加登屋のメモと写真…: 2021年10月アーカイブ
加登屋のメモと写真…
2021年10月アーカイブ

小野田寛郎・町枝夫妻

清流出版 (2021年10月20日 15:16)

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小野田寛郎・町枝夫妻

 

小野田寛郎さん・町枝さんご夫妻には、公私ともに大変お世話になった。その寛郎さんは、2014116日に泉下の人となった。1922(大正11)年、和歌山県の生まれである。享年91。来し方を振り返ってみると、旧陸軍少尉であった小野田寛郎さんは、1944(昭和19)年、陸軍中野学校二俣分校に入校している。同年、22歳の時、情報将校としてフィリピンのルバング島へ派遣された。以後30年間、終戦を信じることなく、仲間と戦闘任務を遂行する。いわば青春時代の大半をかの地で失っている。上官からは「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」との言を肝に銘じて戦い抜いたのである。

 小野田寛郎さんの約30年間のフィリピン・ルバング島潜伏を描いた人間ドラマ/映画『ONODA 一万夜を越えて』が108日から全国東宝系映画館で公開されている。この映画は第74回カンヌ国際映画祭・ある視点部門のオープニング作品に選ばれたという秀作である。小野田寛郎さんの想像を絶する戦いの日々を基に描かれたものだ。日本がポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた後も任務解除の命令を受けられないまま、ルバング島で孤独な日々を生き抜いた小野田さん。約30年後の1974年、52歳で日本への帰還を果たすことになった。

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小野田寛郎さん

 

・この映画の監督は、フランスの新鋭アルチュール・アラリ氏である。201812月―193月の約4カ月間をかけ、ロケ地カンボジアのジャングルで過酷な撮影を敢行したという。全編が日本語であり、かつ全員が日本人キャストで撮り上げた労作である。アラリ氏は1981年パリ生まれ。祖父は俳優・演出家のクレマン・アラリ。兄は撮影監督のトム・アラリ。パリ第八大学で映画を専攻。2007年、若手監督の発掘の場であるブリーヴ映画祭で『La Main sur la gueule』がグランプリを受賞。2013年、短編『Peine perdue』が、ベルフォール “アントルヴュ” 映画祭の短編部門にてグランプリを受賞した。2016年、長編第一作となる『汚れたダイヤモンド』を発表。フランス批評家協会賞・新人監督賞のほか、いくつもの賞をとっている。フランス人監督が、さまざまな制約がある中で演出・監督して制作したものだから、その苦労は察するに余りある。主演は遠藤雄弥さんと津田寛治さん。遠藤さんが寛郎さんの青年期を、津田さんが成年期をそれぞれ演じ分けている。この映画に、僕はとても興味がある。寛郎さんとは何度かお会いして、その生き方・考え方に接し、僕はとても感銘を受けていたからだ。ルバング島での戦場を含め六十余年、「不撓不屈」が寛郎さんの変わらぬ座右の銘であった。確固とした精神的な支柱があったからこそ、こうした過酷な運命を切り開いてこられたのであろう。

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弊社からは2冊の本を刊行させて頂いた

 

寛郎さんは、任務解除命令を受けられないまま「残置謀者」としてルバング島での情報収集、遊撃、後方攪乱する目的の戦闘任務を遂行し続けた。1954年、共に戦っていた島田伍長が戦士。1972年には、28年間、信頼し続けた片腕ともいうべき小塚一等兵が戦死する。寛郎さんの語録にもこうある。「人間は一人では生きられない。ルバング島での一番の悲しみは、戦友を失ったことだった」と。1974(昭和49)年、ついにルバング島において直属機関長の上官だった谷口元陸軍少佐から作戦解除命令書伝達式を受け日本に帰還した。小野田さんはその時、すでに52歳になっていた。そんな寛郎さんのルバング島での戦闘任務を題材にした映画である。機会があったら是非、観たいと思う所以である。帰国後の日本は、小野田さんを絶望の淵に追い込む。人心は乱れ、道徳・秩序もなく、変わり果てた日本に違和感を覚えた。「ルバング島での証人なき戦い」という言葉に発奮した小野田さんは自らの力を証明するため、新天地ブラジルでゼロからの牧場開拓を決意し、日本を離れたのである。

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ブラジルの小野田牧場にて

 

