加登屋のメモと写真…: 2010年11月アーカイブ
加登屋のメモと写真…
2010年11月アーカイブ

小山明子さんと大島渚監督の金婚式

清流出版 (2010年11月24日 12:16)


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小山明子さんと大島渚監督の金婚式から。貴重な一枚をお借りした。

・小山明子さんがご来社された。ご著書の『小山明子のしあわせ日和――大島渚と歩んだ五十年』(弊社刊)の取材を受けるためである。お忙しい介護の合間を縫いながら、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ等に精力的にご出演くださっている。これだけ積極的に動いてくださる方はまれで、版元としては、まさに涙を流さんばかりに有難い著者である。

・この日(11月22日)も、午後2時から、文化放送の「大竹まことゴールデンラジオ」に生放送でゲスト出演され、その足で、わが社に向かわれた。最初に時事通信社のインタビュー、引き続き、産経新聞社の「話の肖像画」のインタビューを受けた。その後、学士会館に会場を移して、雑誌『パンプキン』の取材を受けられたとか……。移動をしながら四つのメディアからの取材である。お疲れにならないはずはないが、小山さんは終始、にこやかに応対をされ、そんな様子は微塵も感じさせなかった。ご自宅の鵠沼から、東京に出てくるのは大変である。精力的に取材依頼に応じていただき、本当に感謝の言葉もない。小山さんのマネージャー山田智江さんはじめ、販促のお手伝いをいただいたブラインドスポットの浦野稚加さん、わが社の編集担当・秋篠貴子も頑張ってフォローしてくれた。

・『小山明子のしあわせ日和――大島渚と歩んだ五十年』のパブリシティ関連を整理してみると、『女性自身』(小山さんインタビュー)、東京新聞・生活面『家族のこと話そう』(インタビュー)、テレビ朝日「ワイドスクランブル」の『山本晋也 人間一滴』(小山さんゲスト出演)、『毎日が発見』(小山さんインタビュー4ページ)、『ゆうゆう』(小山さんインタビュー)、『クロワッサン』(著者インタビュー)等々が、各メディアに登場する。検討中のメディアもあり、今後しばらくは、取材にTV、ラジオ出演にとご厄介をかけると思う。

・この本には、大島渚監督が脳出血で倒れてから、小山さんが介護うつになるなど、壮絶な病いとの戦いが描かれている。小山さんが書いた全四章の本文が感動的で、僕は何回も読み返した。ちなみに僕は、大島監督と同じ年に脳出血で倒れて入院し、右半身不随になった。畏れ多くも同病の戦友のつもりだ(僕はその後、もう一度脳出血を起こし、左右の脳を損傷している)。

・また、小山さんと瀬戸内寂聴さんとの対談も掲載している。京都の“寂庵”で収録されたものだが、小山さんを理解している格好のお相手。お互い理解し合い、尊敬し合っているのが、文脈から感じ取れる。寂聴さんにはこの本への推薦文を寄せてもらったが、「病夫 大島渚さんへの無償の愛と献身こそ、小山明子さんの美と若さの妙薬であった!」と絶賛しておられる。

・2010年10月30日、小山明子・大島渚夫妻は、近親者・お身内の方々に見守られて金婚式を挙げられた。本にそのことが予定調和のように「あとがきにかえて――二人の金婚式」で書かれているが、実際の刊行はその直前になった。金婚式の模様を小山さんが持参した何枚もの写真とテレビ番組(フジテレビ「スーパーニュース」)で僕は拝見した。その時の素晴らしい演出が忘れられない。お二人が「有楽町で逢いましょう」をデュエットされたのである。そこに僕は、夫婦の強い絆を見ていた。深い信頼関係が伝わってきた。僕は涙なくして見ていられなかった。

