2011.10.14沖縄旅行

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「ひめゆりの塔」の前で。悲しい沖縄史の象徴。僕も献花した。

 

・わが社から沖縄に関する本は、社歴18年になるが一冊しか出ていない。『かんたん、男の沖縄料理』(料理制作・監修「抱瓶(だちびん)」料理長 神谷八郎著、20093月刊、定価1470円)がそれ。残念ながら、初版のまま増刷にもなっていない。このままでは、仕掛けに乗った僕の名が廃れる。なんとか沖縄企画でいい本を出したいとの思いがあった。

 一方、沖縄に一度は行きたいと思いつつも無理と諦めていた。長時間、飛行機に乗るのは医者に制限されている。脳出血の身には、急な気圧の変化はタブーなのだ。それでも意を決し、バリアフリー・ツアーに申し込んだ。結果的に、なにごともなく無事沖縄旅行をしてきた。主だった観光スポットを訪ねるには、二泊三日では強行スケジュールだったが、なんとか楽しんでこられた。行ってみて改めて、沖縄問題の根深さを肌で感じ取れた。

 東日本大震災の被災地となった東北地方同様、天災・人災をモロに受けてしまうと容易に立ち直れない状況が続く。わけても沖縄は、第二次世界大戦の爪痕が、66年経った今もまざまざと残る。日米安保関係の改善のためには、焦眉の急ともいうべき基地問題もまだ決着をみていない。その上、遠く歴史を遡れば、日本史の「琉球以来の問題」もある。

 沖縄の歴史を辿ることから始まって、実生活(衣食住)、伝統芸能など……駆け足ではあったが、接することで理解を深めることができた。実際の現場を見てつくづくよかったと思う。僕の沖縄観は、行く前と後で大きく違ってきたことを正直に言っておこう。

 

・絶対に見ておきたいと思ったのは、都合三か所。一番目が「首里城公園」である。「めんそーれ(沖縄の方言で「いらっしゃいませ」)首里城!」と呼び込まれた。2000年に世界文化遺産に登録された首里城公園では、琉球王国の栄華を物語る数々の歴史的な建造物を目の当たりにできた。守礼門から入り、園比屋武御嶽石門(世界遺産)を通り、凝った命名をされたいくつかの門をくぐり、南殿・番所、書院・鎖之間、庭園、正殿、北殿と順路に沿って回る。自然、華やかなりし琉球王朝時代に想いを馳せた。

 

・二か所目は、「ひめゆり平和祈念資料館」。入口の「ひめゆりの塔」を見ただけで、込みあげてくるものがあり目が潤んでしまう。資料館に入ると、大勢の見学者で込み合っていた。ひめゆり学徒隊、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒たちの悲惨な姿が目に染みる。結局、陸軍病院に動員されたひめゆり学徒隊は240人(生徒222名、教師18名)、うち死者136人(生徒123名、教師13名)、陸軍病院動員以外の死者91人(生徒88名、教師3名)、残った生存者104人(生徒99名、教師5名)。沖縄戦で亡くなった女師・一高女の生徒・教師は227人(生徒211名、教師16名)にものぼる。こうした多くの前途有為な女性たちが、戦争の犠牲者として散っていった。我々平和ボケしている現代人は、ひめゆりの塔を前にすると、言葉もない。

 

・三か所目は、「沖縄県平和祈念資料館」。この資料館は、20004月、旧資料館を移転改築し、開館されたもの。広大な敷地を持ち、延べ面積で約10倍、展示面積で約5倍に拡張されたという。「平和の礎」――沖縄戦などで亡くなられた国内外の20万人余のすべての人々に追悼の意を表し、御霊を慰めるとともに、今日、平和を享受できる幸せと平和の尊さを再認識し、世界の恒久平和を祈念する。こうパンフレットに書かれているように、平和を発信する重要拠点としての役割を担う資料館である。

 最初に「平和の火」を見て、「平和の礎」に移る。20万人余もの膨大な名前の中から、妻の叔父を見つけることにする。数年前、妻は二人の姉と共にここへ来ている。それでも簡単には見つけられない。長野県から探すことにした。丹念にあいうえおを辿って行く。妻が「ありました」と声をあげた。名前の前で二人は合掌した。

 その後、資料館を1時間ぐらい見るうち、僕は検索装置を発見した。その機械だと、戦死した人の出身地・名前等を入力すると、大きな「平和の礎」の中から、なんと当該部分が出力される仕掛けになっている。これだと20万余の中から容易に目的の人物に辿り着ける。今度、機会があったら、これを使わせてもらうことにしよう。

 

・番外のお勧めとして「おきなわ文化王国・玉泉洞ワールド」を挙げておきたい。王国歴史博物館、全長5kmの玉泉洞(珊瑚礁からでき、30万年をかけてできた鍾乳洞)、琉球ガラス王国工房、陶器工房、紅型工房、藍染工房、紙すき工房、機織り工房等があり、どこを見ても魅力的だ。僕が一番気に入った場所は、「エイサー広場」だった。エイサーは、旧盆の頃、沖縄諸島で踊られる伝統芸能。大小の太鼓を持ち、若者たちが歌とお囃子に合わせ、踊りながら練り歩く。若い男女が、夢中になって踊る様を見て、53年前、学生時代に石川県輪島で御陣乗太鼓(ごじんじょだいこ)を見たことを思い出した。太鼓のリズムが身体に響いてきて、その時以来の興奮を覚えた。

