2015.09.24西江雅之さん

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西江雅之さんは清流出版にしばしば来社され、刺激的な文化論を語ってくれた。


・年を取るということは、多くの別れを経験するということでもある。僕も75年の人生の中で、近親者はもとより、たくさんの親しい友人・知人を失った。親友の死によって、生木を裂かれるような、つらい思いも何度かしてきた。つい最近も、僕にとってショッキングな訃報が伝わってきた。
  各紙に《6月18日、西江雅之氏、死去する。文化人類学者、言語学者。膵臓ガンのため東京都内の病院で死去。77歳。葬儀は近親者のみで営まれた。後日、偲ぶ会を開く予定。喪主は長男アレンさん》と、報じられたのを見て絶句したものだ。
  たまたま、本欄の2015年4月27日に、先輩の千代浦昌道さんのことを書き、その文章中に「……部活動で伝説の泰斗に出会うことになる。語学の天才として有名だった早稲田大学高等学院の三年先輩で、早大政治経済学部卒の西江雅之さんである。西江さんは、早くからインドネシア語、フランス語、中国語、ロシア語、アラビア語、ハンガリー語等を独習していた。その後、ポリグロット(多言語を操る人)で知られることになる語学の天才は、スワヒリ語からサンスクリット語まで数十ヵ国語の言語を話し、終生、僕の尊敬する方となった」と書いた。この時からわずか2ヶ月と経たず、西江雅之さんの訃報に接することになろうとは。真に惜しい方を喪って、残念無念でならない。

・西江雅之さんは、早稲田大学政治経済学部卒、同大学文学部英文科3年次に学士入学、同英文科卒業(卒論はリチャード・ライト)。同大学大学院芸術学専攻修士課程修了。大学院時代は2年間にわたりエドウィン・O・ライシャワー駐日アメリカ大使の娘ジョーンの家庭教師を務めた。その後フルブライト奨学生として渡米し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校大学院アフリカ研究科で言語学を学んでいる。
  早稲田大学、東京大学、東京外国語大学、東京藝術大学などで教鞭をとるほか、アジア・アフリカ図書館館長などを歴任している。1984年にアジア・アフリカ賞を受賞。エッセーも数多く執筆し、著書に『花のある遠景』、『異郷日記』、自伝『ヒトかサルかと問われても』など数十冊がある。稀有な文化人類学者、言語学者だった。現地生活に溶け込んだ文化や言語研究を進めたことから「はだしの学者」、「歩く文化人類学者」とも呼ばれた。
  アフリカ諸語やピジン・クレオール語の研究の先駆者でもある。23歳の時、日本で初めてスワヒリ語文法を発表された。西江さんは数十ヵ語、一説には50以上の言語を方言も含めて流暢に話すことができたという。例えばナイロビの夜に会った女性がキクユ族だと知ると、スワヒリ語からキクユ語に切り替えて会話を続けたというエピソードが残っている。このような多言語を操る方は世界広しといえ西江さんが断然優れていたと思う。

・7月に入って、「西江雅之追悼“おと”と“ことば”の集い」実行委員会が立ち上がって、西江さんの懐かしい思い出やエピソードを語り合いながら、故人を「偲ぶ会」を計画された。8月29日(土)13:00から15:00まで、目黒区立駒場公園内、旧前田家本邸洋館と、日時・場所が決まり、実行委員会は西江雅之さんとご縁のあった方々に知らせたという。千代浦昌道さんの自宅にも電話があって、追悼会に出席できるか訊ねてきたという。その際、千代浦先輩が気を利かせて「案内状リストに加登屋君は含まれていますか?」と確かめてくれた。よき先輩に僕は恵まれた。そして、僕が出席できるよう手配してくれたのは、問い合わせ先の事務局・佐藤久美子さん(文鳥舎)と、千代浦さんが親しい幾代昌子さんだった。幾代さんは、西江さんや千代浦さんたち、僕も1年生の時しばらく在籍していたクラブ活動の早稲田大学フランス文学研究会(仏文研)の世話役だった方。彼女は現在、株式会社アウラ代表取締役として映像、映画の字幕制作、広告業界、音楽業界などの名プロデューサーとして鳴らしている。そういえば、先年亡くなった僕の親友・正慶孝さんが部活には関係ないが、幾代昌子さんのことをよく話題にしていた。僕の印象では、姉御肌で気風のよい先輩とのイメージが強く残っている。