・この本には、『親子鼎談 大島家のこれまで、これから」(小山明子さん、長男・大島武さん、次男・大島新さん)も所収されている。その中で、大島武さんが「お父さんが倒れてから一五年だけど、よく頑張っているよね。しかも、これ以上ないほど楽しそうに日々を過ごしているのだから、頭が下がります」とおっしゃっている。愛息からもこんな評価をされる小山さんの献身ぶり。これだけ寄り添って介護される大島監督はつくづく幸せ者である。

わが社で、小山明子さんを囲んで、秋篠貴子と僕。背景に月刊『清流』のカバー。

小池邦夫さんの個展会場で。小池先生と臼井君と僕

清流出版 (2010年11月17日 11:57) | コメント(0) | トラックバック(0)

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小池邦夫さんの個展会場で。小池先生と臼井君と僕。

・今年もまた小池邦夫さんの個展の時期がきた。11時過ぎに会社を出て、会場である銀座の鳩居堂画廊に馳せ参じた。すでに11月9日から個展は始まっていて、この日は12日の金曜日である。会期は二日を残すのみだが、あいにく土曜、日曜は松本市で法事の予定が入っていた。伺うにはこの日しかなかったのである。鳩居堂のエレベータ前に着いて盛況を確信した。何組かのご婦人グループが並んで待っている。2度、乗り過ごしてからようやく会場へ。会場である4階の画廊は、ごった返していた。9割方がご婦人たちだが、絵手紙人口の拡がりから、全国から熱心な絵手紙愛好家が駆けつけてきたと思われる。

・僕は混雑の中を縫いながら、やっとのことで近作絵手紙や筆文字の作品を見ることができた。小池さんはといえば、ファンの方たちにとり囲まれ、質問やら賞賛の声を背景に大忙しの態である。しばらくして、その小池さんが僕に近づいてきて、「先日は、武者小路実篤の本を出してくれて有難う」と、先に挨拶されてしまった。たくさん自著を買っていただいて、御礼を言いたかったのはこちらなのに、改めて腰の低い方だと思った。こんなに混雑している会場は初めてだというと、小池さんは時間帯に関係あるのだという。聞けば、主婦の方々は家事を片付け、午前中に見に来られる方が多いのだという。そんなこととは露知らぬ僕は、一番混雑するピーク時に訪れてしまったというわけだ。

・今回の個展は、一言で言えば「絵手紙50年!」のキャッチフレーズ通り、小池さんの絵手紙創始以来、半世紀の歩みがよくわかる仕組みになっていた。展示された作品も、その50年間を象徴した作品ばかりで、僕が見慣れぬ「吾作」の落款が押された絵手紙もあった。小池さんに聞いてみると、まだまったく無名で売れない二十代前半ころ、畏友・正岡千年さんに送った作品によく付けたものだという。農家の生まれだった小池さんが、「田吾作」を洒落のめしてつけた雅号であった。

・絵手紙作家の小池邦夫さんと書家・水墨画家の正岡千年さんは、ともに愛媛県松山市の出身。中学、高校と同級生であった。大学の進路こそ東京学芸大学(小池さん)と青山学院大学(正岡さん)に分かれたが、無二の親友であり、お互いに尊敬し合う仲として今日に至っている。展示された作品の中に、正岡千年先生宛とあり、「だれもこない、電話もない、世に捨てられた」と書かれた作品があった。今では考えなれない不遇の時代から、お二人が水墨の世界に魅せられ、お互い切磋琢磨されてきたことがしのばれた。小池さんの転機は34歳の時である。『季刊 銀花』総発行部数6万冊の一冊に一点ずつ、オリジナル絵手紙を挿入するという企画である。制作期間は1年間。毎日200枚ずつ描き続けなければ達成できない。同じ絵手紙を描くのだって大変なのに、何十種類も描くのだからさらに厳しい。こんな途方もない企画に挑戦し、成し遂げたことで、小池邦夫の名が世に知られることになった。“手紙書き”を仕事にしている人は、この人をおいてない。

