2018.02.23椎名其二さん、山内義雄先生

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在りし日の椎名其二さんと僕。椎名さんは6畳一間に住み、家財道具も少なかった。後日、フランスへ帰る際、椎名さんから、自ら製本装丁した総革の美しい本を3冊頂戴した。僕の大切な宝物だ!

・前号の野見山暁治さんを書いた際、「椎名其二さん」のことを次号で書くことを約束した。僕が敬愛し、生涯忘れえぬ孤高の人・椎名其二さんだが、その前に、椎名さんを僕たちに推薦してくれたフランス文学の泰斗・山内義雄先生にも触れておきたい。1959(昭和34)年、早稲田大学第一政治経済学部に入学、僕は大学生となった。早大高等学院時代に僕は、第2外国語はドイツ語で、大学でもドイツ語を選んだが、フランス語にも興味があり、機会があったら学びたいと思っていた。幸い、第一外国語にフランス語を選択して第一政治経済学部に受かった2人の友人がいた。麻雀卓を囲むなど親密なお付き合いをしていた仲間で、一人は早大高等学院時代からの長島秀吉君、もう一人は暁星高校からきた神本洋治君だった。僕は念願していた通り、聴講を許可され、フランス語授業を受講できた。
 その心の広い先生が、『狭き門』(アンドレ・ジット)や『チボー家の人々』(ロジェ・マルタン・デュ・ガール)、『善意の人々』(ジュール・ロマン)、『地獄の一季節』(アルチュール・ランボー)等の名翻訳で知られた山内義雄先生だった。山内先生は1894(明治27)年生まれ、1973(昭和48)年に逝去された。享年79。1915年(21歳)に東京外国語学校を卒業され、家庭の事情で、第一希望の京都帝国大学文学部ではなく、法学部に入学されたが、文学部上田敏教授が急逝するまでの1年余り、上田敏教授の講義を聴き、直接の薫陶も受けた。1918年に、経済学部に転部するも、1921年、ポール・クローデル大使が来日することを知り、東京帝国大学仏文科専科に転じている。26歳上のクローデル大使の知遇を得て、フランス語の才能を認められた山内先生は、1927年初めの離日まで繁く行動を共にし、舞踊劇『女と影』(1922年、帝国劇場)、詞華集『百扇帖』(1927年、新潮社刊)など、大使の滞日作品の出版、上演に尽力したのだった。クローデル大使から、「完全なフランス語を話す青年」と評された逸話の持ち主である。
 そもそも山内先生は、中学生の頃から、永井荷風と上田敏の訳詩によりヴェルレーヌやボードレールを知り、原書を輸入して読んだというから、そのフランス語の語学力たるや半端ではなかった。レジオン・ドヌール、シュヴァリエ勲章を受章し、日本芸術院会員でもある。逆算すると、僕は山内先生が64歳の時、お会いしたことになる。結果としてフランス語や文学、法律、経済などを教えていただいた。広く深く、そして世俗的と学術的双方に深い関心をお持ちの方であった。このような方に出会えたことは、まさに僥倖であり、幸運であったというしかない。僕の人生にどれほど強い影響を与えたか、計り知れないものがある。
 
・ある時、長島秀吉君と僕は、新入生がめったに行かない大学院校舎の廊下で、山内先生が書いた張り紙を見て、滞仏四十年の椎名其二さんを知る。その文章を控えてあるので披露する。

≪椎名其二さんのこと―――――――――――――山内義雄   
 滞仏四十年といっても、それは椎名さんの場合、簡単に言いきれないものがあります。最近、『中央公論』に連載中の滞仏自叙伝によって御承知の方もあろうと思いますが、永い滞仏中、終始フランスの思想、文化、社会、政治にわたっての巨細な観察と犀利な批判につとめられた椎名さんのような方は、けだし稀有の人をもってゆるされるだろうと思います。そうした椎名さんのフランス語については今さら言うまでもありませんが、語学を通じて、さらに語学を踏みこえて、フランス文化の骨髄をいかにつかむべきかについての椎名さんの教えは、聴くべきもの多々あることを信じて疑いません。
 かつて一旦帰朝の際、吉江喬松博士の招請により早稲田大学フランス文学科に教鞭をとっておられたころの椎名さんのお仕事には、バルザック、ギーヨマン、ペロションなどの文学作品の翻訳とともに、ファーブル『昆虫記』の翻訳がかぞえられます。文学者であるとともに科学者であり、さらに一個哲人のおもかげある椎名さんの祖国日本に帰られてからのお仕事には、大きな期待を禁じ得ないものがあります。≫
 この文章を見て、僕ら二人は勇み立った。長島君はフランス語がすでに大学院生レベルにあったが、僕はまだ初心者のレベルであった。だが、どうしてもこの滞仏四十年の椎名其二さんにお会いしたくなった。フランス語の習得にも猛然と興味が湧いてきた。 