・小野田町枝さんという恰好の伴侶を得て、最終的に成田空港より広い1128ヘクタールの土地を手に入れる。広大な原生林である。生い茂る樹木は切り払い、ブルドーザーで開墾して牧場用地を開拓する。そして念願の小野田牧場をオープンさせたのである。ブルドーザーはフル稼働で酷使し続けたので、キャタピラの歯がすり減ってしまった。寛郎さんはどうしたかといえば、町で鉄板を買い求め、すり減ったキャタピラに自分で溶接して歯をつけてしまった。このように寛郎さんは器用であり、メカにも滅法強かった。

牧場で飼育する肉牛は実に1800頭。種牛を買って子牛を育て、少しずつ頭数を増やしていった。最初の7年間は無収入だった。仕方がないので、ブルドーザーを時間貸しするなどして糊口を凌いだという。どうにか8年目から、牧場経営が軌道に乗り始めた。寛郎さんに牧場の写真を見せてもらった。見渡す限りの広大な牧場を捉えていた。雄大な大地に沈みゆく真っ赤な夕陽。色鮮やかに咲き乱れる花々。何もかもスケール感が違う。パンパを吹き過ぎていく風が感じ取れるような写真だった。寛郎さんは、カメラの腕も玄人はだしで、メカに強いというのも腑に落ちた。ただ小野田夫妻の心残りは牧場後継者の問題だった。幸い町枝さんの妹さんに男の子が生まれた。このご子息を養子に迎え、後継ぎ問題も解決している。

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寛郎さんと僕

 

1980(昭和55)年1129日、衝撃的な「金属バット殺人事件」が起こる。神奈川県川崎市に住む20歳の予備校生が、両親を金属バットで殴り殺した事件であった。この報をブラジルで知った寛郎さんは心を痛め、いてもたってもいられずに立ち上がる。このままでは日本はダメになる。次代を担う子供たちを救いたい、との強い思いから帰国する。健全なる人間形成と、文化社会と自然との共存のためにも、自然教育の必然性を痛感し、1984(昭和59)年7月より野外教育活動『小野田自然塾』を開校したのである。全国各地でキャンプを開催。多くの青少年たちにサバイバルの知恵を施すために尽力した。

毎年、約1000名の子供達の指導にあたった。小野田自然塾で教育してきた子供たちはのべ2万人を超える。寛郎さんは言う。「今の日本人からはたくましさが消えた。平和ボケしている一方で、自殺や引きこもりなど人生を放棄する若者たちもいる。これらはいずれも人間が本来持っている野性味を失った結果ではないか」と……。大自然を舞台にしてのサバイバル訓練のような体験から、自分で自分を背負う大切さ、自立心・自律心を養うカリキュラムを組んで全身全霊をもって子どもたちを指導していった。極限状態の中で生き抜き、戦い抜いた寛郎さんならではの発想であった。

・弊社は、小野田寛郎さん関係の単行本を二冊出させていただいた。一冊は、小野田町枝さんの著になる『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(2002年)。もう一冊は、原 充男さんの監修になる『魚は水 人は人の中――今だからこそ伝えたい 師小野田寛郎のことば』(2007年)である。『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』は、町枝さんが寛郎さんとの来し方を振り返ったもの。苦楽を共にしてきた2人は、夫婦でありながらまさに戦友でもあった。実はこの本を弊社から刊行できたのには理由がある。町枝さんは大手出版社のK社社長から、本を出すならK社からと依頼を受けていた。もう一つ、K社にこだわる理由が、このK社の出版物(漫画)を寛郎さんがファンだったのだ。だから寛郎さんの意向もあって、K社から本を出したいという思いは僕にも理解できた。

町枝さんは、弊社近くの九段会館で行われる各種イベントに参加することもあり、よく弊社を訪ねてきた。弊社の空気が肌に合い、居心地がいいのだと言っていた。町枝さんが入り口を入ってくるとすぐに分かった。とにかく声が大きい。「こんにちはー!」と言いながら入ってくる。入ってきた途端に社員全員が、「アッ町枝さんだ」とわかったものだ。僕もなんとなく馬があって、よく雑談話に花を咲かせたものだった。そのうち、町枝さんは「私、本を出すなら清流出版で出したい」と言い始めた。弊社にとっては願ってもない話である。お二人の波瀾の人生を単行本にすれば、大いに話題を呼ぶに違いない。そう確信したからだ。