・午後になって会場が少し空いてきたので、小池さんとも自由に話せるようになった。早速、臼井君は小池さんといろいろ仕事の打ち合わせを始めた。次に出す単行本企画のスケジュールを詰め、さらには臼井君本人の著になる絵手紙関連の単行本企画への協力も取り付けているようだった。そう、小池さんの一番弟子である臼井君の本もわが社から刊行する準備を進めている。臼井君は小池さんとは30年以上のお付き合いで、『絵手紙を創った男』(あすか書房刊)を書き、師の小池さんが認めた存在である。絵手紙愛好家が参考にできるような本が出せれば、小池さんも後押ししてくれるという。そのための精進が待たれるところだ。僕も一読者として、臼井君の本を楽しみにしている。

あることがきっかけで、うつ病に?

清流出版 (2010年11月 1日 13:41)

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野見山暁治さんと。かつて長島葡萄房の店で。今となれば懐かしく、僕にとっては貴重な一枚。

 

・僕がわが社から復刊を切望していた企画がある。それは、『出世をしない秘訣――すばらしきエゴイズム』(ジャン・ポール=ラクロワ作、椎名其二訳、1960年)という本である。50年も前に出た翻訳本に執心するのにはわけがある。実は、わが恩師・椎名其二先生の翻訳で、当時、ベストセラーになった本であるからだ。6年ほど前のことになるが、版権を持っている理論社のK氏にお会いする機会があった。神田のオフィスを訪ね、わが清流出版に同著の版権を譲ってほしいとお願いした。その時、K氏は理論社で復刊したいので、版権を譲ることはできないとおっしゃった。そういう事情であればと、僕も泣く泣く諦めた経緯がある。


・ところが、その企画がこぶし書房から刊行されることになったという。僕が椎名先生について書いたホームページを見て、9月11日、こぶし書房編集部のTさんからメールが届いて知った。版権を譲り受け、刊行するに先立ち、椎名其二さんの著作権継承者、ご遺族である相澤マキさんの連絡先を教えてほしいとの問い合わせである。早速、僕は前々から、理論社のK氏に版権を譲ってほしいとお願いしていた経緯を説明した。Tさんは驚いて、K氏に会いに行き、確認をしてくれた。K氏は「今回、こぶし書房から復刊するにあたって、1960年に刊行した経緯、ならびに椎名さんについてのエッセイ30枚を書きます」との返事を得たという。9月21日のことであった。完全に清流出版や加登屋の名前は、あの尊敬すべき信州人K氏の頭には残っていなかったのだ。僕は、日頃から出版人として尊敬してきたK氏に裏切られたことになる。ショックのあまり、僕は軽いうつ状態になってしまった。僕の父もそうだった。陽気で活発な性格だったが、古希の声を聞いてから突然、うつ病になってしまった。僕も70歳になってのうつ状態とは……うつ病は、遺伝するのかもしれない。


・ほどなくしての10月6日、理論社が東京地裁に民事再生法の適用を申請したというニュースが入ってきた。負債総額22億円。2008年4月期の総売上高15億7600万円だから、それを大幅に超える負債額だ。戦後すぐの1946(昭和21)年4月創業で、絵本や児童書では秀でた出版で鳴らした。あのK氏の創業した良心的な出版社が倒産とは……。そして、K氏のお眼鏡にかなったこぶし書房は、例の黒田寛一氏が設立し、福本和夫、高島善哉、務台理作、ヘーゲル、シェリング等の哲学・思想を出版する硬派な出版社である。言った言わないの争いごとは好まない。今となっては、こぶし書房にいい本作りをしていただいて、再び脚光を浴びて欲しい本だと思っている。


