野見山暁治さん - 加登屋のメモと写真…
加登屋のメモと写真…
野見山暁治さん

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野見山暁治さん

・野見山暁治さん(洋画家・文化勲章受章者)が昨年12月に100歳になられた。ほぼ時を同じくして、わが家へ新刊『どうにもアトリエ日記』(生活の友社刊)が寄贈で届き、一般財団法人野見山暁治財団から『野見山暁治のいま展』のご案内を頂いた。展覧会の場所は東京・日本橋高島屋S.C.本館8階ホールで、会期は1月9日(土)から18日(月)までとなっていた。1959年から2020年までに制作された2メートルを超える大型油彩絵画を中心に約60点、その大半が2000年以降の近作ばかりという。なんという旺盛な創作意欲であろうか。新型コロナウイルス禍の昨年制作されたばかりの大作も含まれているのだから。コロナ禍の下で野見山さんは「やっぱり絵が描きたい。死にたくない」と語っている。100歳にしてこのような大作に挑戦し続けるエネルギーは、一体どこから出てくるのだろうか。僕からすれば驚異としか形容のしようがない。

 さらに2階下がった同館6階では、小品を中心にした展覧会も同時開催され、こちらは1日長い1月19日(火)までと、二本立ての絵画展になっていた。この6階会場入り口に立てられた、野見山さん直筆の看板の文字がまたいい。墨痕鮮やかに『絵描き、道楽、続けて百年、野見山暁治です』と書かれている。独特の書体なので、一目で野見山さんの書だと分かる。こちらの展覧会場も広く、展観された作品もなかなか見応えがあった。ここ数年、野見山さんも健康面で不安がなかったわけではない。軽い脳梗塞や肺炎などで入院もしている。それでも制作ペースや生活そのものが変わらないというのが凄い。「ものを丁寧に見てスケッチをする。そうやって描いているうちに、これがあれば十分、あとはいらないんだと分かってくる。対象に引きずられることなく、自分のうちにあるものを引き出してくるために画面に向き合う」と絵に対する向き合い方を大切に、淡々と描き続けてきた。野見山さんの絵の魅力といえば、グレーを基調にした豊かな色彩とどこまでも自在で奔放に走る筆触とストロークであろう。展観された絵にはそんな魅力が弾けていた。


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会場入り口のポスター


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6階入り口の野見山さん直筆による看板

・1月8日の朝日新聞(夕刊)と1月9日の日本経済新聞(朝刊)でも大きくこの絵画展についての記事が掲載されていた。朝日新聞のインタビューでは、数年前から、「絵を描くことが、こんなに楽しいものかと思うようになった」と答えている。「年をとるとはこういうことか」と実感するようになったのも、この2、3年のことだという。戸外を自由に歩き回れなくなった。食べるのも遅くなり、昨年は肺炎で入院もした。日課について、インタビューにこう答えている。朝8時半に起きて、就寝は夜半の12時半から1時くらい。「起きている間は絵を描いていますっていうんだけど、昼寝やウトウトしている時間も長いから」と苦笑する。これが野見山さんの通常の生活パターンらしい。

 野見山さん関連の図録、単行本などを販売するコーナーの横では、8分間のビデオ映像による野見山さんの昨今の日常生活風景が流されていた。朝起きて、野菜サラダとトースト、そしてコーヒーという朝食を摂っているところ。フランスのノルマンディ地方を旅して、気に入った場所でのスケッチをしている姿。福岡県糸島市にあるアトリエで大作に挑んでいる野見山さんの制作風景。また、昨年、野見山さんの母校・福岡県立嘉穂高校付属中学で、恒例の美術の特別授業をしている姿などが放映されていた。映像からは、肩肘張ることなく飄々として自然体で過ごしている姿が彷彿とされる。特別授業で野見山さんが慈愛に満ちた眼差しで、中学生たちのスケッチする様を見る、そして出来上がった作品を見る優しい目が、印象深く僕の心に残った。


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放映されていた糸島市のアトリエでの大作の制作風景



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  日本経済新聞1月9日付け(朝刊)   朝日新聞1月8日付け(夕刊)
 
