2006.03.01写真と日記2006年3月

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 人類学者で立教大学名誉教授の香原志勢さん(中央)。わが社から刊行した著書『死と生をめぐる思索――石となった死』を知人たちへ署名入りで贈呈する作業のためご来社された。この本を企画提案したのは、野本君(左)である。野本君は、かつて香原さんのご子息と同じ職場で机を並べた仲。6年前、その友・香原知志さんが交通事故で亡くなったのを惜しみ、思い出の一環に父親・香原志勢さんの名著『石となった死』(弘文堂刊)を再刊したいと提案してくれた。この本を知らなかった僕は、一読後、内容がよいので装いを新たに世へ問いたい気持ちが湧いてきた。旧版に増補分を含め、タイトルを代えてここに刊行することができたのは、ひとえに野本君の亡友に対する熱い想いがあったからである。
 わが社が本書を献本した新聞・雑誌関係のマスコミ人に、産経新聞社の名コラムニスト石井英夫さんがいる。早速、石井さんからご返事が来た。そのお葉書の内容が素晴らしいので、一部をご披露したい。「……プロローグから、すさまじい衝撃を頂きました。まだ途中ですが、興奮を抑えきれません。ナニよりカニより名文です。この流れるような文章のリズム、抑揚、格調は、息をのむほどです。すばらしいご本を復刻されました。命を粗末にしている現代にこそ迎えられるべき名著と存じます。……」と絶賛された。僕は石井英夫さんからのこのお葉書を読んで、刊行してよかったと改めて実感した。
 香原志勢さんは、長年、人類学・人類行動学の研究をされ、人類適応論や人体と文化の関係を一貫して究明されてこられた学者である。その一方で、表情や身振りについても造詣が深く、1995年の「日本顔学会」の発足にあたり、同会会長を務められた。その周辺の著書は、『人体に秘められた動物』『顔と表情の人間学』『木のぼりの人類学』など枚挙にいとまがない。また、中央公論新社から刊行された『顔の本』は類書のない面白い本で、僕が復刻をお願いすると、先生は加筆増補版としてなら、と前向きに取り組んでいただけることになった。
 余談だが、香原先生のお宅とわが家は同じ町内の一丁目違い。この町に住んで半世紀以上も経つ先生は、昔の町の話にお詳しい。かつて小田急電鉄はこの町の駅が終点であったと言われ、僕は隔世の感に感じ入った。香原先生のお隣りは、わが月刊『清流』でも何回かご登場いただいた中村桂子さん(生命誌研究館館長)というから、お二人にはいつか野川沿いの散歩の途中でばったり会うかもしれない。

 

 

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 写真家の織作峰子さん(右から二人目)とご紹介者である?遊人工房の飯嶋清さん(右)。織作さんは過去数回にわたって、撮影旅行をされたスイスの風景をまとめて一冊にする企画を提案してくれた。僕はこの提案に賛成し、織作さんお勧めのスイスの風景写真集を刊行することになった。
 わが社の担当編集者は秋篠貴子。アイガー、メンヒ、マッターホルン、ユングフラウなどアルプスの名峰や、世界遺産アレッチ氷河、レマン湖地方など日本人にもよく知られた観光名所とは別の視点からの写真ばかり。レストランや農場で働く人々、野辺に咲き乱れる野草、乗り物や古い民家などのショットなど、新たなスイスの魅力を発見できる。どんな写真集なのか、刊行をぜひ楽しみにしてほしい。
 先の話になるが、織作さんの郷里である能登をテーマにした写真集も、ぜひわが社から刊行を、とお願いしている。織作さんが金沢から輪島、奥能登までの日本情緒溢れる風景を、いったいどのように捉えるかにもとても興味がある。普通の人が気付かないアングルや、ファインダーを通して表現される芸術性を期待して待ちたい。また、織作さんは『後ろ姿』をテーマにした作品も撮り溜めておられる。人は、後ろ姿にこそ本来の自分が現れてしまうもの。これもまとまれば、面白い写真集になりそうだ。織作さんとは、末長いお付き合いをお願いし、これからもユニークで傑作な写真集を刊行していきたいと思っている。

 

 

 