・しかし、実際に単行本として刊行するまでには3年ほどの時間がかかった。無理もない。ブラジルでの牧場経営もあるし、日本に帰国すれば、寛郎さんへの講演の依頼、取材依頼の電話がかかってくる。スケジュール管理をする秘書役もこなしていたから、執筆にかけられる時間も限られていた。よく頑張って脱稿してくれたものだ。おかげ様でこの本は、マスコミでも取り上げられ大いに話題になった。さらにプラス材料が町枝さんの営業力にあった。顔が広く、明るい性格だから講演先で経営者にも好かれた。だからこの本は企業の一括買いが多かった。200冊、300冊と一括受注した町枝さんは、すべて自筆サインをして発送していた。そんな相乗効果もあって、刷数を重ねることができた。大いに弊社に利をもたらしてくれたのである。

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『魚は水 人は人の中』の監修者・原充男さんを真ん中に

 

 2冊目が小野田寛郎さんの語録をまとめた『魚は水 人は人の中 今だからこそ伝えたい師・小野田寛郎のことば』である。寛郎さんが小野田自然塾などでの話の中から、後世に伝えたい言葉を、愛弟子ともいうべき原充男さんが精選したものだ。日本人は豊かさと引き替えに大切なものを失ってきた。信義、礼節、矜持、自尊心……等々。いわば寛郎さんが、物質至上・金銭至上主義に毒され、平和ボケした日本人に伝えたい言葉であり、文字通り「珠玉の語録集」であった。寛郎さんは発刊に寄せて、こんな言葉を送ってくれた。「これらは私がキャンプ等で話した言葉ですが、その内容は、この本をまとめてくれた原さんほか多くの若い人たちの考えであり意見でもあります。この本が混沌とした日本の社会に一石を投じてくれることを願ってやみません」。

原さんは1943年、東京都の生まれ。1966年、防衛大学校(電子工学科)を卒業し、航空自衛隊に入隊している。1992年、小野田自然塾のボランティアとして活動を開始する。2000年、航空自衛隊第四術科学校長兼熊谷基地司令として空将補にて勇退。2005年、小野田自然塾評議員に就任している。原さんは、ブラジルの小野田牧場で1ヶ月ほど過ごしたことがあり、日の出から日暮れまで、若いカウボーイたちと同様、額に汗して働く寛郎さんを目の当たりにしている。帰国後、小野田自然塾のキャンプで、再びボランティアたちと熱心に子供たちに接する寛郎さんの姿を見た原さんは、「この方は、ルバング島の英雄なんていうものではない。我々を指導してくれる真のリーダーである。今の世の中、行動せずに批判や評価をする人は沢山いるけれども、自ら実践して行動で示してくれる人が一体どれだけいるだろうか」との思いから、語録の編纂を志したという。

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小野田夫妻との会食はいつも心が弾んだ

 

・寛郎さんの講演会場に訪ねるなど、ご夫妻とは何度かご一緒したことがある。食事もご一緒したが、寛郎さんは見事に肉食中心の食事であった。大きなステーキを頼んで、美味しそうに平らげていた。付け合わせの野菜はおざなりに手を付けるだけ。町枝さんが「うちの人は、野菜を食べてくれないんですよ」と嘆いていたことを思い出す。僕もサラダ類は苦手な口なので、寛郎さんと似たようなものだが、今は野菜も少しは食べることにしている。それにしても寛郎さんは健啖家であった。多少、耳が遠いくらいで元気そのものに見えた。

だから寛郎さんは余裕で白寿は超えられるに違いない。そう思っていたので、お亡くなりになった時は本当にショックであった。寛郎さんが、こんな言葉を遺している。「貧しさや乏しさには耐えられる。問題は卑しさである」と……。心が置き忘れられた日本人一人ひとりが、心して受け止めたい言葉である。私利私欲に走り、自分だけ良ければいい。利他の心など持ち合わせていない現代の日本人がなんと多いことか。今こそ、寛郎さんの背筋の伸びた生き様や遺した言葉を、もう一度問い直すことが必要不可欠ではないか。そして、それを生の言葉で伝えられるのは町枝さんだけである。町枝さんは現在、体調を崩されていると聞く。元気になられたら、寛郎さんの遺言を未来ある若者たちに、生きる指針として伝えていって欲しい。そう心の底から願っている。

 

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