだりの手紙だったらしい。すると自らの写真の裏に熊谷守一と筆でサインした写真が送られてきたという。後日、小池さんは、熊谷守一の長男である熊谷黄(おう)さんに会う機会があった。小池さんがその話をすると、「それは父がよっぽど機嫌のいいときだったんでしょう。めったにそんなことをする人ではありませんよ」と言ったという。小池さんの手紙が、画家の心を揺り動かすだけの魅力ある手紙だったのだ。絵手紙創始者・小池邦夫の面目躍如たる逸話ではないだろうか。


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98歳、最晩年の作。白洲正子が所蔵していた

 身近にもう一人、熊谷守一ゆかりの人物がいる。それが写真家の藤森武さんである。藤森さんは土門拳の弟子として知られている。弊社刊行の豪華本『独歩―辻清明の宇宙』(3万2400円 2010年8月刊)でもお世話になり、月刊『清流』でも、大島在住の染色家・陶芸家として知られる菅原匠さんの連載でもお世話になった。その藤森さんは、30代の若かりしころ、3年間にわたって熊谷守一邸に通い詰め、写真集『熊谷守一の世界 獨樂』(世界文化社刊)を出しておられる。この間、3000枚もの写真を撮ったというから半端ではない。

 それにしても写真嫌いで知られる熊谷守一が、自宅でくつろぐ写真、ましてや油絵はいつも夜に描くという熊谷守一が、真昼間に絵を描いている写真まで撮らせているとは驚きであった。余談だが、師匠の土門拳も熊谷守一を撮っている。それは昭和23年9月のことで、当時、68歳だった熊谷守一が庭であお向けに寝転んでいる珍しい写真だった。美術雑誌に依頼されて撮影されたものだが、熊谷守一を師弟が撮った珍しいケースということになる。

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藤森武著『獨樂』(世界文化社刊)

『獨樂』を見ると、驚くべきことに熊谷守一が藤森さんを撮った写真が載っている。これではどっちが写真家か分からない。調べてみると、熊谷守一の写真歴は長く、手製の写真機を作っていたほど。そのお手製写真機でよく写真を撮っていたというから筋金入りの写真通なのだ。そんな人のお眼鏡に叶ったのだから、藤森武という人物も大したものである。

 写真集には熊谷守一が、好きなパイプ煙草をくゆらしながら寛ぐ姿がある。草が生い茂った庭を、掻き分けるように散歩している姿がある。画室で絵を描いている姿も家族団らん風景も載っている。晩年の熊谷守一は、ひがな一日、庭に腹ばいになって、あるときは寝っ転がりながら、小さな生き物を観察し続けていた。土蜘蛛がいたり、蟻がゾロゾロ歩いていて、蛙や蝶々もいた。よく見れば、熊谷守一の庭には、画題となる生き物がいくらでもいたのである。

 僕は、こんな写真をよくぞ撮らせたものだと思った。藤森さんは、画家の没後20年に大量に発見された未発表のデッサンと水墨画を集大成した『虫時雨』を、また書家の書を超えるとまでいわれた150点の書に焦点を絞って編集された『無一物』も同じ世界文化社から刊行している。実際、今回没後40年展を見て、作品の魅力を再発見した。藤森さんの本がいずれもロングセラーでいまも売れているというが、さもありなんと納得したのであった。

 じっくりと鑑賞し、心豊かな気分になった僕たちは、竹橋の毎日新聞社地下街にある北海道料理の店で、北海道直送の新鮮な魚料理に舌鼓を打った。そして、僕は初めて、その店でじゃがいもの本格焼酎を呑んだのだ。これが思いの外、美味しかった。会社に帰ってから、先ほど呑んだ「じゃがいも焼酎、北海道清里(原酒)、44度」の値段を見てびっくりした。お値段もそれなりだったのである。ともあれ目の保養をし、新鮮なお刺身をつまみに、初めてのじゃがいも焼酎を楽しんだ。大いに満足のゆく一日だった。

椎名其二さん、山内義雄先生

清流出版 (2018年2月23日 10:35) | コメント(0) | トラックバック(0)

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在りし日の椎名其二さんと僕。椎名さんは6畳一間に住み、家財道具も少なかった。後日、フランスへ帰る際、椎名さんから、自ら製本装丁した総革の美しい本を3冊頂戴した。僕の大切な宝物だ!

・前号の野見山暁治さんを書いた際、「椎名其二さん」のことを次号で書くことを約束した。僕が敬愛し、生涯忘れえぬ孤高の人・椎名其二さんだが、その前に、椎名さんを僕たちに推薦してくれたフランス文学の泰斗・山内義雄先生にも触れておきたい。1959(昭和34)年、早稲田大学第一政治経済学部に入学、僕は大学生となった。早大高等学院時代に僕は、第2外国語はドイツ語で、大学でもドイツ語を選んだが、フランス語にも興味があり、機会があったら学びたいと思っていた。幸い、第一外国語にフランス語を選択して第一政治経済学部に受かった2人の友人がいた。麻雀卓を囲むなど親密なお付き合いをしていた仲間で、一人は早大高等学院時代からの長島秀吉君、もう一人は暁星高校からきた神本洋治君だった。僕は念願していた通り、聴講を許可され、フランス語授業を受講できた。
 その心の広い先生が、『狭き門』(アンドレ・ジット)や『チボー家の人々』(ロジェ・マルタン・デュ・ガール)、『善意の人々』(ジュール・ロマン)、『地獄の一季節』(アルチュール・ランボー)等の名翻訳で知られた山内義雄先生だった。山内先生は1894(明治27)年生まれ、1973(昭和48)年に逝去された。享年79。1915年(21歳)に東京外国語学校を卒業され、家庭の事情で、第一希望の京都帝国大学文学部ではなく、法学部に入学されたが、文学部上田敏教授が急逝するまでの1年余り、上田敏教授の講義を聴き、直接の薫陶も受けた。1918年に、経済学部に転部するも、1921年、ポール・クローデル大使が来日することを知り、東京帝国大学仏文科専科に転じている。26歳上のクローデル大使の知遇を得て、フランス語の才能を認められた山内先生は、1927年初めの離日まで繁く行動を共にし、舞踊劇『女と影』(1922年、帝国劇場)、詞華集『百扇帖』(1927年、新潮社刊)など、大使の滞日作品の出版、上演に尽力したのだった。クローデル大使から、「完全なフランス語を話す青年」と評された逸話の持ち主である。
 そもそも山内先生は、中学生の頃から、永井荷風と上田敏の訳詩によりヴェルレーヌやボードレールを知り、原書を輸入して読んだというから、そのフランス語の語学力たるや半端ではなかった。レジオン・ドヌール、シュヴァリエ勲章を受章し、日本芸術院会員でもある。逆算すると、僕は山内先生が64歳の時、お会いしたことになる。結果としてフランス語や文学、法律、経済などを教えていただいた。広く深く、そして世俗的と学術的双方に深い関心をお持ちの方であった。このような方に出会えたことは、まさに僥倖であり、幸運であったというしかない。僕の人生にどれほど強い影響を与えたか、計り知れないものがある。
 
・ある時、長島秀吉君と僕は、新入生がめったに行かない大学院校舎の廊下で、山内先生が書いた張り紙を見て、滞仏四十年の椎名其二さんを知る。その文章を控えてあるので披露する。

≪椎名其二さんのこと―――――――――――――山内義雄   
 滞仏四十年といっても、それは椎名さんの場合、簡単に言いきれないものがあります。最近、『中央公論』に連載中の滞仏自叙伝によって御承知の方もあろうと思いますが、永い滞仏中、終始フランスの思想、文化、社会、政治にわたっての巨細な観察と犀利な批判につとめられた椎名さんのような方は、けだし稀有の人をもってゆるされるだろうと思います。そうした椎名さんのフランス語については今さら言うまでもありませんが、語学を通じて、さらに語学を踏みこえて、フランス文化の骨髄をいかにつかむべきかについての椎名さんの教えは、聴くべきもの多々あることを信じて疑いません。
 かつて一旦帰朝の際、吉江喬松博士の招請により早稲田大学フランス文学科に教鞭をとっておられたころの椎名さんのお仕事には、バルザック、ギーヨマン、ペロションなどの文学作品の翻訳とともに、ファーブル『昆虫記』の翻訳がかぞえられます。文学者であるとともに科学者であり、さらに一個哲人のおもかげある椎名さんの祖国日本に帰られてからのお仕事には、大きな期待を禁じ得ないものがあります。≫
 この文章を見て、僕ら二人は勇み立った。長島君はフランス語がすでに大学院生レベルにあったが、僕はまだ初心者のレベルであった。だが、どうしてもこの滞仏四十年の椎名其二さんにお会いしたくなった。フランス語の習得にも猛然と興味が湧いてきた。 

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山内義雄先生の遺影の前にワインを捧ぐ。山内先生と、もう1杯は故・長島秀吉君のため

・話は変わるが、わが清流出版の位置する九段・俎橋(まないたばし)の近辺は、かつて山内先生が東京外国語学校時代によく足繁く通った洋書専門古書店の「堅木屋」があった場所である。明治44年頃の話で、今から107年前になる。いまはもうない古書店のあった俎橋近辺で、僕は清流出版という仕事場にする。これは山内先生によるお導きだと思っている。

・椎名其二さんは、1887(明治20)年秋田県角館の生まれ、1962(昭和37)年没。山内先生に比べると、7歳年上だった。「アミチエ(友情)は大いに受けるが、モノとかカネの援助は要らない」を信条とし、毅然として清貧の道を歩んだ方だ。長島君と僕はこの老人に心底惚れ込んだ。あとで分かったことだが、椎名さんは早稲田大学文学部を中退し、渡米して、アメリカのミゾーリ州立大学新聞科を卒業している。作家の近藤信行さんの文章を借りると――
≪名利をもとめなかった椎名さんの生き方は、『舞姫』の主人公とは正反対のものだった。……早稲田に学んだが、安部磯雄の示唆によってアメリカにわたり、ミゾーリ州立大学の新聞科を出た。セント・ルイス、ボストンでの記者生活ののち、ジャン・ジョレス、ロマン・ロランにあこがれてフランスにわたる。英国の詩人カーペンターの紹介でポール・ルクリュと知りあい、南仏ドンムのルクリュ家の学僕となったが、これが椎名さんの一生を決定したといえるだろう≫。
≪日本を脱出した石川三四郎と出会ったのも、このルクリュ家においてであった。ロマン・ロランの『大戦下の日記』のなかに、椎名さんはクルュッピ夫人の農場ではたらく一日本人として「彼は非常に聡明で、教育があり、洗練された礼儀と清潔さとを身につけて」いると描かれているし、クルュッピ夫人はロランにあてて「私は彼を、かなりトルストイ的な、働くべきであるからには、最良の労働は土のそれだと感じている社会主義者なのだと思います」とかいている。≫――『ある生涯』(近藤信行)、同人誌『白描』創刊号。
 近藤信行さんは中央公論社の名編集者で、月刊『中央公論』に執筆していただこうと、帰国したばかりの椎名其二さんに依頼された。ご本人が自分の人生で何も語るものがないとして書くのを断っていたのに、「自由に焦れて在仏四十年」「石川三四郎のことなど」「パリで知った黒岩涙香」「佐伯祐三の死」などを聞き出して、連載をものにした。だが、当時、嶋中鵬二社長は、「貧乏たらしい話で嫌い」と周囲の人に漏らしていたそうだ。その後、1969(昭和44)年、文芸雑誌『海』の創刊編集長になったが、1976(昭和51)年、『海』編集長の職を辞し、中央公論社を退職した。そして1978(昭和53)年、『小島烏水――山の風流使者伝』(創文社刊)で大佛次郎賞(第5回)を受賞した。これは453頁もの大著で、山岳文学研究の傑作だ。近藤さんは、「椎名さんに惚れ込んだがために、結局、会社を辞めた」としか言いようがない。
 