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 ?遊人工房の飯嶋清さんが、新人の写真家を紹介してくれた。森合音(あいね)さん(左)で、昨年「エプソン カラーイメージング・コンテスト2005」と「富士フォトサロン 新人賞2005」をダブル受賞された方。森さんは徳島県のご出身で、大阪芸術大学写真学科を卒業されたが、当初はフローリストの仕事をされていた。その後、1999年にグラフィックデザインの仕事に従事していたご主人と結婚してデザイン事務所を設立、二人の娘さんにも恵まれた。だが、思いがけず2003年にご主人が心筋梗塞で急逝される。
 森さんは夫の死後、最愛の夫が遺したカメラに目を向けるようになる。元々写真学科を専攻していたのだから、旧知の世界に戻ったようなもの。4歳と2歳の愛娘の成長とともに、周囲の風景を収め、これらが期せずしてすばらしい写真集になった。これが今回の受賞作である。
 エプソンの受賞式に出席するため、はるばる徳島から上京された折、時間を繰り合わせてわが社にも寄ってくれた。今回、わが社から刊行の『太陽とかべとかげ』がその写真集だが、森さんが意識するしないに関わらず、映像に溶け込んだ心象風景が見る人に強いメッセージ力となって迫ってくる。被写体になっている樺音(かのん)、楓喜(ふき)というお二人のお嬢ちゃんもかわいい。
 編集担当者の秋篠貴子(右)は、森さんのご希望もあって、亡くなったご主人の大好きだった神田神保町の古本屋街を案内してさしあげた。これまで一度も行ったことがなかった森さんは、亡夫の愛した日本一の古本屋街を見て、さぞ感慨深かったことだろうと思う。

 

 

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 藤本ひかりさん(左)と高崎俊夫さん(右)。藤本さんは、最近の月刊『清流』1月号で「夫・三谷礼二を語る」の欄にご登場された。そのとき、藤本さんを取材してまとめてくれたのが高崎俊夫さんである。掲載された月刊『清流』が出て二か月後、三谷礼二さんの遺稿集をまとめた『オペラとシネマの誘惑』がようやく刊行となった。
 三谷さんが生前『CDジャーナル』(音楽出版社)に連載していた映画や音楽をめぐるエッセイや、鈴木清順、吉村公三郎両監督との対談などを収録したのをはじめ、冒頭には高崎さんが蓮實重彦さんをロングインタビューしている。「アナーキーな先輩 三谷礼二について」がそれで、当時公開された映画や演劇の状況、三谷さんの知られざるエピソードが紹介されている。
 1991年、56歳の若さで亡くなった不世出のオペラ演出家・三谷礼二を「日本のオペラ界にも《自分の魂の底》から生まれてきたイデーによって仕事をする才能がついに出現した」と書き、「日本一の演出家」と絶賛したのが音楽評論家の吉田秀和さんである。
 本書の企画は、もともと月刊『CDジャーナル』で三谷さんが「歌の翼に」という連載コラムを書いていた。生前、この無類に面白いと評判の名物コラムを高崎さんが愛読していて、僕に単行本化を提案してくれた。いま『CDジャーナル』誌の編集長は、藤本さんのご実弟・藤本国彦さんが務められていて、早速、最近号に『オペラとシネマの誘惑』の書評を載せてもらったが、こういうよい関係で企画成立したのも故人の陰徳がしからしめる業に違いない。
 藤本ひかりさんが来社されたのは、亡夫の本を刊行してくれたことへのお礼ともう一つ理由があった。実は先月、藤本さんのご母堂がお亡くなりになった。僕はお葬式に伺えず御香典と献花をお送りしたが、この日、藤本さんは、僕のみならず臼井出版部長と松原副編集長にもお香典返しのお菓子を持ってこられた。本当にご丁寧な対応ぶりで一同恐縮してしまった。
 ご母堂は享年82歳だったが、お父上はもっと早く58歳で亡くなられている。野上彰(本名・藤本登)さんがその人だが、野上彰の名は戦後の前衛芸術運動のファンにとっては忘れられない人物である。戯曲、詩、放送劇、シャンソンの作詞やオペレッタの訳詩、オリンピック讃歌の訳詩などでも知られ、演出でもその才能を発揮された方だった。こうした出自からして、藤本ひかりさんが三谷礼二さんと結ばれたのも、必然だったのかもしれない。

 

 

