加登屋のメモと写真…: 2017年1月アーカイブ
加登屋のメモと写真…
2017年1月アーカイブ

徳岡孝夫さん

清流出版 (2017年1月24日 15:09) | コメント(0) | トラックバック(0)

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四半世紀前の徳岡孝夫さんの元気なお姿。まだ、お目も健全な頃。その頃は、僕も今のように右半身不随ではなく健康体だった。


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お目がどんどん悪くなっていた20133月、決死の覚悟で弊社を訪ねて来られた。徳岡さんに連載いただいた月刊『清流』バックナンバーを背にして。


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徳岡孝夫さんとの「連載終了 御礼の会」で、出版部長の松原淑子(右)と僕。横浜港南台高島屋の中国料理店「南国酒家」で。

 

・ついにくるものがきた。これが徳岡孝夫さんについて語る最後の機会になるかもしれない……。感慨無量である。僕の人生の公私共において、一番大切な人が徳岡孝夫さんであった。僕の古巣ダイヤモンド社でお付き合いが始まり、実に35年以上の長きにわたり親しく交情を深めてきた。思い起こせば、徳岡さんにはどんなに助けられたことか。僕がダイヤモンド社時代に編集を担当した『アイアコッカ――わが闘魂の経営』は大ベストセラーとなったが、この本の翻訳者が徳岡さんだった。限られた期間内でのあの名訳は、徳岡さんなればこそ成し遂げられたものだと確信している。結局、増刷に次ぐ増刷となり、最終的には99刷となった。充分に会社の米櫃を潤わせてくれたが、更に、版権は新潮社に売れたので2度美味しい単行本企画となった。

また、僕が創業した清流出版でも大変お世話になった。月刊『清流』を創刊したが、端から僕は徳岡さんを連載執筆者の一人にと考えていた。「明治の女性」をテーマにした連載を4年間お願いし、その後は、「ニュースを聞いて立ち止まり……」を連載していただき、今日に至ったものだ。徳岡さんの素晴らしさを挙げれば、いくつもある。まず締め切り日の厳守である。徳岡さんを担当していた松原君にも確認したが、過去1度たりとも原稿遅れを生じたことがないという稀有な人だ。その上、原稿内容の奥深さ、関西人特有の軽妙洒脱な文章力は折り紙付き。まさに『清流』にとって徳岡さんは、欠くべからざる著者のお一人だった。それにしても、僕はダイヤモンド社時代からのお付き合いに甘え、随分強引に連載執筆をお願いしていたわけで、今更ながら反省しきりである。

 そして昨今、ふと気がついてみれば、徳岡さんが執筆していたメイン媒体である文藝春秋、新潮社などの大手出版社の看板雑誌に、お名前を拝見する機会が少なくなっていた。その理由は、僕にもよく分かっている。徳岡さんは、齢87歳を超えてから急速に視力が衰え、今や執筆も難しくなった。唯一連載を続けている新潮社の『新潮45』の巻頭言も、特大の虫眼鏡を駆使され、苦労してお書きになっておられる。最新号の原稿も僕は涙なくしては読むことができなかった。「まことの弱法師(よろぼし)」と題して、徳岡さんにしか書けない境地を綴っている。「たった1ページ、2枚の原稿を1ヵ月かかってしまう。このまま書きたいが、多分、もう全盲になって執筆不可能だと思う」と嘆いておられるのだ。ここに至って、月刊『清流』においても、201610月号をもって徳岡さんの「ニュースを聞いて立ち止まり……」は連載終了となった。徳岡さんがペンを擱くことを受け入れざるを得なかった。弊社の半ば強引な依頼にもかかわらず、かくも長きに亘り執筆してくださったことに、なんと御礼をいっていいものやら感謝の言葉もない。

 

・弊社では感謝の気持ちを込めて、粗餐を差し上げることにした。昨年1125日のこと、社長の藤木健太郎、出版部長の松原淑子の両君を伴い、三人で徳岡さんのお住まい近くにある港南台高島屋の中国料理店「南国酒家」で小宴を開いた。ちょうどその日は、三島由紀夫の「憂国忌」に当たる。この日は徳岡さんにとっても、生涯忘れることのできない日であったと思う。三島由紀夫氏から「徳岡さん、明日、11時に市ヶ谷にある自衛隊市ヶ谷駐屯地すぐそばの市谷会館に来てほしい」と直接、毎日新聞社の徳岡さんに電話がかかってきた。その翌日が、19701125日だった。そして徳岡さんは、楯の会の隊員から三島さんの手紙と檄文を受け取ったのだ。この日の「連載終了 御礼の会」の席で、徳岡さんはその話題には触れなかったし、われわれも一切、口にしなかった。

