2011.02.14山川方夫、みどりさんの本、連続刊行!

 結婚後間もない頃、自宅での山川夫妻.jpg

結婚後まもない頃、自宅での山川夫妻

 

・山川方夫は1930(昭和5)年の生まれで、慶應義塾(幼稚舎、普通部、予科文学部、大学文学部仏文科、大学院文学研究科仏文専攻)で一貫して学んだ。彼の功績は数々あるが、1954(昭和29)年、第3次『三田文学』を創刊し、新人発掘に力を注いだことがまず挙げられる。曾野綾子、江藤淳、坂上弘など数々の才能を開花させたことでも知られる。その後、ご本人の文学作品も何回か芥川賞、直木賞の候補となるが、惜しくも受賞には至らなかった。文学賞は時の運次第ともいえる。あの久世光彦も何度か候補になったが、直木賞とは縁がなかった。小説、戯曲、放送台本、エッセイ、評論……等、あらゆるジャンルで素晴らしい作品を残し、夭折した天才・山川方夫氏。小説「夏の葬列」「愛のごとく」「海岸公園」等は今でも高く評価されている。いま改めて再評価するのに絶好といえるエッセイ集ではないだろうか。

・本書に所収された、江藤淳、石原慎太郎、大江健三郎、曾野綾子ら同時代作家への優れた文藝評論は、的を射たもので今でも頷ける。また、「中原弓彦について(小林信彦)」というエッセイで、小林信彦の今日あるを見通しているのは流石である。山川方夫自身、中原弓彦編集の『ヒッチコック・マガジン』誌にショートショートを執筆して話題にもなった。その他、ミケランジェロ・アントニオーニの「情事」、アラン・レネの「去年マリエンバートで」、アンリ・コルピの「かくも長き不在」などへの卓抜した映画評論もこのエッセイ集に編まれているが、いずれも独創的で質が高い。

・話は飛ぶが、僕は20から30代の頃、梅田晴夫主宰の「雑学の会」のメンバーだった。親しくなったので梅田晴夫に頼んで、編集担当していた週刊の経済誌に広告エッセイの連載をしてもらったことがある。紳士の身だしなみや、持ち物に関するエッセイで、万年筆、パイプ、傘、時計……等がテーマだった。梅田の薀蓄の深さはとどまるところを知らず、毎回楽しみに読んだものだ。スポンサーからは、この筆の冴えをことのほか喜ばれた。通常の原稿料と比べると高額だったこともあり、梅田も大変喜んでくれた。その梅田晴夫が冬樹社の山川方夫全集第5巻に付属している月報第5号(昭和45年7月)に「嘉巳ちゃん」という文章を書いている。「ある日、彼(山川方夫)が訪ねて来て、<実は父の先生であった鏑木清方の「方」と、梅田晴夫さんの「夫」をいただいて方夫というペンネームにしました>と」本名・山川嘉巳がいかにしてペンネーム山川方夫となりしかの打ち明け話をされたと書いている。「嘉巳ちゃんは天国で昔の無口な少年に戻っているだろうか」と、梅田は言葉を結んでいる。山川方夫を論じて、敬愛する梅田晴夫のことが思い出され、懐かしかった。

・その山川方夫が1965(昭和40)年2月19日、二宮駅前の国道1号でトラックに轢かれる交通事故に遭い、翌日死去する。享年34。山川は、郵便を二宮駅前の郵便局や二宮駅の鉄道便受付で出す習慣がありその帰り道であった。通りがかりの地元タクシーが山川を大磯病院まで運んだ。夜になると同級生や先輩たちが病院にかけつけたが意識は戻らかった。翌20日午前10時20分、大磯病院の病室で家族に見守られて死去。この若さで不慮の死を遂げた天才が、書き遺した瑞々しい文章を、今読むことができる。うれしいことである。

・山川みどりさんは、方夫氏の妻としてわずか9ヵ月。新婚生活1年を経ずして最愛の夫を亡くしたことになる。1964(昭和39)年の3月に大学を卒業し、5月に結婚式を挙げ、その翌年2月の交通事故である。その悔しさ、無念さは筆舌に尽くしがたいものがあったと思う。その前後の経歴を見ると、聖心女子大学国文科卒、母校の湘南白百合学園に講師として勤めながら、聖心女子大学大学院で国文学を学ぶ。1968(昭和43)年に新潮社入社。1983(昭和58)年から19年間、『芸術新潮』の編集長として活躍された。2001(平成13)年、定年退職。後で触れるが、僕は新潮社の方々とは何人も知り合って懇意にしている人も多いが、山川さんとはお付き合いがなかった。