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山内義雄先生の遺影の前にワインを捧ぐ。山内先生と、もう1杯は故・長島秀吉君のため

・話は変わるが、わが清流出版の位置する九段・俎橋(まないたばし)の近辺は、かつて山内先生が東京外国語学校時代によく足繁く通った洋書専門古書店の「堅木屋」があった場所である。明治44年頃の話で、今から107年前になる。いまはもうない古書店のあった俎橋近辺で、僕は清流出版という仕事場にする。これは山内先生によるお導きだと思っている。

・椎名其二さんは、1887(明治20)年秋田県角館の生まれ、1962(昭和37)年没。山内先生に比べると、7歳年上だった。「アミチエ(友情)は大いに受けるが、モノとかカネの援助は要らない」を信条とし、毅然として清貧の道を歩んだ方だ。長島君と僕はこの老人に心底惚れ込んだ。あとで分かったことだが、椎名さんは早稲田大学文学部を中退し、渡米して、アメリカのミゾーリ州立大学新聞科を卒業している。作家の近藤信行さんの文章を借りると――
≪名利をもとめなかった椎名さんの生き方は、『舞姫』の主人公とは正反対のものだった。……早稲田に学んだが、安部磯雄の示唆によってアメリカにわたり、ミゾーリ州立大学の新聞科を出た。セント・ルイス、ボストンでの記者生活ののち、ジャン・ジョレス、ロマン・ロランにあこがれてフランスにわたる。英国の詩人カーペンターの紹介でポール・ルクリュと知りあい、南仏ドンムのルクリュ家の学僕となったが、これが椎名さんの一生を決定したといえるだろう≫。
≪日本を脱出した石川三四郎と出会ったのも、このルクリュ家においてであった。ロマン・ロランの『大戦下の日記』のなかに、椎名さんはクルュッピ夫人の農場ではたらく一日本人として「彼は非常に聡明で、教育があり、洗練された礼儀と清潔さとを身につけて」いると描かれているし、クルュッピ夫人はロランにあてて「私は彼を、かなりトルストイ的な、働くべきであるからには、最良の労働は土のそれだと感じている社会主義者なのだと思います」とかいている。≫――『ある生涯』(近藤信行)、同人誌『白描』創刊号。
 近藤信行さんは中央公論社の名編集者で、月刊『中央公論』に執筆していただこうと、帰国したばかりの椎名其二さんに依頼された。ご本人が自分の人生で何も語るものがないとして書くのを断っていたのに、「自由に焦れて在仏四十年」「石川三四郎のことなど」「パリで知った黒岩涙香」「佐伯祐三の死」などを聞き出して、連載をものにした。だが、当時、嶋中鵬二社長は、「貧乏たらしい話で嫌い」と周囲の人に漏らしていたそうだ。その後、1969(昭和44)年、文芸雑誌『海』の創刊編集長になったが、1976(昭和51)年、『海』編集長の職を辞し、中央公論社を退職した。そして1978(昭和53)年、『小島烏水――山の風流使者伝』(創文社刊)で大佛次郎賞(第5回)を受賞した。これは453頁もの大著で、山岳文学研究の傑作だ。近藤さんは、「椎名さんに惚れ込んだがために、結局、会社を辞めた」としか言いようがない。
 
・椎名其二さんは、このような経緯を経てフランスへ渡った。そして、「東洋の哲人」と周りのパリ人たちから呼ばれた。住んでいるところは、「ヨーコと暮らしたパンテオン脇の小路、すぐ傍らのルクサンブルグ公園。それを右へ辿った、椎名さんの、半地下の棲家。いくらか様子を変えてはいるものの、そのまま静かに横たわっている」(野見山暁治『じわりとアトリエ日記』2016年10月17日)。その棲家は、70年後も静かに横たわっているというのが野見山さんの証言だ。ある時、作家の芹沢光治良さんが半地下の椎名さんを訪ねた。その状況を帰国後、小説『女の都』に書いている。椎名さんはそれを不快に感じたそうだ。
 椎名さんは成人してからの日本滞在はたった2回だけ。1回目は1922(大正11)年から1927(昭和2)年にかけて5年ほど、2回目は1957(昭和32)年から1960(昭和35)年にかけての3年ほどで、8年にも満たない短いものだった。2回目の日本帰国は、故郷の秋田に労働大学を作る動きがあり、その学長として椎名さんに白羽の矢が立ったのだった。70歳の椎名さんはふるさとに骨を埋めるつもりで、妻子に永の別れを告げ、単身日本に帰ってきた。しかし、その労働大学の構想は頓挫してしまう。故国は決して思い描いたような国情になく、≪終の棲家≫とはなりえなかったのだ。椎名さんは、深い傷心を抱えてフランスに帰ることになる。いわば椎名さんの生涯で、2回目の日本に幻滅しての旅立ちであった。
 僕は19歳の時、山内義雄先生の薦めで70歳だった椎名さんにお会いし、ほぼ2年半、その謦咳に接することができた。 椎名さんはよく、エマーソン、ソーロー、ホイットマンの話をしてくれた。1959年頃のわが国といえば、人心は乱れ、心は貧しく、物情騒然たる状況であった。物事を真剣かつ誠実に受け止める老人の目には、耐え難い世の中に映ったはずだ。エマーソン、ソーロー、ホイットマン等の名前など、およそまだ誰の口の端にものぼらない時代だった。また、ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ジャン=ジャック・ルソー、ビュッホン、コンドルセ、ジャック・テュルゴー……以下、百科全書派(アンシクロペディスト)にもよく話題が及んだ。知的好奇心が旺盛だったわれわれには、大いに心刺激されるお話だった。

