加登屋のメモと写真…: 2005年6月アーカイブ
加登屋のメモと写真…
2005年6月アーカイブ

写真と日記2005年6月

清流出版 (2005年6月 1日 19:46)

 

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経営評論家の小林薫さん。小林さんは近くわが社から刊行予定の『世界の経営思想家たち――ピーター・F・ドラッカーほか三十余人』の最終ゲラをチェックするため来社された。昨年、産業能率大学を定年退職。いまは同大学名誉教授である。わが社は小林さんの名訳でこれまで二冊刊行している。『企業倫理の力――逆境の時こそ生きてくるモラル』(K.ブランチャード+N.V.ピール)と『一度の人生だから――自分でデザインする生き方』(ロバート・オーブレー+小林薫)がそれ。今度の本は、いわば小林教授の退官記念となる書き下ろしだ。世界の経営思想を訳してきた小林さんなればこその内容で、世界の経営学を俯瞰するとともに、日本がどのようにそうした経営理論を取り入れながら経済発展を遂げてきたかが一望できる構成。わけてもピーター・F・ドラッカーとの交流歴をベースにしたまとめが素晴らしい。用意周到な小林さんらしく、脱稿直前にクレアモント(ロスの郊外)の自宅に伺って、95歳の恩師ドラッカーと打ち合わせを済ませてきたという。話が変わるが、約36年前、僕は以前勤めていたダイヤモンド社で、子会社を含めた全幹部を集めたコンベンションで演壇に立ったことがある。フェアモントホテルで行なわれたが、小林薫さんの話の後で、テーマは「フランスの出版事情と高価格雑誌の可能性」だった。いま思えば子会社10社を含め幹部クラス約80名の前で、まだ二十代ヒラの若造だった僕に発表の場が与えられたのは異例のこと。子会社プレジデント社の精鋭だった小林薫さんは堂々としていた。僕もくそ度胸で話をしたが、いい思い出だ。その後、小林さんはNHKテレビでビジネス英会話の人気者になり、さらに大学の教壇に立つようになった。押しも押されもせぬジャーナリスト&国際コミュニケーター&経営評論家として活躍の道を開いた。僕の尊敬している先輩の一人である。

 

 

 

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関根里絵さんとお母さん。このホームページの冒頭で「最新情報」(お知らせ WHAT'S NEWS)に出ているとおり、月刊『清流』の連載「里絵のこころ絵日記」を書いているせきね里絵さんが、NHKのテレビ番組で紹介された。詳しい内容は、同欄でご覧になっていただきたいが、ここではこの連載企画が生まれた経緯について触れておきたい。考えてみると、新企画が生まれるのは、つくづく人のつながりだと思う。僕の高校・大学の同級生で、謡の仲間でもある栗原忠躬さんが、ある日、スケッチブックのファイルを掲げて、わが社を訪ねてきた。聞くと、同じく謡の仲間である榎本美恵子さんと知り合いの身障者の方が単行本を出したいという。栗原さんは小さな出版社を経営している加登屋を思い出して、せきね里絵さんの作品を持ち込んだというわけだ。早速、僕はその場で臼井出版部長、松原副編集長を呼び、会議をした。作品は気に入ったが、いきなり単行本で勝負するにはリスクがある。とりあえず、月刊『清流』の「ヒューマン・ドキュメント」で取り上げ、連載企画をスタートさせることにした。その日の話をベースにして、後日、榎本さんと里絵さんが揃って来社され、「ヒューマン・ドキュメント」欄への登場が決まった。同時に担当編集者も長沼里香と決め、毎月の連載がスタートした。そのページが、運よくNHKの若くて優秀な高木康博アナウンサーの目に止まった。高木さんは転勤で東京勤務が決まって錚々のこと、それも図書館で月刊『清流』を初めて知ったというから、清流出版にとってラッキーな話だ。毎月、里絵さんは松葉杖をついて原稿を会社まで持参してくる。母堂も付き添ってくださる。交通機関の乗り換えも、不自由な歩行もリハビリの一環だとの認識で、一日1万歩の歩行が目標だという。僕はその半分の5千歩がせいぜいなので苦笑するしかない。来社されると、長沼や松原と打ち合わせは、明るい笑い声に満ちている。思わず僕も、時々、話に割って入る。紹介者の榎本美恵子さんの息子さんも13年前、交通事故に遭い、後遺症が出て高次脳機能障害に悩んでいると言う。榎本さんと関根さんは、同じ悩みを抱えた家族会で知り合ったのだそうだ。このように重い障害に悩む方たちに、「里絵のこころ絵日記」が励みになればと思う。僕も右半身不随で言語障害の身。多くの周りの人たちに助けられ、生かされて生きている。皆さんに感謝しつつ、心して雑誌、単行本の編集をしていくつもりだ。

