あることがきっかけで、うつ病に? - 加登屋のメモと写真…
加登屋のメモと写真…
あることがきっかけで、うつ病に?

社長1111.1.2.jpg

野見山暁治さんと。かつて長島葡萄房の店で。今となれば懐かしく、僕にとっては貴重な一枚。

 

・僕がわが社から復刊を切望していた企画がある。それは、『出世をしない秘訣――すばらしきエゴイズム』(ジャン・ポール=ラクロワ作、椎名其二訳、1960年)という本である。50年も前に出た翻訳本に執心するのにはわけがある。実は、わが恩師・椎名其二先生の翻訳で、当時、ベストセラーになった本であるからだ。6年ほど前のことになるが、版権を持っている理論社のK氏にお会いする機会があった。神田のオフィスを訪ね、わが清流出版に同著の版権を譲ってほしいとお願いした。その時、K氏は理論社で復刊したいので、版権を譲ることはできないとおっしゃった。そういう事情であればと、僕も泣く泣く諦めた経緯がある。


・ところが、その企画がこぶし書房から刊行されることになったという。僕が椎名先生について書いたホームページを見て、9月11日、こぶし書房編集部のTさんからメールが届いて知った。版権を譲り受け、刊行するに先立ち、椎名其二さんの著作権継承者、ご遺族である相澤マキさんの連絡先を教えてほしいとの問い合わせである。早速、僕は前々から、理論社のK氏に版権を譲ってほしいとお願いしていた経緯を説明した。Tさんは驚いて、K氏に会いに行き、確認をしてくれた。K氏は「今回、こぶし書房から復刊するにあたって、1960年に刊行した経緯、ならびに椎名さんについてのエッセイ30枚を書きます」との返事を得たという。9月21日のことであった。完全に清流出版や加登屋の名前は、あの尊敬すべき信州人K氏の頭には残っていなかったのだ。僕は、日頃から出版人として尊敬してきたK氏に裏切られたことになる。ショックのあまり、僕は軽いうつ状態になってしまった。僕の父もそうだった。陽気で活発な性格だったが、古希の声を聞いてから突然、うつ病になってしまった。僕も70歳になってのうつ状態とは……うつ病は、遺伝するのかもしれない。


・ほどなくしての10月6日、理論社が東京地裁に民事再生法の適用を申請したというニュースが入ってきた。負債総額22億円。2008年4月期の総売上高15億7600万円だから、それを大幅に超える負債額だ。戦後すぐの1946(昭和21)年4月創業で、絵本や児童書では秀でた出版で鳴らした。あのK氏の創業した良心的な出版社が倒産とは……。そして、K氏のお眼鏡にかなったこぶし書房は、例の黒田寛一氏が設立し、福本和夫、高島善哉、務台理作、ヘーゲル、シェリング等の哲学・思想を出版する硬派な出版社である。言った言わないの争いごとは好まない。今となっては、こぶし書房にいい本作りをしていただいて、再び脚光を浴びて欲しい本だと思っている。


・この『出世をしない秘訣――すばらしきエゴイズム』が刊行された当時、椎名さんは73歳、僕は大学3年生(20歳)で、椎名さんには全人的な魅力を感じていた。このホームページにも何回か書いたが、親友の長島秀吉君は僕に負けず劣らず椎名さんの大ファンで、恩師の写真をタタミ一畳大にして部屋に飾っていた。当時、長島君のご母堂が「秀吉は、特注で拡大して飾っているんですよ」と僕に愚痴ったことがある。長島君と僕は、毎週、椎名さんとフランス語の原書を読んで、その後の椎名さんの内外情勢に対する高度な薀蓄話を楽しみにしていた。その椎名さんが赤貧生活の上、日本の政治的貧困、風紀紊乱の世を嘆き、かつて40年間住んだフランスへ帰ろうとした。その旅費の一部にしたいと翻訳した本で、僕にとっても特別思い入れの強い、思い出の一冊である。


・ある日、長島君と僕が、椎名さんの6畳の狭い部屋にいると、作家の芹沢光治良さんが訪ねて来た。『出世をしない秘訣』の話が出て、椎名さんが「そろそろ週刊誌が取材に来る。俺はあまり話すこともござんせんが……」という。本当に『週刊新潮』の記者が来て、僕たちは廊下に立って取材の話を聞いていた。いまでもはっきり覚えているが、記者が「出世をしない秘訣は、逆説のロジックで、そのようにしたら出世をする秘訣になりませんか」と質問した時、椎名さんが「俺の人生は、そのまま文字通り出世をしない秘訣でござんす。著者と僕は本音で出世を嫌っている!」と断固として答えた。芹沢光治良さんも、「椎名さんとはこうした方です」と応じた。長島君と僕は、記者は何とくだらない質問をするのかと、道すがら腹を立てたことを覚えている。今思い出しても懐かしいエピソードだ。


・いくらベストセラーになったとはいっても、廉価な新書版であり、フランスに帰る旅費には足らない。それを側面から支えたのが、野見山暁治さんである。当時、パリにいた野見山さんが椎名さんの旅費にと、主にデッサンを三十数枚送ってくれた。それに呼応した親友の仏文学者・山内義雄先生が音頭を取って、野見山さんの絵画を周辺の方に購入を薦めた。長島君も僕も野見山さんのデッサンを買った。売れ残った絵は全部、山内義雄先生が引き受けたと言う。こうした友情があって、椎名さんはフランスに帰ることができた。椎名先生はパリへ戻り、しばらくしてオンドヴィリエ村で余生を過ごした後、パリ市内の病院で息を引き取った。1962年のことだった。享年75。


・最後に、椎名先生と読んだ「クラシック・ガルニエ」版のヴォルテール作「ロマン・エ・コント」にある『カンディード、或は楽天主義説』に触れて話を終わりたい。この「クラシック・ガルニエ」版とは、椎名先生に薦められて20冊程集めた叢書だ。なかなか読めない原書だったが、いつか読んでやろうと思った。その中でも、『カンディード、或は楽天主義説』は、椎名先生とフランス語授業で最初に読んだ作品で思い出深い。その最後にある第30章に結語がある。――カンディードはただこう答えるのだった。「お説ごもっとも。けれども、わたしたちの畑は耕さなければなりません(Cela est bien dit, mais il faut cultiver notre jardin)」。何より「実践」が大事であると、僕は学生時代、啓蒙哲学者ヴォルテールから学んだ。自分の畑を耕すことから僕の一日を始めなければならない。そう自戒している。


・椎名さんは高潔で純粋のまま、世間の当り前に断固「ノン」を唱え、孤高のまま死んでいった。僕は、あまりにも俗人であり、椎名先生の弟子とはお世辞にも言えない。昨年、畏友・長島君も他界した。椎名先生のことなら、夜を徹してでも語り尽くしたいが、今では語れる人がほとんどいなくなった。残念なことこの上ない。

社長1111.1.1.jpgのサムネール画像

クラシック・ガルニエ版「ヴォルテール」の『カンディード』を読む。

検索
2013年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
カテゴリ