加登屋のメモと写真…: 2013年2月アーカイブ
加登屋のメモと写真…
2013年2月アーカイブ

近藤信行さん

清流出版 (2013年2月25日 15:42)

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山岳文学研究の傑作『小島烏水――山の風流使者伝』の著者・近藤信行さん

 

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大佛次郎賞受賞作の『小島烏水』

 

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見返しにいただいたサイン。「北に遠ざかりて、雪白き山あり、問へば甲斐の白峰といふ」(『平家物語』より)

 

 ・久方ぶりに、旧知の作家・文芸評論家の近藤信行さんと会う機会を得た。近藤さんは、東京の杉並区西荻北と山梨県勝沼町に住まいをお持ちだが、現在、山梨県立文学館館長という公務に就いておられることから、勝沼町の方に居ることが多いという。この日も勝沼から上京された。近藤さんには、僕は前々からお願いしたいことがあった。単行本としてご執筆いただきたいテーマがあったのだ。共通の師である“椎名其二(しいな・そのじ)”についてである。正式なご依頼もしないうちに、肝心の僕が清流出版の社長を辞め、晴耕雨読の悠々自適な? 生活に入ったことで企画そのものが宙ぶらりんになっていた。


 ・それがなんと僕が出社していない日に、近藤さんの方からお会いしたいと電話が掛かってきたという。電話をとってくれた藤木健太郎君(現・社長)は、かつて近藤さんを取材したことがあって、すでに面識があった。それは、月刊『清流』の1998(平成10)年2月号の『清貧に生きる』という特集で、“清貧の人”椎名其二さんを語っていただいたのだ。「自由人として、生きる喜びを大切にした椎名其二さんのこと」と題して、近藤さんの他にも、僕の親友だった長島秀吉君を取材、藤木君は要領よく特集にまとめてくれていた。椎名さんは1887(明治20)年、秋田県角館の生まれ。その生涯は知る人ぞ知る、波瀾に満ちたものだった。僕の生涯で、尊敬する人を一人だけ挙げろと言われれば、椎名さんをおいて他にない。藤木君によれば、その日の電話で、「いずれ椎名先生の本を書き上げたい」と語っていたという。僕はそれを聞いて嬉しかった。

 

・近藤さんに初めてお会いしたのは、今から52年前まで遡る。その頃、近藤さんは『中央公論』にその人ありとして知られた名編集者だった。その日は、忘れもしない1960(昭和35)年115日のことで、僕はまだ早稲田大学の3年生だった。近藤さんも逆算してみると29歳のときである。温厚のなかにも精悍な風貌だったというのが、僕の第一印象に強く残っている。その日は、恩師・椎名其二さんが横浜港からヴェトナム号でフランスに向けて出航された日だった。作家の芹沢光治良さんや、安齋和雄、安井源治など早稲田大学の諸先生、長島秀吉君、神本洋治君、僕ら先生から教えを受けた学生たちも別れを惜しんだ。近藤さんもこの別れは感慨ひとしおだったと思う。椎名さんは、75年の生涯をフランスで終えている。日本に裏切られ、この国に失望しての死であった。成人してからの日本滞在はたった2回だけ。1回目は1922(大正11)年から1927(昭和2)年にかけ5年ほど、2回目は1957(昭和32)年から1960(昭和35)年にかけ3年ほど、都合8年にも満たない短いものだった。70歳の椎名さんはふるさとに骨をうずめるつもりで、妻子に永の別れをつげて、単身かえってきたのだったが、故国は決して≪終の棲家≫となりえなかったのである。この日は、いわば椎名さんの生涯で、2回目の日本に幻滅しての旅立ちだったのだが、3回目は永遠に訪れなかった。

 

・近藤信行さんは早稲田大学大学院仏文科修士課程修了の後、中央公論社へ入社し、『中央公論』『婦人公論』『小説 中央公論』『日本の文学』などの編集に携わった。『中央公論』の編集部にいた近藤さんは、椎名さんご本人が自分の人生で何も語るものがないとして書くのを断っていたのに「自由に焦れて在仏四十年」「石川三四郎のことなど」「パリで知った黒岩涙香」「佐伯祐三の死」などを聞き出して、連載をものにした。だが、嶋中鵬二社長は、「貧乏たらしい話で嫌い」と周囲の人に漏らしていたそうだ。そして1969(昭和44)年、文芸雑誌『海』が創刊されたが、編集長は近藤さんだった。「世界史的な同時性という観点に立ち、インターナショナルな視野から新しい日本文学を創造していきたい」と創刊に当たっての文章を書いている。実際、海外の作家の作品を多く掲載している。また、創刊号に三島由紀夫の『癩王のテラス』が掲載され、読んだのをはっきり覚えている。僕が29歳の時だった。近藤さんの部下には、大江健三郎の学友で、夭折された塙嘉彦さん(国際的なジャーナリストとして『ル・モンド』紙が75行を割いて悼んだ)がいた。その後『海』は、村松友視、安原顯などの編集者によって尖端的な文芸雑誌に変質していく。一方、近藤さんは編集者稼業より山岳文学関連評論へと比重をかけるようになった。1976(昭和51)年、文芸雑誌『海』編集長の職を辞し、同社を退職した。そして1978(昭和53)年、『小島烏水――山の風流使者伝』(創文社刊)で大佛次郎賞(第5回)を受賞した。453頁もの大著で、山岳文学研究の傑作がここに生まれた。