 

・その日、徳岡さんはまず歌舞伎を話題にされた。歌舞伎十八番の「鳴神(なるかみ)」の話だった。「能の理解者である加登屋さんならご存じでしょう」と徳岡さんはおっしゃったが、僕は「鳴神」を知らなかった。あとでウィキペディアを見て、大雑把だが理解したのだった。「……鳴神上人は呪術を用いて、雨を降らす竜神を滝壷に封印してしまう。雨の降らない日が続き、やがて国中が旱魃に襲われ、民百姓は困り果てる。そこで朝廷は女色をもって鳴神上人の呪術を破ろうと、美女を上人の許に送り込む。姫の色仕掛けにさすがの上人も抗しきれず、思わずその身体に触れたことで、とうとう戒律を犯し、さらには酒に酔いつぶれて眠ってしまう。その隙を見計って姫が滝壷に張ってある注連縄を切ると封印が解け……」といった話である。この話を例にとり、徳岡さんは、歌舞伎では感動ものもいいけれど、エロティックな話もまた印象深いと述懐された。梨園では、勘三郎、歌右衛門、芝翫、勘九郎、藤十郎、団十郎、扇雀、幸四郎、仁左衛門……などの役者の演技が心に残るとおっしゃった。

話の接ぎ穂で一息入れようと、徳岡さんに食事を勧めたのだが、目の前に置かれたお料理さえ見えないようだった。そこで藤木君が「これは海老チリです」と教え、レンゲで口元まで運んで差し上げた。すると徳岡さんは、「ああ、海老蔵ですね」と当為即妙の洒落で応えられたのが印象に残る。こんな受け答えの妙が、徳岡さんの魅力の一つである。

・最後に残っていた連載『新潮45』の「まことの弱法師」に関連して、徳岡さんは能についても熱く語った。「今の大阪、四天王寺に住んでいた俊徳丸は、人の讒言を信じた父・通俊により家から追放されてしまう。彼は悲しみのあまり盲目となってしまい、乞食坊主として暮らすことを余儀なくされる。折しもその日は、春のお彼岸の中日にあたり、弱法師の袖に梅の花が散りかかる。彼は、仏の慈悲をたたえ、仏法最初の天王寺建立の縁起を述べる。その姿を見ると、通俊はまさしくわが子だと認めたのだったが、人目をはばかって、夜になって名乗ることにする」

西の門、すなわち西方浄土への死の入り口にあって、「弱法師は入り日を拝み、かつては見慣れていた難波の美しい風景を心に思い浮かべ、心眼に映える光景に恍惚となり、興奮のあまり狂うが、往来の人に行き当たり、狂いから覚める。やがて夜も更け、人影もとだえたので、父は名乗る。父親と知った俊徳丸は、わが身を恥じて逃げようとするが、父はその手を取り、連れ立って高安の里に帰る」

――能の「弱法師」は、僕も好きな曲の一つだったので、「あーしもとは、よーろよろと、……」と、謡いの一節を口にした。その『新潮45』の連載タイトルが『巻頭随筆 風が時間を』で、今年1月号は「まことの弱法師10回」になっている。徳岡さんは「連載はこの文章で終わりにしたい。まあその時、僕の人生も終わるなー」とおっしゃったが、僕は胸が詰まってなんと応じていいか分からなかった。とにかく今は、徳岡節の名文をもっともっと読みたいとしか言えなかった。

・徳岡さんが最近、読み終えた本についても言及された。永井荷風の『すみだ川』だという。僕は、能の『隅田川』ならよく知っていたが、永井荷風の小説『すみだ川』はまだ読んだことがない。