・椎名其二さんは、このような経緯を経てフランスへ渡った。そして、「東洋の哲人」と周りのパリ人たちから呼ばれた。住んでいるところは、「ヨーコと暮らしたパンテオン脇の小路、すぐ傍らのルクサンブルグ公園。それを右へ辿った、椎名さんの、半地下の棲家。いくらか様子を変えてはいるものの、そのまま静かに横たわっている」(野見山暁治『じわりとアトリエ日記』2016年10月17日)。その棲家は、70年後も静かに横たわっているというのが野見山さんの証言だ。ある時、作家の芹沢光治良さんが半地下の椎名さんを訪ねた。その状況を帰国後、小説『女の都』に書いている。椎名さんはそれを不快に感じたそうだ。
 椎名さんは成人してからの日本滞在はたった2回だけ。1回目は1922(大正11)年から1927(昭和2)年にかけて5年ほど、2回目は1957(昭和32)年から1960(昭和35)年にかけての3年ほどで、8年にも満たない短いものだった。2回目の日本帰国は、故郷の秋田に労働大学を作る動きがあり、その学長として椎名さんに白羽の矢が立ったのだった。70歳の椎名さんはふるさとに骨を埋めるつもりで、妻子に永の別れを告げ、単身日本に帰ってきた。しかし、その労働大学の構想は頓挫してしまう。故国は決して思い描いたような国情になく、≪終の棲家≫とはなりえなかったのだ。椎名さんは、深い傷心を抱えてフランスに帰ることになる。いわば椎名さんの生涯で、2回目の日本に幻滅しての旅立ちであった。
 僕は19歳の時、山内義雄先生の薦めで70歳だった椎名さんにお会いし、ほぼ2年半、その謦咳に接することができた。 椎名さんはよく、エマーソン、ソーロー、ホイットマンの話をしてくれた。1959年頃のわが国といえば、人心は乱れ、心は貧しく、物情騒然たる状況であった。物事を真剣かつ誠実に受け止める老人の目には、耐え難い世の中に映ったはずだ。エマーソン、ソーロー、ホイットマン等の名前など、およそまだ誰の口の端にものぼらない時代だった。また、ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ジャン=ジャック・ルソー、ビュッホン、コンドルセ、ジャック・テュルゴー……以下、百科全書派(アンシクロペディスト)にもよく話題が及んだ。知的好奇心が旺盛だったわれわれには、大いに心刺激されるお話だった。

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「早稲田大学フランス友の会」に出席し、演壇に立つ椎名さん。山内義雄先生が「一目でいいから、お顔を学生に見てもらいたかった」と

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前列中央が椎名其二・マリー夫妻、後列左から息子のガストン夫妻、野見山暁治・陽子夫妻、安齋和雄、蜷川譲の各氏

・その椎名其二さんが野見山暁治さんを紹介した文章がある。

≪野見山暁治氏は今三十八歳だが、八年間パリで絵が売れようと売れまいとその道に精進している、既に大家の域に入った画家である。 昨秋、ブリヂストン美術館で五十点内外の個展を開いた時は、批評家及び一般の観賞者に驚きの眼を見張らせ、その作品によって1958年度安井記念賞を得たのであった。 僕はその絵画に対する態度及び人間などに関する点で彼を思うとき、佐伯祐三を連想せずにはいられない。後者は若くして死んだ。野見山は今後益々我々の嘱望を裏切ることはないであろう。    椎名其二≫ 

 この紹介文のあと、僕の人生にとって思い出深い文章が続いている。 
「今度、椎名先生がフランスに帰られるための旅費として野見山画伯よりデッサンの寄贈を受けましたので、左記の次第で配布することに致しました。宜しく御協力の程御願い申上げます。    椎名先生の会」 

 日付は1959年10月6日である。もちろん、大学2年生だった僕も野見山さんのデッサンを早速買い求めた。つまり、野見山さんは、尊敬する椎名さんがパリに帰るための旅費を、自ら描いたデッサンの提供によって捻出したことになる。 

・類い稀な知性とユーモアに溢れた椎名老人が、たまたま翻訳した『出世をしない秘訣』(ジャン=ポール・ラクロワ作、椎名其二訳、理論社刊)が売れて翻訳印税を手にしたとはいえ、他に確たる収入もない。日本での生活も楽ではなかった。だからフランスに帰る旅費を工面するなど、できるはずもなかった。見かねたパリ在住の野見山さんが助け舟を出したのだ。その時点で僕は、まだ野見山さんとお会いしたことはなかった。野見山さんの絵を購入し、いくばくかの旅費を負担しただけだった。野見山さんは1964年にフランスから日本に帰国された。その後、いつだったかは忘れたが、この義侠心に厚い気骨の画家にお会いできたのは望外の幸せだった。

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秋田・角館にある新潮社記念文学館で椎名其二さんの展示パネル。このコーナー、石川達三、高井有一氏らと並んでいる

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作家の芹沢光治良さんとお別れの挨拶する椎名其二さん。左後ろに近藤信行さん
 
・月刊『清流』1998(平成10)年2月号に、近藤信行さんが、「清貧に生きる」の一例として、「自由人として、生きる喜びを大切にした椎名其二さんのこと」と題し、原稿を執筆してくれた。その文章の冒頭に「モリトー良子(装丁作家)がドイツから帰ってくると、必ず声がかかってきて集まる会がある」と書かれている。そのメンバーとは、野見山暁治さん、岡本半三さん、安齋和雄さん、そして執筆者・近藤信行とある。ある時、私は帰国中のモリトー良子さんにお会いした。椎名其二さんと親しく交流したほどの人である。人間的な魅力が滲み出ている素晴らしい女性だった。その時の縁で、ドイツで月刊『清流』を定期有料購読してくれたが、今もご健在なのかは、10年以上経ったいまでは分からない。

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野見山暁治さんを中心に会席料理の「銀座大増」に集まった。2006年5月3日、あれから12年が経った

・「滞仏40年で、モラリストであり自由人だった」椎名其二さんの縁にまつわる人々の集まりだ。この日は、たまたまドイツからモリトー良子さんが日本に戻っていたため、僕たちにお声をかけてくださった。右から野見山さんの本の編集した野本博君、曽禰知子さん(モリトー良子さんの妹、ご主人は元東急ハンズ社長)、野見山暁治さん(2005年12月菊池寛賞受賞。2006年2月わが社から出た『小熊秀雄童話集』に「池袋モンパルナスと小熊秀雄」と題し、窪島誠一郎さんとの対談を収録。文化功労者顕彰、文化勲章受章)、加登屋、モリトー良子さん(在ドイツ。椎名さん直伝の製本家。令弟は住田良能元産経新聞社社長)、安齋和雄未亡人の美恵子さん(この会の常連で早稲田大学教授の安齋和雄さんは、先年お亡くなりになった)。近藤信行は夫人、近藤信行さん(作家・評論家、元山梨県立文学館長、元中央公論社の名編集長)、山口千里さん(野見山暁治さんの秘書)、岡本半三さん(画家。10歳で奥村土牛、23歳で安井曾太郎と日本画と洋画の両巨匠に師事。1951年一水会展入選後、フランスへ留学。その際、野見山暁治と椎名其二両氏と知り合った)、高松千栄子さん(岡本半三さんのパートナー)。
 当日、僕は、椎名其二さんにいただいたHan Rynerの装丁本を持って行った。すると、安齋美恵子さんがHan Rynerはどのように発音しますかと質問された。僕は椎名さんの受け売りに説明した。その結果、亡夫・安齋和雄さんのHan Ryner選集6冊を送ってくれた。いっぺんに僕はアン・リネルの研究家になった気分を味わった。
 
・もう一つ付け加えるなら、椎名其二さんはパリで哲学者アランの全集を持っていた。アランは、1950年に亡くなっているが、椎名さんはアランについてよく口にした。2回目の日本帰国に際して椎名さんは、その全集を東京大学教授の森有正(もり・ありまさ)さんに譲った。その間の事情をよく知る森さんの弟子、作家・立教大学助教授の辻邦生(つじ・くにお)さんに僕が当時、ダイヤモンド社で編集に携わっていた月刊誌『レアリテ』に「森有正氏の書斎」と題し書いてもらった。今にして思えば、椎名さんは、アランに深く学んだほうがよいとの親心で、森有正さんに譲ったのではないか。それを機に、森有正さんの書斎には「アラン・コーナー」ができた。辻邦生さんも恩師の書斎について書きたいと思っているはずと、30歳の編集者だった僕は考えた。辻邦生さんは喜色満面、締切りの大分前に原稿を完成してくれた。その後、何かというとお声がかかり、池袋の喫茶店に呼んでくれ、楽しい会話をした。辻邦生さんには、経済雑誌の会社ダイヤモンド社を辞めるべきか、人生の選択などいろいろとお世話になった。あと僕が最初の翻訳書『敗戦国の復讐――日本人とドイツ人の執念』(マックス・クロ、イブ・キュオー著、嶋中行雄・加登屋陽一共訳 日本生産性本部刊)を贈呈した時、丁寧な言葉で激励されたことは僕にとって誇りである。 

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栃折久美子さんの著装幀になる『森有正先生のこと』(2003年、筑摩書房刊)
 
 話は変わって、森有正さんが55歳の時、運命的に16歳年下(39歳)の女性に出会う。お相手の装幀家・製本工芸家・エッセイストの栃折久美子さんは『森有正先生のこと』をお書きになったので、読めばおおよその関係は分かる。栃折久美子さんは、筑摩書房を経てフリーのブック・デザイナーとなったが、ベルギー国立高等視覚芸術学校でルリユールと呼ばれる製本技術を学んだ。そして、森有正さんの死に至るまで10年間に亙る恋が描かれる。日記を元にした追想形式で、冷静かつ繊細な心情描写で大人の恋に触れている。
 かつて森さんが一回目の結婚をした時も、離婚だの新しい恋人だの騒がれたことがある。そのことを椎名其二さんから、「東京大学の偉い先生も自分のことになると全くだめだな」と揶揄されたと聞く。栃折久美子さんの親友の一人がモリトー良子さんである。モリトー良子さんは、椎名其二さんにルリユールを学び、栃折久美子さんとの共著『ルリユール(Reliures)製本装釘展覧会カタログ』 を出されている。
 まだまだ椎名其二さんのことは書き足りないが、この辺で、ペンを擱くことにする。また、機会があればお話したい。

野見山暁治さん

清流出版 (2018年1月23日 11:57) | コメント(0) | トラックバック(0)

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野見山暁治さんと僕

・旧臘、画家の野見山暁治さんから新刊『じわりとアトリエ日記』(2017年12月16日発行、2500円+税金、生活の友社刊)が贈られてきた。さっそく拝見すると、約510ページもの大著である。片手しか使えない僕には、持ち運びがしんどいほどだ。その本が文字通り「どん!」とばかりに届いた。野見山さんの本業はもちろん画家だが、僕は文章も大好きなので大いに楽しんだ。暮れからお正月にかけ、この本を何回も繰り返し読んだ。本欄『加登屋のメモと写真』で、野見山さんのことは何度も書いてきたが、初めてこのコラムをご覧になる方は、野見山さんと僕がどのような関係なのか分からないだろう。おいおい説明をしていきたい。

・『アトリエ日記』の連載は、月刊誌『美術の窓』で2003年12月号にスタートし、すでに14年以上になる人気シリーズである。そもそも単行本化については、わが清流出版が口火を切った。僕のたっての希望で野見山暁治さんを説得し、出版にこぎつけたものだった。『アトリエ日記』(2007年)、『続アトリエ日記』(2009年)、『続々アトリエ日記』(2012年)と、都合3巻まで清流出版から刊行させていただいた。その後、僕が清流出版の代表を降りたので、月刊誌『美術の窓』を発行する(株)生活の友社が引き続き刊行することになった。4巻が『やっぱりアトリエ日記』(2014年)、今回の5巻目が『じわりとアトリエ日記』となったわけだ。
『じわりとアトリエ日記』には、2013年11月から2017年2月までの日記を収載している。さすがに美術専門出版社らしく、単行本にする時の企画内容が斬新だった。4巻の巻末では野見山さんに聴くと題し「105の質問」を収載し、これまでの作品と比べ差別化を図っていた。生活の友社の編集企画部長・小森佳代子さんの尽力によるものだ。今回の刊行も、大げさなようだが、小森さんが命賭けで取り組んだ結果、刊行にこぎつけられたのである。彼女は癌という病を得て、闘病生活をしながら、著者や印刷所を暮れも正月もなく動かし、本作りを行なったものだという。野見山さんの日記を読むと、小森さんの闘病の日々が窺い知れる。「抗癌剤治療後の小森さんの頭にも、黒々と髪の毛が生えてきた」(『じわりとアトリエ日記』)などという記述があったからだ。実に素晴らしい小森さんの仕事ぶり。その編集者魂には脱帽するばかりである。

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『じわりとアトリエ日記』のカバー

・野見山暁治さんは、1952年からパリで12年間の絵の勉強を終えて、1964年に日本に帰国した。1968年に母校である東京藝術大学に助教授として招聘され、後に教授となり、1981年まで勤務した。最後は、東京藝術大学名誉教授となっている。野見山さんは、軽妙洒脱な文章でも知られ、『愛と死はパリの果てに』以降、20冊以上の単行本を上梓されている。僕が一番好きなのは、『四百字のデッサン』(1978年、日本エッセイスト・クラブ賞受賞)というエッセイ集である。僕はこの本を初めて読んだ時の衝撃を、いまもって忘れることができない。

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河出書房新社刊の文庫判

・野見山さんは、齢97歳というご高齢にもかかわらず、絵に文章にとますます多忙を極めている。文化功労者顕彰(2000年)、文化勲章受章(2014年)など世俗の名誉も得た。僕が、そのような方との知遇を得られたのは、天の見えざる配剤であろうと感謝している。今回の『じわりとアトリエ日記』も、過去のシリーズ同様に、野見山さんの身辺雑記的な日常を淡々と描いている。日ごろ知りえない画家の日常生活だけに、僕にとってとても興味深いものだった。締め切りに追われ、呻吟しながらの個展用の作品制作から、時には画廊・美術館・博物館巡りをするなどアグレッシブな日常ぶりが窺える。交友関係の広さにも驚くばかりで、そんな男友だち女友だちとの交流ぶりが淡々と綴られている。

