2015.11.24天満敦子さん、岡田博美さん

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10月23日(金)、紀尾井ホールで開催された天満敦子さんと岡田博美さんのデュオ・リサイタルのポスター。


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紀尾井ホールの玄関口で、窪島誠一郎さんと会う。藤木健太郎君と僕。

・去る10月23日(金)、東京千代田区の紀尾井ホールで毎年開催している天満敦子、岡田博美のデュオ・リサイタルが行われた。午後7時の開会を待つ観客たちは期待を胸に紀尾井ホール玄関前に集まった。僕もその一人である。今年も天満さんのヴァイオリンが聴ける、つまり生きている幸せ感で一杯である。その中に、清流出版の出版部門で何冊かの本を出させて頂いた窪島誠一郎さん(上の写真右)もいらっしゃった。早速、藤木健太郎君と僕は挨拶した。会場内の雰囲気は、アットホームな雰囲気がある。観客は応援団のようなものだからである。パンフレットにはこんな文章が綴られていた。――ふるさとを想い、涙する。人生はさすらう旅人のようなもの――。人生の旅路を一つのコンセプトにして、企画されたコンサートの内容構成、隠しテーマを暗示させていた。
 
 プログラムには、「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調よりアルマンド」(バッハ)、「3つの演奏会用の練習曲より “ため息”」(リスト)、「ヴァイオリン・ソナタ第6番ホ長調」(ヘンデル)、「ヴァイオリンとピアノのためのソナタニ長調」(間宮芳生)、「アヴェ・マリア」(バッハ・グノー版)、「シチリアーナ」(フォーレ)、「白鳥」(サン=サーンス)、「旅人の詩」(小林亜星)、「ヴァイオリンとハープとオーケストラのための雅俗二譚 ピアノ・リダクション版」(和田薫)。そして天満さんの代名詞である定番「望郷のバラード」(ポルムベスク)とバラエティに富んだもの。これまで毎年聴いてきたが、このデュオ・リサイタルは今まで期待を裏切られたことがない。     

・見た目からも、音からもすぐにわかるが、お二人の音楽性の違いの大きさに改めて驚かされる。天満さんのヴァイオリン演奏は天衣無縫とでも言おうか、自在に音色が飛翔する。ヴァイオリンは名器アントニオ・ストラディヴァリウス「サンライズ」であり、弓は伝説の巨匠ウージェーヌ・イザイ遺愛の名弓である。豪放な音楽ともいうべき天満敦子さんと、完璧なテクニックでクールに、そして繊細な音楽を作り出す岡田博美さんの絶妙のコンビである。このお二人の演奏家の資質がうまく合っているのだ。岡田さんの弾くピアノの切れ味、リズム感のよさは抜群である。それに天満さんの弾くストラディヴァリウスは、まるで複数の奏者が弾いているような超絶技巧に裏打ちされた個性あふれる音色である。 
 
 また演奏の第1部を終えて天満さんが語る語りのうまさ。場内を笑いの渦に巻き込んでしまう。こうしたステージへの強烈な自己投入が、彼女の魅力ではないだろうか。ただ、その裏に秘められた深い譜読みと、絶えざる研鑽の日々を知る人は少ない。今年は、去る9月5日に、「松本市四賀音楽村」が発足し、村長の天満敦子が誕生した画期的な年となった。小沢征爾に次いで松本に音楽の名所が一つ増えたことになる。また、天満さんのご母堂の故・時子さん(旧姓・佐藤)は福島県相馬の出身ということもあり、天満さんは被災地に関心が深く、東北などの地方公演にも積極的だ。一方、富山県出身の岡田博美さんは、1984年からロンドンに居住していたが、今年の4月から桐朋学園大学院大学(富山県富山市)の教授に就任した。お二人それぞれに環境が変化し、心境も新たに演奏もリフレッシュすることができた。ファンとしては誠に喜ばしい限りである。

