加登屋のメモと写真…: 2016年7月アーカイブ
加登屋のメモと写真…
2016年7月アーカイブ

瀬川昌治さん

清流出版 (2016年7月21日 16:29) | コメント(0) | トラックバック(0)

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瀬川昌治さん(右)と映画通の編集者・高崎俊夫さん。我が社の応接間で。

 

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『素晴らしき哉 映画人生』(定価=本体2200+税、四六判、並製、2012年刊)

 

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『乾杯!ごきげん映画人生』(定価=本体2000+税、四六判、並製、2007年刊)

 

2016620日、日本の映画監督、脚本家、舞台演出家であり、喜劇映画の名手とされ、1960年代に数多くの喜劇シリーズ を監督した瀬川昌治さんの訃報が伝えられた。1925(大正14)年生まれで享年91であった。「ぽんこつ」「図々しい奴」「喜劇 急行列車」等50本以上の映画を撮り、脚本を40作以上書いておられる。僕が大好きな映画監督だっただけに、惜しい人を亡くしたととても残念である。実は瀬川さんは、我が清流出版のある神田神保町のお生まれなのだ。

現在も、弊社から、徒歩3分足らずのマンションにスタジオと自宅を構えておられる。だから弊社から、『乾杯!ごきげん映画人生』(定価2100円、20071月刊)、『素晴らしき哉 映画人生!』(定価2310円、20123月刊)の2冊単行本を刊行させていただいたが、散歩のついでにという感じで直接本を買いに来られたこともあった。とにかく熱心に本を売って下さる方で、同窓会でも映画祭でも、折に触れイベントの際にはサイン会を催し、販促にご協力いただいたものだ。だから著書は増刷出来にもなった。弊社にとって大変有り難い著者であった。

 

・瀬川さんは、幼少時から映画少年であったという。当時、一世を風靡した時代劇映画のスターたち。片岡千恵蔵がいた、「アラカン」の愛称で親しまれた嵐寛寿郎がいた、「バンツマ」と呼ばれた坂東妻三郎がいた、そして大河内傳次郎、市川右太衛門など綺羅星のように並ぶ。そんな時代劇映画に夢中になり、学習院高等科在学中には、先輩である三島由紀夫と映画について語り合ったこともあるという。その後、瀬川さんは東京帝国大学文学部英文科に入学した。が、ただの青白きインテリではなかった。もって生まれた卓抜した運動能力も存分に発揮された。なんと東大野球部に入部し、レギュラー選手となったのだ。俊足・好打の外野手として鳴らし、東京六大学野球のリーグ戦でも大活躍されたというのが凄い。

・東京帝大を卒業すると瀬川さんは最初、映画プロデューサーを目指す。当時ハリウッドのプロデューサー・システムを採り入れていた新東宝の製作部に入社するが、次第に演出に興味を持つようになる。1950年には同社の助監督部に異動して、阿部豊、松林宗、中川信夫などに師事している。1957年、新東宝が大蔵貢のワンマン体制に移行して従来のような自由な映画作りが困難になると、退社を決意する。フリーのシナリオライターになったのだ。そして、1959年、東映の契約助監督となる。

1960年には、『ポンコツ』で監督デビューを果たし、以後、デビュー間もない三田佳子をヒロインに迎えたミュージカル・コメディ『乾杯! ごきげん野郎』や、不器用に生きる男の生きざまを描いた『馬喰一代』など、独自の作風で注目を集めてゆく。アクション映画や文芸映画を手掛ける一方、エノケンと愛称された榎本健一などの浅草出身コメディアンを起用して喜劇に才能を発揮する。そして1967年、東宝や松竹に対抗して東映が立ち上げた喜劇「列車シリーズ」の監督を任される。これが瀬川さんの名をいやが上にも高めることになる。旧国鉄の協力を得て、全国各地の鉄道や観光地が登場する渥美清主演のこのシリーズは、計3本作られ好評を得たが、列車シリーズを高く評価した松竹社長・城戸四郎から「松竹の正月映画で列車シリーズをやってほしい」との誘いを受け、翌1968年には松竹に移籍。山田洋次監督の『男はつらいよ』第一作の同時上映作品として「旅行シリーズ」の一作目『喜劇・大安旅行』をフランキー堺主演で監督したのだ。

