2010.01.01訃報 鈴木主税さん 長島秀吉君

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鈴木(旧姓:野中)邦子さんと。故・鈴木主税さんのご位牌の前で

・鈴木主税(ちから)さんの死亡記事(2009.10.25各紙)を見て、ビックリした。「喪主・妻の野中邦子」、とあるではないか。鈴木さんとは24年位前からのお付合い。その弟子筋の野中さんとも同じくらい前からのお付合い。まして野中邦子さんは2009年夏、弊社から『レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実』(スティーヴン・バック著)の翻訳を上梓されたばかり。野中さんは、鈴木さんが主宰する翻訳グループ「牧人舎」の同人とだけ僕は認識していた。それがご夫婦であったとは……。人と人の関係とは分からぬものである。逝去後1か月以上経ったある日の午後、担当の松原淑子『清流』編集長と野中さん宅に、お悔やみに伺った。昭和9年生まれの鈴木さんと、野中さんの年齢差はたぶん20歳位になろう。だが、鈴木主税さんとの結婚生活をくわしく伺うと、このお二人が師弟関係から夫婦関係を選択し、結婚されて本当によかったと思う。人生のつらさを超え、闘病生活の中にも喜びや張り合いがあって、鈴木さんも幸せだったのではないかと思う。

・鈴木主税さんは歴史、経済学、経営学、国際問題など人文・社会科学分野の翻訳を数多く手がけた人である。翻訳者でこのジャンルのナンバーワンだった。アマゾンで見ると鈴木さんの手掛けた翻訳書は、これまで、実に227冊にもなる。その中でも、ウィリアム・マンチェスター著『栄光と夢』(全5巻、草思社刊、1976?78年)は翻訳出版文化賞を受賞している。その他、ポール・ケネディ著『大国の興亡――1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争』(草思社刊、1988年)、マンチェスターほか著『In our time ――写真集マグナムの40年』(文藝春秋刊、1990年)、サミュエル・P・ハンティントン著『文明の衝突』(集英社刊、1998年)など、数々のベストセラーや話題作を翻訳している。翻訳だけではない、自著もあり、『私の翻訳談義』(河出書房刊、1995年)、『職業としての翻訳』(毎日新聞社刊、2001年)などを刊行している。精力的な翻訳活動をされてきた鈴木さんが、ここ四年余りトーンダウンしていらっしゃると思ったら、なんとガンとの闘いをされていたとは……知らなかった。70歳を過ぎてからの鈴木さんは、仕事を厳選、セーブしているなと僕は勝手に思い込んでいた。

・鈴木主税さんと仕事をした中で僕が一番忘れ得ぬ企画といえば、クラウディオ・ガッティ、ロジャー・コーエン共著『シュワルツコフ正伝 PART?1「ジャングルの道」、PART-2「砂漠の嵐」』(いずれもダイヤモンド社刊、1991年)である。湾岸戦争で英雄になったシュワルツコフ将軍の伝記だ。上下二巻の翻訳ものだったが、アメリカの出版社から毎週届くゲラを僕が鈴木さんに転送し、それを鈴木さんは片っぱしから翻訳され、校正ゲラをチェックし、結局、正味1か月で2冊の本作りを終えた。1991年7月下旬から始めてPART?1が8月8日完了、PART?2は8月29日完了で刊行にこぎつけた。このスケジュールはアメリカの出版社の刊行スピードをはるかに超えていた。アメリカの版元からは、いったいどうして本家本元より早く刊行できたのか、と不思議がられたものだ。

・ちょうど同じ頃、もう一つの僕が担当していた本がある。『香港 極上指南』(香港お百度参りの会編)というガイド・ブックだが、この本が鈴木主税さんの翻訳スケジュールともろにぶつかってしまった。そもそも、ことの発端は1991年の夏、香港観光協会からわれわれを招待したいとの話がきた。1997年の中国返還前はイギリス領だった香港の、史上初めて懇切丁寧なガイド本を出版するに絶好のタイミングだった。香港観光協会が乗り気だったのでとんとん拍子に話が進んだ。ホテル、ショッピング、レストラン、見どころを、香港マップを手がかりに地域ごとに取材して、ミシュランのようにランク付けをするものだが、僕は総勢10名の取材陣のホテル代を無料にしてほしいと協会にかけあって説得に成功した。本来なら僕も香港に飛び、率先して取材をするところだったが、翻訳本とガイド書の二つが同時進行している。責任者として職務を全うするには無理がある。泣く泣く僕は日本に留まり、取材フォーマットを作って、東京、香港間の迅速な情報ネットを作ることにした。そして1992年の春、『香港 極上指南』は刊行になった。この本は後々まで古巣に余波を残した。香港観光協会、主だったホテル、レストランなどから僕個人に宛てに、招待状が舞い込み、僕がダイヤモンド社を辞めた後も続いたそうだ。