・今回の『じわりとアトリエ日記』で、一つの読みどころは、野見山さんの名誉欲に対する恬淡さである。一般に、功成り名を遂げた著名人というのは、名誉に固執するものだ。野見山さんは、芸術選奨、文化功労者としても顕彰された。戦没画学生慰霊美術館「無言館」の開設・運営にも尽力し、館長の窪島誠一郎さんとともに菊池寛賞も受賞している。平成26年には、文化勲章を受章したが、野見山さんはいまだに受章したことを悩んでいるようなのだ。「勲章を受けた方がよかったのか、断った方がすんなりといったのか。いまだに葛藤が続いている。先々、描き続けるには、どちらが良かったろう」(『じわりとアトリエ日記』)。

・昨年お亡くなりなった(有)無限の代表取締役、奥田敏夫さんと僕は、お酒を酌み交わしながら、この件について語り合ったことがある。「どうやら野見山さんが、今度の文化勲章受章者にノミネートされたらしい。野見山さんは、どうされるのかに興味深いけど、すでに文化功労者の顕彰を受けておられるし、どうかな……」「無欲な野見山さんだから、断るかもしれないね」などと噂したものだ。芸術家・画家の立場を超え、一人の人間としては、「心底、野見山さんは素晴らしい方だから、受けるも断るも、どっちに転んでも野見山さんらしい」と結論は一致したのが懐かしく思いだされる。

・ここからは、僕が『じわりとアトリエ日記』から興味を引かれた個所を引いてみる。野見山さんは個展をしばしば行なっている。その個展に間に合わせて、作品制作を頑張っている。そして、その合間を縫って、自らの個展の出席はもちろんのこと、友人知人、触発されられる芸術家、物故者などの展覧会、個展にもせっせっと足を運んでいる。
 例えば――、
 ニューオータニの展覧会、尾道の美術館、みゆき画廊の正月展、「上海博物館・中国絵画の至宝」展(上野の博物館)、宮脇愛子の新作展、菅野夫妻の二人展、高島屋の井上悟展、「印象派を超えて――点描の画家たち」(六本木の国立新美術館)、ギャラリームサシでムサ美の実専展、山口長男を讃えて新年宴会、芸大で佐藤一郎の退官記念展、遠藤彰子展、「国宝大神社展(大宰府の博物館)、高島屋で「千里の個展」、大阪の高島屋で個展「はじめまして百貨店、野見山暁治です」――ここに紹介したのは、アトリエ日記のほんの一部の引用である。傑作なのは、大阪の高島屋の個展で、「はじめまして百貨店、野見山暁治です」のキャッチフレーズ。実に野見山さんらしいウィットが冴え渡っている。

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左から小森佳代子さん、山口千里さん、野見山暁治さんと僕

・野見山さんの文章は「日記体」だが、例えば、
 ≪2013年12月31日。年越しそばを、夜遅く千里が運んでくれる約束。それに併せて小森さんが推敲のゲラを取りに来る手はず。せっかくボクシングの中継なのに口惜しい。ともかくゲラを渡さなきゃ年が越せん。小森さんもそれを持って帰らないと、正月が迎えられん。ぎりぎりの大晦日かもしれんが、ぎりぎりの年齢。あまり、こき使うな。≫などと、軽妙洒脱な表現とユーモアが光っている。
 千里とは、山口千里さんのことである。野見山さんと同郷の福岡県のご出身で、いわば野見山さんの秘書的な役目を務めておられる。聖心女子大学教育学科を出て、国展、女流画家展を中心に絵の世界でも活躍中で、伊藤廉記念賞展、東京セントラル美術館油絵大賞展、第2回ジャパン大賞展、上野の森美術館大賞、国展奨励賞などを受賞した気鋭の画家、国画会会友である。

・野見山さんは、人物描写が抜群にうまい。本書でも、さまざまの方をスケッチしているが、アットランダムで紹介する。野見山さんの実妹は、作家・翻訳家の田中小実昌さんの妻である。小実昌(「こみまさ」が正式だが、「こみしょう」と愛称された)さんが、2000年2月27日、旅先のロサンゼルスで亡くなるまで、実の兄弟のような温かい交流が続いた。小実昌さんはアメリカのスラングにも通じ、翻訳した『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(原作ジェームズ・M・ケイン)は、都合5人ぐらいの訳者が翻訳したが、僕はどの訳者より断然訳がこなれていてうまいと思った。
『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、ルキノ・ヴィスコンティ監督などによって、4度も映画化されている。小実昌さんが生きていたら、野見山さんと文章の掛け合い漫談を仕掛けたいと思ったほど。本書でも、小実昌さんのことを何回もお書きになって、懐かしさを吐露しておられる。僕は、小実昌さんが出てくる度、古巣ダイヤモンド社時代での小実昌さんとのお付き合いが思い出される。僕が小実昌さんへの原稿料の支払い手続きをする時、「銀行振り込みは絶対に駄目だ。女房(野見山さんの実妹)に見つかってしまうから」と言い、月末に現金書留で送るよう要求された。そして自宅2階の窓から道を見下ろしていて、郵便配達人をいち早く見つけると階段を駆け下り、現ナマを我がものにするのだと白状したものだ。

・小野田寛郎さんのことも、お書きになっている。小野田さんは、野見山さんが東京藝術大学に勤務しているころ発見されたが、独りで戦争を遂行した人に会ってみたかったと書いておられる。僕は小野田夫人の町枝さんに、『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(2002年、弊社)という本を書いてもらった。刊行後も町枝さんはよく清流出版を訪ねてきた。自著にサインをし、随分、後援者に本の販売してもらったものだ。ご夫妻と会食したことも何度かある。寛郎さんは、分厚いステーキを本当に美味しそうに食べていた。付け合わせや野菜サラダはほとんど食べないので、町枝さんに注意されていた。僕も野菜サラダは嫌いで残すことが多い。食生活がよく似ていると思ったものだ。僕はいまでも寛郎さんのことをよく思い出すが、機会があったら野見山さんと語り合いたいと思っている。

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清流出版刊

・戦没画学生の展示館「無言館」の館長・窪島誠一郎さんは、何度も登場する。この二人は、全国各地で戦没画学生のお宅を訪ねて回った仲間である。ここで、今年1月8日の朝日新聞が、「絵を描く未来 奪った戦争」と題し、大きく報道されているので、ほんのさわりだがご紹介しておきたい。「彼らが絵を描いた時代があり、戦争が表現者である彼らの尊厳を奪った。このことを私たちは忘れてはなりません」(窪島誠一郎さん)……「無言館設立のきっかけは、東京藝術大学名誉教授の野見山暁治さん(97)との出会いだった」……「あの狂気の時代をかいくぐった人間として、ああいう時代が待ち伏せて、いつかあれにやられるという不安が抜けないできた」(野見山暁治さん)。そして、毎年6月に行ってきた「無言忌」も、昨年の20回目で一区切りとしたと記事が伝えている。
――僕も長野県上田市にある無言館まで何回も足を運んで、戦没画学生の絵を前にして涙したものだ。ある時は、僕の親友・長島葡萄房の長島秀吉君が無言館で天満敦子さんの“無言館コンサート”を企画し、清流出版社員有志を引き連れ、バスをチャーターして乗り込んだこともある。だが、最近は厳しい状況らしい。「無言館の入場者が年々減少してきて、二人、顔を合わせれば、話はそこに落ちる。人間は確実に年をとる。バトンを渡す次の走者も考えなくちゃならん」――とのこと。昭和の時代、戦争の悲惨さを伝える場が、どんどん少なくなっているのには危機感を覚える。

・野見山さんは、メキシコの画家フリーダ・カーロが大好きだ。この本でも数ヶ所、フリーダ・カーロについての記述が見られる。「(パリの)グラン・パレでメキシコ展。土俗性と神との共存がいい。タマヨは好きだ。ぼくも、フリーダ・カーロに憧れている」と言う記述もある。僕(加登屋)もフリーダ・カーロが大好きだ、弊社から、文化女子大学教授の堀尾真紀子さんの著になる『絵筆は語る――自分色を生きた女たち』(2009年刊)を刊行しているが、その第1章にフリーダ・カーロを取り上げてもらった。彼女が、イサム・ノグチと恋に落ちた結末やロシアから亡命するトロツキーを秘密の文通や密会を繰り返した激情的な気質などは書いていないが、野見山さんも同じようにフリーダ・カーロのことを感じていると直感した。野見山さんは、日本の女流画家への関心も高い。例えば、堀文子さん、小倉遊亀さん、三岸節子さんなどが日記にしばしば出てくる。特に堀文子さんとは年齢も近いし交流も深く、昵懇の間柄と聞いている。

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清流出版刊

・エディット・ピアフも登場する。「パリにいたとき、シャンソンはよく聴きに行った。オランピア劇場で、すっかり弱ったピアフが、若いアミに抱かれたまま、舞台に出てきて喝采を浴びていた。彼女が亡くなった日の夕刊に、ジャン・コクトーがその死を悼んだ文章を載っけていて、その翌日、コクトーの死が報じてあったのは忘れられん」とお書きになっているが、1963年10月10日、エディット・ピアフが死、翌10月11日、ジャン・コクトーが死んだ。その衝撃的事実を、野見山さんはリアルタイムで体感したのだ。この後、この日記は、「加藤登紀子さんと思い出を喋っていると、パリにいた昔、今につながらないくらいムカシの若い日が、懐かしく思い出される」と綴っている。

・私生活では二度結婚し、いずれも奥様に先立たれた経験をもつ。 1948年、妹さんの同級生だった内藤陽子さんと結婚した。その陽子さんはフランスに呼び寄せてわずか1年でガンを発症。闘病の末に早世した。『じわりとアトリエ日記』では、何ヶ所かでこのことに触れており、「陽子がそこで亡くなってから六十年の歳月。パリの屋根をスケッチした水彩画。遠い日か、昨日のことか」と日記にある。このあたりの事情については、『愛と死はパリの果てに』(1961年、講談社刊)に詳しく明かされており、読んだら思わずもらい泣きしてしまう。
 また、後妻として福岡で有名な高級クラブ「みつばち」を経営していた武富京子さんを迎え、別居結婚の形をとる。たびたび九州へ足を運んだが、彼女も20代からガンなどの病歴があった。野見山さんは健康面、店の経営面両面から京子さんを支え続けた。京子さんは後年までクラブを切り盛りするも、2001年、体力の限界などからクラブを完全閉店し、まもなくお亡くなりになった。
 その名物女将ぶりを慕っていた川鍋燿子さん(新宿ゴールデン街『あり』のママ)が、追悼の席を企画し司会などをした。各界の人々が参集し、『週刊新潮』にも載って話題を呼んだものだ。こんなことを僕が知っているのは、川鍋燿子さんの連れ合いの川鍋宏之君と僕が親しかったからだ。川鍋君の実兄は、あの『日刊ゲンダイ』の創業者・川鍋孝文さんだ。出版界における名物編集者のお一人である。

・「板橋区立美術館で『井上長三郎・照子』二人展を観る。近頃にないおかしな絵だ。打たれた。……井上夫人の照子さんとは同じ年に、ぼくは自由美術の会員になった」――この井上長三郎さんは日本美術会の委員長を務めたほか、1972年、第25回日本アンデパンダン展の実行委員長を務めた。時勢を風刺した作品を数多く描き、風刺画家として知られている。お嬢さんが僕と中学生の時、机を並べていた井上リラさんだ。そのリラさんも画家となった。野見山さんは「池袋モンパルナス」時代のことをしばしば講演で話されている。リラさんも親ゆずりの「池袋モンパルナス」の申し子で、ある時、演壇に登り、講演したこともある。

・「ヨーコと暮らしたパンテオン脇の小路、すぐ傍らのルクサンブルグ公園。それを右へ辿った、椎名さんの、半地下の棲家。いくらか様子を変えてはいるものの、そのまま静かに横たわっている」――野見山さんの日記とは離れるが、椎名其二さんは僕にとっても生涯もっとも大切な方である。 当時、椎名さんは70歳で、僕は19歳だった。その出会いは偶然だった。詳しいことは端折るが、フランスにいた椎名さんがなぜ日本に帰国し、僕たち早稲田大学の学生たちに、フランス語を教えてくれたのか。また、なぜ三年間しか故国に留らずに、フランスへ戻ろうとしたのか。当時、野見山さんはパリで絵と格闘されていたが、椎名さんの窮状を鑑みて、旅費を捻出するためにご自身の絵を提供された。この話は長くなるので次回に譲る。