・野見山さんは福岡県の筑豊の生まれで炭鉱のぼた山を見て育った。郷里の川や海で泳ぎ、潜って遊んでいた。そんな体験もあってか福岡県糸島市の海辺にもアトリエを構えている。4年ほど前までは、夏場は毎日のように、この海辺で泳いだり潜ったりしていたという。東京美術学校(現・東京藝術大学)で油絵を学んだが、1943年に繰り上げ卒業となり出征。しかし、戦地で肺を患い、内地に送還され、福岡の病院で終戦を迎えた。戦後、パリ留学を経て、画家としての地歩を築いた。野見山さんのパリ留学は31歳のときである。パリには僕が尊敬してやまない椎名其二さんがいた。野見山さんがパリに着いた1952年から、椎名さんが亡くなる75歳まで、ほぼ10年間お付き合いしたという。「モノにも人にも、あまり愛着を持たない。戦争の影響というわけではないが、どこか愛情が薄い気がするのだ」と自身を振り返っているが、野見山さんにとって椎名其二さんは特別の存在だった気がする。

 野見山さんの若かりし頃、画家はみなパリに行きたがった。しかし、そう簡単には行けない。パスポートを申請しても、絵描きには出さないと断られた。日本は貧乏国家で、外貨を持っていなかったからだ。新聞社の特派員、文部省の研究派遣でもないと行けなかった。野見山さんは、奥さんの陽子さんが見つけた「フランス私費留学生募集」の記事を見つけ、審査に通った後、長男として遺産を前倒しでと親を説得して留学を果たした。留学中、椎名さんの生き方に惚れ、影響を受け“プティ椎名”と呼ばれた。在仏実に40年、「東洋の哲人」と周りのフランス人たちから呼ばれた椎名さん。一方、ユーモア好きの椎名さんは、『Le Rire』(笑うという意味)という雑誌を集め、何冊かをまとめて革張り本にしていた。椎名さんは、この本を野見山さんに譲っている。「挿絵を眺めているだけで、人物でも風景でも絵の発想が浮かんでくる」と野見山さんは語っている。

 唐突だが、つくづく人生は出会いが大事だと思う。僕の場合、早稲田大学の学生時代(18歳)に椎名其二さん(当時71歳)と野見山暁治さん(当時37歳)を偶然知ることとなった。だが、残念ながら、優れた先達に出会いながら、自分の人生に十分生かそうとはしなかった。いま思えば、そのようなことに自覚が希薄で無関心だった。いつしか僕は、傘寿を超えてしまった。50代に、二度の脳出血をした。右半身不随の身になった上、言語障害や嚥下障害に日々、悩まされている。もう一度、若い頃に戻れるならば、椎名其二さんと野見山暁治さんからもっともっと学びたいと思う。


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野見山暁治さんと僕


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大作に取り組んでいる野見山さん


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2020年12月、生活の友社より刊行

・『異郷の陽だまり』の「あとがき」で野見山さんは「ぼくは知らないうちに追悼屋にされていた」と嘆いている。昨年12月に刊行された最新刊『どうにもアトリエ日記』(生活の友社刊)の「あとがき」にもそんな思いが綴られている。シリーズ最新刊となる本書では、2017年3月から、『美術の窓』で連載第200回となった2020年4月までの日記が収載されている。刊行する株式会社 生活の友社の創業者・一井建二さん(武蔵野美術大学油絵学科卒)が2017年に亡くなり、担当編集者として野見山さんを終始励まし続け、連載の単行本化も手掛けてきた小森佳代子さんも亡くなった。


 銀座の画廊・秋華洞社長・田中千秋さんのブログを見れば小森佳代子さんがどれどの人物だったかがよくわかる。一部を転載させて頂く。
《美術の世界で横串を通して何かを成し遂げようとしたら、知っておくべきだろう。おおきな企画をやるとか組織を作るとか本を編むとか、埋もれた情報を掘り起こし、人の前に何かを明らかにする、少し大きな仕事をするには、誰に協力を求めるのが最も適切なのかを判断し、その人を取り巻く人脈や付き合い方の機微を知らなければ、なかなか物事は動いていかない。そこで人との強い絆を作り、最大限の協力を得る事。それには、仕事への愛、人への愛が必要だ。美術の世界でそうした裏表をよく見聞きし、それでいて本人は裏表のない、明るく、情に厚く、約束を守る、広く信頼される人材が美術の世界にひとり居た。それは生活の友という会社の小森佳代子さんである。》
 まだ40代の若さで逝ってしまった小森佳代子さん。僕は小森佳代子さんとは、銀座のイタリアン・レストランで食事をご一緒したこともある。弊社で野見山さんのアトリエ日記をまとめた『アトリエ日記』、『続アトリエ日記』、『続々アトリエ日記』を刊行させて頂いた。その際には、データ原稿の手配、掲載するイラスト選びなどのお手伝いをして頂き、随分お世話になった。編集者としても素晴らしい才能の持ち主だった。野見山さんもさぞご心痛だったかと思う。心よりご冥福をお祈りする。

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