画家の堀文子さん - 加登屋のメモと写真…
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画家の堀文子さん
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印象深く魅力的だった堀文子さんとの出会い
 
・日本画家の堀文子さんが2019年2月5日、心不全のため平塚市内の病院で死去された。100歳の大台に乗って、今後、ますますのご活躍をと期待していたのに、とても残念である。僕よりも、もっと悲しんだであろう人がいる。洋画家の野見山暁治さんである。2005年には「堀文子・野見山暁治二人展」をナカジマアートで開催しており、とても親しい関係にあっただけに、さぞやお力落としのことであろうと推測する。堀さんは野見山さんより二つ年上だった。お知り合いになって40年余りというから長いお付き合いであった。
  野見山さんは堀さんについて、次のように評している。「さっぱりと雄々しく、あんなにも艶っぽい、年齢知らずの女性はそうはいない」と……。そして堀さんの絵に対する姿勢もとても評価していた。キャンバスに向かうに当たって、堀さんは真剣さを欠いた絵は絶対に許せない、というスタンスを通した。だから、いい加減な絵を描く画家とは口もきかなかったという。そもそも堀さんは、画家同士のお付き合いを煩わしく思っていた節がある。もちろん、野見山さんは除いてではあるが……。会や団体に属していても、群れるということが一切なく、孤高の画家であったといえるだろう。  

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二人展での堀文子さんと野見山暁治さん
 
・堀さんは29歳で、役人にしては進歩的な考え方をし、柔軟性があった外交官の箕輪三郎氏と結婚する。1960年、42歳の時、その箕輪氏と死別する。翌1961年、初めての海外旅行に出かける。それも3年をかけて、エジプト、ギリシア、イタリア、フランスから、アメリカ、メキシコを放浪している。さらに1995年、77歳にしてアマゾンの熱帯雨林、メキシコのタスコ、マヤ遺跡を取材。1996年には、ポルトガル、1997年には、ネパール、1998年、80歳のときには、ヒマラヤ山麓、ペルーにインカ文明など、精力的に取材旅行を敢行したものだ。さらに驚かされたのは、翌1999年には、81歳にして、幻の高山植物「ブルーポピー」を描くために、ヒマラヤ山脈にスケッチ旅行をしている。
  ブルーポピーは、5000メートル以上の高地に咲く花といわれる。それもガレ場を好んで咲く花である。富士山よりはるかに高い標高であり、そこまで登らなければ見ることができない。これだけの高地になると、この花以外は咲いていなかったというから、やはり高山植物なのだと実感できる。厳しい岩場で咲く孤高のブルーポピーは、堀さん自身の姿勢とも重なり、代表作ともなっている。堀さんはこのブルーポピーを3枚だけ本画に残している。実はこのブルーポピーに注文が相次いだという。高地に毅然と咲いている見事な青い花に、魅力を感じるのは当然である。しかし、いくら頼まれても堀さんは、それ以上、このブルーポピーを描かなかった。描けば必ず売れるのにである。いかにも堀さんらしいエピソードではあるまいか。

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高山に咲くブルーポピー
 
・その堀さんを病魔が襲ったのが、2001年、83歳のときである。「解離性動脈瘤」という病に倒れたのである。奇跡的に自然治癒に至るのだが、闘病中は思うように動くこともできない。そこで堀さんは高解像度の顕微鏡を購入し、極微の世界に惹かれることになる。顕微鏡を覗きながら、微生物の世界を描くことに熱中したのである。「すべての生き物は等しくこの世に生きているのに、人間はあまりにも傲慢になった」と日頃からおっしゃっておられたが、命の根源に触れることによって、その思いを再認識されたのではないか。
  日本画という伝統的なジャンルに属する画家でありながら、堀さんの描く絵のテーマは自由自在であり、破天荒とさえいえそうである。羽切り蟻の行進を描いたかと思えば、蜘蛛の巣と女郎蜘蛛、さらには枝分かれする脳の血管などもテーマに絵を描いている。さらに、顕微鏡による極微の世界に惹かれたわけだ。ミジンコ、クリオネ、クラゲなどの命に、温かい視線を向けられている。《微生物やくらげの不滅の命に触れたことか、私の終わりへの不安を救ってくれた。》とも書いている。こうして新境地を開拓していったわけだが、なんと自由で柔軟な魂をもっている方であろうか。