・なお、日本経済新聞が毎週土曜日に掲載される、「傍らにいた人」という連載エッセイがある。今月1月20日ですでに47回を数えている。僕が新聞で真っ先に見る詩歌教養ページである。文が堀江敏幸さん(作家・仏文学者。『熊の敷石』で芥川龍之介賞)で、「絵」が野見山暁治さんである。毎回、堀江さんの文章の素晴らしさに唸らされる。そして、野見山さんの「絵」をしばし、じっと観る。具象か抽象か、いずれにしてもユニークなもの。そして、堀江さんの文章と関連が奈辺にあるか、読者それぞれに問うているかのようだ。1月20日の紙面を観て、判断材料を探ると、メインの文章はフランスのルナールだが、堀江さんが途中で田中小実昌の短編「ポロポロ」を連想してか、話を変えている。ここらへんで答えが分かった。野見山さんと「こみしょう」さんとの間柄を一切明かさずに、新聞社がつけたキャッチコピーが、「言葉にしないで伝わる本質」とある。新聞社の担当記者にも、なかなかの洒落者がいるではないか。

・最後に、野見山さんの人生のけじめについて、どう思っておられるかについて、触れておきたい。
≪2013年11月21日。一般財団法人という、よく分からんが、ぼくの名前の財団を作るため、銀座の小さなレストラン。五人の友人たちに集まってもらう。つまりぼくの死後の作品についての処理法。なんのことはない。生きている間、ぼくはゴミを撒き散らして、あとの人に取り片付けてくれというお願い≫
 ――この一般財団法人 野見山暁治財団は、2017年に発足。理事長は窪島誠一郎、理事に酒井忠康、伊藤真、評議委員長に野見山暁治、評議員に上葛明広、中村節子、事務長に山口千里とある。野見山さんの≪ぼくはゴミを撒き散らして、あとの人に取り片付けてくれというお願い≫という文章は、当事者でありがら、とても当事者とも思えない。自らを見事に客観視しており、とても野見山さんらしい。

小林薫さん、船川淳志さん、国永秀男さん

清流出版 (2017年12月25日 17:28) | コメント(0) | トラックバック(0)

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船川淳志さん(左)と国永秀男さん

・12月1日、僕は朝からこの日を楽しみにしていた。弊社に株式会社グローバル インパクトの代表パートナーである船川淳志さんと株式会社ポートエム(Port of Effective Management)の代表取締役の国永秀男さんが来社する予定だったからだ。実際、お会いしてみると、共に初対面だったにもかかわらず、なんだかそんな気がしなかった。というのも、お二人は小林薫先生とはごく親しいお知り合いで、僕もなんだか昔からの知り合いのような気分になったからだ。お会いすることになったきっかけは、僕が清流出版ホームページに書いている「加登屋のメモ写真」である。小林薫先生が亡くなって、僕が追悼の記事を書いたのだが、それを読んだお二人からご連絡があったのだ。10月ごろに連絡があって、時間をそれぞれ調整した結果、12月1日に決まった。当日は船川・国永両氏と、弊社社長の藤木健太郎君、弊社の海外版権担当で国永さんとはドラッカーつながりの斎藤勝義さん、それに小林薫先生の著書の編集担当だった臼井雅観君も同席してしばらく歓談した。藤木君は所用で席をはずすことになり、僕らは場所を近くの中華料理屋に移して、昼食を摂りながら話を続けることになった。
 
・船川さんは1956年生まれの61歳。慶応義塾大学卒業後、東芝、アリコ・ジャパンに勤務、アメリカ国際経営大学院(サンダーバード校)にて修士号を取得(MBA in International Management)している。その後、米国シリコンバレーを拠点に組織コンサルタントとして活躍された。日本に帰国してからは、グロービスのシニアマネジャーを経て、人と組織のグローバル化対応を支援するコンサルティング会社、グローバル インパクト社を大前研一さんらと設立して代表パートナーとなり、今日に至っている。シリコンバレーでコンサルタントをされていたわけだから当然ビジネス英語は堪能である。NHK教育テレビ「実践・ビジネス英会話」の講師も務められたこともある。

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船川淳志さん

・一方、国永さんは、僕の古巣ダイヤモンド社の傍系で、京都市中京区に本拠を置くポートエムという会社の代表取締役である。1962年生まれの55歳で、大阪工業大学卒業後、大手コンサルタント会社、経営情報サービスを手掛けるコンサルタント会社を歴任し、経営コンサルタント歴はすでに28年にのぼる。「正しいマネジメントこそがエクセレントな企業を作る」をモットーに、経営理論の確立やトップマネジメントチームの構築、あるいは経営戦略の策定まで、経営者とひざ詰めで作り上げる親身な指導法には定評がある。生前、経営学の神様の異名をとったP.F.ドラッカー博士を心から尊敬し、毎年のようにアメリカのご自宅に訪ね、ドラッカー理論に磨きをかけ、またその理論の日本での浸透に心血を注いできた。
 
 
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・お二人の小林先生との関わりは、ドラッカー博士を抜きにしては考えられない。船川さんは2008年5月、『GLOBAL manager』誌の、ご自身がホスト役を務める対談に小林薫先生をゲストに招いて対談している。対談テーマは、「世界標準となるビジネススキルの磨き方」。近年の世界的なビジネス潮流の変化に基づく日本的経営の課題と、個々のビジネスマンが世界で活躍していくためには、どんな資質が必要なのかなどが語られた。この対談の中には、小林先生のビジネススタンスに対する考え方がよく表れている。少し発言から引いてみよう。ビジネスマンに不可欠の資質を、小林先生はドラッカー博士の名言を例に説明している。「昨日を捨てよ」「表の風に吹かれろ」「革新とは、単なる新しい方法ではなく、新しい世界観を意味する」など、経営の神髄と時代の潮流を読み取って凝縮した名言があるとし、特に「強みの上に築け」の名言は、どんな組織、どんな人物にも当てはまるもので、ドラッカー経営学の要諦であると強調している。
 
・対談中、船川さんが、「共生」は世界に誇れる日本の理念ではないかと問いかけると、小林先生は「共生」が利潤追求のみに走らない独自の日本的経営モデルであると認めた上で、日本人もこれからはもう少し自己主張していくべきだと強調された。そして真に優秀なマネジャーとは、各国固有の文化の違いに惑わされず、どのような組織、風土でも活躍できなければならないとし、そのための資質としては、グローバル経営コンサルタントのスティーブン.H.ラインスミス(同氏の本も翻訳出版している)が述べたという、(1)大局観をもち、(2)リーダーとして変革を進め、(3)パラドックスを受け入れ、(4)予期せぬことを扱う際は、プロセスを重視し、(5)変化を好機と受け止めて気楽に対応し、(6)常にオープンでいる、と都合6つの条件を挙げている。
 
・また、グローバル化時代に世界で通用するマネジャーになるには、世界の経済状況、各国の力関係や日本立ち位置の変化などをしっかりと把握し、地理的、歴史的にも、視野を広く取って物事を見て、判断することが大事と語った。最後に、ドラッカー博士のグローバル経営成功のエッセンスを紹介している。それは現地で優秀な人材を活用し、相手の宗教や価値観を認めた古代ローマ帝国の統治なども参考にし、融和を図っていけばいいというものだ。歴史は繰り返すわけで、謙虚に歴史から学び、歴史への造詣を深めれば、必然的に未来も見通しやすくなるとアドバイスしている。
 
・僕は小林先生が例に引いたスティーブン.H.ラインスミスさんの著書『グローバル・マネジャー・ガイド』(小林薫訳)で感銘を受けた部分がある。それは雁行に学ぶリーダーシップ論である。隊列を組んで綺麗なライン・フォーメーションで大空を行く雁の群れの飛行は見事だが、そこから学べることは大きいというのだ。雁は家族や群れで過ごし、結束力も強い。外的を寄せ付けず、群れでものを食べているときも見張りを置き、ときには夜間にも飛ぶ。「雁の教訓」は多文化チームのメンバーに対し、強い感受性育成に参考になるとしている。(1)V字型の隊列で飛ぶことで、一羽の雁が羽ばたく度に後に続く雁のための揚力が生じる。単独で飛ぶより71%も飛翔距離を伸ばせる。共通の方向性とコミュニティ意識をもっているチームメートは、お互いの推進力の共有によって目的に到達できる教訓となる。(2)先導の雁が疲れると隊列の中に舞い戻り、別の雁が先頭位置について飛ぶ。辛い仕事を交代でやり、複数の人間でリーダーシップを共有することは価値がある。(3)隊列全体のスピードが鈍ると、後方の雁が先方の雁に鳴き声を挙げて励まし、せっつく。(4)1羽の雁が病気やケガを負った場合、1羽が隊列を離れ、落ちた雁が再び飛翔できるよう付き添う。要は助け合いの精神である。

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国永秀男さん

・国永さんも小林先生とはお付き合いが深かった。ポートエムのアドバイザーであったことでもそれはわかる。ロサンゼルスの「ホテルニューオータニ」で、小林先生が倒れたとき、国永夫妻がいなかったら、斎藤勝義さん1人では大変だったはずだ。ホテルマンに救急車の手配を頼み、小林先生の家族に連絡しなければならない。斎藤さんと国永夫妻は日程を変更し、ロスの病院まで同乗した。「LAC+USC メディカルセンター」に到着して専門医が診察。斎藤さんは付き添い、国永さんは旅行保険関係の問い合わせをする。この2人の迅速な対応がなかったなら、小林先生はもっと重篤になっていた可能性がある。
 
・国永さんが経営するポートエムは、マネジメントやコンサルティング、あるいは、学習のしくみ作りなどについて、直接ドラッカー博士からアドバイスを受けてきた。eラーニングの展開としてブレンディッド・ラーニングを導入、経営に携わる顧客のためにマネジメントを学ぶ支援を行っている。高邁な使命感をもって、ビジョンを体現する企業や組織が増えてくれればの一心から、コンサルティングや講演活動を続けてきた。ダイヤモンド社主催『ドラッカー塾』の専任講師として、経営者限定の「トップマネジメントコース」を始め、「エグゼクティブコース」、「マネジメント基本コース」なども展開し、ドラッカーマネジメントを体系的に学び、実践できると参加企業から高い評価を得ている。ドラッカー博士の「自らの強みを活かせ(Build on Your Own Strength.)」は、船川さんと同様、国永さんも胸に刻む言葉だという。バブル崩壊後の難しい経営局面の打開には、最も力を与えてくれる言葉ではないか。僕はそう確信している。

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・あと付け加えるなら、船川さんが、会話の途中で、しばしばフランスのロラン・バルトのことを述べたのが印象的だった。僕が、今から50年前、25歳から35歳の頃、入れ込んだ哲学者・批評家である。彼の『零度の文学』『神話作用』『表徴の帝国』などは、今でも僕の本箱の中、メインで取り出せる場所に置いてある。この周辺にソシュール、ジャック・ラカン、ジョルジュ・バタイユ、モーリス・ブランショ、ジャック・デリダ……などの書籍を置いてある。かつて真面目に読んだのだが、現在は怠慢になって、さっぱりご無沙汰している。懐かしい名前を思い出して、独り頷いた。だが現在も、船川さんはロラン・バルトとP.F.ドラッカーの関連に追究されている様子だ。
 
・僕は食前酒が食事をするときの楽しみの一つだが、船川さんが一滴もお酒が飲めないというのには驚いた。一見した限りでは「斗酒なお辞せず」の雰囲気があるからだ。僕の過ごしてきた出版界では、編集者が酒を一滴も飲めないと、作家とのお付き合いも大変だった。ビジネスの世界でもそれは同じだと言えるのではないか。それだけ個人的魅力をお持ちということであろう。船川さんは小林先生に是非にと乞われながら、果たせなかったことがあるという。それは産業能率大学で教えていた小林先生の後任として、教壇に立って欲しいと言われていたのだ。これだけは今でも心残りに思っているという。対照的に国永さんはお酒に強く、淡々と静かに杯を重ねるタイプとお見受けした。いずれにしても、小林先生のエピソードを聞くなど、楽しいひとときを過ごせた。談論風発する楽しい食事会となったが、お二人には感謝するしかない。

シスター鈴木秀子さん

清流出版 (2017年11月24日 11:28) | コメント(0) | トラックバック(0)

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シスター鈴木と僕。右は同席した臼井雅観君

 ・この1012日、僕は新宿の京王プラザホテルでシスター鈴木と会食する機会を得た。きっかけは僕が清流出版ホームページに連載しているコラム「加登屋の一口メモ」である。僕はシスター鈴木を心から尊敬しており、こんなことをそのコラムに書いた。

 ≪僕が敬愛する鈴木秀子(シスター鈴木)さんには、まだ一度しかお会いしたことはない。弊社からシスター鈴木の著になる『「こころの目」で見る』(2004年刊)を発刊させていただいたとき、1度、ご挨拶を交わしただけだ。しかし、そのときのインパクトは、僕の心に強く焼き付いている。明るくて軽やかで、少女のような愛らしさがあった。ニコニコと笑顔を絶やさず、人の心を和ませるオーラが出ていた。(中略) 

