2016.11.28辻 一郎さん、高田宏さん

加登屋20016.11.1.jpg
『忘れえぬ人々――放送記者の40年のノートから』(1998年刊)
 
・僕も喜寿に近くなり、親しい友人たちが、一人、また一人と鬼籍に入ってしまい、秋の夜長は酒でも飲まなければ間がもたない。そんな漂泊の思いの中で、ふと辻  一郎さん父子と高田宏さんの友情について書いてみたくなった。辻さんは弊社から3冊単行本を刊行されたが、きっかけは既に弊社からエッセイ集『出会い』(1998年刊)を刊行していた高田宏さんの橋渡しによるもの。その高田さんも2015年11月24日に亡くなってしまった。享年83。死因は肺がんであった。本欄の2016年5月号に書いたが、実は高田さんについては、まだまだ書き足りない思いがしていた。高田さんは編集者として刮目すべき存在であった。僕は編集の先輩として高田さんのファンであり尊敬もしていた。
 
    高田さんは、当代きっての読書人であり、博覧強記の人でもあった。無類の酒好きだったことでも知られ、酒が入ると底なしだったとも聞く。辻  一郎さんによれば学生時代、高田さんの好きな酒場は、庶民的な店ばかり。実際、縄のれんの常連さんだった。10軒はしごしても平気だったというから、酒豪ぶりも半端ではない。高田さんが、卒業後、京都を離れることになるからと、馴染みの店を1軒ずつ訪ねて回った卒業間際のことである。このとき同行した辻さんは、高田さんの人望に目を見開かされる。「驚いたことに、どの店も餞別のネクタイを用意していて、その夜、高田がもらったネクタイは、10本近くにはなったはず」というのだから凄い。酒の場の盛り上げ方に秀でており、最高の話し上手であり、聞き上手でもあったらしいから無理もない。
 
    こんな逸話も残されている。高田さんの京大時代の親友が長野県飯田市の実家で結婚式を挙げることになった。その結婚披露宴に呼ばれて、高田さんが飯田に出かけたときのことである。披露宴では勧められるままに杯を空け続け、しこたま酒を飲んだはずなのだが、少しも酔っているようには見えなかった。辞して旅館に戻ろうとする高田さんを呼び止めて、新郎のお父さんがこう言ったそうだ。「少しは千鳥足で歩いてくださいよ。お酒をケチったと、ご近所の方に思われてしまいますので……」と。
 
・辻さんと高田さんは、京大時代からの無二の親友であったが、その出会いというのが、実に不思議な計らいとしか思えない。京大入学後の身体検査の会場で、お隣同士並んで待つことになった二人。ウマが合ったか、話が弾んで友達となり、生涯のお付き合いとなったというから、まさに“人生は出会いである”を地でいったことになる。だから卒業した学部も辻さんが法学部、高田さんは、文学部の卒業で違っている。 
 
    辻さんは大学を卒業後、新日本放送(現・毎日放送)に入社し、主として報道畑を歩いて、取材活動にあたる一方、報道番組の制作にも携わっている。自らプロデュースしたテレビ番組「若い広場」、「70年への対話」で民間放送連盟賞、「対話1972」、「20世紀の映像」でギャラクシー賞を受賞、その異才振りを発揮している。その後、毎日放送の取締役報道局長、取締役編成局主幹を歴任された後、大学教授に転身されて今日に至っている。
 
・辻さんの父君は辻  平一と言い、伝説的な編集者として知られた人物だ。大阪外語大学露語科を出て、大阪毎日新聞に入社、敏腕記者として健筆をふるった。署名入りで「大阪が生んだ文壇人」と題し、直木三十五、宇野浩二、川端康成、藤澤恒夫、武田麟太郎らをエピソード豊かに描いた連載執筆をしたこともある。戦後間もなく、『サンデー毎日』に異動した平一は、週刊誌と言えば『週刊朝日』と2誌しかない往時の『サンデー毎日』の名編集長として名を馳せている。
 
   その頃、ライバルだった『週刊朝日』は扇谷正造が率いており、昭和25年4月から吉川英治の『新平家物語』を連載、飛躍的に部数を伸ばしていた。平一はそれに対抗するように、懸賞小説で発掘した源氏鶏太を売りにし、『三等重役』を連載して、『週刊朝日』を急追したのである。当時、『サンデー毎日』では懸賞小説を募集しており、この入選をきっかけに文壇に登場した作家は数多かった。
 