・天満さんの才能は幼少の頃から抜きん出ていた。東京都のご出身で、6歳よりヴァイオリンを習いはじめ、小学校時代、NHKTV「ヴァイオリンのおけいこ」に出演。講師の故江藤俊哉氏に資質を認められて音楽家への道を志した。東京藝大在学中に日本音楽コンクール第1位、ロン・ティボー国際コンクール特別銀賞等を受賞して注目を浴びる。海野義雄、故レオニード・コーガン、ヘルマン・クレッバースらに師事している。
 
 1992年「文化使節」として訪れたルーマニアでは、「ダヴィッド・オイストラフ以来の感激」(同国文化大臣)との高い評価を受け、公演は空前の成功を収めた。翌年この訪問が縁で巡り会った同国の「薄幸の天才作曲家」ポルムベスク(1853年から1883年)の「望郷のバラード」を日本に紹介、以後この作品は天満敦子の代名詞とさえ言えるほどのクラシック界異例の大ヒット曲となり、彼女の名声を不動のものにした。憂いをおびた美しい旋律とともに、曲に秘められたエピソードも話題をよんだ。ポルムベスクは、大学生に進み、ルーマニア学生協会「アルボロアサ」の議長を務め、それがオーストリア当局に反体制分子とみなされて、逮捕投獄の憂き目に遭う。その投獄中に肺病にかかり、三十歳足らずで命を落とす。わずか十年ばかりの間、二百曲以上の作品を残した。「バラーダ」は、故郷への募る思いが哀切なメロディーを生み、切なげにむせび泣くメロディーをより一層ドラマチックに彩り、聴く者の琴線を震わせる効果がある。朝日新聞朝刊に1998年7月から1年余り連載された小説『百年の預言』(著者は芥川賞作家・高樹のぶ子)に登場する情熱の女主人公走馬充子(そうまみつこ)は天満敦子さんがモデル。作品を貫いて流れる憂愁の旋律<バラーダ>は、言うまでもなく「望郷のバラード」である。
 
・冒頭写真でご紹介したように、僕は無言館館主兼作家・窪島誠一郎さんと会うのを楽しみにしている。窪島さんと天満さんは、お互いを「あっちゃん」、「せいちゃま」と愛称で呼び合うほどの間柄である。その窪島さんから天満さんの知られざる過去についてお聴きしたことがある。その話を基に、僕なりの解釈をしてみる。ここからは、以前書いたものとあまり変わりがないが、「事実は小説より奇なり」という証拠をお見せしたいがゆえに、繰り返しになるがご披露したい。

 天満さんのご母堂は、東京女子大学で瀬戸内晴美(現・寂聴)と同級生だった。その瀬戸内さんと作家の井上光晴さんが恋愛関係になった。きっかけは、ある書店主催の講演会。講師は瀬戸内晴美、井上光晴、大江健三郎の売れっ子3人である。この講演会で、瀬戸内晴美の恋心が弾ける。井上光晴の飴をつまむ白い指の繊細な優雅さ。大学講師や助教授といわれても違和感のない着こなし。全身から石鹸の匂いが漂うような清潔感。たちまち瀬戸内晴美は井上光晴と恋に落ちる。井上には妻と二人の子供がいたが、二人の恋愛関係は8年間にわたって続く。この関係を断ち切るには、生半可なことでは済まない。瀬戸内晴美選んだのが出家だった。戒師を引き受けた今東光和尚の「下半身は?」の問いに、キッパリ「断ちます」と答えたのが、まだ女盛りだった51歳の時である。晴美から寂聴となり、京都・寂庵を拠点に、旺盛な執筆意欲は今に至るも、まったく衰えていない。

・だが、もっと面白い話があった。井上光晴と瀬戸内晴美が恋愛関係になる前、天満敦子さんが高校生16歳の時のこと、御茶の水で作家の井上光晴に見初められたのだという。井上光晴、45歳の時だった。書店・勁草書房の窓ガラス一面にでかでかと井上光晴の顔入り書籍宣伝ポスターが貼ってあり、天満さんがそれをしげしげ眺めていると、当の井上光晴に声を掛けられたというのだ。天満さんが、問われるままに「この先の芸大附属高校に通ってるんです」と応えると、「この近くの『ジロー』でケーキでもご一緒しませんか」と誘われたのである。以来、年齢差30歳余りという稀有な交際が始まったのだという。

