2016.06.17藍染作家・陶芸家の菅原匠さん

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菅原匠さんの個展案内状

 

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会場の前で菅原匠さんと奥様の麗子さん

 

・菅原匠さんの「藍染とやきもの展」が例年通り開催された。会期は525()から30()までの6日間。会場は松屋銀座8階のイベントスクエアである。僕はこの時期、菅原さんの個展を見に行くのをいつも楽しみにしている。白洲正子さんが絶賛していたように、藍染作品が剽軽でとても魅力的なのだ。実は、弊社の応接室入口にも菅原さんの藍染暖簾がかかっている。会場で気に入って会社用に購入したものだ。モチーフは山道をゆく西行の後ろ姿である。飄々とした絵柄は温もりがあり、生き馬の目を抜くようなビジネス世界に一服の清涼剤となっている。菅原さんの藍染の制作過程はユニークなものだ。一般的には型紙や下絵を用いて図柄を描くものだが、菅原さんは「指描き」や「筒描き」で麻布に直に図柄を描いていく。自信と技術的な裏付けあればこその技法である。そのデザインが前述したように愛嬌があるというか、遊び心に満ちたもので、思わず笑みがこぼれるのはいつものことだ。今回の案内状にも藍染と設楽焼が一点ずつ印刷されていた。藍染は泳ぐ亀が描かれた麻布・筒引の暖簾である。表情がユーモラスでこれぞ菅原さんの本領発揮といった作品である。焼き物は設楽焼の飛雲文壺で、これも現物を見たくなると思わせるものだった。


・そしてこれは極めて個人的な興味だが、僕が菅原さんの個展を楽しみにする理由がもう一つある。菅原さんのファンは、やはり大半が女性で美人が多いのも特徴である。何回か会場でお会いした菅原匠ファンのお嬢さんがいる。この方は気に入った作品があると購入するというが、会期中、何回も訪れるらしい。だからお会いできる確率も高くなる。僕好みの美人なので無理を言って、菅原さん夫妻と一緒に写真を撮らせていただいたこともある。今年もお会いできたらな、と心密かに思っていたのだ。

 

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生けられたイボタノキが芳香を放っていた

 

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藍染作品 暖簾と染織

 

・会場は藍染作品と焼き物類で埋め尽くされていた。展示の仕方も藍染と焼き物をコラボさせている。藍染の敷物の上に花を生けた焼き物壺が飾られている。生けられた草花や草木は、すべて大島のご自宅から切ってきたものだ。この日も会場に入ってすぐにいい香りに包まれた。生けられたイボタノキの芳香が、会場内に漂っていたのだ。心憎いばかりの演出である。藍染の暖簾もいいが、現代風にアレンジした藍染のリュックも出品されている。このあたり、実に菅原さんの考え方は柔軟なのだ。伝統の技である藍染で、リュックを作るなど、なかなか発想できることではない。そんな発想の柔軟性は焼き物にも発揮されている。それが焼き物の仏像である。すでに京都のお寺に収めた仏像もあるらしい。通常、仏像は型で抜いて作る。ところが、菅原さんは藍染同様、手作りにこだわる。手間暇かけて、オリジナル作品を生み出していく。大したプロ根性である。

 

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この遊び心こそ菅原さんの真骨頂だ

 

・菅原さんの交友関係は広い。お師匠さんが、あの水原徳言翁だとはうなづける。水原徳言とは、あの世界的なドイツの建築家、ブルーノ・タウトと深く親交のあった知の巨人である。タウトはご承知の通り、桂離宮の名を世界に知らしめた世界的な建築家。水原徳言は、日本における、ブルーノ・タウトの唯一の弟子と言われている。類まれな才を発揮し、都市計画、建築、デザイン、美術、商業に多くの影響を与えた人物だ。1911年に生まれ、1930年、井上房一郎が高崎で始めた工芸製品活動に参加した。タウトが高崎に滞在し、工芸製品制作の指導に関わるようになった際、共同制作者、協力者として活動したことで知られる。実は菅原さんと織司・田島隆夫さんとはごく親しい間柄なのだが、この二人を結び付けたのが水原徳言翁だったという。菅原さんは十代の頃から水原徳言に私淑していたらしい。三十数年前のある日、徳言翁にこう言われたのだという。「行田の田島隆夫さんは、江戸時代の紬のような良い布を織っている。訪ねて行って勉強させてもらったらどうか」と。

 

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陶器と藍染のコラボレーション

 