    名前を挙げれば、海音寺潮五郎をはじめ、山手樹一郎、村上元三、源氏鶏太、山岡荘八、城山三郎、永井路子などビッグネームがきら星のように並ぶ。特に海音寺潮五郎とのお付き合いは、海音寺が上京して鎌倉に居を定めてから最晩年に至るまで、43年間の長きに及び、終生厚い友情の灯は途絶えなかったという。その間の、海音寺からの70通あまりの手紙が残されたが、すべて巻紙に能筆で認められていた。今は遺族に戻されて、海音寺潮五郎記念館に収められている。平一自身、『文藝記者三十年』(昭和32年、毎日新聞社刊)、『人間 野間清治』(昭和35年、講談社刊)などの著書もある。
 
 
加登屋20016.11.2.jpg
『父の酒』(2001年刊)
 
・さて、この伝説の編集者辻  平一が、日本の企業PR誌のイメージを一変させたと言わしめた高田宏さんと関わってくるから人生は面白い。昭和29年の秋から冬にかけて、京大卒業を前にした高田さんは次々と入社試験に落ちていた。NHK、新日本放送、朝日放送、松竹、東映、そして平一のいた毎日新聞も、である。このうち、受験のための紹介者が必要だった新日本放送、松竹、東映は平一の紹介で受験したものだ。毎日新聞は自由応募だったから、紹介はいらなかったらしいが、動向を気にしていた平一が調べてみると、高田さんは作文が良かったという理由で面接には残っていたが、試験の成績は何百何十番目だったとか。採用予定者数名に対して百人が面接に残り、その百番目ではどうもならなかった。平一は「高田君、むつかしいぜ、これは」と言ったという。
 
    こうして就職も決まらず、お先真っ暗な日々を送っていた高田さんを救ったのも平一だった。「少女雑誌の会社なら、受けるだけは受けられるがどうかね」と、高田さんに話をもってきたのだ。その出版社は東京の光文社で、この年初めて入社試験をして社員を採用するということだった。光文社は東京の大学数校に募集案内を出しているが、辻さんの知人が役員をしている会社なので受験を頼むことができたらしい。もちろん、藁にも縋る思いだった高田さんは、二つ返事で上京して受験する。当時、光文社は文京区音羽の講談社5階に間借りしていた。
 
    入社試験はユニークそのものだった。二百字詰五十枚綴じの原稿用紙が1冊ずつ配られて、5、6時間以内に6本の原稿を書かされたという。課題は次の通り。「戦後の大衆娯楽の種々相を論じ、それについて所見を述べよ」、「我が父(母)を語る」、 「旧師へ卒業を知らせる手紙」、「最近感銘を受けた本について感想を述べよ」、 「現代の尊敬する人物とその理由を述べよ」、「愛読する新聞とその特長、及びどういう欄、或いは記事を好んで読むかを記せ」。高田さんは、課題に対して「酒」で書けるものはみんな酒で料理しようと決めた。それがダメなものは「笑い」でいこうと考えた。酒は高田さんの一部でもあったし、笑いは卒論のテーマ(「フローベールの笑いについて」)でもあったので、自信があったのだ。こうして課題の35枚の原稿を書き終えた高田さんは、帰りに、そのころスタートしたばかりのカッパブックス第1号目の伊藤整著『文学入門』をおみやげに京都に帰った。
 
・採用通知がきて、翌春4月、めでたく『少女』編集部に配属となり、高田さんの編集者人生が始まったのである。光文社では、入社してしばらくして春の社員旅行があった。修善寺温泉1泊旅行である。飲み放題の酒に大喜びの高田さんは大酒をくらい、新入社員の分際で、いきなり光文社の「のんべえ四天王」の一人となる。僕は高田さんほどのんべえでもないが、大の酒好きの身として、こういう話は大好きだ。出版部のKさんというのが、のんべえ四天王の一人で、たまたま京大の先輩だった。そのKさんが、「君か、酒の話ばかり書いて入ってきたのは」と笑って、どんどん酒をついでくれたそうだ。古き良き時代の話である。
 
