加登屋のメモと写真…: 2015年4月アーカイブ
加登屋のメモと写真…
2015年4月アーカイブ

千代浦昌道さん

清流出版 (2015年4月27日 16:56)

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「シェ松尾」の庭での記念撮影。左から千代浦淳子さん、千代浦昌道さん、僕の妻。


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わが家の前にある野川沿い公園で。千代浦さんご夫妻も桜見物を堪能してくれた。

・今回は、僕の先輩に当たる千代浦昌道さんについて書いてみたい。先日、千代浦さんの奥さんの淳子さんも交え2組の夫婦でお花見会と洒落てみた。お天気もよく絶好のお花見日和。満開の桜の花が青空に映えて美しかった。まず、成城学園の駅ビルで待ち合わせて、「グランファミーユ・シェ松尾 成城コルティ店」でフランス料理とワインを楽しんだ。「シェ松尾」の庭で記念撮影をし、その後、妻の運転で自宅に戻り、そこからほど近い野川沿いの桜並木を散策した。気の置けない友人夫妻との語らいである。身体の不自由な僕にとって、まことに幸せなひと時であった。

・ちょっと古い話をしよう。1959(昭和34)年は、僕が大学に入った年である。早稲田大学第一政治経済学部経済学科に在籍したが、メインの講義である政治学や経済学にはあまり関心がなかった。というのも論理や心理、倫理の要素をあまり含まないと思っていたからだ。むしろ文学や語学こそ、人間の心理や感情の機微が描かれているものと勝手に決め付けていた。そこでまず語学を集中的にマスターしたいと思った。高校時代から第2外国語としてドイツ語を学んだ僕は、さらにフランス語に挑戦しようと決めた。幸い第1外国語にフランス語を選択して第一政治経済学部に受かった2人の友人と特に親密なお付き合いをすることになった。一人は高等学院から一緒だった長島秀吉君、もう一人は暁星高校から来た神本洋治君だった。そして、僕は3人目の学生として、『狭き門』(アンドレ・ジット)や『チボー家の人々』(ロジェ・マルタン・デュ・ガール)等の名翻訳で有名な山内義雄先生の授業を特別に聴講させていただくことを許された。

・神本君は部活としてカト研(カトリック研究会)と仏文研(フランス文学研究会)に入部したという。部室へ遊びに行ったら、僕も入部を勧められた。その結果、僕はカトリック教徒でもないのにカト研へ、特にフランス文学を読んでいないのに仏文研に入ることになった。その二つの部活動で伝説の泰斗に出会うことになる。当時から語学の天才として有名だった高等学院の三年先輩で、政治経済学部の西江雅之さんである。西江さんは、早くからインドネシア語、フランス語、中国語、ロシア語、アラビア語、ハンガリー語等を独習。その後、ポリグロット(多言語を操る人)で知られた語学の天才は、スワヒリ語からサンスクリット語まで何十ヶ国語の言語を話し、終生、僕の尊敬する方となった。
 また一年先輩に、都立新宿高校卒の千代浦昌道さんがいた。千代浦さんは、何かと面倒見がよい先輩だった。考えてみると、カト研も仏文研も誘われたから偶然入ったようなもの。二つとも、美人部員が多かったというのが、強いていえば入部動機だった。そういう不真面目な考え方では、長続きしないものだ。その時、僕はすでに高等学院の友人の栗原忠躬君が勧めた下宝(下懸宝生流=ワキ宝生)という能・謡の部にも興味を持ち入部していた。人間国宝の宝生弥一師匠やご子息の宝生閑師匠(後に人間国宝、文化功労者)が教えてくれるのが魅力だった。結局、高等学院の三年生Fクラス5人が仲良く大学に入っても部活動を続けた。僕は、卒業の後も続けて、延々、脳出血で倒れた57歳まで謡をやっていた。周りの人は、着実に上手くなって、職分(プロの身分)やアマチュアなのにプロ並みの謡い手が続々と輩出した。僕は残念ながら、長く続けたというだけ。中途半端な修業に終始したので、ものにはならなかった。

