2006.01.01写真と日記2006年1月

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 今でも売れ続けているわが社のベストセラー『フジ子・ヘミングの「魂のことば」』を企画提案された宜田陽一郎さんが、今度はCD付きの朗読の本を提案してきた。著者は、飯島晶子さん(写真)。彼女の経歴をザッとご紹介する。日大芸術学部放送学科を卒業後、TVのドキュメンタリー番組や各種ビデオ、DVD、CDなどのナレーターとしてフリーで活躍された。現在も、日本朗読文化協会理事、日本ナレーション演技研究所・自由学園明日館公開講座講師、デンマーク協会会員、お茶の水音声言語教育交流セミナー会員……として多忙な日々を送られている。教会、博物館、大学、美術館、展示会場などを中心に朗読をされているが、最近のビッグ・イベントとしては、「愛・地球博」のデンマーク館でアンデルセン童話を朗読し、好評を博した。
 今回提案の企画内容は、早口ことば、古典文学などのほか、全国各地の方言、地名、河川、口上……など、楽しく学びながら発声練習できる構成だ。読んで楽しく、読者も実際に声を出して効果が確認できる本にしたい。いわば読者参加型の本である。この手のツーウェイ型の本が、今後は出版界に多分ブームになろう。
 実際、この企画原稿をもとに、自ら言語障害の治療によいと思って試してみた。飯島さんの教えのように深く呼吸し、まっすぐ背中を伸ばすことを意識しながら発声すると、「すっきりとした爽快感」が味わえる感じがした。
「あいうえお あえいうえおあお おえういあ」から始まる「五十音の基礎練習(レッスン1)」をはじめ、朗読の功能効果は僕が実証済みだ。発刊された暁には、是非、皆さんにも、この本を使っての朗読をお勧めしたい。

 

 

 

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 野本博君が紹介してくれた編集工房「寒灯舎」代表の中西昭雄さん(写真)。中西さんの旧著『名取洋之助の時代』(朝日新聞社刊)を底本に「名取洋之助を通して見たフォトジャーナリズム」というテーマで一冊本にできないか、との野本君の提案で、暮れのある午後、初めてお目にかかった。
 中西さんの経歴は、京都大学文学部を出て朝日新聞社に入社。「アサヒグラフ」、「週刊朝日」、「アサヒカメラ」等の雑誌と図書編集室に在籍。その後、朝日を辞されてから「現代企画室」を立ち上げ、さらに今から20年ほど前に編集工房「寒灯舎」を設立した。ジャーナリズムの世界で幅広く活躍され、僕との共通の知人、関係者も多くいることが分かり楽しく歓談した。
 故・安原顯(ヤスケン)がかつて親しく付き合った「週刊朝日」の書評担当・中村智志さんの話も出た。中村さんの聞き書き『新宿ホームレスの歌』(朝日新聞社刊)などは、中西さんの所属する寄せ場学会の企画にも直に触れる。また、中西さんは先月の本欄に登場した廣瀬郁さん(ヒロ工房)とともに、日本図書設計家協会を立ち上げた一人でもある。当然ながら装幀にも造詣が深く、『出版年鑑』(出版ニュース社)に時評「装丁」を10年間執筆しているとのことであった。
 先の野本君の企画提案は、中西さんが自書を「本としての生命を失っている」と判断していることもあり、現時点では刊行を見合わせることになったが、その代わり、農業問題をテーマにした企画を逆提案された。僕は、「今こそ日本人は農を語るべき」ではないかと思っている。積極的に取り組みたいテーマだと賛成した。今度会う際は、同じ会社で農業の取材を重ねてきた番場友子さんとともに伺う、と中西さんは約束された。この企画がどんな展開を見せるのか、今から楽しみである。

 

 

