加登屋のメモと写真…: 2014年2月アーカイブ
加登屋のメモと写真…
2014年2月アーカイブ

小野田寛郎さん

清流出版 (2014年2月21日 11:23)

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小野田寛郎さんと僕(撮影:臼井雅観君)

 

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小野田寛郎さんを扱った本。弊社では二冊、出させていただいた。

 

2014116日、小野田寛郎さんがお亡くなりになった。1922(大正11)年、和歌山県の生まれ。享年91。来し方をざっと振り返ってみる。小野田さんは、1944(昭和19)年、陸軍中野学校二俣分校に入校。同年、フィリピンのルバング島へ派遣された。以後30年間、終戦を信じず、仲間と戦争状態にいたわけだ。いわば青春の大半をかの地で失った。上官から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」との言を肝に銘じて戦い抜いた。任務解除命令を受けられないまま「残置謀者」として情報収集、遊撃、後方攪乱する目的の戦闘任務を遂行し続けた。1974(昭和49)年、ついにルバング島において直属機関長の上官だった谷口元陸軍少佐から作戦解除命令書伝達式を受け日本に帰還した。小野田さんはその時、すでに52歳になっていた。

 

・帰国後の日本は、小野田さんを絶望の淵に追い込む。人心は乱れ、道徳・秩序もなく、変わり果てた日本に違和感を覚えたのだ。「ルバング島での証人なき戦い」という言葉に発奮した小野田さんは、自らの力を証明するため、新天地ブラジルで一からの牧場開拓を決意する。町枝さんという恰好の伴侶を得て、最終的に成田空港より広い1128ヘクタールの土地を手に入れる。広大な原生林である。生い茂る樹木は切り払い、ブルドーザーで開墾して牧場用地を開拓する。ここで念願の小野田牧場を始めることになる。この時買ったブルドーザーは、今に至るも現役。酷使に酷使を重ねたので、歯がすり減ってしまった。小野田さんはどうしたかというと、町で鉄板を買い求め、すり減ったキャタピラに自分で溶接して歯をつけてしまった。このように小野田さんは器用でメカにも滅法強かった。

 

・飼育する肉牛は実に1800頭。種牛を買って子牛を育て、少しずつ頭数を増やしていく。7年間は無収入だった。仕方がないので、ブルドーザーを時間貸しするなどして糊口を凌いだ。ついに8年目から、牧場経営が軌道に乗り始めたのである。牧場の写真を見せてもらった。写真は広大な小野田牧場を捉えていた。雄大な大地に沈みゆく夕陽。鮮やかな花々。何もかもスケールが違う。パンパを渡る風が感じ取れるような写真だった。カメラの腕も玄人はだしで、メカに強いというのも腑に落ちた。ただ小野田夫妻の心残りは後継者の問題だった。幸い町枝さんの妹さんに男の子が生まれた。このご子息を養子に迎え、後継ぎ問題も解決している。

 

1980(昭和55)年1129日、衝撃的な「金属バット殺人事件」が起こる。神奈川県川崎市に住む20歳の予備校生が、両親を金属バットで殴り殺した事件であった。受験戦争やエリート指向が巻き起こした悲劇とされ、話題を呼び、ノンフィクションやテレビドラマの題材ともなった。この報をブラジルで知った小野田さんは心を痛め、いてもたってもいられずに立ち上がる。このままでは日本はダメになる。次代を担う子供たちを救いたい、との強い思いから帰国する。健全なる人間形成と、文化社会と自然との共存のためにも、自然教育の必然性を痛感し、1984(昭和59)年7月より野外教育活動『小野田自然塾』を開校したのである。御年62歳であった。

 

・全国各地でキャンプを開催。多くの青少年たちにサバイバルの知恵を施した。以来、毎年約1000名の子供達の指導にあたった。自然塾で教育してきた子供たちはのべ2万人を超える。小野田さんは言う。「今の日本人からはたくましさが消えた。平和ボケしている一方で、自殺や引きこもりなど人生を放棄する若者たちもいる。これらはいずれも人間が本来持っている野性味を失った結果ではないか」と……。大自然を舞台にしてのサバイバル訓練のような体験から、自分で自分を背負う、自立心・自律心を養うカリキュラムを組んだのである。極限状態の中で生き抜き、戦い抜いた小野田さんならではの発想であった。