 エイサーにはストーリーがある。途中、翁と姥が出てきて、やおら数百人の観客の中からあろうことか僕に向かって、瓢箪から酒を浴びせた。すると、そこに大きな獅子が現われ、僕をガブりと頭から食べる仕草をした。あっという間の出来事だった。お客さんは、意外な展開にヤンヤの喝采と拍手。僕は身障者なので一番前にいた。運悪く(人によっては運が良く)、一番前に座っていたことによる悲喜劇だった。

それア・太平洋戦争の末期、日米両軍は沖縄で住巻

・そもそも沖縄を意識したのは、中学時代に遡る。石垣島から努力家の石垣信浩君が転校してきたのだ。たまたま僕の後ろの席だったことから、親しく接するうち沖縄に興味が湧いてきたのだ。石垣君のお父さんは、郵便局の局長さんだったらしい。「ぜひ一度、石垣島に遊びにおいでよ」、との当時の会話が懐かしくよみがえった。その後、石垣君は早稲田大学文学部史学科を出て、現在は大東文化大学名誉教授。西ドイツ留学を経験し、僕も頂いた労作『ドイツ鉱業政策史の研究―ルール炭鉱業における国家とブルジョワジー』を著している。

 僕の浅薄な知識で言うと、沖縄と言ってすぐ頭に浮かぶのは、「泡盛」と「豚の角煮」、「ゴーヤ・チャンプル」といったところ。また、歌に独特の雰囲気があり、沖縄出身歌手は歌唱力が凄いという印象がある。安室奈美恵、古くは喜納昌吉がいる。夏川りみの「涙そうそう」「花」等、何度聴いてもいい。それに仲間由紀恵、新垣結衣、黒木メイサといった個性的な美人女優。宮里藍、宮里美香、上原彩子以下、天才プロゴルファーも多く輩出している。

 少し硬い話をすると、僕が沖縄を強く意識したのは、50年前に何気なしに本を読んで、ある人を知ってからだ。意識を変えたその人の名は、沖縄自由民権運動の父と称される謝花昇(じゃはな・のぼる)である。残念ながら、今は忘れられて話題にもならない人だ。

 ウィキリークスを借りて言えば、慶應元(1865)年生まれ、明治411908)年に没している。東京帝国大學農科大學を卒業した、沖縄県初の学士だった。この人が、大學時代に中江兆民に師事し、木下尚江や幸徳秋水らと自由民権運動に触れる。大學卒業後、沖縄県技師となり、同時に様々な役職を兼務し、県政改革に献身尽力した。その後、紆余曲折があり、旧支配者層に妨害を受け、挫折することになる。

 明治34年、生活に困窮したことから、職を求めて山口県へ向かう途中、なんと神戸駅で発狂した。以来、廃人状態に陥り、明治41年、44歳の若さで亡くなった。この謝花昇の生涯を多感な頃に知って、僕は激しい憤りを感じた。

 その後、「戯曲 謝花昇伝」の素晴らしい舞台を見て、ますます沖縄に強く関心を抱いた。そういった意味で、今回の沖縄旅行は、青春時代にし残した宿題に改めて取り組み、心の中で切を付けた充実感がある。

 

・たまたまホテルで新聞を読んでいて、ある記事が目についた。「沖縄タイムス」20111010日(月)のコラム「大弦小弦」(筆者・平良哲)には、こう書かれていた。

「戦争は酷(むご)く愚かな行為だ。中でも悲惨で卑劣なのは空襲だろう。武器をもたぬ民間人が犠牲になり、地域に根を下ろした暮らしが無差別に破壊されていくのだから▼67年前のきょう、多くの県民が逃げ惑い、命を落とした。戦闘機のごう音や爆弾の落下音が、空を切り裂く。生まれ育った家を焼かれ、防空壕で爆撃音に耐える。その恐怖は想像を絶する」、(中略)、「壮絶な体験から数十年たって症状が現れることが多いようだ。いつまでも人の心に巣くう戦の本当の怖さが見て取れる。沖縄戦は過去のものでない。なお現在進行形で、多くの人を苛む実情を心に刻みたい」――。

 調べてみると、この筆者は、僕と同じ早稲田大学第一政治経済学部出身で三歳年上とのこと。今は(財)沖縄観光コンベンションビューロー会長、その前は那覇空港ビルディング(株)代表取締役社長であった。

 その平良哲さんは、別の記事で――、

 作家吉村昭さんは著書「三陸海岸大津波」の中で、三陸の魅力に触れている。屹立(きつりつ)した断崖(だんがい)や海の色をたたえた淵(ふち)、海岸線につらねる漁師の家々が「まぎれもない海の光景として映じる」とある》 (中略) 

 東日本大震災では海岸線から10キロ以内、標高30メートル以下の地域が津波で浸水した。その条件に照らすと、沖縄は面積が1200平方キロに及ぶ。県土全体の半分以上、県人口の54%に当たる75万人余が暮らすと国交省は分析する。標高20メートル以下で約50万人、10メートル以下は28万人以上が居住するという空港が被災した時の島々の困窮は想像に難くない。しばらくは物資が届かず救援の手が行き渡らないこともあろう。孤立することを想定して県や島ぐるみの支え合いが必要だ》と書いている。

 沖縄と東日本――その対比・類似を、このように明らかにしたコラムは、心に深く染み入った。貴重な僕の沖縄土産ともなっている。