1972年、初めて田島さんの織った織物を見た菅原さんは衝撃を受ける。「田島さんの織物は、配色といい、縞模様といい、風合いといい、すべてが過不足ないバランス。素朴でいて、高雅な詩情すら醸し出していました」。染織工芸に関して造詣が深かった白洲正子さんは、乞われて銀座で「こうげい」という店を任されていたことがある。白洲さんが四十代も半ばの頃のことだ。古澤万千子、志村ふくみといったすぐれた工芸作家も白洲さんとの交流で技を磨いていく。この店に織物を納めていた職人の一人が田島隆夫さんである。田島さんが初めて白洲さんに会ったのは、昭和三十五年頃のこと。柳悦博の紹介だったという。田島さんの織物は地機織りという。晴れ着よりも普段着を目指したものだった。一般の手織りの機より、風合いのいい織物ができた。だからこそ、普段着にはピッタリだったのだ。厳しい審美眼の持ち主であった白洲さんのお眼鏡に叶ったのだから品質は一級品だった。実際、白洲さんが亡くなって後、白洲家の箪笥からは畳紙に包まれた十数点の田島さんの織物が出てきた。よほど気に入っていたのだろう、大切にしまい込まれていたという。

 

・菅原さんは書画も趣味で描いている。趣味というには失礼なほど、レベルは高い。田島さんは大島に菅原さんを訪ねて、一緒にスケッチをしたという。菅原さんの運転で、尾瀬にドライブがてら、スケッチ旅行に行ったこともある。二人で妙義山を描いた時のエピソードが面白い。描いているうちに日が陰ってきた。そこで車のライトをつけて描いた。ついには妙義山も見えなくなってきた。星がまたたき始めても書き続けた。家に帰って二人の絵を見比べてみると、菅原さんの山の絵はいかにも妙義山らしかったらしいが、田島さんの絵は真っ黒に塗られていたという。田島さんは真っ暗になったら、黒く塗るより仕方なかったと言ったらしい。絵の中の嘘を嫌う、田島さんらしさがよく表れている。

 

・大島のご自宅には、田島さんの書画がたくさん残されている。それもいいものばかりが。なぜなのか。実は田島さんは藍染に菅原宅を訪れると、何日かは泊まっていくことになる。前述のように、スケッチに出かけたり、近隣から草花、草木などを取ってきて、自宅で描くこともあった。そして帰る時に、描いた作品群の中から、泊まり賃代わりに、特に気に入ったものを何点か菅原さんに選ばせたという。だから遊び心が横溢した素晴らしい書画が、ご自宅に所蔵されているわけだ。機会があったら是非、この作品群を見せてもらいたいものだ。ついでといってはなんだが、蔵には李朝の壺だけでも、相当数お持ちらしい。菅原さんは贋作も相当混じっていると思うとおっしゃるが、それはそれで興味深い。是非、見せてもらいたい気がする。

 

・焼き物を焼く時期は、寒い時期である。菅原さんも窯の火入れは11月から12月が多い。通常使用する薪は、備前から取り寄せた赤松を使うという。焼き物を焼く登り窯も敷地内に持っている。今回展示されていた焼き物も、厳冬期にご夫妻が寝ずの番をして窯を焚き、焼き上げたものだ。火を絶やさず、不眠不休で薪をくべ続けるのは大変な重労働であるが、ご夫妻は自分たちだけでこれまでも焼き上げてきた。信楽焼きの「波文壷」「高坯形花生」、お手軽なところでは、お猪口にご飯茶碗などまで、実に多彩で色も上品な色合いである。

 

・伊豆大島の古い民家で、李朝の壺などの骨薫に囲まれ、自然とつかず離れず暮らしている。奥様の麗子さんとお話できたので聞いてみると、窯焚きはやはり年々相当な重労働になっているらしい。でも、二人力を合わせて、やれるところまでやってみたいとの決意を述べられた。それに菅原さんの体調に関していえば、小麦粉のグルテンアレルギーがあるのだという。菅原さんの鼻が赤く見えるのは、そのアレルギー反応の現れで、酒焼けに見られることもあるらしい。つまり酒好きの?兵衛と思われることが多いらしいが、実際には下戸の口だという。だからパンが大好きな菅原さんだが、原料を小麦粉でなく米粉にするなど厳選しないとアレルギー反応が出てしまうらしい。会場で菅原さんに、パンを差し入れておられたご婦人がいたが、こんな暮らしぶりと温かな人脈に恵まれた菅原さんが僕は羨ましくなった。

ところで前述した菅原ファンのお嬢さんであるが、残念ながら今回お会いできなかった。まあ、ご縁があればきっとまたお会いできるだろう。来年の個展を待とうと思う。