2013.03.22徳岡孝夫さん

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眼が不自由な徳岡孝夫さんが、清流出版へ来社された。

 

・横浜市港南区港南台在住のジャーナリスト、評論家、翻訳家の徳岡孝夫さんが、決死の覚悟? でわが社に来社された。徳岡さんは視力が両眼合わせ、01ぐらいしかない。だから、2011年の年末のこと、三鷹にある大学病院の眼科に向かう途中、京王・井の頭線の渋谷駅プラットホームから転落されたことがあった。幸いにもその時、近くに駅員がいてすぐに駆けつけ、ホーム上に押し上げてくれた。命にかかわるような災禍にはならずに済んだのだが、左腕を骨折し、救急車で広尾の日赤医療センター救急科へ運ばれ治療を受けている。以来、徳岡さんと会う時は、こちらから出向くことに決めていた。ところが今回、徳岡さんがどうしても弊社を訪ねたいとおっしゃるので、心配ながらもお待ちすることにした。長年、担当してきた松原淑子出版部長(左)も無事会社に着くことを心から祈っていた。

 

 

・徳岡さんは、名文家として評判が高い。菊池寛賞を受賞した産経新聞『産経抄』の前執筆者、石井英夫さんがある随筆にこう書いた。「山本夏彦、久世光彦なきこの世で、徳岡孝夫氏は当代随一の名文家だと私はひそかに思っている」と……。われわれも、まったく同感である。付け加えれば、そう書いた石井英夫さんも名文家のお一人だと思う。山本夏彦、久世光彦、徳岡孝夫、石井英夫の各氏には、共通点がある。言わずもがなだが、文章に魅力がある。対象にズバリ切り込み、その切り口は鋭く、ムダな字句が一切ない。古今東西の先哲に通じ、引用が巧みで、軽みや諧謔、皮肉があり、読んだ後に余韻が残るのも共通。特に徳岡さんは関西のご出身だけに、随所に大阪弁を織り込んで書いている。このリズム感は絶妙というしかない。この四人の方々と月刊誌の連載や単行本でご一緒できたのは僕の誇りである。

 

 

・弊社に着くや、徳岡さんは、「83歳になるのに、毎月、雑誌の締切りに追われています」と言った。ちなみに、弊社でも月刊『清流』で“ニュースを聞いて立ち止まり…”欄をご執筆されている。『清流』読者は大半が女性だが、徳岡さんのニュース解説が分かりやすいとファンも多い。新潮社刊行の月刊誌『新潮45』の巻頭随筆“風が時間を”も徳岡さん執筆である。珠玉のエッセイで、読むだけで心が洗われる。もう一つ、新潮社のウェブ版国際情報サイト『フォーサイト Foresight』で、“クオ・ヴァディス きみはどこへいくのか?”欄を連載されている。得難い国際情報を見事な包丁さばきで読ませてくれる。かつて文藝春秋の月刊誌『諸君!』が休刊する前まで、匿名巻頭コラム“紳士と淑女”欄をご執筆されていた。いったい誰が書いているのだろうか? と世上に噂された。さもありなんである。『諸君!』の休刊が決定し、初めて執筆者・徳岡孝夫の名が明かされた。

 

 

 

・徳岡さんによれば、山本夏彦翁も87歳の死の直前まで連載4本を抱え、ゲラの校正をしながら死んでいったと言う。ジャーナリストとして執筆依頼があれば、書かざるを得ない。人生、なかなか思うようにはいかないもの、「うまく死ねたら幸せ」と徳岡さんは達観している。だから病院に行っても「注射を右手には打たないでくれ。筆を持てなくなる」と言ってしまう。会うなり、死や寿命の話で盛り上がってしまった。「仕事をせずに、電車で西に向かえば、湯河原、熱海、伊東…辺りで、温泉に浸かってのんびりしたいが、なかなかできない」とポツリ。僕が「聖路加国際病院の日野原重明さんは101歳で、理事長をされていますが…」と振ると、少し間をおき、「男、101歳であちらが現役の方がよっほどいいが…」と一蹴された。その絶妙な切り返しは、さすがに徳岡さんだ。そこに居合わせた全員がどっと笑った。

 

 

