熊谷守一さん - 加登屋のメモと写真…
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熊谷守一さん
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「熊谷守一 没後40年――生きるよろこび展」。国立東京近代美術館で

 3月2日、清流出版からほど近い国立東京近代美術館で開催中の「熊谷守一展」を臼井雅観君と見に行った。前々から行きたいと思っていた展覧会だったので、思い切って出かけてよかった。弊社からは営団地下鉄九段下駅から1駅の竹橋駅が近いのだが、僕が電動車椅子なので北の丸公園を通って美術館まで行くことにした。これが正解だった。というのも、ちょうど公園内には、寒桜や河津桜、緋寒桜が咲き始めており、春の息吹を肌で感じることができた。

 思い起こせば、僕が小学生だった頃、熊谷守一の家を見て、印象的だったことがある。当時の町並みといえば、木造の小さな家が軒を接するように建っていたものが、そんな中で熊谷守一の家はコンクリート塀に囲まれたモダンな作りだったことを覚えている。僕は豊島区立千早小学校に通っていたが、その校門から近い場所に熊谷守一の家があった。僕の家からも東へ300メートルほど小学校、その先、熊谷守一の家は100メートル、合計400メートルしか離れていなかった。当時の僕は、芸術に目を向けることもなく、腕白なガキ大将として遊び回っていた。画家・熊谷守一より、近くにあった立教大学の野球部グラウンドの方に魅かれていた。

 僕の中学時代、神宮球場で開催される東京六大学野球で、「鬼の砂押監督」率いる立教大学は黄金時代を迎えていた。三塁手は華麗な守備と天才打者だった長嶋茂雄、ピッチャーは無類の制球力と剛腕で知られた下手投げの杉浦忠、遊撃手には堅実な守備の本屋敷錦吾がいた。いずれも後に巨人、南海、阪急と球団はそれぞれ散ったが、プロ野球を沸かせる人気スター選手がそろっていた。日本ハムの監督になった大沢啓二親分も、外野手としてこの黄金時代を支えていた。僕たちはいまでいう追っかけをしながら、野球に入れ込んだものだった。

 現在、熊谷守一の居宅は、豊島区立熊谷守一美術館となっている。また、1976年に恵那郡付知町(現・中津川市付知町)で生まれた熊谷守一の偉業を記念して、同町に美術ギャラリーを開設した。以降40年以上にわたり、熊谷守一の作品・遺品等を展示してきた。そして2015年に、次女・熊谷榧(かや)が館長となり、“つけちギャラリー”としてリニューアルオープンしている。

 今回の「熊谷守一展」の案内にはこうあった。

≪熊谷守一(明治13年昭和52年)は、明るい色彩とはっきりしたかたちを特徴とする作風で広く知られている。特に、花や虫、鳥など身近な生きものを描く晩年の作品は、世代を超えて多くの人に愛されている。その作品は一見ユーモラスで、何の苦もなく描かれたように思える。
 しかし、70年以上に及ぶ制作活動をたどると、暗闇でのものの見え方を探ったり、同じ図柄を何度も使うための手順を編み出したりと、実にさまざまな探究を行っていたことがわかる。描かれた花や鳥が生き生きと見えるのも、色やかたちの高度な工夫があってのこと。穏やかな作品の背後には、科学者にも似た観察眼と、考え抜かれた制作手法とが隠されている。
 東京では久々となるこの回顧展では、200点以上の作品に加え、スケッチや日記などもご紹介し、画家の創造の秘密に迫っている。明治から昭和に及ぶ97年の長い人生には、貧困や家族の死など様々なことがあった。しかし、熊谷守一はひたすらに描き、95歳にしてなお「いつまでも生きていたい」と語ったという。その驚くべき作品世界に、機会があったら是非、触れてみて下さい。≫

 熊谷守一は無欲恬淡としていて、かつ反骨心の持ち主でもあり、語り草になっている逸話も数多い。昭和42年、文化勲章受章者に内定して連絡を受けたのだが、「これ以上、人が来るようになっても困る」として辞退した。同様に、昭和47年の勲三等叙勲の内示を受けた際にも、「お国のために、何もしていないから」との理由で受諾を断っている。

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画家・熊谷守一(撮影:藤森武さん)

 僕は犬・猫といった動物や鳥類など生き物を特に好きでもないし、あまり興味が湧かないのだが、熊谷守一は年を経るにしたがって、ごく身近にいる蛙や蟻、猫や兎、鳥や昆虫など、さまざまな生き物を描いてきた。また、頼まれれば熊谷守一は書もよくしているが、僕も書は好きだった。健常だったころは、弊社から刊行した出版物の題字を自分流で書いたこともある。特に誰に習ったということもなく、まったくの無手勝流であった。だから熊谷守一が最晩年近くに書いた、なんとも形容のしがたい枯れた書には大いに関心があった。それと僕がリハビリの過程で体験した絵手紙への関心から、遊び心に満ちた画家のスケッチにも興味があった。

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画家がよくモチーフとした「猫」(撮影:藤森武さん)

 絵手紙といえば、熊谷守一は、弊社からも十数冊刊行させて頂いた絵手紙創始者・小池邦夫さんが尊敬する画家の1人でもあった。小池さんは、熊谷守一の油絵より特に書や素描に関心があったようだ。確かに、熊谷守一のデッサンした蛙にしても鳥にしても、一本の線でサラサラッと簡単に描いているように見える。小池さんは、「それでいながら動きがあり、鳴き声さえ聞こえてきそうだ」と評している。