・井上光晴の仲間たちには、埴谷雄高、島尾敏雄、野間宏、橋川文三、秋山駿など錚々たる文士たちがいた。この一流文士たちが丁々発止と文学論を闘わす中に、天満さんはひょうひょうとして溶け込んでいたのだ。「この子は天才だ」という井上さんの言を柳に風と受け流し、いわば天満さんは才能あるかわい子ちゃん的存在で、オジサマ殺しの青春時代を送ったのだと思う。だが、一流文士たちとの交流は、天満さんを人間的に成長させた。素晴らしい感性と胆力は、知らず知らずのうちに鍛えられたのであろう。井上光晴の長女・井上荒野さん(直木賞作家)より6歳年上の天満さん。人間の出会いの不思議さを思う。人間の営みって、時に複雑でドラマチック。だから人生は面白いとつくづく感じ入った。

・のちに政治学者・丸山眞男も熱烈な天満ファンになり、わけても天満さんの弾くバッハの「シャコンヌ」を熱愛した。後年、丸山さんが亡くなって偲ぶ会が行なわれたときもその曲を弾いている。丸山さんの魂が乗り移って「人生の軌道を変える出来事」のように思われる経験だったと天満さんは述懐する。なお、天満さんはヴィターリの「シャコンヌ」も演奏会でしばしば弾き、どちらの曲も僕は大好きだ。1992年、天満さんの後見人ともいうべき井上光晴さんががんで亡くなった。天満さんにとっても、これは大きな人生の曲がり角だった。井上光晴さんの「ヴァイオリン一筋でいけ。わき目を振るな」「本物を見つめろ」「あんたは本物になれ」の言葉を守り通したことになる。 

・ここでピアニストの岡田博美さんのプロフィールもご紹介しておきたい。富山県のご出身。安藤仁一郎、森安芳樹、マリア・クルチオに師事する。桐朋学園大学に在学中、第48回、「日本音楽コンクール」で第1位優勝。 桐朋学園大学を首席で卒業後、1982年、「第28回マリア・カナルス国際コンクール」で第1位(スペイン音楽解釈特別賞を併せて受賞)、 1983年、「第2回日本国際音楽コンクール」ピアノ部門で第1位、1984年、「第2回プレトリア国際コンクール」にて第1位(リサイタル賞を併せて受賞)と 次々に優勝を果たし、内外の注目を一身に集めることになる。以後、1984年より在住するロンドンを中心に、東西ヨーロッパ各地で演奏活動を続け、日本においても毎年意欲的なプログラムによるリサイタルが好評を博している。先にふれたことだが、今年の4月から桐朋学園大学院大学(富山県富山市)の教授に就任した。今回の天満敦子、岡田博美のデュオ・リサイタルが行われた翌日は、岡田さんの富山におけるコンサートが開催される予定で、間に合うかどうか心配で、朝一番の北陸新幹線を利用して行くとおっしゃった。普段は無口な人なのに、珍しく演奏終了後にそんなお話をされた。

・また、天満さんのコンサート会場でよくお会いするのが小林亜星さんだ。亜星さんは熱烈な天満ファンであり、天満さんも亜星さんの作った「ねむの木の子守唄」「旅人の詩」「落葉松」等をコンサート会場で演奏されている。もともと大の演歌好きでもあった天満さんは亜星さんと意気投合し、ヴァイオリン編曲版の「北の宿から」を含め、これまでに多数のコラボレーションが実現している。2009年5月27日にはデビュー30周年記念盤として、亜星さんとのコラボレーションを集大成したアルバム『ロマンティックをもう一度』が発売されている。亜星さんは天満さんのヴァイオリン演奏を次のように評している。「私は天満さんの演奏を聞く度に、メロディーに生命を与えることのできる、真の天才を見る気がします。天満さんこそ私の思う“ロマンティック”な音楽を表現してくれる人なのです」と……。
 