 

・弊社は、小野田寛郎さんを扱った本を二冊出させていただいた。一冊は、『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(小野田町枝著、2002年)、もう一冊は、『魚は水 人は人の中――今だからこそ伝えたい 師小野田寛郎のことば』(原 充男記・小野田寛郎談、2007年)である。最初の本は、著者が小野田夫人の町枝さんである。妻の立場から寛郎さんとの来し方を振り返っている。苦楽を共にしてきた2人は、まさに戦友という言葉がよく似合う。共に闘ってきたその思いが凝縮されている。微笑ましい話なのでよく覚えているが、お二人はお風呂を必ず一緒に入ったという。きっかけは、町枝さんが入浴中に、大きなヘビが浴室に入ってきたことによる。ブラジルには毒ヘビが多く、10匹に8匹は毒ヘビだという。以来、寛郎さんと一緒にお風呂に入るのが日課になった。2人で入浴することで、その日の出来事を振り返ることもできる。青い月の光が差し込んでいた。こんな穏やかな夫婦のひと時があったから、明日への活力が湧いてきたのである。

 

・実は『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』を弊社から刊行できたのには理由がある。町枝さんは大手出版社のK社社長から、本を出すならK社からと依頼を受けていた。もう一つ、K社にこだわる理由があった。このK社の出版物(漫画)を小野田寛郎さんはよく子供の頃読んでおり、昔からファンだったのだという。だから寛郎さんの強い思い入れもあった。K社で出したいという思いは僕にもよく理解できた。町枝さんは元気の塊のような方である。だからこそ一途にブラジルまで小野田寛郎さんを追いかけた。そんなバイタリティの持ち主だった。

 

・この町枝さんは、弊社近くの九段会館でのイベントに参加することもあり、よく弊社を訪ねてきた。弊社の空気が肌に合い、居心地がいいのだという。町枝さんが入ってくるとすぐに分かった。とにかく声が大きい。「こんにちはー!」と言いながら入ってくる。入ってきた途端、社員全員、アッ町枝さんだ、とわかったものだ。僕もなんとなく馬があって、よく雑談に花を咲かせた。そのうち、町枝さんは「私、本を出すなら清流出版で出したい」と言い出したのだ。弊社にとっては願ってもないお話である。お二人の波瀾の人生を単行本に出来れば、大いに話題を呼ぶに違いない。そう確信したからだ。

 

・しかし、その話があって、実際に単行本として刊行するまでには3年ほどの時間がかかった。無理もない。町枝さんは文章を書く専門家ではない。ブラジルでの牧場経営もあるし、日本に帰国すればしたで、寛郎さんへの講演の依頼、取材依頼の電話がかかってくる。町枝さんがスケジュール管理をする秘書的な役割をこなしていたから、超多忙な毎日であった。執筆にかける時間も限られていた。よく最後まで頑張って脱稿してくれたものだと思う。おかげ様でこの本は新聞、雑誌、テレビにとマスコミでも取り上げられ、大いに話題になった。さらにプラス材料があった。町枝さんの営業力である。とにかく顔が広くて、明るい性格だから経営者にも好かれた。だから他の本には見られない、企業の一括買いが多かった。200冊、300冊と一括受注した町枝さんは、すべて自筆サインをして送っていた。そんな相乗効果もあって、刷数を重ねることになった。大いに弊社に利をもたらしてくれたのである。感謝の言葉もない。

 

