2014.03.19野見山暁治さん

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ニューオータニ美術館の喫茶店で「野見山暁治展カタグロ」を読む僕(撮影:臼井雅観君)

 

・画家の野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)さんから、近著を送られた。『アトリエ日記』シリーズの第4弾『やっぱりアトリエ日記』(生活の友社)だ。早速、その本を読んだ。相変わらず野見山節は酔わせる。この『アトリエ日記』シリーズは、一巻から三巻まで、清流出版で刊行した。いわば僕がゴリ押しで3冊出させていただいた。近著のあとがきで野見山さん曰く、「〈アトリエ日記〉の書籍を、是非ウチで、とおっしゃったのは清流出版の加登屋陽一氏だった。三巻まで、ずっと清流出版のお世話になった」。それが、「今回からは、月々連載している〈美術の窓〉の生活の友社に戻って出す」と。企画編集部長の小森佳代子さんの活躍もあってこの本が刊行できたとある。彼女は、近年、体がすぐれないと聞いていたが、野見山さんのあとがきに「幸いなことに小森さん、体がめきめき恢復してきたので、生まれたてみたいな顔になって張り切っている」とある。僕もひと安心した。小森さんは、『やっぱりアトリエ日記』の巻末で「野見山暁治先生への105の質問」コーナーを設けた。ここが彼女らしいユニークな編集である。その質問の87で、「尊敬する人は?」と問うている。野見山さん曰く「直接会った人では椎名其二という随分年をとった青年です」。「年とった青年」は上手い言い方だ。今から約55年前、僕(当時18歳)が椎名其二さん(当時71歳)と野見山暁治さん(当時37歳)を知ったことで、今日の日がある。感慨もひとしおである。

 

・書籍に続いて、野見山さんから個展案内が届いた。それによると、2014125日から323日までニューオータニ美術館で「野見山暁治展――いつかは会える」を開催するとのこと。野見山さんの中学生時代の自画像や、東京美術学校時代を含めた作品36点を展示していると言う。早速、ニューオータニ美術館へ臼井君と出かけた。この個展には、大きな作品がズラリと並んだが、目玉となるのが、駅などの公共施設に飾られた巨大な作品の原画だった。いわば『環境芸術』の作品だ。一つめは、《いつかは会える》と題し、地下鉄の東京メトロ副都心線・明治神宮前駅のステンドグラス原画(2008年)。老若男女がこの明治神宮駅を利用する時、この巨大なステンドグラスを目にして何を思うのか気になるところだ。二つめは《海の向こうから》と題し、JR博多駅に飾られたステンドグラス原画(2011年)。野見山さん曰く、「原画とステンドグラスの在りようは、小説とその映画化、と納得してシナリオを提供したつもりだ」と語っている。三つめは《そらの港》と題し、福岡空港国際線ターミナルに飾られたステンドグラス原画(2013年)である。野見山さんが「中国大陸や東南アジアへの窓口だから、その人たちの衣裳や装身具をアトリエの床に散らして、その色合や雰囲気を画面に掬った」と狙いを述べている。原画も迫力があり、魅力があったが、拡大された本物のステンドグラスだったら、各々約10メートルの膨大な色彩の迫力に圧倒されたことだろう。僕は、明治神宮前駅だったら、行けるのではないかとも思ったが、車椅子でエレベーターを乗り継いでの勇気はまだ湧いてこない。

 

・ニューオータニ美術館の個展は、初期の作品も10点余あった。その中に16歳の頃、描いた『自画像』(1937年)や東京美術学校予科に入学した年の秋の風景画コンクールに出品した『渋谷風景』(1938年)、『骸骨』(1947年)、『花と瓶』(1948年)、『肖像』(1949年)、野見山さんの父親が炭鉱業を営んでいたことから身近であった炭坑を主題とした作品『炭坑の一隅』(1951年)、『川沿いの炭坑』(1951年)……などなど。最初はフォーヴィスム絵画に惹かれ、その後、セザンヌの影響を受け、キュビスム風からグレコ風へと作風が変わったことがわかる。1952(昭和27)年に、フランス政府私費留学生として渡仏するが、この後、劇的に野見山さんは変わる。 

 