・山川みどりさんは、退職後、新潮社の季刊誌『考える人』に「六十歳になったから」を連載し、好評を博す。この23回にわたる連載を全部見て、文章の巧みさに惹きこまれ、同世代に受けること間違いなしと刊行を決意した。今のところ、仮題は『還暦過ぎたら遊ぼうよ』で行きたい。まず、「六十歳になったから」の第1回目“これからいっぱい遊ぶんだ!”を読んで、ものすごく面白かった。雑誌『芸術新潮』で編集に携わっていた最後の数年間に、花人・川瀬敏郎さんに「今様花伝書」を、書家・石川九楊さんに「一から学ぶ」を連載していただいたのも、定年退職後の山川さんの生活の準備だったとも見做されるもので、その用意周到さに感心させられた。僕の場合、自分の仕事から現実のなりふりを教訓的に見るなどはあまりしたことがない。あの健全で、倫理的な『清流』を編集していながら、清き流れの住人とは見られない。むしろ濁流で過ごしていると思われているフシがある。(反省!)

・高崎俊夫さんは、月刊『清流』の2011(平成23)年4月号に、「夫・山川方夫を語る――山川みどり」のタイトルで、インタビュー記事を書いてくれた。その記事を読むと、夫亡きあと、文学から目をそらし続けた日々が印象的だ。26歳で新潮社に入社し、装丁の仕事から始め、まもなく『芸術新潮』に異動する。初めて向き合ったアートの世界に刺激されのめり込む。編集という作業も、とても性に合ったという。山川みどりさんの本質を見抜いている。

・仮題『還暦過ぎたら遊ぼうよ』の本の中で出てくる山崎省三さんの名前が僕にとっては懐かしい。『藝術新潮』(現在は『芸術新潮』)の元編集長である。僕は25から40歳ぐらいまで、山崎省三さんとは親しくお付き合いをさせていただいた。この40歳の時、僕は長年望んでいたダイヤモンド社の出版局に異動し、それまでの雑誌部門からようやく足抜けできた。それ以降、他社の出版部とは競合相手になるので、お付き合いは控えめになった。一方、山川みどりさんは41歳の時、山崎省三さんからバトンを受け、『芸術新潮』編集長となる。文字通り、タッチの差でみどりさんと僕はお付き合いがなかったのだ(ちなみに山川みどりさんは僕より1歳年下である)。

・山崎省三さんの編集長時代、例えば瀧口修造、大島辰雄、吉岡実各氏と画廊や展覧会や各種イベントに集う時(例えば、後楽園の「ボリショイ・サーカス」や赤瀬川原平さんの「千円札裁判」までも)は、ほとんど山崎省三さん(実際は新潮社)に奢ってもらった記憶がある。コーヒー、食事はもとより、特にお酒が入ると大いに談論風発し、楽しい集まりであった。その集まりの中では、僕一人だけが年若だった。なんという幸せな一時を過ごしたことだろう。きっかけは河出書房、講談社、新潮社等の校正・校閲を歴戦された龍野忠久さんの存在が大きい。龍野さんと僕は歳が一回りほど違うが、後輩の僕をこういった方々と何かというと引き合わせてくれた。経済誌中心の出版社であり、僕に芸術や文学のジャンルに野心がないことを山崎省三編集長もよく知っていて気軽に呼んでくれた。山川みどりさんの前任者である山崎省三さんに僕は心からお礼を言いたい。