・寛郎さんの講演会場に訪ねるなど、ご夫妻とは何度かご一緒したことがある。食事もご一緒したが、寛郎さんは見事に肉食中心であった。大きなステーキを頼んで、美味しそうに平らげていた。付け合わせの野菜はおざなりに手を付けるだけ。町枝さんが「うちの人、野菜を食べてくれないんですよ」と嘆いていたことを思い出す。それにしても寛郎さんは健啖家であった。多少、耳が遠いくらいで元気そのものに見えたので、白寿は超えられるに違いない、と思っていた。

 

・小野田寛郎さんの座右の銘は「不撓不屈」であった。ルバング島の戦場を含め、六十余年心に秘めてきた言葉だという。その小野田さんが、こんな言葉を遺している。「貧しさや乏しさは耐えられる。問題は卑しさである」と……。金銭至上、物質至上で心が置き忘れられた日本人一人ひとりが、心して受け止めたい言葉である。寛郎さんの死後、町枝さんは体調を崩されていると聞く。無理もない。かけがえのない唯一無二の戦友を失ったのだから。戦後、われわれ日本人が失った信義、礼節、矜持、自尊心……そして、親と子、教師と生徒、上司と部下との関係が崩れ去った今日、小野田寛郎さんが残した多くの行動や言葉をもう一度問い直すのが、われわれの務めであろう。そしてそれを生の言葉で伝えられるのは、寝食を共にしてきた町枝さんだけである。是非、お元気になって小野田寛郎さんの遺志、否遺言を後世に伝えていって欲しい。そう心から願っている。

 

・余談であるが、今回、「小野田元少尉発見」を週刊誌がどのような視点で捉えたかのかが気になって、古本屋、図書館等を当たったが、どこにもなかった。幸いにも友人の津田英治さんが『週刊朝日 緊急特集 1974325号 小野田元少尉 ルバングの30年 第1次捜索から帰国まで』(朝日新聞社、定価100円)を所蔵していることがわかり、お借りして読むことができた。冒頭に、「生還小野田元少尉の決定的瞬間」を取り上げたモノクロ写真5頁を含む総74ページの特集記事であった。内容も、経歴から始まって、ご本人帰国時の羽田空港での記者会見で、寛郎さんは、戦友の「小塚を殺され、私は復讐心に燃えた」と発言している。その他にも、「知られざるルバング救出作戦秘話」、30年ぶりに明るみに出たもう一つの「日本謀者」、現地記者座談会「成功した静かな救出」、「小野田少尉殿 社会復帰の方法をお教えします」(横井庄一)、酔うように日本語をしゃべり続けた小野田元少尉、“軍国の母”小野田タマエさんを取り巻く家風、4710月の捜索の時は(江森陽弘)、と盛りだくさんな内容。大岡昇平、山本七平、藤原彰、秦郁彦の4名による「皇軍堕落の歴史を探る」という座談会も組まれていた。更には、直属機関長の命令を待ちつづけた「残置諜者」、「戦う人」が「生きる人」になるための儀式(原田統吉)、ルバング戦記、世界が見る孤独の30年、マンガ「諜者 命令ヲマツ」(おおば比呂司)と続く。週刊誌の特集号とはいえ異例の充実ぶりだった。

・そして、その号の編集長は涌井昭治となっている。懐かしい名前だ。僕はかつて涌井さんに連載原稿を頼んでいて、朝日新聞社通いをしていたものだ。涌井さんを執筆陣に迎えたのは、もと朝日新聞記者で文明評論家の森本哲郎さんが推薦されたからである。その森本さんも本年15日、88歳でお亡くなりになられた。以前、このコラムで森本さんを取り上げたことがあるが、また1人、僕が懇意にしてきた著者が泉下の人となったわけだ。残念だし、寂しいものである。話が飛んでしまったが、この『週刊朝日 緊急特集 1974325号』は、いまや朝日新聞社にも在庫が1冊もない。津田英治さんには永久保存すべき雑誌であることをお伝えした。

 

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婚約時代、迎賓館の前で

 

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結婚式で、永遠の愛を誓う

 

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ブラジルの農場を闊歩する小野田寛郎・町枝夫妻


写真は『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(小野田町枝著、2002年、清流出版)から


 

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