・一方、千代浦さんとのお付き合いは深まった。学校以外に、日仏学院で長塚隆二さんの「フランス・ジャーナリズム研究」をご一緒に学んだことが大きい。その研究内容は、最新の時事問題から、ジャーナリズムを研究するというものだった。長塚隆二さんは日本よりフランスにファンが多く、『ナポレオン』の著作は、内外共に反響を呼んだ。千代浦さんは、その後、大学を優秀な成績で卒業して、第一銀行(現・第一勧業銀行)へ入行した。千代浦さんは、政治経済学部で一番人気があって、入ることが難しかった久保田明光ゼミで学び、成果を挙げた。その後、銀行を辞め、もう一度、向学心を満足させるため早稲田大学大学院経営学研究科へ進んだ。修士課程を終えると、さらに社団法人日本経済調査会のエコノミストになった。途中、フランス中小企業振興研究所の客員研究員として数年間を過ごす。その後、獨協大学経済学部経済学科教授に奉職された。得意なフランス語を武器に経済開発学、アフリカ経済学、フラン圏の経済を学んだことが生きたのだ。最後は、獨協大学図書館長を拝命する。そして、現在は、同大名誉教授になっている。千代浦さんの人生に対する堅実さ(僕には厳密なカトリック教徒というより老荘思想のような包容力を感じる)、学問に対する真面目さ、よき趣味(カメラ技術の追究や絵に対する真摯な態度)など、僕が敬愛して能わざる存在となった。

・懐かしい思い出だが、僕は千代浦さんの結婚披露宴の司会を仰せつかった。荷が重いとは感じながらも、他ならぬ千代浦先輩の披露宴である。引き受けた。そして、淳子さんに初めて出会った。いまからうん十年前の話だ。その時、千代浦さんは、すでに日経調(社団法人日本経済調査会)の主任研究員となり、いわば新進気鋭のエコノミストであった。だからこそ、この結婚式には、華やかな列席者が目についた。学者、代議士、エコノミスト等……が次々とスピーチをし、式に華を添えた。後に分かったことだが、千代浦さんは無類の愛妻家であった。各種個展や観劇、演奏会、旅行などには、必ずといっていいほど奥様の淳子さんを連れて行く。僕は自分を恥じ入るしかない。自分勝手な僕は、妻を同行するなど考えもしなかった。また、淳子さんは、早くから世田谷区のボランティア活動をされた。その活動のため、ご自宅付近の世田谷区下馬から僕の住む成城学園駅近くの砧総合支所にもしばしば足を運んでいるようだ。


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右から、千代浦昌道さん、龍野忠久さん、僕、鈴木恭代さん、神本洋治君。ここに写っていない長島秀吉君が撮影者だ。滝野川の龍野家の前。1964年?
 
・千代浦さんといえば、忘れてならない方が、大先輩である龍野忠久さんだ。龍野さんは、勤めていた時事通信社を辞め、もう一度、人生の生き方を見直しながら勉強しようとされていた。僕より13歳年上だった龍野さんとの出会いは、千代浦さんの人生にもエポックメーキングとなったはずだ。親しくなったきっかけは、僕が出席を許された山内義雄先生のフランス語の授業に、龍野さんも許されて出席していたことに始まる。千代浦さんは一学年上だったので、山内先生との授業の結び付きは同じというわけではない。だが、学年や年齢を超え、いわば「龍野ファミリー」の一員として、交友を深めた。芸術や文化のあらゆるジャンルで刺戟を受け、与えあったのは僕の人生においてかけがえのない幸せな体験だった。
 
