加登屋のメモと写真…: 2012年7月アーカイブ
加登屋のメモと写真…
2012年7月アーカイブ

宮崎正弘(作家・評論家)さんの新刊書と故・藤島泰輔氏

清流出版 (2012年7月13日 18:05) | コメント(0) | トラックバック(0)

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・稀代のチャイナ・ウォッチャーとして知られる宮崎正弘さんが、またまた弊社から話題作を上梓された。今回のタイトルは、『中国が世界経済を破綻させる』である。だが、本文を読めばわかる通り、必ずしも中国だけに焦点を絞るのではなく、欧米の通貨危機の本質を脱経済理論の北朝鮮、韓国情勢を含む国際政治の裏舞台の動きを視野に入れて、多角的に議論展開している。米ドル基軸による世界銀行、IMF体制が揺らいでいる。否、中国が揺らしているのか。中国の人民元を基軸通貨へという野望なのか? 我々日本人が関知できない舞台裏で、金本位制度復帰という選択肢も真剣に論議されている。こうした時々刻々変化する世界情勢を、縦横斜めから検証できる宮崎正弘さんは、得難い書き手である。

 

・宮崎さんはこれまで弊社から中国関係の本を五冊刊行している。『風紀紊乱たる中国』(2001年刊)、『迷走中国の天国と地獄』(2003年刊)、『中国よ、「反日」ありがとう!』(2005年刊)、『上海バブルは崩壊する ―― ゆがんだ中国資本主義の正体』(2010年刊)、そして、前述した最近刊『中国が世界経済を破綻させる』(2012年刊)の五冊。宮崎さんの中国への渡航回数は数十回に亘り、中国33のすべての省、直轄地、モンゴル、ウイグルなど自治区、特区を踏破している。だからこそ、これほど中国情報に通暁している方はいない。

 

・宮崎さんに顔つなぎしてくれたのは、井口順雄さんだった。今から37年前、僕が井口さんと知り合った当時、「ぜひ加登屋さんに紹介したい人物がいる」と言うので、3人で会うことになった。井口さんは当時、日本総研に席を置いていたが、日本旅行作家協会理事長の斎藤茂太さんの勧めで同協会の事務局長になった。僕の宮崎さんへの第一印象は「爽やかな人物」だった。

 

・その後、宮崎さんと一緒に、北野アームスの加瀬英明さんを訪ねると、ジェラルド・カーティス(コロンビア大学政治学部教授)さんも来ていて、3人は流暢な英語で会話された。この段階で、宮崎さんは「英会話も上手だ」との強い印象が残った。当時、宮崎さんは、マイケル・アームストロングの翻訳ものを手掛けていて、ご自分の名前で著書は出していなかった。そこで、僕は、『軍事ロボット戦争』(1982年刊)、『日米先端特許戦争』(1983年刊、共にダイヤモンド社)以下、国際情勢を分析する本を数々手掛けてくれた。でもこの際、もう少しマル秘情報を明かしておこう。この件は、宮崎さんと僕にとっては暗黙の承知事だ。

 

・入社から18年、それまで属していたダイヤモンド社の雑誌部門を離れた。入社以来、出版局への異動を希望していたのだが、結局、40歳まで異動することはできなかった。出版局に入るのは本当に至難の業だった。まず出版局の長井弘勝君が新しい雑誌『BOX』誌へ異動し、席が空いた出版局に僕が滑り込んだことになる。週刊誌、月刊誌の数々に携わってきた僕には、出版局で単行本を編集する仕事は面白くて仕方がない。僕が手掛けた「単行本シリーズ」の一つに、ポール・ボネの『不思議な国ニッポン≪在日フランス人の眼≫』があった。結局、全部で16冊のポール・ボネ本を仕掛けることになる。それがことごとく増刷に次ぐ増刷である。笑いが止まらなかった。そして、新刊後4年経った時、全部、角川書店で文庫化されることになった。多分、角川書店から文庫シリーズとしてトータル500万部を超えた。これだけの部数の3%(=印税)だから、元出版社=ダイヤモンド社の取り分も大きかったはずだ。まさに濡れ手で粟状態だった。

 

・そのポール・ボネこと藤島泰輔さんと宮崎正弘さんが親しく付き合っていたことを、その時、僕は知らなかった。当然ながら、その時点で僕は藤島さんとは編集者として付き合っていた。藤島さんは、今上天皇(当時、皇太子)のご学友の一人だ。その藤島さんが学習院高等科時代の皇太子と「ご学友たち」を題材にした小説『孤獨の人』で作家デビューした。その序文で、三島由紀夫が「うますぎて心配なほど」と評価している。1964年(昭和39年)、メリー喜多川さんと結婚。翌年、長女・藤島ジュリー景子が誕生する。僕が、港区六本木鳥居坂のマンションへ原稿を貰いに行くと、当時中学か高校生くらいだったジュリー景子さんが、英語でペラペラ父親の藤島さんに頼みごとをしているのをしょっちゅう見かけたものだ。今でも、宮崎さんはメリー喜多川さんとお付き合いがあるらしく、先日、豪華な自家用車でご一緒したと話してくれた。知り合って数年経つと、藤島さんはホテルを定宿にした(最初はホテルオークラ、後にホテルニューオータニのスイートルーム)。毎月の原稿受け渡しや遊びのほか、僕もホテル・ライフを楽しんだ。若い僕に豪華な洋酒、煙草(ダビドフが一番多かった)、高級なおつまみ、雲丹や牡蠣などをよくご褒美にいただいた。