・「偲ぶ会」の当日は、小雨がそぼ降る生憎の天候だった。道は込んでいて、わが家から千代浦さんの家まで大渋滞だった。やっとのことで千代浦先輩を拾い、会場を目指した。大幅に遅れて駒場公園の旧前田家本邸洋館にたどり着いた。会場用の車いすを借りて、長い列の後ろに着き、受付を済ました。その間、車いすを押してくださった千代浦さんが近くの方と話したのが、市川慎一さん(フランス文学者、早稲田大学名誉教授)だった。市川さんも西江さんと東長崎駅近くに在住し、僕と同じように18世紀の啓蒙思想が好きで、特にヴォルテール、ディドロ、ルソーなど百科全書の研究者だった方だ。その時、「加登屋さん、今日はありがとうございます」の声を聞いた。加原奈穂子さんだった。彼女は、文化人類学・民俗学専攻で、現在、早稲田大学、東京芸術大学、明治大学などで教壇に立つ方である。早稲田大学エクステンションセンターでも講義し、西江さんの一番親しい方と言ってよい方だ。弊社で『異郷をゆく』(西江雅之著、清流出版、2001年)を刊行した際に、何度かお会いしている。
偲ぶ会――「西江雅之追悼“おと”と“ことば”の集い」の模様

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ジャズピアニスト山下洋輔さんの“音”(おと)


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司会者の柳瀬丈子さんの“言葉”(ことば)

・「偲ぶ会」の模様をお伝えしよう。会場にはジャズピアニスト山下洋輔さんの弾く、素晴らしいジャズが流れていた。しばらく聴いていると、本日の司会者が登場した。この方、柳瀬丈子(たけこ)と名乗った。年の頃は、60代ぐらいの年恰好に見えた。しかし、西江さんのことを「まさゆきちゃん」と呼び、西江さんのお兄様と豊島区立椎名町小学校で同級生という。そして、西江さんの母上からピアノを教わったという話を聴いて、もっとお年を召していることが分かった。柳瀬さんの母堂と西江さんの母上とは、仲がよいお茶飲み友だちだったという。女性の年齢を失礼だが類推してみた。どう考えても80歳にはなるはずで、女性の年齢は本当に分らないものだと感じ入った。
  帰宅後、調べてみると、やはり柳瀬丈子さんは、1935年生まれで80歳であった。東京神田生まれの江戸っ子で早稲田大学文学部国文科を卒業されている。NHKの人気番組「こんにちは奥さん」の司会者に起用され、鈴木健二アナウンサーとのコンビで評判をとる。以後、各局の生活情報番組、教育番組の司会者、キャスターとして出演した大変な才媛であり、詩人、本郷歌会代表、「五行歌」同人。『風の伝言―柳瀬丈子五行歌集』の著書もある。確かに見るからに教養を感じさせる“雰囲気”を持っている女性であった。
  西江さんの親しい友人たちが次々に弔辞を述べた。まず、岩城晴貞さん(民族学、国立民族学博物館)が、全員に黙祷を呼びかけ、数分間いっせいに西江雅之さんのご冥福を祈った。西江さんの親しい友人たちが次々に弔辞を述べた。明かされる西江さんのエピソードは弔辞を超えた破天荒なものだった。親しかった友人たちがスピーチで披露するエピソードは、奇才・天才・変人として知られた西江さんらしい型破りで、突拍子もない話ばかりであった。あの西江先輩の生きざまである。さもありなんと僕は聞いていた。鈴木志郎康さん(詩人、映像作家)をはじめ、傑作なのは、囲碁の大竹英雄碁聖が、西江さんとの交流を語った。遠いアフリカの国から絵葉書をもらい、汚い字で表裏にびっしりと書くのが西江さん流の葉書。毎回、大竹さんは苦労して読んだという。ついでに、本日のジャズピアノの山下洋輔さんの話をピアノ演奏より“語り”が上手い(笑い)と評価された。僕は、大竹さんも話上手だと思った。
  山下洋輔さんは西江さんについて、こう語っていた。「ジャズミュージシャンにとってパーカーやモンクは生き続けているんです。死ぬことはない。パーカーやモンクとはいつでも対話できるし、いつだって学ぶことができる。ただ会うには、ちょっと遠いところにいる。西江雅之さんもそうです」と。この言葉はそのまま僕の気持ちでもある、そう思った。