 

 

 

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小野田町枝さんが来社されると、職場の雰囲気が変わる。とびきりの笑顔で、大きな声で挨拶しながら入ってくるからだ。僕も町枝さんが来ると、経営数字を眺めていても、しかめっ面はしていられない。この明るい陽気な性格は、きっと生来のものであろう。得な性分である。しかも、仕事熱心ときている。この日も、買い取った自著『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』150冊に、弊社でサインをしたのである。サインが済んだら、再び10冊ずつ梱包するのだが、その手際は見ていて気持ちいいほど。写真に写っているアルバイトの八木優子、営業部長の田辺正喜も、ごく一部しか手伝っていない。ほとんど町枝さんが一人でおやりになった。出版社にとっては、この上なく有難い著者である。このとき、町枝さんはテレビ放映の案内を持参していた。「小野田寛郎のテレビ放映のお知らせ」であった。僕は早速、5月24日(火)にNHKのハイビジョン(103チャンネル)で放映されたドキュメント『生き抜く小野田寛郎』を見た。小野田さんの来し方を戸井十月が実に丹念に取材していた。つくづく人に歴史ありだと感慨を新たにした。録画したビデオを会社に持って行き、BS放送を見そこねた社員にも、その感動を味わってもらった。また、8月13日(土)にはフジTVで「終戦六十周年記念スペシャルドラマ」として、小野田さんを扱った2時間番組が予定されている。「遅すぎた帰還 実録・小野田少尉(仮題)」で、いま売れっ子の中村獅童が「最後の軍人」小野田寛郎さんに扮すると聞いている。人気スターが、小野田さんを演じるので話題になるだろう。多くの人に毅然と生きた小野田さんの数奇な人生を知って欲しい。

 

 

 

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常盤新平さん(右端)には、このたびジョン・リー・アンダースン著になる『獅子と呼ばれた男――アフガニスタンからの至急報』を翻訳していただいた。「訳者あとがき」でお書きのように、常盤さんが雑誌『ダカーポ』に原書を読んでいい本なので翻訳したい、と書いたのが発端だった。それを野本博君(左端)が読んで企画提案したわけだ。僕もこの本には興味を引かれた。なにせ同時多発テロの首謀者オサマ・ビンラディンがらみの話である。早速、常盤さんと旧知の版権コーディネーター・斎藤勝義さん(左から2人目)が橋渡しをしてくれて、翻訳をお願いしたのである。約半年間で刊行にこぎつけた。翻訳書としては異例の早業だった。常盤さんといえば、翻訳家・随筆家・小説家としてつとに人気が高い。自伝的小説『遠いアメリカ』で昭和62年(第96回)直木賞受賞に輝いた。翻訳書は『汝の父を敬え』(ゲイ・タリーズ)、『大統領の陰謀』(B.ウッドワード、カール・バーンスタイン)、『夏服を着た女たち』(アーウィン・ショー)等、小説は『罪人なる我等のために』、『頬をつたう涙』等、随筆には『雨あがりの街』、『山の上ホテル物語』等、数々の名作がある。最近では『ニューヨークの古本屋』が注目された。常盤さんの奥様にも、わが社はお世話になったことがある。3年ほど前、『アルヤ こころの詩――サウナと神話に癒やされて』を刊行した際、著者アルヤ・サイヨンマーがフィンランドから来日し、東京オペラシティでリサイタルをした。この時、常盤新平さんの奥様、陽子さん(会議通訳)に司会をしていただき、成功裏に終えたことがある。常盤さんがらみで思い出したことがある。昔、僕が手がけた月刊『レアリテ』の創刊号(昭和46年1月号)に、常盤さんが「モロッコ――マラケシュの陶酔」の記事を翻訳寄稿されたことだ。あの時、常盤さんがまだ早川書房に勤務されていた頃だったのか記憶も定かではない。あれから34年という長い年月が流れている。だが、こうしてまた常盤さんとの接点が生まれた。縁は異なもの不思議なものとはよくいうが、確かにご縁があったというしかない。

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