・僕が最近見た映画の話をした。ロバート・ゼメキス監督の『永遠(とわ)に美しく』(1992年)だ。メリル・ストリープ、ブルース・ウィリスの主演で、不老不死の秘薬を飲んだ女性たちの騒動を通して、「いつまでも若く美しくありたい」という願望をブラックに描いたコメディ映画だ。徳岡さんは、「永遠に美しくありたいという気持ちは、それはそれで良いが、むしろ適当に死んでゆく方が望ましい」というご意見。僕も同感である。

 

 

・徳岡さんは三島由紀夫と親しかった。昭和421967)年5月、初めて自衛隊体験入隊から帰った三島をインタビューしたのが徳岡さんだ。同年8月に毎日新聞社バンコク特派員の辞令を受けバンコクに赴任、バンコク滞在中の三島と親しく付き合った。三島が最後の長編小説『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』を取材しているころであり、お二人は交流を深めた。その時、三島がノーベル文学賞候補にあがり、独占インタビューも可能だったが、あいにく受賞には至らなかった。そんな経緯があり、自決した昭和451970)年1125日、徳岡さんは三島から『檄文』を託されている。

 

 今回、三島の最後の戯曲『癩王のテラス』(1969年)に関し、僕がつたない語彙をもって触れた。その作品はバンコク(タイ)の隣、カンボジアを舞台にする物語である。徳岡さんもその戯曲が出た1ヵ月後、早速アンコール・トムへ行ったと言う。癩病に罹った若き王がアンコール・トムを造営し、バイヨン寺院を建設していく。王が臨終の間際、精神と肉体を対比して語る。そして寺院の頂きに、燦然と裸の美しい若い王自身の肉体が出現する。「肉体こそ永遠なのだ。青春こそ不死なのだ」と叫ぶ――三島由紀夫らしいレトリックに満ちた戯曲だ。あのボディビルで鍛えた三島が、肉体のほうが永遠だと宣言する。ひるがえって目の不自由な徳岡さんと右半身不随の僕にとって、日々の現実は不自由な身体をもてあまし、強いて言えば精神? しかない。それも僕の場合、あまりにひ弱な精神しか持ち合わせていない。情けない限りである!

 

 

・徳岡さんの話は面白い。東南アジアをはじめ諸外国には、われわれ日本人には想像もつかない人間の営みがあるらしい。徳岡さんは、具体例を挙げて語ってくれた。熱帯ではお寺の土台に絡まって植物が根を伸ばし、最後に建物のレンガの隙間から根を出し、どんどん大きくなり建物を崩壊させることもあると言う。実際、放っておいたらあと23ヶ月で倒れかねない寺院が現在数ヶ所あるという。そして食虫植物。葉や茎などが捕虫器官になっており、昆虫や動物プランクトンなどを招き寄せ、捕らえ、消化吸収してしまう。

 

 またフランス人がジャングルで遭遇した橋の欄干の話。見た目はまさに巨大な蛇のようで、びっくり仰天したが実際は精巧な蛇の彫刻だった。また、山には山ヒルが生息しており、頭上から降ってくる。嚙まれても痛みはほとんど無く、出血していても吸われたとは気づかない。背中、首筋、腕の裏、ふくらはぎなどを狙ってくるので、まず自分では分からないらしい。他人に見て貰って初めて気が付くほど。しかも蛭の吸い口は釣り針のような返しがあるそうで、一度食らいつかれると払ったくらいでは落せないという。こうして聞いていると、恐ろしい話のはずだが、徳岡さんが語るとそうは聞こえないのがおかしかった。

 

 

・砂漠の夜の話にも驚かされた。星を立ったままの状態、つまり水平(横)方向に見えるのだという。星を見るのに、首を上げる必要がないのだ。「水平方向に星がある」のは、経験した人でないと分からないはず。不思議な光景ではないだろうか。34歳(今から49年前)の時、徳岡さんは、隊を組んでヨルダンのアンマンからイラクのバクダットまで小さな自動車で砂漠地帯を走破したことがある。また、直接、飛行機でインドのニュー・デリーまで飛べず、パキスタンのカラチからネパールのカトマンズまで迂回せざるを得なかったこともある。いずれも生命の危険を伴う冒険譚であり、いつ死んでいてもおかしくなかった。人間はつくづく生かされていると思ったと言うが、実感がこもっていた。このあたり、徳岡さんの話は僕の書いたよりもっと面白い。

 

 