 シスター鈴木は、まだ「マインドフルネス」という言葉が日本で知られる以前から、こうしたエニアグラムの効果的な利用の仕方など、幸せを手にするためのセミナーを各地で開催し、多くの悩める若人たちを救ってきた。いつに変わらぬその献身ぶりには、頭が下がるばかりだ。また、何かの機会にお会いできればと思うが、シスター鈴木はお忙しいし、僕も体が不自由なので行動範囲が制約されている。だから僕の叶わぬ夢かもしれない。ただ、これだけはお伝えしておきたい。今後ますますお元気で、ご活躍をされ、多くの悩める人たちを救ってくださることを、衷心よりお願いするものである。≫と……。

  このコラムを僕と同じマンションに住み、交流もあるAさんが読んでくれた。Aさんは奇しくもシスター鈴木の聖心女子大学での教え子であり、シスター鈴木との間を取りもってくれたのでこの会食が実現したのだった。

 ・同席したのは5人。僕ら夫婦とAさん、それにシスター鈴木の『「こころの目」で見る』(弊社刊、2004年)の編集担当をし、最近、月刊『清流』にシスター鈴木の新刊『わたしの心が晴れるChange your Mind, Change your Life.』(七つ森書館刊、2017年)の書評を書いた臼井雅観君も同席してくれた。久し振りにお会いしたシスター鈴木は、あのころとまったくお変わりなかった。あの、人を温かく包み込むような眼差しで、迎えてくれた。季節の食材を使った和食を楽しみながら話ははずんだ。臼井君が龍村仁監督の「ガイアシンフォニー2番」でブレークした佐藤初女(はつめ)さんの写真を持参してくれたので、初女さんの想い出話にも花が咲いた。シスター鈴木は人間の生かし方を学ぶ“エニアグラム”という概念を日本に初めて紹介した人である。エニアグラムは、ギリシア語で「9つの点をもった図」を意味している。「人間には9つの性格タイプがあり、すべての人はそのうちの1つをもって生まれてくる」というのが基本的な考え方。その歴史は古く、2000年前のアフガニスタン地方で生まれ、イスラム社会に秘伝として受け継がれてきたものだといわれる。

 

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ベストセラーとなったエニアグラムの本

 ・シスター鈴木によれば、佐藤初女さんはこのエニアグラムに照らすと、「タイプ9」に分類されるとのこと。基本的にタイプ9の方というのは、「調和と平和を願う人」たちなのだという。争いや混乱を嫌う平和主義者であり、外見的にはのんきで穏やかな印象を与える。偏見がなくて聞き上手、人の気持ちが理解できる反面、自ら選択し、意見をいうのは苦手なタイプ。初女さんは、なるほどこのタイプにピッタリ当てはまりそうな気がした。この初女さんをシスター鈴木は、愛情をこめて「何もしない人だから」と表現して笑わせた。

 ・岩木山の麓にあった、初女さんが主宰する「イスキアの家」には、全国各地から悩める人たちが訪れた。ノリで覆われた真っ黒なおにぎりを食べ、その後、初女さんに悩みを聞いてもらうためである。初女さんは、心のこもった食事を食べさせ、話をただ黙って聞いてあげる。それだけで自殺を思いとどまった人もいれば、明日を生きる勇気を得た人などが続出した。僕は初女さんをよく知る、詩人でエッセイストの堤江美さんにお願いし、初女さんの語録をまとめて欲しいと考えていた。そこで編集担当の臼井君と堤江美さんに佐藤初女さんの取材に行ってもらった。しかし、初女さんの体調不良もあったのか、取材は不調に終わり、単行本にはできなかった。それだけは僕の心残りである。

 

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臨死体験を書いた本

・シスター鈴木には臨死体験があるという。『臨死体験 生命の響き』(大和書房刊、2005年)という本も書いておられる。シスター鈴木の原点は、この臨死体験にあるのではないか。僕はそう思っている。その臨死体験とは、シスター鈴木が学会出席のため、修道院に泊めてもらったときに起こった。夜中、寝付かれず起きだしたシスター鈴木は、足を踏み外して、階段から転げ落ちたのだ。その修道院は宮家の立派なお屋敷を改築したもので、その階段はとても高く急なものだった。そうして階段から落ち、気を失っている間に、シスター鈴木は不思議な臨死体験をしたという。気がつくと、ぽっかりと宙に浮かんでいて、その体をもう一人の自分が一段高いところから見下ろしていた。そして宙に浮かんでいるシスター鈴木の周りに、たくさんの蓮の花があり、その花弁が11枚とゆっくりとはがれ落ちていく。はがれ落ちるたびに、シスター鈴木は自分がこの世のしがらみから自由になっていくのを感じたそうだ。

・いよいよ最後の1枚だけになり、これが散ったときに、完全に自由になれる! と思ったが、最後の1枚は落ちなかった。そのまま空高く飛翔し、これまでに見たこともない暖かな白い光に包まれた。そして目前に、光の輝きに満ちた世界が広がっていた。そのときシスター鈴木は、「世界が完璧になっている」との感覚に包まれたという。あまりに気持ちがいいので、「ずっとここにいたい」と思ったが、その光の主は「現世に帰りなさい」と、はっきりシスター鈴木に告げたそうだ。そしてふと気がついてみると、シスター鈴木はベッドの上にいたのだった。駆けつけた救急隊員によれば、これだけ高さのある急階段から転げ落ちて、命が助かったことだけでも奇跡だといわれたらしい。

・シスター鈴木は、この臨死体験からの帰還後、不思議な能力が身に付いていた。まず、手術を予定していた膠原病が、なぜかスッキリと治ってしまっていた。また人の病気を癒す能力も授かり、末期がんの患者さんなどの元を訪れてはヒーリングの仕事をするようになる。臨死体験の後のシスター鈴木は、人との一体感を感じやすくなったという。シスター鈴木に限らず、実際に臨死体験を体験した人の中には、不思議な能力が芽生えたり、闘病中の病気が治ってしまったりする。まさに科学では説明のつかない不思議な体験である。臨死体験をしてこの世に戻ってきた人は、「何か自らの使命があるのでは」と感じ、それまでの生き方を改め、生かされた命を人のために使おうとする人が多い。僕も2度の脳出血を体験している。実際、死の淵まで近づいたにことがあるが、シスター鈴木のような臨死体験をしたことはない。倒れて警察病院に搬送された僕は、目覚めたとき記憶は飛んでいた。半年以上、妻の名前も息子の名前も出てこなかった。そのときの体験をシスター鈴木にお話すると、何か僕にもなすべき使命があり生かされているからですよ、といってくれた。その言葉に心の底からの安らぎを覚えた。

・人間にとって「死」は究極にして永遠のテーマである。死に対するイメージは、穢れたもの、ねんごろに供養しなければならないものとされ、それを怠ると、死者はこの世に恨みや執着を残す負の概念で塗り固められている。臨死体験により、死後の生の輝きを知り、死の意味に対する認識を深めてきたシスター鈴木は、そんな死に対する負の概念を払拭する。『仏教・キリスト教 死に方・生き方』(講談社+α新書刊、2005年)という本で、シスター鈴木は臨済宗僧侶の玄侑宗久氏と宗派を超え死について語り合っている。死を目前にした人は最後に何を望むのか。そして死にゆく大切な人のために、私たちには何ができるのか。仏教の僧侶とキリスト教のシスターという異なる宗教に立脚する二人が、正面から「死」と向き合い、「生」を充実させるための智恵を存分に語り合うという好著である。僕はこの本をとても興味深く読んだ。「死」を「生」からの“突然の断絶”と捉えるのではなく、徐々に進行する連続したものとして、その“受容と変容”へのプロセスを浮かび上がらせているのがとても斬新に思えた。人は亡くなる直前に温かい大きな思いが広がり、すべてを許し合おうとする。人生に無駄なものも偶然なものもない。すべては生を深めるためにあることに気づくことが大切なのであろう。


 

 

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・シスター鈴木は、死を前にした人には、「ただ、寄り添って、話を聞いてあげればいい。最後の最後に家族が死にゆく人にしてあげられる一番大切なことは、聞いてあげることだと思います。初めは病人自身、何を話しているのかもわからず、漫然と話し始めたりしますが、話し終わると解放され、自由になっていく経過を私はずいぶん見てきました」と語っている。死とは、魂がこの世に携えてきた課題・使命の完了の合図であり、誰も偶然に死ぬことはない。死は終わりではなく、歓喜と平安に彩られた新たな命の始まり。このことを知ることで、私たちがなぜこの世に生かされているかの認識が深まり、命そのものがもつ奇跡が開示されていく。死の瞬間、誰もがすべてから赦され、愛されていることを知る。自分の死に対しても、大切な人の死に対しても、不安や恐怖や悲しみが和らぐうえ、「悔いなく美しく生きられるようになる」。死と向き合えば、限られた時間や限られた出会いの中で、よりよく生きることを考える、絶好の機会となるというのだ。

・シスター鈴木は自著で何度も書いている。宇宙の星も、地球上の人も花も動物も石や岩も、すべては同じものでできている。そしてすべては深いところで繋がっているというのだ。すべてのものは、突きつめていけば原子になり、さらに行きつけば粒子になる。人は自他をわけて考えるから苦しむことになる。すべての生きとし生けるもの、すべての目に見えるものが自分と同じ粒子だと考えると、自分と一体であることがわかる。シスター鈴木は近刊の『幸せになる9つの法則』で、この真理を般若心経の言葉を引いて説明している。「お聞きなさい あなたも 宇宙のなかで 粒子でできています 宇宙のなかの ほかの粒子と一つづきです あなたと宇宙は一つです」と。

・僕はシスター鈴木と会食できたことに感謝している。あの慈愛に満ちた笑顔に接しただけで、心が安らぎ、晴れ晴れとしてきた。とりもってくれたAさんにはいくら感謝しても、感謝し足りない気持ちだ。21世紀を「新しい意識の時代」と位置付けているシスター鈴木。今は、人間一人ひとりが心を開きはじめ、すべてのものと調和のうちに一体となる、旅立ちのときを迎えているのだという。まだまだ頑張っていただかなければならない。精神世界のリーダーとのシスター鈴木の位置づけは、今後ますます重要になってくるはずだ。

 

辻清明さん

清流出版 (2017年10月27日 10:23) | コメント(0) | トラックバック(0)

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「陶匠 辻清明の世界―明る寂びの美」―特別展のポスターの前で

・東京国立近代美術館工芸館で2017年11月23日まで2ヶ月強という長期間にわたり、「陶匠 辻清明の世界―明る寂びの美」が開催されている。工芸館の開館40周年記念と辻清明の没後10年を記念した特別展である。工芸館は、陶磁、ガラス、漆芸、木工、竹工、染織、人形、金工、工業デザイン、グラフィックデザインなど 、近現代の工芸およびデザイン作品を展示紹介する東京国立近代美術館の分館として、1977年に開館されている 。北の丸公園の森の中に佇むように建つ洒落た赤レンガの建物であり、重要文化財にも指定されている。この工芸館が弊社からほど近い北の丸公園内であることと、弊社が辻清明氏の作陶品とコレクションを俯瞰した豪華本『独歩―辻清明の宇宙』(3万2400円 2010年8月)を刊行していることもあり、編集担当者だった臼井雅観君と出かけることにした。会場では、この本の編集で大変お世話になった、辻清明氏の秘書、山本幸子さんにも久し振りにお会いできた。

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辻清明の遊び心に溢れた「鬼の金棒」

・ちなみにこの豪華本『独歩―辻清明の宇宙』の写真はすべて、土門拳の愛弟子として知られる藤森武氏が撮影したものである。『独歩―辻清明の宇宙』は結構、難産の末に生まれた本であった。というのも、写真家の藤森武氏が前々から辻清明氏の陶芸作品をカメラに収めていたのだが、亡くなったことにより、撮影作業は途中で頓挫していたのだ。それを知った僕は、なんとか形に出来ないものかと思案していた。奥様の辻協さんに当たってみると、刊行に前向きなことがわかったので、中断していた豪華本企画を進めることになった。春まだ浅い3月、僕と担当編集者の臼井君、写真家の藤森武氏らと辻協さんにご挨拶するため、東京・多摩のご自宅へと伺うことになった。ご自宅は京王線の聖跡桜ヶ丘駅からタクシーで15分ほど、山の中腹に傾斜を利用して建てられた立派なお住まいであった。玄関前にはちょっとした野外パーティもできる庭があり、竹林がある奥まった場所に薪を燃料にした登り窯があった。敷地全体には、桜の木を中心とした植栽がなされ、自宅から小道を少し下ったところには、立派な茶室も設えられているといった凝りよう。