 今日のプログラムでは、「旅人の詩」を演奏された。「江戸時代の東北地方、奥の細道を独り辿る俳人・松尾芭蕉の旅姿が曲の背景にある。主旋律は“音楽とはメロディー”と語る小林亜星さんが、漆黒の夜の海上を北に向かって飛ぶ渡り鳥の群れを描いたTV映像につけた哀切な音楽である。通り過ぎていく村から聴こえる、かすかな祭りの歌声、そして菅笠に降りかかる雪片。孤船の情景描写が聴く者の胸を打つ……」(中野雄氏による解説文からの抜粋)演奏が終わった後、僕の客席のすぐ傍に座っていた小林亜星さんが立ち上げって演奏された天満さんと岡田さんに感謝のお辞儀をし、周りの観客に挨拶をされた。

・もう一つ、今度のコンサートで少し述べておきたいことがある。コンサートの最後の番組で、和田薫さんの「雅俗二譚」〈ピアノ・リダクション版〉についてである。本年3月、天満さんとサンアゼリア・フィルハーモニカによって初演された。作曲家自身による曲目解説文より一部抜粋すると、第1譚は、自由な形式による吟遊的な構成でヴァイオリンの抒情的な側面が表現されている。第2譚は、動―静―動の形式で律動と旋律の相対、叙情と熱情の相対が表現されている。タイトルの「雅俗」とは、一般には上品なものと俗っぽいものと理解されるが、和田薫ご本人は、相対する概念とし、人の普遍性を表出する意味を包括したと話している。この曲は、圧倒的に素晴らしく感動的だった。藤木君などは同じ列に座った誼で、和田薫さんにプログラムの当該ページにサインしてもらったほどだ。

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和田薫さんがプログラムへサインしてくれた。咄嗟の早業で、この貴重なサインは、藤木健太郎君の宝物になった。

・ポルムベスクの「望郷のバラード」の演奏が始まった。120年の歳月の彼方から掘り起こし、世に広めたルーマニアの秘曲だ。1977年、ドイツ旅行中だった外交官岡田眞樹は、郊外の小さな町で毎夜同じ曲を演奏する、ルーマニア人の音楽家イオン・ベレシュに注目した。 彼はチャウシェスク政権を逃れて亡命中であり、故郷を想ってその曲を弾いているのだと岡田さんに語る。ベェレシュは楽譜を岡田さんに手渡し、「この曲は、貴方が感動して私の楽屋にたずねて下さった、あの秘曲のバラードです」「昔に書かれた音楽ですが、私は亡命以来、この譜面を手放したことがありません。この曲に注目されたあなたに、この楽譜を上げます」「出来れば、この曲を弾けるバイオリニストを見つけて、私が知らない日本で演奏していただけるといいのですが」と、頼んだのである。その後、岡田氏は仕事で多忙を極め、約束を果たしたのはそれから15年後のことになる。 1992年、天満敦子さんのルーマニア公演で彼女のヴァイオリン演奏を聴いた岡田さんは「望郷のバラード」を託すべきバイオリニストは天満敦子さんしかないと思い、この楽譜を天満さんに渡す。天満さんの「望郷のバラード」の初演は1993年春非公式なサロン・コンサートで行われた。以来、この曲は天満さんにより日本各地で演奏される。この秘話とともに多くの日本人ファンに支持されたのである。たった一台のヴァイオリンから圧倒的な音量が紡ぎ出される。何度聴いても素晴らしい。憂いを帯びた美しい旋律と、曲に秘められたエピソードを知るたびにますます好きになった。

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コンサート終了後、ホテル・ニューオータニのレストラン「SATSUKI」で、天満さんにばったり。天満敦子さんをはじめ、常連を引き連れていたのは、窪島誠一郎さんだった。