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「早稲田大学フランス友の会」に出席し、演壇に立つ椎名さん。山内義雄先生が「一目でいいから、お顔を学生に見てもらいたかった」と

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前列中央が椎名其二・マリー夫妻、後列左から息子のガストン夫妻、野見山暁治・陽子夫妻、安齋和雄、蜷川譲の各氏

・その椎名其二さんが野見山暁治さんを紹介した文章がある。

≪野見山暁治氏は今三十八歳だが、八年間パリで絵が売れようと売れまいとその道に精進している、既に大家の域に入った画家である。 昨秋、ブリヂストン美術館で五十点内外の個展を開いた時は、批評家及び一般の観賞者に驚きの眼を見張らせ、その作品によって1958年度安井記念賞を得たのであった。 僕はその絵画に対する態度及び人間などに関する点で彼を思うとき、佐伯祐三を連想せずにはいられない。後者は若くして死んだ。野見山は今後益々我々の嘱望を裏切ることはないであろう。    椎名其二≫ 

 この紹介文のあと、僕の人生にとって思い出深い文章が続いている。 
「今度、椎名先生がフランスに帰られるための旅費として野見山画伯よりデッサンの寄贈を受けましたので、左記の次第で配布することに致しました。宜しく御協力の程御願い申上げます。    椎名先生の会」 

 日付は1959年10月6日である。もちろん、大学2年生だった僕も野見山さんのデッサンを早速買い求めた。つまり、野見山さんは、尊敬する椎名さんがパリに帰るための旅費を、自ら描いたデッサンの提供によって捻出したことになる。 

・類い稀な知性とユーモアに溢れた椎名老人が、たまたま翻訳した『出世をしない秘訣』(ジャン=ポール・ラクロワ作、椎名其二訳、理論社刊)が売れて翻訳印税を手にしたとはいえ、他に確たる収入もない。日本での生活も楽ではなかった。だからフランスに帰る旅費を工面するなど、できるはずもなかった。見かねたパリ在住の野見山さんが助け舟を出したのだ。その時点で僕は、まだ野見山さんとお会いしたことはなかった。野見山さんの絵を購入し、いくばくかの旅費を負担しただけだった。野見山さんは1964年にフランスから日本に帰国された。その後、いつだったかは忘れたが、この義侠心に厚い気骨の画家にお会いできたのは望外の幸せだった。

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秋田・角館にある新潮社記念文学館で椎名其二さんの展示パネル。このコーナー、石川達三、高井有一氏らと並んでいる

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作家の芹沢光治良さんとお別れの挨拶する椎名其二さん。左後ろに近藤信行さん
 
・月刊『清流』1998(平成10)年2月号に、近藤信行さんが、「清貧に生きる」の一例として、「自由人として、生きる喜びを大切にした椎名其二さんのこと」と題し、原稿を執筆してくれた。その文章の冒頭に「モリトー良子(装丁作家)がドイツから帰ってくると、必ず声がかかってきて集まる会がある」と書かれている。そのメンバーとは、野見山暁治さん、岡本半三さん、安齋和雄さん、そして執筆者・近藤信行とある。ある時、私は帰国中のモリトー良子さんにお会いした。椎名其二さんと親しく交流したほどの人である。人間的な魅力が滲み出ている素晴らしい女性だった。その時の縁で、ドイツで月刊『清流』を定期有料購読してくれたが、今もご健在なのかは、10年以上経ったいまでは分からない。