話は、幼馴染であるお糸と長吉の、異なる宿命を描いた作品だ。お糸は花柳界へ入り込んでいき、母親に進学・立身を望まれる長吉は取り残される。長吉の寂しさ、哀感よりも、花柳界において自分の道を切り開いていこうとするお糸の明るさ、逞しさがより強く感じられる。根底に、荷風の花柳界に対する肯定がある故の作品である。僕は能の『隅田川』しか知らないのを恥じた。帰宅したら『すみだ川』を是非、読もうと思ったものだ。

かつて徳岡さんが清流出版へ来社されたとき、能の『隅田川』を話題にしたことがある。梅若丸を人買いにさらわれ、京からはるばる武蔵国の隅田川まで訪ねてきて、愛児の死を知った母親(班女)の悲しみはいかばかりだったか。春の物狂いの名作であるが、「名にし負えば いざこととはむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」の名文句が悲しく胸に迫る。その時も、われわれは徳岡さんならではの語り口に、大いに感じ入ったのを覚えている。

徳岡さんは、歌舞伎に関し、「通」といわれるのはお嫌いらしい。強いていえば、歌舞伎をこよなく愛している一ファンであるとの自己認識のようだ。とにかく人生の機微に通じた徳岡節は、聞いていて胸にすっと入ってくる。その博覧強記ぶりは尋常ではなく、何時間話しても尽きることがない。

・もう一つの読書だが、徳岡さんの向学心と懐の深さには驚く。なんと、夏目漱石の『坊ちゃん』を読んでいるとのこと。これまで徳岡さんとは、森鷗外の話が圧倒的に多かったから漱石と聞いてびっくりした。関連して夏目漱石の筆名「漱石」の由来について、徳岡さんは語り始めた。筆名の出典は、宋の太宗の勅命によって、房玄齢や李延寿らによって編纂された、歴史上の著名人の逸話を集めた「蒙求」の「晋書」である。その中の「孫楚伝」の「漱石枕流」(石に漱《くちすす》ぎ、流れに枕す)から採ったというのが定説とされると言う。

孫楚は幼少より秀才の誉れが高く、太守の地位まで登りつめた立志伝中の人物。その孫楚が若い頃に隠遁生活をしようと思い定め、親友の王済に向かって、喧噪な都会を離れ、静かな田舎に引っ込みたいと口にした。「石を枕にして、川の流れで口を漱ぐ」という意味の「枕石漱流」というべきところを、どう間違えたのか「漱石枕流」と言ってしまった。王済に「おいおい、それは『枕石漱流』の間違いだろう」と指摘されると、孫楚は「なあに、『漱石枕流』でいいんだよ。なぜかといえば、石で口を漱ぐのは歯を磨くためであり、流れに枕をするのは嫌いな話を聞いたとき、川の流れで耳を洗うためさ」と強引にこじつけたのだという。つまり、「漱石」の逸話から、漱石の筆名は偏屈で、負け惜しみが強く、変わり者の象徴であるとおっしゃりたかったのだ。

漱石の『草枕』の冒頭にある、「情に掉させば流される」も「情に逆らえば押し流される」と勘違いする人もいるが、「情に乗ってしまうとどんどん加速してしまう」と解釈するのが正しい。母国語の日本語でさえ、時代の流れで解釈が変ったり、真意が伝わらないこともある。徳岡さんは、翻訳本も数多く手掛けてこられたが、同じ英語圏でもスラングや地方独特の言い回しの誤訳や勘違いもあり、なかなか一筋縄にはいかないもの。そんな文章解釈の難しさについて語りたかったのであろう。

・出版部長の松原君が徳岡さんに、「今年、北海道に行かれたご感想は、いかがでしたか?」と尋ねた。ご長男夫婦は北海道暮らしなのだという。「いや―、北海道の十勝平野には地平線がある。皆さんは、見たことがないでしょう? 毎日、地平線を見ていると、人間が変わる。細かいことなど気にならなくなりますよ」とおっしゃった。徳岡さんはもともと大人の風格がある。「細かいことにこだわらず」のニュアンスが見て取れる。僕は、北海道の富良野・美瑛には行ったことがあるが、山間の丘の町なので、地平線はまだ見ていない。一度、徳岡さんのいう果てしなく続く地平線を見てみたいものだと思っている。

