加登屋のメモと写真…: 2013年1月アーカイブ
加登屋のメモと写真…
2013年1月アーカイブ

大島渚さんよ、永遠なれ!

清流出版 (2013年1月21日 18:10)

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世界の大島渚監督と小山明子さん

 

・衝撃が走った。115()、映画監督の大島渚さんが肺炎のためにお亡くなりになったのだ。日本のヌーベル・ヴァーグの旗手として戦後日本映画を牽引してきた革命児がもういない! 享年80。夫人の小山明子さんは、「介護ではやるべきことはすべてやりました。悔いはありません。これまで私が支えてあげたので、これからは彼が私のことをしっかり見守ってくれると思います」と、最愛の夫を見送った心情を吐露されている。

 

・実は小山明子さんは、大島さんが亡くなった翌日の116()から20()まで東京・池袋の東京芸術劇場シアターウエストでの「女のほむら 高橋お伝、切なき愛のものがたり」(原作:根本順善、脚本・演出:森井 睦、舞台美術:假屋崎省吾)で主演することになっていた。小山さんにとっては、20年ぶりとなる舞台である。昨年10月末には「どんな事態になってもやりますから」と覚悟の程を示されていた。このため、大島さんの通夜、葬儀・告別式は、舞台が終わった後にずれ込むことになった。遺体は防腐処理をするため、一旦自宅を出て、処理後、自宅に戻して、安置された。お通夜は築地本願寺で21()、葬儀・告別式が22()に行われる。

 

・小山明子さんが演じた「女のほむら」だが、舞台は能舞台のように一場面のみであり、舞台装置も竹を使ったシンプルなもの。この舞台美術は華道家の假屋崎省吾さんが手掛けた。背景に放射状の銀色の竹を配し、両サイドにも竹をあしらった。物語は日本三大毒婦の一人と言われている「高橋お伝」が主人公である。この劇のユニークなところは、お伝を小山さん含め三人が演じたところ。小山さんは二人の若手女優が演ずるお伝とシンクロさせながら見事に女の情念を演じきっていた。

 

・もともとこの舞台の発端は、語り役で登場するベテラン女優・白石奈緒美さんが、独り舞台にならないかと原作本を演出家の森井睦さんに持ち込んだことに始まる。原作を読んだ森井さんは、持っているテーマの大きさからいって独り芝居よりも普通の芝居にしたほうがいいのでは、と白石さんに返事を返した。こうして森井さんは脚本を書いたのだが、その第一稿を読んだ白石さんは、面白い芝居になると確信し、主演に小山明子さんを推薦したのだという。

 

・重病の夫を抱え、その薬代を稼ぐために、必死に生きざるを得なかったお伝。波之助を愛すれば愛するほど、彼女の人生は大波のように翻弄され続ける。「波さん、とうとうオカネがなくなっちまった……」「もういいよ、お伝、先に行くのは忍びねえけど、頼むから、おらを、楽にしてもらいてえ……」「波之助さん、頑張ったんだよね、よく頑張った、これからあたしが、楽にしてあげるからね……女は、女はさ、男を産むことはできないが、殺すことはできるよね……」(『女のほむら』パンフレットより)。この科白に、現実の大島渚さんを介護してきた小山明子さんの姿をダブらせて、涙なしでは観られないシーンである。

 

・月刊誌『清流』では、小山明子さんに「しあわせ日和」というエッセイを連載していただいている。介護の日々への共感もあって、多くの読者の共感を呼んでいる。単行本としても、『小山明子のしあわせ日和――大島渚と歩んだ五十年』(定価1575円、2010年刊)、『女として、女優として』(定価1890円、2011年刊)の2冊刊行。共に小山さんの自伝的エッセイだ。あの美しい小山さんが、年をとると共にますます魅力が増している。なぜそんなことが可能だったのか。一つのヒントが、『小山明子のしあわせ日和』に瀬戸内寂聴さんが寄せた推薦文にある。「病夫 大島渚への無償の愛と献身こそ、美と若さの妙薬であった」と書いてくれた……。一方、大島監督の本も刊行させていただいている。映画エッセイ集『わが封殺せしリリシズム』(定価2520円、2011年刊)がそれ。未発表のエッセイを中心に編まれており、大島監督の未知なる魅力を発見できること請け合いである。編者は、映画評論家として僕が気に入っている高崎俊夫さんだ。

 

・通常、大島さんの書く世界は、時代を変革してきたラディカルな表現者としてのイメージを補強する内容になっている。その常識に挑戦した高崎俊夫さんは、つぶさに大島作品を読み進め、ポレミックな発言をする過激な論客としての貌とは別に、過敏なまでにセンチメンタルで抒情的な資質を隠し持つ大島渚がいるのではないか――と、知られざる大島渚をキーワードに全編通して組み立てた。読者も大島監督が「これほど繊細で心優しいセンチメンタリスト」の側面を持っていたことに驚かされるはずである。例えば、「1993年にくも膜下出血により急逝した盟友・川喜多和子さんの葬儀で大島監督が読んだ弔辞は、あたかも慟哭するような痛切な〈声〉の響きが忘れがたい印象を残した」、と高崎俊夫さんはコメントする。読んでみれば分かるが、確かに心揺さぶられる感動的な弔辞であった。

 

1996(平成8)年2月、大島渚さんはロンドンのヒースロー空港で脳出血に襲われた。僕も同年9月に脳出血で倒れている。僕は、大島さんと同じ悩み、言語障害、右半身不随を持ついわば戦友といっていい。大島さんはその後、順調な回復を見せ、復帰作『御法度』(1999年)の公開を果たす。なんとも劇的で素晴しかった。僕の場合、3年経った夏に、2回目の脳出血に見舞われた。今度は右脳だったが、幸いなことに症状は軽かった。大島さんとの共通点は、二人とも、酒が大好きなこと。大島さんはビールをよく飲んだ。僕は40歳前に痛風にかかり、医者からビールを禁じられている。その代わり、焼酎、泡盛、ウイスキー、ブランデーの類は蒸留酒で良いだろうと信じている。だが、今日だけは大島監督を偲び、ビールを飲んで、一人しみじみ感慨に浸りたい。

 

 

●米長邦雄さんよ、永遠なれ!

