小林薫さん - 加登屋のメモと写真…
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小林薫さん
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小林薫さん

・今回ご紹介する人は、あのNHKの大河ドラマ『おんな城主 直虎』に出演中のベテラン俳優・小林薫さんではなく、同姓同名の国際経営評論家・産能大学名誉教授の小林薫さんだ。1931年、東京生まれ。東京大学法学部を卒業し、フルブライト・プログラムでマンハッタン大学に留学、経営学を学んだ。興亜石油、日本能率協会から月刊誌『プレジデント』(1963年創刊、ダイヤモンド・タイム社=当時、現在プレジデント社)の編集部に所属、日米会話学院(同時通訳科、秘書科主任)を経て、産能大学経営情報学部教授になった。専門は国際経営評論であり、ピーター・F・ドラッカー博士に関しては特にお詳しい。僕はダイヤモンド社に勤めていたが、その子会社であるダイヤモンド・タイム社に勤めていた小林さんとは、仕事上の接点があった。後で触れるが、二十代後半の頃、年齢で9歳上だった小林さんと、さる会場で講師を務めたことがある。

・今、小林さんに注目したのには訳がある。先日(3月16日)、日本経済新聞(日経BP社)に、小林薫訳の『ハイアウトプット マネジメント HIGHOUTPUT MANAGEMENT――人を育て、成果を最大にするマネジメント』(アンドリュー・S・グローブ著)という本が半五段広告で大きく告知されていたのだ。調べてみると、amazon第1位(ビジネス・経済 実践経営・リーダーシップ 経営学 2017年3月14日)にランキングされていた。インテルの元CEOのアンドリュー・S・グローブが書いた本である。あのドラッガーも絶賛していたが、シリコンバレーのトップ経営者層に読み継がれている伝説の名著だ。ベン・ホロウィッツ(あらゆる困難《ハード・シングス》へ立ち向かう人に知恵と勇を与える本『HARD THINGS』の著者)が、「世界最高の教師による 世界最高の経営書だ」と序文を寄せている。そんな広告のキャッチ・コピーが僕の目に飛び込んできて、僕はとても嬉しかった。小林さんは僕が兄事すべき存在だったからだ。

・小林さんは英語にすこぶる堪能であり、当時、英語でビジネスを語る際には、必ずといっていいほど名前が挙げられる方であった。現に『プレジデント』を辞めた後、NHK教育テレビで「英語ビジネスワールド」の講師として、また同じNHK教育テレビで「英語で勝負」にも出演されている。その「英語で勝負」の内容は、英語交渉術のABC(日本の「常識」は「非常識」)に始まり、交渉の前提としての自己主張のあり方、クレームという名の交渉法、子供はなぜ交渉上手か? Win/Win交渉への道、前向き交渉成功のカギ、人も歩けば客に当たる、雄弁こそ金なり――「会して議する」ビジネス会議等々、ビジネスマンのニーズに応える内容満載の番組だった。

    アメリカのASTD(American Society for Training & Development=米国人材開発機構)は非営利団体で、訓練・人材開発・パフォーマンスに関する世界最大級の会員制組織だったが、日本人として小林さんは早くも1981年に入会されている。その他にも、ドラッカー学会、国際ビジネス研究会、組織学会、米国教育訓練学会、欧州経営開発学会などに所属し、米国経営近代化学会(SAM)国際理事兼日本支部長、人材育成学会副会長などを務めていた。また、P・F・ドラッガーとは約50年に及ぶ親交を結び、ダイヤモンド社から刊行されたドラッカーの『21世紀の企業経営』(ビデオ8巻+解説書)の総監修や、『経営の新次元』『新しい経営行動の探求』などの訳出も行なっている。

・弊社でも、外国版権担当顧問の斎藤勝義(元ダイヤモンド社)さんを通じて小林さんとコンタクトを取ることにした。小林さんとP・F・ドラッカーの自宅を訪問し、アメリカのブックフェアでも行動を共にし、親交があった斎藤さんを介して、単行本の執筆をお願いしたのだ。結果的に、弊社から小林さんの翻訳で経営書を二冊と、産能大学教授の退官を記念して一冊本を書き下ろしていただいた。若い頃から僕が憧れた小林薫さん。その小林さんの本を、弊社から刊行できたことは、嬉しかった。