・徳岡さんはつい最近、『週刊新潮』の“掲示板”に質問を載せた。「京都の仁和寺の桜が観たいが、いったい満開は何時ごろでしょうか?」という内容だった。僕は、この答えは知らないが、仁和寺と聞いて思い出したことがある。この寺のすぐ前に住まいがあった勝田吉太郎さんに、単行本を出していただいた。勝田さんは京都大学、奈良県立大学、鈴鹿国際大学各名誉教授、元鈴鹿国際大学学長を務めた方で、徳岡さんより2歳年上。書いていただいた本は『平和病日本を撃つ』(ダイヤモンド社刊、1982年)というタイトルだったが、そういえば徳岡さんも『「戦争屋」の見た平和日本』(文藝春秋刊、1991年)という本を刊行されている。僕が親しく付き合った文藝春秋の宇田川眞さんが編集担当した本だ。二人とも同じ京都大学卒の国を憂える書き手である。そんなわけで、僕は仁和寺の桜が咲くころ、ゲラを持って勝田さんを訪ねたことがあった。そして、桜といえば、謡の『鞍馬天狗』の一節「…ある時は 愛宕高雄の初桜 比良や横川の遅桜 吉野初瀬の名所を 見のこす方もあらばこそ」が口をついて出る。

 

 

・徳岡さんの該博な知識は歌舞伎にも及んだ。最初は、『隅田川』である。梅若丸を人買いにさらわれ、京からはるばる武蔵国の隅田川まで訪ねて、愛児の死を知った母親(班女の前)の悲しみ。春の物狂いの名作であるが、「名にし負えば いざこととはむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」の名文句が悲しい。次に出たのが『娘道成寺』。團十郎の演技が今も印象に残っているとおっしゃる。桜満開の紀州道成寺を舞台に、安珍・清姫伝説の後日譚が繰り広げられる。清姫の化身だった大蛇に鐘を焼かれた道成寺は、長らく女人禁制となったが…。徳岡さんの軽妙な語り口をなんとか文字で表現しようと思うが、僕の筆では書けそうにない。歌舞伎は、特に踊りと所作事が大事ということだけは分かった。昨年お亡くなりになった中村勘三郎、またつい最近鬼籍に入られた團十郎やその息子海老蔵の話題でひとしきり盛り上がった。徳岡さんは、歌舞伎に関し「通」と言われるのは嫌で、強いて言えば「歌舞伎をこよなく愛している」一ファンであるとの自己認識だが、聞いていると何時間でも話が尽きない。

 

 

・徳岡さんとの会話ははずみ、笑い声が絶えなかった。でも僕は、言語障害をもろに受けて自分の思いを伝えられずもどかしかった。それでも徳岡さんと会うと元気になれる。それが嬉しいので、言語不明瞭な言葉を次々に発して困惑させたものと思う。谷崎潤一郎は若い頃、能弁で、周りの人の発言の機会を封ずるほどおしゃべりだったというが、歳をとるほど寡黙になり、晩年は座談会や対談を一切しなかったという。逆に、若い頃、無口で、晩年になると能弁というより多弁な人も多い。埴谷雄高も多弁、雄弁の口で、大岡昇平によると認知症気味の多弁となってからは、繰り返しが多くなり、付き合っておれない状態になったと言っている。まあ、僕も高校時代は雄弁会に入り、弁は立つほうだった。今は思ったことの三分の一も伝えられないが、それはそれでいい、プラス思考で行こうと思っている。

 

 別れはつらい。いつまた徳岡さんとお会いできるかは分からない。お互いに元気でいれば、また会える。そう思い、笑ってお別れした。徳岡さんは電車で帰るとタクシー券の受け取りを固辞したが、これだけはこちらも譲れない。階段の上り下りもあるし、少しの段差で転んだりすることは僕自身もよくあること。怪我をされたりしたら、取り返しがつかない。そんなわけで、タクシーで帰っていただいた。また、こんな楽しい食事をご一緒できればと思っている。

 

 ところで最近のことだが、徳岡さんがご自宅で郵便を受け取りに出て転んだという。その際、右手を骨折された。こんな非常事態であるからして、しばらく原稿執筆は出来ないと考えるのが常識である。ところが、松原宛に今月の原稿が届いたという。僕は驚いた。なんと指先は固められていないので、パソコンで打ったらしい。いかにも律儀な徳岡さんである。骨折しても締切を守る。こんな硬骨漢はそういるものではない。僕は感動すら覚えている。徳岡さん、有難う。