・徳岡さんの話は、押しなべて悲しく、しかも面白い。藤木君が「次のお料理ですが、酢豚のあとパイナップルはどうでしょう?」と聞くと、徳岡さんは、「じゃあ、いただきましょう。ところで僕の父と母にまつわる話ですが……」と、自身7歳だった時のこんな話をされた。昭和12年、阪急百貨店で、徳岡さんの母堂が父君に「あなたアップルパイを買って」と言ったらしい。すかさず藤木君が「パイナップルですね」と言ったが、徳岡さんの父君も藤木君同様、アップルパイをパイナップルと間違えたらしい。「父は、パイナップルと勘違いして買わなかったのです」。当時、徳岡さんの母堂は美人の誉れ高かったが、27歳で最後の娘を出産して後、すぐお亡くなりになっている。母堂は徳岡さんの歳からすれば、三分の一しか人生を生きられなかったわけだ。「終戦後、父は街で『アップルパイあります』の看板を見て、アメリカ産のアップルパイというものを初めて認識した。『ああ、これのことだったのか!』と」。徳岡さんは、この話を聞いて以来、母堂の命日には必ずアップルパイを買ってくるとか。「僕の妹からは、お兄さん、まだアップルパイを食べているの?」なんてよく言われるが、その妹さんも70歳を優に超えたという。こんな話から徳岡家の人生模様が垣間見えた。ホロリと胸に染みるエピソードである。

・徳岡さんはとにかくサービス精神旺盛だ。僕は徳岡さんの話の中で「俊寛」が特に印象深く残っている。僕の舌足らずな説明ではもどかしいと思うが、俊寛は喜界ヶ島に流された。一方、都では清盛の娘で高倉天皇の后となった中宮(建礼門院)徳子の安産祈願のため、大赦が行われる。喜界ヶ島の流人も一部赦されることとなり、使者がかの島へ向かった。他の罪人は許されて島を去る。ただ一人、俊寛は残された。孤独への不安と絶望に叫び出し、船を追うが波に阻まれる。船が見えなくなるまで、船に向かい叫び続けるが、声が届かなくなると、なおも諦めずに岩山へと登り、船の行方を追い続ける。ついに船が見えなくなる。そして俊寛の絶望的な叫びとともに……。

僕は能、謡いの「俊寛」は大好きな曲だ。今も時々謡本を開いて、調子外れに唸っている。

 また、徳岡節による平家滅亡のくだりは、残照のようにキラキラと輝く。剛の者であった平教経(のりつね)は、鬼神の如く戦って坂東武者を多数討ち果たす。敵の大将の源義経を道連れにせんものと欲した教経は、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り、八艘彼方へ飛び去ってしまった。世にいう義経の「八艘飛び」である。残された教経は、一人を海に蹴落とすと、二人の武者を抱え込んだまま海に飛び込んだ。平氏随一の猛将として知られ、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで、義経を苦しめ抜いた教経のあっぱれな最期であった。安徳天皇、二位尼(にいのあま=平時子。平清盛の妻)らが入水し、平氏滅亡の様を見届けた平知盛(とももり)は、「見るべき程の事は見つ」とつぶやくと、乳兄弟の平家長と手に手をとってザンブと海へと身を投げ自害した。享年34

他の人々が海に流され沈んだが、建礼門院(平徳子)は、髪の毛が長かったので船にひっかかって生き残り、京へ送還された。平家滅亡後、剃髪し大原寂光院に遁世の日々を送る。建礼門院は、安徳天皇と一門の菩提を弔った。その建礼門院に尼となって仕えたのが、平清盛の子の重衡の妻となり、後に安徳天皇の乳母をつとめ、従三位典侍・大納言典侍(大納言佐)と称した藤原輔子(ほし)である。大納言佐は女院の最期を看取った。大原三千院のところは、徳岡さんも「おおはら、さんぜんいん……」と口ずさんだ。こうした話を徳岡さんは、あたかも琵琶法師のように語って聞かせてくれた。

 徳岡さんを囲む会は、いつも心がときめく。酒はそう強いほうではない。少しか飲まないのに、この語りの面白さはなんだろう。もっぱら徳岡節に魅了されることになる。何を語っても蘊蓄があり、ユーモアがあり、そして人情の機微を知る人の一抹のもの悲しさと温もりがある。余人をもって替えがたい“徳岡ワールドへの誘い”とでも形容しようか。誘われた人は、一様に心地よく徳岡ワールドに酔ってしまうのだ。