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・昨年末(20121218日)、永世棋聖・日本将棋連盟会長の米長邦雄さんが前立腺がんでお亡くなりになった。享年69。僕は米長ファンとして、コンピュータに負けても、がんに負けないでくれと祈っていたが、残念な結果に終わった。日本将棋連盟会長として米長さんは、才気あふれる行動で将棋界のイメージアップに貢献された。また将棋指しとしても、タイトル獲得数19期は歴代5位に当たる立派なものだ。棋風については「泥沼流」と「さわやか流」と、まったく正反対の呼び名が付けられていた。それほど米長さんは両面性(ヤヌスの神)を合わせ持つ存在だったといえよう。

 

・編集者として僕は米長さんを著書にした本を出せていない。1980年、この年僕は40歳でダイヤモンド社の雑誌部門から、ようやく出版局へと異動を認められ、企画を考えていた頃だ。その前年、米長さんは勝運にも乗って九段へ昇格していた。ダイヤモンド社の出版局には米長夫妻(奥さんはクラス委員)と都立鷺宮高校時代にクラスメイトだった花田茂明君がいた。そこで米長さんに何か書いてもらおうと企画し、花田君と一緒に仕掛けようと思ったのだった。花田君も大賛成だったが、九段になった米長さんが超のつく多忙になり、時間が取れなかった。そうこうするうち、肝心の僕の年間刊行点数がどんどん増えて、いつしか米長本は断ち消えになった。

 

・僕が独立し、清流出版を創業した頃、もう一度米長本を出すチャンスがあった。だが、将棋の本は清流出版としてはメインの路線にはできない事情があった。しかしながら、いつかは米長さんの本を作りたいという気持ちは秘めていた。その突破口としての意味もあり、将棋の本を何冊か刊行した。『西からきた凄い男たち――と金に懸けた夢』(中平邦彦著、定価1575円、2003年刊)、『将棋、ヨーロッパを行く――欧州遠征将棋珍道中』(田辺忠幸著、定価1575円、2004年刊)、『第一線棋士!――B級に落ちても輝け中年の星』(青野照市著、定価1575円、2004年刊)と続いた。結論として、将棋の専門出版社でもなく、清流出版で将棋本を刊行するのは難しいとの感触を持った。

 

・だから米長本は、棋譜など専門書的なアプローチではなく、人生論、勝負の神髄を語るなどのテーマで出したいと思っていた。例えば、米長さんはよく「三人の兄達は頭が悪かったから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」と言っていた。ここらへんにヒントがないか、と僕は考えていた。そこに恰好の話題が転がり込んだ。ある時(正確には2003年)、三戸節雄さんが清流出版を訪ねて来て、面白いことを言った。三戸さんは元ダイヤモンド社、元プレジデント社、世界的なベストセラー『トヨタ生産方式』の共著者である。弊社からも三戸さんの著になる『大野耐一さん「トヨタ生産方式」は21世紀も元気ですよ――写真で見る「ジャスト・イン・タイム」』(定価1680円、2007年刊)、『日本復活の救世主・大野耐一と「トヨタ生産方式」』(定価1470円、2003年刊)を刊行している。「炎のジャーナリスト」の異名を持つ方であった。

 

・三戸さんが、財界人(元東亜燃料工業社長、元日本銀行政策委員会審議委員)の中原伸之さんのお子さんの結婚披露宴に出席した際、同じテーブルだった米長邦雄さんとヘンリー・スコット=ストークスさんと教育問題で意気投合したというのだ。ストークスさんは元ロンドンタイムズ東京支局長など歴任した経済ジャーナリストで、弊社からも『三島由紀夫 生と死』(徳岡孝夫訳、定価2100円、1998年刊)を刊行している。この三人で今後も語り合おうと、その披露宴の席で別れた。その後、喫茶店、バー、三戸さんの家と何度か三人で会ったという。米長さんは青少年の教育問題がもっぱらの関心事。ほかの二人も日本の教育が危ないと断言していた。結局、三戸さんが文章をまとめることになった。その後が大変だった。僕が企画にゴーを出せばよかったのだが、あえて出さなかった。いわば永遠の教育問題を今の時点で結論付けて、単行本にまとめるのは難しい作業であることを熟知していたからだ。

 

・米長さんは、日本将棋連盟会長に就いたのは平成172005)年だが、その前から東京都教育委員をされていた。任期は平成111999)年から平成192007)年まで8年間。この時期、米長さんは教育問題に関心があった。僕が米長さんに将棋以外のことで執筆を期待していたのは、昭和571982)年、ダイヤモンド社の頃だった。僕の企画はあまりに早すぎたのかもしれない。その後、独立して清流出版を立ち上げた。最初、ダイヤモンド社で企画を考えた後17年が経った時、米長さんは東京都教育委員として熱心な委員だったと思う。平成192007)年、米長さんは地方教育行政功労者を受賞した。そのユニークな発言、タレント性は、教育問題の著者として不足がない。何かにつけ物議をかもして、ベストセラーも望めた。米長企画を中途半端な気持ちで立ち消えに終わらせたことは、清流出版の若い編集者たちは、絶対真似してはならない!

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