 たとえば画廊巡りや演劇、映画、写真、音楽、建築、デザイン、古本屋巡り……などをしながら全員で切磋琢磨したものだ。古書についてだが、龍野さんの読書量は群を抜いていた。優に古書店を開業しても十分なほど、質量ともに十分な蔵書を誇っていた。それでもなお、毎日のように古書店巡りをしたいと言っていた。古書店巡りをしていると、本を読む時間が削られる。まさにそのジレンマにあった。また、ある時は同じ古本を二冊買って、一冊はカバー・表紙をハトロン紙で丁寧に包んで蔵書として保存、もう一冊は読んで注釈や疑問点など細かく書き込みをして楽しんでいた。ゆうに五万冊を超えるよい本があった。「一冊の本は、古今東西の老若男女が今、ここに対話するために集まっている」とのスタンスであった。この「龍野ファミリー」の中に、千代浦さんをはじめ、故長島秀吉君、故正慶孝君、神本洋治君、ピアニストの鈴木恭代さんらがいた。今、思うと、このような年齢差を超えて親しくお付き合いし、楽しく有意義な時間を過ごしたことは、我が人生の至福の刻だったのではないか。だが、どんな人生にも限りはある。紆余曲折を経て、我が敬愛する龍野忠久さんは、1993年10月15日、お亡くなりになった。

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右から、千代浦昌道さん、長島秀吉君、龍野忠久さん、龍野克子さん、僕、鈴木恭代さん。龍野さんの出版記念パーティで。1991年10月。

・ここで、千代浦さんの知られざるエピソードをご披露しておきたい。僕の千代浦さんのイメージは、真面目一方で遊びとは無縁の人というものだった。ところが、「阿刀田高から、麻雀を教えて貰った」という。早くそのことを知っていれば、長島君、神本君、僕は、お手合せができて、楽しかったのに……。阿刀田さんは、1935年の生まれ、千代浦さんは1938年の生まれである。年齢が合わないと思ったら、阿刀田さんは1955年に結核を病んで休学し、16ヶ月間の療養生活を送る破目に。一浪して、早稲田大学第一文学部フランス文学科に入学して、結核を患った療養期間を加えると、千代浦さんと同級生というのも計算が合う。阿刀田さん自ら――僕も実を言うと、中退してるんです。大学二年の頃、結核になってね。休学するつもりだったんだけど、事務局の人に「一年以上休むんでしたら、中退した方がいいですよ」って言われてね。ちゃんと手続きをとれば無試験で復学できるんですね。その間の授業料も納める必要ないし。だから、二年間療養して、ちゃんと復学できました――と語っている。
 
 人と人との出会いというのは、不思議に満ちている。千代浦さんと阿刀田さんの関わりから、連想した人物がいる。清流出版からトヨタ自動車関連の本を数冊刊行している三戸節雄さんである。三戸さんは、“炎のジャーナリスト”と異名をとる行動派のジャーナリストだ。この三戸さんが、阿刀田高さんとは都立西高校の同窓で親しい間柄にある。阿刀田さんが2007年に日本ペンクラブ会長に就任した際、三戸さんは自宅に何人かの同級生を呼んで、大いに阿刀田さんの会長就任を祝って祝杯をあげたという。三戸さんは慶應義塾大学に進学し卒業している。そういえば先にあげた西江雅之さんも早稲田の仏文研で阿刀田さんと親しく付き合った一人だ。阿刀田高という直木賞作家一人とってみても、高校、大学と学生時代を過ごすうちに、浪人、闘病生活や中退などによる年齢差を超えて早慶に分かれた友達ができて、親しい仲間となってゆく。縁とは実に不可思議なものである。
 
・このプログを書こうと思った日の新聞(夕刊)を見ていたら、なんと千代浦さんの旧知の方が第一面の全三段広告を出していた。偶然のようでいて、なんらかの意味があるのだ。その広告は、介護付有料老人ホームだった。「これからの幸せを求めて――大切な人のために考えてください。」と題するキャッチコピーが大きく出ている。千代浦さんの知人は、大久保貞義さんという。ロイヤルハウス石岡園長兼ロイヤル川口園長。昭和34年、東京大学教育学部卒業後に毎日新聞社編集局入社、昭和36年に東京大学新聞研究所卒業、スタンフォード大学大学院留学、プリンストン大学大学院留学、さらに昭和39年、アメリカ議会奨学生として留学、その後、昭和51年獨協大学教授、平成18年獨協大学名誉教授(現在に至る)と略歴がある。その広告には、大久保さんのご著書が五冊、カバー付きで紹介されている。あと、右隅に「大久保貞義講演会開催!」の予告付きのメッセージがある。全三段をフルに使った広告である。
 