・列車シリーズの主人公が鉄道の車掌で固定されていたのに対し、旅行シリーズでは主人公は観光地の鉄道駅に勤務する駅員か駅長なども演じるようになり、作品に登場するロケ地もよりスケールアップして(『喜劇・誘惑旅行』ではフィリピン・ロケを敢行したことも)、喜劇であると同時に観光地映画という独自のジャンルを確立することになる。緻密に練られた構成の妙と、伴淳三郎やミヤコ蝶々などベテラン喜劇俳優を巧みに使いこなしてヒット作を量産する瀬川さんの演出手法は、城戸四郎から絶大な信頼を得ることとなり、1969年の年頭挨拶において城戸は「瀬川を見習え」と全社員に訓示するというエピソードを残している。

・なお、松竹に移籍した背景には、東映で保留されていた学習院の先輩・三島由紀夫の小説『愛の疾走』映画化の企画を進めるという瀬川さんの意図があったが、旅行ものがシリーズ化されたために、『愛の疾走』の企画は立ち消えとなったらしい。瀬川さんとしては痛恨の極みだったに違いない。旅行シリーズは計11本制作され、1972年の『快感旅行』で終了(のちに番外編としてTVドラマ『喜劇団体旅行 開運祈願』がフランキー堺主演で作られた)。松竹では他に、渡辺祐介がメインディレクターを務めた「全員集合!!シリーズ」の『ザ・ドリフターズのカモだ!!御用だ!!』と『正義だ!味方だ!全員集合!!』、前田陽一が立ち上げた「喜劇・男シリーズ」の『喜劇・男の泣きどころ』と『喜劇・男の腕だめし』を手掛けている。

1978年に瀬川さんは松竹を離れ、1984年ににっかつ(日活)ロマンポルノ『トルコ行進曲・夢の城』で映画界カムバックを果たす。この頃から、社会の最底辺にいる水商売の女たちや芸人たちのプロフェッショナリズム賛歌を喜劇タッチの中に盛り込むようになり、ビートたけしやタモリなどテレビタレントの意外な一面を引き出すことに成功した。瀬川さんの人間観察の透徹した目が引き出したものである。1990年の『Mr.レディー 夜明けのシンデレラ』でも、プロ根性のあるニューハーフを芸人と見なし、そのプロフェッショナリズム礼賛を喜劇タッチで描いたこともある。

晩年近くなっても、映画への情熱は衰えない。映画界への恩返しの意味もあったのだろうか、瀬川さんは2009年、俳優育成のため瀬川塾を立ち上げている。瀬川塾を立ち上げて3周年の記念特別公演として現在のラッパ屋の原点とも言われる鈴木聡作『凄い金魚』を築地本願寺のブディストホールで上演したことがある。出演は瀬川塾の塾生たち。そのほか協力出演として山口ひろかず(コント山口君と竹田君)、村山竜平というベテラン俳優2人が力強く支えていた。ご案内をいただいたので、清流出版のメンバー総勢10人でこの『凄い金魚』の観劇に出かけたのを思い出す。160席のホールは超満員で、熱気に満ち溢れていた。笑いとペーソスに満ちたノンストップの2時間で好感の持てる舞台だった。この時瀬川さんは87歳だったはずで、まだ演出家として現役バリバリで活躍されていることが我がことのように嬉しかったことを覚えている。

・瀬川さんの1歳年上の兄・瀬川昌久さんも東京帝国大学法学部の卒業。富士銀行に入行し、ニューヨーク支店駐在中からジャズ評論を開始され、退職後は、音楽関連レクチャーやコンサート企画などを精力的に行ったことで知られる。弊社からも『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』(定価2100円、200510月刊)を刊行させていただいた。さらには三男・瀬川昌昭さんも東京帝国大学政経科を卒業し、NHKに入局。社会番組部長などを歴任され、現在は()瀬川事務所の社長である。まさに秀才三兄弟だが、皆さん趣味が高じて実業として成り立たせている。これが僕にはうらやましい。最後に瀬川事務所を統括する三男・瀬川昌昭さんが、瀬川三兄弟について語った言葉がある。引用させていただいて、瀬川昌治さんを偲ぶこの文を終えたいと思う。