 

・ここで少し脱線するが、数年前、長野県上高地を旅行して帝国ホテルに泊まった。何気なくホテルの図書室を覗いてみると、近藤信行さんが解題・解説をされている全14巻別巻1の「小島烏水全集」(大修館書店刊、1979年から1987年まで)が、全部揃っていた。僕は、近藤さんが解題・解説を苦労されてお書きになっていたのを、旅の途中ですべて読むことができて、帝国ホテルに泊まったことの幸せを噛みしめた。また、近藤信行さんの『小島烏水――山の風流使者伝』(創文社刊)は、昨2012(平成24)年10月に、新版刊で平凡社ライブラリー(上下)から刊行されている。手頃なソフトカバーになってお薦めである。

 

・今となっては何年何月かを特定できないが、近藤さんが僕に送ってくれた『帖面』《56号、1977(昭和52)年3月、帖面舎発行》の文章に打たれる。近藤さんは「山内先生のあたたかさ」と題して、ポール・クローデルと早稲田大学教授の山内義雄先生との交流賛歌を書いている。このあと椎名其二さんのことに触れ、半世紀にわたる人生を紹介された。その文章は近藤さんが同人誌『白描』の創刊号で『ある生涯』という一八〇枚の作品を書いたことに端を発している。椎名さんの生涯をごく短い分量でまとめておられるので、さわりだけご披露したい。

――≪名利をもとめなかった椎名さんの生き方は、『舞姫』の主人公とは正反対のものだった。……早稲田に学んだが、安部磯雄の示唆によってアメリカにわたり、ミゾリー州立大学の新聞科を出た。セント・ルイス、ボストンでの記者生活ののち、ジャン・ジョレス、ロマン・ロランにあこがれてフランスにわたる。英国の詩人カーペンターの紹介でポール・ルクリュと知りあい、南仏ドンムのルクリュ家の学僕となったが、これが椎名さんの一生を決定したといえるだろう≫。

引用をもう少し続ける。

≪日本を脱出した石川三四郎と出会ったのも、このルクリュ家においてであった。ロマン・ロランの『大戦下の日記』のなかに、椎名さんはクルュッピ夫人の農場ではたらく一日本人として「彼は非常に聡明で、教育があり、洗練された礼儀と清潔さとを身につけて」いると描かれているし、クルュッピ夫人はロランにあてて「私は彼を、かなりトルストイ的な、働くべきであるからには、最良の労働は土のそれだと感じている社会主義者なのだと思います」とかいている。≫――

この『帖面』(56号、昭和52年)の文章の最後はこうなっている。

――山内先生の教えをうけ、先生の紹介によって椎名さんのもとへかよった加登屋陽一君(現在ダイヤモンド社勤務)は、「椎名其二のこと」と題する山内先生の文章を大切に保存していた。その一部を紹介すると、つぎのとおりである。

≪滞仏四十年といっても、それは椎名さんの場合、簡単に言いきれないものがあります。最近に「中央公論」に連載中の滞仏自叙伝によって御承知の方もあろうと思いますが、永い滞仏中、終始フランスの思想、文化、社会、政治にわたって巨細な観察と犀利な批判につとめられた椎名さんのような方は、けだし稀有の人をもってゆるされるだろうと思います。そうした椎名さんのフランス語については今さら言うまでもありませんが、語学を通じ、さらに語学を踏みこえて、フランス文化の骨髄をいかにつかむべきかについての教えには、聴くべきもの多々あることを信じて疑いません。……文学者であるとともに科学者であり、さらに一個哲人のおもかげある椎名さんの祖国日本に帰られてからのこれからのお仕事には、大きな期待を禁じ得ないものがあります。≫

……の部分は、≪かつて一旦帰朝の際、吉江喬松博士の招請により早稲田大学フランス文学科で教鞭をとっておられたころの椎名さんのお仕事には、バルザック、ギヨマン、ペロションなどの文学作品の翻訳とともに、ファーブル『昆虫記』の翻訳がかぞえられます。≫――の文章が入る。近藤さんは紙数に限りがあるので、やむなく省略されたのであろう。

 