「線というのは誰にでも引ける。誰にだってお喋りができるのと同じである。だが、生きた線を引けるかどうかとなると、これは大変に難しい。お喋りはできても、人を感動させるお喋りとなるとなかなかできないのと同じである」。小池さんは、分かりやすくそう説明してくれた。

 そういえば、今回展示されていた作品の中に、雨粒が水に跳ねている絵があった。ただ水溜りに雨粒が落ちて跳ねているだけの絵なのだが、不思議なことに動いているように見えた。線が生きているかどうか、という小池さんの言葉が実感として腑に落ちたのだった。

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蝦蟇カエルの素描画

 よく熊谷守一の観察眼の凄さ・鋭さを語るのに出てくる逸話がある。それは蟻の観察についてである。なんと蟻は歩き始めるときに、前足の2番目から動き出すというのだ。なんという観察力だろうか。奥村土牛も凝視して描く画家であったが、蟻をこれほどの観察眼で見ていた画家がいただろうか。多分、僕はいないと思う。

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蟻の絵

 これは余談だが、40数年前、素描に感動した小池邦夫さんは、熊谷守一宛にファンレターを書いたことがある。是非とも写真を頂けませんか、とのおねだりの手紙だったらしい。すると自らの写真の裏に熊谷守一と筆でサインした写真が送られてきたという。後日、小池さんは、熊谷守一の長男である熊谷黄(おう)さんに会う機会があった。小池さんがその話をすると、「それは父がよっぽど機嫌のいいときだったんでしょう。めったにそんなことをする人ではありませんよ」と言ったという。小池さんの手紙が、画家の心を揺り動かすだけの魅力ある手紙だったのだ。絵手紙創始者・小池邦夫の面目躍如たる逸話ではないだろうか。


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98歳、最晩年の作。白洲正子が所蔵していた

 身近にもう一人、熊谷守一ゆかりの人物がいる。それが写真家の藤森武さんである。藤森さんは土門拳の弟子として知られている。弊社刊行の豪華本『独歩―辻清明の宇宙』(3万2400円 2010年8月刊)でもお世話になり、月刊『清流』でも、大島在住の染色家・陶芸家として知られる菅原匠さんの連載でもお世話になった。その藤森さんは、30代の若かりしころ、3年間にわたって熊谷守一邸に通い詰め、写真集『熊谷守一の世界 獨樂』(世界文化社刊)を出しておられる。この間、3000枚もの写真を撮ったというから半端ではない。

 それにしても写真嫌いで知られる熊谷守一が、自宅でくつろぐ写真、ましてや油絵はいつも夜に描くという熊谷守一が、真昼間に絵を描いている写真まで撮らせているとは驚きであった。余談だが、師匠の土門拳も熊谷守一を撮っている。それは昭和23年9月のことで、当時、68歳だった熊谷守一が庭であお向けに寝転んでいる珍しい写真だった。美術雑誌に依頼されて撮影されたものだが、熊谷守一を師弟が撮った珍しいケースということになる。

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藤森武著『獨樂』(世界文化社刊)

『獨樂』を見ると、驚くべきことに熊谷守一が藤森さんを撮った写真が載っている。これではどっちが写真家か分からない。調べてみると、熊谷守一の写真歴は長く、手製の写真機を作っていたほど。そのお手製写真機でよく写真を撮っていたというから筋金入りの写真通なのだ。そんな人のお眼鏡に叶ったのだから、藤森武という人物も大したものである。

 写真集には熊谷守一が、好きなパイプ煙草をくゆらしながら寛ぐ姿がある。草が生い茂った庭を、掻き分けるように散歩している姿がある。画室で絵を描いている姿も家族団らん風景も載っている。晩年の熊谷守一は、ひがな一日、庭に腹ばいになって、あるときは寝っ転がりながら、小さな生き物を観察し続けていた。土蜘蛛がいたり、蟻がゾロゾロ歩いていて、蛙や蝶々もいた。よく見れば、熊谷守一の庭には、画題となる生き物がいくらでもいたのである。

 僕は、こんな写真をよくぞ撮らせたものだと思った。藤森さんは、画家の没後20年に大量に発見された未発表のデッサンと水墨画を集大成した『虫時雨』を、また書家の書を超えるとまでいわれた150点の書に焦点を絞って編集された『無一物』も同じ世界文化社から刊行している。実際、今回没後40年展を見て、作品の魅力を再発見した。藤森さんの本がいずれもロングセラーでいまも売れているというが、さもありなんと納得したのであった。

 じっくりと鑑賞し、心豊かな気分になった僕たちは、竹橋の毎日新聞社地下街にある北海道料理の店で、北海道直送の新鮮な魚料理に舌鼓を打った。そして、僕は初めて、その店でじゃがいもの本格焼酎を呑んだのだ。これが思いの外、美味しかった。会社に帰ってから、先ほど呑んだ「じゃがいも焼酎、北海道清里(原酒)、44度」の値段を見てびっくりした。お値段もそれなりだったのである。ともあれ目の保養をし、新鮮なお刺身をつまみに、初めてのじゃがいも焼酎を楽しんだ。大いに満足のゆく一日だった。

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