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 野本君(右)が前に勤めていた会社?エス・プロジェクトで部下だった編集者・寺岡恂さん(中央)を紹介してくれた。寺岡さんはマイクロソフトのエンカルタ電子百科事典の編集部を経て、?エス・プロジェクトの編集責任者だった野本君の下で働いた経緯がある。ご自身、翻訳にも挑戦し、これまでにも『ながぐつをはいたねこ』(ペロー作、ポール・ガルトン絵)、『靴屋のカーリーのおはなし』(マーガレット・テンペスト作、各ほるぷ出版刊)などを訳されている。
 寺岡さんの実兄の寺岡襄さんも『木を植えた男』(ジャン・ジオノ作 あすなろ書房刊)という大ベストセラーの翻訳者。この日、持ってこられた『木を植えた男』は、昨年11月現在で実に62刷になっていた。今はもう少し増刷を重ねているかも知れない。
 その寺岡恂さんが、誰の助けも借りずたった一人で、CD?ROM『新・東京方眼図』を出された。これまでに100セット以上販売してきたという話を聞いて、同席した藤木、臼井両君ともどもビックリした。売れたというのもむべなるかな、そのコンセプトは斬新である。明治や大正の文学作品を読む際に役立つ昔の東京の地名やその地図、文学作品の背景としての謂れ、その他、作家の旧居をたどる文学散歩に必要な情報が網羅されているソフトなのである。
 そのために「編集工房テクネ」という組織を作ったが、この先、販路のより一層の拡大に向けて、野本君に助言を求めてきたのだった。われわれ清流出版メンバーも根がおっちょこちょいで、「新しいもの大好き人間」の集りだ。寺岡さんの持ってきたパソコンが不調でソフトがスムースに動かないのをいいことに、ああでもないこうでもないと、ブレーンストーミングで一夕語り合った。それにしても、野本君の紹介者は一芸に秀でた方が多いので、話をしても一献傾けても実に楽しい。

 

 

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 今年初めての観劇をした。招待者は、瀬川昌久さん(左から二人目)。昨年10月に、わが社から『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』が刊行されたほか、月刊『清流』2005年9月号の「この人に会いたくて」欄にもご登場いただいた。  瀬川さんは、元々富士銀行の銀行マンだった。ニューヨーク駐在員時代、チャーリー・パーカーやビリー・ホリデイを聴き、帰国後、銀行勤めをするかたわら、ジャズ、ポピュラー音楽の評論とコンサート企画をするようになる。
 銀行を辞めてからは、音楽・演劇・ミュージカル全般の評論をするとともに、自ら月刊『ミュージカル』を主宰し編集長を務めておられる。加えて現在、くらしき作陽大学、作陽短期大学で講師を務める忙しさである。この『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』が刊行される前、『週刊文春』で小林信彦さんが絶賛していたのが、頭の片隅に残っていた。そんな時に、フリー編集者の高崎俊夫さんの推薦があったので、急遽、増補版として復刻刊行することになった。
 その日、東京・池袋の芸術劇場で上演されたミュージカル『スウィングボーイズ』は、瀬川さんの『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』と『ジャズに情熱をかけた男たち』の二冊を原作に監修したもの。大浦みずき、宝田明、ペギー葉山などの好演もあって、僕は最後まで舞台にのめり込んだ。冒頭の昭和6年頃の時代背景をはじめ、太平洋戦争時、ジャズを愛してしまった若者が、どのような弾圧を受け無理解の悲喜劇を味わったのか、がよく描かれていた。
 こうした劇の筋立てと音楽がよくマッチしていて思わず唸らされた。時代がどう変わろうと、惚れた音楽に情熱を燃やす若者たちの熱い思いが伝わってきた。軽い興奮状態でこのミュージカルを楽しんだが、一緒に行った松原副編集長(右から二人目))とアルバイトの八木優子も感動した様子だった。松原は瀬川さんのお孫さん(右)にすっかり気に入られた。この公演はたった五日間で終了したが、僕はもっともっと多くの方に観てもらいたいと思った。大きな劇場でロングラン公演すれば、必ず成功すると確信している。
 それにしても瀬川昌久さんは、元気で若々しい。かくしゃくとしていらして、とても大正13年の生まれの82歳になるとは思えない。年を取っても、情熱を傾ける対象を持って、社会にメッセージを発信し続ける。このような幅広い教養人が、どんどん日本に増えてほしいと思う。東京大学法学部卒という経歴にもビックリした。こんな人生を送ってこられた背景には、瀬川さんの育ちも関係している気がする。幼少の頃、お父上はロンドンに駐在していた。洋楽への関心と国際感覚は、この頃培われたに違いない。

 

 

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 貼り絵の第一人者である内田正泰さん(左)。内田さんに会うのは久しぶりだった。最初に出会ったのは、1996年1月のこと。わが社刊行の大高明さんの写真集『空中夢散歩――The Fantasy of Ballooning』の出版記念パーティでお会いした。大高さんの亡くなったお父上を尊敬していた内田さんが、ご子息・大高明さんの出版記念パーティに訪れたのが縁で、僕との関係が繋がった。そのことがあってから数か月後、内田さんにある企画の連載を頼んではや10年が経った。その仕事はいまも順調に進んでいる。この間、内田さんは貼り絵の世界で人気がますます高まり、確固たる地位を築いている。
 新しい作品のスケッチブックを見せてもらったが、まことに素晴らしい日本情緒と風景が活写されている。『日本の心』『日本の詩』『四季の詩』などの名作で、日本のみならず海外での評判も高い内田さんらしい絵は、いささかの衰えも見せていない。発表されている新作版画も新しい感性に満ち満ちている。
 前述した瀬川昌久さんもそうだが、内田正泰さんも84歳という年齢には見えない。楽しく生きがいのある仕事を持つと、年齢に関係なく元気に過ごせることを僕は学んだ。内田さんは一時、軽井沢に住んでいた。しかし、注文した画材の入手など、地方だと何かと不便。現在、住み慣れた横浜で制作を続けておられる。