    辻さんと高田さんは、卒業直後は、ともに東京で仕事をしていたので、有楽町のガード下あたりで飲むことがあった。「今日は社で仕事をしながら、一人でウィスキーのボトル1本空けてしまったよ」という高田さんの話を聞いて、辻さんは驚いたらしい。出版社と放送会社では職場の雰囲気がこんなにも違うものだとの印象を深くしたことと、それだけ飲んでも、まったく顔に出ていない高田さんの酒豪ぶりに改めて呆れたのだった。
 
    辻さんは、父・平一と高田さんの関係についてこんなことを書いている。「高田は私の父とも仲良しでした。二人をつなぐ接点はもちろんお酒でした」と。実際、平一は友人の中でも、酒飲みを特に優遇したらしい。だから、平一は高田夫妻の結婚に際し仲人を務め、その後も深いお付き合いが続いたのである。
 
・高田さんに麻雀を教えたのは辻  一郎さんである。平一が麻雀好きで、家庭麻雀を楽しんでいたので自然に覚えたのだ。ところが辻さんが京大に入ってみると、麻雀を知っている学友は少なかった。そこで何人かを下宿に誘い込み、ルールを教えることにした。弟子は5、6人いたらしいが、その中の出色の弟子が高田さんだった。麻雀を教えたその日に、国士無双をあがって、先生の辻さんをびっくりさせたらしい。
 
    平一と高田さんも当然ながら雀友となった。高田さんが訪ねていくと、平一は喜んで麻雀に誘ったらしい。何度も雀卓を囲んで談笑している。平一の麻雀は人間同様に大らかそのものだった。小さな手では絶対、上がろうとしない。「常に1翻安くせよ」は、作家・五味康祐の教えだが、平一の場合は、少しでも大きくすることしか考えなかった。だから大抵は負けていた。一方、息子である辻さんは、負けない麻雀を身上とする。これでウマが合うわけがない。辻さんが上がる度に、「なんたる心事陋劣(しんじろうれつ)!」と怒られたという。せっかくこんな大きな手を楽しんでいるのに、さっさと上がるとは何事だというわけだ。僕も今でも麻雀をやるが、どちらかといえば、遊びより精神にこだわる男だ。
 
    辻さんは『話の特集』の編集長だった矢崎泰久などとも卓を囲んだことがあり、相当な力量の持ち主だったようだ。それが証拠に、矢崎を取り巻くレギュラーメンバーだった毒舌のばばこういちや、テレビマンユニオンで活躍していた宝官正章などを相手に負け知らずだったらしいが、「その矢崎と一緒に遊んでも、負けた記憶がほとんどない」、というほどの腕前だった。矢崎泰久にこう言われたこともあったそうだ。「辻さん、『近代麻雀』の対談に出てくれませんか。八段をあげますよ」と。
 
    それにしても羨ましい。辻さんの雀友の一人として、美人女優の加賀まりこさんがいるというではないか。立木義浩が六本木族と呼ばれていたころの加賀まりこさんを「とげとげしいけど愛くるしい」と評したそうだが、僕もそのころから加賀まりこさんの大ファンだった。その加賀さんはなかなかの打ち手だったようだ。ぼやきを入れながら自摸牌を次々切ってくるので、まだ聴牌はないと辻さんが安心していたら、思いがけず国士無双を聴牌していたこともあったそうだ。辻さんが「すっかり騙されました」と言うと、加賀まりこさんはニヤリと笑って、「だって私、女優ですもの。騙すのが商売なのよ」と言ったそうだ。いい話である。
 
 
加登屋20016.11.3.jpg
『私だけの放送史――民放の黎明期を駆ける』(2008年刊)
 
・話を高田さんに戻そう。本欄5月号に書いたが、プロフィールを簡単にご紹介しておく。1932年に京都市に生まれ、4歳の時に石川県加賀市大聖寺町に移り住み、大聖寺高等学校をへて京大文学部仏文科へ進む。大学に入り、マックス・スティルネルの著になる『唯一者とその所有』(辻潤訳、日本評論社出版部、1920年刊)に出会う。これが高田さんのバックボーンとなった。すなわち、この本の「自分を何物にも従属させないで生きる」という考えに共感し、何物にも縛られない自分こそが真に自由な自分であると確信し、「とらわれない、縛られない」を自らの生き方のモットーとしたのである。何ものにも従属しないと決めても、食べていかなければならない。生活のためには職に就かなければならない。だが、雑誌編集の要諦は企画力であり、何ものにとらわれない斬新さが重要なので、「とらわれない、縛られない」という基本姿勢は、雑誌編集の仕事を続ける上で、有利に働いたといえよう。
 