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辻協さんと
 
・辻清明(1927?2008年)は、陶磁の道に進む前、すでに4、5歳のころには古美術に関心があったという。生涯にわたって国内外の名品も多く蒐集したことでも知られている。その中でもとりわけ、古信楽の作品が与えた重要なインスピレーションが辻清明の「明る寂び」として作陶に生かされている。「明る寂び」とは、元々、山口諭助が自著『美の日本的完成』の中で用いた表現であり、「寂び」の考えを「冷え寂び」「暗寂び」などに分類したものの一つ。辻清明は、古信楽の中に見出した「明る寂び」について、優美で伸びやかで、夜明けの空に似て明るく澄んだ気配があり、そこはかとない華やかさや軽いユーモアを含んだものとして、自らの制作でも、目指すところと位置づけていた。また、自らの師として、故郷の奈良県に本格的な窯を築いて陶芸創作に励み、後に人間国宝となる富本憲吉(1886-1963年)や、やはり陶芸家で郷里茨城の名山筑波山に因んで波山と号した板谷波山(1872-1963年)らから教えを受けた。

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辻清明の年譜の前で
 
・板谷波山については付記しておきたい。簡単にプロフィールに触れておく。波山こと板谷嘉七は、茨城県真壁郡の下館城下(町制施行前の真壁郡下館町字田町)に、醤油醸造業と雑貨店を営み、文化人でもあった善吉(板谷増太郎善吉)とその妻・宇多の三男として生まれた。上京して2年後の1889年、18歳の嘉七は東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に入学し、岡倉覚三(天心)、高村光雲らの指導を受けた。1894年に東京美術学校を卒業した後、1896年、金沢の石川県工業学校に彫刻科の主任教諭に採用され、同校で陶芸の指導を担当する。これをきっかけに本格的な作陶に励み、「勤川」を名乗る。1903年、先生の職を辞し、家族と共に上京し、東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区田端)に粗末な住居と窯場小屋を築き、作陶の研究に打ち込む。1906年、初窯を焼き上げて好成績を得る。号を「波山」に改めたのはこの頃。波山は1908年の日本美術協会展の受賞以来、数々の賞を受賞し、1917年の第57回日本美術協会展で出品した「珍果花文花瓶」が同展最高の賞である1等賞金牌(金メダル)を受賞した。第二次世界大戦後の1953年、陶芸家として初めて文化勲章受章。1960年には重要無形文化財保持者(人間国宝)候補となるが辞退。「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく芸術家」という自負がその理由と言われる。
 
・この板谷波山の生涯は、2004年に『HAZAN』というタイトル名で映画化、一般公開されている。主人公の板谷波山を演じたのが、人気俳優・榎木孝明さんだった。長々と書いてきたのは、僕がこの映画を気に入ったことと、もう一つの理由が榎木孝明さんへの思い入れからである。実は、榎木さんは、多彩な才能の持ち主で、軽いタッチの水彩画もお描きになる。画集も各社から刊行されている。弊社からも大判の画集『風の旅、心の旅』(1998年)と、続編である『自分への旅 風の旅、心の旅2』(2002年)を出版させて頂いた。榎木孝明ファンは女性を中心に全国各地にいて、お蔭さまで絵画展などのイベント会場で、この本を売って頂いたので、何刷も版を重ねることになった。弊社にとって大変有難い著者であった。

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辻清明のコレクション展示
 
・今回の辻清明の展覧会では、辻の工房を訪れて「作陶」に挑戦した、抽象画家の山口長男(1902-1983年)や同じく抽象画家だったアメリカ・カリフォルニア生まれのサム・フランシス(1923-1994年)ら、その他、アメリカの彫刻家でもあり、前衛陶芸を牽引したピーター・ヴォーコス(1924-2002年)、半世紀にわたって共に作陶した妻の辻協(協子 1930-2008年)ら、親交のあった作家の作品も併せて紹介されているのが興味深かった。余談だが、僕は山口長男も好きな画家で、弊社から『山口長男―終わりのないかたち』(2007年)という本を刊行させて頂いたことを思い出した。
 
・辻清明は、1955年に登り窯を築いて以降、信楽の土を用いた無釉焼き締め陶を活動の中心とし、古美術の蒐集や芸術家との交流を通して感性を磨き、信楽特有の美の世界を構築した。茶陶やオブジェなどの代表作とともに、古信楽や古代ペルーの土器など、きびしい目で選び抜かれた愛蔵品も興味深いものがある。「宇宙のシンボル」と称して、傍に置いていたという《天心》をはじめ、五百羅漢を模して作られた花生のほか、缶や瓶、帽子やステッキなどをかたどった、ユーモアあふれる作品も紹介されている。高台のついた器や、百合鉢など陶磁の発想を転用したガラスの作品や、筆だけでなく、時には筆替わりに藁も用いたという、のびやかな書作品も目を引いた。
 
・辻清明のプロフィールだが、父・清吉、母・とみ。東京府荏原郡(現・東京都世田谷区)に生まれる。四人兄弟の末っ子である。陶芸家の辻輝子は姉。1941年、姉・輝子とともに辻陶器研究所を設立し、倒焰式窯を築く。日本犬研究家の斎藤弘吉は義兄。妻の辻協、子の辻文夫、甥の辻厚成、大甥の辻厚志はすべて陶芸家となっている。骨董・古美術を愛好した父と、その父を頻繁に訪れる古美術商の影響で幼少の頃から焼物に惹かれ、学校へはほとんど行かずに陶芸を学んだ。父にせがんで初めて買ってもらったのが、雄鶏をいただき透かし彫りのある野々村仁清作「色絵雄鶏香炉」だった(戦火で焼失)。・辻清明の作品は世界的にも人気が高く、1963年、アメリカ合衆国・ホワイトハウスに『緑釉布目板皿』を収蔵。1965年、アメリカ・インディアナ大学美術館に『信楽自然釉壺』を収蔵。1973年、イタリア・ファエンツァ陶芸博物館に『茶碗』を収蔵。2001年、ドイツ・ハンブルクダヒトアホール美術館開催の日本現代陶芸展に招待出品された。2006年度には東京都名誉都民となっている。2008年、肝臓がんのため逝去。享年81。主な著書には、『趣味のやきもの作り』(徳間書店、1963)、『ぐいのみ』 (保育社、1963年)、『辻清明器蒐集』(文化出版局、1976年)、辻協共著『肴と器と』(講談社、1982年)、『焱に生きる 辻清明自伝』(日本経済新聞社、1985年)、『辻清明折々の古器 我が奔放コレクション人生』(世界文化社、1996年)、『陶芸家・辻清明の眼 作品とコレクション 愛知県陶磁資料館コレクション』(愛知県陶磁資料館、1999年)などがある。
 
・話は戻る。奥様の辻協さんにお会いしたとき、近い将来、辻清明の陶芸作品を展示する「辻清明美術館」を造りたい意向をお持ちだった。僕は、これはとてもいいお話だと思った。美術館ができて常設展示がなされれば、年間を通して多くのファンが訪れることになる。コーナーに本を置いて頂いて、販売してもらうこともできる、と夢は膨らんだ。しかし、好事魔多し、とはよくいったものだ。辻清明氏が逝去してからわずか4ヶ月ほど、後を追うようにして辻協さんが逝ってしまった。これには僕も大ショックだった。しかし、編集半ばにして放り投げるわけにもいかない。山形県にある東北芸術工科大学教授になられた長女の辻けいさんや、お弟子さんたちのご協力を得ながら、編集作業を進めることができた。特にデザイナーの坪内祝義氏がとてもいいお仕事をしてくれたと思う。装丁は満足のいくものだった。弊社で一番の豪華本であり、定価も3万2400円。果たして採算が合うかどうか、多少懸念された。これは僕の杞憂に終わった。前述した山本幸子さんが随分販促にも尽力してくれ、お蔭さまでかなりの黒字になった。多少は辻ご夫妻にご恩返しができたかと思っている。

坂村真民さん

清流出版 (2017年9月21日 18:08)

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小池邦夫さんの個展会場控室にて

    絵手紙の創始者である小池邦夫さんとは、臼井雅観君が親しかったことが縁で、長いお付き合いになる。住まいも近く、僕が成城で小池さんはお隣の狛江市に住んでいる。何度か話すうち、同じスーパーマーケットで買い物をしていることもわかり、顔を見合わせて笑ったものだ。ご承知のように、狛江市は小池さんが絵手紙講座を初めて開催した地であることから、「絵手紙発祥の地」としてよく知られる。小田急線の狛江駅前には小池さんの描いた絵手紙をモチーフにしたモニュメントが建っている。著者としても都合、10冊以上出させてもらった。その中には小池さんが好きな作家ということで、監修者として刊行させて頂いた本も何冊かある。とりわけ僕が好きなのは、2010年3月に刊行された武者小路実篤の『龍となれ雲自ずと来る―武者小路実篤の画讃に学ぶ』と、2012年3月に刊行された坂村真民の『一寸先は光 坂村真民の詩が聴こえる』の2冊である。共に僕自身が好きな作家、詩人だったこともあり、弊社から単行本として刊行できたことは嬉しかった。
 

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小池邦夫さん監修の武者小路実篤本
 
    武者小路実篤(1885-1976)の遺愛品や原稿、書画、資料等を展示している「武者小路実篤記念館」は調布市にあり、自宅から近いこともあって何度か足を運んだことがある。小池さんも十代のころから武者小路実篤の大ファンだったらしい。図書館通いをして、ほぼすべての実篤本を読破したというから入れ込みぶりも半端ではない。実篤は、雑誌「白樺」の中心人物として、また新しき村運動の創始者、実践者として知られているが、90年の生涯を通じ、小説家、戯曲家、詩人、エッセイスト、画家、書家など、いずれの面でも強烈な個性を発揮してきた。 
    単行本化にあたり、掲載する作品選びをすることになったが、多くの実篤作品の中から、小池さんが一体、どんな基準でどんな作品を選ぶのか、興味津々で同席させて頂いた。その際、実篤が絵、それもたくさんの油絵を描いていたことを初めて知った。洋画家の中川一政や岸田劉生など画家とも親交のあった実篤だが、本格的な油絵を描いていたとは驚きだった。実篤が描いたと知らせず、これらの作品群を見せたら、おそらく多くの人が名のある洋画家が描いた作品だと思うに違いない。実篤といえば色紙に描かれた俳画のようなイメージがあるが、油絵はまったく違った。実にダイナミックで迫力に満ちたもので驚愕した覚えがある。
    さて、坂村真民さんの『一寸先は光 坂村真民の詩が聴こえる』だが、さすがに真民さんについては、住まいが愛媛県の砥部町だったこともあり、身体が不自由な僕は飛行機に乗ることができず、同行すること叶わなかった。真民さんは愛媛県砥部町に「タンポポ堂」を構え、40年以上にわたって「詩国」という月刊詩誌を発信していた。単行本化にあたり、小池さんと担当編集者の臼井君が砥部町に坂村真民さんの三女・西澤真美子さんを訪ね、厖大な作品群から掲載作品を選ばせて頂くことになった。
 

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西澤真美子さん(夫君の西澤孝一氏は「坂村真民記念館館長」)
 
    そして資料を探すうちに、思わぬ宝物を見つけたという。それは真民さんが毎日のように欠かさず書いていた800冊にも及ぶ詩作ノートであった。「詩記」と書かれた大判の大学ノートにはNo.1からNo.796までのナンバリング、40年以上にわたっての厖大な詩作の下書きメモであった。例えば541号には、真民さんの最愛の母、種子さんについて書いた一篇がある。真民さんの心を明るく照らし続ける光であったことがよくわかる。「光の種子」を引いてみよう。
 
≪母の名を種子といった だからわたしは
花の種 果物の種 どんな種でも てのひらにのせ
母をおもい その苦闘の生涯をしのぶ
そして近頃特に ああ母は 
光の種子のような人であったと
しきりに思うようになった
「念ずれば花ひらく」八文字の真言を授けてくださった母よ
それは生命の光のように わたしを育ててゆく≫ 
    そして同じノートには愛妻への賛歌の詩も書かれていた。
≪妻は根っからの明るい人だ 天真な人だ
そのことをしみじみと思った この人には信仰などはいらない
生まれながら天の美質を受けている人だ
この人と共にあったことの幸せを感謝しよう≫ 
 
    母堂、そして細君に感謝する日々、そこからあの素晴らしい詩の数々が生まれてきたのであろう。

 
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小池邦夫監修の坂村真民本
 
    この本にはこの詩作ノートからの抜粋を15頁にわたって紹介している。日々、真民さんがどのように詩作に励んでいたかの片鱗を窺い知ることができる。直しては書き、直しては書き、さらには後ほど朱を入れて校正したりしている。その詩作の過程をありありと彷彿とさせるのだ。貴重な資料ともなり得るものだ。もう一つ、この本の特長は真民さんの生原稿を載せていることだ。実は僕も真民さんの詩は好きだし、出版各社から詩集も発刊されているが、生原稿というのは見たことがなかった。それが今回、真民さんが連載していた『曹洞宗報』という曹洞宗の機関紙に寄せた生原稿が見つかり、それを原寸大で掲載することができた。ブルーブラックのインクで一文字一文字、まるで彫るように刻まれた字を見たとき、僕は感動を覚えた。まさに魂のこもった字であった。都合5枚の生原稿の中でも僕がとりわけ感動したのが、「あとから来る者のために」という詩である。ここに引いてみよう。
 