    そもそも弊社の単行本部門は、ビジネス分野をメインとはしていなかった。しかし、企業(ビジネス)倫理を追究する本は時代の要請でもあり、刊行することにしたのだ。最初の翻訳本は、『企業倫理の力――逆境の時こそ生きてくるモラル』(K.ブランチャード+N.V.ピール、2000年)だった。この本は、企業は利潤追求を優先すべきなのか、ビジネス倫理を重視すべきなのか。また、利潤追求とビジネス倫理は両立できるのかなど、企業倫理について考える実践書として秀逸だった。もう一冊は、『一度の人生だから――自分でデザインする生き方』(ロバート・オーブレー、2001年)。後悔しない人生を送るために、世界の知性が語った人生の奥義を披露したものである。この訳書には、小林さんが訳者補論として「空恐ろしくなるこれからのキャリア革命」(変化していく社会で、学ぶため、生きるために、学習することを学習する)について特別に論じている。

    退官記念に出した本は、『世界の経営思想家たち――ピーター・F・ドラッカーほか三十余人』(小林薫著、2005年)である。世界の経営思想を訳出してきた小林さんなればこその内容で、世界の経営学を俯瞰するとともに、そうした経営理論を日本がどう取り入れながら経済発展してきたかが一望できる構成となっていた。わけてもドラッカーとの交流歴をベースにしたまとめが素晴らしい。用意周到な小林さんらしく、脱稿直前にクレアモント(ロスの郊外)のご自宅に伺って、95歳の恩師ドラッカーと打ち合わせを済ませてきたという。

・詳しく説明すると、基本的には、日本的経営が世界から何を学び、どこへ向かおうとしているのかを追究したもの。世界の経営思想を見てきて、数多くの先進的な世界の経営思想を日本に紹介したが、その中から厳選した三十余名の欧米の学者、思想家、経営者たちの理論、概念などのエッセンスを浮き彫りにした。小林さんによると「読める小エンサイクロペディア・グロサリー」を狙った企画だ。特に「恩師」と仰ぐP・F・ドラッカー、グローバル経営コンサルタントである畏友スティーブン・H・ラインスミス(全米人材開発機構会長)、フランスを中心に活躍する国際的経営教育コンサルタントのボブ(ロバート)・オーブレーなどの理論、概念、ビジネスモデルなど、詳しく述べている。

    章立ては全9章から構成。著者は本書を通し、日本経済や経営システムの見直しや、革新が迫られている今日、これまでの理論や技法を振り返り、評価し、取捨選択し、次に進むべき方向を模索するための「新たなきっかけ」になることを願っていた。その意味で、期待に十分応える一冊であったといえよう。 


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『世界の経営思想家たち――ピーター・F・ドラッカーほか三十余人』


・小林薫さんの翻訳書は、目ぼしいものでは、『1分間マネジャー』(ダイヤモンド社)、『タバコ・ウォーズ』(早川書房)、『苦手な英語に自信がつく本』(ジャパン・タイムズ)、『問題解決と意思決定』(ダイヤモンド社)、『英語通訳の勘所』(丸善)、『ドラッカーが語るリーダーの心得』(青春出版社)、『会社の数字―英語表現完全マスター』(アスク)、『ビジネス英語の落とし穴』(丸善)、『知力創造社会』(産能大学出版部)などがある。

    冒頭の『1分間マネジャー ―‐何を示し、どう褒め、どう叱るか!』(K.ブランチャード著、ダイヤモンド社、1983年)は、発売と同時に、ベストセラーになって、多くのビジネスマンに読まれた。普通、「有能なマネジャー」は大抵、業績に関心を持つ「タフな独裁者」か、部下に関心を持つ「ナイスな民主主義者」のいずれかだが、どちらも失格である。「有能なマネジャー」とは、自分自身を管理し、一緒に働く人も管理し、組織や同僚にとって存在そのものが利益になるような存在でなければならないと言う。