 

 

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 先月に続き、堤江実さん(中央)の企画で、新しい動きがあったのでお伝えしたい。今度は、絵本の企画が誕生した。本文が堤江実さん、絵が出射茂さん(左)、解説が功刀正行さん(右)という三人の力を結集して一冊の絵本を作ろうというもの。この三人はたまたま豪華客船「飛鳥」の世界一周クルーズに乗り合わせたのが縁で知り合った。堤さんは詩の朗読教室の、出射さんは絵画教室のそれぞれ講師として、功刀さんは海洋汚染の実態調査のために乗り合わせていたのである。以来、なんとなく気が合うことからお付き合いが続き、今回企画提案されたような絵本を作りたい、と意見が一致したのだという。
 仮題は『水のミーシャ』である。大人も子供も楽しめる環境絵本は、日本ではまだ少ない。その意味で期待の作品である。一滴の水の大切さとともに、地球環境、海洋、命の誕生までが自然に理解できる構成。本文、絵、解説の三者の息が、ぴたりと合って素晴らしい内容になっている。環境問題の世界的権威、アービン・ラズロ博士の推薦文もすでにいただいているという。
 最初この企画提案を聞いた時、僕は遠い二十代の頃、有名な環境経済学者レスター・ブラウン氏の書いた論文で水資源のことを翻訳したことを思い出した。まだ少壮の学者で、もちろんいまのワールドウォッチ研究所を設立する以前の話だ。『地球白書』のシリーズで有名になったレスター・ブラウン氏が、いち早く水資源の意義を強調している論文で、若い僕が拙い訳出をした。こういう僕自身の経験を知らない堤さんからの提案が運命のように思われて、企画にOKを出した。

 

 

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 ?梟雄舎の代表取締役・升本喜年さん(左)と同プロデューサー升本由喜子さん(右)の親子。梟雄舎は「きょうゆうしゃ」と読む。升本喜年さんは、いま、わが社で一番力を入れて宣伝している『僕は、何のために生きてきたんだ!』の著者・太田哲生さんと松竹時代に親しかったいわば友人である。升本さんは、松竹で映画プロデューサー、テレビ部プロデューサー、シナリオ研究所所長、最後には松竹映像取締役を歴任されて、1989年に松竹を退社されている。
 その後、この?梟雄舎を設立し現在に至っている。ご自身、何冊ものご著書があり、そのうち『女優 岡田嘉子』(文藝春秋社刊)は、僕もかつて読んで感銘を受けた本だ。これまでのプロデューサー経験にプラスして、独立後はドラマの企画提案や制作の仕事を続けてきた升本さん。そんな豊富な体験から、太田哲生さんの本をベストセラーにしたいと、自らのプランを持って来社された。
 升本さんのアイデアを伺ってみると、得意の映画、テレビの力を借りて単行本のパワーを全開したいとおっしゃる。僕も、もっともな路線だと異存はない。メディア・ミックスの相乗効果は断然強い。ぜひ映画化、テレビドラマ化をお願いしたいと要望した。升本さんの構想には、松竹時代に交流のあった某大物俳優も含まれており、これが実現したらと思うとわくわくする。
 僕は自他ともに認めるせっかち人間である。単行本が書店から返本されない内に何か仕掛けたいと思うのだが、なかなかいいアイデアが浮かばない。升本さんの案に及ばないが、「歌謡曲」を梃子にする企画を思い付いた。大泉逸郎のヒット曲『孫』の例もあるが、素人の作詞、作曲で一発当たればという魂胆だ。
『僕は、何のために生きてきたんだ!』がらみの歌がヒットすれば、数か月で本の宣伝効果も期待できる。歓談の席上、わが社が誇る歌い手の古満温君を升本さんに紹介した。社員のカラオケ競演でプロ並みの歌い手が古満君だ。彼を起用する僕の話を聞いていたお嬢さんの升本由喜子さん(右)の様子を見ると、まんざらでもない感じである。この作戦が首尾よくいったら、わが社も定款変更して、興行と歌手養成の条項も追加しなければ……(笑)。