・今回の近藤さんと会う日時を決めた後、一週間余り経った日、電話で近藤さんが訊ねたいとしている用件の一つが分かった。山梨県立文学館が出す資料に椎名其二から中村星湖(山梨ゆかりの自然主義作家)に宛てた手紙四通を資料集に納める許諾の件で、椎名其二の著作権継承者(相澤マキ)の連絡先と継承の経緯をご存じですかとの内容である。僕が、20102月の本欄で書いた相澤マキさんのことだった。彼女は椎名先生の兄・椎名純一郎の孫である。純一郎の息子・椎名正夫の次女だ。その時は、色彩美術館を主宰する菅原猛さんを介して椎名其二さんの縁者、相澤マキさんと福井和世さんのことを知ったが、お二人ともそれまでまったく知らなかった方たちだった。近藤信行さんも椎名ミチさん(椎名正夫の長女)しか知らないと言う。相澤マキさんによれば、父君の椎名正夫さんや姉上の椎名ミチさんはもはや亡くなったと言う。早速、山梨県立文学館著作権担当の小石川学芸課長さんに、相澤、福井両女の連絡先を教えてさしあげた。だが、僕はまだこの件に納得が行かなかったので、二人を紹介された菅原猛さんに詳しく訊いてみなければならないと思った。椎名先生に纏わることで、正確な情報を得たいのなら、見逃せない要素だ。

 

・会ってみて、近藤さんからいろいろ興味深い話が出た。僕がもっとも興味を惹かれたのは、近藤さんが晩年の「椎名書簡」のなかに告白を読み解いていたことだ。近藤さんは、すでに『椎名其二の手紙――旅と棄郷と』《早稲田文学、1981(昭和56)年》の中で触れているが、椎名其二さんが甥の椎名正夫さんに対し、次のようなことを述べたことに触れている。

≪正夫、俺にも若い時代があった。お前達の生れる前のことである。俺は或る女をひそかに愛した。が、この女は他の人と結婚した。この女はお前の母だった。この他の人とは、お前達の父だった。俺はそれなりすべてを胸の底にたたみこんだ。しかしこの苦しみは俺をして国を去らしめた原因である。それ以来、あらゆる変遷にもかかわらず、俺の気持ちは四十有余年と変りはしない。

この事実は未だ嘗て誰にも打ち明けたことはない。お前のお母さん自身も知らないことである。

正夫、お前にたのむ。俺のこの心をお母さんに打ち明けてくれ。お母さんもあらゆる苦難をなめられた。それにしても心は年と共に老けはしない。尚ほ胸の底に若干の純粋さ、若干の若さを保存してゐるに違ひない。そして俺を了解し、俺の不躾をゆるしてくれるに違ひない。そして、俺はなんぼうせいせいすることか。正夫、たのむ。≫

近藤さんがこの書簡を、重要視する。椎名兄弟に何が起こったのか?

 

・椎名其二さんの兄は、一高時代に安部能成、小宮豊隆、岩波茂雄らの同級生で、その名前は安部の『岩波茂雄伝』にも登場する。郷里角館の家督をついで、その土地にふさわしからぬ新聞社をおこしたり、遊蕩三昧のすえに禁治産者となった。昭和12年に亡くなった椎名純一郎だが、その兄に嫁いだ女(ひと)を人知れず好きだったと言う。叶わぬ恋と決別するため放浪。アメリカからフランスへのかくも長き不在だと思う。そう思うと、椎名其二さんの一生の思索や行動の秘密が分かるようだ。

僕も椎名さんの下宿で、甥の椎名正夫さんに何回も会ったが、口数が少ない温厚な方だった。ひょっとしたら椎名さんのお子さんではないかとも? 僕の浅はかな知識で思った。近藤さん、本当の椎名伝説をぜひ書いてほしいです。

 

・時々、椎名其二さんの言葉や仕草、つまり人間像を逐一思い出す時、ガツーンと頭を殴られたような気になる。僕の人生は堕落した一生だったと忸怩たる思いに駆られる。先生が翻訳された『出世をしない秘訣』にことごとく背いた生き方であり、師を蔑ろにしたのではと情けなくなる。ひるがえって椎名其二さんの薫陶を得た近藤信行さん(81歳)や画家の野見山暁治さん(92歳)は、ご自分の姿勢、主義主張、持分を持ち続けて、実り多き人生にされておられる。

いずれ近藤信行さんの「椎名其二伝」が上梓されるであろう。近藤さんの名文で、汲めども尽きぬ魅力をもった、椎名其二という人物を浮き彫りにしてほしい。一人でも多くの人に、この清貧の生き方、生きる哲学を知ってほしい。僕は、半世紀以上、椎名さんに恋してきた。親友・長島秀吉君と競って椎名さんに対し思慕の念を募ってきた。長島君亡き後、そのたぎるような熱い思いは、いまもって変わりない。刊行はもちろん、わが清流出版からと思っている。

 

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恩師・椎名其二さんがフランスへ帰る日。横浜港からヴェトナム号で出航。上の写真で、同伴の椎名ミチさん(椎名さんの兄の孫娘)、その左は近藤信行さん。僕はこの時初めて、近藤さんに会った。20歳の時だった。1960115日。

 

 

 

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作家の芹沢光治良さんとお別れの挨拶する椎名其二先生。左後ろに、近藤信行さんが見える。

 

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