・千代浦さんは、大久保先生の定年退職を祝って、「大久保貞義『試論』」を書いている。大久保さんが、定年を迎える時、そのユニークな人柄と行動と業績を書いているが、あまり長文なので、さわりだけ紹介する。
《……筆者が知る限りの大久保先生の人生は、その交友関係を見ても、また大学における研究・教育活動を見ても、尋常でない激しく波乱に満ちたものであるように思われるのである。(中略)……先生の出身高校は名門水戸高校である。水戸高時代の同窓生の元獨協学園理事長で精神科医の大森健一氏によると、「大久保くんは水戸高時代から現在と同じような風貌を漂わせていた」由で、「成績はわたし(大森氏)がトップだったが、クラスの人望は大久保くんに集まっていた」という話を大森氏自身から聞いたことがある。水戸高校から東京大学に合格したのだから、人望だけでなく成績もそこそこ優秀であったことは間違いない。(中略)……大久保先生は、教育学部卒業後はふたたび東大新聞研究所に入り、ここも無事に卒業した。教育者の道を選ばずにあえて新聞記者の道を目指したことは、大久保先生にとっては波乱万丈の人生の第一歩といえる。目指したとおり、就職先は毎日新聞東京本社の編集局政治部という、これまた文芸部でもなく経済部でもない、いくぶん危険でかつ刺激に富んだ職場であった。この新聞記者時代の豊かで変化に富む貴重な経験と人脈が、彼のその後の人生の重要な局面を形作っている。いわば新聞社政治部と永田町的感覚がドッキングした大久保人脈の形成につながったのである。(中略)……大久保先生は、その間にアメリカのスタンフォード大学やプリンストン大学の大学院に学び、またアメリカ議会奨学生としての留学経験もある。その後、東海大学に教職を得て、ふたたびフルブライト交換学生としてカリフォルニア大学に派遣された。前に述べた幅広い多様な人脈とこの若き日の数度にわたる留学から得たアメリカ的価値観と発想法が、大久保先生の人生を支える車の両輪を形成することになる。(中略)……大久保先生の講義科目である「行動科学論」や経済学部の「総合講座」に大久保先生の紹介で講演や講義を行った講師のリストを見ると、その人脈の広さと多様性の一端をうかがうことができる。それは自民党幹事長安倍晋三氏から始まって、元大蔵大臣の塩川正十郎氏、新党さきがけ代表で元大蔵大臣の武村正義氏、前衆議院議員で元郵政大臣の八代英太氏、民主党のホープ枝野幸男議員、衆議院予算委員会であの「ムネオハウス」の追求で一躍有名になった共産党の佐々木憲昭議員、元総連会長の鷲尾悦也氏、さらに石原慎太郎と前の知事選を争った女性評論家樋口恵子氏に至るまで、すべては大久保人脈の一部にすぎない。元文部大臣の自民党小杉隆衆議院議員は大久保先生の大学時代からの友人である。とにかく、打ち出の小槌のように先生の人脈の水源は枯れることなく、彼の招きに応じて現在の日本を動かしている重要人物がつぎからつぎへと現れる。(後は、略す)》
 
・千代浦さんは、大久保さんのことを、「人生の成功者」と評している。確かに人生の成功者であろう。ただ、月々の小遣いにも汲々としている僕からすれば、「定年後にもお金がどんどん入ってくる、打ち出の小槌をお持ちの方」とでも評したいところだ。まことにうらやましい限りである。千代浦さんはどうかしらないが、僕はほんのちょっぴりのお裾分けで構わない。金運にあやかりたいものだと思っている。そういえば、2011年に清流出版から刊行した『貧困と憎悪の海のギャングたち』というドキュメント本の翻訳を、千代浦さんにお願いしたことがある。お世話になりっ放しの千代浦さんに、たくさん売って翻訳印税をたっぷりお支払いする算段だった。が、しかし、初版止まりで終わってしまった。なかなか人生は思い通りには運ばないものである。恩師、親友の多くも鬼籍に入ってしまい、こちらにいる方が少なくなってきた。千代浦先輩には、これからもよろしくお付き合いのほどをお願いしておきたい。

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