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 フリーライターで?モノアートの照木公子さん(写真)。10年ぶりにわが社を訪ねてこられた。照木さんには、かつて月刊『清流』1996年3月号の「いま、この人」欄で、北大路魯山人と親交があった女流陶芸家たちの草分け的存在であった辻輝子さんを取材していただいたことがある。その時、辻輝子さんがもう一つ夢中になっていると語ったのが、万華鏡だった。
 そうした出会いが、多分、照木公子さんを動かしたに違いない。照木さんも万華鏡の魅力を知り、その紹介・普及に努められている。日本初の万華鏡展のコーディネイト、日本万華鏡倶楽部の創設にも関わっている。国際万華鏡協会の一員で、『万華鏡 華麗な夢の世界』『作って楽しむ万華鏡の秘密』(いずれも文化出版局刊)の編者でもある。
 その照木さんの企画でも、わが社で万華鏡の本が出せるほどのゆとりはない。彼女もその辺りは充分心得ている。代わりに提案されたのが、(仮題)『負け犬返上――幸せな熟年結婚への道』である。
 最近、結婚しないシングル女性が増えている。だが、好き好んでシングルを選んだのではなく、本音は結婚したいと思っている女性たちが結構多いのである。実際、身近でも何例か挙げられるが、熟年離婚ならぬ熟年結婚がいまや増加傾向にある。照木さんによれば、50歳を過ぎての結婚例を何人かのシングル女性に伝えると、彼女たちは一様に目を輝かせ、どうしたらそういう縁を得られるのか尋かれたという。さまざまな熟年結婚の実例とその手引きを示したら、かなり読者を得られるのではないか、というのが提案の趣旨である。大変結構な企画で、僕は一も二もなく賛成した。

 

 

 

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 翻訳者の中村定さん(左)が、友人の伊藤礼さん(右)と来社された。中村定さんとは、ダイヤモンド社時代以来のお付合い。わが社では『誰が飢えているか――飢餓はなぜ、どうして起こるのか?』、年末に発売された『インフルエンザ・ウイルス スペインの貴婦人――スペイン風邪が荒れ狂った120日』の二冊を訳出していただいた。友人の伊藤礼さんは、小説家・評論家・伊藤整氏の次男である。お二人は、年来の囲碁仲間で、浜松在住の中村さんは、上京すると伊藤さんのお宅で囲碁の徹夜打ちをされる間柄と伺った。
 伊藤さんとは、1950年、父君の翻訳した『チャタレイ夫人の恋人』(D・H・ローレンス)が猥褻文書に当たるとして警視庁の摘発を受け、最高裁まで争われる経緯や、関連する人間模様の版元・小山書店、小山久二郎・敦司父子、わが謡の師匠の人間国宝・故宝生弥一がらみの因縁など、若輩ながら僕はよく知っていたので話が弾んだ。
 礼さんは父君と同じ一橋大学に入り、その後、身体を壊されてから一転アメリカに渡り、ロードアイランド大学で政治学を学ばれた。帰国後、広告会社に勤務したのち、日本大学芸術学部の教授になられている。そのあたりの経歴の詳細は、今回お会いして初めて知ったことも多かった。それにしても、1996年、新潮社から『チャタレイ夫人の恋人』を伊藤礼訳で完訳版を出版したが、今日まで猥褻文書として摘発されてはいない。時代の変化と同時に価値観も変わるもの。これは、よき変化だと思う。礼さんは、最近、自転車に凝っていて、『こぐこぐ自転車』(平凡社刊)という本を上梓したとか。僕にもその本を贈呈すると約束してくれた。 
 その日、伊藤礼さんと置碁で対戦したわが社の藤木君は、4子局の効果があってか、中押しで勝たせてもらった。藤木君は大喜びしていたが、文壇囲碁で常勝の伊藤礼さんが若い人に花を持たせてくれたに違いない。乗せるのがお上手だと思った。

 

 

 

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 ライターの山本祐輔さん(写真)。経済、経営、社会問題……等に強みを発揮する執筆者として、わが社では通っている。それもそのはず、雑誌「経済界」の編集記者として健筆を振るっておられた方だ。臼井君とは同じ職場出身ということになる。「経済界」を辞めた後は、30年近くにわたって一匹狼のライター稼業を続けてきた。厳しい情況が続くマスコミの世界に身をおき、活躍できたのは実力の裏付けあったればこそである。そんなわけで、わが社で雑誌や単行本企画で、難しいテーマの取材だと、真っ先に名前が上がる。滅多なことで期待を裏切らないから、難しい問題だと「山本さん頼み」になる。今回も、ガデリウスという外資系商社の100年史の編纂をわが社で受注したが、原稿執筆は当然ながら山本さんで決まりである。
 この企画は、わが社から刊行の『ノルディック・サプライズ――北欧企業に学ぶ生き残り術』、『ユビキタス時代のコミュニケーション術』などの著者である?インテック・ジャパン代表取締役社長・可兒鈴一郎さんの人脈とご尽力、ならびにわが社の版権担当の社外スタッフとして協力してもらっている斉藤勝義さんの助力なくては実現できなかった。幸いガデリウスの担当者が初顔合わせで山本さんを大変気に入ってくれ、業務契約書に執筆は山本さんと付記してくれとの注文が出るほどであった。
 山本さんと言えば、世の親としてうらやましいことがある。優秀なお子さんに恵まれたことである。ご長男は東京大学を出て某新聞社に就職し、いまやバリバリの保険担当記者と聞く。一方、長女も慶應義塾大学を出られたが、画家になりたいとの夢を実現すべく、東京芸大の油絵科に入り直し研鑽中とのこと。お二人とも難しい国立大学にすんなり合格している。いったいお子さんたちにどんな躾けをし、どんな育て方をしたのか、一度、じっくり聞いてみたいと思っている。

