2004.06.01元同僚 三ちゃん逝く

   いま、わが社で一番売れている単行本は、なんと言っても竹村公太郎さんの『日本文明の謎を解く』である。新宿の紀伊国屋書店で連続4ヶ月間、わが社の単行本の第1位に輝いている。その本を企画提案し、編集してくれた三枝篤文さんがなんと5月23日に急逝された。享年63歳。合掌。三ちゃん(通称でこう言い慣れているから、そう呼ばせてもらう)は、3年ほど前にくも膜下出血で倒れたが、幸いそのときは奇跡的な快復を見せた。今回、三ちゃんの命を奪った病魔は胃がんから転移した肝臓がんであった。5月の連休前に入院し、わずか3週間で急逝。私は旧友を失い、呆然自失の状態が続いている。
   三ちゃんは、わが社のためにとびっきりのよい企画、しかも売れる本をもたらしてくれた。今後も私としては三ちゃんに竹村公太郎さんの第2弾をはじめ、宇宙・科学ものの企画、翻訳書など、編集担当してもらいたい本が目白押しに控えていた。心強い外部編集者だっただけに喪失感は深い。
   三ちゃんは、私がダイヤモンド社に勤務していたころの同僚で、手っ取り早く言うと遊び仲間だった。囲碁が強く、アマチュアとしては最高位の七段格で打っていた。同じくわが社のライターとしてお馴染みの佐藤徹郎さん(通称「てっちゃん」)もダイヤモンド時代の同僚で、やはり囲碁が強くて六段格で打っていた。二人は長年、番碁を打つ間柄であった。当初、囲碁がわからなかった私は、二人の対局を見ながら覚えたものだ。だが私は筋が悪いのか、さっぱり上達しなかった。二人とは将棋、麻雀、競馬、競輪……など、よくしたものだ。夏には新潟競馬に遠征、冬場は各地の競輪場めぐりと、一緒にギャンブル旅行もした。しかし、私は独立してからは仕事一本槍の毎日で、遊びを忘れ、つまらない男になった。
   三ちゃんは、数学、物理、天文……など、いわゆる自然科学や応用科学系統の企画において日本でも有数の名編集者だった。彼の担当した本が賞を受けるたびに、私は「名編集者・三ちゃん」をいよいよ憧憬の眼差しで見ていた。三ちゃんが手掛けた『宇宙をかき乱すべきか――ダイソン自伝』(鎮目恭夫訳)をはじめ、『宇宙創生はじめの三分間』(S.ワインバーグ著 小尾信彌訳)、『物理法則はいかにして発見されたか』(R.P.ファインマン著 江沢洋訳)などは時代を越えた名著だと思っている。わけてもヨハン・ベックマン『西洋事物起源』の3巻本は、ことあるごとに紐解いて読む私の座右の書である。
   三ちゃんは、生来、思慮深くて寡黙、いわばお父さんゆずりの哲学者の趣きすらあった。自分のことは一切語らず、訊いても語りたがらなかった。だから私の知っている三ちゃんの世俗的な属人要素は、他人からの又聞きに過ぎない。父上の三枝博音(さいぐさ・ひろと)氏は科学思想家、哲学者、技術史の先駆者で、鎌倉アカデミアの校長、横浜市大等の学長をされた学者だった。その横浜市大学長在任中の1962年、死者百数十人を出した鶴見駅近くでの国鉄列車事故で不慮の死を遂げられた。中央公論社から『三枝博音著作集 全12巻』を出されている。
   三ちゃんは、中学は竹村公太郎さんと同窓の栄光学園だったが、高校は湘南高校に進んでバドミントン部の部活に入れ込んだようだ(お葬式に、そのバドミントン部から花輪が届いていたことから類推する)。その後、京都大学の理学部で理論物理学を学んだ(これも本人は言いたがらないので知人から聞いて知った)。私の印象としては、終始一貫、理路整然として、かつ柔軟な発想ができる男だった。その一方で、譲れないとなると断固として拒否を貫く信念を持っていた。今どき珍しい「男の中の男」であったと言えよう。このような無二の親友を失くして、長年、ダイヤモンド社で「ひげのコンビ」として有名だったてっちゃんは、私より数倍ショックだったろう。しかし、私とて三ちゃんの死を未だに信じられないし、ショックを引きずったままだ。三ちゃん亡き後、声を大にして言いたい。てっちゃんだけは、私のためにも元気で長生きしてくれよ、と……。

 

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三ちゃんこと三枝篤文さんは、ダイヤモンド社時代からの親友だったが急逝した。長生きして数々の名著をわが社から刊行してもらいたかった。囲碁はアマチュアでも指折りの強豪で、15年程前、ダイヤモンド社で6子置いても、全然、歯が立たなかった。もう一度、教えを請いたかった。

 

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写真は、三枝さんが編集した名著『西洋事物起源』(ヨハン・ベックマン)全3巻。私の座右の書である。