・この際、僕の知っている新潮社の方々を列挙し、厚遇されたことへの御礼と近年のご無沙汰をお詫びしておきたい。まず、お亡くなりになった方から――。●山崎省三さんと●龍野忠久さんについては、一回り歳下の僕を友だち扱いして、いろいろな場所やイベントに見に来るように誘ってくれた。その結果、この上ないアートの世界に導かれると同時に、文学、建築、写真……等を一緒に見て、大いに勉強になった。龍野さんが1993年に亡くなり、山崎さんが2006年に亡くなった今、出版界におけるあのようなお付き合いしてくれる先輩方がいなくなった。それにしても、僕がいたダイヤモンド社の社風に比べ、新潮社には自由と進取の気風があった。僕は文藝春秋にも知人が多い。新潮社、文藝春秋いずれも社員が大好きな企画や編集をやる気運が満ち満ちているように思った。●新田敞(ひろし)さん;出版部長から常務取締役を務めた。新田さんが出版部長であった当時、偶然、同じ著者にぶつかることが何回かあった。新田さんがある時、病院に入院すると、隣の病室には作家の森本哲郎さんが入院中。おかげで二人は企画会議がいつでもできることを喜んだとか。●山岸浩さん;僕が素晴らしいと思った叢書「創造の小径」を熱心に編集していた。当時、「創造の小径」全巻を買う人は稀有なことだった。なにせ高額本だったから。僕はその全巻を買って持っていた。山岸さんと一緒に個展を見に行って、親しい著者・宗左近さんとバッタリ出会ったことがある。直ぐそばのビアホールでハーフ&ハーフで乾杯したのがついこの間のことのように思い出す。残念にも40歳前後で夭折された。僕は山岸さんの編集感覚に、大いに刺激されたものだ。

・まだ生きている方たち――。●前田速夫さん;東大のボクシング部出身。「新潮」編集長。僕のダイヤモンド社での編集担当本『アイアコッカ』の版権を買ってくれた人だ。お蔭で『アイアコッカ』はダイヤモンド社で99版を達成したが、100版は新潮社に任せて、会社は印税をしこたま稼いだ。その後、前田さんは歴史研究者になり、『渡来の原郷――白山・巫女・秦氏の謎を追って』以下、注目すべき本を出している。●酒井義孝さん;画廊、古本屋、映画館とよくご一緒した。京王線のつつじヶ丘南口に住んでいた。池波正太郎の担当で、よく池波本をもらったことを覚えている。つい最近、ご自分の担当した『石本正と楽しむ裸婦デッサン』刊行を記念して、特別講演会を開いた。講師・酒井義孝として活躍の場面がネット画面に流れているのを見て、頑張っているなと思った。●伊藤暁さん;奥様も新潮社出身。その奥さんの友だちは、同じ新潮社出身で澁澤龍彦さんに嫁いで有名になった龍子さん。伊藤暁さんは、澁澤龍彦さんと比べられるのがはなはだ不愉快と、夫人に文句を言っていた。立川に住んでいたが、よく我々の集まりに参加してくれた。清流出版の単行本を新潮文庫にしたいと版権を買ってくれた。思いがけぬ時に、かつての友だち関係は生きてくるのが楽しい。●伊藤幸人さん;長年、「フォーサイト」を担当。25年前、外人記者クラブで徳岡孝夫さんに紹介してもらったのがきっ掛けでお付き合いが始まった。かつて「フォーサイト」の伊藤編集長が書く『次代を「考えるヒント」』は、僕もよく愛読していた。今の肩書は、新潮社広報宣伝部長。最近の『週刊新潮』を見ると、よく伊藤広報宣伝部長の談話が出てくる。活躍しているなとわがことのようにうれしい。亡くなったお父上は、元住友商事社長・会長という。●山田恭之助さん;『新潮45+』(現在は『新潮45』)の初代編集長。山田さんとは平山郁夫さんとひろさちやさんの対談本でお世話になった。平山さんの行きつけだった鎌倉の寿司屋の二階を借りて、都合8回ほど対談を行なった。その単行本『アジアの心 日本のこころ』は会場費、食事代等が嵩んだので採算分岐点が心配になったが、結果的に黒字になって成功した。その他、山田さんには月刊『清流』の編集でお手伝いをお願いした。●伊藤貴和子さん;新潮社の女性は、何人か知っているが、代表して伊藤貴和子さんをご紹介したい。初めて出会ったのは「龍野忠久さんの出版記念会」だったか、「龍野忠久さんを偲ぶ会」か忘れたが、いずれにせよわが親友にして博覧強記の正慶孝明星大学教授が、才女の伊藤貴和子さんをご紹介してくれた。その後また、天才ヤスケンこと安原顯の葬儀の時に、伊藤貴和子さんが紹介してくれたのは僕の憧れの方・辻佐保子さんだった。辻邦生さんの令夫人である。伊藤貴和子さんの編集担当は数々あるが、かつては司馬遼太郎、いまは塩野七生担当と聞いてうらやましく思った。今は、財団法人 新潮文芸振興会国際文化交流事業担当という肩書。伊藤貴和子さんも新潮社のよき人材として印象に残っている。

 

山川方夫全集を前に僕.jpg

山川方夫全集を前に僕