    そして、「有能なマネジャー」に代わるものとして新しい概念を提案した。すなわち新概念の「1分間マネジャー」とは、部下から大きな成果を引き出すのに、ごくわずかな時間しかかけない。週1回のミーティングで、前週の実績、翌週の計画を確認する以外に時間を割かない。部下の仕事をよく分析して「1分間の目標設定」「1分間の称賛」「1分間の叱責」の3つを行なう。

    著者と訳者の小林さんとの相乗効果で、この1分間シリーズは、続編が誕生した。『1分間マネジャー 実践法――人を活かし成果を上げる現場学』(1984年)、『1分間リーダーシップ――能力とヤル気に即した4つの実践指導法』(1985年)、『1分間顧客サービス――熱狂的ファンをつくる3つの秘訣』(1994年)。最後の本だけは、僕のよく知っている門田美鈴(『チーズはどこへ消えた?』の訳者)さんの翻訳だったが、他はすべて小林薫さんの訳出で刊行されたものだった。


・話は変わるが、約50年前(僕がまだ二十代の後半)、僕はダイヤモンド社で、全子会社10社を含めた幹部社員を集めたコンベンションの演壇に立ったことがある。会場は千鳥ヶ淵の「フェアモントホテル」であった。たまたま僕の前に小林薫さんが講師として話をされた。小林さんは得意の英語を織り交ぜ、経営学の最前線の現状を披露された。僕が話したテーマは、「フランスの出版事情と高価格雑誌の可能性」だった。フランスの『レアリテ』誌や英米の高価格雑誌を研究する僕にとって得意なテーマだった。それにしても今にして思えば、子会社10社を含めた幹部クラス約80名の前で、まだ二十代のヒラ社員だった僕に発表の場が与えられたのは異例であった。子会社の『プレジデント』誌を出すダイヤモンド・タイム社の精鋭だった小林薫さんは、実に堂々と話をされたのを覚えている。僕もクソ度胸で話をしたが、いい思い出である。それから30年ほど経った56歳の時、僕は週5日、清流出版社長としてこの「フェアモントホテル」を定宿にしていたが、脳出血に倒れてしまった。あまりも一国一城を預かる身として、情けない! 「フェアモントホテル」は千鳥ヶ淵にあり、桜のシーズンには格好のお花見スポットとして知られたものだ。そのホテルも2002年、創業から約半世紀を経てホテルとしての使命を終えた。今は豪華マンションになっている。

 

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清流出版を訪れた小林薫さんと

・弊社の海外版権担当顧問(元ダイヤモンド社)の斎藤勝義さんは、小林薫さんとはドラッカーのつながりで長い付き合いだ。お二人の年齢は、現在、斎藤さんが83歳、小林さんが86歳。ダイヤモンド社の傍系で株式会社ポートエムPort EM [Port of Effective Management ] (代表取締役・国永秀男)という会社がある。この会社は、東京と大阪でドラッカー塾を開講している。P・F・ドラッカー教授の卓抜したマネジメント理論を企業経営にどう活かせばよいか、最終決定権のあるトップリーダーが身につけるべきマネジメントの真髄を徹底的に学ぶというのがコンセプト。それぞれのコースにおいて、膨大なP.F.ドラッカーの経営論の中でも、 核となる理論を捉え、分かり易く解説すると共に、実践の場では、どのような視点で考え、適用していくことができるのかを、具体的な事例をまじえて学ぶことになる。この会社のアドバイザーとして名を連ねていたのが、小林薫さん、斎藤勝義さん、上田惇生(ものつくり大学名誉教授、立命館大学客員教授、ドラッカー学会代表)さんの3人であった。

    ここからは、斎藤勝義さんから聞いた話をかいつまんでお伝えする――実は小林さんから斎藤さんに、ドラッカー研究をしている優秀なゼミ生3人をドラッカー博士に引き合わせたいのでアレンジしてくれませんか、との依頼があったのだという。それに加えて、前述したドラッカー塾の主宰者ポートエム社長の国永秀男さんからも、ドラッカー塾で討議された理論上の疑問点を直接尋ねたいとのことで、斎藤さんが日程のアレンジを託された。斎藤さんは、ファクスと電話でやりとりして日程を調整、最終的に2004年5月28日にアメリカ、クレアモントにあるP・F・ドラッカー博士のご自宅を訪問することが決まった。一行は小林さんグループが生徒を含めて4人、国永さんがご夫妻でということで、斎藤さんを含め7人での訪問となった。その日は気持ちよく晴れわたり、ドラッカー夫妻も温かく一行を出迎えてくれた。10時半から12時近くまで、和気あいあいとした雰囲気の中で疑問点を解決し、歓談してドラッカー宅を辞した。