≪あとから来る者のために 
田畑を耕し 種を用意しておくのだ
山を 川を 海を
きれいにしておくのだ
ああ あとから来る者のために
苦労をし 我慢をし みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
みなそれぞれ自分にできる
なにかをしてゆくのだ≫
 
 
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「あとから来る者のために」の生原稿
 
    ちなみに坂村真民さんは明治42年、熊本県荒尾市の生まれ。熊本県立玉名中学校を経て、1931年、神宮皇學館(現・神宮皇學館大學)を卒業した。愛媛県砥部町に「たんぽぽ堂」と称する居を構え、毎朝1時に起床し、近くの重信川で未明の中で祈りをささげるのが日課であった。詩は解りやすいものが多く、小学生から財界人にまで広く愛された。特に「念ずれば花ひらく」は多くの人の共感を呼び、その詩碑は全国、さらに外国にまで建てられている。愛知県出身の教育者、大学教授、哲学者であった森信三氏が、早くから坂村真民の才覚を見抜き後世まで残る逸材とまで評した。
    真民さんは1934年に朝鮮に渡り、短歌に傾倒する。1946年に愛媛県に引き上げ、国語教師として教鞭をとりつつ詩作に従事した。1953年、尼僧・杉村春苔に出会い大きな影響を受ける。1960年、個人雑誌「ペルソナ」を創刊する。1962年、自らの詩をつづった月刊詩誌「詩国」を創刊。1,200部を無料配布した。1967年、新田高等学校に国語教師として赴任、砥部町に居を構える。1970年、「念ずれば花ひらく」の第1号碑が、京都市鷹峯常照寺に建つ。1974年、新田高等学校を退職し、詩作に専念する。1980年 文部省中学校教育課『道徳指導要領三』に、詩「二度とない人生だから」が採録され、多くの教科書に掲載されるようになる。2006年12月11日、97歳で永眠している。

 
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真夜中の1時に起床して近くの重信川で祈りを捧げるのを日課とした
 
    真民さんほど平和を希求し続けた方はいない。詩に命をかけ、世界平和を叫び続けてきた方だ。そんな日々の尊い活動に対して、昭和55年、第4回正力松太郎賞、平成3年、第25回仏教伝道文化賞、同11年、愛媛県功労賞、同15年、熊本県近代文化功労者賞などを受賞している。実は古巣ダイヤモンド社出版部で僕の先輩に当たる地主浩侍さんが、頭脳集団ぱるす出版を創業しており、坂村真民さんの本を刊行していた。『坂村真民詩集 地球に額をつけて』『鳥は飛ばねばならぬ』『自選詩集 千年のまなざし』などで、真民さんのコアの読者が全国におり、順調に販売実績を重ねていた。
    その地主さんが弊社を訪ねて来たことがある。その際、真民さんの本を出してみないかとのお誘いを受けた。その頃の僕はといえば、創業した清流出版が超がつくほどの繁忙期にあり、人的にも受ける余裕がなかった。そうこうするうち、2010年6月30日、地主さんが77歳で亡くなってしまった。亡くなる前日まで出社し、本人の口癖「生涯現役」を貫いた生涯だったという。僕はなんとなく地主さんに借りを作ったままのような気がして、気になっていた。小池さんの監修で、こうして真民さんの本を刊行できたことで、少し肩の荷が下りた気がしている。

 
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「念ずれば花ひらく」の碑は世界中に737基建っている
 
    平和の大切さを伝える一手段として「詩国」を発行した真民さん。詩を愛好する人たちによって真民さんの「念ずれば花ひらく」が刻まれた詩碑が、国内のみならず世界各地に建立され、いまでは世界6大州に737基の詩碑が建っている。301号の詩記ノートに「続けることだ」という詩が書かれている。この詩からは、「詩国」を刊行し続ける熱意が伝わってくる。真民さんの詩は各社からたくさん刊行されている。是非、この平和を希求し続けた詩人の詩を一篇でも読んでみてほしい。世界が平和であること、紛争・戦争のない世の中が、どんなに幸せなことであるか、心に響いてくるはずだ。
    そして最後に僕が感銘を受けた三つの短い詩を引いて終わりにしたい。
 
「ほろびないもの」
≪わたしのなかに 生き続けている 一本の木
わたしのなかに 咲き続けている 一輪の花
わたしのなかに 燃え続けている 一筋の火≫
「サラリ」
≪サラリと 生きてゆかん 雲のごとく
サラリと 忘れてゆかん 風のごとく
サラリと 流してゆかん 川のごとく≫
「独自」
≪小さい花でいい 独自の花であれ
小さい光でいい 独自の光であれ≫

青木外司さん

清流出版 (2017年8月25日 14:43)

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青木外司さん(中)、千代浦昌道さん(右)、僕が手にしている本が、『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』

・東京・銀座にある青木画廊の創業者、青木外司(とし)さんが、ある日の午後、千代浦昌道(獨協大学名誉教授)さんと一緒に、わが家を訪ねてくれた。実は昨年4月、青木さんが自転車で転倒し骨折したというので、お会いする約束を取りやめにした経緯がある。青木さんの家は世田谷区上祖師谷でわが家に近いのを知りながら、なんとなく会えないままになっていた。千代浦さんは同じ世田谷区の下馬在住で、成城のわが家を2度ほど訪ねてくれたこともあり道をよくご存じである。青木さんと会うのは、僕の親友・故長島秀吉君の葬儀(2009年11月)以来で、ほぼ8年ぶり。92歳になるというが若々しい。普段、呼吸のために酸素ボンベを持ち歩かなくてはならない身にはとても見えない。

    会って話してみると、青木さんは僕と同じディサービスに通っておられることが分かった。ディサービスは、上祖師谷と成城の2か所にあり、青木さんは上祖師谷、僕は成城でお世話になっている。代表者は坪井信子さんといい、介護福祉分野で有名な方だ。その両方のディサービスを担当している杉本三奈さんが、青木さんと僕のメモをやりとりしてくれた。聞くと、上祖師谷の理事をされていた伊藤社長が先日急逝され、青木さんにはショックだったようだ。伊藤さんとは月1回会って、食事会を始め、飲み会や落語会の開催から、仕事上でも、表具、額装等、何やかやと、お世話になった方だと言う。さらには、青木さんの奥様が2011年の東日本大震災があった年、ご自宅で心臓の「動脈解離」で、急死されたと聞き、びっくりした。

    青木さんの知遇を得たのは、1960年だから優に半世紀になる。きっかけは故龍野忠久(1927年―1993年、享年66)さんが作ってくれた。当時、龍野さん32歳、千代浦さん21歳、長島君と僕が19歳で、山内義雄教授のフランス語を通じ親しくお付き合いし、いわば“龍野グループ”を形成していた。そして、しばしば銀座の青木画廊に集まった。わが青春の思い出は、青木画廊によって作られたと言っても過言ではない。その僕は30年以上経て52歳でダイヤモンド社を辞め、その後、清流出版を立ち上げるのに忙しく、挙句の果て脳出血で右半身不随となった。人と会うのが億劫になり、青木さんとも会えずにいた。われわれを指導された龍野さんも清流出版は知らないで永眠された。もう一つ、青木画廊から遠のいた理由がある。会うには、青木画廊に行かなくてはならないが、入り口が急勾配なのだ。半身不随の身には大きなネックとなる。2、3階の会場に行くことができず、もう青木さんとは会えないと思っていた。その間、千代浦さんはといえば、青木さんとはカメラと猫趣味で結ばれ、ずっと付き合ってきたと言う。


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懐かしい写真。千葉県御宿の辺りまで旅行した。多分、1968年頃。前列左から次男・径(青木画廊後継者)さん、後列左より青木外司(とし)さん、幸子(ゆきこ)さん、長男・純さん。われわれは龍野忠久さん(前列右から二人目)を中心に、千代浦昌道さん、長島秀吉君、加登屋と同行した。この旅行の途中、画家の高松純一郎さんの家に立ち寄ったが、近くの料亭の席を取ってくれ、ご馳走になった。高松さんは、青木さんを「先生!」と呼んでいたことが耳に残っている。

・今回、青木さんはごく最近、刊行されたご著書、『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』(青木画廊編、風濤社刊、 2017年5月)を持参してくれた。これは有難いプレゼントだった。青木画廊の来し方を俯瞰する意味で、過去に開催された数々の個展、美術評論家や作家との交流などが網羅され、素晴らしい「年代記」と認識した。青木さんは富山県生まれ。戦後、上京し、最初の数年間は小学校教師として図工を教え、その後、知り合った東京画廊の社長・故山本孝さんの勧めで画商の道に。東京画廊で、画廊経営のノウハウを学び、青木画廊をオープンする。僕はオープン前に一度、青木さんと龍野さんの打ち合わせに同行したことがある。飯田橋駅にほど近く、青木さんは碁会場を営んでおられた。その頃、息子さんはまだ7、8歳ぐらいで、奥様が美人だったことを覚えている。1961年、青木画廊をオープン。画廊については、「素晴らしい!」の一語に尽きる。日本初、本格的なウィーン幻想派、シュルレアリズムを紹介された。同じ富山県出身の美術評論家だった瀧口修造さん、フランス文学者・翻訳者・エッセイストの澁澤龍彦さんの企画内容が見事だった。他にも、著名な方々が数々の名文を寄せ、美術ファンのみならず文学ファンの間に衝撃を呼んだ。僕にとっても衝撃的だったウィーン幻想派、シュルレアリズムをもっと知りたいと思った。

・青木画廊のような画廊は他にない。それは以下の文章でも頷けよう。
『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』によると、
≪ようこそ幻想絵画の巣窟へ――ウィーン幻想派の紹介、金子國義、四谷シモンの展覧会デビューで、1960年代―70年代はアヴァンギャルドの牙城となり、瀧口修造、澁澤龍彦もオブザーバー的に関わった孤高の画廊。その画廊精神は現在にも引き継がれ、澁澤龍彦曰く「密室の画家たち」が発表の場を求めている。青木画廊で個展を開いた70数人の作家、寄稿文7本、座談会5本、展覧会パンフレットのテクスト90本で辿る55年の軌跡、青木画廊大全!≫――この魅力的な惹句がすべてを物語っている。目次を見ると、より詳しい内容が分かる。目次の一部をご紹介する。

≪ウィーン幻想派を中心に海外作家≫ エルンスト・フックス、ヘルマン・セリエント、エーリヒ・ブラウアー、カール・コーラップ、F.ゾンネンシュターン、ペーター・プロクシ、ペーター・クリーチ、ホルスト・ヤンセン、ケーテ・コルヴィッツ、バット・ヨセフ、ヨルク・シュマイヤー、マリレ・オノデラ、ボナ・ド・マンディアルク ◎原稿 川口起美雄「フッター先生のこと」、市川伸彦「3人の“B“」、マリレ・オノデラ「エルンスト・フックス」、多賀新「シュマイサーとベルメール」
≪青木画廊 黎明期≫ 池田龍雄、中村宏、山下菊二、横尾龍彦、前田常作、齋藤真一、小牧源太郎、野地正記、松澤宥、北脇昇、石井茂雄、藤野一友、秋吉巒、桂川寛、堀田操、森弘之 ◎座談「黎明期の青木画廊」 池田龍雄×中村宏×青木外司×青木径

≪青木画廊 アヴァンギャルド≫ 金子國義 四谷シモン、川井昭一、高松潤一郎、小沢純、大山弘明、藤野級井、宮下勝行、直江眞砂、松井喜三男、杉原玲子、樹下龍児(龍青)、渡辺高士、上村次敏、スズキシン一、池田一憲、渡辺隆次、高橋一榮、砂澤ビッキ、三輪休雪(龍作) ◎鼎談「青木画廊 アヴァンギャルド」 四谷シモン×青木外司×青木径 ◎原稿 三輪休雪「青木画廊の事」

    このあと、≪青木画廊 第三世代≫、≪青木画廊 新世代≫と続くが省略する。目次の最後に≪展覧会に寄せられた文章群≫がある。それには、◎瀧口修造「一角獣の変身」、「エルンスト・フックス展」(1965―66年)◎澁澤龍彦「未来と過去のイヴ」、四谷シモン人形展「未来と過去のイヴ」(1973年)◎種村季弘「文明の皮剥ぎ職人」、「ホルスト・ヤンセン展」(1971年)◎針生一郎「怪鳥年代記」、「山下菊二展」(1964年)など、展覧会に寄せられテクスト90本を収録している。

    僕にとって、忘れかけていた「青木画廊の宝庫」が、もう一度蘇ったようだ。青木画廊の企画展の歴史、軌跡、数多くのアーティストたちと作品群は、画廊のホームページや今回の本『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』をご覧いただければ幸いである。

