2009.06.01奥村智洋さん

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・月刊『清流』8月号の「きらめきびと」欄にご登場いただくヴァイオリニストの奥村智洋さん(左から2人目)。彼を囲んで、ライター・塩見弘子さん(左)と松原淑子『清流』編集長と僕は、食事をしながら追加取材をした。塩見弘子さんは、今回、初めて起用するライターで、ホリスティック医学で著名な帯津良一先生からのご紹介。クラシック音楽が大好きという塩見さんなので、僕は所を得た起用と悦に入っている。

・奥村智洋さんのヴァイオリンの生演奏を、僕は昨年から今春にかけて都合3回、聴いている。その素晴らしさを少しでも読者にも伝えたくて、文章では限りがあるが、8月号の台割に入れた。わが社では藤木健太郎君と臼井雅観君が、僕に付き合って奥村智洋さんの「長島葡萄房コンサート」に2回、参加してくれた。

・蛇足だが、編集者は、音楽、美術、映画、演劇、写真……など、努めて生の現場を見聞したほうがよい。そうした経験は、感性を磨き、企画やデザインにきっと役立つ。僕はこうした「忙中閑」の時間が編集者には欠かせない、と勝手に決め込んでいる。その意味では、わが社の中老年3人は馬齢を重ねつつも、辛うじて合格である。今後は、この種の催しに若い社員がどんどん参加してくれるよう期待している。

・で、肝心の奥村智洋さんだが、根っからのまじめ人間で、ヴァイオリン一筋の方。1969年東京の生まれ。4歳からヴァイオリンを始め、若干15歳にして、第53回日本音楽コンクールで第一位に。合わせて増沢賞を受賞した。増沢賞は、全部門の入賞者の中から最も印象的な演奏・作品に対し賞状と金30万円が贈られる。日本のクラシック音楽コンクールで、権威と伝統のある音楽のコンクールの一つであり、若手音楽家の登竜門として確立した。1981年度から贈られるようになっており、奥村さんは第4回(1984年度)受賞された。僕が増沢賞を覚えているのは、第2回(1982年度)、仲道郁代さん(ピアノ部門)が受賞され、印象に残った。

・増沢賞を取った後、高校を卒業した奥村さんは、奨学生としてジュリアード音楽院に留学。1990年、カーネギーホールでニューヨーク・コンサート・オーケストラとラロのスペイン交響曲を弾いて米国デビューを果たす。1992年、カール・フレッシュ国際ヴァイオリン・コンクールに入賞、同時にパガニーニの演奏に対して特別賞を受ける。1993年、ナウムバーグ国際ヴァイオリン・コンクールで優勝し、一躍アメリカ楽壇に認められ、全米各地のオーケストラと共演する。ワシントン・ポスト、ロスアンゼルス・タイムズ、フィラデルフィア・インクァイラーなどの有力紙で絶賛される。その後も、ニューヨーク・タイムズ紙から最高級の賛辞や全米各地のリサイタルで好評を得ている。

・7年前、ニューヨークから東京へ居を移し、NHK交響楽団、読売日本交響楽団、新日本フィルハーモニー、東京交響楽団、オーケストラアンサンブル金沢……など日本の交響楽団と共演したほか、個人リサイタルもしばしば開催している。

・ここで、奥村さんの人となりを知るに格好のエピソードをご紹介しよう。奥村さんの住まいは、電車で行った場合、西武池袋線の江古田駅が一番近い駅だが、ある時、知人が隣の駅から一所懸命に歩いている奥村さんを見かけた。隣の東長崎駅と江古田駅は料金の差が30円。奥村さんは少しでも倹約したいからと、一駅歩いていたのだ。知人に「芸術家は大変だなあ」と、感心されたという話だ。これと関連するが、奥村さんは鉄道に大変興味がある。唯一の趣味だという。日本全国、行きたい所には大枚はたいてでも行き、しかもカメラを駆使して風景を撮りまくる。地方の名もない駅や鉄道、列車、ひなびた日本の風景などに心動かされるという。ヴァイオリンと鉄道さえあれば、奥村さんは幸せだという。長島葡萄房の演奏会の後、奥村さんは大事に持参してきた鉄道にまつわる写真集を見せてくれた。遊びに夢中のときの子供のように、嬉々として説明してくれた奥村さんに、僕は大いに好感を抱いた。

・今春から、奥村さんは、国立音楽大学の付属中学、高校の講師も務める。後進の指導に時間を割くことは、むしろ本望という。かつて鷲見三郎、堀正文、江藤俊哉、ドロシー・ディレイ、川崎雅夫、フェリックス・ガリミア……に師事した奥村さんは、芸術家、分けてもヴァイオリンの系譜が師匠から弟子へと受け継がれていくことを、身を持って感じている。十代の後輩を育てていくことが、ソリスト奥村の人間的成長を促す。もう一段高みに飛躍できるはずで、奥村さんの前途に期待している。