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野見山暁治さんを中心に会席料理の「銀座大増」に集まった。2006年5月3日、あれから12年が経った

・「滞仏40年で、モラリストであり自由人だった」椎名其二さんの縁にまつわる人々の集まりだ。この日は、たまたまドイツからモリトー良子さんが日本に戻っていたため、僕たちにお声をかけてくださった。右から野見山さんの本の編集した野本博君、曽禰知子さん(モリトー良子さんの妹、ご主人は元東急ハンズ社長)、野見山暁治さん(2005年12月菊池寛賞受賞。2006年2月わが社から出た『小熊秀雄童話集』に「池袋モンパルナスと小熊秀雄」と題し、窪島誠一郎さんとの対談を収録。文化功労者顕彰、文化勲章受章)、加登屋、モリトー良子さん(在ドイツ。椎名さん直伝の製本家。令弟は住田良能元産経新聞社社長)、安齋和雄未亡人の美恵子さん(この会の常連で早稲田大学教授の安齋和雄さんは、先年お亡くなりになった)。近藤信行は夫人、近藤信行さん(作家・評論家、元山梨県立文学館長、元中央公論社の名編集長)、山口千里さん(野見山暁治さんの秘書)、岡本半三さん(画家。10歳で奥村土牛、23歳で安井曾太郎と日本画と洋画の両巨匠に師事。1951年一水会展入選後、フランスへ留学。その際、野見山暁治と椎名其二両氏と知り合った)、高松千栄子さん(岡本半三さんのパートナー)。
 当日、僕は、椎名其二さんにいただいたHan Rynerの装丁本を持って行った。すると、安齋美恵子さんがHan Rynerはどのように発音しますかと質問された。僕は椎名さんの受け売りに説明した。その結果、亡夫・安齋和雄さんのHan Ryner選集6冊を送ってくれた。いっぺんに僕はアン・リネルの研究家になった気分を味わった。
 
・もう一つ付け加えるなら、椎名其二さんはパリで哲学者アランの全集を持っていた。アランは、1950年に亡くなっているが、椎名さんはアランについてよく口にした。2回目の日本帰国に際して椎名さんは、その全集を東京大学教授の森有正(もり・ありまさ)さんに譲った。その間の事情をよく知る森さんの弟子、作家・立教大学助教授の辻邦生(つじ・くにお)さんに僕が当時、ダイヤモンド社で編集に携わっていた月刊誌『レアリテ』に「森有正氏の書斎」と題し書いてもらった。今にして思えば、椎名さんは、アランに深く学んだほうがよいとの親心で、森有正さんに譲ったのではないか。それを機に、森有正さんの書斎には「アラン・コーナー」ができた。辻邦生さんも恩師の書斎について書きたいと思っているはずと、30歳の編集者だった僕は考えた。辻邦生さんは喜色満面、締切りの大分前に原稿を完成してくれた。その後、何かというとお声がかかり、池袋の喫茶店に呼んでくれ、楽しい会話をした。辻邦生さんには、経済雑誌の会社ダイヤモンド社を辞めるべきか、人生の選択などいろいろとお世話になった。あと僕が最初の翻訳書『敗戦国の復讐――日本人とドイツ人の執念』(マックス・クロ、イブ・キュオー著、嶋中行雄・加登屋陽一共訳 日本生産性本部刊)を贈呈した時、丁寧な言葉で激励されたことは僕にとって誇りである。 

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栃折久美子さんの著装幀になる『森有正先生のこと』(2003年、筑摩書房刊)
 
 話は変わって、森有正さんが55歳の時、運命的に16歳年下(39歳)の女性に出会う。お相手の装幀家・製本工芸家・エッセイストの栃折久美子さんは『森有正先生のこと』をお書きになったので、読めばおおよその関係は分かる。栃折久美子さんは、筑摩書房を経てフリーのブック・デザイナーとなったが、ベルギー国立高等視覚芸術学校でルリユールと呼ばれる製本技術を学んだ。そして、森有正さんの死に至るまで10年間に亙る恋が描かれる。日記を元にした追想形式で、冷静かつ繊細な心情描写で大人の恋に触れている。
 かつて森さんが一回目の結婚をした時も、離婚だの新しい恋人だの騒がれたことがある。そのことを椎名其二さんから、「東京大学の偉い先生も自分のことになると全くだめだな」と揶揄されたと聞く。栃折久美子さんの親友の一人がモリトー良子さんである。モリトー良子さんは、椎名其二さんにルリユールを学び、栃折久美子さんとの共著『ルリユール(Reliures)製本装釘展覧会カタログ』 を出されている。
 まだまだ椎名其二さんのことは書き足りないが、この辺で、ペンを擱くことにする。また、機会があればお話したい。