    1975年、46歳の時、編集の総括として『言葉の海へ』を出版し、退職の意志を固め文筆専業となった。代表作には『島焼け』などの歴史小説をはじめ、自然、猫などをテーマに随筆・評論・紀行など著書は都合百冊ほどになる。公職としても日本ペンクラブ理事、石川県九谷焼美術館館長、深田久弥山の文化館館長をそれぞれ務め、また将棋ペンクラブ会長でもあった。受賞歴としては、1978年に『言葉の海へ』(言語学者・大槻文彦の評伝)で大佛次郎賞と亀井勝一郎賞、1990年に『木に会う』で読売文学賞、1995年に雪国文化賞、1996年に旅の文化賞をそれぞれ受賞している。
 
・光文社からアジア経済研究所に転じた高田さんは、『アジア経済』の編集に従事する。しかし、時間の余裕はたっぷりあったが、仕事があまり面白くないことと、給料にも多少の不満があった。そこで数年で見限ってエッソ・スタンダード石油に入社する。そこで伝説が生まれるのである。PR誌『エナジー』の編集をし、続いて『エナジー対話』を編集する。このころから、辻さんは取材先で、高田さんの噂を聞くことが多くなったと書いている。このPR誌のクォリティがあまりに高く評判となり、一躍世に知られるところとなったのである。『エナジー』は1964年の創刊以来、ユニークで格調高い内容で評判を取り、「PR誌らしからぬPR誌」との評価を得ている。日本の企業広報誌のイメージを一変させる役割を果たしたといっていい。1冊1特集という形式を取ったのも、斬新で画期的な企画構成であった。1号目の特集は「海」。2号は「探検」。3号は「海外における日本研究」。それぞれの特集には、そのテーマについて当代一流の監修者を立てた。例えば13号の「未来学の提唱」の監修者には、梅棹忠夫、加藤秀俊、川添登、小松左京、林雄二郎が選ばれ、監修に当たっている。これだけのメンバーを揃えては、「下手な総合雑誌以上と評判がある」と小松左京に言わしめているのもよく分かる。京大人文研のメンバーにしばしば原稿執筆を依頼し、PR誌を超えた雑誌として評価されたのである。
 
・僕は清流出版という小さな出版社を始めたときから、高田宏さんの本を出したいと強く思っていた。そして、弊社でその高田さんの本を2冊刊行できたのは、すこぶる嬉しかった。前述した『出会う』(1998年刊)と『還暦後』(2000年刊)である。ともにエッセイを編んだものだが、高田さんらしさがよく表れた本だと思っている。『出会う』は、樹木・森・島・雪などの大自然の佇まいを愛でる、また、旅先での何気ない人間の触れ合いを描いたエッセイの中から、担当編集者の臼井雅観君が精選したものだった。
 
    また、『還暦後』はその題名の通り、高田さんが還暦を過ぎてから書いたエッセイから精選して編んだものだ。60代半ばを過ぎると、当然のことながら生と死について思うところが多くなる。高田さんはこう言っている。「人間も、草木鳥獣虫魚や山河も、すべてが懐かしく思えてくる。旅をする日々には、胸の奥にこれが最後という気持ちがある」。そんな気分を背景にして還暦後に書かれたエッセイを集成したものだけに、しみじみと心に沁みてくるエッセイだ。この本は女優の浜美枝さんが書評で絶賛してくれたことを思い出す。しかし、無二の親友を失った辻  一郎さんの胸中はいかばかりか。僕も体験しているから分かるのだが察するに余りある。時間が解決するなどと、軽はずみに言う方もいるがそんなものではない。寂量感でポッカリと胸に風穴を開けられたような心地がしたものだ。僕は晩秋の夜長、高田宏さんを偲んで、この2冊の本を、もう一度、読み返そうと思っている。