・この『出世をしない秘訣――すばらしきエゴイズム』が刊行された当時、椎名さんは73歳、僕は大学3年生(20歳)で、椎名さんには全人的な魅力を感じていた。このホームページにも何回か書いたが、親友の長島秀吉君は僕に負けず劣らず椎名さんの大ファンで、恩師の写真をタタミ一畳大にして部屋に飾っていた。当時、長島君のご母堂が「秀吉は、特注で拡大して飾っているんですよ」と僕に愚痴ったことがある。長島君と僕は、毎週、椎名さんとフランス語の原書を読んで、その後の椎名さんの内外情勢に対する高度な薀蓄話を楽しみにしていた。その椎名さんが赤貧生活の上、日本の政治的貧困、風紀紊乱の世を嘆き、かつて40年間住んだフランスへ帰ろうとした。その旅費の一部にしたいと翻訳した本で、僕にとっても特別思い入れの強い、思い出の一冊である。


・ある日、長島君と僕が、椎名さんの6畳の狭い部屋にいると、作家の芹沢光治良さんが訪ねて来た。『出世をしない秘訣』の話が出て、椎名さんが「そろそろ週刊誌が取材に来る。俺はあまり話すこともござんせんが……」という。本当に『週刊新潮』の記者が来て、僕たちは廊下に立って取材の話を聞いていた。いまでもはっきり覚えているが、記者が「出世をしない秘訣は、逆説のロジックで、そのようにしたら出世をする秘訣になりませんか」と質問した時、椎名さんが「俺の人生は、そのまま文字通り出世をしない秘訣でござんす。著者と僕は本音で出世を嫌っている!」と断固として答えた。芹沢光治良さんも、「椎名さんとはこうした方です」と応じた。長島君と僕は、記者は何とくだらない質問をするのかと、道すがら腹を立てたことを覚えている。今思い出しても懐かしいエピソードだ。


・いくらベストセラーになったとはいっても、廉価な新書版であり、フランスに帰る旅費には足らない。それを側面から支えたのが、野見山暁治さんである。当時、パリにいた野見山さんが椎名さんの旅費にと、主にデッサンを三十数枚送ってくれた。それに呼応した親友の仏文学者・山内義雄先生が音頭を取って、野見山さんの絵画を周辺の方に購入を薦めた。長島君も僕も野見山さんのデッサンを買った。売れ残った絵は全部、山内義雄先生が引き受けたと言う。こうした友情があって、椎名さんはフランスに帰ることができた。椎名先生はパリへ戻り、しばらくしてオンドヴィリエ村で余生を過ごした後、パリ市内の病院で息を引き取った。1962年のことだった。享年75。


・最後に、椎名先生と読んだ「クラシック・ガルニエ」版のヴォルテール作「ロマン・エ・コント」にある『カンディード、或は楽天主義説』に触れて話を終わりたい。この「クラシック・ガルニエ」版とは、椎名先生に薦められて20冊程集めた叢書だ。なかなか読めない原書だったが、いつか読んでやろうと思った。その中でも、『カンディード、或は楽天主義説』は、椎名先生とフランス語授業で最初に読んだ作品で思い出深い。その最後にある第30章に結語がある。――カンディードはただこう答えるのだった。「お説ごもっとも。けれども、わたしたちの畑は耕さなければなりません(Cela est bien dit, mais il faut cultiver notre jardin)」。何より「実践」が大事であると、僕は学生時代、啓蒙哲学者ヴォルテールから学んだ。自分の畑を耕すことから僕の一日を始めなければならない。そう自戒している。


・椎名さんは高潔で純粋のまま、世間の当り前に断固「ノン」を唱え、孤高のまま死んでいった。僕は、あまりにも俗人であり、椎名先生の弟子とはお世辞にも言えない。昨年、畏友・長島君も他界した。椎名先生のことなら、夜を徹してでも語り尽くしたいが、今では語れる人がほとんどいなくなった。残念なことこの上ない。

社長1111.1.1.jpgのサムネール画像

クラシック・ガルニエ版「ヴォルテール」の『カンディード』を読む。

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