・西江さんの来し方を少し振り返ってみよう。やはり幼少時から枠に収まるような人物でなかったことがよく分かる。父君は西江定といい、後に早稲田大学英文学科教授となった方だ。その三男として東京市本郷区駒込林町(現在の東京都文京区千駄木)に生まれている。4歳の時、武蔵野線(現在の西武池袋線)沿線の東長崎駅近くに移り住んだ。当時、僕の住まいとは、目と鼻の先である。その1年半後、父君の郷里、兵庫県宍粟郡城下村(現在の宍粟市)で疎開生活を送る。当時は一日のほとんどを野外で自然児として過ごし、自分で獲った野生植物や昆虫を主食にしていたというから凄い。
  敗戦後、小学校2年生のとき東京・長崎へ戻ってきた(駅の名前と違って、番地は西江さんが南長崎6丁目、僕が長崎6丁目)。小学校時代にはNHK素人のど自慢に出場し入賞、それがきっかけで東京放送児童合唱団に参加すると共に日劇で『鐘の鳴る丘』に出演したというから、後の語学の才もさることながら、芸術的な才能もお持ちだったのだ。芸能活動と併行して野外での冒険活動をも続行し、この時期には様々な野生動物を捕獲して食べたこともある。世界各地へ旅しても、その土地の食べ物で、何不自由無く暮らせたというその萌芽がここにある。

・西江さんはいうなればゲテモノ食いであった。『風に運ばれた道』(1999年、以文社刊)にこんな記述がある。――食べるということは、短期滞在者にとっては日常生活ではもっとも重要なことである。(中略)今後の数週間をどう過ごしていこうかと悩んでいる時に、「タトゥ(アルマジロの意)」という妙な名のレストランを裏町で見出した。期待もなしにガランとした店内に入り、席に付くと、無愛想な黒人のおばさんが真っ黒い手でメニューをわたしに突きつけるようにして差し出した。
  メニューを見ると、変わった料理ばかりである。サルの肉のソース煮、アルマジロ、バク(貘)、大トカゲ、アナコンダ(大蛇)、カイマン(鰐)、大ネズミ、トゥーカン(鳳冠鳥)、野豚、その他にもカピアイ、パキラなど普通はあまりお目にかからない名の野生動物の肉料理の名がズラリと並ぶ。こうなると、わたしの血が騒ぐ。早速、この店の看板であるアルマジロとサルの料理を、ビールと一緒に注文した。運ばれてきた皿の上のサルは、小型の種類のものらしい。それは身体のほんの一部でしかないとはいえ、そのブツ切り料理は生きている時の姿を想像させずにはおかない。
  二の腕の部分の黒ずんだ肉に齧りつくと、硬い骨とともに小さな鉱物片が不思議な歯ごたえを感じさせた。肉に小石が入っているはずはないと思って、ペッと吐き出してみると、それは散弾なのだった。他方、アルマジロはといえば、甲羅のように堅くて厚い皮付きの、長四角のブツ切りなのである。要するに、アルマジロを皮ごと切って、それをひっくり返して皮を皿の代わりにして料理したものなのである。出来上がりは板付きカマボコのようなものとなるわけだ。食べてみれば柔らかい良質の肉である。ビールは生温かくても、食欲は大いに進む。
  そうなると、バクにも手を出したくなる。夢を食うといわれるあのバクである。この肉もまた、癖がなく柔らかく美味である。だが、そんな動物を食べてしまえば自分には夢も希望もなくなってしまうのではと、少しは気になる。しかし、食欲は不安に優る。これからは、毎日、メニューに出ている全動物に計画的に挑戦してみよう。(以下略)――かくのごとくで、何でも食べられる人だったのだから恐れ入るしかない。