・だが当時、ニュースのウエイトは湾岸戦争の行方にあった。シュワルツコフ将軍の言動はきわめて重く、よりニュース的な価値があった。ここに僕が刊行を急いだ理由がある。鈴木主税さんは乗りに乗って翻訳にいそしんだ。一日も無駄に出来なかった。ましてその当時、シュワルツコフ将軍を次期大統領に推す動きがあり、大化けする期待感もあった。その半年ほど前にも、同じ次期大統領と噂された大物財界人ロス・ペローの伝記も鈴木主税さんに訳出を頼んでいる。『ロス・ペロー――GM帝国に立ち向かった男』(ドロン・レヴィン著、ダイヤモンド社刊、1991年)がそれ。このように、売れそうな原著には常にアンテナを張っていた。いち早く、時代を先取りし、売れそうな予感がする原著を見つけると、代々木にあった鈴木さんのオフィスをよく訪ねたものだった。

・鈴木主税さんは、多趣味な方で、とくに音楽と登山と沖縄が大好きであった。今から15年前、こんな話をお聞きした。翻訳する時はBGMとしてクラシックのCDを聴いているが、当時は一枚終わるごとに取り換えるのが面倒だとおっしゃっていた。翻訳の筆を中断することのないMDや新製品を見つけているとのことだった。現在、僕が愛用しているI-podなどは、何時間でも聴け続けることもでき、とても便利なのだが、ガンとの闘いの中では、多分検討する余裕がなかったのではないかと思う。天上にいかれた今は、好きなクラシック音楽をこころおきなくたっぷり楽しんでいることであろう。僕らがお悔やみしている間、鈴木さんの大好きだったベートーベンの曲が静かに流れていた。合掌。

 

 

 

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ありし日の長島秀吉君と僕。長島葡萄房にて

・わが生涯無二の親友、長島秀吉君が膀胱ガンで亡くなった。2009年11月30日没、享年68。その1週間ほど前のこと、NHK?BSの特集番組で、立花隆さんがレポーター役を務め、ガンの解明はまだ難しいと語っていた。これを見た時、真っ先に頭に浮んだのが長島君だった。立花さんも長島君と同じ部位の、多発性膀胱ガンを発症していると聞く。

・長島君と僕は、ある時は反発したこともあるが、素晴らしい友情を育んできた――知り合って約54年になるが、生涯で心許せる友の一人だった。共にフランス語を学び、クラシックやジャズなどを楽しみ、内外文学を深く愛し、モノクロ写真の名人でもあった。杉並区方南町のイタリア・レストラン「長島葡萄房」の経営者として、常連客に愛される人気者であった。

・ちょうどその日(月)は、野中さんのもとに鈴木主税さんのお悔やみに伺った日であった。まだ親友の死を知らず、ただひとえに鈴木さんのご冥福を祈っていた。この日は翻訳家の藤原啓介さんとその弟子の上松さちさん、村松静江さんが来社され、翻訳本の打ち合わせをしていたが、皆さんとは挨拶ぐらいしかできなかった。今は野中邦子さんの「牧人舎」と藤岡啓介さんの「サン・フレア」の二つの翻訳グループが、引き続きわが社とよい関係を維持し、いい翻訳本をこれからも世に問い続けられることを願っている。

・その翌日(火)、長島君と僕の恩師・山内義雄先生のお嬢様とお会いすることになった。森友幸照さん(作家、元ダイヤモンド社『レアリテ』編集長)を介して、「加登屋さんにお会いしたい」とのことであった。もちろん、僕もお会いするに否はない。すぐにお会いする日取りが決まった。アンドレ・ジイドの『狭き門』、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』などの翻訳で有名な山内先生のお嬢様のお名前は、現在結婚されて山本篤子さんになったということも知った。その時もまだ、長島秀吉君のことは知らない。

・長島くんの死亡通知は、死後二日経ってから、奥様からわが家にあった。ちょうどこの日は出社日(水)であった。帰宅し、入浴、夕飯を済ませた後、妻から長島君逝去の報が知らされた。僕が仕事中にこのことを知ったら、動揺して仕事にならないとの配慮からだった。……「親友の死」、それは、それはショック! 長島君との懐かしい思い出が走馬灯のように去来して、結局その日は一睡もできなかった。