201436日(木)、読売新聞には、個展の紹介記事が出ているが、面白いのでさわりを紹介しよう。「東京・紀尾井町のニューオータニ美術館で、文化功労者の野見山さん(93)の画業をたどる個展が開かれている。2月には同館で講演し、初期から近作のステンドグラスの原画まで、展示作品をひょうひょうと解説した。(中略)……1940年代後半、盛んに描いた骸骨の絵については『骸骨を見たいと言ったら、九州大に勤めていた妹が標本を風呂敷に入れて持ってきた』と振り返り、笑いを誘った。(中略)……2月に美術誌の連載をまとめた『やっぱりアトリエ日記』を刊行し、大阪高島屋でも個展が始まった。老いてますますにぎやかな春を迎えている」――簡潔で、要を得た文章。さすがに読売新聞の記者。大文字で「老いてなおにぎわう春」のタイトル。

225日(火)、日本経済新聞の2223面を観て、びっくりした。2面を使った大広告である。「日本交通文化協会はおかげさまで65周年。」と題し、「当協会は、わが国の芸術・文化の発展の一助となるべく、パブリックアートの普及・振興事業、育英事業、そして展覧会事業に取り組んでいます」……。その手段として「日本に『1%フォー・アーツ』の実現を」と大々的に主張。「芸術アカデミー構想」を強力に推進しますと宣言する広告。この中に、意義に共感し、故・平山郁夫氏をはじめ、多くの芸術家が制作に参加。名前(敬称略)を挙げれば、福沢一郎、高橋節郎、野見山暁治、片岡球子、澄川喜一、平山郁夫、宮田亮平などなどの方を挙げた。野見山さんは「創造する魂、広がるパブリックアートの世界」で、「絵を描くことは、子供に帰れ、原始に帰れと、今まであった大人を洗いざらい捨てていく戦い」と述べた。添えられた写真は、ステンドグラス制作中の野見山暁治さんと、もう一つ、「そらの港」(福岡空港・2013年)の写真が紙面上に掲載されていた。

39日(日)のNHK Eテレ「日曜美術館」で、野見山さんが取り上げられた。この番組を、僕は食い入るように見た。長いお付き合いで知っているつもりでも、こうして山あり谷ありの来し方を見てみると知らないことも多い。東京美術学校を繰り上げ卒業して戦地に送り込まれた野見山さん。病魔に襲われ、戦地で死の淵をさまようことになる。死地を脱して1947年に描かれた自画像からは、生気が感じられない。これからどう生きていくのか、何を描いていったらいいのか、といったあせりと不安、虚無感が滲み出ている。

1952年、32歳の時にフランスに私費留学する。3年後には日本に残した妻・陽子さんを呼び寄せ、幸せな生活を始める。好事魔多しとはよく言ったもの。その陽子さんが癌を発症、29歳の若さでこの世を去る。愛妻の死を両親に報告する義務があるとして、野見山さんは断腸の思いで陽子さんとの日々を綴り、『愛と死はパリの果てに』(講談社、1961年)を上梓する。そして改題再版して『パリ・キュリィ病院』(筑摩書房、1979年)を刊行している。後者に使用された装画やスケッチは、すべて陽子さんの描いた絵だ。女学生の頃、妹さんのところに遊びに来ていた陽子夫人は、妹さんの呼び方を真似ていつも野見山さんを「お兄ちゃん」と呼んでいたらしい。看病の日々。死の床から「お兄ちゃん」と呼ぶ声がする。愛妻の最期を看取った野見山さんの、胸中たるやいかばかりだったのか、想像するに余りある。

・野見山さんはその後、後妻として福岡でクラブを経営していた女性を迎え、東京と福岡での別居結婚の形をとった。その妻・京子さんも20代から癌などの病歴があったが、野見山さんは健康面・店の経営面から支えつづけた。後妻は後年までクラブを切り盛りするも、2001年、体力の限界などからクラブを完全閉店し、まもなく逝去した。その時、名物女将ぶりを慕っていた川鍋燿子さんが追悼の席を企画し、司会などをした。各界の人々が参集して、当時『週刊新潮』に載って話題を呼んだものだ。野見山さん、よくよくついていない。「行き暮れてひとり」のタイトルがテレビを観ていた人の胸にジーンと迫る。