・僕が今もって忘れえぬ画家、推薦された評論家について、少し述べてみたい。

    まず、エルンスト・フックスである。1930年生まれで、オーストリア、ウィーンの画家。ウィーン幻想派の代表的作家の一人。1944年聖アンナ美術学校で、さらに46年ウィーン国立美術学校で学び、48年アート・クラブに参加。51年「フンズグルッペ」を創立し、58年ギャラリー「エルンスト・フックス」を設立する。69年サンパウロ・ビエンナーレ展で受賞し、74年「一角獣の凱旋」(エッチング)で注目される。ゴシック絵画やマニエリスム絵画の影響を受け、旧約聖書や神話を題材に預言的な幻想絵画を作り出した。

    瀧口修造さんが青木画廊の「エルンスト・フックス展」に名文を寄せている。その一節に、「私(瀧口)はあまりに聖書の叙事的な画家になろうとするときのフックスよりも、ヘブライ神話の新しい変貌譚をみずから創りださずにはいられないフックス自身の心情に惹かれる」、「その迷路のように晦渋なフォルムがいよいよ明澄性に迫ろうとするのを見ると、これひとつだけで画家にあたえられた誘惑にみちた完全な命題のように思われる。いずれにしろ、知天使ケルビムの究極の象徴は一瞬にして視透す遍在的な瞳であるにちがいない」云々。エルンスト・フックスと瀧口修造さんのコラボが、わが青春に衝撃を与えた。エルンスト・フックスに入れ込み、机の片隅に彼の絵葉書を飾っていたほどだ。

・次に、エーリヒ・ブラウアーとフリードリヒ・ゾンネンシュターンについて。エーリヒ・ブラウアーもウィーン幻想派であるが、異端の画家だ。1928年生まれ、オーストリア、ウィーンの画家、版画製作者、詩人、ダンサー、歌手で舞台演出家でもある。恋多き人生を送ったボヘミアンだ。もう一人は、フリードリヒ・ゾンネンシュターン。1892年―1982年の生涯、ドイツ、東プロイセンのティルジット生まれの画家だ。本名フリードリヒ・シュレーダー。 色鉛筆でシュルレアリスムの絵を描いたアウトサイダー・アートの作家。「ゾンネンシュターン」とは、ドイツ語の「太陽(Sonne)」と「星(Stern)」からなり、自らを「月の精の画家」と称した。この2人を、瀧口修造さん、澁澤龍彦さん、種村季弘さんが、クローズアップした。幻想的でエロティクな画風に魅了された紹介文には、澁澤、種村両氏の情熱が感じられた。僕は、この2人が推薦するものは、原文のドイツ語で読みたいと思った。瀧口、澁澤、種村の各氏を、僕が編集に携わった月刊『レアリテ』(ダイヤモンド社)に、翻訳、企画記事として採用させて頂いた。

・もう1人がフンデルト・ヴァッサーである。僕が青木画廊から買った絵はこれだけだがとても気に入っている。本名フリードリヒ・シュトーヴァッサーは1928年12月、ウィーンの生まれ。20歳のときウィーン美術アカデミーで本格的に絵を学んだ。21歳のとき、フンデルト(“百”の意味)・ヴァッサー(“水”の意味)と名乗る。1959年、画家アルヌルフ·ライナーとエルンスト·フックスと一緒に、“ピントラリウム”と呼ばれる芸術家のための新しいプログラムを提唱。彼の絵にはカラフルな赤や黄色、緑、青が多用され、やがてどこまでも続く線や螺旋渦巻きが登場し、その曲線で家が描かれる。彼の作品には、家と人と自然の共存という意が込められている。


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フンデルト・ヴァッサーの絵。僕の自宅の玄関に飾っている。

    フンデルト・ヴァッサーは環境芸術にも貢献した。例えば、青い煙突の建物「舞洲スラッジセンター」は、下水汚泥をブロックなど建築資材に転用する機能を持つ施設である。建築を画家としての大きなテーマと位置づけ、機能性を重視した建築の合理主義を否定し、自然と共に生きることを生涯にわたって訴え続けてきたフンデルト・ヴァッサーの思い描く建築の合理性が、舞洲工場の奇抜な外観に集約されている。

・また、国内作家では、池田龍雄、中村宏、山下菊二、齋藤真一、野地正記の各氏を紹介された。その中でも、金子國義さん、四谷シモンさんの展覧会デビューは美術界に衝撃を与え、一躍アヴァンギャルドの画廊として広く認知されるところとなった。瀧口修造さん、澁澤龍彦さんがオブザーバー的に企画にも絡み、瀬木慎一、針生一郎、種村季弘、高橋睦郎、吉岡実など各氏は美術評論家・作家・詩人として数多くの文章を寄せ、美術ファンのみならず文学ファンにも知られる存在になった。その画廊精神は現在も引き継がれ、澁澤龍彦さん曰く「密室の画家」たちがこぞって発表の場を求めていると言う。とくに、金子國義さんは、埼玉県蕨市出身で、日本大学藝術学部卒業後、1966年、『O嬢の物語』の翻訳を行っていた澁澤龍彦さんの依頼で同作の挿絵を手がけている。翌1967年、澁澤さんの紹介により青木画廊で個展「花咲く乙女たち」を開き画壇デビューした。世紀末的・デカダンスな雰囲気を漂わせる妖艶な女性の絵、独特な描写の人物像など退廃的な画風が人々の関心を惹く。活動・表現領域は幅広いが、『ユリイカ』『婦人公論』の表紙や新潮文庫の『不思議の国のアリス』の挿絵を担当。コシノジュンコとは、古くから親交があった。2015年、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去、78歳没。澁澤龍彦さんが発見したが、金子國義さんは「時代のアジテーターの寵愛する画廊」として、青木画廊のファン拡大に一役買ったのである。

    青木画廊は1960―70年代にセンセーショナルでアヴァンギャルドな画廊として、認知されていく。面白い話がある。同じ名前で、同年生まれの横尾龍彦さんと澁澤龍彦さんが知り合いで、横尾さんを通じて、青木外司さんは澁澤さんの知遇を得る。澁澤さんは個展パンフレットに1966年の横尾龍彦展を嚆矢として、金子國義、高松潤一郎、四谷シモン、川井昭一、ボナ、秋吉各氏と、1982年までに8本の原稿を寄せている。ちなみに横尾龍彦さんは東京自由大学初代学長、画家。1928年、福岡県生まれ。東京藝術大学日本画科卒。1965年ルドルフ・シュタイナー研究会、高橋巌教授のセミナーに参加。1978年より鎌倉三雲禅堂、山田耕雲老師に師事、以後毎年、接心、独参を続ける。1985年ケルン郊外に居住。現在ベルリンと秩父にアトリエを設け東西を往来する。B・B・K・ドイツ美術家連盟会員。1989年、東京サレジオ学園の聖像彫刻、吉田五十八賞受賞。これまでに、国内はもとより、海外での個展、グループ展多数開催。青木画廊の先駆的な役割が目立つ。

    澁澤龍彦さんと同じく、もう一人の翻訳家が種村季弘さん。こちらは独文学者。種村季弘さんが書いた『迷宮の魔術師たち――幻想画人伝』(求龍堂刊)やフリードリヒ・ゾンネンシュターン著『シュルレアリスムと画家叢書「骰子の7の目」』(河出書房新社刊、1976年)、『一角獣物語』(大和書房刊、1985年)などが青木画廊の個展に結び付く。また、ドイツ語と言えば、坂崎乙郎さんも青木画廊の個展へ解説者となっている。僕は早稲田大学高等学院の時、坂崎先生にドイツ語を習っている。その5年後、坂崎さんの『夜の画家たち―表現主義から抽象へ 』(雪華社刊、1960年) が話題となった。著名な父親・坂崎坦さんが長生きしたのに、彼の自害は、残念だ!

・忘れられない方が前田常作さんだ。1926年―2007年、享年81。富山県生まれで、武蔵野美術学校を卒業。1957年、第1回国際青年美術家展で大賞受賞。翌年、奨学金を得てフランスに留学。パリ滞在中、美術批評家K.A.ジェレンスキーの批評により、≪夜のシリーズ≫などの作品を「マンダラ」と評される。そこでマンダラに関心をもち、帰国後、東寺の両界曼荼羅に触発され、マンダラを描き始める。前田さんは、以来「人間風景」「人間誕生」「人間星座」「人間空間」「空間の秘儀」「人間波動粒子」などのシリーズを発表。さらには、「須弥山マンダラ」「観想マンダラ」とマンダラ・シリーズを展開した。それにより、1979年には、第11回日本芸術大賞受賞。1983年、武蔵野美術大学教授。1992年、紫綬褒章受章、翌年、安田火災東郷青児美術館大賞受賞。1994年、武蔵野美術大学の学長就任。素晴らしい人生だが、ご本人は肩書や賞に関係なく、「生きること=毎日マンダラを描く」と、徹底的に追究する日々を送った。曼荼羅以前の作風から大きく変ったのも凄いが、僕とは大好きな映画の話で盛り上がる。「あれは観たか、これは観たか?」という調子。60年代から80年代まで、青木画廊はじめ、銀座や新宿の喫茶店、飲み屋で気軽に談笑したが、1990年になるとお互い忙しくなり、会うことができなくなった。

・僕の記憶では、瀧口修造さん、吉岡実さん、大島辰雄さんのトリオで集まることが多かった。3人で青木画廊の展覧会を観た後、銀座の店に繰り出した。また他の画廊や展覧会、さらに各種イベントに集う時、例えば、後楽園の「ボリショイ・サーカス」や赤瀬川原平さんの「千円札裁判」まで付き合って、ご一緒した。そして、その度に、僕はご馳走になった。ほとんどが『藝術新潮』編集長だった山崎省三さんがお支払い、新潮社に奢ってもらったことになる。コーヒー、食事はもとより、特にお酒が入ると大いに談論風発し、楽しい集まりであった。集まりの中では、僕だけが若輩者だった。なんという幸せな一時を過ごしたことだろう。

    瀧口さんは1903(明治36)年―1979(昭和54)年。享年76。近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱であり、近代詩の詩人とは一線を画す存在。
 
    吉岡実さんは、1919(大正8)年―1990(平成2)年。享年71。筑摩書房に勤務、取締役も務め、詩人。H氏賞、高見順賞、藤村記念歴程賞、を受賞。シュルレアリズム的な幻視の詩風で、戦後のモダニズム詩の代表的詩人である。

    大島辰雄さんも1909(明治42)年―1982(昭和57)年。享年73。美術評論家でフランス文学の紹介と翻訳、フランス文学の紹介のほか、昭和30年代前後から主に西洋近・現代美術に関する執筆、翻訳活動を展開し、また映画にも深い関心を示した。『藝術新潮』への執筆に「囚われの画家・シケイロス」などがある。

    こうした集まりは、まず青木画廊や展覧会、イベントが出発点であり、3人の偉大な方々と、スポンサーシップの『藝術新潮』編集長、山崎さんが必要不可欠の存在だった。僕の勤務先が経済誌中心の出版社であり、芸術や文学のジャンルに野心がないことを山崎省三編集長もよく知っていて気軽に呼んでくれた。山川みどり(『藝術新潮』編集長・作家・山川方夫氏夫人)さんの前任者、山崎省三さんには心からお礼を言いたい。山川みどりさんは、のちに、弊社から『還暦過ぎたら遊ぼうよ』の著作を刊行された。不思議な縁である。長じて僕は、自分の出版社を持つ身分になりながら、山崎さんのようにはついぞなれなかった。

・池田龍雄さん。日本経済新聞(夕刊)に8月14日から5日間、「こころの玉手箱」と題して、『予科練時代の写真』『花田清輝の著作』『岡本太郎にもらったカフスボタン』『瀧口修造の瓶詰オリーブ』『1950年代から愛用するペン』というエッセイをお書きになった。いずれも魅力的な記事だ。1928(昭和3)年生まれで、現在89歳。1948(昭和23)に上京、多摩造形芸術専門学校(多摩美術大学)へ入学する。同年秋には学友に誘われ岡本太郎や花田清輝らの「アヴァンギャルド芸術研究会」に参加し、アバンギャルド(前衛芸術)の道を歩む。60年代以降には政治的主題を離れ宇宙や時間など物理学的なテーマへ移り、「百仮面」「楕円空間」「玩具世界」「BRAHMAN」「万有引力」「場の位相」シリーズなど風刺や諧謔を交えたペン画シリーズを制作している。

・まだまだ書いておきたい方々がいる。例えば、中村宏さん、森弘之さん、渡辺隆次さん、建石修志さん……等など、僕の青木画廊への思い出につながる人たちについても、機会があったら、書きたいと思っている。


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世田谷区美術館で「瀧口修造 夢の漂流物 ――同時代・前衛美術家たちの贈物1950?1970――」(2005年)。
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