・この日、会社で思いがけない方からメールをもらった。相澤マキさんという方からである。僕がまったく知らない方である。だが、椎名其二さんの親戚関係にあることが文面からうかがい知れた。わが社のホームページを見て、僕の存在を知ったのだという。いつも長島君と僕は、椎名其二さんのことになると目の色を変えた。その素晴らしい方の存在も山内義雄先生が教えてくれたのである。なんと二日続けて、五十年ぶりに、二人の恩師に縁ある方々と糸が繋がった。不思議なめぐり合わせとしか思えない。相澤マキさんとは、年内の多忙を理由に新年に会う約束をした。

・翌日(木)、2008年に亡くなった友人・正慶孝さんの奥様から、貴重な本が二冊送られてきた。アルビン・トフラー著の『大変動』(徳岡孝夫訳、中央公論社刊、1983年)と田中逸平研究会編『近代日本のイスラーム認識――ムスリム田中逸平の軌跡から』(自由社刊、2009年)である。二冊とも僕が読んでいなかった本だ。かつてダイヤモンド社に在籍中、徳岡孝夫さんにアルビン・トフラーの『未来適応企業』(1985年)を訳していただいたことが懐かしく思い出された。正慶孝さんも長島秀吉君と大学時代、山内義雄先生の「フランス友の会」のメンバーだった。本人は第2外国語がスペイン語なのに、山内先生のお許しを得てメンバーの一員になっていた。奥様の昭子さんは、亡夫の残した書物や小物を綺麗に整理されていることがよくわかる。夫の業績もきちんと理解をされ、天晴れなことである。博覧強記の大学教授・正慶孝さん、芸術・文化のよき理解者の経営者・長島秀吉君――二人とも、僕よりもっと長生きして、そのあり余る才能を周りの方々の役に立ててほしかったのに……。

・その翌日(金)、森友幸照さんに同道されて山本篤子さん(山内義雄先生のお嬢様)が来社した。お会いすると同時に、あの山内先生の温顔を思い出した。瓜二つと言ってもいいくらい、よく似ていらっしゃる。森友幸照さんと僕の関係は、大学1年生の時、わが先輩にしてよき芸術・文化の道案内人・龍野忠久さんが結び付けてくれたもの。その後、僕は森友さんにアルバイトを紹介していただいたり、昼食も数えきれないほどご馳走になった。龍野さんには、本当に良い先輩を紹介していただいたという感謝の気持ちで一杯である。

・龍野忠久さんと僕は年が一回り違う(もちろん龍野さんが上)が、当時、時事通信社を辞めて、山内義雄先生の授業を受けたいと、われわれと机を並べた。第1政治経済学部の外国語フランス語科の正規の生徒は長島秀吉君と神本洋治君しかいないが、そこに割って龍野忠久さんと僕が先生のお許しを得て出席していたのだった。龍野さんは山内先生に言われて、椎名其二さんからフランス語の講読を受けた。ところが、二人とも同じ自主独立の性格から意見を異にしており、「椎名さんの否定的な部分しか学べない」と龍野さんはこぼしていた。講読したのはモラリストのラ・ブリュイエール著『Les Caracteres カラクテール―当世風俗誌』だが、女性の心情、文学作品、宗教界、思想の流行、社会の陋習などの解釈で、ことごとくお二人は対立したそうだ。お二人の解釈の相違を聞いた僕には、今考えても贅沢なやり取りであり、うらやましくもある。だが突然、龍野さんが「フランスに行きたい」と言い出した。結果、大学3年生の時だが、いったん別々の道を歩むことになった。その後、椎名先生も祖国日本の政治情勢や風紀の騒乱状態に失望し、四〇年間住み慣れたフランスへと帰ることになった。帰るための費用の一部は野見山暁治さんが絵画を提供され、皆さんにその絵を買ってもらうことで賄った。売れ残った絵は、全部、山内義雄先生が引き受けたと聞いている。こういうやりとりは、人間の本質に関わることで、山内先生の隠れた美徳もいつかは明らかになる。先生の器の大きさを知るに絶好のエピソードである。

・わが長島秀吉君は長い人生の要所要所に現れて、僕のためによき人々を紹介する役柄を演じてくれた。山内義雄先生、椎名其二先生、龍野忠久先輩、森友幸照先輩、正慶孝さん、そして山内先生のお嬢様、山本篤子さん。皆さんと知り合えたのも、ひとえに早稲田大学高等学院時代の同級生・長島秀吉君のお蔭と確信している。しみじみ有難いと感謝する。持つべきは「真の友」である。