・≪瀬川昌昭さんの文≫――

少し長くなりますが私たち兄弟のことをお話したいと思います。振り返ってみると私は二人の兄の背を見て生い立ち、そして人生を過ごしてきたような気がします。少年時代まで私たち兄弟は両親の愛情に育まれ、環境と情報を殆ど共有して育ちました。その3人が別の道を歩み始めたのは第二次世界大戦が契機でした。私たちに戦前派にとって戦争は大東亜戦争とよばれていました。長兄の昌久は幹部候補生を志願して海軍経理学校に入学、次兄の昌治はやはり幹部候補生として徴兵され、陸軍の、今で言えば特殊部隊人間魚雷の搭乗要員の訓練部隊に身を投じました。

年齢が1才徴兵に届かなかった末弟は旧制高校1年生で、勤労動員という名のもとに兵器工場に派遣されました。海軍、陸軍、学徒勤労隊とそれぞれ違う世界を見ることになります。当時の若者にとって出征することは再び生きて会えないと覚悟することでした。出征する兄たちとの別れ際に「もし空襲で家が燃えたら何を持ち出すか?」遺言を訊くつもりで尋ねたことを思い出します。昌久は「レコード」と答え、昌治は「本」と言いました。レコードは兄が戦時中に東京神田の古レコード屋を廻って集めていた内外のジャズのSP盤、昌治の「本」は太宰治や田中英光が多かったと記憶しています。

私たちの家は昭和207月、最後の東京大空襲で延焼しました。家を守っていた私は庭に掘った防空壕に「レコード」と「本」を運びましたが、お宝の大部分は灰と化してしまいました。命ながらえて終戦後間もなく再会の日を迎えた3兄弟はその後三人三様の道を歩き始めます。昌久は法学部で庭球部、昌治は文学部で野球部、私は経済学部で陸上競技部でした。仕事も銀行員、映画監督、テレビディレクターとサイクルが全く違いました。時は夢のように過ぎ、そろって21世紀を迎えることになった次第です。

少年時代から夢だったジャズ専門家を達成した昌久は、今でも夜11時に帰宅、ジャズをきき、原稿を書いて午前2-3時就寝、10時前後起床すると慌しく朝食をとって外出します。「3人でめし食おうよ」というと手帳を開いて、「今月は空いてないな、来月の20日ごろどうだ」と言うような始末です。監督の兄も留守がちです。問い合わせると「今週はシナリオでカンヅメなのよ」と兄嫁が教えてくれるという具合です。

70の声を聞いた頃から、私は自身「老い」を感じるようになりました。体に色々な不具合が生じます。こころにも老いを感じます。「昔ならこんな仕事は半日で片付けられたことなのに」頭が廻らない、動作が遅いもどかしさをたびたび自覚しては年を思うようになりました。でも3才、4才年上の兄たちは殆ど老いを感じていないように見えます。それなら俺もあと3年、4年は大丈夫かなと気を取り直します。そんなときふと思いつきました。高齢化社会、60才以上の人口が4人に1人になった日本で、同じシニア又は高齢者の同世代の仲間たちは加齢をどう捉えているのだろう。もし残る人生をその人たちと共有できたらそれは素晴らしい人生のフィナーレとなるのではないか? 兄たちも賛同してくれました。

私たちは大したことはできません。できることは我々が一生で蓄積してきた事々を語り伝えることぐらいでしょう。高齢者には限りません。人生を語り伝えたいと言う思いを持つ方に1人でも多くここに来て語っていただければ幸いです。私はこの「イーライフストリート」のデジタル広場で言いたい、話したいと思うことを記録して行きたいと考えています。また自分の経験やアドバイスで皆さんの悩みやストレスが解決できたらなお素晴らしいと思います。老いてもなお、志を持ち続けたいと願う方々はぜひストリートを散歩して下さるよう願っております。

・瀬川3兄弟、よく分かったと思います。各々、ご自分の才能と、得意なジャンルを、お持ちになっている。このような棲み分けがあると、喧嘩にならず、理想的な兄弟関係が成立する。本当にうらやましい兄弟愛だ。

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