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顕微鏡を見ながら描いたミジンコ
 
・堀さんの略歴にも触れておく。1918年、東京府麹町平河町に生まれる。永田町小学校、東京府立第五高等女学校を経て、女子美術専門学校師範科日本画部を卒業している。そもそも母堂は信州松代藩の士族出身であり、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に学んだ女性であった。長崎県に生まれの日本画家であり、写実による花鳥画を得意とした荒木十畝に絵の指導を受けたという。女子美術専門学校在学中の1938年に、第2回「新美術人協会展」に入選。1940年、女子美術専門学校を卒業し新美術人協会会員。『キンダーブック』(フレーベル館)、『ふたば』などで挿画や装幀をしたりして生計を立てる。  
  1967年、神奈川県大磯に転居する。1974年、創画会の結成に参画。 1974年に多摩美術大学日本画科教授に就任。その後、多摩美術大学客員教授として日本画の指導を行う。1999年に多摩美術大学客員教授を退任。 1981年に軽井沢にアトリエを構える。1987年にイタリアのアレッツォにアトリエを構える。1992年にアレッツオ市で「堀文子個展」を開催。2011年に女子美術大学より名誉博士の称号を得る。 2001年に解離性動脈瘤で倒れて以降、微生物に着目し、海中に生きる命をモチーフとする作品を発表する。これらの作品は画文集や個展で公開された。自然の中に存在する命や、花鳥をモチーフとする作品を多く制作し「花の画家」と呼ばれた。

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弊社が刊行した著者唯一の対談集
 
・弊社との関係でいえば、堀文子さんの著書の中で、唯一の対談集『堀文子 粋人に会う』を2009年に弊社から出版させて頂いた。お蔭様で増刷にもなり、この本を出させて頂いて本当に幸せだったと思っている。この本の「あとがき」に堀さんらしい記述があるので引用する。
《会話が成立する条件とは、ムダ話を面白く膨らませることができるかどうかだと思います。お互いの思いやりがどれくらいあるかということでしょうね。ムダは損だと思っている人たちがいますが、ムダは真理ですし、美はムダの中にあるものです。
  そういうムダ話をできる人が少なくなりましたね。自慢話が入ってはいけません。成功した人は、自分の功績をいいたがりますが、自慢したい気持ちを抑えるべきです。はにかむ心を持ち続けることです。ちやほやされることが当たり前になってしまったら危険です。》
  確かにこの本に登場している対談相手を見てみると、そのような含羞をお持ちの方ばかりである。対談者と対談テーマを紹介してみよう。
「人生に老後なし」で吉行あぐりさん(美容家)、「ムダ話の長電話」で山本夏彦氏(作家)、「わが師は自然」で鈴木治雄氏(経営者)、「明治の躾」で青木玉さん(随筆家)、「情熱よ、どこへ行った」で瀬戸内寂聴さん(作家・僧侶)、「草や木や風の声」で黒田杏子さん(俳人)、「稲妻のごとく」で山下洋輔氏(ジャズピアニスト)、「出たとこ勝負の潔さ」でタモリ氏(タレント)、「極微という宇宙」で坂田明氏(サックス奏者)などなど、実に多士済済で魅力的な人たちであり、テーマではないだろうか。
  そうかといって堀さんの対人関係の要諦は独特である。親しそうに見えたとしても、馴れはしないという姿勢が一貫しているのだ。
《本当のことをいうとき、相手を傷つけないでいえるようなセンスのある人は、会話の達人です。そういう方に惹かれますが、私は馴れ馴れしくはいたしません。群れない、好かれないことをモットーにしております。
  知り合いは沢山おりますが、友だちではございません。付き合いは水のように淡く、見え隠れがいい関係ですね。師も弟子も持たず、とぼとぼと一人歩き続けてまいりましたが、いつの間にか似たものが自然に集まるのが面白いですね。》と書いている。類は友を呼ぶ、とはよくいったものである。

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堀さんと坂田明さんの対談現場で
 
 ギネス世界記録を更新中の人気番組「徹子の部屋」の背景には、黒柳さんをモデルに堀さんが描いた気高いアフガン女性の絵が飾られている。しかし、実際にお会いし、お話したインパクトにはかなわない。僕はホテル・グランドパレスで行われた、堀文子さんと坂田明さんとのミジンコ対談「極微という宇宙」の現場に立ち会い、敬愛する堀さんとお話をすることができた。そのことをとても幸せに思っている。つくづく、惜しい方を亡くしたものである。衷心より、ご冥福をお祈りしたい。

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