2012.06.07「菅原匠の藍染とやきもの展」を観る

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銀座松屋の会場には、菅原さんの藍染と陶芸の魅力がたっぷり。

 

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地元、伊豆大島から切ってきた野生種の額紫陽花が彩を添える

 

 

 

・菅原匠さんから銀座松屋での個展開催のご案内をいただいた。菅原さんは毎年、1週間ほどの会期で、この松屋デパートで藍染と陶芸の個展を続けている。藍染、陶芸ともに斯界の第一人者であり続けるのは至難の業だが、難なくこなしているのにはいつも感心させられる。もっとも当人にしてみれば、近年、比重的には陶芸に魅せられ、入れ込み具合も違ってきているようだが。かつて月刊『清流』で菅原匠さんの企画を連載したこともあった。『自然を生きる』のタイトルで毎号、菅原さんの暮らしや生き方を語る企画だ。第1回目の「藍を育て、藍で染め、暮らしを慈しむ」以降、ユニークな記事が続いた。余談だが、毎年のようにこの個展会場で顔を合わせる感じのいい女性がいて、この女性に会えるのも楽しみの一つであった。61日の金曜日、弊社顧問の斎藤勝義、出版部の臼井雅観両君と出かけた。楽しみにしていた女性だが、菅原さんによれば、昨日来場したという。残念だがしかたあるまい。

 

・ご存じのように、菅原さんの名を世に知らしめたのは、あの白洲正子である。菅原さんの藍染の素晴らしさに惚れ込み、暖簾を何点も購入して自宅に飾るとともに、単行本や雑誌でも称賛したものだ。菅原邸の門に「藍風居」と書かれた扁額がかかっているが、白洲正子の命名だという。藍染の藍を建てるのはとても難しい。藍が発酵する適温は摂氏20度からだとか。生きているだけに目が離せないのだ。調子のいい甕がいつでも1つは必要だからと、菅原さんはなんと9個の藍甕を育てている。まさかの時に備えて、予備の藍甕が必要なのである。その上、染める生地にこだわっていたから、いい生地を手に入れるのも大変だった。日本各地はもとより、海外にまで足を運んでお眼鏡に叶うものを探した。

 

・菅原さんが辻清明と親交があったということは、人から聞いて知っていた。だが、辻清明が菅原さんの仲人役を果たしたというのは初耳であった。麗子夫人との出会いも、素材となる生地を求めて訪れた韓国であった。麗子夫人は韓国のやんごとなき家系の出身。結婚して日本に連れてくるには、現地で古式にのっとった結婚式をする必要があった。その時、東奔西走して、手を差しのべてくれたのが辻清明だった。結婚式に日本から出席する二十数人の人選をし、渡航の手続きなどすべて手配りする。だから菅原さんは辻清明には頭があがらなかったようだ。

 

・弊社では、2010年の夏に『独歩 辻清明の宇宙』という本を刊行している。そもそもこの本は、陶芸家の辻清明が藤森武さんのカメラマンとしての腕に惚れ込み、撮影を依頼したものだった。辻清明は知る人ぞ知る異端の陶芸家である。特に師をもたない独立独行の孤高の陶芸家で、同業者で親しく付き合った人はない。信楽焼きを得意とし、優れた作品群を制作している。ホワイトハウスを始め、欧米の美術館・博物館に収蔵され、また、国家元首クラスの要人へのお土産としても多く使われたことでもその異才ぶりは際立つ。晩年、ドナルド・キーンさんと一緒に東京都の名誉都民ともなった。キーンさんとは、安部公房を介して知り合い、連光寺の自宅に招いたこともある。蕎麦打ちが得意だった辻清明は、自宅の庭で、野外パーティなども開いた。自分の焼き物で蕎麦を供するとはなかなか風流であった。

 

・昭和62年、辻清明がちょうど還暦を迎えた時、長野県南安曇郡穂高町有明に10年を費やして100坪の工房と登り窯を完成させる。これは本拠としていた多摩・連光寺の工房周辺の宅地開発が進み、仕事に支障が出てきたので、新潟県にあった270年を経た古民家を解体し、新たに設計し直したものだった。茅葺屋根の豪壮・壮大な屋敷だったようだ。ところが好事魔多しとはよくいったもの。2年後の平成元年12月、この工房を焼失してしまう。乾燥し切った茅葺屋根の家である。たった10分ほどで焼け落ちてしまったという。

 

・菅原さんによれば、出火原因は、通常考えられるような火の粉が屋根に飛び移ってというのではないらしい。12月の安曇野は、かなり冷え込みが厳しい。そこでがんがん、囲炉裏で火を焚いているうち、屋根裏近くに熱がこもり自然発火したものだという。辻清明の落胆ぶりは想像するにあまりある。10年を費やして手に入れた理想の工房を失ったばかりでなく、気に入って集めていた鉄器などのコレクションもすべて無くし、茫然自失の態だったという。ただ、登り窯だけは延焼をまぬがれ、翌平成2年「古信楽と辻清明の世界展」を開催できたのは、不幸中の幸いであった。

 

・その辻清明が助手を連れて伊豆大島の菅原邸を訪ねてきたことがあるという。菅原さんが身振り手振り交えて話してくれたが、その酒豪ぶりはあとあとまでの語り種である。新鮮な魚介類を肴に酒を飲みながら食事をし、菅原さんは夜半を過ぎたのでさすがに疲れ、眠ってしまった。ところが、辻清明はといえば、その後も飲み続け、菅原さんが朝起きてみると、なんと清酒一升、焼酎一升、ウィスキー1本を開けたうえ、まだ酒が残っていないかと家探ししていたというのだから。豪快といえば豪快な大酒呑みだったようだ。知られざるエピソードである。

 

 

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菅原匠さん(左から2人目)を囲んで、弊社顧問の斎藤勝義さん(右から2人目)、出版部の臼井雅観君(左)、僕(右)。