・早熟で頭がよく、昆虫や鳥類に親しみ、なんと48歳年上の『シートン動物記』訳者の内山賢次と交際している。その話は傑作で、ちょっと紹介しよう。当時、『シートン動物記』を翻訳されていた内山賢次さんが「あとがき」で、原書で意味がわからない部分があり、識者に問いたいと書かれたのである。西江さんはそれを見て、アメリカ・インディアン語の、それもツィムシアン族の言語と読み解き、その文意を訳者に知らせたというのだ。お二人が初めて出会う場面が傑作である。高校生の西江さんを見て、内山さんは当の本人とは露ほども思わず、てっきり父親の代理で来たものと思ったそうだ。
  また、早稲田大学高等学院では体操部に所属し、2年のとき器械体操の東京地区高校大会にて鉄棒で1位、全種目総合でチャンピオンとなる。運動神経まで、飛びぬけていたわけだ。このくだりは、鈴木志郎康さんの追悼の言葉でも述べられている。
  早稲田大学政治経済学部在学中は、独自に編み出した「二重時間割方式」(大学の授業科目をなるべく多く取り、授業に休まず出席し、その授業時間中はその科目とは別の自分の計画に従って外国語を学ぶというやり方)によって、インドネシア語・フランス語・中国語・ロシア語・アラビア語・ハンガリー語などを独習したという。傍ら、フランス文学研究会(仏文研)で鈴木康之(現在の鈴木志郎康)や阿刀田高、上田雄洸、高野民雄、佐々木孝次、もちろん千代浦昌道の各氏とも交際する。1959年秋、政経学部3年の時、早大生たちによるアフリカ大陸縦断隊に招かれて一員となり、東部アフリカ大陸における意思疎通の必要からスワヒリ語を研究。日本初のスワヒリ語の専門家となる。

・僕は大学に入学した時、早大高等学院の3年先輩で、数々の伝説の持ち主であった西江さんと是非お近づきになりたいと思った。だから大学時代、西江さんが所属していた仏文研に入ろうと思ったほどである。それはさておき、西江さんには、清流出版から2冊目の単行本刊行を依頼しており、ご執筆を快諾いただいていた。実は、西江さんは関係する大学(東京外国語大学、早稲田大学、東京大学、東京藝術大学)を退職されてから数ヶ月を費やして、中国、台湾のフィールドワークに携わってこられた。その研究テーマが「媽祖(マーヅォ)」だという。媽祖のことは、日本の新聞・雑誌・テレビ等でも、まだほとんど報じられていない。西江さんの話を聞いているうち、面白いテーマであったので、とても興味をひかれた。媽祖に関する詳細な、宗教、政治、社会生活等の取材結果が公表されれば、大きくクローズアップされそうな予感がした。
  編集を手伝っていただく井上俊子さんから、西江さんが原稿執筆にとりかかるということは聞いていた。だからその出来上がりを、首を長くして待っていた。西江さんは、超がつくお忙しい方である。そうこうするうちに時間が経って、ついに刊行にこぎつけることは叶わなかった。僕としては実に残念である。泉下の先輩に文句の一つも言いたいところだが、長い人生を振り返ってみれば、どれだけ多くのことを西江さんから学んだことか。そう思うと、もう謦咳に接することができない寂しさが込み上げてきた。僕には、「西江さん、長い間お世話になりました、有難うございました」という感謝の言葉しかないのだった。


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山下洋輔さんの“ことば”、ジャズピアノもさることながら、心に沁みた。


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鈴木志郎康さん(右)は部活の早大フランス文学研究会以来の付き合いを語る。


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囲碁の大竹英雄さんは、雄弁で西江さんと小指の長い共通点で笑いをとった。


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加原奈緒子さんは、文化人類学、民俗学専攻で、西江さんの一番弟子のような存在。


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息子のリチャード・アレン西江さん。普段はチェコのサッカーチームで、日本にはいない。西江夫人が、アメリカで長く闘病されていて、本日の喪主を務めた。