・最後に、徳岡孝夫さんの著になる書籍の内、お勧めしたい作品をここでまとめてみる。

まず、三島由紀夫関連の書籍で、欠かせないのは、『悼友紀行――三島由紀夫の作品風土』(ドナルド・キーンとの共著、中央公論社刊、1973年)、『五衰の人――三島由紀夫私記』(文藝春秋刊、1996年、新潮学芸賞)が挙げられる。

 次に、翻訳も多く手がけ、ドナルド・キーン著『日本文学史 近世篇』(中央公論社刊 上下、1976-77年)、アルビン・トフラー著『第三の波』(中央公論社刊、1982年)、リー・アイアコッカ著『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(ダイヤモンド社刊、1985年)、ヘンリー・スコット=ストークス著『三島由紀夫 死と真実』(ダイヤモンド社刊、1985年)。なお、この本は1998年、清流出版で『三島由紀夫 生と死』と改題し、刊行した。その時は、冒頭に「三人の友――三島由紀夫を偲んで――ドナルド・キーン、徳岡孝夫、ヘンリー・スッコト=ストークス」の鼎談を新たに設けた。リチャード・ニクソン著『指導者とは』(文藝春秋刊、1986 年)などベストセラーが続々。

また、ノンフィクション『横浜・山手の出来事』(文藝春秋刊、1990年、日本推理作家協会賞を受賞)、『薄明の淵に落ちて』(新潮社刊、1991年)、『舌づくし』(文藝春秋刊、2001年)、『妻の肖像』(文藝春秋刊、2005年)、『完本 紳士と淑女 1980-2009』(文藝春秋刊、2009年)、『お礼まいり』(清流出版刊、2010年)など。1986年には菊池寛賞を受賞した。

なお、余談だが、徳岡さんとドナルド・キーンさんは、付き合いも長く、とても懇意にしている。弊社は陶芸家・辻清明さんの豪華本を刊行したことがある。『独歩 辻清明の宇宙』(写真:藤森武、清流出版刊、2010年)だが、この本の推薦文をドナルド・キーンさんにお願いした。そして和訳を徳岡さんが快く引き受けてくれた。これも僕には嬉しいことであった。徳岡さんは、ユーモア溢れる語学力を駆使して、外国人とも丁々発止と渡り合い、上質なジョークを交えながらしゃべれる数少ない日本人である。英会話が堪能なことは、世界的視野を広げ、一流人との付き合いも深めることができる。

僕は若い頃、徳岡孝夫さんの本『太陽と砂漠の国々――ユーラシア大陸走破記』(中央公論社刊、1965年)や『誤解 ヨーロッパvs.日本』(エンディミヨン・ウィルキンソン著、中央公論社刊、1980年)を読んでファンになった。

結局、僕はダイヤモンド社と清流出版で、徳岡孝夫さんの本を合計9冊も刊行することができた。今回、徳岡さんと久し振りに会って、改めて徳岡さんとの出会いに感謝したくなった。人の気をそらさず、常に気遣いを忘れない。やはり徳岡さんは人生の達人であり、敬愛する一流の人物である。こんな方と親交を結ぶことができた僕は、幸せな男だったといえるのではないだろうか。

 

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『お礼まいり』(清流出版刊、2010年)は、天寿を全うした人への畏敬の念、温かな交流のあった人への想い、また無念の死を遂げた人や家族の代弁者として、生と死の深淵を見つめ続けた著者の珠玉の随筆集である。三島由紀夫から教えられた「じゃがいもの冷製スープビシソワーズ」の味、しばしば飲食を共にし、温かな交流のあった山本夏彦翁や久世光彦氏との悲しい別れ、最愛の妻の死など、喪失感を抱えながら死ぬまで生きることの意味を問いかけた名著といえる。著者自身も昨年、悪性リンパ種を克服し、死の淵から生還された。書名ともなった復活後、書いた随筆「御礼参り」などを所収している。


 

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徳岡孝夫さんとの「連載終了 御礼の会」にて。藤木健太郎社長(右)と僕。横浜港南台高島屋で。

 


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