 

 

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 昨年暮れに刊行した『寺山修司の声が聞こえる』の著者・岸本宏さん(右)と、その仕掛け人である「さとう出版」代表の佐藤和助さん(左)が、揃って来社された。お二人がこの本を手に取っているが、喜んでいる表情がお分かりいただけるだろう。このとき、柏市在住の岸本さんがお土産に持ってきてくれたのが和菓子。これが実に美味しかった。聞けば、伊勢やさんというその店は、柏市の地元ではよく名の知られた和菓子屋だとのこと。臼井君も同じ柏在住なので、この店のことはよく知っていた。大福やどら焼きなどといった人気商品は、午前中に売切れてしまうこともあるらしい。
 岸本さんの「寺山修司のひとり芝居」は、ライフワークだという。ご自宅を改装したとき、50人収容できるキウイホールを作ってしまったのもその決意の表れだ。作・演出・出演を一人でこなすのは大変だと思うが、キウイホールでの公演も、すでに五十数回を数えるという。今年9月には、本家本元、青森県三沢市の寺山修司記念館での公演が決まっているのをはじめ、福島の大内宿「玉や」、福岡の野瀬邸「山の家」など、地方公演の依頼も増えつつあるという。
 今回はアルバム持参で来社された。見せていただくと、ここ3年間余りの公演風景がよく分かった。キウイホールでの熱演ぶりと、公演後のお客さんとの交流がよく分かって興味深かった。キウイホールでは、公演後、パーティ会場に模様替えして歓談が始まる。奥様のよ志美さんが中心になって作った手料理とお酒が振る舞われる。おいしそうなご馳走が並び、見ていて思わず生唾が出た。僕も手足が不自由でなかったら参加したいなと思った。
 前述の寺山修司記念館には、寺山修司の句が飾ってある。その内、僕の大好きな句を上げる。 
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」  
「人はだれでも遊びという名の劇場をもつことができる」 
「わかれは必然だが 出会いは偶然である」  
 岸本宏さんとの出会いは、僕に懐かしい寺山修司の名前を思い出させてくれた。この出会いに感謝している。

 

 

 

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 昨暮、わが社の仕事納めの日、ウイーンからはるばるご来社いただいたのが翻訳者であり、オーストリアで『月刊ウイーン』の編集長としても活躍されている福田和代さん(左)。担当編集者の高橋君(右)と、翻訳原稿のゲラ校正でこの日遅くまで頑張ってくれた。今春、わが社から刊行予定の『サフィア』という、イラク族長の娘の数奇な半生記の校正ゲラの打ち合わせである。この翻訳をオーストリア在住の福田和代さんと伊東明美さんの共訳でお願いしている。サフィアは現在、イラクの総選挙で国会議員に立候補している。元エジプト大使を務め、英ブレア首相と親交があるなど知名度もあり、実績も残している。国会議員に当選することは、まず固いと思う。夫君も人権大臣を務めた方だが、サフィアも大臣になれば、と期待している。
 そもそもこの企画は、型絵染版画家として有名な「さかもと ふさ」さんが持ち込んできたもの。さかもとさんは、日本各地の百貨店で個展を開催するのをはじめ、ウイーンでも展覧会を二度開催された。そこで、福田さんと知り合いとなったと推察する。月刊『清流』の昨年5月号には、「型絵染版画の世界にようこそ」として、さかもとさんに出てもらったが、読者からも大いに反響があった。
 お二人の翻訳者が、この単行本企画を成功裡に仕上げようと熱心なのには驚いた。サフィア本人と原著者のガイスラーさんを日本に呼んでみたいというプランを出してくれた。その際、わが社に一肌脱いでくれないかという提案には、小出版社の経営者として正直なところ参った。イラクの総選挙の結果次第では、「ベールを脱いだサフィア」が、かの地の大臣になれるかもしれないが、今のところ不明確なことが多い。まず、来日の宣伝効果と対費用効果も検討しなければならない。お二人に「すぐ実行しましょう!」とは言えなかった。ご寛恕のほど。