・野見山さんのアトリエは練馬にあり、すぐ近くを石神井川が流れている。40年前に建てたものだ。コンクリートの箱のような家。仕切りがなく100平米のアトリエ空間が広がる。アトリエから小さな階段を上がり、ドアを開けると書庫兼書斎がある。ここで野見山さんは『四百字のデッサン』(河出書房新社、1978年)で、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞して以来、画家・野見山暁治の他、エッセイスト、文人として原稿を書く。夥しい数の自著が並ぶ。戦争体験、芸術論、交遊録、アトリエ日記など、書くジャンルは広い。東日本大震災から3ヵ月後、已むに已まれず、現地を訪ねている。人間の知恵が人間を欺く浅はかさを見極めたい、の強い気持ちとともに、わくわくするような好奇の眼で、自然が作り出した異様な形態に心惹かれている自分がいる。野見山さんは、絵描きの業というものを考えさせられるのだ。日が経つにつれて、野見山さんは確信するに至る。原発を作ったことが間違いだ、と……。人間がそこまで手を染めたとき、これで地球は壊れると、確信に近い畏れをもった、と『やっぱりアトリエ日記』に書いている。

・なお、野見山さんの実妹は作家・翻訳家の田中小実昌さんの妻であった。小実昌(「こみまさ」が正式な呼び方だが、「こみしょう」が愛称だった)さんが2000227日、旅先のロスアンゼルスで亡くなるまで、実の兄弟のような温かい交流があった。例えば、小実昌さんが訳した『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(原作ジェームズ・M・ケイン)は、5人くらいが訳しているが僕はどの訳者の翻訳より断然こなれていて上手いと思った。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、ルキノ・ヴィスコンティ監督などによって、4度映画化されている。「こみしょう」(田中小実昌)さんが生きていたら、野見山さんと文章の掛け合い漫談を仕掛けたいところだった。小実昌さんは著書もあるが、路線バスの旅が大好きで、ふらりと飛び乗って、いい景色、いい町、いい飲屋にたどり着く。そこで出会う人との交流を楽しんだ。アメリカ、メキシコなどにふらっと出かけていた。特にメキシコがお気に入りだった。当然、現地でも庶民の生活に溶け込んでしまう。だからスラングには滅法強かった。ある映画評論家に聞いた話だが、試写室で小実昌さんと映画を観ていると、笑いがずれる。笑うのが一瞬早いのだ。また、字幕では特に面白いことを言っているわけでもないのに笑うこともあったらしい。スラングを理解している小実昌さんだからこその話である。当然、翻訳にもその特技が生かされたわけだ。

 

・野見山さんは、自然の脅威について、郷里飯塚に近い福岡県糸島市にある、もう一つのアトリエでも実感している。普段は目の前に姫島があり、穏やかな景色が広がる風光明媚な場所だが、ひと度、大自然が荒れ狂うと大事なものを根こそぎにしていく。美しいものは現象でしかない。本質は魔性性(デーモン)を秘めていることを気づかされたという。その魔性性を捉えなければ、画家は自然の本質を描いたことにはならない、と……。「ある証言」という絵には、自然の猛威に、後添いの京子さんが大事にしていた甕が割れる瞬間が描かれている。なるほどと腑に落ちた。同様に2011年、震災を見た後に描かれた「ある歳月」という絵がある。野見山さんの心の動揺が透けて見える気がした。混沌、不協和音、不安、あせり……見たままを勿論描いているわけではないが、そんなものが感じ取れる。そしてその絵は野見山さんなりの鎮魂歌であったのかもしれない。少しずつ絵のなんたるかが見えてきたとはいえ、「行き暮れてひとり」。野見山さんの心境を表した言葉だという。なんのために絵を描くのか、どう描いたらいいのか、93歳にしてまだ模索し続けている野見山さん。僕はそんな野見山さんをただただ静かに見守っていたい。

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懐かしい写真をお見せしたい。野見山暁治さんとのツーショット。撮影者は故・長島秀吉君、場所は杉並区方南町にあった長島葡萄房。思い出が詰まった写真。