・長島君が経営するイタリア・レストラン「長島葡萄房」について述べたい。「葡萄房」と名付けたのはあの龍野忠久さんである。龍野さんは校正者、編集者として河出書房、講談社、新潮社で仕事をされたが、キャッチフレーズを付けることがとてもうまかった。長島夫妻の仲人でもあった。ついでに言うが、龍野忠久さん夫妻の仲人は二人いる。一人は山内義雄先生、もう一人は美術評論家の瀧口修造さんだ。考えられないほどの豪華な仲人だ! その結婚式のエピソードはいつか機会をみてご披露したい。長島葡萄房は営団地下鉄丸の内線方南町駅からすぐ近くにあった。その片隅のテーブルに『清流』を何冊も積み、長島君は出版社を営む僕のために宣伝してくれた。そして常連客が、『清流』の年間購読者になってくれた。今でも杉並区、中野区、練馬区、渋谷区、世田谷区の購読者リストを見ると、長島葡萄房の常連さんを思い浮かべる。この不況下に、積極的に定期購読者の勧誘をしてくれるとは……。長島君らしいと感謝している。

・長島葡萄房は、クラシックやジャズの生演奏をやることでも知られていた。クラシックでは、三好明子さん(ヴァイオリン)、九鬼明子さん(ヴァイオリン)、山下進三さん(ヴィオラ)、大石修さん(チェロ)、多田直子さん(ピアノ)など日本フィルハーモニー管弦楽団のメンバー、ヴァイオリンの奥村智洋さん、ジャズの笹本茂晴さん(ベース)、小林裕さん(ピアノ)、井上尚彦さん(ドラム)、深沢剛さん(ハーモニカ)といった名演奏家が集まり、この店を舞台に演奏を繰り広げた。2009年6月に、ガンの闘病でもはや仕事は無理との判断で、「トラットリア葡萄房by The Camel」に店を譲ったのだが、その後も演奏会を約10回位、開催している。11月26日(木)には、すでに体力を回復することもなく入院し、僕の弟(加登屋健治)に司会を託して、ヴァイオリンの奥村智洋さんのコンサートを挙行した。その席にわが社からは、藤木健太郎君が参加している。その四日後に、親友はこの世におさらばしてしまった。11月30日(月)に亡くなって、12月6日(日)にお通夜、7日(月)に告別式。この1週間というもの、心情的には1年のように長く感じられた。もう長島君はいないのだと自分に言い聞かせても、どうしとても信じられない。ひょっとしたらあの葬儀は冗談だったのではなかろうか。頭の中での長島君は、時に今でも生きていて、われわれ二人にしか通じない会話をしている。

・長島葡萄房の常連客と清流出版有志は、ここ三年位、演奏会を楽しむバス旅行をしている。1台のバスを借り切って、長野、山梨方面に1泊旅行をするもので、1回目は、八ヶ岳のリゾナーレホテルでクラシックのコンサート、2回目は上田の無言館でのクラシックのコンサート、3回目は八ヶ岳美術館でモダンジャズのコンサートをやった。いずれも長島君が企画した素晴らしい旅行で、今となってはいい思い出になっている。ハイライトは窪島誠一郎さんの了解をいただいて、無言館でベートーベンの弦楽四重奏曲第15番を生演奏で聴いたことだ。この曲は、長島君と僕にとってはあの懐かしい椎名其二先生の思い出に連なる曲で、生涯聴き続けたいと思っている曲だ。故郷の秋田県角館を去ってアメリカのミズーリ州の大学(ジャーナリスム専攻)に学んでいた椎名青年は、当時、絶望して死ぬつもりでいた。その時、ベートーベンの弦楽四重奏曲第15番のメロディが流れてきた。感動のあまり、死ぬのを思いとどまった。――そんなことがあって、エマーソン、ホイットマン、ソーロー……の国から、順次、クロポトキン(ロシア)、カーペンター(イギリス)等、ジャン・ジョレス、エリゼ・ルクリュ(フランス)等、親友の伝手を頼ってパリに到着、以来四〇年在仏した。フランス人から東洋の哲人と呼ばれた椎名其二さん。長島君と僕をこれほど夢中にさせる気持ちが少しは分かっていただけたか、どうか。

・ここまで書いてなかったが、お葬式に参列された、例えば千代浦昌道さん(独協大学名誉教授)、青木外司さん(青木画廊)、鈴木恭代さん(ピアニスト、東京音楽大学選任講師)……皆さん、長島君のほぼ五〇年来の仲間です。僕の強引な紹介で、わが社の藤木健太郎君、臼井雅観君などは、すっかり仲間の一員となっている。それもこれも長島君の魅力ある豊かな人生に範を求めているからこそと思っている。合掌。

 

 

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山本篤子さん、森友幸照さん、僕

 

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山内義雄先生の遺影。その前に2杯のワイン。1杯は先生のため、もう1杯は長島秀吉君のため。今は山内先生からフランス語をこころおきなく学べる。今時、モンテーニュを原書で読む長島君は、本当に「人生に賢い!素晴らしい!」