 

・宮崎さんは真面目な方で、競馬はおやりにならないが、僕は競馬、競輪、競艇、オートレースとなんでもござれのギャンブル大好き人間である。ある時、藤島さんが中央競馬会の勧めで馬主になった。それが、なんと単行本のベストセラーの印税なみに稼ぐことになる。馬の名前はランニングフリー。1985年9月、中山競馬場でデビューを果たすと、順調に勝ち抜いて、オープン馬となり、春の天皇賞では13番人気ながらタマモクロスに次ぐ2着となった。そのお蔭で、皇太子ご夫妻(当時)も府中の競馬場へ足を運ばれた。7歳時にはアメリカジョッキークラブカップ、日経賞とG2を2連賞するなど活躍した。3回ぐらい、ホテルオークラの祝勝会に呼ばれて祝杯を挙げた。そこで競馬の神様・大川慶次郎さんにもお会いし、得難い会話を楽しんだ。僕の電話投票もその席で藤島さんが農林省の次官殿に頼んで入れてもらったものだ。

 

・次に、藤島さんは、有り余るお金でパリ16区(高級住宅地)に豪邸を手に入れた。「部屋はいくつもあるから、パリに来てホテルに泊まる必要はない…」と言う。結局、その豪邸を訪ねたことはなかったが、僕もかつてシャイヨ国立劇場やトロカデロ庭園のすぐそば、16区のマンションに住んだことがあった。そのマンションは、かつてカトリーヌ・ドヌーブが賃貸で借りていた場所らしい。20代の僕も贅沢な想いを楽しんだものだ。その後、藤島さんの16区の住まいは、元NHKの花形キャスター磯村尚徳さんが日本文化会館初代館長になった際、リースされることになったという。その話は、大宅壮一ノンフィクション賞をとった作家・深田祐介さんも知っているので盛り上がった。深田さんとは人脈が重なるところがあり、同じ身体障害者一級同士ということで話が弾んだ。

 

藤島さんに頼んで、ダイヤモンド社からポール・ボネ以外の本を刊行したこともあり、懐かしい思い出だ。『中流からの脱出――新しいステータスを求めて』(1986年刊)、『ウルトラ・リッチ―超富豪たちの素顔・価値観・役割』( V. パッカード著、藤島泰輔訳、1990年刊)、『名画の経済学――美術市場を支配する経済原理』(ウィリアム・D・グランプ著、藤島泰輔訳、1991年刊、すべてダイヤモンド社刊)などである。いずれの仕事も藤島さんは楽しんでくれた。「加登屋さん、僕は作家・評論家なのに、皆さんが本を出していない、唄を忘れたカナリヤだと言う。本当は、毎日せっせと書いている。それもベストセラーを書いている。ポール・ボネとは、実は僕なんだ何度も告白したい気持ちになる。ポール・ボネ以外の作品を書くのは、ストレス発散になって嬉しいよ」とよく言われた

 

・宮崎正弘さんにちなみ、今回は藤島泰輔さんのことを主に書いた。人には、運、不運、成功、失敗がつきものだ。藤島泰輔さんの人生は、恐ろしいぐらいつきまくった。上流家庭に生まれる。皇太子(当時)のご学友となる。作家・評論家としてデビューする。メリー喜多川(藤島メリー泰子)さんと結婚、一人娘ジュリー藤島(藤島ジュリー景子)さんを儲け、ジャニーズ・アイドル帝国を築いた。たのきんトリオ、SMAP、嵐……一連のアイドルたち。資産家で、長者番付の常連。父親(藤島敏男)は登山家、日本銀行監事、祖父(藤島範平)は日本郵船専務。一代では築くことができない名門である。唯一、1977年、第11回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区に立候補し、新日本宗教団体連合会関連諸団体の推薦を取り付けるなどして188,387票を獲得し、法定得票数に達したが66位で落選した。これが唯一の汚点というか、残念なことだった。1933年1月9日生れ、1997年6月28日没(享年64)。

 

・宮崎正弘さん、貴兄のことをもう少し書こうと思ったが、残念ながら今回はこの辺でペンを擱く。単行本の新刊を弊社から出したとき、また書くことにする。それが早い時期になることを待っている。じゃー、また。

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