    その後、一行はワイナリーなどを見学したりして、小林さん、斎藤さん、国永夫妻は夕方にはロサンゼルスの「ホテルニューオータニ」に戻った。ビールやワインを飲みながらの反省会は、大いに盛り上がったという。斎藤さんと国永さん夫妻は、翌日、朝9時半にはハリウッド見学に出かける予定であった。小林さんはというと、翌日、東京でのアポイントが入っているというので、朝8時半に迎えの車を手配して、その日のうちに日本に発つ予定だった。そして次の日の朝7時頃、斎藤さんと小林さんは一緒に日本食での朝食を済ませ、小林さんは8時10分にはロビーに降りると斎藤さんに伝えて部屋に戻った。斎藤さんと国永さんは、見送りだけでもしようと8時にはロビーに降りて待っていた。ところが約束の8時10分を過ぎ、30分になって、迎えの車も来ているのに、小林さんが一向に降りてこない。小林さんは時間に厳格な人で知られ、余程のことでもない限り遅れることなどない。

    そこでホテルのマネジャーを呼んで、小林さんの部屋をあけて調べてもらったところ、ドアの近くに身支度を済ませ、荷物も準備したままの格好で、小林さんが倒れていたというのだ。一目見て、脳梗塞か脳出血かが疑われた。手だけを動かして小林さんは、何かを伝えようとしていたが、その何かは分からなかった。これからが大変だった。時間との勝負になるからだ。至急、ホテルマンに救急車の手配を頼むとともに、日本の小林さんの家族にも連絡しなければならない。10分ほどで救急車が到着した。斎藤さんと国永さん夫妻は、その後の日程を変更し、ロスの病院まで同乗して行くことになった。アメリカの場合は、救急車といえども誰が支払いをするのかをはっきりさせ、サインしてからでないと動かない。「ロサンゼルス カウンティ デパートメント オブ メディカルセンター病院」に到着してすぐに、専門医が診察をした。斎藤さんは手術に付き添い、国永さんは旅行保険関係の問い合わせをする――。

    ご子息の小林豊さんが日本から駆け付けたのが約1週間後のこと。小林さんは、術後1ヶ月ほど経って、病状が安定してくると、日本で治療して欲しいと切望するようになった。しかし、医師からは飛行機のファーストクラス、それも看護師が付き添いでなければだめだという。家族が手を尽くすも、同乗してくれる看護師の手配はつかず、アメリカでの入院は3ヶ月間にも及んだ。小林さんの教え子が聖路加病院にいるというので、このつてで看護師をなんとか手配して、飛行機への搭乗が許され、ようやく日本の地を踏んだのである。小林さんは、リハビリ施設として一級の病院を選んだ。ホテルのようなエントランスに屋上庭園と、医師が常駐する充実した施設で知られる「初台リハビリテーション病院」等でリハビリに精を出した。

    小林薫さんが一度、杖を突きながら弊社を訪ねてきたことがある。その時、僕が乗っていた電動車椅子を、興味津々の表情で見ておられたのを覚えている。


    そして今年、2017年、2月に入ってすぐのこと、斎藤さんはご子息の小林豊さんから衝撃の連絡をうけた。小林薫さんがお正月の1月1日に亡くなっていたことを知らされたのだ。小林さんは、1歳になったばかりの孫娘(ちひろちゃん)から、たどたどしくも嬉しい「おめでとう」の声を聞き、上機嫌で食事をしている最中、かまぼこを喉に詰まらせて亡くなったのだという。僕と小林さんは同じように半身不随になり、同じようにリハビリをしてきたが、まさか喉に物を詰まらせて亡くなられるとは……。なんともやりきれない気持ちだけが残った。もう少し、お互い若かりし頃の話もしたかったし、ドラッカー博士から学んだことについて話もしたかった。残念としかいいようがない。衷心より、ご冥福をお祈りしたい。


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